【髭の謎】

「子供の科学」第2巻第6号(1925年6月1日)



 それは寒い寒い一月十七日の朝のことです。四五日前に、近年にない大雪が降つてから、毎日曇り空が続き、今日もまた、ちらちら白いものが降つて居ります。
 塚原俊夫君と私とは、朝飯をすましてから、事務室兼実験室で、暖炉を囲んで色々の話をして居りました。と、十時頃、入口の扉を叩く音がしましたので、私が開けて見ると、二十歳ばかりの美しい若い令嬢さんが、脹れ上つた瞼をして心配さうな様子で立つて居りました。
『塚原俊夫さんはお見えになりますか?』と御嬢さんは小さい名刺を私に渡しました。『御願ひがあつて来ましたと仰しやつて下さい。』
 俊夫君は私の渡した名刺を見て、
『さあ、どうぞ御這入り下さい。』と言ひました。その名刺には『遠藤雪子』と書かれてありました。
 やがて御嬢さんは俊夫君と卓子に向ひあつて腰かけました。
『御承知かもしれませんが、私が遠藤信一の娘で御座います。』 『ああ、遼藤先生の御嬢さんですか、先生は相変らず御研究で御座いますか?』と俊夫君は言ひました。
 令嬢は急に悲しさうな顔になつて、
『実は父が昨晩亡くなつたので御座います。』
『え?』と俊夫君はびつくりして飛び上りました。『それは本当ですか?』
『はあ、それも誰かに殺されたので御座います。』
 俊夫君はますます驚きました。遠藤先生といふのは東大教授の遠藤工学博士のことで、博士の発見された毒瓦斯は、従来発見されたどの毒瓦斯よりも飛び離れて強力で、その製法は国家の秘密となつて居るので、その秘密を奪ふために欧米諸国から間諜が入り込んで居るとさへ評判されて居るのです。然し、その製法を書いた紙片は大学の教室にかくしてあるのか、自宅にあるのか、博士の外に誰一人知るものはなかつたのです。で、いま博士の令嬢から博士の変死をきいた私は、博士が毒瓦期の秘密を奪はうとする間諜のために殺されたのではないかと思つたのです。
 俊夫君も同じことを考へたと見えて
『やつぱり、噂に高い間諜の仕業ですか?』とたづねました。
『いゝえ、私の兄が犯人として警察へ連れて行かれたので御座います。然し兄は決して父を殺すやうな人間ではありません。ですから、俊夫さんにこの事件の探偵をして頂きたいと思つて参つたので御座います。』
『どうか事情を委しく話して下さい。』



 令嬢の話によると、遠藤博士は生来短気な人であつたが、五年前に夫人がなくなられてからは一層気が短くなられたのださうです。令息の信清氏は、今年二十四歳の青年であるが、父博士とは性格が全く違つて文学好きであり、事々に博士と意見が衝突して、この三年間は、健康を害しても居たので、須磨の××旅館に養生かたがた滞在して、小説などを書いて暮らし、その間一度も家へ帰つて来なかつたのださうです。
 ところが今から六日前即ち一月十一日の晩、博士はある会合から帰ると、流行性感冒にかゝつて発熱されたさうです。博士は医者にかゝることが、嫌ひで、いつも自分の診断で薬を飲まれたさうです。この四月には停年で大学をやめられることになつて居て、近ごろは随分気が弱くなつて居られたのであるが、病気のために急にさびしくなつたゝめか、十二日に話して置たいことがあるから電報で信清を呼び寄せてくれと言はれたさうです。そこで令嬢はその日と十三日と、二度も兄さんへ電報を打つたところが、兄さんからは帰るのが厭だといふ返事が来たさうです。すると博士は令嬢に向つて、須磨まで行つて連れてこいと言はれたので令嬢は書生の斎藤と、婆やとに留守を頼んで、十三日の夜出発し、二日もかゝつて兄さんを説服し昨日の朝早く二人で須磨を立つて、昨夜一時頃帰宅されたのださうです。
 『ところが昨晩帰りましたら、父はどうした訳か大変怒つて、私たちを病室へ入れてくれませんでした。斎藤さんが出て来て、明日の朝先生の機嫌のよい時に御逢になつた方がよいでせうと申しましたので、私と兄とは別々の室に寝ました。私は旅の疲れでぐつすり眠りまして、今朝婆やが、父の殺されたのを知らせてくれる迄何も知らずに居りました。』
 令嬢はこゝで言葉を切り、俊夫君の顔を見つめて、更に言葉を続けました。
『事情を聞いて見ると、何でも父は昨夜一時頃に、その時迄看護して居た斎藤さんに、兄を起してつれて来てくれと申したさうで御座います。兄が行きますと、父は薄闇い室に蒲団に顔をかくして寝て居りましたさうですが、斎藤さんを寝させてから、二人きりになると、碌に兄の顔も見ないで、兄に向つて荒い言葉を使つたさうです。すると兄もそれに対して言ひ争つたのださうですが、凡そ十分ばかりして、別に話の要領を得ずに再び自分の居間へかへつて寝たさうです。ところが今朝父は手拭で頚を絞められて冷たくなつて居りまして、しかも、その手拭には、兄が滞在して居た須磨の××旅館の文宇がついて居りましたので、警視庁から来られた刑事は、兄を嫌疑者として拘引して行かれました。』
 こゝまで語つて令嬢は手巾でそつと顔を拭ひました。
『手拭のことを、兄さんは何と仰しやいました。』と俊夫君はたづねました。
『兄は何処で落したか覚えがないと申しました。』
『斎藤さんはいつから御宅へ来ましたか。』
『半年ばかり前からですが、父は[作成者注;「に→は」]大へん気に入つて居りました。』
『斎藤さんは今、何処に居りますか?』
『證人として、兄と一しよに警視庁へ行きました。』
『先生の死骸は?』
『大学の法医学教室に運ばれました。』
『御宅に顕微鏡はありますか。』
『父のつかつて居たのがあります。』
『それではまづ先生の屍骸を見せて頂いて、御宅へ伺ひます。』



 令嬢が帰るとすぐ、俊夫君は警視庁へ電話をかけて、『Pのをぢさん』即ち小田刑事を呼び出しました。遠藤博士の事件は小田刑事の係ではなかつたが、小田刑事の取計ひで、博士の屍骸を見せて貰ふことになりました。血液検査の道具と例の探偵鞄とを持つて、私たち二人が法医学教室へ行くと、小田刑事は先へ来て待つて居てくれました。
 博士の屍骸は午後解剖に附せられるべく解剖室に白布に蔽はれてありました。俊夫君は白布を取つて一礼してから身体の諸方を手で撫でまはしました。頚には深い縊れ痕があつて、右の鼻の孔の入口には少しばかり血の流れた跡がついて居ました。
 やがて何思つたか俊夫君はポケツトから物指を出して先生の髭の長さを計りかけました。先生の口髭は立派な漆黒の八の宇で、延びるだけ延してありました。顎から頬へかけての鬚髯はありませんが、病気中は剃られなかつたと見えて、一分に足らぬ黒い濃い毛が密生して居りました。俊夫君はその短い毛を熱心に計つて、その結果を手帳の中へ書き加へました。それから俊夫君は八の字髭を軽く引張つて、二三本を抜き、それを丁嚀に保存しました。
 髭の検査が終ると、俊夫君は手の指を一本一本熱心に調べましたが、遂に右の食指の爪の間から細い細い毛を一二本ピンセツトでつまみ出して、同じやうに保存しました。
『これでよろしい。』と俊夫君は満足げな顔をして申しました。
 小田刑事は俊夫君の探偵振りを見るのが好きですから、私たちと一しよに途中で昼飯を認めて巣鴨の博士邸さして行きました。
 博士邸に着くなり、俊夫君は、家の周囲を一めぐりしてくるとて、私たちを玄関に待たせて走つて行きましたが、暫くしてから帰つて来ますと、家の中からは令嬢が出迎へて下さいました。
『先生の寝室へ案内して下さい。』と俊夫君は令嬢に申しました。
 寝室にはベッドが置かれて、白布に包まれた蒲団が掛けてありましたが、俊夫君はそれを取り除いて、敷布の上を熱心に探しました。そして枕の下から一本の毛を拾ひ上げて保存しました。それから、ベッドの下や、寝室のあちら、こちらを調べまはりましたが、別にこれといふ発見はないやうでした。
『湯殿へ案内して下さい。』と俊夫君は突然申しました。私たちは何のことかと顔を見合せましたが、令嬢は黙つて先へ立つて行きました。
『風呂をわかすのは婆やさんですか?』と俊夫君がきゝました。
『いえ、婆やは年寄りですから、風呂は斎藤さんの受特です。』
『婆やさんは、そんなに年寄りですか』
『耳も遠く、目もよく見えぬのですがなが年忠実に仕へて来てくれましたから使つて居ります。』と令嬢は答へた。
 湯殿は二坪ばかりの広さで、隅の方に三尺四方位の浴槽が備へつけてありましたが、水で濡れて居りました。俊夫君は熱心に探した結果、浴槽の外側の、一寸人目につきにくい所に、紅黒い小さい斑点をたつた一つ見つけましたので、令嬢に頼んで、その部分の木を斑点諸共削らせて貰ひました。
 湯殿の検査が終つてから、俊夫君は令嬢に向つて顕微鏡を貸して下さいと頼みましたので、令嬢は遠藤博士の書斎へ私たちを案内して顕微鏡を出してくれました。令嬢が去ると、
『兄さん、先づこの、先生の指の爪の間について居た毛を顕微鏡にかけて下さい。』
と俊夫君が申しましたので、私は、早速板ガラスにその毛を載せて顕微鏡下に置きました。見ると、図に示す如き土筆のやうな形をした毛でして、私は今まで一度もこんな毛を見たことがありませんでした。『俊夫君、僕にはわからぬ、見てくれ。』と私は申しました。
 俊夫君は暫らく見て居ましたが、やがてにこりと笑ひました。
『わかつたかい?』と私はきゝました。
『わかつたとも、蝙蝠の毛だよ!!』
『え? 蝙蝠?』小田刑事と私は思はず一しよに叫びました。死骸の手に蝙蝠の毛!! さて、これは何事を意味するでせう?
(つゞく)


【科学探偵小説 髭の謎(二)】

「子供の科学」第2巻第7号(1925年7月1日)



 俊夫君は、更に私に向つて遠藤博士の屍体から抜き取つた髭と、ベツドの上に落ちて居た毛とを、顕微鏡にかけてくれと申しました。私は二本の毛を出して顕微鏡の下で見ますと、屍体から抜き取つた方は、図のAに示してあるごとく、毛根がついて居て、尖端即ち遊離端は木の枝のやうに三つ四つに割れて居りましたが、ベツドの上にあつた方は、長さは殆ど同じですが、図のBに示してあるごとく、両端とも、鋏で切つた痕がありました。
 俊夫君は、顕微鏡をのぞいて、満足げに言ひました。
『兄さん、ベツドの上にあつたのは附髭の毛だよ。』
『え?附髭?』と私は驚いてたづねました。
『さうだよ。両端を鋏で切つた毛は生きた人間には生えて居ないよ。…さあ、これから風呂桶について居た血痕を調べてくれ。人間の血だとわかればよい。』
 血痕が人間の血であるか否かを検べるには、血痕の中の赤血球の形を検べてもわかりますか、それよりも確かな方法は、血痕を食塩水にとかして、それと『沈澱素』といふものを混ぜ合せ、沈澱が起るか否かを見るのです。沈澱素といふのは人間の血を度々兎に注射しますと、兎の血液の中に、人間の血と混ると白い沈澱を起すものが生じますから、その兎の血を取つて、血清を分け、腐らぬやうにガラス管の中へ保存したものです。
 私は先づ、ガラスの皿の上に、暖めた食塩水を少し入れ、その中へ俊夫君が削り取つて来た板の血痕を、細いガラス棒を以てとかし込みました。それから、携へて来た沈澱素を取り出し、その少量を細い試験管に配り入れ、凡そ十五分の後、その沈澱素の中へ、血痕をとかした液を加へますと、見る間に白い沈殿があらはれました。
 これだけの実験では、まだ人間の血だと断言することが出来ません。といふのは、人間に近い動物即ち猿の血痕でも同じやうに沈澱を起すからです。けれど人間の血か猿の血かを区別することはうちの実験室へかへつてからでなくては行ひ難いのです。この場合、風呂場に猿の血があつたとは考へにくいですから、私は人間の血だといつても差支ないと思ひました。
 俊夫君は、私が以上試験をして居る間書斎の中を隅から隅まで捜しました。机の抽斗をあけて中をかきまはしたり、本棚の書物を取り出してふるつて見たりしました。最後に机の脇の本箱の横側にかけてあつた丸善の『日めくり暦』に目をつけ、何思つたかそれを取りあげて熱心に棄繰つて居ましたが、やがて、『あつた、あつた』と叫びました。



 あまりに俊夫君の声が大きかつたので、私の傍に立つて居たPの叔父さん即ち小田刑事はびつくりしてたづねました。
『何があつたんだ? 俊夫君。』
『遠藤博士の寿命を縮めたものです。』
『何だい?』
『毒瓦斯の秘密ですよ』と俊夫君は得意気に言ひました。『遠藤先生を殺した犯人は、先生の発見された秘密を握らうと思つて、この書斎の中を随分さがしたらしいです。けれど、さすがに先生は、金庫の中や、机の抽斗や、書物の中にかくすやうなへマなことはされなかつたんです。先生は丸善のこの『日めくり』の十二月の下旬のところへ、四五枚に亘つて、毒瓦斯製造法の秘密を書いて置かれたんです。暦は毎年十二月の末に送つて来るものですから、先生は、新らしい暦が到着したらまた書きかへるつもりだつたのでせう。毎日めくり取られる暦の中に、大秘密が書いてあるなんて、誰だつて考へやしません。そこが遠藤先生のえらい所です。だから、たうたう犯人はこれをよう見つけなかつたんです。』かう言つて、俊夫君は『日めくり暦』をポケットの中に入れました。『この暦は暫らく僕が借りて置きます。これで犯人をつかまへるのですから、うつかり他人に話してはいけませんよ。…時に兄さん、血痕の検査はどうなつた?』
 俊夫君は試験管の中に白い沈澱を見て言ひました。
『やつぱり人間の血だね。よし、兄さん一寸御嬢さんに来て貰つてくれ。』
 ゆき子嬢が書斎にはひるなり、俊夫君はたづねました。
『大学はいつから始まる筈でしたか?』
『今月の二十一日からです。』
『休み中に先生は学校へ御行きになりましたか?』
『いゝえ、家に閉ぢこもつて居ました』
『昨晩あなたが須磨から御帰りになつたとき、先生の傍へ御行きになりましたか?』
『いゝえ、機嫌の悪いときは却つて怒らせるやうなものですから、寝室の入口に立つて居ました。』
『寝室は薄闇かつたと仰しやいましたね?』
『父は明るい所で寝るのが嫌ひでした。』
『先生の声はいつもと違つて居ませんでしたか?』
『少しかすれて居ましたが、病気のせいでしたでせう。』
『先生は毎日顔をお剃りになりましたか』
『剃るのは嫌ひの方でした。』
『最近には、いつ御剃りでしたでせうか。』
『寝ついた十一日の朝です。その晩、会があつたので、いやいや乍ら剃りました。』
『風呂はいつ御たてになりましたか?』
『私が兄を呼びに出かけた十三日の夕方です。』
『けれど先刻検べたとき濡れて居たではありませんか』
『あれは毎朝、書生の斎藤さんが冷水浴をするのです。』
 俊夫君は暫く考へて、再びたづねました。
『先生の御親戚はありますか』
『叔父が一人あります。父の弟で、今、朝鮮に居る筈です。』
『何をやつて見えるですか?』
『何も定まつた仕事はやつて居ないやうです。自分で朝鮮浪人だと言つて居ます。』
『先生とはちがつてよほど変つた人らしいですね?』
『随分かはり者です。蛇の皮をまいたステツキや、蛇の皮で作つた銭入れや狼の歯で作つた検印などを持つて喜んで居ます。』
 俊夫君の顔は俄かにうれしさうに輝きました。と、その時、警視庁の白井刑事が一人の青年をつれてはひつて来ました。令嬢は青年を見て、『おや、斎藤さん、兄はどうしましたか?』とたづねました。



 書生の斎藤が答へぬ先に白井刑事は言ひました。
『信清さんはまだ御帰し出来ないのです。私はお嬢さんに少し御たづねがあつて来ました。』かういつて小田刑事の姿を見て、『小田君、君は何の用で?』と言ひました。
『俊夫君の案内役さ。』
『や、俊夫君、御苦労様。』と、白井刑事は俊夫君を軽蔑するやうな口調で言ひました。
『お嬢さんの依頼で御邪魔して居ます。時に解剖の結果どうでしたか?』俊夫君は訊ねました。
『死因は絞殺ださうだ』
『そりや始めからわかつて居ますよ。』と俊夫君は笑つて斎藤の方を向いた。
『斎藤さん、先生はゆふべ大へん機嫌が悪かつたさうですね』
『大へん悪かつたですよ。』
『一時頃に信清さんを呼びに行つたのはあなたですか』
『僕です。』
『先生は信清さんと喧嘩されましたか?』
『何だか言ひ合つて居られました。僕は先へ寝ましたからよく知りません。』
『今朝先生の死んで居られることを見つけたのは誰ですか?』
『婆やです。』
『婆やはどうしました?』
 この時令嬢が口を出して、婆やは博士の死に驚いて気分が悪くなり、今奥で寝んで居ると告げました。
 俊夫君は急に私の方を向きました。
『兄さん一寸来てくれ、お使ひに行つて貰ひたいから。』かう言つて、俊夫君は意味ありげに眼くばせして、室を出て行きましたので、私はそのあとから従いて出ました。
 玄関のところへ来ると俊夫君は小声になつて言ひました。
『兄さん、済まないがこれから、電話室の後の物置部屋にはひつてかくれて居てくれ。僕はこれから書斎へ行つて、この暦の話をするんだ。さうすると、きつと誰かゞ電話をかけに来る。そしたら、何番の誰を呼び出して、どんな話をするかきいて、この紙に書いて来てくれ、尤も話はわからぬでもよい。』
 私は紙と鉛筆を受取つて言はれるまゝに、薄暗い物置部屋の隅にしやがんだ。誰が電話をかけに来るかと、耳をすまして待ちかまへました。一分、二分、三分。かういふ時の一分は一時間にも相当します。あたりは森閑として居て、自分の心臓の鼓動さへ聞えました。
 十分ほど過ぎると、電話室の扉の静かにあく音がしました。
『大手の三二五七番。』と、呼び出したのは、正しく書生の斎藤の声です。
『もしもし。通四丁目の蔦屋ですか、青木さんを呼んで下さい。』
 暫らくすると、斎藤は何やら話し出しましたが、符牒のやうな言葉づかひで、何を言つて居るのか更にわかりませんでした。凡そ三分間ばかり話してから、再び扉をこつそり閉めて、あちらの方へ去りました。
 そこで私は物置部屋を出て、今きいたことを紙に書き、書斎にはひつて行きました。と、俊夫君が出て来て、
『兄さん、御苦労様。』といひ乍ら、私から紙片を受取り、一応それを見て更に何やら書きつけ、小田刑事に渡しました。
『Pの叔父さん、すみませんが、これから御使ひに行つて下さい。用事はこゝに書いてあるから。』
 小田刑事は俊夫君の言ふことなら、何でもきいてくれます。
『それじゃ白井君、一寸失礼するよ。』
 かういつて小田さんは出て行きました。さて皆さん、小田さんは何をしに行つたでせうか? 又、蔦屋の青木といふ人は、この事件とどんな関係があるでせうか?(つゞく)



【科学探偵小説 髭の謎(三)】

「子供の科学」第2巻第8号(1925年8月1日)



 小田刑事が出て行つた後で、私たち五人―白井刑事、俊夫君、令嬢、書生、私―は暫らくの間、黙つて、互に顔を見合はせて居りましたが、やがて白井刑事は落つかぬ声で俊夫君にたづねました。
『俊夫君、犯人はわかったか?』
『あら、犯人は信清さんだといふぢやないですか?』と俊夫君は意地悪さうな顔で言ひました。
『それが證拠といふのは、あの手拭だけだからねえ…』
『それぢやもつと外の證拠を集めたらどうです。』
『だから、犯罪の動機をきゝに来た訳さ。』
『すると財産のことですか、遠藤先生が亡くなられゝば、財産は当然信清さんのものでせう。』
『その財産のほしいやうな事情が最近に無かつたかきゝたいのだ。』
『御嬢さんどうですか?』と俊夫君が申しました。
『兄は身体が弱いので何処へも遊びに行かず、月々私は父の命令で百五十円づゝ送つて居りましたが、それさへつかひ切れぬくらゐでした。』
 かう答へてから令嬢は、白井刑事の質問に答へつゝ、兄さんのおとなしい性質を逐一物語つたので、白井刑事もしまひには、
『ふむ、してみると殺害の動機はやつぱり毒瓦斯の秘密かな』と言ひました。
 俊夫君は、白井刑事と令嬢との長い問答にもあまり耳を傾けず、時々懐中時計を出して見ては、何だかそはそはして居ましたが、丁度、小田刑事が去られてから三十分ほどたつたとき、突然、大声で、
『白井さん、早く信清さんをかへらせて下さい。ねえ、斎藤さん、信清さんに罪は無いでせう』と申しました。
『僕は知りません』と、書生は少し面喰つて言ひましたが、白井刑事も俊夫君の声に驚いて、
『何故?』ときゝました。
『何故つて白井さん、先生の殺されなさつたのは昨夜ぢやないですから。』
『え?』と白井刑事は驚きましたが、私たちも意外のことに呆気にとられました。
『先生が殺されなさつてから、少くとも三日は経つて居ます』
『何?』と白井刑事。
『はゝゝ、そんなにびつくりしなくてもよろしいですよ。だから、ゆうべ帰つた信清さんが殺す筈はないでせう。』
『その證拠は?』と、白井刑事は息をはづませて言ひました。すると、俊夫君はますます落ついて、
『あるどころか僕は犯人も知つて居ます』と叫びました。令嬢と書生は一生懸命に俊夫君の顔を見つめました。
『誰?』と白井刑事。
『皆よく聞いて下さい。遠藤先生を殺したのは、髭のない、かすれた声の男で、冬は蝙蝠の皮をつなぎ合して作った襟巻をして居ます。』
『まあ、それなら私の叔父です。叔父は朝鮮に居る筈ですのに!!』と令嬢は叫びました。



 この時そばに居た書生の斎藤は、身を飜して逃げ出しました。
『それツ』と俊夫君が指をさしだしたから、私は躍りかゝつて書生をつかまへると、彼は死物狂ひで抵抗しました。
『白井さん、早く斎藤に手錠をかけて下さい。斎藤は共犯者です。』
 白井刑事は、どぎまぎし乍らも、兎に角、俊夫君の言ふまゝに手錠をかけますと、斎藤は死人のやうに蒼白い顔をして俯向いて居ました。
 と、この時、先刻出て行つた小田刑事がはあはあ言ひ乍らはひつて来ました。
『俊夫君、難なくつかまつたよ』と小田さんは、冬にも拘はらす、額の汗を拭き拭き、うれしさうに言ひました。
『それは有難う』かういつて俊夫君は斎藤のそばに歩み寄りました。『斎藤君御気の毒だが、犯した罪の罰は引き受けねばならぬよ。さあもう何もかも白状しなさい。葛屋の青木さん。いや御嬢さんの叔父さんもつかまつたさうだから。』
 斎藤は目をつぶつたまゝ黙つて居ました。『よろしい』と俊夫君は申しました。『君が白状しないなら僕が代りに君たちの犯罪の顛末を御話しよう。即ち君は遠藤先生の恩を仇で返したんだ。先生の弟即ち朝鮮浪人の手先となつて、御嬢さんが須磨へ出立された十三日の晩に、二人で、病気中の先生を絞殺し、先生の屍体を風呂桶の中へ入れ腐らぬやうに雪を取つて来て桶につめ、お嬢さんと信清さんが帰つて来られた昨晩、死体をベツドの下へ運んで来て置き、ベツドの上には叔父さんが附け髭をして、先生の替玉になり、怒つた真似をして御嬢さんを近づけぬやうにし、それから信清さん一人を呼び出し電灯を暗くし、顔を半分かくして呶鳴りつけて喧嘩し信清さんが寝てから、屍体をベツドの上にあげ、信清さんが落した手拭を拾つたのを幸ひに、それを先生の頸にまいて罪を信清さんになすりつけようとしたんた。
 ね、それに違いないだらう。朝鮮浪人はいつの間にか外国の間諜になつて大事な国家の秘密を奪はうとしたんだ。だが、天は悪人には加担しないよ。折角先生を殺しても、肝腎の毒瓦斯の秘密はとうとう見つからなかつたのぢやないか、御嬢さんの留守中、婆やの耄碌して居るのを幸ひに、君たち二人は書斎をはじめこの家の隅から隅まで血眼になつて捜したんだらう。ところが却つて僕に横取りされてしまつたので君は残念に思つて危険を忘れて張本人へ電話をかけに行つたのだらう、そして今晩あたり、僕を殺して秘密を奪らうぐらゐの相談をしたのだらう、それがそもそも運のつきさ。御蔭で、難なく、重大な売国奴を逮捕することが出来て、大事な秘密は外国の手に渡らずにすみ、大日本帝国万歳だよ。
 白井さん、これであなたにも御土産が出来た訳です。さあ、早く斎藤をつれて行つて信清さんをかへらせて下さい。』
 白井刑事は先刻から、俊夫君のこの意外な説明を、洸惚としてきいて居たが、このとき急に我に返つて、斎藤を促がし乍ら、人々に挨拶をして、いそいで出て行きました。



 あとにはPのおぢさん即ち小田刑事と令嬢と私たち二人の都合四人が書斎に居残りました。令嬢は、悲しさうれしさ取りまぜた涙をそつと拭つて言ひました。
『塚原さん、本当に有難う御座いました。父の死んだのは、悲しいですけれど、兄の嫌疑も晴れ、大切な毒瓦斯の秘密もなくならずに済みましたから、私もすっかり安心しました。これといふのもみんなあなたの御蔭です。それにしても叔父は何といふ非道い人間でせうか。わたし、本当にびつくりしてしまひました、でも、一たいどうして叔父の仕業だといふことがわかりましたか?』
 俊夫君は得意気に言ひました。『この事件を解決してくれたのは、先生の髭ですよ。いゝえ、先生の八の宇髭ではなく、顎から頬へかけての短い髭です。先生の御病気になられたのが十一日だといふのに私は先生の御顔を拝見してその髭ののび方の少ないのに驚いたのです。病気中に髭を剃る人は滅多にないからたとひ十一日の朝御剃りになつたとしても昨晩までにはもつとのびて居なくてはならぬと思つたのです。そこで私は物指を出して髭の長さをはかつて見たら、一、五ミリメートル内外のものばかりで、二ミリメートルを越したものは一本もありませんでした。髭は一日に凡そ〇、五ミリメートルのびるものですから、若し先生が昨晩まで生きて居られたのならば、少くとも二、五ミリメートル以上なくてはなりません。そこで私は先生が殺されなさつたのは昨晩ではないと判断しました。して見ると昨晩先生のベツドに居た人は、先生の替玉でなくてはならぬと思つてベツドを捜すと、附髭の毛が一本見つかりました、替玉だとして見ると、御嬢さんを近づけぬやうに怒鳴り散らしたわけがよくわかり、信清さんは久し振りに御父さんの顔を見られたので、ことに薄暗い室では、御父さんの替玉だといふことがよくわからなかつたのです。
 さて替玉だとして見ると、其男こそ先生を殺した犯人だといふ事がわかり、同時に当然斎藤が共犯者でなくてはならぬと思つたのです。すると、殺害の動機は何であらうか。いふ迄もなく毒瓦斯の秘密を奪ふつもりだらう。然るに犯人たちが昨晩まで居たのは、恐らく秘密を見つけることが出来なかつた為だらう。かう考へて、書斎を捜して見ると、果して秘密が隠してありました。
 次に僕は若し三日前に殺したのだとすると、その間屍体をどこへ隠して置いたのだらうかと考へました。するとこの家の中へはひる前に、勝手口のところの雪が沢山取つてあるのを見たことを思ひ出したのです。雪は恐らく屍体を冷すために取つたのだらう。して見ると、屍体は風呂桶の中に雪詰めにしてあつたにちがひがないと考へて風呂場を委しく検査すると、果して血痕がたつた一つ見つかりました。その血痕は多分先生の鼻から出たものでせう。まだその外にもあつたにちがひないですけれど、恐らく斉藤が冷水浴をやる風をしてあらひ去つたのでせう。
 最後に僕は先生の替玉になる男は何ものであらうかと考へました。先生の替玉になるものはきつと先生に似た男にちがひないと御親戚の有無をたづねたら、御嬢さんは、叔父さんが一人あつて而もその人は偏人で、蛇の皮や、蟇の皮で作つたものを好んで持つて居る人だといはれました。そこで僕は、先生の爪の間にあつた蝙蝠の毛を思ひ出し、その人は冬のことだから蝙蝠の皮をつなぎ合して作つた襟巻をかけて居たのだらう。先生の首をしめたときに先生が抵抗なさつたので。其時蝙蝠の毛が、爪の中に入つたのでせう。果して、私の推定は中りました。…』
 信清さんはその日に無罪放免となりました。俊夫君の推定の如く主犯人は遠藤博士の実弟で、某強国から多額の金を貰つて、毒瓦斯の秘密を奪ふために書生の斉藤を買収して博士を殺したのだと白状したさうです。殺してすぐに逃げなかつたのもやはり秘密を見つけることが出来なかつたのと、も一つは令息に嫌疑をかけて、無事に身を暗ませる心算だつたといふことです。
 かくて俊夫君の御蔭で、大切な毒瓦斯の秘密は奪はれずにすみました。(完)