【大活劇】

(上)

法学校を卒業して間もなく、或る執達吏事務所の書記に雇はれた時の事です、自分は図らずも芝居小屋で、番付にない大活劇を演つて、満場の客をアツと言はせました。それは斯ふいふ次第です。
或日主人の部屋で呼鈴が鳴つたので、何用かと行つて見ますと、主人は裁判所の命令書を出して、
『君、御苦労でも之を持つて、日の出座へ出て居る初音嬢の演奏ね、あの仮差押へをして来て呉れ給へ。嬢は、他の興行師に先約があつて、既に手金迄受取つて居るのだ。然るに嬢の養母といふ奴が、これが中々細くない人物で、無法にも其方を践んで了ひ、不意に孃を日の出座へ出したので、先約の興行師が非常に怒つて、裁判へ持出し、一件落着迄の仮差押へを請求したのだ。可いかね君、この命令は嬢の後見人たる養母に向つて執行し、孃のヴアイヲリン弾奏を差押へるのだよ。それから注意して置くが、嬢は今夜限りで日の出座を打揚げ、終列車で北海道の方へ旅稼ぎに出るといふ話だから、その出立前に是非差押へて了はんと可けないのだ。解つたらうね。」
平たく言つて見ると、嬢の養母は、つまり先約の興行師から金を取りながら、其方の興行へ嬢を出さなかつたので、裁判所はその興行師の訴へを取上げて、其事の埒の明くまで、暫らく嬢の演芸を差止めるといふ命令を出し、執達吏は其命令通り差止めをする、それが即ち仮差押へといふのです。
斯う吩附けられて、自分は一も二もなく、
『ハイ。』と承知をいたしました。是迄未だ一度も自分の手で差押へをやつて見たことはありませんが、何んの、裁判所の命令を、その通りにさへすれば可いのだと、高を括つて直ぐに出掛けますと、主人は後ろから呼止めて、
『君は初音嬢を見たことがあるかね。否嬢は未だ十三四の小娘で、命令執行の対手ではないから何うでも可い、君、その養母を見たことがあるかね。』
『会つたことはありませんが、写真では屡々見て知つて居ます。大丈夫です、対手を取違へるやうなことは致しません。』
何気なく斯うは答へましたが、母子の写真を想ひ出すと、何時も不審で堪らないのは、初音嬢の面容が、自分の未だ郷里に居た頃、好く自分に懐いて居た、お初といふ女の児に酷くも酷く肖て居る事です。自分が郷里を出た年は、可愛らしいお芥子頭の、確か七歳だつたと覚えて居るが、算へて見れば七年前の、今はもう十四になつて、丁度初音嬢と同じ年頃でもあり、お負けにお初と初音嬢、名さへ能く符合して居るのです。素と素と貧しい家の生れであるから、事によると人手に渡つて、見世もの同様の哀れな身になり、諸所方々に耻を晒して居るのかも知れません。斯う考へると初音嬢は、何んだかお初に違ひないやうな気がして、どうか一度その顔を見たいものだと思つて居た、その見る時が今来たのですから、自分は差押への難儀な事なぞ考へる暇もなく、直ぐに俥を飛ばして、日の出座へ駈付けました。それは既に午後の四時頃の事で、開場は六時といふのですから、木戸口には早やチラホラと客が見えて居ります。
先づ母子の泊つて居る座の近所の旅館へ行つて、名刺を出しますと、女中がやがて案内して、誰れも居らぬ玄関側の一室へ通しました。
暫らくすると、廊下に足音がしますから、自分は思はず武者振ひして、いよいよ対手の母親が来たに違ひない、来たらば直ぐに手渡しをしてやらうと、顫ふ手先きを背広の衣嚢に突入れ、命令書を引掴みながら、息を呑んで控へて居ると、襖が開いて、ヌツとばかりに現はれたのは、細かい薩摩絣に白縮緬の兵児帯を規律なく締めて、太い金鎖を是れ見よがしに巻付けた、五分苅頭の、眼光の極めて鋭い、背は低いが尨然と肥つた四十格好の男です。
思ひがけないので、自分は先づ毒気を拔かれて、其儘凝と視て居ると、男は高い膝を突付けるやうに座りながら、手に持つて来た名刺と自分の顔を当分に眺めて、初めから呑んでかかつたやうな語調です。
『高野武一君てえのはお前さん?』
『左うです。』
『私は初音嬢の興行師で石丸孝五郎と、…何うか御懇意に願ひます。』
『左うですか、しかし私は初音嬢の後見人の母親に面会を求めたので、貴方には…。』
『ハヽハヽヽ。』と石丸は妙に笑つて、『その後見人は又私が一切監督して居るのだから、それで私が代つて出たといふ次第ですのさ。』
『貴方では用が弁ぜんです。』と自分は断然言つて退けましたが、石丸は一向平気なもので、
『イヤ、当人よりも私の方が早く弁じる筈ですよ。当人は私に相談の上でないと、何に一つ返答が出来ないことになつて居るのだから。』
成程他の事なら左うかも知れぬが、裁判上の事は当人でないと役に立たない。是れは寧そ仔細を打明けて了つた方が可いと考へましたので、
『実は裁判所の命令で、初音嬢の演奏を差押へに出張したのだから、真ぐに当人の母親を出してもらひませう。』
すると流石の石丸も、一方ならず驚いた容子です。何故かといふに嬢の演奏を差止めるのは、取りも直さず石丸の興行を差止めるやうなものですから、是れには少々泡を喰はざるを得ません。太い眉を顰めて、帶の金鎖をザクザク揺りながら、いとど鋭く眼を光らせましたが、直ぐに復た旧の横柄面に戻つて、
『ハヽア虚喝しつこなしにして貰ひませうぜ。』
『何にが虚喝…此にこの通り命令書が。』と自分はツイ釣込まれて、衣嚢から取出すと、
『どれ、一寸拝見。』
巧い調子に持ちかけて、何気なげに差出した手へ、自分は浮かと命令書を載せて了ひました。すると石丸は一目見て、
『成程、こりやア命令書かも知れない。』といひながら、急いで己が懐へ納ひ込んだのです。

(中)

何んといふ不間な遣り方でせう、是れでも執達吏事務所の書記だと大きな声でいへた義理でせうか。今でも想ひ出す毎に冷汗が出ます。
余りの事に、自分は零時茫然と石丸を視て居ましたが忽ち吾れに返へると、口惜しいやら、面が憎いやらでもう前後の見境もなくなり、好い考よりは血気の勇が先きへ飛出して、石丸を撲り付けやうと逸りましたがイヤイヤ人を撲ぐれば巡査の厄介にならねばならぬ、その中に時が経つて、対手の母子を取逃がしでもすると、それこそ大事の上塗りをするやうなものだ。勿論斯ういふ場合には巡査の保護を頼む道があるのだから、ハイ命令書を奪られました、何うぞ取返へして下さいと、赤坊の使ひ見たやうに、器量を下げて頼まうか、否々自分の面目として、そんな事が出来るものか。これは何んでも堪忍が一番だ、未だ終列車迄には間もあるから、姑らく先方のする通りになつて、機会を待受け、先方が頓智で欺し取つたものなら、此方も頓智で取返へしてやらねばならぬと、斯う決心しました。要らぬ処へ要らぬ力瘤を入れたのも、畢竟年の若かつた證拠でせうよ。
で、故意と噴き出すやうに笑ひ出し、
『石丸さん、貴方は中々洒落な方と見える、斯樣場合にまで、道化を演つて。…しかし、御商売が御商売だから、何うしても善い頓智も出るのだ。』
斯ういつて対手の顔を見ると、誰れも称められて腹の立つ者はありません、殊に先方の太い了簡をぱ、此方から却つて悪意でないやうに取つてやつたのですから、苟も良心のある者なら、自分の所為が耻かしくもなりませう、又自惚の強い者なら、其高慢心に嬉しく感じないことはありません。現に此石丸も、自惚の強い男と見えて、今迄の物凄い喰付きさうな面相は何処へやら、急に大得意の鼻を蠢かして、果てしもなく興業師の自慢話しを始めました。
その中にも時が経つので、自分は気が気ではありません、とうとう時計を取出して、
『アヽもう五時過ぎだ、六時迄には一先づ事務所へ帰らなければならんのだから、もう好加減にして命令書を返へして貰ひませう。』
『マア、好いやね。序に初音嬢のヴアイヲリンを聴いてやつて下さい、そりや実に巧いものだよ。今夜限りで地方へ行つて了ふのだから、もう聴かうといつて、当分聴くことの出来ない芸でさ。幸ひ外にも二人ばかり招待した客があるから。』
彼れが自分を引止めるのは、終列車で母子を迯して了ふ迄、自分を巧く操つて、命令書を返へすまいとの下心に相違ありません。
『ぢや、折角だから左うしやうか知ら。』と自分も遂に尻を落付けたのは、一つは嬢の顔を見たいのと、一つは命令執行の機を掴まうと、その下心のあつた為めです。
『ぢや一寸招待券を持つて来ますから。』
石丸が出て行くと、引違へて入つて来た少女があります。今様の廂髪に結つて、大きなリボンの花簪を挿し、袖の長い絽縮緬総模様の曠着に、濃紫の袴を穿いて居ります。画のやうな可愛らしい顔に薄化粧して、白薔薇の香の中にスラリと立つた、その姿の美しいこと、華族の令嬢といつても是迄でせう。一目見るより、自分は思はず立上つて、
『お初ちやんぢやないか。』
少女は左も驚いたやうに、一足後へ下りましたが、
『ア、貴方は武一さんぢやなくつて。』ともう嬉し涙を流して居ります、
『失張りお初ちやんだつたか、見違へる程大きくも奇麗にもなつたものだ。』
『こんな風して、私、私。』
『マア可い、太夫さんになつて嘸面白からう。』と自分は気を引いて見ました。
『面白い処か、私、泣いてばかり居ますのよ。何んとかすると、養母さんが打つたり撲いたり、それに…』
『郷里へ帰つたら可いぢやないか。』
『帰して呉れるもんですか。』
『今夜北海道へ行くといふ話ぢやないか。』
『それも私厭なんだけども…。』
『好し、それで大抵は解つた、サ、泣くのは止した。石丸が来ると変に思はれるから、…兎に角お初ちやんが真個に其気なら、私が屹度北海道へ行かないやうにして上げる。それから又何うとかして郷里へ帰れるやうにもして上げやうと思ふのだ。』
『真個?』とお初は左も嬉しげに嫣然しました。
『だから、今夜は何にも知らない体で、例ものやうに舞台に出るが可い。』
『ハア。』
『しかし、今此へ何んに来たの?』
『興行師さんが、お相手をして居ろつと言ひますから。』
さては彼奴、自分を警察などへ飛込ませまいと思ひ、この美しい餌鳥を出したものと見えます。
『ハヽハヽヽヽ、左うか、しかし初音嬢が初ちやんと知れたので、私も仕事に励みが付いて来た。』
そこへ石丸が引返へして来て、
『太夫さんは、もう小屋へ行つてお呉れ。』

(下)

自分は花道の上の桟敷に案内されました。同席は石丸と、石丸の客の二人とです。
幕明き迄は未だ二十分もあるので、自分は三階の運動場を散歩しながら、頻りに命令書取返へしの工夫を考へて居りますと、思ひもかけぬ同窓の学友に行逢ひした。
学校を出てから、未だ好い職業に有付かぬと見え、短い袴に見窶らしい単衣、肩を怒らして左も武骨さうに歩いて居ましたが、自分を見るよりヅカヅカと近寄つて、
『オヽ高野君、暫らくだつたね。大分紳士になつたぢやないか。』
『冷評しちや可けない、実は弁護士の試験を受ける準備かたかた、一箇月ばかり前から執達吏事務所の手伝ひをして居るのだが…。』
言ひかけて不図思ひ付いたことがあるので、急に声を潜めて、今日の一伍一什を話し、
『で、君に逢つたのは天の與へだ、どうだ一臂の力を貸して呉れんか。』
『僕で用が足りることなら、到底遊んで居る身体だ、君の自由に使ひ給へ。』
『ぢや君、今僕が土間を取るから、其処で見物して居て呉れ給へ。そして僕が桟敷に居て、左の手を顎へ当てたら、君は一寸手を挙げる真似をするのだ、若し右の手を当てたら、立上るやうな真似をするのだ。』
『それが何ういふ役に立つのかね。』
『何でも可いから、左うして呉れ給へ。相図を見落しちやア可かんぜ。』
『何んだか変槓だなア、しかしマアやつて見やう、ウム大丈夫だ。』
話が極つたので、直ぐに花道側の平土間を買ひ、出方の者に吩附けて、三階の追込みに居た学友をば其処へ案内させ、自分は何にも知らぬ振りして桟敷へ戻ると、石丸は礑り話を止めて、客と一緒に自分を視ては笑つて居ますから、此奴乃公の事を噂して居たのだなと、自分はもう癪に触つて堪りません。けれども此が辛棒処だ、今に見ろといふ了簡で、
『時に石丸さん、先刻の命令書は御持参でせうね。会が跳ねると、直ぐに帰る心算ですから、若し此に彼物がないと、差押へは出来ない、命令書は遺くしたといふ重ね重ねの不始末で、私はもう腹でも切らなけりやならんのですから。』
『ハヽハヽヽ、そんな御心配は無用だよ、ここに整然と。』と蛇が蛙を嚥んだやうに、膨れ返へつた懐中物の上を平手で敲き、左も愉快さうに復た笑つて、
『お大事な品物だ、そりやアもう会が跳ねさへすりやア、早速お返へし申す段ぢやございません。』
石丸が道化れば、客も笑ふ。自分の堪忍袋は幾度となく裂けかかりましたが、吾れと気を落付けて、桟敷の下を視ますと、オヽ自分が唯一の味方と頼む学友は、其赤黒い顔、濃い頬鬚を電燈の光に晒して、大きな眼を豁と見開き、瞬きもせず自分の方を仰いで居ります。
『有がたい。』と自分は心の中に微笑みながら、
『石丸さん、一寸貴方に見て貰ひたいものがある。』と桟敷の下を指して、『彼処に大の男が威張腐つて、一土間を一人で占領して居るものがあるでせう。』
『ハア。』と石丸は窺き込む。客も同じく顔を桟敷の外に差出しました。
『処で、私近頃面白い芸を覚えたです、これが所謂催眠術とでもいふのでせうよ。何んなら退屈凌ぎに、その術を以て、彼の大の男を私の好き自由に動かしてお目にかけませう。』『ハヽハヽヽ、そんな事が出来るかね。』
『出来ますとも、物は試しです、マア見て居て御覧なさい。宜うがすか、私が今左りの手を■{ノ・臣・頁}に当てます、すると彼の男が手を挙げます。ソラ宜うがすか。』
果して男の手が挙つたので、石丸等は驚いて尚ほ熱心に見詰めて居ます。
『今度は右の手を■{ノ・臣・頁}に当てます、すると男は直ぐに立上ります、そこで私が手招ぎをすると、操人形のやうに此桟敷へスルスルと登つて参ります、そして人の物を横取りした罪人を捕へます。宜うがすか、サア右の手を…。』
石丸は慌て自分の手を押へ、
『マア待つて下さい、お前さん私の裏を欠いて、何時の間にか刑事探偵を使つて居るね。』
『ハヽア、能くお解りになりました。』と自分は馬鹿落着きに落着いて見せ、『何程貴方が、初音嬢を逃さうとしたつて、もう座の裏も表も整然と手配がしてあるのです、拙いことをすると、貴方までが…。』
石丸は殆んど色を失つて、
『謀らう謀らうと思つて居る間に、却つて此方が謀られちやつた、忌々しい。』
『この右の手を斯う。』
『これさ、待つて下さいつてば、今返へしますよ、返へさないとは言はないのだ。…サア。』
命令書は思つたよりも易々と、自分の手に返へりました、もう占めたものだ。其時の自分の愉快は、今迄の苦痛の一倍です。
忽ち囃し方賑かに、満場の喝采湧くやうな中に幕は開いて、立現はれた嬢の母子。養母は嬢を看客に引合せる為め、今挨拶を述べて居ります。
この時だと、自分は桟敷を脱ける工夫を案じましたが、石丸も左るもの、大きな身体を戸に寄せて、それとはなしに出口を塞いで居りますから、自分も手の出しやうがなく、暫し躊躇つて居る中に、舞台ではもう挨拶が済みさうになつて来ました。もう仕方がない。
念を入れて舞台を見るやうな素振りをしながら、少し延上つて桟敷の下を見ると、幸ひ真下の高土間には一人の客も居ませんでした。
思ひ切つて立上ると、石丸もそれと察したものか、後ろから臂を伸ばして、自分の襟を掴まうとしましたのを、自分は素早く潜つておいて、其勢で身を躍らせ、高土間指して空を切りました。学生時代に体操で鍛へ上げた身体ですから、出鱈目の催眠術よりか此方が遥か確かなもので、何んの苦もなく飛下りると、直ぐに花道から舞台へかかつて、首尾よくも母親へ命令書の手渡しを遂げました。
場内は総立ちの大騒ぎ。その中を破鐘のやうな大きな声で、
『執達吏だ、裁判所の命令を執行に来たのだ。』
繰返へし繰返へし叫んだのは学友でした。お蔭で看客も別に乱暴を働かず、唯だ舞台も土間も蜂の巣を壊したやうな其中で、自分は初音嬢の側に寄進み、其耳へ口を当て、
『もう北海道へなんか行かないでも可いのだ。』
この差押への為めに母子の者は、其後も同じ旅館に滞在する事となりましたから、自分は初音嬢の郷里の者を呼寄せて、養女取戻しの訴へを起させる丈けの手続を運んでやりました。