【坂道】

 東京のさる専門学校の生徒である草野金太郎は、春休みで故郷の町に帰省してゐたが、春休みも終つたので、あと二時間もするとまた一人で東京にたつのである。
 荷物はまとめて駅に出してしまひ、まだ明るいけれど夕飯も風呂もすましてしまつた。これから二時間のあいだ、もう何もすることがない。
 忘れてゐることはないかと考へて見るが、万事手筈は整つてゐる。そこで金太郎は、二時間といふ僅かな時間をもてあましてしまふ。
 ぢつと落着いてゐることができない。何故だかわくわくしてゐる。かういふことが時々あるのだが、人間は果してこんな時仕合せなのか不仕合せなのか、と金太郎は考へたがそれも解らない。
 そこで金太郎は、一つ自転車で町にでも出て来ようと思つて母に何か用事はないか訊ねると生憎ないさうである。仕方がないので故郷に対して惜別の感慨にふけるといつたやうな目的で自転車をひつぱり出した。
 父が十何年も前に、しかも中古で買つたといふ古風な自転車である。ハンドルが水牛の角のやうな形をし、ブレーキと荷掛けとチェーンのカバーがない。俗に「ふみきり」といふペタルで、つまり普通の自転車のやうに、或る程度の惰性がついたらペタルの上で足を休ませてゆくといふことが出来ない。自転車が走つてゐる限り、ペタルも足も迴つてゐなければならないのである。
 金太郎はさて、家の前で身軽にひよいと自転車にまたがつた。
 用事はないのだから、ゆつくりゆつくり行けばよいのだが、町の人に見られると体裁が悪いので、自然何か買物にでもゆくやうな風をして走り出すのである。
 さうして走つてゐると彼は何となく胸のときめくのを禁じえない。恋といふ程のことをした経験のない彼には、この町のどこにもそれとなく見て別れを告げねばならぬやうな少女はゐないのであるが、通りのずつと向うの方に、まだ顔は見えぬけれど着物の色彩で少女と知れる姿が現はれると、自分の愛人ではないかと思つて見たりするのである。
 そして金太郎は、更めて自分が専門学校生徒である誇りにうつとりする。
 やがて人通りの余りない、片側に工場の黒板塀が続き、片側は畑を間にさしはさんで住宅が数軒ならんでゐる、町で一番長い坂道の上に出た。専門教育を受ける人間は現代日本では六十人に一人の割合であると、以前に誰からか聞かされたことのあるのを思ひ出しながら、金太郎は坂を下り始めた。
 少し下つた時、両足がひよいとペタルから離れてしまつた。自転車が加速度で走り出し、従つてペタルが速く回転しはじめたので、うつかりしてゐて足を離したものらしい。こいつはいけないと金太郎は思つた。両足をもう一度ペタルにのせて速度を制御しようとしたが、ペタルの回転は速さを増すばかりで金太郎の足を寄せつけない。
 このまゝにしておけば自転車は速くなるばかりである。坂はかなり長いから、一番下に到る時分には、梶をとることさへ出来なくなるであらう、今のうちに転んでしまへば、怪我はするかも知れない。だが大事に到らず済むことは確かだ、と金太郎は、速度を増してゆく自転車の上で、幾何の問題を解くときのやうに冷静に推理した。
 そこで金太郎は体を固く小さくして、道の白い流れの上へ、飛びこむやうな具合に転んでいつた。自転車は三四米先へ投げ出された。
 起きあがつて見ると、ころぶときに地べたに突いたらしく、右の掌に擦り傷がついてゐた。その他は別段故障もなかつた。
 坂の上にも下にも人の姿は見えないので、幸ひ羞しいおもひもしなくてすんだのである。尤も見られたとて大して羞しがることでもない。鉄棒をやつてゐる最中ちよつとへまをして砂に尻もちをついたくらゐのことなのである。
 そこで金太郎は、二三米先へ歩いていつて自転車を起すと、またそれにまたがつて、今度はペタルから足を離さぬ様に注意し、適当に速さを加減しながら坂の下へおりていつた。
 坂を下り切つて、油屋の前から右へ曲つたところで、小学校でちよつと教はつたことのある山下といふ愛想のよい先生にゆきあつた。金太郎が帽子をとつてお辞儀をすると、山下先生は眼を絲のやうに細くして、春休みは何日までか訊ねた。金太郎は路傍の道しるべの石に片足をかけて、自転車に跨つたまゝ憩みながら、今晩たつといふ返事をした。
 山下先生に別れると、額にかかつてゐた髪をうしろへ掻きあげて、豊富な髪の毛が外にはみ出さぬ様に丁寧に帽子をかむり石を蹴つてひよいと体を浮かしまた走り出した。そして今別れた愛想のよい山下先生が、金太郎の入学を喜んでくれた時、この町で一番偉くなつてゐるのは××大学の教授をしてゐられる林信助さん、その次に偉くなるのは君だとみんなが云つてゐるから、しつかり勉強したまへ、と言つた言葉を憶ひ出し、悪い気持はしなかつたのである。
 町を一巡して家へ帰つて来る頃には、彼はもう坂の途中で転んだことを忘れてゐた。
 間もなく、女学校一年生の妹すみ子に送られて、停車場に来た。いつもの事だから、ホームまではいるのはよせといつて、すみ子を出口のところに立たせておき、金太郎はブリツヂを渡つた。
 汽車が出るとき金太郎は、出口の方の妹に手をふりながらも彼女の左右や背後を見た。誰かが…例へばすみ子を可愛がると同時に金太郎にも愛を感じてゐるといつた風のすみ子の上級生か何かゞ、こつそり金太郎を見送つてゐはしないかと思つたのである。併し考へて見ればそんなものがある筈はなかつた。
 妹が見えなくなつてしまふと窓硝子をおろして、腰を落着けバツトを取り出して吸ひつけた。それから、くるくると巻いてポケツトにさし込んで来た週刊雑誌をひろげて、この春に来る外国映画のスチルを眺めはじめた。
 すると、発車間際に慌てゝのつたらしい、鞄を持つた、営利会社の外交風の男が二人、金太郎のうしろの、も一つうしろのボツクスに腰を卸して何か話し出した。
 中のすいてゐる車なので、別段注意してゐなくても、二人の話がよく聞きとれるのである。
 金太郎は初め、気にもかけず聞きながしてゐたが、「助けてくれえ、助けてくれえ、と叫びながら下りていつたさうだ」と一人がいふのをきいて、ちよつと注意しだした。
「ブレーキが利かんだつたと見えるな」と年とつた方の紳士がいつた。
「あんまり自転車に馴れてゐなかつたんだね。こいつはいかんと思つたら、早くころがつてしまへばよかつたんだ」
「うん。…まごまごしてゐるうちに自転車は速くなる、ころぼたつて、もうころぶわけにもいかない、そこで助けてくれえと悲鳴をあげるより他なかつたんだらう。気の毒にな、何処の年寄りだか知らんが…」
「飛びこまれた家もびつくりしたらうね、油屋ださうだが、正面の硝子をぶちやぶつて、油桶のならんでるところへぶつかつて来たんださうだからね。そこら一面に油と血が流れ出て、ほんとの油地獄だなんていつてたよ」
 あきらかに、金太郎がさつきころんだあの坂で起つた惨事である。どこかの年とつた男がブレーキのきかない自転車で、速力を抑へることが出来ず、ま一文字にかけ下りて、坂下の油屋にとびこみ、死んだのである。金太郎が転んだときから僅か半時間程のちに。
 金太郎は聞いてゐるうちに、眼の前が白く霞んで来て、見てゐた写真が見えなくなつてしまつた。かつて、あまり経験したことのない奇妙な感じである。普通にはそれを「ぎよつとした」と形容するがその言葉があらはす程シヨツクの烈しいものではなく、何か日頃は奥の方にしまつてあつて、滅多にとり出すことのない感情のはしに一つの火がしづかに点ぜられ、段々ひろがつてゆくやうな気持である。やがて心音が、一つ一つどすんどすんと大きく鳴りはじめるのを覚えた。
 落ち着いてゐられなくなつて金太郎は帽子をひつつかみ、そゝくさと別の車へうつつた。
 その車もよく空いてゐたので真中所の窓際の席に腰を卸し、窓外に眼を放つた。窓のすぐ外に、枯草に緑草がまじつた土手が続いてゐる、それがすばらしい速さで、線をひきながらうしろへ流れてゐる、かういふ風にあの時道の白さが足の下を流れてゐたと金太郎はすぐ聯想した。
 もしあの時、自分が転ばうと思はなかつたら、自分の上に大変な事がふりかゝつて来たのだ。転ばうと思つたのはほんの些細なことで、それが、自分をそれ程の大事から救つてくれようとは思ひ設けなかつた。さう金太郎は考へた。分水嶺の頂上に降る雨が、実に一糎か二糎の相違から、一方は右に流れてやがては右の海にそゝぎ、他方は左に流れて左の海にそゝぐことになるときかされてゐたのも、こんなことなのだと思ひ合はされた。
 金太郎が転ばうと思つたのは余り些細なことであつただけに、それが一命を救つてくれたとはどうも信じがたくも思はれた。自分ではなかつたのか、その油屋に飛びこんで死んでしまつたのは、と彼は疑つて見る。自分なのかも知れない。自分であることは何もむづかしいことではないのだから。
 しかしながら金太郎は、こゝに、東京にゆく汽車に満足な体をしてゐるのである。これが現実なのだ。それならば現実といふものは、うすい硝子のやうな何と云ふ頼りないものなんだらう。
 どうもよく解らない。何が何だかと痺れた様になつてよく働かない自分の頭を、金太郎は歯痒く思ひながら考へた。爺さんは油桶にぶつかつて血を流して死んでしまつたといふ。それがどれだけの悲劇なのか。爺さんは死んだが自分は生きてゐる。それがどれだけの重量を持つた意味なのか。
 金太郎は中学で物理の時間に四角な檻のやうな針金細工の箱の中に人間を入れておいて、その箱に高圧電流を通じても、中の人間は少しも知らないで平然としてゐられる、といふ話をきいたことがあるが、今の自分はちようど高圧電流の通ふ箱の中に閉ぢこめられた人間の様なものであると考へた。あまりに強烈な現実が自分の周囲をめまぐるしく走つてゐるのに、自分にはそれがよく解らないのである。
 金太郎は急に、一切のことを誰かに話して、自分とその老人とが同じ危険状態にあつたことを現在世界中で自分だけが知つてゐるといふこの秘密から、いちはやく解放されたい衝動をうけた。そこで適当な人はゐないかと周囲を眺め始めた。(終)