【科学探偵小説 紅色ダイヤ(一)】

「子供の科学」第1巻第3号(1924年12月1日)



 これから皆さんに少年科学探偵塚原俊夫君を紹介します。俊夫君は今年十二ですけれど、大人も及ばぬ賢い子です。六歳のとき、三角形の内角の和が二直角になるといふことを自分で発見して、お父さんを吃驚させました。尋常一年のとき、
 菜の花や股のぞきする土手の児等
といふ俳句を作つて、学校の先生をアッと言はせました。尋常二年の頃にはもう、中学卒業程度の学識がありました。
 俊夫君は文学が好きでしたけれど、それよりも科学に一層興味を持ちました。試みに俊夫君に自動車の構造をたづねて見なさい。その場で巧みな図をかいて説明してくれます。又試みに象の赤血球の大きさは? ときいて見なさい。言下に九・四ミクロンと答へます。俊夫君の作つた遊星の運動を説明する模型は、特許になつて、中学校や専門学校で使はれて居ます。かういふ訳で俊夫君は小学校を中途でやめて、独学で研究することになりました。
 其後間もなく、俊夫君はふとした動機から探偵小説が好きになり、たうとう自分も科学探偵になる決心をしました。探偵になるには動物、鉱物、植物学や物理、化学、医学の知識が要るので、俊夫君は一生懸命に勉強しましたが、三年たゝぬうちに、それ等の学問に通じてしまひました。
 お父さんは麹町三番町の自宅の隣りに、俊夫君のために小さい実験室を建てゝやりました。その中で俊夫君は顕微鏡をのぞいたり、試験管をいぢつたりして、可愛い洋服姿で夜遅くまで実験をして居ます。この実験室は、今は探偵の事務室を兼ねて居ります。



 俊夫君の名が高くなつたので近頃は日に二三人の事件依頼者があります。最近迷宮に入つた大事件を三つも解決したので、少年名探偵の評判を得ました。然し探偵といふ仕事は、命知らずの犯罪者相手のことですから、腕づくでは俊夫君もかなひません。それがため命の危険なこともありますので、俊夫君は負けず嫌ひの性分ですけれど、両親が心配して、この春から力の強い人を助手として雇ふことになりました。その助手となつたのが、即ちこの柔道三段の私であります。
 始め俊夫君は私の名を呼んで『大野さん』といつて居ましたが、近頃は『兄さん』と呼びます。それ程私たちの中は親密になりました。私は朝から晩まで俊夫君と一しよに居ります。街などを歩いて居ると、『兄さんは今、講道館のことを考へて居たね。』などゝいつて私を驚かせます。どうしてわかるのかときくと、にこりと笑つて、如何にも簡単に推理の道すぢを説明してくれます。
 俊夫君が探偵になつたのは、その実、赤坂の叔父さんが非常にすゝめたからでもありました。その叔父さんはもと逓信省の官吏でしたが、探偵小説が大好きで、年は五十になつたばかりですけれど、退職して毎日探偵小説を読んで居るといふ変りものです。叔父さんは金持ちで俊夫君の研究道具など高価なものでも惜気なく買つて呉れます。叔父さんの家には祖先伝来の宝として、天竺徳兵衛が暹羅から持つて来たといふ大きな紅色のダイヤモンドがあります。それは今迄度々盗賊にねらはれたことのあるくらゐ有名なものでして、叔父さんは、俊夫君が、この次の難問題を解決したら、御褒美にやらうと約束しました。俊夫君は平素それを欲しがつて居たので、何か大事件があつてくれゝばよいと思つて居ました。ところが、どうでせう。その紅色ダイヤが叔父さんの家から紛失したといふ、叔父さんと俊夫君にとつては、この上もない大事件が突発したのです。



 九月のある日、俊夫君の所へ茶色の封筒の手紙が届きました。俊夫君はいつも手紙の封を切る前に先づその紙質、文字、消印なとを検査しますが、この封筒には差出人の名が無かつたので、非常に注意深く検査して、やがて小刀で封を開き、ピンセットで中身をはさみ出しました。出て来たのは半紙半分の白紙でした。
『兄さん、この手紙を読んでごらん!』と俊夫君は白紙をひろげて言ひました。私が手で取りあげようとすると、『あゝいけない。指紋を取るから触つてはいけない』と申しました。
 けれど、何も書いてないのですから、読まうにも読みやうがありません。
『何と書いてあるかわかるか?』と俊夫君は得意気にきゝます。
『わからない。』
『明礬で書いてあるんだ。』
『では水に入れるとわかるね?』
『あゝ。』
 俊夫君は棚から指紋を採る道具を出して来て、紙の縁のところに八パーセントの硝酸銀を塗り、窓際に置いて日に乾かせました。暫くすると、不完全な一つの指紋が黒くあらはれました。
『兄さん、写真機!』
 写真機を持つて行くと、俊夫君は手早く撮影し、後黒塗盆に水を満してその上に手紙をひろげて浸しました。果して白い文字があらはれました。
『俊夫君、近い内に大きな窃盗事件か起るが、いくら君でも今度の犯人は見つかるまいよ。』
と、毛筆で書かれてありました。
 これ迄沢山犯人から脅迫状は来ましたが、このやうに盗むことを予告する犯人は今迄ありませぬでした。しかも何処に窃盗事件が起るか、何が盗まれるかわからぬので、流石の俊夫君も面喰つたやうでした。
『どうも見たことのある筆蹟だ。』と俊夫君は暫らくして言ひました。『兄さん、この字は、筆の軸の端に糸をつけ、高い所から吊して書いたものだよ。さうすると、どんな人でもちがつた筆蹟になる。』



 それから二三日は何事もなく過ぎましたが、四日目の朝、赤坂の叔父さんから、俊夫君に、急用が出来たからすぐ来てくれと電話がかゝりました。俊夫君はハツと思つたらしく、探偵用道具の入つた鞄を私に持たせて、叔父さんの家にかけつけました。
 先方へつくと、叔父さんは待ちこがれたと言はぬばかりに、私たちを書斎に案内して、
『実は俊夫! ゆうべ、ダイヤを盗まれたんだ!』
『えつ?』といつもあわてたことのない俊夫君も、少しく顔色をかへました。
『俺にも、お前にも大切な品だから、まだ警察へは届けてないが、君一人で探偵出来るか?』と叔父さんはたづねました。
『一人でやります。』と俊夫君はきつぱり言ひました。
『よろしい。それでは盗まれた次第を話さう。』
 かういつて叔父さんは次の話をしました。
 紅色ダイヤはいつも書斎の金庫の中にあるが、今朝食後に叔父さんが、書斎で新聞を見ようと思つて入つて来られると、金庫の扉があいて居たので、ハッと思つて、調べて見ると、別に何一つ失つて居ない。ところが念のためにダイヤモンドの入つて居るサックを開けて見ると、驚いたことに、中にダイヤはなくて新聞紙の片を細かに折つたのが入つて居るばかりであつた。金庫は符号錠であるから、符号を知らぬものには開けられない。その符号は叔父さん一人知つて居るだけだのに、かうして開かれた所を見ると、昨日金庫を閉め忘れたのかもしれぬ。それに窓や戸を検べても外から入つた形跡がないから、犯人は家族のものとも思はれぬではないが、家族は叔父さんと叔母さんと女中と下男とで、女中や下男はなが年居て正直なものばかりであるから疑ふ余地は少しもない。…
 俊夫君は叔父さんの話が終ると、先日届いた無名の手紙の話をし、廓大鏡を取り出して金庫を検べました。金庫の前面にかすかに一つの指紋がついて居ましたので、俊夫君は鉛白粉をかけて、指紋をはつきりさせ、写真に撮影しました。
 金庫の内外の検査が終ると、俊夫君は書斎の窓や庭や、その他のところを綿密にしらべ、それが終ると、書斎へ戻つて、
『叔父さん、ダイヤのサックはどこにあります?』と訊ねました。
 叔父さんは机の抽斗からサックを出して渡しました。中には新聞紙が入つて居ました。
『叔父さんが入れたのではない?』
『さうとも』
『では犯人でせうか?』
『さうだらう。』
 俊夫君は新聞紙を丁寧に開きました。それは二寸四方位の小さな紙片でした。俊夫さんは、すかして見たり裏返して見たりして居ましたが、
『叔父さん! これを借りて行きます。』と申しました。
『いゝとも、それで犯人の目星はついたか?』
『まだわかりません。然し二三日中には見つけます』



 叔父さんの家から帰ると俊夫君はすぐ金庫の上の指紋の写真を現像して、手紙にあつた指紋の写真と比較しました。二つの指紋はぴつたり一致しました。それから俊夫君は例の新聞紙片を私に渡して言ひました。
『兄さん、これ、何だかわかる?』
 見ると三面記事の一部分で、裏は広告でしたから別に何の意味があらうとも思へませぬでした。
『すかしてごらんなさい!』
 言はれる侭にすかして見ると、活字の所々に針で穴があけてありました。
『それは暗号だよ。』と俊夫君は申しました。私は左に、針で穴のあけてゐる文字に点を打つて、その新聞記事を写し取つて見ませう。
『本郷駒込富士前の理化学研究所、近藤研究室で、整色写真化学の研究を行つてゐる花井時雄氏は、これまでの写真違つて今まで不可能と見做さた赤をはじめ、黄や緑などに至る迄それらしく白い様に乾板に感ぜしむる事に成功した。それと共に写真術には常に邪魔にされ撮影者が之を除くことに最もおほく苦心してゐる紫外線をば特有のスクリーンで完全に除くことに成功した…』
 俊夫君は果してこの暗号を解くことが出来るでせうか。又この暗号を、何のために犯人はダイヤのサックに入れて置いたのでせうか。(つゞく)


【科学探偵小説 紅色ダイヤ(二)】

「子供の科学」第2巻第1号(1925年1月1日)



『兄さんその暗号がわかる?』
と、暫くたつてから俊夫君は私にたづねました。私はその新聞紙の切抜きの記事を幾度も読んで見ましたが、それは理化学研究所の人が新らしい写真術を発見したといふに過ぎないのであつて、このダイヤ紛失事件と何の関係がある訳でもなく、また針で孔のあけてある活字だけを読んで見ても、少しも意味をなさなかつたので、
『どうも、何が何だか少しもわからない』と答へました。
『そんなにすぐわかつてたまるものか』と俊夫君は笑い乍ら言ひました。
『では俊夫君にもまだわからぬ?』
『わからん!』
 これ迄俊夫君は、『わからん』とか『出来ん』とかいふ言葉が大嫌ひで、よほど困つたときでないと使はないのですが、この暗号はむづかしいと見えて、苦い顔して吐き出すやうに言ひました。
 それから俊夫君は、その切抜きを私の手から奪つて、凡そ十分ばかり一生懸命に見つめて居ましたが、やがて、『兄さん、この針で孔のあいて居る字だけを写し取つて下さい』と申しました。
 私は、白紙の上に左の通り写し取りました。
 を行つて での写真 違つて今ま 能と見做さ た赤をは 黄や緑 至る迄そ く白い様に しむる事 に写真術 影者が之を とに最もお
 俊夫君は私の差出した紙片を手に取つて暫らく見て居ましたが、『兄さん、こりやとても一時間や二時間で解ける暗号でないよ。御昼飯をたべてから、ゆつくり考へよう。』と申しました。



 食後俊夫君は、あの新聞の切抜きが、何日の何新聞にあるか調べて、出来るなら、その新聞を持つて来てくれと私に申しました。私はそれを聞いて大に弱りました。あの新聞の切抜きは必ずしも東京の新聞と限らず、また一月前の新聞やら、二月前のものやらわからぬから、捜し出すのは容易なことでないと思ひました。
『その新聞をどうするの?』と私はたづねました。
『どうしてもいゝよ!』と少々機嫌が悪い。
『だつて、いつの新聞だやら、どこの新聞だやらわからぬから、一日や二日で捜せるものぢやない。』 と私は言ひました。
『馬鹿だな、兄さんは!』と俊夫君はいよいよ面ふくらして言ひました。
『だつて、さうぢやないか?』
『兄さん、ちと、頭を働かせて御覧なさい。それ位のことは僕が言はないでもわかる筈だよ。さあ、この切抜きをあげるから、本郷なり何処へなり、早くいつて来て下さい…』
 機嫌の悪い時に反抗するのはよくないと思つて、私は逃げ出すやうに戸へ出ました。が、一たい何処へ行つたらよからうかと、立ち止つて考へたとき、ふと、俊夫君が今、『本郷なり何処へなり』と言つたことを思ひ出し、私は思はず股を打ちました。切抜きの新聞記事は本郷駒込の理化学研究所のことではありませんか?
 私は俊夫君の智慧に感心しながら、本郷行の電車に乗り、富士前で降りて、研究所に行き、近藤研究室の花井氏を訪ねました。すると花井氏は快く逢つてくれました。
 まさか暗号のためとも言へないので新らしい写真術の御話を承りに来たと申しました。
『あゝ、あの読売新聞の記事を見たのですか?』と同氏は笑ひ乍ら言はれました。私の胸は躍りました。
 それから凡そ二十分ばかり花井氏の深切な説明を聞いた後、私は暇をつげ、何気ない風を装つて、
『読売の記者はいつ御伺いしたでせうか?』と訊ねました。
『昨日の午後でした。』
 昨日の午後ならば、あの記事は今日の新聞に出たにちがひない。かう思つて電車停留場へ来ますと、向い側に新聞取次店があつたので、転ぶやうにその店へ入つて、読売新聞を買ひました。拡げて見ると、第三面の下から三段目に、切抜き通りの記事がありました。



 新聞の捜索が意外に早く片附いたことを喜びながら、早く俊夫君に渡してにこにこ顔が見たいと思ひましたが、生憎、日比谷公園前で停電に逢つて、家に帰つたのは、秋の日も暮れかけた五時半頃でした。
 扉をあけて俊夫君の室に入ると、俊夫君は手に鉛筆を以つて、私が来たのも知らずに考へて居りました。
『どうだね、暗号は解けた?』と私は訊ねました。俊夫君は顔をあげましたが、その眼は遠い所を見つめて居ました。やがて我に返つた俊夫君は、
『まだ解けん』と苦々しく言ひました。見ると机の上には暗号に関する洋書が五六冊開かれて居りました。
 と、その時電話のベルが鳴りましたので、私は立つて受話器を外しました。ところが、今まで机によりかゝつて居た俊夫君は、何思つたか、つと立ち上つて、
『しめた、わかつた!』と言ひ乍ら、室の中をあちこち躍りまはりました。
『俊夫君! 電話だ!』と私が申しましても耳へ入らばこそしまひには私の腰にぶら下つてくるひかけるのでした。
『俊夫君! 叔父さんから電話だ!』と私は声を強めて申しました。『叔父さん』ときいて、俊夫君は受話器を耳に当てました。叔父さんの声が大きいので傍に立つて居た私にはよく聞えました。
『俊夫! 犯人はわかつたかい?』
『まだです』
『暗号は?』
『たつた今解式がわかりました!』
『たつた今?』
『叔父さんから電話がかゝつたのでわかりました。』
『それは妙だなあ!』
『妙でせう?』
『何といふ暗号だい!』
『これから解くのです』
『さうか、しつかりやつてくれ。たゞ一寸様子をたづねたゞけだ。』
『しつかりやります。左様なら。』
 電話がかゝつたので暗号の解式がわかつたとはどういふ訳だらうか。それは私にも謎の言葉でした。私がそれを訊ねようとすると、俊夫君は書棚へかけつけて、しきりに書物を繰りひろげて見て居ましたが、暫くして、
『困つたなあ、あれの書いてある本がなくちや。』とさも落胆したやうに申しました。
『僕が買つて来ようか?』
『いや、青木でいゝ。』かういつて、机の上のベルの釦を押すと、暫くして本宅の書生の青木が入つて来ました。俊夫君は紙片に何か書いて、青木に渡しながら、
『この本を、角の丸山書店で、大急ぎで買つて来てくれ。』と申しました。



『兄さん今日は本当に苦しんだよ』と俊夫君は、机の前に腰かけてにこにこしながら申しました。
『何しろ、これは日本の暗号だから、外国の書物を見たとて、わかる筈はなし、それかといつて、日本には暗号のことを書いた本はなし、全く僕一人の力で解かねばならぬからね。先ず僕はこの『を行つて』『での写真』『違つて今ま』といふのが一つ一つの文字即ち『ア』とか『イ』とかをあらはして居るにちがひないと思つたんだ。ところでこの十二組のうち、どれを見ても五字より多いのはないから、何か『五つ』に緑のあるものはないかと頻りに考へて見たんだ。はじめ盲人の点字を暗号になほしたのではないかと思つて見たが、点字は『六つ』から出来て居るのでその考へは捨てたんだ。丁度、兄さんが帰つて来たときに、仮名は仮名としてある記号を代表し、漢字は漢字としてある記号を代表するにちがひないといふ所までこぎつけたんだ。すると叔父さんから、電話がかゝつて来たでせう。僕ははつと思つたよ。…わかつたかい、兄さん?』
『どうもわからぬね。』
『だつて電話と言やすぐ思ひ出すだらう?』
『え、何を?』
『仮名がトンで漢字がッーさ!』
『何だいそれは?』私は益すわからなくなりました。
『困るなあ、電信符号だよ!』
 かう言はれて私は始めてなる程と思ひました。トンは電信符号の(・)、ツーは(―)で、而も、文字はトンツーの五つ以下から成つて居ることを私は思ひ出しました。
 この時書生の青木が小さい書物をもつて入つて来ました。見るとその表紙に『電信符号』と記されてありました。
『兄さん、仮名をトンにし、漢字をツーにして早く、この十二組の文字を書き直して、どういふ仮名文字に相当するか検べて下さい。』
 私はやつとかゝつて左のとほり検べあげました。

 を行つて ・―・・ カ
 での写真 ・・―― ノ
 違つて今ま ―・・―・ モ
 能と見做さ ―・――・ ル
 た赤をは ・―・・ カ
 黄や緑 ―・― ワ
 至る迄そ ―・―・ ニ
 く白い様に ・―・―・ ン
 しむる事 ・・・― ク
 に写真術 ・――― ヲ
 影者が之を ――・―・ シ
 とに最もお ・・―・・ ト

 折角検べて見ても、『カノモルカワニンクヲシト』では何のことかわかりませぬでしたが、ふと、顔をあげると、俊夫君は、にが虫をつぶしたやうな顔をして居ました。
『どうしたの?』
と私は訊ねました。
俊夫君は机をたゝいて、
『馬鹿にしやがる。』
と怒鳴りました。
『え?』と私は吃驚しました。
『倒まに読んでごらん!』
『トシヲクンニワカルモノカ』(俊夫君にわかるものか)
 又しても犯人のいたづら! 折角苦心したあげくがこれでは、俊夫君の怒るのも無理はなかつた。
  (つゞく)


【科学探偵小説 紅色ダイヤ(三)】

「子供の科学」第2巻第1号(1925年2月1日)



 私は俊夫君をどうして慰めてよいかに迷ひました。そのとき私はふと、今日、理化学研究所をたづねたことを思ひ出しました。今まで暗号のはうに気をとられて、私は肝腎の用事を話すことを忘れ、俊夫君も、それを気づかずに居るらしいでした。
「俊夫君、すつかり忘れて居たが、実はこの切抜きの記事のついて居る新聞を買つて持つて来たんだ。」
 俊夫君はあまりうれしくもない顔をして、私の差出した新聞を受け取つたが、やがてその新聞を開いたかと思ふと、急にうれしさうな顔になつて、
「兄さん、有難う!!」
 かう叫んだかと思うと、先刻暗号の解式を発見したときのやうに、こをどりし乍ら私の頭につかまつて、足をばたばたさせました。
「どうしたんだ?」私は呆気にとられてたづねました。
「犯人がわかつたよ!」
「え?」
 私は俊夫君の言葉を疑はずに居られませんでした。
「あゝうれしい。」かういつて俊夫君は又もや、室の中を走りまはりました。私は読売新聞を開いたばかりで、どうして犯人がわかつたか、さつぱり見当がつきませんでした。
「犯人は誰だい?」
「それは今いへない。今日はもうこれ以上きいては厭だ。さあ、ゆつくり御飯を食べませう。」



 あくる朝俊夫君は、昨夜、叔父さん宛に書いたといふ手紙を投函してくるといつて出かけたまま、正午頃まで帰つて来ませんでした。俊夫君は出がけに兄さんについて来て貰つては困るといつたので、私は家にとゞまりましたが、何だか心配になるので、其の辺を捜しに出かけようかと思ふと俊夫君はにこにこして帰つて来ました。そして私が、どこへ行つたか訊ねぬ先に、俊夫君は私に向つて、今晩七時に紅色ダイヤを盗んだ犯人が、こゝへ訪ねて来るから、兄さんは力一ぱい働いて捕へてくれと申しました。
 犯人を捕へに行くのなら兎に角、犯人がこちらへ訪ねてくるとはおかしいと思つて、その理由を訊ねると、
「来なければならぬからさ!」と俊夫君はすましたものです。
「何故?」
 俊夫君は黙つてポケットから紫色のサックを取り出して言ひました。
「兄さん、そーら中を御覧よ。」
 そしてサックの蓋をあけたかと思ふと、ぱつと閉めましたが、中には紅色の宝石がまがひもなくきらきらと輝いて居りました。
「盗まれたダイヤか?」と私は驚いてたづねました。
「さうよ!」
「どうして君の手にはひつた?」
「犯人が隠しておいた所から取つて来たんだ。だから今晩犯人が、これを取りかへしに来るんだ。」
「一たいどうして探偵したんだい?」
「今晩犯人をつかまへてから御話するよ。」
「一寸そのダイヤを見せてくれないか?」
「いけないいけない。」かういつて俊夫君は意地悪さうな笑ひ方をして、ポケットの中へ、サックを入れてしまひました。



 私は俊夫君がどうして犯人をつきとめその犯人の手から紅色ダイヤを奪つたかを考へて見ましたが、さつぱりわかりませんでした。暗号の文句は、あのとほり俊夫君をからかつたものに過ぎないし、昨日の読売新聞も、私の見た範囲では、犯人の手がゝりになるやうなこともなかつたので、いくら考へても解釈はつきませんでした。けれど私は俊夫君の性質をよく知つて居ますから、強ひてきくのは悪いと思つて、俊夫君の命ずるままにしようと決心しました。
 五時半に夕食をすまし、やがて六時になりました。戸外はもうまつ暗で、人通りも少なくなりました。七時に犯人が訪ねて来たら、俊夫君が扉をあげ、私がとびかゝつて行つて手錠をはめるといふ手順でした。かねて柔道で鍛へた腕ですから、どんな人間にぶつかつても何でもありませんが、犯人がどんな風な人間だらうかと思ふと、私の心は躍りました。
 たうとう七時が打ちました。すると果して実験室の外がはに足音が聞え、次で扉をコツコツ叩く音がしました。俊夫君は私に眼くばせして、立ち上り乍ら扉をあけに行きました。
「やつ」
と一声、私は入つて来た男をめかけてとびかゝりました。
「何をするんだ。俺だよ!」といふ先方の声は、どこかに聞き覚えたところがありましたが、色眼鏡をかけて顔一ぱいに鬚髯をはやして居ましたから、こいつ胡散な奴だと思つて捩ぢ伏せにかゝりますと、先方もさるもの、猛然として、私をつきのけようとしましたので、次の瞬間、ドタン、バタンといふ格闘が始まりました。俊夫君もこのとき犯人の方へ駈け寄つて、何事かして居たやうですが、やつと私の力がまさつて、犯人に手錠をはめようとすると、俊夫君は、「兄さん、さうしなくてもよい。叔父さん、色眼鏡と附け髯を御取りなさい。」と叫びました。
 私はハツと思つて手をはなしました。
「俊夫! 一たいこのいたづらは何のことだ!」といつて、起ち上つて、色眼鏡と附け髯をはづした男の顔は、まがひもなく赤坂の叔父さんでした。
「叔父さんすみません。けれど紅色ダイヤの犯人をつかまへる約束だつたでせう?」
「それはさうさ!」と叔父さんは塵埃を払ひ乍ら、苦い顔して申しました。
「叔父さんがその犯人ですからつかまへようとしたゞけです。その代り紅色ダイヤを御返しします。」
 かう言つて、俊夫君はポケットからサックを取り出し、蓋をあけて叔父さんの前にさし出しました。
 燦然たる光を放つダイヤモンドを見た叔父さんは、顔色かへて驚きました。
「こりや、本当の紅色ダイヤだ!」かういつて、叔父さんは上衣の内側のポケットから、同じやうなサックを取り出して顫へる手であけて見ました。
「やつ、贋物だ! いつの間にすりかへられたゞらう?」と叔父さんは不思議さうに俊夫君の顔を見つめました。
 私は何か何だかわからぬので、しばし呆然として、其処に立つて居ました。



「叔父さん、まあ御かけなさい。兄さんもそちらへ御かけなさい。」
 かういつて俊夫君は、得意気に今迄の探偵のすぢ道を語り始めました。
「叔父さん、叔父さんは、このダイヤを僕にくれてやらうと思つて、僕の力をためしたのでせう? はじめ、あの匿名の手がみを見たとき、見覚えのある筆蹟だと思ひました。それから金庫の上の指紋をとりましたら、それは叔父さんの指紋でした。いつか僕が、お父さんやお母さんや、叔父さんの指紋を集めたことがあつたでせう。僕はそれと比べて見たのです。それから金庫の上にあつた指紋も叔父さんのでした。ですから叔父さんが犯人かとも思つたですけれど、叔父さんの紙を誰かが盗んでつかつたのかもしれず、金庫の上に叔父さんの指紋のあるのは、あたり前であるし、それにあの暗号が気になつたものですから、叔父さんを犯人と断定するのはまだ早いと思ひました。
 ところが暗号を解いて見ると、僕を嘲つた文句が出ました。そこへさして暗号を切り取つた新聞が昨日の読売新聞だつたので、僕は犯人が叔父さんだといふ、たしかな證拠を得たのです。窃盗は前夜行はれたのですから、外からはいつた犯人なら、昨日の朝の新聞を切り抜いて入れる訳がない。又たとひ犯人が、叔父さんのうちのものであつても、叔父さんが真先によむ新聞を切り抜く筈はない。それに叔父さんは、もと逓信省に居て、電信符号のことを、よく知つて居るから、愈よ犯人は、叔父さんだと推定したのです。
 犯人が叔父さんだとすると、叔父さんは僕の力を試すために、やつたことだと思つたから、犯人がわかつたと告げてこちらへ来て貰へば、叔父さんはダイヤをもつて来てくれるにちがひないと考へたのです。そこで僕は昨夜、叔父さんに手がみを書き、今朝投函しに出た序に、銀座へ行つて、贋のダイヤとサックを買ひ、兄さんをだまして、叔父さんと格闘してもらひ、どさくさまぎれに、叔父さんのポケットをさぐり、本物と贋物とをすりかへてしまつたんです。」
 叔父さんの先刻の怒り顔は、いつの間にかにこにこ顔に変つて居ました。
「いや全く感心した。紅色ダイヤはお前にやる。」と叔父さんは申しました。「昨日の朝の新聞を切り抜いたのは俺の手ぬかりだつたよ。四五日前から気をつけて、何か科学に関した記事はないかとさがして居たが、丁度あの記事が目についたので、暗号を作つたのさ。暗号に身がはひつて、うつかりそのことに気がつかず、早速電話をかけてお前を呼びよせたのさ。それにしても大野君、随分ひどい目にあはせたね?」
 私は穴があればはひりたいやうな気になりました。
「どうも失礼しました。俊夫君もひどいいたづらをさせたものです。」
「だけど、叔父さんをひどい目にあはせることは、あの手紙に書いて置いたよ。」
「え?」と叔父さんはびつくりして言ひました。
「手紙をもつて来たでせう?」
 叔父さんは、チヨッキのポケットから俊夫君が今朝出した手紙を取り出しました。
「針で孔のあけてある字を読んでごらんなさい」
 叔父さんは手紙を開いて、しばらく電灯の光にすかして読んで居ました。
「そうか。変装の方へ気を取られて、これには気がつかなかつた。」
 かういつて叔父さんは私に手紙を渡しました。私は左に、その文句をうつし取り、針で孔のあけてある字だけを例の如く点を打ちます。
叔父さん、たうとう犯人がわかりました。僕は首尾よくダイヤを取り返しました。今晩七時に変装して来て下さい。兄さんを驚かしてやりたいのですから、序ダイヤのサックとこの手紙を持つて来て下さい。あの暗号には、随分苦しい思をさせられました。委細は御目にかゝつて御話しますよ。乱筆おゆるし下さい
     俊夫より
  叔父上さま
 針で孔をあげた字を一しよにあはせると、
「叔父さん今晩兄さんに苦しい思をさせられますよ。おゆるし下さい。」となります。
「俊夫にはかなはん。」
 たうとう叔父さんも、俊夫君の智慧に降参してしまひました。
 かくて紅色ダイヤは目出度く俊夫君のものとなりました。(完)



※この作品では文字にうった点が暗号になっている。しかし、標準的なブラウザで文字に点をうつことは難しいので、該当部分を棒線で表現した。