六道の辻

京都市東山区松原通



六道珍皇寺
お寺の山門の前に「六道の辻」の石碑が建っているのが、ひときわ異彩を放っています。《六道》は地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の世界のこと。つまり、この地こそ、あの世とこの世をへだてる境界だ、というのです。
このお寺は空海の師にあたる慶俊僧都が開いたと伝えられ、毎年、8月7〜10日には大勢のお参りの人びとで賑わいます。いまは建仁寺の塔頭(たっちゅう)になっていて、ふだんの境内はひっそりとしています。
本堂の脇には閻魔堂があり、閻魔さまの像が安置されています。おもしろいことに、その隣に平安時代の歌人・小野篁(おののたかむら)の像もあります。篁のことは「解説」の項をご覧ください。

六道珍皇寺
六道珍皇寺

幽霊子育飴
六道珍皇寺の門前に、小さな飴屋があって、昔ながらの飴を売っています。
由来書によると、この飴に「幽霊子育飴」というおどろおどろしい名前で呼ばれるについては、こんなわけがあったのでした。内容をかいつまんで、わかりやすい現代語に直してみます。
1599(慶長4)年のこと、江村氏の妻が亡くなりました。土葬が済んで数日たったころ、土の中から赤ん坊の泣き声がします。そこでお墓を掘り起こしてみたところ、亡くなった妻が赤ん坊を産み落としていました。
そういえば、夜な夜な近所の飴屋に飴を買いにくる婦人がありました。赤ん坊が掘り起こされたあと、飴を買いにこなくなったそうです。江村氏の妻は幽霊になって飴を買い、赤ん坊を育てていたのです。
お墓から掘り起こされた子どもは8歳のときに仏門に入り、のちに有名な僧侶になったということです。
やがて、この飴には誰いうとなく「幽霊子育飴」という名がつけられ、京都の名物になりました。
いかにも、六道の辻あたりにふさわしい名物です。

ちなみに、このお話は落語にも仕立てられています。
母親が埋葬地が高台寺の墓地で、幽霊になっても子どもを育てていた。それもそのはず、場所が《コオダイジ》だ、というサゲです。《コオダイジ→子を大事→高台寺》の洒落ですね。

みなとや幽霊子育飴本舗看板
みなとや幽霊子育飴本舗飴の看板(拡大)

地蔵堂(西福寺)
空海が地蔵堂を建てたのがこのお寺の始まりだ、と伝えられています。
この寺のお地蔵さまには、檀林皇后(嵯峨天皇の皇后)がわが子(正親親王)の病気が治るよう祈願をしました。それがきっかけで、このお寺のお地蔵さまを「子育て地蔵」と呼ぶようになったそうです。
お寺が所蔵する「壇林皇后九想図」は、亡くなった人が腐敗し、白骨化して、土にかえる様子をリアルに描いた怖いものです。普段は非公開ですが、お盆には絵解きがされています。
写真を見ればおわかりのように、このお寺の角にも「六道の辻」の石碑が建っています。

地蔵堂(西福寺)伝・小野篁の墓(入り口)
地蔵堂(西福寺)京都市北区にある小野篁の墓(入り口)

解説
小野篁という人は、昼は朝廷に出仕し、夜は閻魔の庁に出仕していたのだそうです。六道珍皇寺の庭には、小野篁があの世にいくために使っていた、という井戸があります。
篁が閻魔の庁に出仕していた話は、『今昔物語』にも出てきます。
学問にすぐれた人で、参議にまでのぼりました。嵯峨上皇の怒りに触れて隠岐島に流された、という硬骨の人でもあります。
生年は西暦803年、没年は852年(863年説も)です。絶世の美女・小野小町は孫にあたるのだそうですが、確かな根拠はありません。
わたの原八十島(やそしま)かけて漕ぎ出でぬと 人には告げよ海女の釣舟
この歌は篁の作で、『古今集』に載っています。
百人一首にも載っていて、なぜかわたしの十八番(おはこ)なんですね。
でも、6字決まりの歌です。だから、《わたの原》ときいただけで、《八十島》の《や》を確認しないまま、反射的に《人には告げよ〜》の札を取ると、お手つきになることがあります。

あと、『江談抄』という説話集に、嵯峨天皇が篁に「子子子子子子子子子子子子」を何と読むかと謎をかけたところ、篁がみごとに解いたという話が残っています。
正解は「ネコのコのコネコ、シシのコのコジシ」です。つまり、《猫の子の子猫、獅子の子の子獅子》という意味ですね。

北区にある島津製作所の敷地(堀川通北大路下ル)に囲まれるようにして、小野篁のお墓と伝えられる塚があります。となりには、紫式部のお墓と伝えられる塚もあります。
参考までに、入り口附近の写真を載せておきました。右側の石碑は紫式部のお墓を案内しているのですけれど、ちょうどムラサキシキブの実がたわわにみのっています。


参考文献
上田信道『名作童謡ふしぎ物語』(創元社 2005年1月中旬発行予定)