【科学探偵小説 暗夜の挌闘】

「子供の科学」第2巻第3号(1925年3月1日)



 「紅色ダイア」事件の犯人は、意外にも少年科学探偵塚原俊夫君の叔父さんでしたから、悪漢の捕縛を希望して居られた読者諸君は、或は失望されたかもしれませぬが、これから私が御話しするのは、先年来、東京市内の各所を荒しまはつた貴金属盗賊団を俊夫君の探偵力によつて見事に一網打尽にした事件です。
 十月のある真夜中のことです。正確に言へば午前二時頃ですから、むしろ早い朝といつた方がよいかもしれません。一寝いりした私は、はげしく私たちの事務室兼実験室の扉を叩く音に眼をさましました。
「俊夫さん、俊夫さん」
と女の声で、しきりに俊夫君を呼んで居ます。私が、
「俊夫君」
といつて、隣りの寝台に寝て居る俊夫君を起すと、
「知つて居るよ。ありや木村のをばさんの声だ。」
といつて俊夫君は大急ぎで洋服を着て、扉をあけに行きました。
 木村のをばさんといふのは、親戚ではありませぬが、俊夫君の家から一町ばかり隔つた所に、小さい貴金属品製造工場を持つて居る木村英吉といふ人の奥さんで、俊夫君がよく遊びに行きますから、極めて親しい間柄なのです。
「俊夫さん。大変です。たつた今、うちへ泥棒がはひつて、大切な白金の塊をとつて行きました。早く来て下さい。」
とをばさんは顔色をかへて申しました。
「どこで盗まれたのですか?」
「工場です。」
「まあ、心を落つけて話して下さい。その間に仕度しますから。」
といつて俊夫君は、例の探偵鞄の中のものを検べにかゝりました。
 をばさんが息をはづませ乍ら話しました所によると、昨日津村伯爵家から使が来て、伯爵家に代々伝はる白金の塊を明後日の朝までに腕輪にして彫刻を施してくれと頼んで行つたさうです。この白金の塊はこれまで度々盗賊たちにねらはれたものであるから、充分注意してくれとのことで、をばさんの御主人の木村さんは助手の竹内といふ人と二人で十二時迄仕事をし、それから竹内さんだけが徹夜するつもりで仕上を急いで居りました。ところが、木村さんが寝床へはひつて、うとうととしたかと思ふと、何か工場の方から異様な物音がして来たので、早速とび起きて、工場の扉をあけて見ると、中はまつ闇であつたが、妙な鼻をつくやうな甘酸いやうな臭がしたので、はつと思つて電燈をつけると、驚いたことに助手の竹内さんは細工台のもとに気絶してたふれ、白金の塊が見えなくなつて居たさうです。
「すぐ警察へ電話をかけようと思つたのですけれど、夜分のことではあるし、それに、俊夫さんの方が警察の人よりも早く犯人を見つけてくれるだらうと思つたので、御願ひに来たんですよ。」
とをばさんは俊夫君の顔をのそぎこむやうにして申しました。
「をばさん心配しなくてもいゝよ。白金の塊はきつと僕が取りかへしてあげるから。」



 十分の後、私たちは木村さんの御宅につきました。助手の竹内さんは、そのときもう意識を恢復して、平気で口がきけるやうになつて居りました。竹内さんの話によりますと、木村さんが工場を去られてから四十分程過ぎた頃、突然、外から誰かゞ硝子を割つたので、驚いて顔をあげると、破れ口から、いやな臭のする冷たい風がヒユーツと吹いて来て、その儘、覚えがなくなつてしまひ、木村さんに介抱されて、正気づき始めて白金の塊のなくなつたことを知つたといふのです。
 俊夫君はこの竹内といふ人を、虫が好かぬと見えて、これまで、よく私に「いやな奴だ。」と申して居りましたが、今、竹内さんの話をきゝながらも、俊夫君は、時々睨むやうな眼付をして眺めましたから、私は俊夫君が竹内さんに嫌疑をかけて居るのでないかと思ひました。
 竹内さんの話をきいてから、俊夫君は木村さんについて工場へ行きました。いやな臭がプンとしてきました。工場は居間の隣りにあつて、居間よりも一尺ばかり低く、タヽキ床で、三方が壁に取りまかれた八畳敷位の大きさの室でして、居間とは扉で隔てられて居ります。窓は北側にあつて二枚の硝子戸がはめられ、その外側には鉄格子かつけられてあります。そして窓から二尺ばかり離れて細工台が置かれ、その上には色々の瓶や細工道具がぎつしり置きならべられ、なほ、三方の壁には棚がつけてあつて、その上にも、色々の瓶や化学器械が一ぱい置きならべてありました。
 俊夫君は探偵鞄の中から拡大鏡を出して、先づ床の上をしらべました。けれど、別に手がゝりになるやうな足痕などは一つもなかつたと見えまして、やがて、窓の中側に落ちて居る硝子片を熱心にしらべ、硝子の破れ穴の大さをはかりました。それから硝子戸をあけて格子を見ました。果してそのうちの二本が鑢で切られ、左右へ折りまげてありました。それから俊夫君は閾を検べ、更に、懐中電燈を取り出して、戸外を照しました。地面には芝生が一ぱいかぶさつて居まして、硝子の破片はその上にも落ちて居ました。俊夫君は、何思つたか、暫らくの間その破片をじつと見つめて居りました。
「中々、気のきいた泥棒だ。」
と、俊夫君は嘲るやうに申しました。俊夫君がさういふ言ひ方をするときは、必ず反対の意味を持つて居ります。即ち、「気の利いた泥棒」といふのは、「間の抜けた泥棒」といふ意味にとつて差支ありません。
 それから、俊夫君は細工台の上の物や、細工台について居る抽斗の中のものを一々丁寧にしらべました。次に棚の上のものも同様の熱心を以てしらべ、箱らしいものは皆葢を取つて中を調べました。まるで白金が工場の何処かに隠されてゞもあるかのやうに、いはば血眼になつて捜しました。最後に西側の下の棚の上に、盆にのせた土瓶と茶碗とのあるのを見て、俊夫君は木村さんにたづねました。
「このお茶は誰がのむのですか。」
「私ですよ。」
とこのとき工場へはひつて来た竹内さんが申しました。その口のきゝ方が如何にも俊夫君を馬鹿にして居るやうな口調でして、私も聊か腹がたちました。
 俊夫君は土瓶の葢を取つて見ました。
「竹内さんがのむ御茶だけに、中々うまさうな色をして居る。」
と、俊夫君もまけては居ません。随分皮肉な言ひ方をしました。



 工場の中の検査を終つた俊夫君は居間へ来てから木村さんに申しました。
「工場の検査はこれですみましたよ。」
「手がゝりはありましたか?」
と木村さんは俊夫君の顔をのぞきこんでたづねました。
「まだ大事な検査が残つて居るから、それがすまなければ何ともいへません。」「それは何ですか。」「木村さんと竹内さんの身体検査です。」「え?  わたし等が取つたと思ふんですか。」
「何とも思はぬけれど、検査には念に念を入れて置かねばなりませんよ。」
「だつて、私が盗む訳もないし、竹内だつてもう半年も居て、正直なことは保證付の人間ですから、それはやられる迄ないでせう。」
 俊夫君はむつとして言ひました。
「身体検査かいやなら、僕はこの事件から手を引きます。警察の人にやつてもらつて下さい。」
 木村さんも、竹内さんも仕方なしに俊夫君に身体検査を受けました。ことに竹内さんは厭な顔をしました。すると俊夫君は意地わるくも、馬鹿丁寧に、竹内さんの洋服のポケツトを一々しらべました。然し白金の塊は木村さんからも竹内さんからも出て来はしませんでした。
「これで身体の外側の検査が済んだから、今度は中側です。」
「え?」といつて木村さんはびつくりしました。
「中側の検査とはどういふことです?」
「白金の塊は細かにすればのむことが出来ますよ。だから身体の中へかくすことが出来るのです。」
 木村さんはあきれたやうな顔をしましたが、
「すると、腹をたち割つてしらべるのですか。」
と冗談半分に言ひました。
「木村のをぢさん!」
と俊夫君は真面目な顔をして言ひました。
「冗談はやめて貰ひませう。僕が身体の中を見たいと思ふのは、見なけれはならぬ理由があるからです。これから駿河台の岡島先生のところへ行つて、二人の身体をエッキス光線でみてもらひますからすぐ自動車を用意して下さい。」
 俊夫君の言葉が如何にもハキハキして居たので、木村さんは何もいはずにをばさんを近所の自動車屋へ走らせました。私は俊夫君の命令で岡島先生へ電話をかけました。まだ夜が明けぬ前でしたが、先生はいつ来てもよいと快く返事をして下さいました。岡島先生は医学博士で、俊夫君が先生について医学を修めたときに教へて下さつた人で、俊夫君のことなら、どんな難題でも聞いて下さるのです。だから、俊夫君は先生の御都合をきかぬ先に自動車を用意させたのです。
 やがて自動車が来ましたので私たち四人は人通りの少ない黎明の街を駿河台さして走りました。四人はとかく黙り勝でしたが、中でも竹内さんはにが虫をつぶしたやうな顔をして居ました。私は自動車にゆられ乍らいろいろ考へました。俊夫君が申しましたやうに、エッキス光線にまでかけて検査するにはそれだけの理由がなくてはなりません。すると木村さんか竹内さんかどちらか一人が白金をのんで居るかもしれません。私は早く岡島先生の検査の模様が見たいものと、自動車の走るをさへ、もどかしく感じました。(つゞく)


【科学探:偵小説 暗夜の挌闘(二)】

「子供の科学」第2巻第4号(1925年4月1日)



 読者諸君、諸君はエッキス光線で身体の内部を検査するところを御覧になつたことがありますか。それを行ふには検査台の上に人を立たせ、後ろからレントゲン線で照し、前にシアン化白金バリウムの盤をあてゝ見るのです。シアン化白金バリウムはレントゲン線にあたると蛍光を発します。レントゲン線は衣服や筋肉は通過し易いですが、金属や骨は通過しにくいですから、これ等は影となつて盤のうへにあらはれるのです。ですから若し、木村さんか竹内さんが、白金をのみこんで居たら、必ずその影が見える筈です。
 ところが、岡島先生が熱心に検査せられましても、白金らしい影は二人の身体に見えませんでした。
『俊夫君! お二人とも呑んでは居られないよ。』と先生は真面目な顔で申されました。
『どうも有難うございました。それで安心です。』と俊夫君はさも安心したやうに、にこにこして答へました。私はすつかり予期がはづれたので、聊か失望を感ぜざるを得ませんでした。
『木村のをぢさん、竹内さん、誠に御苦労様でした。』と敏夫君は、それから身拵へをして居る二人に向つて言ひました。木村さんは笑ひ顔をして居ましたが、竹内さんは、それ見たことかといはんばかりに、ムツとした顔をして居ました。
『さあ、これで僕の捜索の方針がきまつたから、これから大急ぎで心当りを検べに出かけます。自動車を借りて行きますから、お二人は電車で御帰り下さい。』
 かういつたかと思ふと、俊夫君は岡席先生に挨拶して、私を引き摺るやうに、手を取つて、表へ連れ出しました。
『兄さん、大急ぎだ。途中でパンを買つて、それから木村さんの家へ行くから、運転手に全速力で走るやうに告げておくれ。』
 木村さんの家へ行くくらゐなら、二人を一しよに連れてくればよいのに、これもやつぱり、俊夫君の竹内さんに対する反感のためだと私は思ひました。



 淡路町の、今起きたばかりの店でパンを買つてから、自動車で、人通りの少ない朝の街を快速力で走りました。俊夫君は、先方へばかり気がせいて居ると見えて、前かゞみになつて、碌に口もきゝませんでした、私はたうたうたまりかねて、
『おい俊夫君!』
と呼びますと、はじめて我にかへつたやうに私の方を向いて、ニコリ笑ひ、自動車のもたれに凭りかゝりました。
『パンなど買つてどうするの?』と私はたづねました。
『木村のをばさんのところで朝食をくふんだ。』
『え!  朝食を?』
『さうよ、をばさんのうちには、おいしいお茶があるよ。竹内さんさへ喜んで飲んでるぢやないか』
 私は先刻、木村さんの細工場に、竹内さんの飲むお茶の土瓶のあつたことを思ひ出しました。
『僕も一しよに御馳走にならうか?』
『いや、兄さんは先方へ著き次第、警視庁へ御使ひに行つてもらふ。』
『え?  警視庁? では犯人の見当がついたのかい?』
『まだ何ともわからんさ。けれどことによると大きな捕り物があるかもしれん。』と俊夫君は眼を輝かして申しました。
 暫くしてから私は又たづねました。
『君は先刻、エッキス光線をかけに行くにはそれだけの理由があるといつたが、あれは本気だつたかい?』
『勿論さ!』
『どんな理由?』
『それはいま言へない。』
『だつて二人とも白金を呑んでは居なかつたぢやないか?』
『そんなこと、始めからわかつて居たよ。』
『え?』私はびつくりしました。二人が白金を呑んで居ないことがわかつて居たら何のためにわざわざ岡島先生を煩はしたのであらうか。私はどう考へて見ても、了解することが出来ませんでした。



 程なく自動車は木村さんのとこへ戻つて来ました。物音をきゝつけたをばさんは、外へ走り出して来ました。
『俊夫さん、どうでした?』とをばさんはたづねました。
『二人とも白金は呑んで居りません。僕は途中に用があつたので先へ来ましたが、あとから二人は見えます。』
 やがて私たちは、自動車を待たせて家の中へはひりました。
『をばさん、竹内さんの下宿はどこでしたでせうか?』
『芝区新堀町一〇の加藤といふ八百屋の二階です。』
『一寸、封筒を一枚恵んで下さい。』
 をばさんが封筒を持つて来てくれると、俊夫君は、鉛筆で手帳へ何やら走り書きをしましたが、それからその頁を破つて封筒の中へ入れました。
『兄さん、これを警視庁の小田さんの所へ持つて行つて下さい、ゆうべはたしか宿直の番だつたから。それから僕は事によると十時頃までは帰らぬかもしれぬが、うちで待つて居てください。』
 私が立ち上つたとき、俊夫君はをばさんに向つて言ひました。
『をばさん、僕お腹がすいたから、買つて来たパンを工場で食べさせて貰ひますよ。冷たいお茶はありませんか。』
『あります。先刻沸かしたのがもう冷めて居ますよ。』
   × × ×
  × × ×
 警視庁には果して小田刑事が居られました。小田さんは俊夫君とは大の仲よしで、俊夫君は小田さんのことを『Pのをぢさん』と呼びます。Pは英語のPolice(警察)の最初の文字ださうです。『Pのをぢさん』といふ綽名は小田さんは嫌ひださうですが、これ迄度度俊夫君に手伝つて貰つて手柄をされたので、俊夫君のいふことは決して怒りません。
 小田さん即ち『Pのをぢさん』は俊夫君の手紙ときいて、早速開いて見られましたが、その顔は急に輝きました。
『よろしい。万事こちらで取り計らふと、俊夫君に話してくれたまへ』といはれました。



 私一人俊夫君の事務室兼実験室の中に寂しく待つて居ると、九時少し過ぎに木村さんが訪ねて来ました。木村さんは大切な白金の紛失のために気を弱らせたと見えていつもとはちがつて頗る元気のない顔をして居ました。
『大野さん、白金が明日 朝までに帰つて来ぬと、私はどうしたらよいでせうか。』と木村さんは私に向つて、いかにも心配さうな顔をして申しました。
『まあ御心配なさいますな。俊夫君はきつと取りかへしてくれるでせう。』
『けれど俊夫さんは私や竹内ばかりにかまつて居て、あんなエッキス光線のやうなむだ骨折をさせたのですから、あの間に犯人はもう遠い所へ高飛びしてしまつたにちがひないです。』
 私はどういつて木村さんを慰めてよいかに迷つてしまつて、黙つたまゝぢつと考へこみました。
 するとそこへ俊夫君が額に汗をにじませて帰つて来ました。
『木村のをぢさん、よく来てくれました。先刻は失礼しました。竹内さんはどうしましたか。』
『竹内は一しよに帰つて来てから間もなく、疲れたから、下宿で暫らく眠つてくるといつて帰りました。』
『竹内さんは怒つて居たでせう?』
『だつて俊夫さんはあんな大袈裟なことをするのですもの。私は生れて始めてエッキス光線にかけられましたよ。』
『あんなものに度々かけて貰ふのはよくありません。』と俊夫君は皮肉をいひました。
『で、俊夫さんはもう犯人の見当がついたのですか。』
『つきましたよ。』
『え?』と私たち二人は顔を見合せて同時に叫びました。
『犯人は誰です?』と木村さんはいきまきました。
『まあさう、気を揉まんでもよろしい。それを御話するまへに、をぢさんに振舞ひたいお茶がある。』
『お茶ですつて?  お茶どころではないです。早く犯人の名をきかせて下さい。』
 俊夫君はそれに返事もせずに薬品棚から一つの罎を取り、それを傾けて、中の液をビーカーの中へ注ぎました。それから、細い白金線を小さく切つて、木村さんの眼の前に持つて来ました。
『木村のをぢさん、このお茶は一寸変つたもので、不思議な芸当をやります。いゝですか、この中へこれを入れますよ。』
 かういつて俊夫君が白金線の小片を液体の中へ入れると、白金はかすかな音をたてゝ、見る間にとけてしまひました。
『王水ですか?』と木村さんは驚いて申しました。
『さうです。けれど竹内さんの飲むお茶はこれです。』
『え? 何? ではあの竹内の土瓶の中は王水でしたか? あの中へ白金がとかされて居たんですか? そりや大変!』
 かう叫んだかと思ふと木村さんは後をも見ずにあたふた駈け出して行きました。
『兄さん僕等も木村さんの家へ行かう』
 私たちが木付さんの家の前まで行くと木村さんは中から駈け出して来ました。
『俊夫さん、竹内は土瓶を持つて帰つたさうです。早く何とかして下さい!』
『をぢさん、あわてなくてもよい。兄さん、自動車を呼んで来て下さい。』と俊夫君は落ついて申しました。(続く)


【科学探偵小説 暗夜の挌闘(三)】

「子供の科学」第2巻第5号(1925年5月1日)

(一)

 私たち三人は、私のよんで来た自動車に乗つて、芝区新堀町の竹内さん―私はこれから竹内と呼びます―の下宿へ急ぎました。小春日和の暖かさに沿道の樹々の色も美しく輝いて居ましたが、木付さんは先へ心が急くと見えて、あまり口をきゝませんでした。
 自動車が目的の場所へ著くと、木村さんは逃げ出すやうに降りて、竹内の下宿して居る八百屋へとび込んで行きました。私も続いて降りようとすると俊夫君は私の腕をかたく掴んで言ひました。
『兄さん降りる迄ないよ、竹内はもう居ない、いまに木村のをぢさんが、顔色かへて戻つて来るから待つて居なさい。』
 暫くすると木村さんは果して、真蒼な顔をして出て来ました。
『俊夫さん、どうしよう。八百屋のお上さんにきくと竹内は今朝急に引越をするといつて、行先も言はずに、荷物を持つて出て行つたさうです。』
『をぢさん、まあ心配しなくてよい、竹内の行つた先はちやんとわかつて居るから、白金は大丈夫とりかへせます。さあこれからこの自動車で警視庁へ行きませう。』
『警視庁?』と木村さんは眼を丸くして言ひました。
『さうです、ことによると竹内はもうつかまつて居るかもしれん。』
 木村さんの顔に、はじめて安心の色が浮びました。

(二)

 自動車が芝公園にさしかゝつたとき、木村さんは俊夫君に向つてたづねました。
『俊夫さんは、どうして白金が土瓶の中の王水にとかしてあることを見つけたのですか?』
『ああ、そのことですか、それぢやこれから僕が探偵した順序を話しませう。先づ工場の床の上には、外からはひつたらしい人間の足跡が一つもありませんでした。それから、あの硝子の破片です。外から破つたのなら、中の方に沢山破片がなくてはならぬのによく調べて見ると、外の芝生の上に落ちて居た破片の方が中に落ちて居た破片より沢山あつたのです。だから、あの硝子は中から破つたものだと知つたのです。中から破つたものとすれば、破つたものは竹内より外にありません。すると白金は竹内が盗んだにちがひないが、扨、一たい何処に隠したゞらうかと、僕は一生懸命に抽斗をあけたり棚の上の器の中を調べました。ところが何処にも見当らなくて、たうとう一ばんしまひにまさかと思つて土瓶の蓋を取つたら、妙な香がぷんとしました。はつと思つて僕は考へたのです。室の中の麻酔剤の臭ひは、この土瓶の中の液体の臭ひをまぎらすためだ。白金はこの土瓶の中にかくされてある。かう思つたけれど、あの場合それを言ひ出したら竹内がどんなことをするかもしれぬ。そこで僕はをぢさんに『誰の飲む御茶ですか』ときゝました。するとをぢさんより先に竹内が返事をしました。だから僕は愈々竹内が犯人だと知つて、エッキス光線をかけに行つて貰つたんです…』
『え?』と木村さんは不審さうな顔をしてたづねました。『白金が土瓶の中にあつたなら、エッキス光線をかけるに及ばぬぢやないですか?』
『それはさうだけれど…おや、もう警視庁へ来ましたよ。そのことはあとでゆつくり話しませう』
 かういつたかと思ふと、俊夫君は自動車の扉をあけて、さつさと出て行きました。

(三)

 警視庁には俊夫君がPのをぢさんと、呼ぶ小田刑事が居られて私たちをにこにこした顔で迎へて下さいました。俊夫君は小田さんと二人きりで、暫らくの間何やらほそぼそ話をして居りましたが、それがすむと、丁度午食時だつたので、私たちは小田さんと一しよにうどんの御馳走になりました。木村さんは相変らずぼんやりして居ましたが、俊夫君は快活にはしやぎました。
 食事が丁度終つた時、小田刑事の部下の波多野さんが角袖でふうふう言つて這入つて来られましたが、私たちの姿を見て一寸躊躇されました。すると小田さんは、
『波多野君、この人たちは、みんな内輪だから、かまはず話してくれたまへ』と言はれました。
『仰せに従つて新堀町の八百屋を見張つて居りますと、竹内は土瓶を持つて帰りましたが、三十分程過ぎると、人力車が来まして、竹内は行李とその土瓶を持つて、その車に乗りました。車は品川の方をさしてずんずん走り、私は車のあとからついて走りました。それから品川を過ぎ、大井町を通つて大森の△△まで行きました。あまり遠かつたので随分弱りましたが、遂に車は畑中の一軒家の西洋造りの家の前でとまり、竹内は行李と土瓶とを家の中に運び入れて車をかへしました。私は暫らくその家の様子を伺つて居ましたが家の中には誰も居ないやうに思はれました。近所できいて見ると、誰もどんな人が住んで居るかは知らないけれど夜分になると、男が五六人集つて来ては、西洋館 階下の隅にある室で、化学実験のやうなことをするといふことでした。そこで私はとりあへず、品川署へ電話をかけて二人の角袖巡査にその家の見張をさせ、一先づ帰つて来たので御座います。』
『それは御苦労様、それぢや、やつぱり夜分でないと、あげることは出来ないねえ、まあゆつくり休んでくれたまへ』と小田さんは言ひました。
 波多野さんが出て行くと、小田刑事は俊夫君に言ひました。
『俊夫君、今きいての通りだから今夜七時にこゝで勢揃ひして、八時頃にむかうに著くことにするが、その間君たちは一たん帰つて又出直して来てくれるか、それとも少し長いけれど、辛抱して待つて居てくれるか?』
 俊夫君が木村さんに都合をたづねると、木村さんは、竹内から白金を取りかへす迄は、うちへ帰りたくはないと言ひましたので、私たち三人は警視庁に止まつて、六時間ばかり待ち合せることにしました。
 待つて居るといふことは、随分骨の折れることです。かういふときに限つて、時計の針の動きがいつもより遅く思はれます。やがて四時になつたとき俊夫君は突然私に向つて言ひました。
『兄さん、僕これから、一寸用事があつて出かけて来るから、をぢさんの相手をしてあげて下さい。六時迄にはきつと帰つて来る。』
 かういつたかと思ふと、俊夫君は、呆気にとられた私たち二人を残して、つかつかと走り出して行きました。
 退屈な時間もたうたう暮れて六時になりました。あたりが少し薄暗くなつたかと思ふと電燈がつきました。すると約束通り、俊夫君がにこにこして私たちの室にはひつて来ました。
『兄さん、今Pのをぢさんに逢つたら今夜は兄さんに大いに活動して貰はねばならぬから、うんと御飯をつめこんで力を貯へて置いてほしいといつたよ。』
 私たちが食事をすますと、時計は七時を報じました。小田刑事は、十数名の腕利きの刑事を先へ送つて手配りをさせ、私たち三人は小田刑事と共に、自動車に乗つて後から出かけました。
 大森へ著いたときはあたりがもう真闇でした。畑中の西洋館の実験室らしい室には、七八人の男が寄り集つて、頻りに化学実験のやうなことをやつて居ました。小田さんの命により、俊夫君と木村さんと私の三人が木陰に立つて、実験室を覗くと、竹内もその中に居ました。間もなく竹内は得意さうな顔をして、例の土瓶を取り出して来て親分らしい男に渡しました。親分は土瓶の蓋を取つて、臭ひをかぎましたが忽ち色を変へて怒り顔になりました。彼はその土瓶を高く振り上げたかと思ふと中の御茶を竹内目がけてぱつとぶつかけました。…
『あつ』といつたのは竹内ではなくて木村さんでした。その声があまりに大きかつたので中の男たちは、一斉に私たちの方を向きました。
 その瞬間俊夫君は呼子笛を取り出して『ピー』と一声鳴らしました。すると実験室の電燈がさつと消えて、家の外も中も、まつ闇やみに包まれてしまひました。
 それから先何事が起つたかは読者諸君の想像にまかせます。悪漢のうちのあるものは家の中であるものは逃げ出した所を、はげしい挌闘の後、張込みの警官たちの手で捕縛されました。私も人々の間にまじつて一臂の力を揮ひ一人の悪漢を捩ぢ上げましたが、よく見るとそれは皮肉にも竹内だつたのです。
 約三十分の後、総計八人の悪漢は護送自動車の中に積みこまれました。小田刑事はうれしさうな顔をして、
『俊夫君どうも有難う。この中には、警視庁で数年来行方を捜して居た、稀代の貴金属盗賊が居るよ。いづれゆつくり御礼に行く。君たちは、あそこの自動車で帰つてくれたまへ』といひ乍ら、護送自動車に乗つて去りました。
 木村さんは白金を溶かした『お茶』が流れてしまつたので、あまり嬉しさうな顔はして居ませぬでした。やがて俊夫君は木村さんを自動車のそばに引張つて行つて、
『さあ、木村のをぢさん、約束通り白金を取りかへしてあげました』といひ乍ら、木村さんの手に白く光る塊を渡しました。
『やつ』といひ乍ら木村さんは、つかむやうに受取つて、『ど、どうしてこれが…』
『レントゲン検査に行つたのは、これを取りかへすためだつたのです』と、俊夫君は説明しました。『あゝしなければ竹内を連れ出すことが出来ません。僕は岡島先生の家から一足先にかへりをばさんに逢つて、朝飯を食ふふりをして土瓶の中の本物をたゞのお茶にすりかへて置いたのです。それから本物を別の罎にうつして、浅草の山本実験所へ持つて行つて還元してもらひ、四時に警視庁から取りに行つたんです。先刻盗賊の親分はあの土瓶にたゞのお茶がはひつて居たので、竹内がすりかへたものと思つて、怒つて投げつけたのですよ。…さあ早くかへつて、をばさんを喜ばしてあげませう』(完)