【正坊とクロ】
一
村々を興行してあるくサーカス団がありました。十人そこそこの軽業師と、年をとつた黒熊と馬二頭だけの小さな団です。馬は舞台に出るほかに、次の土地へうつつていくとき、赤いラシヤの毛布なぞをきて、荷車をひく役目をもしてゐました。
或村へ着きました。座員たちは、みんなで手わけをして、たばこ屋の板かべや、お湯屋の壁に、赤や黄色で刷つたきれいなビラを張つてあるきました。村の大人も子どもも、つよいインキのにほひのするそのビラをとりまいてお祭のやうによろこびさわぎました。
テント張りの小屋がかゝつてから、三日目のおひるすぎのことでした。見物席からわあッといふ歓声といつしよにぱちぱちと拍手の音がひゞいてきました。すると、ダンスををはつたお千代が、うすいももいろのスカートをひらひらさせて、舞台うらへ、ひきさがつてきました。つぎは熊のクロが出る番になつてゐました。熊つかひの五郎が、ようかんいろになつたビロードの上着をつけ、長靴をはいて、シユッシユッとむちをならしながら、をりのそばへいきました。
「さあ、クロ公、出番だ。しつかりたのむよ。」と、笑ひながら、とびらをあけましたが、どうしたのかクロは、いつものやうにすぐにたち上つて来る容子が見えません。おやと思つて五郎がこゞんでみますと、クロはからだ中汗だくになつて、目をつむり、歯をくひしばつて、ふとい息をついてゐるのです。
「たいへんだ、団長さん。クロが腹いたをおこしたらしいです。」
団長もほかの座員もドカドカと集つてきました。五郎は団長と二人がゝりで、竹の皮でくるんだ黒い丸薬をのませようとしましたが、クロはくひしばつた口からフウフウあわをふきふき、首をふりうごかしてどうしても口をひらきません。しばらくしてピリピリッとお腹のあたりが波をうつたとおもひますと、クロは四つんばいになつて、をりの中をこまのやうにくるひまはりました。それから、わらの床にドタリとたふれて、ふうッと大きくいきをふいて、目をシヨボシヨボさせてゐます。
見物席の方からは、つぎの出しものをさいそくする拍手の音がパチパチひゞいてきます。そこで、とうとう道化役の佐吉さんが、クロにかはつて、舞台に出ることにしました。そのとき、だれかゞ、
「正坊がゐたら、薬をのむがなァ。」と、ためいきをつくやうに言ひました。団長は、
「さうだ。お千代、正坊をつれてこい。」と太いだみごゑで命じました。お千代は、馬を一頭ひき出してダンスすがたのまゝひらりとまたがると、白いたんぼ道を、となり村へ向つてかけていきました。
二
正坊は初日のはしご乗りで、足をひねつてすじをつらせ、となり村の病院にはいつてゐるのです。
正坊の病室の窓ぎはには、あをぎりが葉つぱをひろげて、部屋の中へ青いかげをなげ入れてゐました。正坊は白いねまきのまゝベッドの上にすわつて、あをぎりの幹は象の足みたいだなァと思ひながら、ガラスの向うをながめてゐました。すると門の方でひづめの音がしました。やがてだれかゞ廊下をつたはつてこちらへやつて来るやうです。ドアの向うにお千代の顔を見つけ出すと、正坊はとび上つてよろこびました。
「姉さん、ぼく、もうなほつたよ。さつきもこゝでとんぼがへりをうつて見たの。」
お千代は、いつも正坊を、ほんとうの弟のやうにかはいがつてゐるのでした。
「へえ、早くなほつてよかつたわね。あのね、正ちやん、たいへんなのよ。クロが腹いたをおこしちやつて、お薬をのませやうとしてものまないの、みんな困つてるの。だから正ちやんをよびにきたのよ。」
「クロが? ではぼく、かへる。もうすつかりいゝんだもの。」
二人は院長さんにお許しをいたゞいて、一しよに馬にのつてかへつていきました。看護婦さんは門の外へまで出て見おくつてくれました。
三
「クロ、ぼくだよ。クロ。」
正坊は手のひらに丸薬をのせて、右手でかるくクロの鼻のうへをなでさすりました。クロはさつきよりは、いくらかおちついてゐましたが、でも目のいろは、まだとろりとうるんで、生気がありません。ふうふういきをするたびに、鼻さきのわらくづが、動きます。
正坊はふと思ひついて、「勇敢なる水兵」の曲をウウウゝウゝウとうたひだしました。
それはいつも正坊とクロが舞台に出ていくときの楽しい曲なのです。クロは正坊の歌声をきいて、しばらく耳をピクピクさせてゐましたが、やがて、ヒヨコリと立ち上りました。正坊がすかさず手のひらの丸薬を口の中へおしこむと、クロはざうさなくペロリとのみこみました。
こんなことがあつてから、正坊とクロとは、まへよりも又一そうはなれられない仲よしになり、見物人からも団の人気ものにされました。
これも、やはり、或村で興行してゐたときでした。いつも正坊やクロといつしよにでて、喜劇をする道化役の佐吉さんが、一座からぬけて、にげ出してしまつたのでその代りを、ふとつた団長がつとめることになりました。
「クロ、出る番だよ。」
正坊はクロををりの中から出すと、例によつて鼻のうへをなでさすりながら、クロの大好きなビスケットを口の中へ入れてやりました。
舞台では留ぢいさんが「勇敢なる水兵」のラッパをならしはじめました。
ラロラゝ、ラゝゝ、
ラロ、ラロ、ラ、
ラロラゝ、ラロラ、
ラロ、ラロラ。
ラロ、ラロ、ラロラ、
ラロ、ラロ、ラ。
正坊は白い鳥の羽根のついた軍帽をかぶり、金ピカのおもちやの剣を腰につるして、将軍になりすまして、クロのせなかにのつかりました。クロはラッパの音に歩調を合せて元気よく、舞台へ出ていきました。
「あらはれましたのは、ソコヌケ将軍と愛馬クロにござァい。」
留ぢいさんが口上をのべますと正坊はクロのせなかから、コロリところげおちてみせました。見物はどつと笑つて手をたゝきました。
「将軍はたゞ今から、盗賊退治に出発のところでござァい。」
クロが、あゝんと赤い口をあけました。将軍の正坊は、クロの背中にまたがつたまゝ、ポケットからビスケットをつかみ出して、口の中へ入れてやりました。クロは正坊の手首までくはへてしまひました。正坊は目をパチクリさせて、またクロのせなかからおつこちて見せて、見物をよろこばせました。
やがて賊にふんした団長が、銀紙をはつた、キラキラした大太刀をひつつかんで出てきました。正坊のソコヌケ将軍はそれを見ると、おどろいて、ブルブルふるへながら、剣をほうり出して、クロの首つ玉にしがみつきました。見物の子どもたちが又どつとこゑをあげてわらひました。
「こらッ。」
団長は、つけひげをつけた、ひげだらけの顔に、するどく、とがつた目をむいて、身がまへをしました。クロはちらつと団長のそのおそろしい顔を見ました。それは団長がいつも正坊をおこりつけるときの顔でした。そこでクロはてつきり、団長がいつものやうに、ほんとにおこつて正坊を竹の刀でなぐりつけるのだと思ひました。
「こらッ。」
団長はまた、太刀をふりかぶりました。と、クロは、ウワウッと一こゑほえると一しよに、正坊のからだをかるがるとくはへて、あつといふうちに、見物の中をかけぬけて、テントの外へとび出してしまひました。これには見物も団長も留ぢいさんもあつけにとられてしまひました。正坊もびつくりしてしまひました。
やがてテントの外の原つぱにおろされると、正坊はクロの頭やせなかをやさしくなでまはして、なだめすかしました。そしてやつと、舞台へつれてかへると、まづ見物席に向つておわびを言ひ、賊のすがたの団長にあやまりました。見物はかへつて、やんやとはしやぎさわいで喜びました。団長は舞台のうしろでにが笑ひをしてゐました。
四
小さなサーカスは村々を熱心にうつてまはりましたが、みいりは、ほんの、みんなが、かつかつたべていけるだけの、わづかなものでした。
そのうちに一頭の馬が病気で死んでしまひました。「おしいことをしたなァ。」と団長をはじめ、留ぢいさんもお千代も正坊も五郎も馬の死がいをとりまいてなげきました。
それから一月もたつたある朝、目をさました見ると、団長と、お千代と正坊の三人きりをのこして、ほかの軽業師はみんな小屋をにげ出してゐました。これではいよいよ興行をすることが出来なくなりました。団長も仕方なくわかれわかれになることに話をきめました。
クロはをりに入れられたまゝ、車にゆられて、町の動物園に売られにいきました。
正坊とお千代は、のこつた一頭の馬と、天幕やテイブルや椅子なぞを売りはらつてできたお金をもらひました。
「団長さんは何にもなくなつてどうするの。」と正坊がたづねますと、団長はさびしさうに笑つて、
「何にもなくつて家を出たんだから、何にもなくなつて家へかへるんだよ。」といひました。団長は町の警察にたのんで、正坊とお千代をメリヤスの工場へ住みこませてもらひました。
五
クロは町の動物園に飼はれるやうになつてからは毎日、力のない目で、青い空の方ばかりを見上げてゐました。正坊やお千代さんはどうしてゐるんだらうなァ、もう一どあつて、あの「勇敢なる水兵」の曲がきゝたいなァと、そんなことを思ひつゞけてでもゐるやうな、かつこうでした。
をりのまへには毎日いろんな着物をきたいろんな子どもたちがたちふさがりました。クロは正坊やお千代さんがもしか来てゐるかもしれないと思つて見まはしました。それは、正坊だつたら、赤と白のダンダラ服をきてゐるから、すぐ分ると思つたからでした。やめのやうにボンヤリそんなことを思ひつゞけてゐるとき、すぐ鼻のさきで、
「クロ。」とよぶ、きゝなれたこゑがひゞきました。クロはものうい目を上げてこゑのする方をのぞきました。
ウゝウゝ、ウゝウ、
ウゝウゝウ。
ウゝウゝ、ウゝウ、
ウゝウゝウ、
と正坊は、「勇敢なる水兵」の曲をうなりだしました。クロは急にからだ中に血がめぐり出してきたやうに、勇ましく立ち上つて、サーカスでしてゐたときのやうに、歩調をとつて、をりの中をあるきまはりました。それから金棒の間から口を出して、なつかしさうに、正坊の方を仰ぎ見ました。ダンダラの服はきてゐませんでしたが、正坊にちがひないことが分ると、クロはウオーンウオーンと、のどをしぼるやうな、うれしなきのさけびをあげました。
正坊はニコニコしながら、ふくろからビスケットをつかみ出して、クロの口の中へ入れてやり、なんどもなんども鼻のうへをなでゝやりました。
正坊のうしろでは、お千代が涙ぐんだ目をして見てゐました。二人は、はじめての定休日にクロを見に来たのでした。(をはり)
【正坊とクロ(『花のき村と盗人たち』版)】
一
村々を興行してあるくサーカス団がありました。十人そこそこの軽業師と、年をとつた黒熊と馬二頭だけの小さな団です。馬は舞台に出るほかに、次の土地へうつつていくとき、赤いラシヤの毛布なぞをきて、荷車をひく役目をもしてゐました。
或る村へ着きました。座員たちは、みんなで手わけをして、たばこ屋の板かべや、お湯屋の壁に、赤や黄色で刷つたきれいなビラを張つてあるきました。村の大人も子どもも、つよいインキのにほひのするそのビラをとりまいてお祭のやうによろこびさわぎました。
テント張りの小屋がかかつてから、三日目のおひるすぎのことでした。見物席からわあッといふ歓声といつしよにぱちぱちと拍手の音がひびいてきました。すると、ダンスををはつたお千代さんが、うすももいろのスカートをひらひらさせて、舞台うらへ、ひきさがつてきました。つぎは熊のクロが出る番になつてゐました。熊つかひの五郎が、やうかんいろになつたビロードの上着をつけ、長靴をはいて、シユツシユツとむちをならしながら、をりのそばへいきました。
「さあ、クロ公、出番だ。しつかりたのむよ。」と、笑ひながら、とびらをあけましたが、どうしたのかクロは、いつものやうにたち上つて来る様子が見えません。おやと思つて五郎がこごんでみますと、クロはからだ中汗だくになつて、目をつむり、歯をくひしばつて、ふとい息をついてゐるのです。
「たいへんだ、団長さん。クロが腹いたをおこしたらしいです。」
団長もほかの座員もドカドカと集つてきました。五郎は団長と二人がかりで、竹の皮でくるんだ黒い丸薬をのませようとしましたが、クロはくひしばつた口からフウフウあわをふきふき、首をふりうごかしてどうしても口をひらきません。しばらくしてピリピリッとお腹のあたりが波をうつたとおもひますと、クロは四つんばいになつて、をりの中をこまのやうにくるひまはりました。それから、わらの床にドタリとたふれて、ふうッと大きくいきをふいて、目をシヨボシヨボさせてゐます。
見物席の方からは、つぎの出しものをさいそくする拍手の音がパチパチひびいてきます。そこで、とうとう道化役の佐吉さんが、クロにかはつて、舞台に出ることにしました。そのとき、だれかが、
「正坊がゐたら、薬をのむがなァ。」と、ためいきをつくやうに言ひました。団長は
「さうだ。お千代、正坊をつれてこい。」と太いだみごゑで命じました。お千代は、馬を一頭ひき出してダンスすがたのままひらりとまたがると、白いたんぼ道を、となり村へ向かつてかけていきました。
二
正坊は初日のはしご乗りで、足をひねつてすぢをつらせ、となり村の病院にはいつてゐるのです。
正坊の病室の窓ぎはには、あをぎりが葉つぱをひろげて、部屋の中へ青いかげをなげ入れてゐました。正坊は白いねまきのままベッドの上にすわつて、あをぎりの幹は象の足みたいだなァと思ひながら、ガラスの向かふをながめてゐました。すると門の方でひづめの音がしました。やがてだれかが廊下をつたはつてこちらへやつて来るやうです。ドアの向かふにお千代さんの顔を見つけ出すと、正坊はとび上つてよろこびました。
「姉さん、ぼく、もうなほつたよ。さつきもここでとんぼがへりをうつて見たの。」
お千代さんは、いつも正坊を、ほんたうの弟のやうにかはいがつてゐるのでした。
「へえ、早くなほつてよかつたわね。あのね、正ちやん、たいへんなのよ。クロが腹いたをおこしちやつて、お薬をのませようとしてものまないの、みんな困つてるの。だから正ちやんをよびにきたのよ。」
「クロが? ではぼく、かへる。もうすつかりいいんだもの。」
二人は院長さんにお許しをいただいて、一しよに馬にのつてかへつていきました。看護婦さんは門の外へまで出て、見おくつてくれました。
三
「クロ、ぼくだよ。クロ。」
正坊は手のひらに丸薬をのせて、右手でかるくクロの鼻のうへをなでさすりました。クロはさつきよりは、いくらかおちついてゐましたが、でも目のいろは、まだとろりとうるんで、生気がありません。ふうふういきをするたびに、鼻さきのわらくづが、動きます。
正坊はふと思ひついて、「勇敢なる水兵」の曲をウウウ、ウ、ウとうたひだしました。
それはいつも正坊とクロが舞台に出ていくときの楽しい曲なのです。クロは正坊の歌声をきいて、しばらく耳をピクピクさせてゐましたが、やがて、ヒヨコリと立ち上りました。正坊がすかさず手のひらの丸薬を口の中へおしこむと、クロはざうさなくペロリとのみこみました。
こんなことがあつてから、正坊とクロは、まへよりも又いつそうはなれられない仲よしになり、見物人からも団の人気ものにされました。
これも、やはり、或る村で興行してゐたときでした。いつも正坊やクロといつしよにでて、喜劇をする道化役の佐吉さんが、一座からぬけて、にげ出してしまつたのでその代りを、ふとつた団長がつとめることになりました。
「クロ、出る番だよ。」
正坊はクロををりの中から出すと、例によつて鼻のうへをなでさすりながら、クロの大好きなビスケットを口の中へ入れてやりました。
舞台では留ぢいさんが「勇敢なる水兵」のラッパをならしはじめました。
ラロラゝ、ラゝゝ、
ラロ、ラロ、ラ、
ラロラゝ、ラロラ、
ラロ、ラロラ。
ラロ、ラロ、ラロラ、
ラロ、ラロ、ラ。
正坊は白い鳥の羽根のついた軍帽をかぶり、金ピカのおもちやの剣を腰につるして、将軍になりすまして、クロのせなかにのつかりました。クロはラッパの音に歩調を合はせて元気よく、舞台へ出ていきました。
「あらはれましたのは、ソコヌケ将軍と愛馬クロにござァい。」
留ぢいさんが口上をのべますと、正坊はクロのせなかから、コロリところげおちてみせました。見物はどつと笑つて手をたたきました。
「将軍はただ今から、盗賊退治に出発のところでござァい。」
クロが、ああんと赤い口をあけました。将軍の正坊は、クロの背中にまたがつたまま、ポケットからビスケットをつかみ出して、口の中へ入れてやりました。クロは正坊の手首までくはへてしまひました。正坊は目をパチクリさせて、またクロのせなかからおつこちて見せて、見物をよろこばせました。
やがて賊にふんした団長が、銀紙をはつた、キラキラした大太刀をひつつかんで出てきました。正坊のソコヌケ将軍はそれと見ると、おどろいて、ブルブルふるへながら、剣をはうり出して、クロの首つ玉にしがみつきました。見物の子どもたちが又どつとこゑをあげてわらひました。
「こらッ。」
団長は、つけひげをつけた、ひげだらけの顔に、するどく、とがつた目をむいて、身がまへをしました。クロはちらつと団長のそのおそろしい顔を見ました。それは団長がいつも正坊をおこりつけるときの顔でした。そこでクロはてつきり、団長がいつものやうに、ほんとにおこつて正坊を竹の刀でなぐりつけるのだと思ひました。
「こらッ。」
団長はまた、太刀をふりかぶりました。と、クロは、ウワウッと一こゑほえるといつしよに、正坊のからだをかるがるとくはへて、あつといふうちに、見物の中をかけぬけて、テントの外へとび出してしまひました。これには見物も団長も留ぢいさんもあつけにとられてしまひました。正坊もびつくりしてしまひました。
やがてテントの外の原つぱにおろされると、正坊はクロの頭やせなかをやさしくなでまはして、なだめすかしました。そしてやつと、舞台へつれてかへると、まづ見物席に向かつておわびを言ひ、賊のすがたの団長にあやまりました。見物はかへつて、やんやとはしやぎさわいで喜びました。団長は舞台のうしろでにが笑ひをしてゐました。
四
小さなサーカスは村々を熱心にうつてまはりましたが、みいりは、ほんの、みんなが、かつかつたべていけるだけの、わづかなものでした。
そのうちに一頭の馬が病気で死んでしまひました。「をしいことをしたなァ。」と団長をはじめ、留ぢいさんもお千代さんも正坊も五郎も馬の死がいをとりまいてなげきました。
それから一月もたつたある朝、目をさました見ると、団長と、お千代さんと正坊の三人きりをのこして、ほかの軽業師はみんな小屋をにげ出してゐました。これではいよいよ興行をすることが出来なくなりました。団長もしかたなくわかれわかれになることに話をきめました。
クロはをりに入れられたまま、車にゆられて、町の動物園に売られていきました。
正坊とお千代さんは、のこつた一頭の馬と、天幕やテイブルや椅子なぞを売りはらつてできたお金をもらひました。
「団長さんは何にもなくなつてどうするの。」と正坊がたづねますと、団長はさびしさうに笑つて、
「何にもなくつて家を出たんだから、何にもなくなつて家へかへるんだよ。」といひました。団長は町の警察にたのんで、正坊とお千代さんをメリヤス工場へ住みこませてもらひました。
五
クロは町の動物園に飼はれるやうになつてからは毎日、力のない目で、青い空の方ばかりを見上げてゐました。正坊やお千代さんはどうしてゐるんだらうなァ、もういちどあつて、あの「勇敢なる水兵」の曲がききたいなァと、そんなことを思ひつづけてでもゐるやうな、かつこうでした。
をりのまへには毎日いろんな着物をきたいろんな子どもたちがたちふさがりました。クロは正坊やお千代さんがもしか来てゐるかもしれないと思つて見まはしました。それは、正坊だつたら、赤と白のダンダラ服をきてゐるから、すぐ分ると思つたからでした。やめのやうにボンヤリそんなことを思ひつづけてゐるとき、すぐ鼻のさきで、
「クロ。」とよぶ、ききなれたこゑがひびきました。クロはものうい目を上げてこゑのする方をのぞきました。
ウゝウゝ、ウゝウ、
ウゝウゝウ。
ウゝウウ、ウゝウ、
ウゝウゝウ、
と正坊は「勇敢なる水兵」の曲をうなりだしました。クロは急にからだ中に血がめぐり出してきたやうに、勇ましく立ち上つて、サーカスでしてゐたときのやうに、歩調をとつて、をりの中をあるきまはりました。それから金棒の間から口を出してなつかしさうに、正坊の方を仰ぎ見ました。ダンダラの服はきてゐませんでしたが、正坊にちがひないことが分ると、クロはウオーンウオーンと、のどをしぼるやうなうれしなきのさけびをあげました。
正坊はニコニコしながら、ふくろからビスケットをつかみ出して、クロの口の中へ入れてやり、なんどもなんども鼻のうへをなでてやりました。
正坊のうしろでは、お千代が涙ぐんだ目をして見てゐました。二人は、はじめての定休日にクロを見に来たのでした。
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