「蜘蛛となめくぢと狸」論

向川幹雄



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 「蜘蛛となめくぢと狸」の成立について賢治の弟・清六は、「この夏に(1918年のこと―引用者)、私は兄から童話『蜘蛛となめくぢと狸』と『双子の星』を読んで聞かされたことをその口調まではっきりおぼえている」と記し(「兄賢治の生涯」=『宮沢賢治研究』筑摩書房、69年)、校本全集もこの説を踏襲、他の資料がない現在、本稿でもこの説にしたがって、1918年賢治・21歳の成立としておく。この作品は彼が童話を書き始めたころのものとして注目されるものの、文芸としての完成度やおもしろさ、まして子どもの文芸という点から言えば、未熟さは否めない。ただ後の作品へ発展する萌芽は数多く見られるし、賢治の文芸や思想を問うには興味ある作品と考える。以下『校本宮沢賢治全集 第7巻』(筑摩書房)を底本に論をすすめる。
 まず題名から考えたい。主たる三人(なぜ「三人」かは後述)の登場人物を「と」でつなぐ題名は、校本第7巻所収の「童話・劇・散文題名索引」を見る限りではこうした使用例はない。ただよく似た題名使用に「狼森と笊森、盗森」があって皆無とはできない。周知のように「蜘蛛となめくぢと狸」はのち推敲が加えられて、「山猫学校を卒業した三人」となり、さらに「洞熊学校を卒業した三人」と題を変えていく。現存する「蜘蛛となめくぢと狸」の原稿は初稿第1枚目が欠落しているので、初題が「蜘蛛となめくぢと狸」だったかはわからず、したがって断定できないけれど、「蜘蛛となめくぢと狸」の段階では、三人の人物をあたかも裸で読者に提示する朴訥な民話的手法をとったと言えよう。
 さてこの三人、みんな非道?の死をとげるわけだが、なぜ死ななくてはならなかったか。まず蜘蛛。蜘蛛は「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。」と哀れな声で泣く蚊を「物も云はずに頭から羽からあしまで、みんな食って」しまう。さらには目の不自由なカゲロウを「ここは宿屋ですよ。」と騙して招き入れ、「さあ、お茶をおあがりなさい。」と親切をよそおいながら「胴中にむんづと噛みつき」、遺言を歌ったカゲロウを食べてしまい「小しゃくなことを言ふまいぞ」とふざける。蜘蛛であるからには他者の生命をとって生きていくのは仕方がないのだが、その生命を奪うのに痛みを感じない。きれいな女蜘蛛と結婚し二百匹も子を生むけど、その子の198匹を忘れてしまって親の愛を見せない蜘蛛である。また虫けら会の相談役になれることを自慢するような権威好みでもある。そして必要以上に食物を貯めた結果、その腐敗が伝染して死んでしまう。要するに〈悪〉、だから死んだと一応読んでおこう。
 ナメクジもまた卑怯と描かれる。親切をよそおってカタツムリやトカゲを招きいれ、嫌がるのに相撲をとって痛めつけ、しかも「ハッハハ」と笑いながら相手の死を待つ。回り回って雨蛙にペロリと食べられてしまう。悪の報いがわが身にふりかかるという因果応報の世界である。
 狸は「山猫さまのおぼしめし」と兎を囓り、狼さえも食べる。蜘蛛やナメクジに食べられる昆虫は多少なりとも抵抗しているのに対し、兎や狼は騙されるままで、狼などは、
「それはな。ぢっとしてゐさしゃれ。な。わしはお前のきばをぬくぢゃ。な。お前の目をつぶすぢゃ。な。それから。なまねこ、なまねこ、なまねこ。お前のみゝを一寸かぢるぢゃ。なまねこ。なまねこ。こらえなされ。お前のあたまをかぢるぢゃ。むにゃ、むにゃ。なまねこ。堪忍が大事ぢゃぞえ。なま…。むにゃむにゃ。お前のあしをたべるぢゃ。うまい。なまねこ。むにゃ。むにゃ。おまへのせなかを食ふぢゃ。うまい。むにゃむにゃむにゃ。」
と言われながら食べられてしまい、狸の腹の中に入ってもまだ気がつかない。それだけ狸は狡猾なのだろう。体がふくれ熱にうかされて焦げ死ぬわけだが、この狸が三人の中で最も人間くさく描かれていると言えないだろうか。
 ひもじいと言ってやってきた兎に向かい、着物の襟を掻き合わせながら、「さうぢゃ。みんな往生ぢゃ。山猫大明神さまのおぼしめしどほりぢゃ。な。なまねこ。なまねこ。」と「念猫」を唱える狸について、浄土真宗に対する揶揄とする丹羽俊夫説(注1)もあるように、蜘蛛やナメクジに比べてこの狸には人間社会への揶揄が強くなる。またカゲロウの遺言の歌「あはれやむすめちゝおやが、/旅ではてたと聞いたなら、/ちさいあの手に白手甲、/いとし巡礼の雨とかぜ。/もうしご冥加ご報謝と、/かどなみなみに立つとても、/非道の蜘蛛の網ざしき、/さわるまいぞや。よるまいぞ。」もご詠歌のもじりと思われ、きわめて人間くさい。つまりこの作品、他者を殺すことによって生きる修羅の世界をとらえることよりも、彼の回りの宗教家や名声欲・金銭欲にとりつかれた人々を揶揄することをテーマとした作品と考えたい。その意味で、「〈修羅〉が早くもこの作品に表出されている」とする萬田説(注2)よりも、「現実社会にかかわってくるまなざし」の作品の一つとする続橋達雄説(注3)や「現実批判を主眼」といった小沢俊郎説(注4)に私の解釈は近い。蜘蛛たちを「三人」と表現したのは彼らに人間を寓しようとした結果だと考える。
 この話は前書きと後書きにあたる箇所で話し手の「私」が登場する。これは「注文の多い料理店」に共通する構成で、この三人を何の競争をしていたか知らないが「立派な選手」と冒頭で紹介、最後に実は立派ではなく「三人とも地獄行きのマラソン競争をしてゐたのです。」と評価を変えるという方法も「よだかの星」などに多く見られるところである。
 ところで冒頭の立派さ加減がどれほどなのか、〈私〉ははっきりとは話していない。わずかに「蜘蛛は手も足も赤くて長く、胸には『ナンペ』と書いた蜘蛛文字のマークをつけてゐましたしなめくぢはいつも銀いろのゴムの靴をはいていました。又狸は少しこわれてはゐましたが運動シャッポをかぶってゐました。」という外観が手がかりとなる。しかしこここでは外観よりも山猫がいう「本気の競争」の立派さぶりが問題であろう。
 彼らの競争は、食べて大きくなることと偉くなること(権威の座につくこと)だった。賢治童話では「競争」は否定的に扱われることが多く、「クンねずみ」(注5)に書かれている「ねずみ競争新聞」「意地ばり競争」「学問競争」がその例であり、「競争」の語は使われないけれども「どんぐりと山猫」におけるだれが偉いかをめぐるどんぐりの争いもその例となろう。「蜘蛛となめくぢと狸」ではからかったりいばることで相手より優位に立とうとし、また聞いた方は病気になる。蜘蛛はナメクジに囃されて、「ふん。あいつはちかごろ、おれをねたんでるんだ。やい、なめくぢ。おれは今度は虫けら会の相談役になるんだぞ。へっ。くやしいか。へっ。てまへなんかいくらからだばかりふとっても、こんなことはできまい。へっへっ。」と言い返すけれども、喰い殺そうとはしない。この関係は蜘蛛のナメクジだけに対するありようだけでなく三者ともに言い得て、つまり精神的な関係で結ばれていることになる。三者の関係に限れば壮絶な殺し殺される関係ではない。それだけに陰湿とも言えるかもしれないが、なにか関係が希薄、特に狸が浮き上がっているように思う。
 狸にからかわれた蜘蛛は「何を。狸め。一生のうちにはきっとおれにおじぎをさせて見せるぞ。」と言い網を増やしはしたが、狸への働きかけはない。それはまた、狸に「なめくぢなんてまづいもんさ。ぶま加減は見られたもんぢゃない。」とバカにされたナメクジは、怒って病気になるけれど、さりとて狸へなにも仕返しはしないという関係に共通する。これらをくくる思想が作者の方にまだ熟しておらず、それぞれの生きざまをそれぞれにしか提示できず、そしてそれは三者を「と」で並列に記す題名に示されていると考える。だから、後の改題で三者をくくろうとする意識が表れたのではないか。逆説めくが、三者を統一しなかったために、〈私〉が外側からやや楽しげに眺めている作品になったと思われる。
 それにしても蜘蛛・ナメクジ・狸というとりあわせはユニークだ。この作品ではそれぞれを悪者としているけれど、賢治はこれらの動物をどうとらえていたのか。
 まず蜘蛛。「インドラのスペクトル製の網、その繊維は蜘蛛のより細く」(インドラの網)、「まるで蜘蛛の糸でこしらえたような」(〔ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記〕)のような比喩・比較に使われるほか、「夜風の 底の 蜘蛛おどり」(種山ヶ原)、「親孝行の蜘蛛のはなし」(クンねずみ)と使われていてむしろ美化されてとらえられている。また「赤い手長の蜘蛛」という表現も気になるところで、特に「赤」は「かの赤い経巻の如来寿量品」と保阪嘉内宛書簡(1918年6月26日)にあって制作日が近いだけに意味があるように思われるが、ここでは山男の髪(山男の四月)や、しゃっぽ(かしはばやしの夜)を赤いと表現したと同じく異様なとか目立つ人物といった意味で使われていると解釈したい(注6)。
 次にナメクジ。歌稿Aに「入合の町のうしろを巨なるなめくじの銀の足の這ひ行く」(221)また削除歌にも「たそがれの町のせなかをなめくじの銀の足がかつて這ひしことあり」(230)とおそらく雲の表現と思われる使い方がある。どこかおどろおどろした感じを受けるが、これは「〔ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記〕」ではもう少し明確な形をとって、「そんなしんこ細工のようなことをするというのは、この世界がまだなめくじでできていたころの遺風だ」とナメクジで化け物世界より前の原初的世界を表していると思われる。ほかには「ポーセがせっかく植えて、水をかけた小さな桃の木になめくじをたけて置いたり」(手紙四)とチュンセのいたずら材料として使われていて、総体におどろおどろした感じで使われている。また「蜘蛛となめくぢと狸」におけるナメクジは「銀色のゴムの靴」をはいている。腹のイメージを銀色としたと思われるが、靴にはどんな意味があるのだろうか。私たちの共同研究(注7)から得られたデーターで『注文の多い料理店』に記された履き物関係名詞を検索すると(かっこ内の数字は出現回数)、

かしはばやしの夜(2) 注文の多い料理店(4)
長靴月夜のでんしんばしら(4)
ブーツ月夜のでんしんばしら
下駄山男の四月
ぞうり 月夜のでんしんばしら
かんじき水仙月の四日

が検出されるが、この数字はその語が何回現れたかを示すものであって、意味の重さを直接示してはいない。だが靴系の用語が多いことはだいたい検討がつく。さらに『注文の多い料理店』以外の87作品(注8)で調べると、靴(長靴を含む)18篇、下駄2篇、草履2篇が検出され、やはり靴系の語が多いことがわかる。靴をはく人物は「注文の多い料理店」「〔税務署長の冒険〕」がその例となるように概して金持や地位にある者が多いのは、賢治が生きた時代であれば当然のことかと思われる。それに対して「ゴム靴」はどうか。「〔ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記〕」での鼠色の男のように否定的人物に使用される場合もあり、他方「蛙のゴム靴」「耕耘部の時計」「台川」でゴム靴を履く人物は木訥なイメージとなっていて、必ずしも一定しない。こう見てくると「蜘蛛となめくぢと狸」ではゴム靴に特定の意味をこめなかったということに落ち着く。
 次は狸である。ウサギと狼を山猫様のおぼしめしとだまして食べ、腹がふくれ病気になって黒焦げになって死ぬ。当然のことながら否定的人物である。他作品に登場する狸をみると、「セロ弾きのゴーシュ」では「こら、狸、おまへは狸汁といふことを知ってゐるかっ。」と怒鳴られても頓着することなくのんびりとした狸であり、「月夜のけだもの」では「さうかな」というのが口癖の寝とぼけた狸、「猫の事務所」では「鼻と耳にはまつくろにすみがついて、何だか狸のやうな猫」と比喩に、「ひかりの素足」「みぢかい木ぺん」でもともに目のまわりが狸のようだと比喩に使われる。ほかの動物を食べる腹黒い狸という設定はこの「蜘蛛となめくぢと狸」だけと思われる。兎が狸にかじられる場面では「かちかち山」を重ねる読者はアイロニカルな場面となろう。わざと顔を洗わず着物の襟をかきあわせて、「往生じゃ」と狸が唱える念猫「なまねこ」は「なまんだぶ」を思わせ、かげろうの御詠歌を重ねると浄土宗あるいは浄土真宗の形骸化を皮肉っていると思われる。
 もう一つ気になるのは狸をとりたてるための「顔を洗ったことのない」という表現である。先にみた他作品での比喩使用と同じく真黒の顔という意味もあろうが、「毒蛾」「馬の頭巾」「ツェねずみ」「ビヂテリアン大祭」「ポラーノの広場」での起きてからの洗顔という普通の表現もある中、「待合室は大きくてたくさんの人が顔を洗ったり物を食べたりしてゐる」(「〔或る農学生の日誌〕」)「鈴蘭の葉さきから、大粒の露を6つ程取ってすっかりお顔を洗ひました」(「貝の火」)「ネネムはそこで髪をすっかり直して、それから路ばたの水銀の流れで顔を洗ひ 」(「〔ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記〕」)や、「注文の多い料理店」の終末文「二人の顔だけは、東京に帰つても、お湯にはいつても、もうもとのとほりになほりませんでした。」をみていくと、賢治は「顔を洗う」という表現にかなりこだわっていたことがわかり、それは単純な洗顔だけでなく、心も清める意味もあったと解釈したい。
 狸のかぶっているシャッポについて調べると、白いシャッポをかぶる変わった男の子(「風の又三郎」)、赤いトルコ帽をかぶる画かき(「かしは林の夜」)、亜鉛のシャッポをかぶった兵隊(「月夜のでんしんばしら」)といったようにシャッポは奇妙な人物と関係している場合もある。もちろん、「シャッポも飛ばさな。」と風の強さの表現(「風野又三郎」)、羊の毛のシャッポをかぶるビジテリアンの矛盾(「ビヂテリアン大祭」)といった奇妙な人物にそれほど強い関係を示さない表現もある。さらに語の意味を帽子にまで広げて『注文の多い料理店』でみると、「注文の多い料理店」での二人の紳士と箕帽子をかぶる猟師、「水仙月の四日」で「白熊の毛皮の三角帽子」をかぶる雪童子などが検出され、彼らも平凡な人物でないことを知る。こうみてくると顔を洗ったことのない赤いシャッポをかぶった狸は、異常な人物と設定されていることが明かとなる。
 先にふれた「立派」は、「立派な選手」のほか「なめくぢの立派なお家」(3回)「立派な蜘蛛の巣」とあって、かなり頻度が高く賢治の常用語の一つと考えられる。賢治の他作品をみると、たとえば9篇の作品を収めた童話集『注文の多い料理店』では「立派な一軒の西洋造りの家」(「注文の多い料理店」)など7作品・16ヶ所にあって、新美南吉の3つの童話集(注9)での2ヶ所に比べると圧倒的に多い。問題はその「立派」の内容だが、この「蜘蛛となめくぢと狸」の場合は先にも述べたように具体的なイメージを伴わないまま使っている。やや乱暴に言い換えれば「立派なものは立派」といった描き方といえる。他作品での検証は別稿にゆずるが、おおむね同様の使い方で、「立派な選手」のように皮肉をこめて使う場合と、「金剛石や草の露やあらゆる立派さをあつめたやうな、きらびやかな銀河の河床の上を水は声もなくかたちもなく流れ」(「銀河鉄道の夜」)のようにものの本質を意味する場合とに使われたと考える。
 リフレーン表現を賢治童話の特色の一つとするのは通説となっているが、この「蜘蛛となめくぢと狸」でもリフレーン表現がとられている。もっとも顕著なのは、ナメクジがカタツムリやトカゲを食べる場面であろう。カタツムリの場面では「もう一ぺんやりませう。ハッハハ。」「もうだめです。」が4回繰り返した後、カタツムリは食べられてしまい、トカゲの場面は、
「…ハッハハ。」となめくぢはもがもが返事をしながら(L117)(注10)
「なめくぢさん。…」ととかげはおどろいて云ひました。
「ハッハハ。…ハッハハ。」となめくぢはやはりもがもが答へました。
「なめくぢさん。…」ととかげは心配して云ひました。
「ハッハハ。…ハッハハ。」となめくぢはやはりもがもが答へました。
という会話を繰り返して、トカゲは食べられてしまう。
 また狸の場面は右ほどはっきりした形となっていないけれど、「なまねこ」と「山猫さまのおぼしめし」という怪しげな呪文が繰り返され、兎や狼は食べられる。軽妙さと不気味さがコントラストをなしているといえよう。
 一方、繰り返し語(1文中で2音以上が繰り返されているオノマトペ・副詞・感動詞など)も多く使われている。(一)の冒頭部から例示すると、「ギラギラ」(L23)「パチパチ」(L25)「バタバタ」(L29)などがそれにあたり、全行に占める割合は約20%となる(注11)。多くの資料を操作していない現段階では直感的に多いというほかないのだが、ちなみに新美南吉の「ごん狐」では約7%となり、単純に比較すれば「蜘蛛となめくぢと狸」はやはり多い部類に入ることが予想される。注11に掲げた57箇所に現れる繰り返し語のうち「ずんずん」などの濁音系は26箇所となり約半分にあたるわけだが、このことは作品全体を粘着的なトーンを形成する要素となっていると思われる。一方、この粘着性と「ハッハハ」「ヘッヘッヘ」の乾いたハ行音がコントラストをなし、作品の音楽性となっていると考える。
 以上、「蜘蛛となめくぢと狸」をテキスト論として表現解釈を試みた。しばらくはこの方法で賢治童話の解釈を続ける予定である。ご批判をいただきたい。



  1. 丹羽俊夫「賢治の詩と法華教」(八重樫昊編『宮沢賢治と法華教』普通社、60年)
  2. 萬田務は「賢治童話の成立」(『孤高の詩人宮沢賢治』新典社、86年)で、「表面的には立身出世競争を戒めたものであろうが、実はその裏面には、生きるとは、生き続けるとはどういうことか、そこには生き物にとってより根源的な生存競争の問題が絡みあっていることを示唆したものである。」とした。「根源的な生存競争の問題」を読むことができる、あるいは「表出」していることは萬田説の通りだが、作者の意図にそれがあったとは筆者は考えない。
  3. 「童話作家としての賢治」(『国文学解釈と鑑賞』73年12月)
  4. 「双子の星」(『別冊国文学』80年5月)
  5. 原稿では「ン」を小さく書かれているらしいが、活字の都合上通常の「ン」を使用。以下同じ。
  6. 大阪国際児童文学館共同研究のデーターから、童話集『注文の多い料理店』における色彩語〈赤〉の使用対象語頻度をみると(数字は回数)、
    顔(3)/山男の顔(2)/馬車別当の顔/山男の髪(2)/支那人の眼/支那人の眼の縁/ふくろうの眼のくま/雪狼の舌(3)
    蛸の脚/手
    しゃっぽ(5回)/トルコ帽/ずぼん
    毛布(6回)/絵の具/字/綬/電信柱の腕木/薬瓶のような容器
    灯り/燃える石炭/火
    夕陽/太陽
    やどりぎの実
    (この他にゆで蛸を赤黒と形容する語もある)
    となり、体(中でも頭部)に多く使われていることがわかる。この人物のとらえたかたが「蜘蛛となめくぢと狸」にも現れているといえよう。ついでに記すと、もっとも使われやすいと思われる花での使用がないのは興味のあるところである。
  7. 注6に同じ。
  8. マイクロテクノロジー製「宮沢賢治童話集」収録98篇から『注文の多い料理店』収録作品と「蜘蛛となめくぢと狸」と「洞熊学校を卒業した三人」を除いた作品数。
  9. 『おぢいさんのランプ』(41年)『牛をつないだ椿の木』(43年)『花のき村と盗人たち』(43年)に収められた21篇。
  10. Lは行のこと。L117 とは117行めにあたることを示す。この行はおおむね文にあたるが、会話文も1行としている。くわしくは拙著『教科書と児童文学』(高文堂出版)を参照されたい。
  11. 全210行から記号*を引いて209行とし、1行のうち繰り返し語1つ以上現れた行はすべて1として求めた。したがってたとえばL202のように「むにゃむにゃ」が数回現れている場合も1としている。その点あいまいさは否めない。より正確さに近づく方法は今後の課題としたい。次が繰り返し語である。カッコ内の数字は行番号。
    それはそれは(4)うんとこせうんとこせ(16)それはそれは(16)ギラギラ(23)パチパチ(25)やれやれ(26)バタバタ(29)なみなみ(34)ぱちぱち(36)スルスル(40)きぃらりきぃらり(40)それはそれは(48)へらへら(50)へっへっ(55)すうすう(57)どんどん(61)キリキリキッ(66)ずんずん(70)だんだん(72)べとべと(72)たうたう(72)あげますともあげますとも(79)どくどく(80)さあさあ(81)ヘッヘッヘ(105)もがもが(117)もがもが(119)もがもが(121)ヘラヘラ(131)せいせい(135)どくどくどくどく(141)なまねこ。なまねこ(172)なまねこ、なまねこ、なまねこ、なまねこ(174)なまねこ、なまねこ(176)なまねこ。なまねこ(176)むにゃむにゃ(179)なまねこ、なまねこ(179)とうとう(179)ボロボロ(180)ボロボロ(182)なまねこ、なまねこ(182)ますます(183)なまねこ、なまねこ(183)なまねこ、なまねこ(185)なまねこなまねこ(185)むにゃむにゃ(185)ポンポコポンポン(191)きょろきょろ(196)なまねこ。なまねこ(199)なまねこ、なまねこ、なまねこ(202)なまねこ。なまねこ(202)むにゃ、むにゃ(202)むにゃむにゃ(202)むにゃ。むにゃ(202)むにゃむにゃむにゃ(202)こわいこわい(208)たうたう(208)