【張紅倫】
一
奉天大戦争の数日前の、或夜半のことでした。わが或部隊の大隊長青木少佐は、畑の中に立つてゐる歩哨を見まはつて歩きました。歩哨は命ぜられた地点に石のやうにつッ立つて、きびしい寒さと、眠さをがまんしながら警備についてゐるのでした。
「第三歩哨、異状はないか。」
少佐は小さく声をかけました。
「はッ、異状ありません。」
歩哨の返事があたりの空気に、ひくゝ、こだまをしました。少佐は又、あるき出しました。
頭の上で、小さな星が一つ、かすかにまたゝいてゐます。少佐はその光を仰ぎながら、足音をぬすんで歩きつゞけました。
もうすこしいくと、次の歩哨のかげが見えようと思はれるところで、少佐はどかりと足をふみはづして、凍つた土くれをかぶりながら、がたがたがたどすんと、深い穴の中に落ちこみました。
ふいをくつた少佐は、しばらく穴の底でぼんやりしてゐましたが、あたりのやみに目もなれ、気もおちついてくると、穴のなかの容子がうすうすわかつてきました。それは四メートル以上の深さで、底の方が広がつてゐる、水の涸れた古井戸だつたのです。
少佐は声を出して歩哨を呼ばうとしましたが、まてまて、深い井戸の中のことだから、歩哨のゐるところまで、こゑがとほるかどうか分らない、それにもし、ロシアの斥候に聞きつけられたら、むざむざと殺されるにきまつてゐる、と思ひかへし、そのまま、だまつて腰をおろしました。
あすの、朝になつたら、だれかが探しあてゝ、引きあげてくれるだらうと考へながら、まるい井戸の口でしきられた星空を見つめてゐました。そのうちに、井戸の中が案外暖かなので、うとうとと眠り出しました。
ふと目ざめたときは、もう夜があけてゐました。少佐はうゝんとあくびをしながら、赤くかゞやいた空を見上げたのち、
「ちよッ、どうしたらいゝかな。」と心の中でつぶやきました。
間もなく、朝焼けで赤かつた空は、コバルト色になり、やがてこいゝ水色にかはつていきました。少佐はだれか探し出してくれないものかと、待ちあぐんでゐましたが、だれもこゝに井戸があることにさへ気がつかないらしい気配です。上を見ると、長いのや、みじかいのや、いろいろの形をしたきれぎれの雲が、あとからあとからと白くとほつていくきりです。
とうとうおひる近くになりました。青木少佐は腹もへり、のどがかわいてきました。とてもぢれつたくなつて、大声で、オーイ、オーイといくどもどなつて見ました。しかし、じぶんの声が壁にひゞくだけで、だれも返事をしてくれるものはありません。
少佐は仕方なく、むだだとは知りながら、何度も何度も井戸の口から下つた蔓草のはしに飛びつかうとしました。やがて、
「あゝあ。」と疲れはてゝ、ぺつたりと井戸の底にすわりこんでしまひました。
そのうちにとうとう日がくれて、寒い宵闇がせまつてきました。ゆうべの小さな星が、同じところでさびしく光つてゐます。
「おれはこのまゝ死んでしまふかも知れないぞ。」と少佐はふと、こんなことを考へました。
「じぶんは、いまさら死を恐れはしない。しかし、戦争に加はつてゐながら、こんな古井戸の中でのたれじにをするのは、いかにもいまいましい。死ぬなら敵の玉にあたつて、はなばなしく死にたいなァ。」とかうも思ひました。
間もなく少佐は、疲れと空腹のために眠りにおちいりました。それは眠りと言へば眠りでしたが、ほとんど気絶したも同じやうなものでした。
それからいく時間たつたでせう。少佐の耳に、ふと、人のこゑがきこえてきました。しかし、少佐はまだ半分うとうとして、はつきり目ざめることができませんでした。
「はゝあ、地獄から鬼がむかへに来たのかな。」
少佐はそんなことを、ゆめのやうに考へてゐました。すると耳もとの人ごゑがだんだんはつきりしてきました。
「しつかりなさい。」と、支那語で言ひます。少佐は支那語を少しは知つてゐました。その言葉で、びつくりして目をひらきました。
「気がつきましたか。たすけてあげます。」と、そばに立つてゐた男がかう言つて抱きおこしてくれました。
「ありがとうありがとう。」と少佐は答へようとしましたが、のどがこはばつて、こゑが出ません。
男は、井戸の口からつり下げた縄のはしで少佐の胴たいをしばつておいて、じぶんがさきに、その縄につかまつて上り、それから、縄をたぐつて、少佐を井戸の外へひき上げました。少佐はギラギラした昼の天地が目にはひると一しよに、あゝたすかつたとおもひましたが、そのまゝ又気を失つてしまひました。
二
少佐がかつぎこまれたのは、ほつたて小屋のやうにみすぼらしい、支那人の百姓の家で、張魚凱といふおやぢさんと、張紅倫といふ息子と二人きりの、まづしいくらしでした。
あい色の支那服をきた、一三四の少年の紅倫は、少佐の枕もとにすわつて看護してくれました。紅倫は大きなどんぶりにきれいな水を一ぱいくんでもつて来て、言ひました。
「わたしがあの畑の道を通りかゝると、人のうめきごゑが聞えました。をかしいなと思つて、あたりを探しまはつてゐたら、井戸の底にあなたが倒れてゐたので、走つて帰つて、お父さんに言つたんです。それからお父さんとわたしとで縄をもつていつて、ひきあげたのです。」
紅倫はうれしさうに目をかゞやかしながら、話しました。少佐はどんぶりの水をゴクゴクのんでは、うむうむと一々感謝をこめてうなづきました。
それから紅倫は日本のことをいろいろたづねました。少佐が内地に待つてる、紅倫と同い年くらゐのじぶんの子供のことを話してやると、紅倫はたいへんよろこびました。わたしも日本へ行つてみたい、そしてあなたのお子さんとお友だちになりたいと言ひました。少佐はこんな話をするたびに、日本のことをおもひうかべては、小さな窓から裏の畠の向うを見つめました。外では、とほくで、ドゞンドゞンと砲声がひつきりなしにきこえました。
そのまゝ四五日たつた或夕方のことでした。もう戦もすんだのか、砲声もパツタリやみました。窓から見える空がまつ赤に焼けて、へんにさびしい、ながめでした。いちんち畑で働いてゐた張魚凱が帰つてきました。そして少佐の枕もとにそゝくさとすわりこんで、
「こまつたことになりました。村の奴らが、あなたをロシア兵に売らふと言ひます。今晩みんなであなたをつかまへにくるらしいです。早くこゝをにげて下さい。まだ動くにはご無理でせうが、一刻もぐづぐづしてはゐられません。早くして下さい。早く。」とせきたてます。
少佐はもうどうやら歩けさうなので、これまでの礼をあつくのべ、手早く服装をとゝのへて、紅倫の家を出ました。畠道に出て、ふりかへつて見ると、紅倫が背戸口から顔を出して、さびしさうに少佐の方を見つめてゐました。少佐はまた、ひきかへしていつて、大きな懐中時計をはづして、紅倫の手ににぎらせました。
だんだん暗くなつていく畠の上を、少佐は身をかがめて、奉天を目あてに、野ねずみのやうにかけていきました。
三
戦役がをはつて、少佐も内地へかへりました。その後、少佐は退役して、或都会の或会社につとめました。少佐は、たびたび張親子を思ひ出して、人々にその話をしました。張親子へは何べんも手紙を送りました。けれども、先方ではそれが読めなかつたのか、一度も返事をくれませんでした。
戦争がすんでから、十年もたちました。少佐はその会社の、かなり上役になり、息子さんもりつぱな青年になりました。紅倫もきつと、たくましい、わかものになつたことだらうと、少佐はよく言ひ言ひしました。
或日の午後、会社の事務室へ年わかい支那人がやつて来ました。青い服に、麻のあみぐつをはいて、うでにバスケットをさげてゐました。
「こんにちは。万年筆いかゞ。」と、バスケットをあけて、受附の男の前につき出しました。
「いらんよ。」と受附の男はうるささうにはねつけました。
「墨いかゞ。筆いかゞ。」
「墨も筆もいらん。たくさんあるんだ。」
と、そのとき、奥の方から青木少佐が出てきました。
「おい、万年筆を買つてやらう。」と、少佐は言ひました。
「万年筆やすい。」
あたりで仕事をしてゐた人も、少佐が万年筆を買ふと言ひ出したので、二人のまはりによりたかつてきました。いろんな万年筆を少佐が手にとつて見てゐる間、支那人は、少佐の顔をぢつと見守つてゐました。
「これを一本もらふよ。いくらだい。」
「一円と二十銭。」
少佐は金入れから、銀貨を出してわたしました。支那人は、バスケットの始末をして、ていねいにおじぎをして出ていかうとしました。そのとき、支那人は、ポケットから懐中時計をつまみ出して、時間を見ました。少佐はふとそれに目をとめて、
「あ、ちよつと待ちたまへ。その時計を見せてくれないか。」
「とけい?」
支那人はなぜそんなことをいふのか、腑におちない容子で、おづおづさし出しました。少佐が手にとつてみますと、それはたしかに、十年前、じぶんが張紅倫にやつた時計です。
「君、張紅倫といふんぢやないかい。」
「えッ?」と、支那人の若ものはびつくりしたやうに言ひましたが、すぐ、
「わたし、張紅倫、ない。」と首をふりました。
「いや、君が紅倫君だらう。わたしが古井戸の中におちたのを、すくつてくれたことをおぼえてゐるだらう? 私は別れるときこの時計を君にやつたんだ。」
「わたし、紅倫ない。あなたのやうなえらい人、穴におちることない。」と言つて、きゝません。
「ぢやァこの時計はどうして手に入れたんだ。」
「買つた。」
「買つた? 買つたのか。さうか。それにしてもよく似た時計があるもんだな。ともかく君は紅倫にそつくりだよ。へんだね。いや、失礼。よびとめちやつて。」
「さよなら。」
支那人はもう一ぺん、ぺこんとおじぎをして出ていきました。
その翌日、会社へ、少佐にあてゝ無名の手紙が来ました。あけて見ますと、読みにくい支那語で、
「わたくしは紅倫です。あの古井戸からお救ひしてから、もう十年もすぎました今日、あなたにおあひするなんて、ゆめのやうな気がしました。よく、わたくしをお忘れにならないでゐて下さいました。わたくしの父は昨年死にました。わたくしはあなたとお話がしたい。けれど、お話ししたら、支那人の私に、あなたが古井戸の中から救はれたことが分るとあなたのお名まへにかゝはるでせう。だから、私はあなたにうそをつきました。私は明日は支那へかへることにしてゐたところです。さよなら、おだいじに。さよなら。」と、だいたい、さういふ意味のことがかいてありました。
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