【童話に於ける物語性の喪失】
放送局がラヂオ小説を募集するとき次のやうな条件をつける。一、三十分で完結するもの。一、登場人物は×名位が好都合である。一、明朗健全にして、国民性をよく発揚してゐるものたること。そしてこれは辞つてはないが、芸術的にすぐれた作品でなければならぬことは勿論である。これらの諸条件を聞かされると、人は、それに一々適つた作品を書くことはいかにむつかしいかを思ふのである。昔からよい作品は霊感によつて生まれるといはれてゐる。霊感は、又「閃く」といふ述語をいつも従へてゐる。して見るとそれは稲妻のやうなもの、我々の侭にならぬものなのである。かゝる性格の霊感にこれらの条件を押しつけるのは、稲妻に向つて、「火の見櫓を伝つて下りて来て、豆腐屋の角を右に折れて、学校道に出て、崖の下に牛がゐたら、崖上の細道を通つて、そして私の家まで来なさい」と註文するのと同じやうに大層無理な話である。だから霊感は逃亡してしまふ。そしてその結果は悪い作品だ。これは当然のことだと人々は思ふ。
ところで、このやうな条件つきで原稿を書かねばならぬのはラヂオ小説懸賞応募者ばかりであらうか。さうではない。現代ではすべての文筆家が多かれ少かれ何等かの条件乃至は制限を加へられて書くことを要求されるのである。或る作家はかういふ註文をうける。「来週の金曜日までに、二十枚の短篇を書いて下さい」又或る評論家は次のやうな註文に応じねばならない。「七枚の評論、明日の国民文学のありやうについて」私は作家でも評論家でもないので、そのやうな註文を受けたことはないが、これが事実であることは、人がよく新聞雑誌で見受ける、「私に課せられた題目は×××であるが、このやうな問題は与へられた紙数で論じつくせるものではない云々」といつた書き出しの文を読むとき、納得しないわけにはいかない。
ジヤアナリズムのかゝるやり方が害毒を流してしまつた。何故なら註文を受けた作家達は七枚、或ひは二十枚、或ひは百五十枚と、恰度洋服屋が客の註文に応ずるやうに、ジヤアナリズムの註文通りの寸法に書かねばならない。しかもこの場合、作家は洋服屋より一層困難である。洋服屋には何呎でも服地はある。だから大きい寸法には大きい服地をもつて臨むばかりだ。しかし作家にはいつでも、いかなる寸法の註文にでも応じられる大小様々の素材のストツクがあるわけではあるまい。或る場合には、三枚の素材を七枚の作品に仕あげ、或る場合には五枚の素材を二十枚にひきのばす。零の素材から数枚の作品が生ずるといふ、物理的に不可能なこともこゝでは屡々あり得る。何にしても作家達の関心事は洋服屋の関心事と同じである。先づ寸法にあつたものを造ることなのだ。
ここから文学が貴重なものを失つた事実は、容易に首肯される。文章をひきのばす努力のため、簡潔と明快と生気がまづ失はれ、文章は冗漫になり、或ひはくどくなり、或ひは難解にして無意味な言葉の羅列になつた。同時に内容の方では興味が失はれ、ダルになり煩瑣になつてしまつた。これらをひつくるめて物語性の喪失と私はいひたい。
大人の文学が物語性を失つた時、文学家族の一員である児童文学も、見やう見まねで堕落したのである。今日の童話を読んで見るとその物語性の殆んど存してゐないことに人は気付くだらう。自分の子供や生徒に、お話をきかせてやるため、あなた方がストオリイを探さうとして、百篇の今日の童話を読まれても、あなた方はたゞ失望の吐息をつかれるばかりであらう。かう私がいへば、或る童話作家達は次のやうに私に反駁するかも知れない。「君は実演童話と創作童話を混同してゐるのではないか。ストオリイの面白味なら実演童話に求めたまへ。われわれの創作童話にそれを求めて来るのはお門違ひである。」実際この通りのことを言つてゐた児童文芸家があつた。併し私には、そもそも実演童話と創作童話が全然別種なものでなければならぬ理由が肯けないのである。何故口で語られる童話と紙に印刷される童話が全然別種なものとされねばならぬのか。私には紙の童話も口の童話も同じジヤンルだと思はれる。紙で読んで面白くない童話は口から聞かされても面白くない。口から聞かされてつまらない童話は紙で読んでもつまらなくない筈がない。このことは童話ばかりでなく、大人の小説についてもいへると思ふ。小説が口から離れて紙に移つたところから小説の堕落ははじまるのである。それが嘘だといふなら、例へば西鶴やトルストイや宇野浩二などのすぐれた小説を読んで見るとよろしい。そこにあなた方は作家の手からでなく、作家の口から出て来る息吹きのこもつた言葉をきくであらう。
童話はもと―それが文学などといふ立派な名前で呼ばれなかつた時分―話であつた、物語りであつた。文学になつてからも物語りであることをやめなかつた(アンデルゼンやソログーブのことを憶ひ出して下さい)。文芸童話の時代になつても童話は物語りであることをやめてはならなかつたのである。ちやうど、人間が様々な時代に様々の帽子をかむつて来たのにかゝはらず頭そのものは変らなかつたやうに。このことは、童話の読者が誰であるかを考へて見ればすぐ解る。相手は子供であつて文学青年ではない。そこで今日の童話は、物語性を取り戻す事に努力を払はねばならない。大人の文学が物語性を持たないからとて、どうしてそれを真似る必要があらう。そして、はじめに述べたジヤアナリズムの悪い習慣にも拘はらず、童話は本来の物語性を取り戻しうると私は信じる。
ここで憶ひ出して頂きたい、フランクリンが友人数名とクラブを作り各自が書いて来た原稿(童話ではなかつたが)を作者が読み他の者が聞き、批判しあつたことを。又デイケンズが彼の長い小説の一章づつを友人達に聞いて貰つたことを。「詩と真実」によればゲーテもまた作品を読み聞かせる習慣を尊んだやうである。これらのすぐれた文士達は、かうして、文体の簡潔、明快、生新さ、内容の面白さを失はぬやうに努めた。これは昔風な馬鹿正直なやり方のやうに見える。しかし、今日、童話が物語性を再び身につけるには、少しでも話の内容なり文章なりが退屈になればすぐ聴手がごそごそしはじめるので全然作家のひとりよがりを許さない、この厳しい方法が最もよいと思ふ。
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