清水寺の弁慶伝説

京都東山・音羽山清水寺



清水寺の由来
創建は、西暦778(宝亀9年)年、奈良時代の末ごろです。延鎮上人が夢のお告げをうけて音羽山麓の滝のほとりに庵を結びました。千手観音像を彫ってこの庵におまつりしたのが清水寺の起こりとされています。
坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が、わが子の安産を願って鹿狩りのため山にわけいったところ、延鎮上人に殺生を戒められ、観音さまに帰依しました。
その後、田村麻呂は伽藍などを寄進。やがて鎮護国家の道場として永く信仰されるようになりました。

弁慶の足跡
本堂舞台の入り口附近の左手にあります。
本来は仏足石(ぶっそくせき)といって、仏さまの足跡をあらわしたものですが、いつまにか《弁慶の足跡》と伝えられるようになりました。寺の近くに幽閉された平影清(たいらのかげきよ)の足跡とも伝えられています。

弁慶の足跡鉄下駄と錫杖
弁慶の足跡鉄下駄と錫杖

弁慶の鉄下駄と錫杖
本堂舞台の入り口附近、大黒さまの前あたりにあります。
弁慶の錫杖と下駄だと伝えられ、弁慶の力にあやかろうという観光客でいつも賑わっています。鉄下駄の大きさが左右でちがっているのは、あまり大勢の人がさわるためにすり減ってしまったからでしょうか。
本当は、鍛冶屋が仕事中に鉄の破片が目に入り、本来なら失明するところを観音さまのご利益で助かりました。そのお礼に寄進したものだ、とも言われています。確かなことはわかりません。
古びてよくわかりませんが、《日の出饅頭》の奥村某という人の銘が刻まれています。

鉄下駄と錫杖(全景)弁慶の錫杖弁慶の鉄下駄
弁慶の鉄下駄
鉄下駄と錫杖(全景)弁慶の錫杖 

弁慶の指跡
本堂舞台を出たところ、本堂の床面を支える太い木材の側面を見てください。くねくねと細いミゾが走っています。
このミゾは、ずっと本堂の裏側にまで続いているのですが、弁慶が指で彫ったものだと伝えられています。
地主神社(じしゅじんじゃ)の賑わいに気をとられているためか、このミゾに注目する人はほとんどありません。

弁慶の指跡
弁慶の指跡

解 説
現在の国宝・本堂舞台は、江戸時代1633(寛永10)年の再建です。

中世の軍記物語『義経記(ぎけいき)』によると、弁慶は本堂にぎっしりつめかけたお籠もりの人びとの中に牛若丸をみつけます。弁慶は牛若丸が持っていたお経に目をつけて「ああ、立派なお経だ。あなたのものか、それとも他人のものか?」と声をかけます。《若造め! お経を読めるものなら読んでみろ!!》と、挑発したのですね。
弁慶は比叡山西塔(さいとう)でも有名なお経読みの名人です。お経読みでの闘いには、自信があったのでしょう。
しかし、牛若丸も鞍馬寺でお経読みの修行を積んでいます。「あなたも読みなさい。わたしも読みましょう」と、けっして負けてはいません。
ふたりのすばらしいお経合戦に、お籠もりの人びとは、みな聞き惚れました。

このあと、牛若丸と弁慶は、太刀を抜きあって闘います。
やがて、闘いの場は、狭い本堂から舞台の上へ…


参考文献
上田信道『名作童謡ふしぎ物語』(創元社 2005年1月中旬発行予定)