【うた時計】

 二月のある日、野中のさびしい道を、十二三の少年と、皮のかばんをかかへた三十四五の男の人とが、同じ方へ歩いて行つた。
 風が少しもない暖かい日で、もう霜がとけて道はぬれてゐた。
 かれ草にかげを落して遊んでゐる烏が、二人のすがたにおどろいて土手を向かふにこえるとき、黒いせなかがきらりと陽の光をはんしやするのであつた。
「坊、一人でどこへ行くんだ。」
 男の人が少年に話しかけた。
 少年はポケットにつつこんでゐた手を、そのまま二三度前後にゆすり、人なつこいゑみをうかべた。
「町だよ。」
 これは、へんにはづかしがつたり、いやに人をおそれたりしない、すなほな子供だなと、男の人は思つたやうだつた。
 そこで二人は話しはじめた。
「坊、なんて名だ。」
「れんていふんだ。」
「れん? れん平か。」
「ううん。」
と少年は首をよこにふつた。
「ぢや、れん一か。」
「さうぢやないよ、をぢさん。ただね、れんていふのさ。」
「ふうん。どういふ字書くんだ。聯隊の聯か。」
「ちがふ。てんをうつて、一を書いて、ノを書いて、二つてんをうつて…」
「むつかしいな。をぢさんはあまりむつかしい字は知らんよ。」
 少年はそこで、地べたに木ぎれで「廉」と大きく書いて見せた。
「ふうん、むつかしい字だな、やつぱり。」
 二人はまた歩き出した。
「これね、をぢさん、清廉潔白の廉て字だよ。」
「なんだい、そのセイレンケッパクてのは。」
「清廉潔白といふのは、何にもわるいことをしないので、神様の前へ出ても、じゆんさにつかまつても平気だといふことだよ。」
「ふうん、じゆんさにつかまつてもな。」
「をじさん、聯隊にゐたの。」
「うん、ずつと前にゐたよ。」
「せうしふ来ないの。」
「ああ、よそへ行つてをつたもんだから。」
「どこ。」
「聯隊みたいなところだよ。」
 さういつて男の人はにやりと笑つた。
「をぢさんのオーバのポケット大きいね。」
「うん、そりや大人のオーバは大きいから、ポケットも大きいさ。」
「あつたかい?」
「ポケットの中かい? そりやあつたかいよ。ぽこぽこだよ。こたつがはいつてゐるやうなんだ。」
「僕、手を入れてもいい?」
「へんなことをいふ小僧だな。」
 男の人は笑ひだした。でも、かういふ少年がゐるものだ。近づきになると、あひてのからだにさはつたり、ポケットに手を入れたりしないと、しようちができぬといふ、ふうがはりな、人なつこい少年が。
「入れたつていいよ。」
 少年は、男の人の外套のポケットに手を入れた。
「何だ、ちつともあつたかくないね。」
「はツは、さうかい。」
「僕たちの先生のポケットは、もつとぬくいよ。朝僕たちは学校へ行く時、かはりばんこに先生のポケットに手を入れてゆくんだ。木山先生といふのさ。」
「さうかい。」
「をぢさんのポケット、なんだかかたい冷たいものがはいつてるね。これ何?」
「なんだと思ふ。」
「かねでできてるね…大きいね…何かねぢみたいなもんがついてるね。」
 するとふいに、男の人のポケットから、美しい音楽が流れ出したので、二人はびつくりした。男の人はあわててポケットを上からおさへた。しかし音楽はとまらなかつた。それから男の人はあたりを見まはして、少年のほかには誰も人がゐないことを知ると、ほつとしたやうすであつた。天国で小鳥が歌つてでもゐるやうな美しい音楽は、まだつづいてゐた。
「をぢさん、わかつた、これ時計だらう。」
「うん、オルゴールつてやつさ。お前がねぢをさはつたもんだから、歌ひ出したんだよ。」
「僕、この音楽、だいすきさ。」
「さうかい、お前もこの音楽知つてるのかい。」
「うん。をぢさん、これ、ポケットから出してもいい?」
「出さなくつてもいいよ。」
 すると音楽は終つてしまつた。
「をぢさん、もう一ぺん鳴らしてもいい?」
「うん。だアれも聞いてやしないだらうな。」
「どうしてをぢさん、そんなにきよろきよろしてるの。」
「だつて、誰か聞いてゐたら、をかしく思ふだらう。大人がこんな子供のおもちやを鳴らしてゐては。」
「さうね。」
 そこで、また男の人のポケットが歌ひはじめた。
 二人はしばらくその音をききながら、だまつて歩いた。
「をぢさん、こんな物をいつも持つて歩いてるの。」
「うん。をかしいかい。」
「をかしいなア。」
「どうして。」
「僕がよく遊びにゆく薬屋のをぢさんの家にも、うた時計があるけどね、大事にして店のちんれつだなの中に入れてあるよ。」
「なんだ、坊、あの薬屋へよく遊びに行くのか。」
「うん、よく行くよ。僕の家のしんるゐだもん。をぢさんも知つてるの。」
「うん…ちよつと、をぢさんも知つてゐる。」
「あの薬屋のをぢさんはね、そのうた時計をとても大事にしてゐてね。僕たち子供になかなかさはらせてくれないよ…あれツ、またとまつちやつた。もういつぺん鳴らしてもいい?」
「きりがないぢやないか。」
「もう一ぺんきり。ね、をぢさんいいだろ、ね、ね。あ、鳴り出しちやつた。」
「こいつ、じぶんで鳴らしといて、あんなこといつてやがる。ずるいぞオ。」
「僕、知らないよ。手がちよつとさはつたら鳴り出したんだもん。」
「あんなこといつてやがる。そいで坊は、その薬屋へよく行くのか。」
「うん、ぢき近くだからよく行くよ。僕、そのをぢさんと仲よしなんだ。をぢさんはね、日露戦争の勇士だよ。左のうでにたまのあとがあるんだ。」
「ふうん。」
「でも、日露戦争の話、なかなかきかしてくれないよ。」
「さうかい。」
「ロシヤがね、機関銃を使つたんだつて。」
「さうかい。」
「をぢさんはね、一ぺん死んぢやつたんだつて、そして気がついたらロシア軍のまん中にゐたんで、それから夢中で逃げ出したんだつて。」
「ふうん。」
「でも、なツかなかその話きかしてくれないんだ。うた時計は、がいせんしてかへるときにね、大阪で買つて来たんだつて。」
「ふうん。」
「でも、なツかなか、うた時計を鳴らしてくれないんだ。うた時計が鳴るとね、をぢさんはさびしい顔をするよ。」
「どうして?」
「をぢさんはね、うた時計をきくとね、どういふわけか周作さんのことをおもひ出すんだつて。」
「えッ…ふうん。」
「周作つて、をぢさんの子供なんだよ。不良少年になつてね、学校がすむとどつかへ行つちやつたつて。もうずゐぶん前のことだよ。」
「その薬屋のをぢさんは、その周作…とかいふ息子のことを何とかいつてるかい。」
「ばかなやつだつて、いつてるよ。」
「さうかい。さうだなア、ばかだな、そんなやつは。あれ、もうとまつたな。坊、もう一どだけ鳴らしてもいいよ。」
「ほんと?…ああ、いい音だなア。僕の妹のアキコがね、とつてもうた時計がすきでね、死ぬまへにもう一ぺんあれをきかしてくれつて泣いてぐづつたのでね、薬屋のをぢさんとこから借りて来てきかしてやつたよ。」
「…死んぢやつたのかい。」
「うん、をととしのお祭の前にね。やぶの中のおぢいさんのそばにお墓があるよ。川原からおとうさんがこのくらゐの円い石を拾つて来て立ててある、それがアキコのお墓さ、まだ子供だもんね。そいでね、命日に僕がまた薬屋からうた時計をかりて来て、やぶの中で鳴らして、アキコにきかしてやつたよ。やぶの中で鳴らすと、すずしいやうな声だよ。」
「うん…」
 二人は大きな池のはたに出た。向かふ岸の近くに黒く二三羽の水鳥がうかんでゐるのが見えた。それを見ると少年は、男の人のポケットから手をぬいて、両手をうちあはせながら歌つた。
「ひイよめ、
ひよめ、
だんご、やアるに
くウぐウれツ」
 少年の歌ふのをきいて、男の人がいつた。
「今でも、その歌を歌ふのかい。」
「うん、をぢさんも知つてゐるの。」
「をぢさんも、子供のじぶん、さういつて、ひよめにからかつたものさ。」
「をぢさんも小さい時、よくこの道をかよつたの。」
「うん、町の高等科へかよつたもんさ。」
「をぢさん、またかへつて来る?」
「うん…どうかわからん。」
 道が二つにわかれてゐるところに来た。
「坊はどつちイ行くんだ。」
「こつち。」
「さうか、ぢや、さいなら。」
「さいなら。」
 少年は一人になると、じぶんのポケットに手をつつこんで、ぴよこんぴよこんと跳ねながら行つた。
「坊ウ、ちよつと待てよオ。」
 遠くから男の人が呼んだ。少年はけろんと立ちどまつてそつちを見たが、男の人がしきりに手をふつてゐるので、またもどつて行つた。
「ちよつとな、坊。」
 男の人は少年がそばに来ると、少しきまりのわるいやうな顔をしていつた。
「実はな、坊、をぢさんは昨夜その薬屋の家でとめてもらつたのさ。ところが今朝出る時あわてたもんだから、まちがへて薬屋の時計を持つて来てしまつたんだ。」
「…」
「坊、すまんけど、この時計とそれからこいつも(と外套の内かくしから小さい懐中時計をひつぱり出して)まちがへて持つて来ちまつたから、薬屋に返してくれないか。な、いいだろ。」
「うん。」
 少年はうた時計と懐中時計を両手にうけとつた。
「ぢや、薬屋のをぢさんによろしくいつてくれよ。さいなら。」
「さいなら。」
「坊、何て名だつたつけ。」
「清廉潔白の廉だよ。」
「うん、それだ、坊はその清廉…何だつけな。」
「潔白だよ。」
「うん。潔白、それでなくちやいかんぞ。さういふりつぱな正直な大人になれよ。ぢや、ほんとにさいなら。」
「さいなら。」
 少年は両手に時計を持つたまま男の人を見送つてゐた。男の人はだんだん小さくなり、やがて稲積の向かふに見えなくなつてしまつた。少年はてくてくと歩き出した。歩きながら、何かふに落ちないものがあるやうに、ちよつと首をかしげた。
 まもなく少年のうしろから自転車が一だい追つかけて来た。
「あツ、薬屋のをぢさん。」
「おウ、廉坊、お前か。」
 えりまきであごをうづめた、年よりのをぢさんは自転車から下りた。そしてしばらくの間咳のためものが言へなかつた。その咳は、冬の夜枯木のうれをならす風の音のやうに、ひゆうひゆういつた。
「廉坊、お前は村から、ここまで来たのか。」
「うん。」
「そいぢや、今しがた村から誰か男の人が出て来るのと、いつしよにならなかつたか。」
「いつしよだつたよ。」
「あツ、そ、その時計、お前はどうして…」
 老人は少年が手に持つてゐるうた時計と懐中時計に眼をとめていつた。
「その人がね、をぢさんの家でまちがへて持つて来たから、返してくれつていつたんだよ」
「返してくれろつて?」
「うん。」
「さうか、あのばかめが。」
「あれ、誰なの、をぢさん。」
「あれか。」
 さういつて老人はまた長く咳入つた。
「あれは、うちの周作だ。」
「えツ、ほんと?」
「昨日、十何年ぶりで家へもどつて来たんだ。長い間わるいことばかりして来たけれど、今度こそ改心してまじめに町の工場ではたらくことにしたから、といつて来たんで、一晩とめてやつたのさ。そしたら、今朝わしが知らんでゐる間に、もう悪い手くせを出して、この二つの時計をくすねて出かけやがつた。あのごくだうめが。」
「をぢさん、そいでもね、まちがへて持つて来たんだつてよ。ほんとにとつてゆくつもりぢやなかつたんだよ。僕にね、人間は清廉潔白でなくちやいけないつていつてたよ。」
「さうかい。…そんなことを言つていつたか。」
 少年は老人の手に二つの時計を渡した。うけとるとき老人の手はふるへて、うた時計のねぢにふれた。すると時計はまた美しく歌ひ出した。
 老人と、少年と、立てられた自転車が、広い枯野の上にかげを落して、しばらく美しい音楽にきき入つた。老人は眼になみだをうかべた。
 少年は、老人から眼をそらして、さつきの男の人がかくれていつた遠くの稲積の方を眺めてゐた。
 野のはてに白い雲がひとつ浮いてゐた。


【うた時計・少国民の友】

 二月のある日、野中のさびしい道を、十二三の少年と、かはのかばんをかゝへた三十四五の男の人とが、同じ方へ歩いて行つた。
 風が少しもない暖い日で、もうしもがとけて道はぬれてゐた。かれ草にかげを落して遊んでゐる烏が二人のすがたにおどろいて土手を向かふにこえるとき、黒いせなかがきらりと陽の光をはんしやするのであつた。
『坊、一人でどこへ行くんだ。』
 男の人が少年に話しかけた。少年はポケツトにつつこんでゐた手を、そのまゝ二三度前後にゆすり、人なつこいゑみをうかべた。
『町だよ。』
 これは、へんにはづかしがつたり、いやに人をおそれたりしない、すなほな子供だなと、男の人は思つたやうだつた。
 そこで二人は話しはじめた。
『坊、なんて名だ。』
『れんていふんだ。』
『れん? れん平か。』
『うゝん。』と少年は首をよこにふつた。
『ぢや、れん一か。』
『さうぢやないよ、をぢさん。たゞね、れんていふのさ。』
『ふうん。どういふ字書くんだ。聯隊の聯か。』
『ちがふ。てんをうつて、一を書いて、ノを書いて、二つてんをうつて…』
『むつかしいな。をぢさんは、あまりむつかしい字は知らんよ。』
 少年はそこで、地べたに木ぎれで『廉』と大きく書いて見せた。
『ふうん、むつかしい字だな、やつぱり。』
 二人はまた歩き出した。
『これねをぢさん、清廉潔白の廉て字だよ。』
『なんだい、そのセイレンケツパクてのは。』
『清廉潔白といふのは、何にもわるいことをしないので、神様の前へ出ても、じゆんさにつかまつてもへいきだといふことだよ。』
『ふうん、じゆんさにつかまつてもな。』
『をじさん、れんたいにゐたの。』
『うん、ずつと前にゐたよ。』
『せうしふ来ないの。』
『あゝ、よそへ行つてをつたもんだから。』
『どこ。』
『れんたいみたいなところだよ。』
 さういつて男の人はにやりと笑つた。
『をぢさんのオーバのポケツト大きいね。』
『うん、そりや大人のオーバは大きいから、ポケツトも大きいさ。』
『あつたかい?。』
『ポケツトの中かい? そりやあつたかいよ。ぽこぽこだよ。こたつがはいつてゐるやうなんだ。』
『僕、手を入れてもいゝ?』
『へんなことをいふ小ぞうだな。』
 男の人は笑ひだした。でも、かういふ少年がゐるものだ。近づきになると、あひてのからだにさはつたり、ポケツトに手を入れたりしないと、しようちが出来ぬといふ、風がはりな、人なつこい少年が。
『入れたつていゝよ。』
 少年は、男の人の外套のポケツトに手を入れた。
『何だ、ちつともあつたかくないね。』
『はつは、さうかい。』
『僕たちの先生のポケツトは、もつとぬくいよ。朝僕たちは学校へ行く時、かはりばんこに先生のポケツトに手を入れてゆくんだ。木山先生ていふのさ。』
『さうかい。』
『をぢさんのポケツト、なんだかかたいつめたいものがはいつてるね。これ何?。』
『なんだと思ふ。』
『かね出来てるね、…大きいね…何かねぢみたいなもんがついてるね。』
 するとふいに、男の人のポケツトから、美しい音楽が流れ出したので、二人はびつくりした。男の人はあわててポケツトを上からおさへた。しかし音楽はとまらなかつた。それから男の人はあたりを見まはして、少年のほかには誰も人がゐないことを知ると、ほつとしたやうすであつた。天国で小鳥が歌つてでもゐるやうな美しい音楽は、まだつゞいてゐた。
『をぢさん、わかつた、これ時計だらう。』
『うん、オルゴールつてやつさ。お前がねぢをさはつたもんだから、歌ひ出したんだよ。』
『僕、この音楽、大すきだ。』
『さうかい、お前もこの音楽知つてるのかい。』
『うん。をぢさん、これ、ポケツトから出してもいい?』
『出さなくつてもいゝよ。』
 すると音楽は終つてしまつた。
『をぢさん、もう一ぺん鳴らしてもいゝ。』
『うん。だアれも聞いてやしないだらうな。』
『どうしてをぢさん、そんなにきよろきよろしてるの。』
『だつて、誰か聞いてゐたら、をかしく思ふだらう。大人がこんな子供のおもちやを鳴らしてゐては。』
『さうね。』
 そこで、また男の人のポケツトが歌ひはじめた。
 二人はしばらくその音をききながら、だまつて歩いた。
『をぢさん、こんな物をいつも持つて歩いてるの。』
『うん。をかしいかい。』
『をかしいなア。』
『どうして。』
『僕がよく遊びにゆく薬屋のをぢさんの家にもうた時計があるけどね、大事にして店のちんれつだなの中に入れてあるよ。』
『なんだ、坊、あの薬屋へよく遊びにゆくのか。』
『うん、よく行くよ。僕の家のしんるゐだもん。をぢさんも知つてるの。』
『うん…ちよつと、をぢさんも知つてゐる。』
『あの薬屋のをぢさんはね、そのうた時計をとても大事にしてゐてね。僕たち子供にはなかなかさはらせてくれないよ…あれツ、またとまつちやつた。もう一ぺん鳴らしてもいゝ。』
『きりがないぢやないか。』
『もう一ぺんきり。ね、をぢさんいゝだろ、ね、ね。あ、鳴り出しちやつた。』
『こいつ、じぶんで鳴らしといて、大目に見てやらう。ずるいぞウ。』
『僕、知らないよ。手がちよつとさはつたら鳴り出したんだもん。』
『あんなこといつてやがる。そいで坊は、その薬屋へよくゆくのか。』
『うん、ぢき近くだからよく行くよ。僕そのをぢさんと仲よしなんだ。をぢさんはね、日露戦争の勇士だよ。左のうでにたまのあとがあるんだ。』
『ふうん。』
『でも、日露戦争の話、なかなかきかしてくれないよ。』
『さうかい。』
『ロシヤがね、機関銃をね、使つたんだつて。』
『さうかい。』
『をぢさんはね、一ぺんとりこになつてね、逃げ出したんだつて。』
『ふうん。』
『でも、なツかなかその話きかしてくれないよ。うた時計はがいせんしてかへるときにね、大阪で買つて来たんだつて。』
『ふうん。』
『でもね、なツかなか、うた時計を鳴らしてくれないんだ。うた時計がなるとね、をぢさんはさびしい顔をするよ。』
『どうして。』
『をぢさんはね、うた時計をきくとね、どういふわけか周作さんのことをおもひ出すんだつて。』
『えつ…ふうん。』
『周作つて、をぢさんの子供なんだよ。不良少年になつてね、学校がすむとどつかへ行つちやつたつて。もうずゐぶん前のことだよ。』
『その薬屋のをぢさんは、その周作…とかいふむすこのことを何とかいつてるかい。』
『ばかなやつだつて、いつてるよ。』
『さうかい。さうだなア、ばかだな、そんなやつは。あれ、もうとまつたな。坊、もう一どきり鳴らしてもいゝよ。』
『ほんと?…ああ、いい音だなア。僕の妹のアキコがね、とつてもうた時計がすきでね、死ぬまへにも一ぺんあれをきかしてくれつて泣いてぐづつたのでね、薬屋のをぢさんとこからかりて来てきかしてやつたよ。』
『…死んぢやつたのかい。』
『うん、一昨年のお祭の前に。やぶの中のおぢいさんのそばにおはかがあるよ。川原からおとうさんがこの位の円い石を拾つて来て立ててある。それがアキコのおはかさ、まだ子供だもんね。そいでね、命日に僕がまた薬屋からうた時計をかりて来て、やぶの中でならして、アキコにきかしてやつたよ。やぶの中で鳴らすと、すゞしいやうな声だよ。』
『うん…』
 二人は大きな池のはたに出た。向かふ岸の近くに黒く二三羽の水鳥がうかんでゐるのが見えた。それを見ると少年は男の人のポケツトから手をぬいて、両手をうちあはせながら歌つた。
『ひーよめ、
ひよめ、
だんご、やアるに
くウぐウれツ』
 少年の歌ふのをきいて男の人がいつた。
『今でも、その歌を歌ふのかい。』
『うん、をぢさんも知つてるの。』
『をぢさんも、子供のじぶん、さういつて、ひよめにからかつたものさ。』
『をぢさんも小さい時、よくこの道をかよつたの。』
『うん、町の高等学校へかよつたもんさ。』
『をぢさん、またかへつて来る?』
『うん…どうかわからん。』
 道が二つにわかれてゐるところに来た。
『坊はどつちイゆくんだ。』
『こつち。』
『さうか、ぢや、さいなら。』
『さいなら。』少年は一人になると、じぶんのポケツトに手をつゝこんで、ぴよこんぴよこんとはねながらすゝんで行つた。
『坊ウ、ちよつと待てよウ。』
 遠くから男の人が呼んだ。少年はけろんと立ちどまつてそつちをみたが、男の人がしきりに手をふつてゐるので、またもどつていつた。
『ちよつとな、坊。』
 男の人は少年がそばに来ると、少しきまりのわるいやうな顔をしていつた。
『実はな坊、をぢさんは昨夜、その薬屋の家でとめてもらつたのさ。ところが今朝出て来る時あわてたもんだから、まちがへて薬屋の時計を持つて来てしまつたんだ。』
『…』
『坊、すまんけど、この時計とそれからこいつも(と外套の内かくしから小さい懐中時計をひつぱり出して)まちがへて持つて来ちまつたから、薬屋に返してくれないか。な、いゝだろ。』
『うん。』
 少年はうた時計と懐中時計を両手にうけとつた。
『ぢや、薬屋のをぢさんによろしくいつてくれよ。さいなら。』
『さいなら。』
『坊、何て名だつけ。』
『清廉潔白の廉だよ。』
『うん、それだ、坊はその清廉…何だつけな。』
『潔白だよ。』
『うん。潔白、それでなくちやいかんぞ。さういふりつぱな正直な大人になれよ。ぢや、ほんとにさいなら、さいなら。』
『さいなら。』
 少年は両手に時計を持つたまゝ男の人を見送つてゐた。男の人はだんだん小さくなり、やがて稲積の向かふに見えなくなつてしまつた。少年はてくてくと歩き出した。歩きながら、何かふに落ちないものがあるやうに、ちよつと首をかしげた。まもなく少年のうしろから自転車が一だい追つかけて来た。
『あツ、薬屋のをぢさん。』
『おウ、廉坊、お前か。』
 えりまきであごをうづめた、年よりのをぢさんは自転車から下りた。そしてしばらくの間、せきのためにいへなかつた。そのせきは、冬の夜枯木のうれをならす風の音のやうに、ひゆうひゆういつた。
『廉坊、お前は村から、こゝまで来たのか。』
『うん。』
『そいぢや、今しがた村から誰か男の大人が出て来るのと、いつしよにならなかつたか。』
『いつしよだつたよ。』
『あツ、そ、その時計、お前はどうして…』
 老人は少年が手に持つてゐるうた時計と懐中時計に眼をとめていた。
『その人がね、をぢさんの家でまちがへて持つて来たから、返してくれつていつたんだよ。』
『返してくれろつて?。』
『うん。』
『さうか、あのばかめが。』
『あれ、誰なの、をぢさん。』
『あれか。』さういつて老人はまた長くせきいつた。
『あれは、うちの周作だ。』
『えツ、ほんと?。』
『昨日、十何年ぶりで家へもどつて来たんだ。長い間わるいことばかりして来たけれど、今度こそ改心してまじめに町の工場にはたらくことにしたから、といつて来たんで、一晩とめてやつたのさ。そしたら、今朝わしが知らんでゐる間に、もう悪い手くせを出して、この二つの時計をくすねて出かけやがつた。あのごくだうめが。』
『をぢさん、そいでもね、まちがへて持つて来たんだつてよ。ほんとにとつてゆくつもりぢやなかつたんだよ。僕にね、人間は清廉潔白でなくちやいけないつていつてたよ。』
『さうかい。…そんなことをいつて行つたか。』
 少年は老人の手に二つの時計を渡した。うけとるとき老人の手はふるへて、うた時計のねぢにふれた。すると時計はまた美しく歌ひ出した。
 老人と少年と立てられた自転車が、広い枯野の上にかげを落して、しばらく美しい音楽にきき入つた。老人は目になみだをうかべた。
 少年は、老人から眼をそらして、さつきの男の人がかくれていつた遠くの稲積の方を眺めてゐた。