【日米戦争夢物語】

日本は決して好戦国ではない、寧ろ世界の平和を望むのであるが、米国が飽までも日本人を排斥し、無礼なる態度を以て戦を挑むならば、止むに止まれぬ日本魂、遂には日米戦争が起るかも知れぬ、何うか其様な事の無いやうにと希望するが、米国では近来大分日米戦争の小説が流行つて居るやうだから、吾輩も一つ書いて見た次第である。

(一)日本軍人と米国女優

『今入つて来た貴婦人があるだらう、ソラ彼処で若い紳士と遭遇して何か話してる、君、彼女を知つてるかい?』
『知らない。』
『さうかねえ、君も存外まだ田舎漢だねえ。』
『何だい? あれは?』
『女優さ。』
『女優? 何だつまらない。』
『オツトさう馬鹿にすべからず。同じ女優でも一から十まであります。就中彼女は米国第一流です。』
『爾うかねえ。』
『オイ君、爾うかねえなんて平気で済まして居ちやア困る。彼女はね、ジヨルジア、デルマーといつて、神聖なる芸術の女神です。』
『芸術の女神か何か知らないが、女優なんて日本ぢやア真面目に相手にする者はない位なんだ。』
『だから日本もまだまだ野蛮だといふのさ。ハヽヽヽ。そりや嘘だがね、女優即売春婦といふ君の議論は、少くとも吾がジヨルジア、デルマーに於ては真理でない。僕は先づ彼女の名誉のために、彼女が真実の処女であることを、君にいつて置かなければならない。』
『そんな事を聞いたつて仕様がない。』
『処があるから妙さ。過日ソラいやがる君をセントラル座に引張り出してオリヴヰヤといふ劇を見たことがあるだらう。其時君は主人公のオリヴヰアに扮した女優に酷く感心したぢやあないか。彼女さ、彼女だよ。』
『フン彼女か。』
『相変らず平然たるものだね。余程日本人の神経は鈍いと見える。先月の万国飛行競争会ね、あの時君が自分の飛行機で首尾能くヴアンダヴヰルト賞金を得たらう、其日さ、彼女が僕に君を紹介してくれと云ふぢやあないか。僕は困つたよ。で、君の頑固なことをさういつて到底駄目だといつたんだが、是非望みを叶へてくれといつて承かない。そこで其内に機会を見て可然取計らふといつて其場は免れたが、吾々米国人の眼から見ると、君は実に羨慕の的だね。』
『オイ君、戯談は止さう。無益い。それよりか最う出やう。』
『最う出やうたつて今来たばかりぢやアないか。』
『仕方がないなア。』
『ハヽヽヽ、愉快々々!』
『君は今晩僕を困らせるために引張り出したんだね。』
『さういふ訳でもないさ。オツト来た! 来た!』
『今晩は…。』と艶めかしい声がしたかと思ふと、ジヨルジア、デルマーが二人の側に、其美しい顔に華やかな笑を湛えて立つて居た。

(二)ヴアンダヴヰルト賞金を得た仁田原大尉

 二人の男性の中一人は、日本大使館附武官の仁田原海軍大尉で、他の一人は紐育の富豪フエアバンクス氏である。そして此二人の今語りつゝある処は、紐育のホテル、ド、パリの大食室である。
 仁田原大尉とフエアバンクス氏と懇意になつたのは、二三年以来のことではないので、其原因にさかのぼつて調べて見ると、這麼因縁が其間にあるのだ。といふのは、仁田原の家が横浜で有名な輸出入商である処へ持つて来て、横浜のフエアバンクス商会の支店が其取引先になつて居る。で、七八年前フエアバンクス氏は、紐育の本店を父のフエアバンクス氏が経営して居た頃、横浜に支店長として三四年滞在したことがある。其当時所謂小フエアバンクス氏は、取引上からも私交上からも仁田原一家とは親密に交際をして居たので、自然其頃漸と候補生か少尉であつた現今の大尉とも懇意であつたので、其後乃父が世を去つて自ら本店を経営するやうになつた処へ、二年ばかり前に大使館附武官として華盛頓に赴任したのが、二人の旧交を温める動機となつたので、まだ其外に大尉が予て熱心に飛行機の発明を企てゝ居るといふことが、同じく飛行狂とまでいはれたフエアバンクス氏と意気が余計密接に一致する原因をなしたので、爾来二人の間は非常に親密を極めるやうになつた。
 大尉が日本を出発する当時は、其発明を完成して居なかつた。併しそれを在米二年の間に公務の余暇を利用して立派に仕上げてしまつたので、彼はそれで万国飛行競争大会に臨み、総ての記録を破つてヴアンダーヴヰルト賞金を得たのである。
 其飛行競争会にはフエアバンクス氏もお天狗で出場したが、首尾よく負けてしまつた。女優ジヨルジア、デルマーも予て空中飛行には、一方ならない興味を有つて居たので、其日も恰度競争の有様を見物に行つた、仁田原の大名誉を慕ふの余り、予て知合の間柄なフエアバンクス氏に紹介されんことを求めて止まなかつたのである。
 で、性来洒落なフエアバンクス氏は、仁田原の真面目な頑固な女性などには唾も引掛けない性質を能く知つて居てゝ、それで今夜デルマーを彼に紹介して、自ら手を拍つて快哉を叫ばうといふのであつた。

(三)重大なる特別任務

 仁田原はフエアバンクス氏のために、其夜遂にデルマーと握手させられてしまつた。
 真面目な彼は女優と握手することに依つて、一時拭ふべからざる汚れを感じたけれども、世の所謂女優の如く、デルマーが卑しい品性を有つて居ないといふことを知つてから、イヤ寧ろ一種高尚なる思想を有つて居ることを知つてから、彼は再び彼女を卑しむの心を起すことはできなかつた。
 デルマーの国籍は米国にあるけれども、彼女は西班牙人の血を受け続いだ父を有つて居るだけに、普通の米国人とは余程異つた點のある女性であつた。そして仏国にサラ、ベルナードあり、英国にエレン、テリーありといはるゝ如く、米国の劇壇にジヨルジア、デルマーありといはれた程で、固より彼女の容貌は女性美の標本であつた。
 米国人は日本人を見ると、ジヤツプとかスケベーとか悪罵を加へるが、仁田原といふ男は、彼等の嘲弄を受けるには、余りに人物が立派過ぎた。といつて決して薄ツペラなハイカラではない。要するに彼は何人にも愛せられ、何人にも尊敬される、真に男らしい男であつた。
 併し彼の大使館附になつたのは、決して大使館の飾物としてゞはなく、一種重大なる特別任務を有つて居るので、それで彼は其任務を遂行する上に於ては、如何なる機会も、如何なる便宜も、些の躊躇もなく捉へなければならなかつた。
 彼は社会の上流にも下層にも交際干係を結んで居る。劇場にも寄席にも出入した。或時には競馬場や其他の賭博場にも顔を出した。が、表面では相変らず気の利かないやうな風をして居た。

(四)一個の包装

 事件の経過を精しく説く暇がないから、仁田原がデルマーと相識つてから、日本へ帰るまでの間のことは極く略して書いて置く。
 デルマーは仁田原に其愛を捧げんと欲して全力を尽したが彼は終に断乎として拒絶してしまつた。
 或大雪の降つた晩、デルマーは華盛頓の仁田原の下宿を訪れて、大事さうに抱えて来た包装を出した。何故か息をはずませて居る。顔色も平常に比べて非常に悪い。
『此包を妾がお暇をした後に開けて見て下さい。』とデルマーはいつて忙げに立上がつた。
『何うしたんだ?』と仁田原は心配さうに訊いて見た。
『だつて妾最うお目に掛れませんもの。其包はホンの妾の心意気よ。』といつて淋しく笑つた。
『紐育の興行は済んだか。』
『済まないからつて仕方ありませんわワ。』
『何うしやうといふのだ。』
『だつて妾斯うして居られないんですもの。日本へでも行かうと思つて―さうさう忘れてしまつたけ。妾お友達が待つてるからお暇してよ。』といひながらデルマーは静かに扉を開けて出て行つた。
 仁田原はデルマーの姿を見送つて居たが、思ひ返したやうに卓子に向き直つて、彼女の残して行つた包装を開いた。と見る見る彼の顔色は熱したやうになつて、眼の底から異様な輝きが閃めいた。

(五)驚くべきの秘密条約

 デルマーの残して行つた包装といふのは何であつたらう?
 それは米国と欧洲の強国△△との間に新に結ばれたる秘密条約の写しであつて、いふまでもなく条約の眼目に於て日米戦争に対する△△の態度を明らかにしたものである。
 此デルマーの置土産は、仁田原に取つて、彼女の有する何よりも彼よりも遥かに有価値なものであつた。仁田原の心臓の鼓動は著しく高まつて来た。そしてデルマーが如何にして重大なること斯の如き秘密文書を手に入れたかといふことに就いて考へて見たが、唯平素彼女が米国の外交官に知己が多いと口癖のやうに仁田原に物語りつゝあつたことを思出したばかりで、直ぐに外出の支度をして、自働車で同じ大使館附武官の桜山大佐を訪れた。
『大層遅くやつて来たが何か急用か。』と大佐は書見しつゝあつた眼を仁田原に注いだ。
『大佐、是を御覧下さい。』
『何ぢや。』と手に取つて見て、暫く黙読して居たが、仁田原の顔を覗き込むやうにして声を潜め、
『重大なものぢや。何うして手に入れたか。』と大佐は熱心に訊く。
『妙な所から舞込んで来ました。』 .
『ウム何処から、誰がお前に手渡しゝたのぢや。』
『大佐、それはジヨルジア、デルマーが、僕への置土産で御座いまする。』
『ジヨルジア、デルマー? それぢやあのお前を追廻はして居た女優か。』
『大佐、御戯談は恐れ入ります。僕は追廻はされたことは御座いません。』
『まアさう気にするなよ。で、何か。デルマーは何処へ行つたか。』
『何処へ行つたか知りません。併し恐らく此国には居ますまい。』
『やアどうも蒙い女ぢや。西班牙が懐しいといつてたさうぢやな。それは兎に角日本に取つて彼女は一種の殉国者ぢや。イヤお前に対する殉愛者ぢや。実は仁田原、お前のことを色色悪様に日本へいひ送る奴があると見え、人事局から度々乃公に取調べを命じて来て居る。秋の奴もお前のことが気にかかると見えてな、盛に乃公に手紙を寄越して居る。併し乃公はお前を信じとつた。お前は矢張り豪かつた。これで乃公は人事局に対し立派に言責を尽したことになつたのだ。秋も安心するぢやらう。』と大佐は溢るゝが如き笑を湛えて仁田原の手を握つた。
 敢ていふまでもなく、秋とは大佐の令嬢秋子で、仁田原のためには最愛の許婚である。
『それにしてもデルマーは気の毒ぢや。』
『併し大佐から其お言葉が出れば、彼女は寧ろ其半生の栄華を拠つたことを喜ぶでせう。』といひ終つて仁田原は撫然とした。
 其翌日の新聞は外務大臣の秘書官が短銃で自殺したことを報じた。別に秘密文書の紛失に干しては何等の記す処がない。固より然るべき筈だが、其他に劇界の明星ジヨルジア、デルマーが、飄然として紐育を去つたといふ大活字の記事があつたこと無論である。
 仁田原はそれから二日の後、大陸を横断して太平洋沿岸に出て、恰度出帆しかけて居た日本郵船の○○丸で帰朝した。

(六)桜山大佐令嬢秋子

 日本の外務当局が、華盛頓の日本大使館から、暗号電報を受取つて急に活躍を始めたことは無論で、外務大臣が仁田原と其宮邸に会してから、更に其活躍の度が敏活を加へたこともいふまでもない。
 仁田原は帰朝以来軍令部に出仕して、或重要の事務にたづさはつて居たが、半年ばかり経つて金髮の一美人が、帝国ホテルの馬車で彼を軍令部に訪れた。彼は不審に思いながら会つて見ると、実に思ひ掛けもないジヨルジア、デルマーであつたので、有繋の豪傑ハツとばかりに当惑してしまつた。
 仁田原とデルマーの会見は、敢て事々しくいふまでもない。其代り此処へ新しい一人を引張り出さなければならぬ。それは平沢といふ同じ海軍大尉で、仁田原から見ると三四年古い兵学校出であるが、余程の敏腕家で、仁田原と一所に華盛頓に駐在して居た。そして一個月前に帰朝して、又同じく軍令部に出仕するやうになつたのである。
 平沢は曩きに櫻山大佐令嬢秋子を獲んとして失望した。そして彼は秋子の愛を父桜山大佐の愛と共に得た仁田原が、又た絶世の美人ジヨルジア、デルマーに愛を捧げられたのを見るに及んで、一種堪ゆべからざる嫉ましさを感じた。
 仁田原を本国の人事局に中傷したのは、実に彼平沢の所為で、秋子の受取つた無名の手紙も、又同じく彼の送つたものと思はれる節がある。
 其処へ持つて来てデルマーが仁田原を訪れて来たのだ。平沢の喜びや知るべきなりで、隠密の間に彼が得意の侫弁と術数を弄んだ結果は、遂に仁田原をして免本職待命被仰付の辞令を受取らしむるに至つた。

(七)風雲稍々急だ

 仁田原が那須野にある乃父の別荘に独り引込んでから一年を経過した。彼は秋子もデルマーも顧みなかつた。そればかりか、彼の生れた日本あることまでも忘れたやうに、朴訥な老僕を相手に、何事か一生懸命に考へ続けて居た。
 で、一方では段々日米の干係が険悪の状態に陥つて来て、日本があらゆる手段と方法とを尽して、米国の感情を融和せんと力むるにも係らず、日本可滅の声は鼎の沸くが如くに、全米人に依つて絶叫されるに至つた。で、米国が其主なる艦隊を東洋に集中した頃には、戦争は如何にしても避くべからざるものとなつて。桑港が防備され、布哇が武装した。米国の第一関門ともいふべきマニラ湾は、本国の強大なる艦隊を浮べて、来れ戦はんと身構へた。
 或解剖学者は日清戦争を東京に居ながら知らなかつたさうだ。仁田原は此超世間的な学者のやうに、尾花の末を照らす秋の月を眺めつゝ、更に何等の感興をも俗世間から呼び起さうともしなかった。
 恰度十一月の末であつた。仁田原は何時になく、晴々とした調子で、老僕に東京へ行つて来るといひ置て別荘を出て行つた。スルト其後へ一人の青年が彼を訪れて来た。
『旦那様ア東京さ行きなさつたが、お前様一体誰だい?』と老僕は迂散臭気に訊いた。
『心配する程の者ぢやアない。僕は仁田原君の友達だ。』とやさしくいつたが、尋ぬる人に会へない失望は、ありありと其逞ましい顔に読めた。
『平常誰か訪ねて来る人があるか。』と稍々あつて青年は老僕に訊く。
『余りありましねえ。併し二三度美しい女の毛唐人と、日本のお嬢様見ていなのが、旦那様に会ひてい言ふて来たが、一度も会ひなさらねえ。』
『さうか。イヤ失敬。仁田原君が帰つたら、血脇が是非会つて話したいことがあつて訪ねて来たが、会へないので非常に残念がつた帰つて行つたと話して下さい。』と斯ういつて血脇といふ青年は別荘を立ち去つた。

(八)豪放磊落な血脇大尉

『やア仁田原ぢやアないか。』
『オヽ血脇か。』
『乃公は貴様に会ひたいと思つて那須野へ行つて、会へないで今横須賀へ帰らうと思つてる処だ。』
『さうか、そいつは失敬した。是から直ぐ横須賀へ帰るか。』
『イヤ横須賀の方は何うでもいゝんだ。実は是非話したいことがあるんだ、貴様那須野へ帰るのを急いどるか。』
『構はん。最う別にさう急いで帰る必要もなくなつたから、乃公に話しがあるなら聞かうぢやアないか。』
『さうか、それぢやア是から水交社へでも行かう。停車場で立話しもできまい。』
『お伴をしやう。』
 仁田原と血脇は相伴ふて新橋停車場を出た。
 此処で血脇といふ男を説明して置かねばならぬ。彼は仁田原と同窓で、横須賀の潜航艇の艇長を行つて居る大尉だ。兵学校在学当時から、仁田原とは莫逆の交を続け来つた間柄である。性格は豪放磊落で最も能く東洋豪傑の型式を備えてるやうに見えるけれども、一面に於ては涙脆い情熱の人で、犠牲の念に富んだ、当世得易からざる模範的軍人である。
 で、彼が仁田原を那須野に訪れたのは、風雲頗る険悪な今日此頃、有為なる仁田原が日本帝国あることを忘れたかの如く、那須野の奧に悠々閑日月を送つて居るといふ心事を、彼に向つて問ひ正さんがためであつたのだ。

(九)米探の風説

『仁田原、貴様は国家を忘れはしまいな。』
『忘れない。何うしてそんな事をいふか。』
『何うしてそんな事をいふかつて、貴様は国家が目前に大なる困難を差控へて居ることを知りながら、何故僅かな不平を根に持つて何時までも拗ねとるか。』と、血脇は荘調の口調でいつた。
『血脇、乃公の是から貴様にいふことは弁解ぢやないぞ、欺かざる告白だから其つもりで聞いてくれ。』と仁田原も厳かに云つた。
『宜しい。其つもりで聞かう。』と血脇は膝を乗出す。
『乃公には何者に対する不平もない。』
『まア聞け。貴様が米国で重要な外交文書を手に入れて帰朝したといふことを聞いて、乃公は有繋に貴様は蒙いと思つた。が、それ程有為の才を抱きながら待命の辞令に接すると、自分から病気と名乗つて遂に休職にまでなつたといふぢやアないか。貴様何か下らない不平があるからだらう。それとも軍人がいやになつたのか。』
『不平もない! 軍人もいやにならん!』
『それぢやア何故引込んで居るか。桜山少将が米国から帰朝されて、貴様が休職になつたのを聞かれたとき、突然、人事局に怒鳴り込まれたことがあるが、貴様そんな事は知るまい。其時例の平沢参謀が、閣下、仁田原はデルマーが東京に来てるので駄目ですといつたさうだ。それに近頃貴様は米探の風評さへされとるぞ。』と、血脇は拳を握つて詰め寄つた。
『それも乃公は知つてる。併しそんな事は愚なことだ、乃公は一笑にだも附しないで居るのだ。が、桜山少将が人事局へ怒鳴り込まれたことは、今迄知らないで居た。それは他日乃公が閣下に自分の不明を詫びるとして、乃公を信ずることの厚かつた貴様までが、世の浮説に耳を傾けるに至つたかと思ふと、正しき行為の価値が何処にあるか疑はざるを得ない。まアそれは兎に角、貴様が乃公のために慮つてくれるのは総てが杞憂なんだから、乃公を信じて安心してくれ。』
『宜しい。それぢやア貴様を信じて安心するが、那須野へ引込んで、秋子さんにさへ会はなかつたのは何の為だ?』
『家を忘れ、親を忘れ、同胞を忘れ、先輩を忘れ、友を忘れ、秋子を忘れ、デルマーを忘れ、そして国家のために国家をすら忘れて居たのだ。』
『何をして居たか。』
『軍用飛行機の発明だ!』
『軍用飛行機の発明? それは大に面白い。して発明の目的は達せられたか。』
『達せられた! 而も理想的に…!!』
『理想的軍用飛行機の発明! そいつは万歳だ! イヤ失敬なことばかりいつて済まなかつた。何卒宥してくれ。』と、血脇は立上つて仁田原の手を堅く握つた。
 折柄桜山少将が令嬢秋子を連れて、何気なく入つて来ると此有様だ。
『やア閣下、仁田原は又豪いことをやらかしました。万歳です。此上は一日も早く戦争を押始めて下さればいゝです。』といひながら、大きな体を搖がして喜ぶ。
『何うしたのぢや。』と桜山少将が訊く。
『何うしたつて、斯うしたつて、理想的軍用飛行機の発明です。秋子さん、お喜びなさい。最う御心配はありませんぜ。さア仁田原、貴様手を貸せ。秋子さん、お手を拝借。』と両個を握手させて、
『万歳! 万歳!』と手を拍つて喜ぶ。

(一〇)仁田原飛行機の戦功

 此事あつて半歳、日米の国交は不幸にも終に断絶した。
 恰度其前日の夜半である。東京の某所に極めて秘密に繋留されたる軍用飛行機は、一切の出発準備を備へて、其筋の命令を待つて居た。敢ていふまでもない、仁田原大尉は部下五十人の兵員を指揮して、此飛行機を操縦する任務を委ねられて居るのだ。
 軈て静かな重々しい靴音がしたと思ふと、海軍大臣を初め其他の将官連が、飛行機の首途を見送るためにやつて来る。勿論中には桜山少将も居たが、誰も彼も堅く仁田原の手を握つて、其成功を祈るのであつた。
『秋子さん、旦那様に告別をなさい。』といつたのは軍令部次長の武神中将である。
 秋子は顔を紅らめて仁田原と握手する。
『御機嫌よう。』といふ秋子の言葉を軽く受けて、
『貴女も御機嫌よう。』と生々した調子である。
『仁田原、秋子の友達が最一人見送りに来てる、何とかいつてやれ。』と桜山少将がいふと、悄然としてデルマーが仁田原に歩み寄つた。
『妾の国籍は米国ですけれども、妾の体に流れてる血潮は西班牙伝来のものです。妾は貴郎が祖国の仇を報じて下さるために出発なさるのを見送ることができまして、何よりも彼よりも嬉しう御座います。何卒御体をお大事に…妾は何時までも何時までも、此美しい世界の楽園で暮す覚悟で御座います。妾には親切な秋子さんがお友達になつて下さるさうですから、少しも淋しくは御座いません。』
 デルマーの此可憐の言葉は並居る人々をして、心から彼女に同情を注がしめた。
 仁田原はデルマーの手を握つて、心で詫びながらも、表面では雄々しくも快活に、
『左様なら。』といつたきり、飛行機の司令塔に、確かな足取て登つて行つた。
 瀝青を流したやうな真暗な闇に、
『前進!』といふ仁田原の声が聞えたと思ふと、魔鳥のやうな飛行機は、恐ろしげなる唸りを生じつゝ、南の方を指して舞上つた。
 * * *
 愈よ戦端は開かれた。其翌日の午後になると、マニラの根拠地を出発して、日本艦隊と会戦するの目的を以て北上の途に就いた米国艦隊の一部は、台湾海峡の南方に於て、暗夜、初め無線電信を以て操縦せらるゝ特殊潜航艇の襲撃を受け、其二艦は忽ち沈没の厄に遇ひ、航行序列に大混乱を来たし、各艦任意に針路を反転して、南方に逃れんとする処を、猛烈なる爆発力を有する投雷のために大損害を受け、殆んど戦闘力を失つてマニラに入つたといふ号外が達したので、日本全国はまるで沸き立つやうな有様!
 * * *
 仁田原は襲撃報告をするために、一時間二百哩の速力で北上し、夜暗を利用して秘密繋留場に降りた。出迎へた多くの将官の間に秋子やデルマーが居たのも一異彩であつたが、あらゆる手段と方法を講じて仁田原を陥れんと企てた平沢参謀は、此処で彼の手を握つて懺悔した。
 * * *
 併し戦争はまだホンの序幕だ。その結果は何うなるだらう、勝利は孰れに帰するだらう、云ふ迄もない! 諸君は帝国の勝利を信じて疑はぬのだらう、記者も亦た疑はぬ。併し油断をすると何んな事になるかも知れぬ、今日の日本外務省や新聞記者の如く、米国では盛んに日米戦争を叫んで居るのに、其様な事は無い無いと打消して居るばかりが能ではあるまい。諸君今から決して油断してはならぬ。


米国にはエーローペーパーと云ふのがある、大々的悪徳新聞で、腰抜けの癖にワイワイ騒いで八釜しくて堪らぬ。日本と米国とが戦争すれば、日本は連戦連敗だなどゝほざいて居る。ハテサテ口は調法なものぢやテ。