【川〈B〉・校定全集】
一
四人が川の縁まで来たとき、今まで黙つてついて来るやうなふうだつた薬屋の子の音次郎君が、ポケットから大きな柿を一つ取出してかういつた。
「川の中にいちばん長くはいつてゐた者に、これやるよ。」
それを聞いた三人はべつだん驚かなかつた。黙りんぼの薬屋の音次郎君は、奇妙な少年で、ときどき口をきるとその時皆で話しあつてゐることとはまるで別の、変てこなことをいふのが癖だつたからである。三人は、何よりもその賞品に注意を向けた。
つややかな皮をうすく剥くと、すぐ水分の多い黍色の果肉があらはれて来さうな形のよい柿である。皆はそれを百匁柿といつてゐる。この辺でとれる柿のうちではいちばん大きいうまい種類である。音次郎の家の広い屋敷には、柿や蜜柑やざくろなど、子供のほしがる果物の木がたくさんある。音次郎君が奇妙な少年であるにもかかはらず、友達が音次郎君のところへ遊びにゆくのは果物がもらへるからだ。
ところで賞品の方はまづ申し分なしとして、川の方はどうであらう。秋も末に近いことだから、水は流れてはゐない。けれどこの川は幅がせまいかはりに、赭土の川床が深くゑぐられてゐて、冷たい色に澄んだ水がかなり深くたたへられてゐる。夏、水浴びによく来たから、だいたい深さのけんたうはつくのである。へその辺まで来るだらう。
三人はちよつと顔を見合はせて、どうしようと目で相談したが、すぐ、やつたろかと、やはり目で話をまとめた。するともう森医院の徳一君が、ズボンのバンドをゆるめはじめた。何かしがひのあるいたづらをするときのやうに、顔が輝いてゐる。ほらふきの兵太郎君は着物だつたので、まづ鞄をはづして尻まくりし、パンツを脱いだ。久助君もおくれてはならぬと、ズボンを脱いで緑と黄のまじつた草の上に棄てた。
脱いでしまふと、へんに下が軽くなつた。風が素足にひえびえと感じられる。
徳一君をせんとうに、川縁の草にすがりながら川の中へすべり下りた。一足入れると、もう膝つこぶしの上まで水が来るのである。
「つめたいなア。」
足から身内にあがつて来る冷気が、自然に三人に言はせるのであつた。
柿がほしいだけではなかつた。今じぶんお尻をまくつて、水にはいることが面白いのだつた。そこで三人は、上で見てゐる音次郎君にいはれるまでもなく、真中あたりまではいつて行つた。案の通りだつた。水はひたひたとはひあがつて来て、久助君のおへその一センチばかり下でとまつた。
三人は向きあつて立つて、自分のへそをあらためて眺めたり、人のへそを観察したり、自分達のざまのをかしさにくすくす笑つたりした。しかしものを言ふと、歯がカチカチ鳴つて妙に力が背中にあつまるやうな気がした。動くと冷たさが一層ひどく感じられた。
しばらく皆黙つてゐた。どこかで日暮の牛がさびしげに鳴いた。それをしほに、徳一君が厳粛な表情になつて、そろりそろりと岸の方へ動き出した。まだ濡れてゐないところをなるべく濡らさぬやうに、ゆつくりゆくのである。久助君と兵太郎君は顔を見合はせたが、もう笑はなかつた。
久助君は二人きりになると、この遊戯はひどくばかげてゐると感じられたので、まだがまんすればできたのだが、勝を兵太郎君に譲ることにした。徳一君がしたやうに、そろりそろり岸の方へ歩みよつて、草にすがつて上にあがつた。
草を踏んで立つと、冷えのために足の裏がしびれてゐるのが、よく分る。すぐ手拭で足から腰を拭いて、パンツとズボンをはいた。体がふるへてゐるから、ズボンをはくときよろけていつて、やはりズボンをはいてゐる徳一君にぶつかつた。
まだ兵太郎君は川の中にはいつてゐる。もう勝は彼にきまつたのだから、何もやせがまんしてゐるわけはないのだが、得意なところを人に見せたいのだらう。かういふ点が、ほらふきの兵太郎君のばかなところである、と久助君は思つて見てゐた。兵太郎君は平気をよそほつて、南の方を向いて立つてゐた。
負けた二人はからかひたくなつて、上から、
「がんばれツ、がんばれツ、兵タン。」
と声援した。音次郎君もどういふつもりかそれに声を合はせた。
「柿、喰べてしまほかよ。」
と徳一君が、いたづらつぽい眼を光らせながらささやいたとき、久助君は、そいつは兵太郎君がかはいさうだといふ気持ちと、そいつは面白いといふ気持がいつしよに動いた。兵太郎君を怒らせるのはとても面白いといふことを、これまでの経験で皆よく知つてゐるのである。
川の中の兵太郎君がききつけて、
「こすいぞツ。」
と叫んだ。
そらもう始まつた。はやくしろ、はやくしろ。
徳一君がすばやく音次郎君の手から柿を奪ひとつて、一口かぶりついた。案のじやう、黍色の美しい果肉があらはれた。それを徳一君から受けとると久助君は、徳一君のかじつた反対側の方を大きくかじつた。そしてあとを元の音次郎君に渡した。すると音次郎君も一口かじつたので、彼もまた、このいたづらに参加してゐることが分つた。
兵太郎君は、いまさらわめいても追つつかぬことを見てとつた。彼は先の二人のやうにゆつくり岸に近づいた。それから縁の草につかまつた。けれど、つかまつたままじつとしてゐる。何か思案してゐる様子である。
こちらの三人は顔を見合はせた。三人の顔から、茶目気がしばらくためらつて、そしてぬけていつた。しいんとなつた。
あをざめた顔を兵太郎君が、しかめた。そして腹がいたいときのやうに、腰を折つた。「どうした、兵タン。」
と徳一君がおどおどしてきいた。
「あがつて来いよ。」
と久助君もいつしよにいつた。
それでも兵太郎君は、片手で草につかまつたまま、動かうとはしなかつた。頬げたの下の、ひとところチョークでもなすりつけたやうに白いのが、久助君の眼にいたいたしく映つた。これはたいへんだと思つた。
三人は寄つていつて、兵太郎君の冷たい手を握つて上にひつぱりあげると、兵太郎君は死にかかりの人のやうに力なく、三人のなすがまゝになつた。あがつて来ても彼は、ベソをかいた顔付で、ぼけんとつつ立つてゐるので、三人は始末をしてやらねばならなかつた。徳一君と久助君は、めいめいの手拭を提供して、兵太郎君の片脚づつを拭いた。音次郎君は、草の上からパンツを拾つて来た。兵太郎君は何から何までみんな人にさせた。帽子までかむせてもらつた。
ところで兵太郎君はすつかり身じたくができたのに、歩き出さうとしなかつた。ときどき痛みがおそふかのやうに、顔をしかめて、腹のところから体を折つた。
あとの三人は困つたなア、といふやうに顔を見合はせた。しかし、ほんとうに兵太郎君の体に故障ができたかどうか、三人は半信半疑だつた。
といふのは、兵太郎君はいぜんから、死んだふりや、腹の痛むまねがひじやうにうまかつたからである。フットボールが飛んで来て、兵太郎君の頭にあたりでもすると、彼はふらふらとよろめいて、地べたの上に所きらはずばつたり倒れ、あたりどころが悪くて、自分はおだぶつしてしまつたのだ、といふ様子をして見せるのであつた。そのまねは真に迫つてゐた。久助君はまだ、人間がフットボールにあたつて死ぬところを見たことはないが、もしさういふことがあるならば、きつと兵太郎君がするとほりの所作をして死ぬだらうと思つてゐた。たびたび兵太郎君のまねにだまされた者でも、いつたん兵太郎君が死んだまねをして倒れると、こんどこそほんとうに死んでしまつたのではないかと思ふのだつた。そして皆がそろそろ心配しかける頃を見はからつて、死んでゐた兵太郎君は、ひやつといふやうな叫声をあげて、生きかへつて来るのが常だつたのである。
だから今日もあのてではないか、と三人は思つた。賞品の柿をせしめられた腹癒せに今日の芝居はいつもより、手がこんでゐて、長いのではあるまいか。
しかし、じっさい顔の色がいつもよりあをい。それにフットボールがあたつたくらゐのこととは違つて、かなり長く下腹部をひやしたのである。病気になる可能性はほんとうにあるのである。
それなら、こりや自分達も同じやうに腹をひやしたのだから、同じやうなことになるのではないかと、久助君は、こんどは自分の腹が心配になりだした。さう思ふと、何だかへその下の方がしくしくするみたいである。
「よし、負ぶされツ。」
と徳一君は、しやがんで背中を兵太郎君の方に向けた。兵太郎君は力なく負ぶさつた。
音次郎君が徳一君のランドセルを持ち、久助君は兵太郎君の足からぬげて落ちた汚い下駄を持つた。どさくさまぎれで地に落ちて砂にまみれた喰ひかけの百匁柿を久助君はポーンと川の中へ蹴とばした。そして三人は出発した。
二
次の朝久助君は、山羊に餌をやるため、小屋のまへへいつて、濡れた草を手でつかんだとき、昨日の川の出来事をおもひだした。と同時に、兵太郎君はどうなつたらうといふ心配が、重く心にのしかかつて来た。
間もなくまた忘れてしまつた。だが心配の重さだけは忘れてゐる間も心に残つてゐて、何となく不愉快であつた。
七時半になるといつものやうに家を出た。学校の裏手へ向つて一直線に走つてゐる細い道に出たとき、五十米ほど前を、薬屋の音次郎君が何かつまらないことでも考へてゐるやうに、拍手をしては右手を外の方へうつちやりながら歩いていくのを見た。久助君は二人で心配を分ちあひ、一人で苦しんでゐることからまぬがれようと思つて、走つていつた。けれど音次郎君は、昨日のことなどまるで気にもかけてゐない様子であつた。自分は取越苦労をしてゐたのかと久助君は思つて、ほつとした。何でもなかつたんだ。
音次郎君は久助君といつしよになつても、あひかはらず拍手をつづけながら、自分ひとりのつまらない考へを追つて歩いてゐた。まもなくうしろからゴツゴツとランドセルの音をさせて、誰か走つて来た。森医院の徳一君である。このあひだ新調したばかりの帽子のひさしを光らせながら、「おはやう。」と元気よく近づいて来た。そしてかうきいた。
「今日、算術の宿題なかつたかね。」
徳一君もやはり昨日のことなんか気にしてゐないのである。じじつ何でもないのだらう。この世にはさう簡単に、出来事は起らないのだ。
三人は教室にはいつた。ほかの者はもうたいてい来てゐる。教室の中にも十人ほどゐる。その中には兵太郎君がゐないことを久助君はひとめでたしかめた。
兵太郎君の席は徳一君のすぐ隣にあつた。用具がそこにはいつてゐるかと思つてそちらを見たとき、久助君は徳一君もやはりさういふ眼付で見てゐるのを発見した。のみならず音次郎君もやはり兵太郎君の席を見てゐた。
みんな、心の奥で同じ心配を持つてゐるのだ、と久助君は分つた。
徳一君が、ちよつと兵太郎君の机のふたをあけた。久助君は心臓がどきつくのを覚えた。中には何もはいつてゐなかつた。
その日から兵太郎君は、学校へ来なくなつてしまつたのである。
五日、七日、十日と日はたつていつたが、兵太郎君は学校へ姿を見せなかつた。しかし誰一人、兵太郎君のことを口にする者がない。久助君はそれが不思議だつた。五年間もともに生活した者が、ふいにぬけていつても、あとの者達は何事もなかつたやうに平気でゐるのである。だがこれがあたりまへのやうにも思はれた。
久助君は、徳一君と音次郎君だけは自分と同じやうに、消えてしまつた兵太郎君のことで心を痛めてゐることは分つてゐた。それだのに、この三人は一言も兵太郎君について言はないのであつた。そればかりでなく妙にお互ひの眼を恐れて、お互ひに避けあふやうになつた。
さまざまに久助君は思ひまどつた。たとへば、先生にいつさいのことをうちあけてあやまつてしまつたらどうだらう。心が軽くなるのではあるまいか。しかし、あの川のことがもとでじつさい兵太郎君は病気になつたのなら、兵太郎君がそれを黙つてゐるはずはない。お父さんかお母さんに話したに相違あるまい。さうすれば、お父さん或ひはお母さんの口から、先生のところへ情報はとどいてゐるはずである。ひよつとすると先生はもう何もかもごぞんぢなのかも知れない。それをわざと知らんふりしてをられるのは、久助君達が自首して出るのを待つてをられるのではあるまいか。そんなふうに思つて、しらずしらず首をすくめながら、先生の顔をうかがふこともあつた。
ある時は自首したい衝動にひどくかられた。それはちやうど国史の時間であつたが、いつも面白くきける国史の話が、心の中の煩悶のために、ちぎれちぎれになつて、ちつとも面白くないので、こんなに情ないめにあふのも、自分が秘密をもつてゐるからだ、言つてしまひさへすれば心は解放されるのだ、と思ふと、突如立ちあがつて「先生、僕達三人で兵太郎君をだまして病気にしたのです!」と叫びたくなつた。しかし平常とすこしも変らないあたりの空気が、なぜかその衝動をおさへさせた。真昼間、心もたしかなのに、久助君は、自分のすぐ傍からもう一人の久助君がすつくと立ちあがつて「先生!」といひはじめる幻影を三度も四度もはつきり見たのだつた。耳がじいんとなつて、両手に汗を握つてゐた。
二箇月、三箇月とすぎた。まだ兵太郎君は学校へ姿を見せない。そのあひだ久助君は兵太郎君についてほとんど何もきかなかつた。たゞ一度かういふことがあつた。ある朝久助君が教室にはいつて来ると、ちやうど行違ひに、二人の級友が机を一つ廊下へ提げ出して行つた。「誰のだい。」と何気なくきくと、一人が「兵タンのだよ。」と答へた。それだけであつた。それからかういふことがもう一度あつた。薬屋の音次郎君が、或る午後裏門の外で久助君を待つてゐて、今から兵タンのところへ薬を持つていくからいつしよに行かうとさそつた。久助君はびつくりしたが同意して出かけた。薬はアスピリンといふよく熱をとる薬ださうである。兵太郎君は風邪をひいたのがもとだから、このアスピリンで熱をとればすぐ癒つてしまふと、音次郎君は医者のやうに自信をもつていつた。ほんとにさうだ、と知らないくせに久助君も思つた。それにしても、それほどよくきく薬ならなぜもつと早く持つていつてやらなかつたのだらう。やがていつもは通らない村はづれの常念寺のまへに来た。常念寺の土塀の西南の隅に小さな家が土塀に寄りかかるやうに(じじつ、少し傾いてゐる。)たつてゐる。それが兵太郎君の家である。二人は土塀に沿つて歩いていつた。兵太郎君の家のまへに来た。入口があいてゐて中は暗い。人がゐるのかゐないのかコトリとも音がしない。陽のあたる閾の上で猫が前肢をなめてゐるばかりだ。二人の足はとまらなかつた。むしろ足は速くなつた。そして通りすぎてしまひ、それきりだつたのである。
久助君はほかの友達と笑つたり話したりするのがきらひになつた。そして、ひとりでぼんやりしてゐることが多かつた。それからひどく忘れつぽくなつた。何かしかけて忘れてしまふやうなことが多かつた。いま手に持つてゐた本が、ふと気づくともう手になかつた。どこにおいたか、いくら頭をしぼつてもおもひだせないといふふうであつた。お使ひに行つて、買ふものを忘れてしまひ、あてずつぽうに買つて帰つて、まるでラジオできく落語みたいだと笑はれたこともあつた。
もとから久助君は、どうかすると見なれた風景や人々の姿が、ひどく殺風景にあぢきなく見え、さういふもののなかにあつて、自分の魂が、ちやうど茨のなかにつつこんだ手のやうに傷められるのを感じることがあつたが、この頃はいつそうそれが多く、いつそうひどくなつた。こんなつまらない、いやなところに、なぜ人間はうまれて、生きなければならなぬのかと思つて、ぼんやり庭の外の道をながめてゐることがあつた。また、冷たい水にわづか五分ばかりはいつてゐただけで、病気にかかり死なねばならぬ(久助君には兵太郎君が死ぬとしか思へなかつた。)人間といふものが、一層みじめな、つまらないものに思へるのであつた。
三学期の終り頃、つひに兵太郎君が死んだといふことを久助君は耳にした。弁当のあと久助君は教壇のわきでひなたぼつこをしてゐた。すると、向かふのすみで話し合つてゐた一団の中から、
「兵タンが死んだげなぞ。」
と一人がいつた。
「ほうけ。」
と他の者がいつた。べつだん驚くふうも見えなかつた。久助君も驚かなかつた。久助君の心は、驚くには、くたびれすぎてゐたのだ。
「裏の藁小屋で死んだまねをしとつたら、ほんとに死んぢやつたげな。」
とはじめの一人がいふと、他の者達は明かるく笑つて、兵太郎君の死んだまねや腹痛のまねのうまかつたことを一しきり話し合つた。
久助君はもうきいてゐなかつた。ああ、とうとうさうなつてしまつたのかと思つた。そつと片手を床の上の陽なたに這はせて見ると、自分の手はかさかさして、くたびれてゐて、悲しげに、みにくく見えた。
三
日暮だつた。
久助君の体のなかに漠然とした悲しみがただよつてゐた。
昼の名残の光と、夜のさきぶれの闇とが、地上でうまく溶けあはないやうな、妙にちぐはぐな感じの一ときであつた。
久助君の魂は、長い悲しみの連鎖の続きをくたびれはてながら、旅人のやうにたどつてゐた。
六月の日暮の、微妙な、そして豊富な物音が、戸外に充ちてゐた。それでゐて静かだつた。
久助君は眼を開いて、柱にもたれてゐた。何かよいことがあるやうな気がした。いやいやまだ悲しみはつづくのだといふ気もした。
すると遠いざわめきのなかに、一こゑ仔山羊の啼声がまじつたのをききとめた。久助君はしまつたと思つた。生まれてからまだ二十日ばかりの仔山羊を、ひるま川上へつれていつて、昆虫を追つかけてゐるうちつい忘れて来てしまつたのだ。しまつた。それと同時に、仔山羊はひとりで帰つて来たのだと確信をもつて思つた。
久助君は山羊小屋の横へ駈出していつた。川上の方を見た。
仔山羊は向かふからやつて来る。
久助君にはほかのものは何も眼に入らなかつた。仔山羊の白い可憐な姿だけが、―仔山羊と自分の地点をつなぐ距離だけが見えた。
仔山羊は立止つては川縁の草を少し喰み、又走つては立止り、無心に遊びながらやつて来る。
久助君は迎へに行かうとは思はなかつた。もうたしかにここまで来るのだ。
仔山羊は電車道も越えて来たのだ。電車にも轢かれずに。あの土手の壊れたところもうまく渡つたのだ。よく川に落ちもせずに。
久助君は胸が熱くなり、なみだが眼にあふれ、ぽとぽとと落ちた。
仔山羊はひとりで帰つて来たのだ。
久助君の胸に、今年になつてから始めての春がやつて来たやうな気がした。
四
久助君はもう、兵太郎君が死んではゐない、きつと帰つて来る、といふ確信を持つてゐたので、あまり驚かなかつた。
教室にはいると、そこに―いつも兵太郎君のゐたところに、洋服に着かへた兵太郎君が白くなつた顔でにこにこしながら腰かけてゐた。
久助君は自分の席へついてランドセルをおろすと、眼を大きく開いたまま、兵太郎君を見てつつ立つてゐた。さうすると自然に顔がくづれて、兵太郎君といつしよに笑ひ出した。
兵太郎君は海峡の向かふの親戚の家にもらはれていつたのだが、どうしてもそこがいやで帰つて来たのださうである。それだけ久助君は人からきいた。川のことがもとで病気をしたのかしなかつたのかは分らなかつた。だがもうそんなことはどうでもよかつた。兵太郎君は帰つて来たのだ。
休憩時間に兵太郎君が運動場へはだしでとび出して行くのを窓から見たとき、久助君は、しみじみこの世はなつかしいと思つた。そしてめつたなことでは死なない人間の生命といふものが、ほんとうに尊く、美しく思はれた。
そこへもうひとつおもひだすことがあつた。それは、去年の夏、兵太郎君と川あそびにいつて、川からあがつたばかりのぴかぴか光るお互ひの裸ん坊を、生ひしげつた夏草の上でぶつけあひ、くるひあつて、互ひに際限もなく笑ひころげたことだつた。
【川〈B〉・新児童文化】
一
四人が川の縁まで来たとき、今まで黙つて従いて来るやうな風だつた薬屋の子の音次郎君が、ポケットから大きな柿を一つ取出してかう云つた。
「川の中に一番長くはいつてゐた者に、これやるよ。」
それを聞いても三人はべつだん驚かなかつた。黙りんぼの薬屋の音次郎君は、奇妙な少年で、時々口を切るとその時皆で話しあつてゐる事とはまるで別の、変てこなことを云ふのが癖だつたからである。三人は、何よりもその賞品に注意を向けた。
つややかな皮をうすく剥くと、すぐ水分の多い黍色の果肉があらはれて来さうな、形のよい柿である。皆はそれを百メ柿といつてゐる。この辺でとれるうちでは一番大きい、美味い種類である。音次郎の家の広い屋敷には、柿や蜜柑や柘榴など、子供の欲しがる果物の木が沢山ある。音次郎君が奇妙な少年であるにもかゝはらず、友達が音次郎君のところへ遊びにゆくのは果物が貰へるからだ。
ところで賞品の方は先づ申し分なしとして、川の方はどうであらう。秋も末に近いことだから、水は流れてはゐない。けれどこの川は幅がせまい代りに、赭土の川床が深くえぐられてゐて、冷たい色に澄んだ水が、かなり深く湛へられてゐる。夏、水浴びによく来たから、大体深さの見当がつくのである。へその辺まで来るだらう。
三人はちよつと顔を見合せて、どうしようと目で相談したが、すぐ、やつたろかと、やはり目で話をまとめた。するともう森医院の徳一君が、ズボンのバンドをゆるめ始めた。何か仕甲斐のある悪戯をするときのやうに、顔が輝いてゐる。ほら吹きの兵太郎君は着物だつたので、先づ鞄をはづして尻まくりし、パンツを脱いだ。久助君も遅れてはならぬと、ズボンを脱いで、緑と黄のまじつた草の上に棄てた。
脱いでしまふと、変に下が軽くなつた。風が素足にひえびえと感じられる。
徳一君を先頭に、川縁の草に縋りながら川の中へすべり下りた。一足入れると、もう膝つこぶしの上まで水が来るのである。
「つめたいなあ。」
足から身内にあがつて来る冷気が、自然に三人に云はせるのであつた。
柿が欲しいだけではなかつた。今時分、尻をまくつて水にはいることが面白いのだつた。そこで三人は、上で見てゐる音次郎君に云はれるまでもなく、真中あたりまではいつて行つた。案の通りだつた。水はひたひたと這ひあがつて来て、久助君のおへその一センチばかり下でとまつた。
三人は向きあつて立つて、自分のへそを更めて眺めたり、人のへそを観察したり、自分達のざまの可笑しさにくすくす笑つたりした。併し物を云ふと、歯がカチカチ鳴つて、妙に力が背中にあつまるやうな気がした。動くと冷たさが一層ひどく感じられた。
しばらく皆黙つてゐた。
どこかで日暮の牛が寂しげに鳴いた。それをしほに徳一君が厳粛な表情になつて、そろりそろりと岸の方へ動き出した。まだ濡れてゐないところを成るべく濡らさぬやうにゆつくり行くのである。久助君と兵太郎君は顔を見合せたがもう笑はなかつた。
久助君は二人きりになると、この遊戯はひどく馬鹿げてゐると感じられたので、まだ我慢すれば出来たのだが、勝を兵太郎君に譲ることにした。徳一君がしたやうに、そろりそろり岸の方へ歩みよつて、草に縋つて上にあがつた。
草を踏んで立つと、冷えのために足の裏がしびれてゐるのが、よく解る。すぐ手拭で足から腹を拭いて、パンツとズボンをはいた。体が慄へてゐるから、ズボンをはくときよろけていつて、やはりズボンをはいてゐる徳一君にぶつかつた。
まだ兵太郎君は川の中にはいつてゐる。もう勝は彼にきまつたのだから、何も痩我慢してゐるわけはないのだが、得意なところを人に見せつけたいのだらう。かういふ点が、ほら吹きの兵太郎君の馬鹿なところであると久助君は思つて見てゐた。兵太郎君は平気をよそほつて、南の方を向いて立つてゐた。
負けた二人は調戯ひたくなつて、上から、
「がんばれッ、がんばれッ、兵タン。」
と声援した。音次郎君もどういふつもりかそれに声を合せた。
「柿、喰べてしまほかよ。」
と徳一君が、いたづらつぽい眼を光らせながら囁いたとき、久助君は、そいつは兵太郎君が可哀さうだといふ気持ちと、そいつは面白いといふ気持が一緒に動いた。兵太郎君を怒らせるのはとても面白いといふことをこれまでの経験で皆よく知つてゐるのである。
川の中の兵太郎君がききつけて、
「こすいぞッ。」
と叫んだ。
そらもう始まつた。はやくしろ、はやくしろ。
徳一君がすばやく音次郎君の手から柿を奪ひとつて、一口かぶりついた。案の定、黍色の美しい果肉が現れた。それを徳一君から受けとると久助君は、徳一君のかじつた反対側の方を大きくかじつた。そしてあとを元の音次郎君に渡した。すると音次郎君も一口かじつたので、彼も亦、この悪戯に参加してゐることが解つた。
兵太郎君は、今更わめいても追つつかぬことを見てとつた。彼は先の二人のやうにゆつくり岸に近づいた。それから縁の草につかまつた。けれど、つかまつたまま凝乎としてゐる。何か思案してゐる様子である。
こちらの三人は顔を見合せた。三人の顔から、茶目気が、しばらくためらつて、そして脱けていつた。しいんとなつた。
蒼褪めた顔を兵太郎君が、しかめた。そして腹の痛いときのやうに、腰を折つた。「どうした、兵タン。」
と徳一君が、おどおどしてきいた。
「上つて来いよ。」
と久助君も一緒に云つた。
それでも兵太郎君は、片手で草につかまつたまま、動かうとはしなかつた。頬げたの下の、一ところチョークでもなすりつけたやうに白いのが久助君の眼にいたいたしく映つた。これは大へんだと思つた。
三人が寄つていつて、兵太郎君の冷たい手を握つて上にひつぱりあげると、兵太郎君は死にかかりの人のやうに力なく、三人のなすがままになつた。あがつて来ても彼は、ベソをかいた顔付で、ぽけんとつつ立つてゐるので、三人は始末をしてやらねばならなかつた。徳一君と久助君は、各々の手拭を提供して、片脚づつを拭いた。音次郎君は、草の上からパンツを拾つて来た。兵太郎君は何から何まで皆、人にさせた。帽子までかむせて貰つた。
ところで、兵太郎君は歩かうとしなかつた。ときどき痛みが襲ふかのやうに、顔をしかめて、腹のところから体を折つた。
あとの三人は困つたなあ、といふやうに顔を見合せた。しかし、本当に兵太郎君の体に故障が出来たかどうか、三人は半信半疑だつた。
といふのは、兵太郎君は以前から、死んだふりや、腹の痛む真似が、非常にうまかつたからである。フットボールが飛んで来て兵太郎君の頭に中りでもすると、彼はふらふらとよろめいて、地べたの上に所嫌はずばつたり倒れ、中り処が悪くて自分はお陀仏するのだといふ様子をして見せるのであつた。その真似は真に迫つてゐた。久助君はまだ、人間がフットボールに中つて死ぬところを見たことはないが、もしさういふ事があるならば、きつと兵太郎君がする通りの所作をして死ぬだらうと思つてゐた。度々兵太郎君の真似に騙された者でも、一旦兵太郎君が死んだ真似をして倒れると、こんどこそ本当に死んでしまつたのではないかと思ふのだつた。そして皆がそろそろ心配しかける頃を見はからつて、死んでゐた兵太郎君は、ひやつといふやうな叫声をあげて、生きかへつて来るのが常だつたのである。
だから今日もあのてではないか、と三人は思つた。賞品の柿をせしめられた腹癒せに今日の芝居はいつもより手がこんでゐて、長いのではあるまいか。
併し、実際顔の色がいつもより蒼い。それにフットボールがあたつた位のこととは違つて、かなり長く下腹部をひやしたのである。病気になる可能性は本当にあるのである。
それなら、こりや自分達も同じやうに腹をひやしたのだから、同じやうなことになるのではないか、と久助君は、こんどは自分の腹が心配になり出した。さう思ふと、何だか下の方がしくしくするみたいである。
「よし、負ぶされッ。」
と徳一君は、しやがんで背中を向けた。兵太郎君は力なく負ぶさつた。
音次郎君が徳一君のランドセルを持ち、久助君は、兵太郎君の足からぬげておちた汚ない下駄を持つた。どさくさまぎれで地に落ちて砂にまみれた喰ひかけの百メ柿を、久助君はポーンと川の中へ蹴とばした。そして三人は出発した。
二
次の朝久助君は、山羊に餌をやるため、小屋の前へいつて、濡れた草を手で掴んだとき、昨日の川の出来事を憶ひ出した。と同時に、兵太郎君はどうなつたらうといふ心配が、重く心にのしかかつて来た。
間もなくまた忘れてしまつた。が心配の重さだけは、忘れてゐる間も心に残つてゐて、何となく不愉快であつた。
七時半になるといつものやうに家を出た。学校の裏手へ向つて一直線に走つてゐる、細い道に出たとき、五十米突程前を、薬屋の音次郎君が、何かつまらない事でも考へてゐるやうに、拍手をしては右手を外の方へうつちやりながら歩いて行くのを見た。
久助君は二人で心配を分ちあひ、一人で苦しんでゐることから免れようと思つて走つていつた。けれど音次郎君は、昨日のことなどまるで気にもかけてゐない様子であつた。自分は取越苦労をしてゐたのかと久助君は思つて、ほつとした。何でもなかつたんだ。
音次郎君は久助君といつしよになつても相変らず拍手を続けながら、自分一人のつまらない考へを追つて歩いてゐた。まもなくうしろからゴツゴツとランドセルの音をさせて誰か走つて来た。森医院の徳一君である。この間新調したばかりの帽子のひさしを光らせながら、「おはやう」と元気よく近づいて来た。そしてかう訊いた。
「今日、算術の宿題なかつたかね。」
徳一君もやはり昨日のことなんか気にしてゐないのである。事実何でもないのだらう。この世にはさう簡単に、出来事は起らないのだ。
三人は教室にはいつた。他の者はもう大抵来てゐる。教室の中にも十人程ゐる。その中には兵太郎君がゐないことを久助君はすぐ確めた。
兵太郎君の席は徳一君のすぐ隣にあつた。用具がそこにはいつてゐるかと思つてそちらを見たとき、久助君は徳一君もやはりさういふ眼付で見てゐるのを発見した。のみならず音次郎君もやはり兵太郎君の席を見てゐた。
みんな、心の奥で同じ心配を持つてゐるのだ、と久助君は解つた。
徳一君が、ちよつと兵太郎君の机のふたをあけた。久助君は心臓がどきつくのを覚えた。中には何もはいつてゐなかつた。
その日から兵太郎君は、学校へ来なくなつてしまつたのである。
五日七日十日と日はたつていつたが、兵太郎君は学校へ姿を見せなかつた。併し誰一人、兵太郎君のことを口にする者がない。久助君はそれが不思議だつた。五年間も共に生活した者が、不意にぬけていつても、あとの者達は何事もなかつたやうに平気でゐるのである。だが、これが当然のやうにも思はれた。
久助君は、徳一君と音次郎君だけは自分と同じやうに、消えてしまつた兵太郎君のことで心を痛めてゐることは解つてゐた。それだのに、この三人は一言も兵太郎君について云はないのであつた。そればかりでなく、妙にお互ひの眼を恐れて、お互ひに避けあふやうになつた。
様々に久助君は思ひ惑つた。例へば、先生に一切のことをうちあけて謝罪つてしまつたらどうだらう。心が軽くなるのではあるまいか。併し、あの川の事がもとで実際兵太郎君は病気になつたのなら、兵太郎君がそれを黙つてゐる筈はない。お父さんかお母さんに話したに相違あるまい。さうすれば、お父さん或ひはお母さんの口から、先生のところへ情報は届いてゐる筈である。ひよつとすると先生はもう何もかも御存知なのかも知れない、それを態と知らんふりしてをられるのは、久助君が自首して出るのを待つてゐられるのではあるまいか。そんな風に思つて、しらずしらず首をすくめながら、先生の顔をうかがふこともあつた。
或時は自首したい衝動にひどくかられた。それはちやうど国史の時間であつたが、いつも面白くきける話が、心の中の煩悶のために、ちぎれちぎれになつて、ちつとも面白くないので、こんなに情ない目に合ふのも、自分が秘密を持つてゐるからだ、言つてしまひさへすれば心は解放されるのだ、と思ふと、突如立ちあがつて「先生、僕達三人で兵太郎君をだまして病気にしたのです!」と叫びたくなつた。併し平常と少しも変らないあたりの空気が、何故かその衝動を抑へさせた。真昼間、心も確かなのに、久助君は、自分の直傍からもう一人の久助君がすつくと立ちあがつて「先生!」と云ひ始める幻影を三度も四度もはつきり見たのだつた。耳がじいんとなつて、両掌で汗を握つてゐた。
二ケ月、三ケ月とすぎた。まだ兵太郎君は学校へ姿を見せない。その間久助君は兵太郎君について殆んど何もきかなかつた。ただ一度かういふことがあつた。或る朝久助君が教室にはいつて来ると、ちやうど行き違ひに、二人の級友が机を一つ廊下へ提げ出していつた。「誰のだい」と何気なし訊くと、一人が「兵タンのだよ」と答へた。それだけであつた。それからかういふことがもう一度あつた。薬屋の音次郎君が或る午後裏門のそとで久助君を待つてゐて、今から兵タンのところへ薬を持つていくから一緒に行かうとさそつた。久助君はびつくりしたが同意して出掛けた。薬はアスピリンといふよく熱をとる薬ださうである。兵太郎君は風邪をひいたのがもとだから、このアスピリンで熱をとれば直癒つてしまふと、音次郎君は医者のやうに自信をもつて云つた。ほんとにさうだ、と知らないくせに久助君も思つた。それにしても、それ程よくきく薬なら何故もつと早く持つていつてやらなかつたのだらう。やがていつもは通らない村はづれの常念寺の前に来た。常念寺の土塀の西南の隅に小さな家が土塀に寄りかかるやうに(事実、少し傾いてゐる)建つてゐる。それが兵太郎君の家である。二人は土塀に沿つて歩いていつた。兵太郎君の家の前に来た。入口があいてゐて、中は暗い。人がゐるのかゐないのかコトリとも音がしない。陽のあたる閾の上で、猫が前肢をなめてゐるばかりだ。二人の足はとまらなかつた。むしろ足は速くなつた。そして通りすぎてしまひ、それきりだつたのである。
久助君は他の友達と笑つたり話したりするのが嫌ひになつた。そして、一人でぼんやりしてゐることが多かつた。それからひどく忘れつぽくなつた。何かしかけてゐて忘れてしまふやうなことが多かつた。今手に持つてゐた本が、ふと気づくともう手になかつた。どこにおいたかいくら頭をしぼつても憶ひ出せないといふ風であつた。お使ひにいつて、買ふものを忘れてしまひ、あてずつぽうに買つて帰つて、まるでラヂオできく落語みたいだと笑はれたこともあつた。
もとから久助君は、どうかすると見馴れた風景や人々の姿がひどく殺風景に味気なく見え、さういふものの間にあつて自分の魂が、ちやうど茨の中につつこんだ手のやうに傷められるのを感じることがあつたのだつたが、この頃は一層それが多く、一層ひどくなつた。こんなつまらない、厭なところに、何故人間は生れて、生きなければならなぬのかと思つて、ぼんやり庭の外の道を眺めてゐることがあつた。また、冷たい水に僅か五分ばかりはいつてゐただけで、病気に罹り死なねばならぬ(久助君には兵太郎君が死ぬとしか思へなかつた)人間といふものが、一層みじめな、つまらないものに思へるのであつた。
三学期の終り頃、遂に兵太郎君が死んだといふことを久助君は耳にした。弁当のあと久助君は教壇のわきで日なたぼつこをしてゐた。すると、向ふのすみで話しあつてゐた一団の中から、
「兵タンが死んだげなぞ。」
と一人がいつた。
「ほうけ。」
と他の者が云つた。べつだん驚く風も見えなかつた。久助君も驚かなかつた。久助君の心は、驚くには草臥れすぎてゐたのだ。
「裏の藁小屋で死んだ真似をしとつたらほんとに死んぢやつたげな。」
と始めの一人がいふと、他の者達は明るく笑つて、兵太郎君の死んだ真似や腹痛の真似のうまかつたことを一しきり話しあつた。
久助君はもうきいてゐなかつた。ああ、たうとうさうなつてしまつたのかと思つた。そつと片手を床の上の陽なたに這はせて見ると、自分の手はかさかさして、草臥れてゐて、悲しげに、みにくく見えた。
三
日暮だつた。
久助君の体の中に漠然とした悲しみがただよつてゐた。
昼の名残の光と、夜の先ぶれの闇とが、地上でうまく溶けあはないやうな、妙にちぐはぐな感じの一ときであつた。
久助君の魂は、長い悲しみの連鎖の続きを、くたびれはてながら、旅人のやうに辿つてゐた。
六月の日暮の、微妙な豊富な物音が、戸外に充ちてゐた。それでゐて静かだつた。
久助君は眼を開いて、柱にもたれてゐた。何かよいことがあるやうな気がした。いやいや悲しみは続くのだといふ気もした。
すると遠いざはめきの中に、一声仔山羊の鳴声の混つたのをききとめた。久助君はしまつたと思つた。生れてからまだ二十日ばかりの仔山羊を、川上へつれていつて、昆虫を追つかけてゐるうち忘れて来てしまつたのである。しまつた。それと同時に、仔山羊はひとりで帰つて来たのだと確信をもつて思つた。
久助君は山羊小屋の横へ駈け出していつた。川上の方を見た。
仔山羊は向ふからやつて来る。
久助君には他のものは何も眼に入らなかつた。仔山羊の白い可憐な姿だけが、仔山羊と自分の地点をつなぐ距離だけが見えた。仔山羊は立ち止つては川縁の草を少し喰み、又走つては立ち止り、無心に遊びながらやつて来る。
久助君は迎へに行かうとは思はなかつた。もう確かにここまで来るのだ。
仔山羊は電車道も越えて来たのだ。電車にも轢かれずに。あの土堤の壊れたところもうまく渡つたのだ。よく川に落ちもせずに。
久助君は胸が熱くなり、泪が眼にあふれ、ぽとぽとと落ちた。
仔山羊はひとりで帰つて来たのだ。
久助君の胸に、今年になつてから始めての春がやつて来たやうな気がした。
四
久助君はもう、兵太郎君が死んではゐない、きつと帰つて来る、といふ確信を持つてゐたので、あまり驚かなかつた。
教室にはいると、そこに―いつも兵太郎君のゐたところに、洋服に着替へた兵太郎君が、白くなつた顔で、にこにこしながら腰かけてゐた。
久助君は自分の席へいつてランドセルをおろすと、眼を大きく開いたまま、兵太郎君を見てつつたつてゐた。さうすると自然に顔がくづれて、兵太郎君と一緒に笑ひ出した。
兵太郎君は海峡の向ふの親戚の家に貰はれていつたのだが、どうしてもそこが嫌で帰つて来たのださうである。それだけ久助君は人からきいた。川の事がもとで病気をしたのかしなかつたのかは解らなかつた。だがもうそんなことはどうでもよかつた。
休憩時間に兵太郎君が運動場へはだしで跳び出してゆくのを窓から見たとき、久助君はしみじみこの世は懐しいと思つた。そして滅多なことでは死なない人間の生命といふものが、本当に尊く、美しく思はれた。
そこへもう一つ憶ひ出すことがあつた。それは、いつかの夏、兵太郎君と川あそびにいつて、川からあがつたばかりのぴかぴか光るお互ひの裸ん坊を、生ひしげつた夏草の上でぶつけあひ、狂ひあつて、互ひに際限もなく笑ひころげたことだつた。
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