【のら犬】

  一

 常念御坊は碁が何よりもすきでした。けふも、となり村の壇家へ法事でよばれて来て、お午すぎから碁をうちつゞけ、日がかげつて来たのでびつくりして、腰を上げました。
「まあ、いゝぢやありませんか。これからでは途中で夜になつてしまひます。今夜はとまつていらつしやいましよ。」と引きとめられました。
「でも小僧が一人でさびしがりますから。幸に風もございませんので。」と、おまんぢうのつゝみをもらつて、かへつていきました。
 常念御坊は歩きながらも、碁のことばかり考へつゞけてゐました。さつきの一ばんしまひの、あすこのあの手はまづかつた、向うがあゝ来た、そこであすこをパチンとおさへた、それからかう来たから、かうにげたが、あれはやつぱり、こつちのところへ、かうわたるべきだつた、などゝ、夢中になつて歩いて来ました。そのうちにその村のはづれに近い、烏帽子をつくる家のまへまで来ますと、もう冬の日もとつぷりくれかけて来ました。
 しばらくして何の気もなく、ふと、うしろをふりかへつて見ますと、ぢきうしろに、犬が一ぴきついて来てゐます。狐色の毛をした耳のぴんとつッたつた、あばらの間のやせくぼんだ、不気味な、よろよろ犬です。どこかこゝいらのかひ犬だらうとおもひながら、また碁のことを考へながらいきました。
 一二丁いつて、またふり向いて見ますと、さつきのやせ犬が、まだとぼ[/\→とぼ]あとを追つて来てゐます。うすぐらい往来のまん中で二三人の子どもがコマを廻してゐます。
「おい、坊、この犬はどこの犬だい。」
 子どもたちはコマを足でとめて、御坊の顔と犬とを見くらべながら、
「おらァしらねえ。」
「おいらも、しらねえ。」と言ひました。
 常念御坊は村を出はづれました。左右は麦畠のひくい岡で、人つ子一人をりません。うしろを見ると、犬がまだついて来てゐます。
「しッ。」と言つて、にらみつけましたが、にげようともしません。足を上げて追ふと、二三尺ひき下つて、じつと顔を見てゐます。
「ちよッ、きみのわるいやつだな。」
 常念御坊は、舌うちをして歩き出しました。あたりはだんだんにくらくなつて来ました。うしろには犬がのそのそついて来てゐるのが見なくもわかつてゐます。
 すつかり夜になつてから、峠の下の茶店のところまで来ました。まつくらい峠を、足さぐりでこなすのはあぶないので、茶店の婆さんに提灯をかりていかうとおもひました。
 お婆さんはふろをたいてゐました。提灯だけかりるのも、へんなので、常念坊は、
「おい、おばあさん、だんごは、もうないかな。」と聞きました。
「たつた五くしのこつてゐますが。」
「それでいゝ。つゝんでおくれ。」
「はいはい。」と、おばあさんは、だんごを竹の皮につゝみます。
「すまないが、わしに提灯をかしておくれんか。あした正観にもつて来させるでな。」
「とても、やぶれ提灯でござんすよ。」
「いゝとも。」
 おばあさんは、だんごをわたすと、上へ上つて、古提灯のほこりをふきふきもつて来ました。常念坊は提灯にあかりをつけると、あたりを見て、
「おや、もう、どつかへいつたな。」と一人ごとを言ひました。
「おつかれさまですかね。」
「いんにや。どつかの犬が、のこのこついて来て、はなれなかつたんだよ。」
「狐ぢやありませんか。あなたのとほつていらつしやつた、あのさきの薮のところに、よく狐が出て人をばかすと言ひますよ。」
「おもしろくもないことを言ひなさんな。ほい、おあしをこゝへおくよ。」
 常念坊は片手に、おまんぢうのつゝみと提灯をさげ、片手にだんごのつゝみをもつて峠にかゝりました。その峠を下りて、たんぼ道を十丁ばかりいくと、じぶんの寺です。
 もう、あのいやな犬もついて来ないので、安心して、てくてく上つていきますと、やがてうしろの方で、クンクンといふ声がします。
「おや、また、あの犬めが来たな。」と常念坊はおもひました。
 かまはずどんどんいきましたが、ふと考へると、うしろから来るのは、さつきの犬ではなくて、ばあさんが言つた、あの狐がつけて来たのではなからうか。かうおもうと、じぶんのうしろには、ずるい狐の目が、やみの中に、らんらんと光つてゐるやうな気がします。気の小さい常念坊は、ぶるッと、身ぶるひをしました。
 でも、うしろをふり向くのもこはいので、ぶきみななりにぐんぐん歩きました。何だかうしろでは、狐がいつの間にか女にばけてゐて、今にも、きやッと言つてとびついて来さうな気がします。
 常念坊は、その狐のことをわすれようわすれようとするやうに、提灯のあかりばかりを見つめてあるきました。

  二

 やつとのこと村へ来ました。村へはいると少しほつとしました。村ではどこのうちも、よひから戸をしめてしまふので、どつこも、しいんとしてゐます。その中で、どこかのうちで、きぬたをうつ音がとほくにきこえます。
 そのとき、ふと気がついて見ますと、左手にもつてゐた、だんごの竹の皮づゝみが、いつの間にかなくなつてゐます。
「おや、しまつた。うつかりして、おとしたかな。それとも狐のやつが、そつと、ぬすみとつてにげたかな。ちよッ。」
 常念御坊はいまいましさうに、おまんじうのつゝみと提灯とを両手にもちわけて、うしろをむいて見ました。もう何もをりません。やがて寺の門のまへに来ました。
 立ちどまつて、もう一ぺん、うしろをよく見ますと、狐らしいものが、のこのこつけて来てゐます。
 常念坊は門をはいると、
「正観。正観。」と庫裡の方へ向つてどなりました。
「はい。」と返事がきこえて、正観が、ごそごそ鐘楼から下りて来ました。
「おい、狐だ狐だ。ほうきをもつて来い、ほうきを。ほうきで追ひまくれよ。」
 正観はとんでいつて、ほうきをもつて、門の方へかけつけました。
「おや、狐が何かくはへてゐますよ。」
「あゝ、だんごだ。とり上げろよ。」
「ほい、下へおけ。―だんごはとりかへしましたが、狐はすわつたきりにげません。」
「だから、ほうきで追つぱらへといふのに。」
「ちきしよう。にげんか。しッ、しッしッ。」と、正観は、ほうきでおひまくりました。
「そらそらそつちへいつた。中へはいつて来た。そらそらそら。」
「ほうい、ちきしよう。こらッ。」と正観は、そつちこつちと追つかけて、とうとう外へにがしてしまひました。
「にげたか。」
「にげました。」
「正観。」
「はい?」
「何でおまいは今ごろ鐘楼なんぞへ上つてゐたのだ。」
「さびしかつたから。」
「鐘楼へ上つてればさびしくなくなるのか。」
「鐘をゲンコツでたゝくと、おん、おん、おんと、和尚さんの声みたいな音がするんです。」
「何を言ひをる。」
 和尚さんは、ころもをぬいで、ろばたで、おぜんにすわつて、ざぶざぶざぶざぶと、お茶づけをながしこんでゐます。正観は、おみやげのだんごをひろげました。
「和尚さん、あの犬はどこから、ついて来たのです。」
「となり村から、しつッこく、あとをつけて来たのだよ。」
「どうして。」
「どうしてだかしらないよ。」
「ばかしやァしませんでした?」
「おれが狐なぞにばかされてたまるか。」
「狐ですか、あれは。」
「…」
「犬みたいだつたがな。そのしようこに、正観はそばへよつても、ちつともこはくはなかつたがなァ。」
 常念御坊は、はしをおいて考へこんでゐました。あんどんの灯が、そのくるくる頭へ赤くさしてゐます。
 しばらくして常念御坊は、
「正観。」と、少しきまりわるさうに言ひました。
「その提灯をつけよ。」
「はい。」
「わしは、ちよつといつてさがして来るでな。おまいは、本堂の縁の下へ、わらをどつさり入れといてくれ。」
「何をさがしに?」
「あの犬をつれて来るんだ。」
「狐でせう、あれは。」
「かはいさうに、犬なら、のら犬だ。食ひものもろくに食はんと見えて、ひどくやせこけてゐた。はるばるとなり村から、わしについて来たのだから、あつたかくしてとめてやらうよ。」
 それに、わしのおとしただんごまで、ちやんと、くはへて、来てくれたんだもの、おれがわるいよ、と、これだけは、心の中で言つて、常念御坊は、提灯をもつて出ていきました。(をはり)


【のら犬(『花のき村と盗人たち』版)】

  一

 常念御坊は碁が何よりもすきでした。けふも、となり村の壇家へ法事でよばれて来て、お昼すぎから碁をうちつづけ、日がかげつて来たのでびつくりして、腰を上げました。
「まあ、いいぢやありませんか。これからでは途中で夜になつてしまひます。今夜はとまつていらつしやいましよ。」と引きとめられました。
「でも小僧が一人でさびしがりますから。幸に風もございませんので。」と、おまんぢゆうのつつみをもらつて、かへつていきました。
 常念御坊は歩きながらも、碁のことばかり考へつづけてゐました。さつきの一ばんしまひの、あすこのあの手はまづかつた、向うがああ来た、そこであすこをパチンとおさへた、それからかう来たから、かうにげたが、あれはやつぱり、こつちのところへ、かうわたるべきだつた、などと、夢中になつて歩いて来ました。そのうちにその村のはづれに近い、烏帽子をつくる家のまへまで来ますと、もう冬の日もとつぷりくれかけて来ました。
 しばらくして何の気もなく、ふと、うしろをふりかへつて見ますと、ぢきうしろに、犬が一ぴきついて来てゐます。狐色の毛をした耳のぴんとつッたつた、あばらの間のやせくぼんだ、不気味な、よろよろ犬です。どこかここいらのかひ犬だらうとおもひながら、また碁のことを考へながらいきました。
 一二丁いつて、またふり向いて見ますと、さつきのやせ犬が、まだとぼとぼあとを追つて来てゐます。うすぐらい往来のまん中で二三人の子どもがこまを廻してゐます。
「おい、坊、この犬はどこの犬だい。」
 子どもたちはこまを足でとめて、御坊の顔と犬とを見くらべながら、
「おらァしらねえ。」
「おいらも、しらねえ。」と言ひました。
 常念御坊は村を出はづれました。左右は麦畠のひくい岡で、人つ子一人をりません。うしろを見ると、犬がまだついて来てゐます。
「しッ。」と言つて、にらみつけましたが、にげようともしません。足を上げて追ふと、二三尺ひき下つて、じつと顔を見てゐます。
「ちよッ、きみのわるいやつだな。」
 常念御坊は、舌うちをして歩き出しました。あたりはだんだんにくらくなつて来ました。うしろには犬がのそのそついて来てゐるのが見なくもわかつてゐます。
 すつかり夜になつてから、峠の下の茶店のところまで来ました。まつくらい峠を、足さぐりでこなすのはあぶないので、茶店の婆さんに提灯をかりていかうとおもひました。
 お婆さんはふろをたいてゐました。提燈だけかりるのも、へんなので、常念坊は、
「おい、おばあさん、だんごは、もうないかな。」と聞きました。
「たつた五くしのこつてゐますが。」
「それでいい。つつんでおくれ。」
「はいはい。」と、おばあさんは、だんごを竹の皮につつみます。
「すまないが、わしに提燈をかしておくれんか。あした正観にもつて来させるでな。」
「とても、やぶれ提燈でござんすよ。」
「いいとも。」
 おばあさんは、だんごをわたすと、上へ上つて、古提燈のほこりをふきふきもつて来ました。常念坊は提燈にあかりをつけると、あたりを見て、
「おや、もう、どつかへいつたな。」と一人ごとを言ひました。
「おつかれさまですかね。」
「いんにや。どつかの犬が、のこのこついて来て、はなれなかつたんだよ。」
「狐ぢやありませんか。あなたのとほつていらつしやつた、あのさきの薮のところに、よく狐が出て人をばかすと言ひますよ。」
「おもしろくもないことを言ひなさんな。ほい、おあしをここへおくよ。」
 常念坊は片手に、おまんぢゆうのつつみと提燈をさげ、片手にだんごのつつみをもつて峠にかかりました。その峠を下りて、たんぼ道を十丁ばかりいくと、じぶんの寺です。
 もう、あのいやな犬もついて来ないので、安心して、てくてく上つていきますと、やがてうしろの方で、クンクンといふ声がします。
「おや、また、あの犬めが来たな。」と常念坊はおもひました。
 かまはずどんどんいきましたが、ふと考へました。うしろから来るのは、犬ではなくて、おばあさんが言つた、あの狐がつけて来たのではなからうか。かうおもふと、じぶんのうしろには、ずるい狐の目が、やみの中に、らんらんと光つてゐるやうな気がします。気の小さい常念坊は、ぶるッと、身ぶるひをしました。
 でも、うしろをふり向くのも、こはいので、ぶきみななりにぐんぐん歩きました。何だかうしろでは、狐がいつの間にか女にばけてゐて、今にも、きやッと言つてとびついて来さうな気がします。
 常念坊は、その狐のことをわすれようわすれようとするやうに、提燈のあかりばかりを見つめてあるきました。

  二

 やつとのこと村へ来ました。村へはいると少しほつとしました。村ではどこのうちも、よひから戸をしめてしまふので、どつこも、しいんとしてゐます。その中で、どこかのうちで、きぬたをうつ音がとほくにきこえます。
 そのとき、ふと気がついて見ますと、左手にもつてゐた、だんごの竹の皮づつみが、いつの間にかなくなつてゐます。
「おや、しまつた。うつかりして、おとしたかな。それとも狐のやつが、そつと、ぬすみとつてにげたかな。ちよッ。」
 常念御坊はいまいましさうに、おまんじゆうのつつみと提灯とを両手にもちわけて、うしろをむいて見ました。もう何もをりません。やがて寺の門のまへに来ました。
 立ちどまつて、もう一ぺん、うしろをよく見ますと、狐らしいものが、のこのこつけて来てゐます。
 常念坊は門をはいると、
「正観。正観。」と庫裡の方へ向つてどなりました。
「はい。」と返事がきこえて、正観が、ごそごそ鐘楼から下りて来ました。
「おい、狐だ狐だ。はうきをもつて来い、はうきを。はうきで追ひまくれよ。」
 正観はとんでいつて、はうきをもつて、門の方へかけつけました。
「おや、狐が何かくはへてゐますよ。」
「ああ、だんごだ。とり上げろよ。」
「ほい、下へおけ。―だんごはとりかへしましたが、狐はすわつたきりにげません。」
「だから、はうきで追つぱらへといふのに。」
「ちきしやう。にげんか。しツ、しッ、しッ]。」と、正観は、はうきでおひまくりました。
「そらそらそつちへいつた。中へはいつて来た。そらそらそら。」
「ほうい、ちきしよう。こらッ。」と正観は、そつちこつちと追つかけて、とうとう外へにがしてしまひました。
「にげたか。」
「にげました。」
「正観。」
「はい?」
「何でおまへは今ごろ鐘楼なんぞへ上つてゐたのだ。」
「さびしかつたから。」
「鐘楼へ上つてればさびしくなくなるのか。」
「鐘をゲンコツでたたくと、おん、おん、おんと、和尚さんの声みたいな音がするんです。」
「何を言ひをる。」
 和尚さんは、ころもをぬいで、ろばたで、おぜんにすわつて、ざぶざぶ]と、お茶づけをながしこみはじめました。正観は、おみやげのだんごをひろげました。
「和尚さん、あの犬はどこからついて来たのです。」
「となり村から、しつッこく、あとをつけて来たのだよ。」
「どうして。」
「どうしてだかしらないよ。」
「ばかしやアしませんでした?」
「おれが狐なぞにばかされてたまるか。」
「狐ですか、あれは。」
「…」
「犬みたいだつたがな。そのしようこに、正観はそばへよつても、ちつともこはくはなかつたがなア。」
 常念御坊は、はしをおいて考へこんでゐました。あんどんの灯が、そのくるくる頭へ赤くさしてゐます。
 しばらくして常念御坊は、
「正観。」と、少しきまりわるさうに言ひました。
「その提燈をつけよ。」
「はい。」
「わしは、ちよつといつてさがして来るでな。おまへは、本堂の縁の下へ、わらをどつさり入れといてくれ。」
「何をさがしに?」
「あの犬をつれて来るんだ。」
「狐でせう、あれは。」
「かはいさうに、犬なら、のら犬だ。食ひものもろくに食はんと見えて、ひどくやせこけてゐた。はるばるとなり村から、わしについて来たのだから、あつたかくしてとめてやらうよ。」
 それに、わしのおとしただんごまで、ちやんと、くはへて、来てくれたんだもの、おれがわるいよ、と、これだけは、心の中で言つて、常念御坊は、提燈をもつて出ていきました。