PC研体験記
大藤幹夫
(1)
わたしにとってPC研(「パーソナルコンピュータを使用した児童文学作品分析支援システムの開発」研究会)とは何だったのか。
わたしは、コンピューターに関しては超の字がつくほどの初心者である。それが、この研究会に参加する機会に恵まれたのは、取上げる素材が宮沢賢治の童話作品であったからであり、少しばかり作品を読んでいたからだと思う。したがって、研究成果をまとめて報告する力量も資格もないことを、はじめにお断りしておかねばならない。
研究会に参加して、収穫になったのは、こんなこともコンピューターでできるのかという驚きであり、文学作品をこんな風に読めるのかという楽しさの体験であった。
テキストをどう読むかというのが、文学研究の基礎的な作業である。《校本宮沢賢治全集》という、細緻なテキストを持ちながら、まだまだ読み込みの不足を感じさせられた。そこに文学を読むことの楽しさがあることの発見が何よりの収穫であった。
コンピュータを使って文学作品を読み解くとは、どういうことか。それを体験したことになる。
たとえば、第2回の研究会の「まとめ」に報告されている
- 「榧」や「かや」、「山猫」や「やまねこ」など、同一の語彙の表記の違いに法則性や特定の意味があるか?
- 「うるうる」のような文字や音のくりかえしの傾向や法則性を調べる。
- 特定の語(キーワード)の使用回数と用例の調査。
- 色彩語、オノマトペ、比喩の調査。
- 文章中に用いられている数字の調査。
- 作品の書出しや終末表現を調べる。
といった、賢治童話の読者ならたいてい思いつくような、その特質についての量的な調査への関心から、この研究が始った。
童話集『注文の多い料理店』の巻頭に置かれた「どんぐりと山猫」の書出しは「おかしなはがきが、ある土曜日の夕がた、一郎のうちにきました。」である。この文を、ある大学に勤務する児童文学研究者が、「ある土曜日の夕方、へんなハガキが一郎のうちにきました。」と書き直して、保育関係の雑誌に掲載した。
わたしにとって、賢治童話の「キーワード」は〈おかし〉と思っていただけに、この書き換えは承服しがたい事例だった。「日本児童文学」誌にとりあげてもらったが、不可解な事情で、沙汰やみになった。いぬいとみこさんが、「学校図書館」でとりあげてくれたが、あとはうやむやの日本的発想のもとで立ち消えになった。(別の機会に日本児童文学の論争史をまとめたが、わが国ではきちんと論争にけりがつけられないのが実情らしい。とりわけ日本児童文学の世界では。)こんな時にコンピューターで「おかし」の事例をたちどころに表示できたら、もっと説得力のある原稿が書けたであろうと、思われる。
『注文の多い料理店』の序文の書出しは、「わたしたちは、氷砂糖をほしいくらゐもたないでも、きれいにすきとほつた風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。」である。「桃いろ」という色彩語が選ばれている。この言葉が単なる色彩を示すだけではなく、何かの意味を持つだろうことが予想される。ならば、この事例を探ってみよう。「すきとほつた」は、「青色」に還元されると思うのだがどうだろう。こうした予想を裏付けてくれそうな、そんな思いで研究会に参加した。
(2)
上田信道氏による、1994(平成6)年共同研究企画書(案)には、この研究会の趣旨が書かれてある。「児童文学研究の分野においては、コンピューター利用は立ち後れた状態にある。従来、児童文学研究の分野におけるコンピューターの利用と言えば、研究文献データベースや作品リストデータベースに関心が集中し、キーワードによる検索が話題になるにすぎなかった。(略)研究文献データベースや作品リストデータベースという方向に偏したコンピューター利用の検討は、古典的な手作業による研究方法論を大きく踏み出したものではない。時代の趨勢は、本文自体を電子メディアに置き換えたフルテキストを利用した研究に向かっているやに思われる。/国語学の分野の研究者が児童文学作品についてフルテキストのデータを作成し、研究に活用し始めているとの報告がある。(略)それはフルテキストデータを単語や品詞などに分解し情報を付加するものであって、あくまでも国語学サイドからのアプローチである。児童文学研究に即有効なものではない。当然のことながら、児童文学研究のための研究データには児童文学独自の観点が必要なのである。」
児童文学とは何か。これについて鳥越信氏のつぎのことばがある。「この命題は児童文学にとって、出発点であると同時にゴールを意味する。」児童文学研究に関わるすべての人々にとって、その研究自体がこの命題を求めてのものである。さすればPC研もまたその作業を通してこの命題の答えを引出さねばねらない。残念ながら、わたし個人の見解では、現在のところこれに答える用意がない。
児童文学研究には、文学研究にはない独自の方法論が必要だと、亡き安藤美紀夫氏がよく話されていたことを思い出す。「宮沢賢治の童話は、児童文学か?」といった議論が繰り返される。わたしたちのこの作業を通してそれへの答えが引出されるのか。
文学研究において、なにより最初に求められるのは、テキストの確認である。わたしたちの作業もここから始った。(児童文学研究にあって、時に流布本の文庫版を使っての研究成果が発表されることがある。ここにも児童文学研究の現状が見受けられる。) 現在、校本全集の刊行以来、宮沢賢治研究は実に細緻なものになって、毎年、宮沢賢治学会イーハトーブセンターから出される「宮沢賢治研究Annual」は、その前年には発表された研究図書資料を掲載するものだが、1997年版にいたっては、432ページのボリュームを持つ。宮沢賢治生前に刊行されたのは、わずかの短編童話、詩のほか『春と修羅』『注文の多い料理店』の二冊に過ぎない。その『注文の多い料理店』を底本テキストにして作業を始めたが、これが予想以上に難航した。
- 可能な限り、原文に忠実なデータ
- 校訂の箇所と校訂の内容を明記したデータ
- 原文を校訂したデータ
- 読みのデータ
- 本文を〈文〉単位で区切った(改行した)データ
- 読みを〈文〉単位で区切った(改行した)データ
の6種類のデータ作成が求められた。句読点の有無、誤植の判断、読み方の判断。テキストの読みのむずかしさを改めて実感させられた作業になった。
テキスト作りでまず問題になるのは、誤記の訂正であろう。賢治の場合、地域語とされる表現が多い。(たとえば、「どんぐりと山猫」冒頭の山猫からの葉書の文章を地域の幼児語とする研究者もあると聞いた。)まったくその方面に弱いスタッフには「しんどい」仕事になった。
賢治童話のひとつ「鹿踊りのはじまり」に「蝸牛」とあって「なめくづら」とルビが振られてある。それが同じ作品の歌には「なめぐぢら」とある。賢治が弟妹に語り聞かせたという「蜘蛛となめくぢと狸」は、明らかに「なめくぢ」である。
読みの判断に迷うところである。〈新修 宮沢賢治全集〉では、そのままに読んでいる。『宮沢賢治語彙辞典』には、「蝸牛」の項に「なめくづら」とあって「花巻地方の方言で、蝸牛(かたつむり)のこと。蝸牛は全国各地でいろいろな呼称があり、言語学上、興味深い事例の一つ。」とあって、それこそ「興味深い」。(改訂版『宮沢賢治語彙辞典』では、花巻方言についての叙述は削除する方向と聞いた。)
漢字をひらかなに直す、逆にひらかなを漢字に戻す。こうした作業は、一度体験した人にはよくわかることだが、じつに厄介なことである。
よく言われることだが、新美南吉の「ごんぎつね」の「おっかあ」も漢字で示されてあれば、母と女房の読み違えは生じなかったはずである。
改行についても問題があった。たとえば、句読点である。行の最後で改行された場合、句読点があるのか、ないのかの判断が任される。同じことが「文で区切る」作業にもつきまとう。
その他に単純なことだが、賢治の漢字とひら仮名の使い分けも判定できよう。たとえば、「青」の表記と「あお」の表記の違いを見ることもできようか。(この点については単純にできない。)
われわれは、「オノマトペ」「色彩語」「直喩表現」の抽出作業を試みた。賢治童話の「色彩語」については、かつて纏める機会があった。(『宮沢賢治童話における色彩語の研究』日本図書センター)その折にも苦労したが、そのひとつに複合語の色彩語(たとえば「赤信号」「白鳥」など)は採用しないことを原則とした。賢治作品の色彩語研究は、よく見かける。色彩語の認定もはっきりした原則はない。たとえば、最近の研究論文のひとつに「賢治研究」78号(平成11年4月30日発行)に発表された「「心象スケッチ」の色彩をめぐって―〈第三集〉を中心に―」(樋口恵)がある。ここでは、「テキストを読んで色が想像できるものは全て採用することとした。」とある。わたしたちは、たとえば、「金ぴか」などは採用しなかった。
こうした作業を続ける中で各自が「仮説」なるものを提出したのはおもしろい試みだった。たとえば「比喩表現」について「〈作業に関する比喩〉と〈状態に関する比喩〉について、作品によって使い方に偏りがあるのではないか」「天体に関する比喩表現を調べてみたくなった」などの意見が出されるのも、グループ研究のメリットになった。
安房直子の「なんだか」に対して賢治の「まるで」を対応して考えてみたい。「青」の色彩語についても、杉みき子と、民話系列から斎藤隆介などとも比較をしてみたい。
賢治が、童話批評を頼まれた時に「リルラといふ名前が滑らかすぎて性の悪いこどもの性格容貌が出ないと一応考えられます。どの字かをマ行、サ行、ハ行などの一音とかへてはいかゞでせうか。」と答えたということから、オノマトペのマ行、ラ行を調べてはどうか。」
といった案配で、日本児童文学研究にも話が及んだ。
こうした中から次の作業手順が考えられた。
- 音数の計測
- 文長・音長の計測
- くりかえし表現の抽出
- 書き出し表現の抽出
- 文の接続(だが、しかし、そして など)
(3)
一般に直喩になる「まるで」は「〜のよう」に続くと考えられる。試みに『注文の多い料理店』のデーターから抽出してみた。(共同研究者の藤本芳則氏の教示を得た。)
おもしろいことに、「字はまるでへたで」「裁判を、まるで1分半でかたづけて」
「まるで調子はづれ」「まるでびっくりする」「まるで青火が燃える。」「まるでめちゃくちゃ」「まるであわてる」といった事例にぶつかる。
賢治は、『注文の多い料理店』の序文に「わたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびらうどや羅紗や、宝石入りのきものに、かはってゐるのをたびたび見ました。」と記している。この《変の世界》こそ賢治童話の特質の一にあげられるのだが、そのキーワードと考えられる「ふいに」とか「にわかに」はどうだろう。
「ふいに」は「かしはばやしの夜」で一例見つけた。「にはかに」は、7例抽出できたが、一瞬に異次元にワープするといった例はなく、「にはかにぱっと明るくなる」「にはかにまじめになる」「にはかに怖くなる」といった案配で、こちらも予想がはずれた。
こうした事例から『注文の多い料理店』の位置付け、ありようも考えられよう。
研究の成果の一部を上田氏が日本児童文学学会で紹介したが、芳しい反響が得られなかった。パソコンによる研究は、古典文学ではかなりの紹介やら発表で注目されているようだが、児童文学の世界では未だしの感で考えさせられた。
(上田氏によれば古典文学の事例研究になる『パソコン国語国文学』(啓文社)よりも、わたしたちの研究成果の方が「レベルが高い」らしい。上田氏が研究会の「まとめ」にパソコン事情や研究情報を寄せてくれたのはありがたいことであった。こうした情報が児童文学研究者に利用されることを願う。)
あいかわらず品詞認定に苦慮し続けた。その意味で、1995.8.20の日付を持つ「PC研における名詞の分類規準」は一応の成果といえよう。
アイリスでデーター処理をするわたしが、桐だ、アクセスだという会話にふうふう言いながら付きあって、時に(?)足手纏いになりながら走り(?)続けた「PC研参加報告」を綴ってみた。
改めて今後の文学研究のありよう、またテキストについてなど考えさせられる点が多かった。何より共同研究のおもしろさを体験できたのがいちばんの成果といえよう。(1999.6.27)