新美南吉・少年小説の魅力





 =目次=

(1)はじめに
(2)最晩年の〈少年小説〉
(3)「耳」「小さい太郎の悲しみ」「疣」について
(4)「狐」について
(5)おわりに



(1)はじめに


 本日は、主催者から、新美南吉について入門的と申しますか、啓蒙的ともうしますか、とにかく「一般の方に分かりやすい話をするように」というご依頼がありましたので、そのように心がけてお話したいと思います。そういうわけですから、本日の私のお話は、児童文学の専門の研究者や、南吉の熱心な読者にとっては、すっかりおなじみの、とりたてて新しみのないお話になるかも知れません。その点はご容赦下さい。

 さて、新美南吉の〈少年小説〉と言えば、真っ先に〈久助もの〉と呼ばれる一連の作品を連想なさることと思います。
 〈久助もの〉と申しますのは、簡単に言いますと、《久助君》という少年の心理をリアルに描いた一連の作品です。「久助君の話」や「川〈B〉」「嘘」というような作品がすぐに思い出されます。中でも、「久助君の話」は一時期、中学校の教科書に教材としてとりあげられたこともあります。そのためか、南吉の少年小説中では、最も名の知られた作品です。なお、一般的には、このほかに、《春吉君》という少年が登場する作品、つまり「屁」のような作品やそのほかのものをひっくるめて、〈久助もの〉と呼ぶことが多いようです。
 ですから、〈久助もの〉と呼ばれる作品の範囲は、必ずしも一定している訳ではありません。あまり適格な呼び方とは言えませんので、以後は〈少年小説〉と呼ばせていただきます。
 久助君や春吉君は、田舎の小学校の生徒で、学校の勉強では優等生だが非常に内向的であるというところに共通点があります。南吉の〈少年小説〉は、こういった子どもの主人公の心のうちをリアルに描くことに優れています。
 現代児童文学のエポックメイクな出来事の一つに、『子どもと文学』(1960 中央公論社)の執筆グループが、それまでの児童文学作品の再評価を行ったということがあります。具体的にグループの人たちの名前を上げますと、石井桃子、いぬいとみこ、鈴木普一、松居直、渡辺茂男という錚々たる顔ぶれです。南吉の作品について言えば、ストーリーがはっきりとわかりやすく面白いという点を、彼らは高く評価したように見受けられます。つまり、例えば「ごん狐」や「手袋を買ひに」というように、非常に劇的な筋立てのある童話、言い替えますと物語性の豊かな童話を高く評価したと言ってよいでしょう。
 けれども、谷悦子さんが『新美南吉童話の研究』(1980 くろしお出版)という本の中で、先ほど申し上げました劇的な筋立てという点からはおよそ縁遠い、南吉の〈少年小説〉を高く評価しています。例えば、「久助君の話」という作品では、久助君がひとりの友達(兵太郎君)とふざけあって、まる一日、取っ組みあいをしたということ以外、事件らしいものは起きません。この作品は事件の展開より、久助君の心理の綾を描くことに重点があります。谷さんは心理の綾を中心に作品が書かれている点を高く評価しているのです。
 他に、古田足日さんや続橋達雄さんが、南吉の〈少年小説〉を高く評価した評論や論文を書いています。
 私も同様のことをちょっと書いたことがあります。(「新美南吉「屁」」に見られるこども像」=「国際児童文学館紀要」第5号 1988.3)
 一番新しく出ました南吉の研究書『徹底比較 賢治VS南吉』(1994 文溪堂)の中では、浜野卓也さんが、次のようなことを述べています。すなわち、自分の著書『新美南吉の世界』(1973 新評論)の中では、《久助君》というような子どもは一般的な子ども像ではないということであまり高く評価していなかった。だが、少し考え直さなければならない、という意味のことです。
 このように、近年、南吉の〈少年小説〉はますます評価が高まっているようです。

 本日取り上げます〈少年小説〉は、いままで述べましたような〈少年小説〉とは、ちょっと異なる、作品群です。先ほどから名前をあげております「久助君の話」などとは、執筆の時期が違っているのです。
 南吉は先にのべたようなリアルな〈少年小説〉を書いたあと、〈民話的メルヘン〉と呼ばれる童話に興味が移って行きます。例えば「和太郎さんと牛」「花のき村と盗人たち」というような一連の童話です。
 南吉という人は自分の故郷や周囲の人のことをあまり良くは書いていません。後でも述べますけれども、田舎ということに、かなりコンプレックスをもっていた人のようです。しかし、〈民話的メルヘン〉と呼ばれる童話の中では、非常に理想的な田舎、田舎の人々が出てきます。私の考えによりますと、これは、現実の田舎。つまり半田地方を理想郷だというように思い直したというわけではありません。南吉の心の中にだけ存在する理想郷と申しましたら良いのでしょうか、非常に理想化された善人の世界を描いているのです。
 その後、この時期は南吉の短い生涯では最晩年にあたりますが、再びリアルな〈少年小説〉を書くようになりました。要するに、本日のお話の中では、南吉が死ぬ直前に書きました〈少年小説〉、最晩年の〈少年小説〉についてとりあげたいと思います。

 たいへん長い前置きになりましたが、本日はこの時期の作品について、私の思うところを述べさせていただきたいと思います。

(2)最晩年の〈少年小説〉


 ここで、南吉の最晩年の作品、つまり私が本日のお話するの中でとりあげたいと思います作品を、執筆年月日順に列挙しておきます。最晩年の〈少年小説〉の執筆状況は次のとおりになっています。
「草」1942年5月29日
「耳」1942年12月26日
「狐」1943年1月8日
「小さい太郎の悲しみ」1943年1月9日
「疣」1943年1月16日(推定)
「天狗」(未完)1943年1月18日

 ただし、最初の「草」という作品は参考として名前をあげておきましただけで、本日、私がお話したいと思っております作品ではありません。ここであえて「草」という作品の名前をあげておきましたのは、「耳」以下の作品との違いに注目していただきたいからなのです。
 「草」を執筆した後。1942年8月には、「都築弥厚伝」という伝記。結局未完成に終わっていますが、この伝記を書くために、長野県へ取材旅行に出かけています。ですから、体調もそれほど悪化していたとは考えられません。
 しかし、巽聖歌という人。この人は童謡詩人で、「たきび」という作品で有名な人です。南吉の兄貴分にあたるような人と思って下さい。この巽聖歌によって、この年の10月、童話集『おぢいさんのランプ』の出版祝賀会が計画されました。けれども、この祝賀会は実現しませんでした。その理由は、南吉の健康状態がかなり悪化していたからという説があります。
 また、「狐」の原稿をみると、題名の下に、
一八・一・八午后五時半書きあぐ。
店の火鉢のわきで。のどが
いたい。
という書き込みがあります。ですから、この時期の南吉の健康状態は、非常に悪化していたのです。このように、「狐」以下の作品は、南吉の健康状態が非常に悪化する中で執筆されていることがわかります。
 なお、南吉の死亡は1943年3月22日で、死因は喉頭結核ということになっております。言うまでもなく、この当時、結核という病気は、悪化すれば確実に死に至ります病気、死病でありました。ですから、南吉は自分の死が、ごく近い将来、確実に予想される中で、半ば遺書のつもりでこれらの作品を書いているといえるでしょう。
 このように、「耳」以下の5作品は、南吉が死期を悟りながら、最後の気力をふり絞って、南吉に残された人生の最後の一瞬に、きわめて短期間のうちに、集中して執筆されたものなのです。
 ここで注目したいのは、次のことです。すなわち、「天狗」は未完のため結末が不明ですが、「耳」以下の作品では、全て立場の異なる者どうし、言い方を変えれば、自己と他者の心は通じ合うのかということが、モチーフに取りあげられています。そして、いずれの作品においても、自己と他者の間で、互いに心が通じ合わないというモチーフが、大なり小なり出て参ります。このように考えますと、「耳」以下の作品は、そろって深刻なモチーフを取りあげた作品だと言えるように思われます。
 以上、結論だけを先に申し上げておきます。

 ところで、こういう観点から「草」を読みといてみますと、やはり同様のモチーフが描かれていることがわかります。
 「草」では隣り合った村の子どもたちは日頃からいがみ合っています。ところが、ある日を境にけんかをしなくなります。それは、軍隊に献納するかいば用の草を一緒に刈り取るようになったからです。
つまり、住む村が違うということは、住む世界が違うということになります。しかし、所属する世界が違っても、献納という一致点で互いに理解しあい分りあえるのだということになります。ここでは、住む世界が違っても心が通いあうという結論になっています。
 ただ、献納という行為によって分りあえるというのは、〈たてまえ〉であって、なんだかそらぞらしさを覚えることは否めません。

(3)「耳」「小さい太郎の悲しみ」「疣」について


 あまり時間がありませんので、ここでは、まず、「耳」「小さい太郎の悲しみ」「疣」の三作品について、ごくかいつまんで思うところをお話しておきたいと思います。

 まず、「耳」という作品。これは、南吉の死後、1943年5月号の雑誌「少国民文学」に掲載されました。子どもたちが南京攻防戦の模擬戦をしたり、米英との開戦のニュースが伝えられる様が出てきたりしまして、かなり、戦時色が強い作品です。
 主人公はおなじみの久助君です。
 久助君の友だちの花市君は非常に大きな耳をしています。この耳は見ていると何となく触りたくなってくるという変な魅力のある耳です。花市君より上級の久助君たちはみんなよくこの耳を触っています。
 子どもの好奇心というものを非常に上手にとらえていると言えるでしょう。また、自分より上級生のすることだから、しかたなくがまんしているというのも、子どもの世界の論理を良く反映しています。最近問題になっておりますいじめということを持ち出すまでもなく、子どもの論理には、時として、このように残酷なものがあります。
 しかし、ある日、花市君は突然きっぱりとした調子で「いやだよ。」と宣言します。そのため、久助君たちはみんなあっけにとられてしまいます。このような子どもたちにとっては、思いもよらない出来事が起こりました。子どもたちの間には、大変な衝撃でした。そして、村の子どもたちは、花市君の〈きっぱりしたやり方〉が、〈たいへん立派で、英雄的である〉ということがよくわかるのです。
 久助君は、自分が花市君のような〈きっぱりしたやり方〉をするためには、どうしたらよいかということを考えます。次の朝、久助君は学校に遅刻しそうになります。いつもは、親戚の太一ツあんに自転車に乗せてもらって学校に間に合うようにしているのですが、この日、久助君は今までのやり方を改めます。つまり、久助君は、自分の足で学校まで走って行ったのです。学校へ着くと、友だちが米英との開戦のニュースを知らせてくれます。そして、久助君は自分の行動と開戦のニュースをダブらせ、〈きっぱりしたやり方〉とは何かということをはっきり自覚したのでした。
 この作品の最後は〈昭和十六年十二月八日の朝のことだつた。〉で締めくくられています。ここまでストーリーを説明してきますと、皆さんがたはこの作品どこが〈自己と他者の心は通じ合うのか〉ということにつながるのか、という不審をもたれるかもしれません。しかし、実は、〈自己と他者の心は通じ合うのか〉ということについて、この作品には重要なモチーフが隠されています。
 花市君が「いやだよ。」と言ったとき、村の子どもたちは次のような感想を持ちました。つまり、「そこにつつたつてゐるのは、よく見知つてゐる花市君ではなくて、どこか知らない遠い所から、けふ突然やつて来た少年のやうに思われた」というのです。いままで自分が良く知っている、心が通じていると思っていたはずの少年が、突然、まったく異なる顔を見せるというモチーフには「久助君の話」と共通のものがあります。
 「久助君の話」の場合には、兵太郎君に自分の知らない面があることを発見した久助君は、〈自己と他者がわかりあえない〉という点に悲しみを持ちます。「耳」の場合では、久助君はまったく逆の感想を持ちます。今まで自分が良く知っていると思っていた花市君は、突然、異なる子どもに変身しました。その変身を悲しみとしてとらえるのではなく、好ましいものとしてとらえるというところに、「久助君の話」との違いがあるわけです。
 久助君は、一瞬、花市君の変身に驚きますが、すぐに花市君の変身を自分も見習おうと考えます。〈自己と他者の心は通じ合うのか〉と言う疑問に即して言えば、〈通じ合うのだ〉という結論になっているのです。
 ですから、「久助君の話」のように悲しい結末には終わらない訳ですが、花市君の変身に対する一瞬のとまどいというところに、共通点があるわけです。

 「耳」に引き替えて、「小さい太郎の悲しみ」の場合は、まったく逆の結論になります。
 小さい太郎はカブトムシを捕まえて、お婆さんに見せに行きます。けれども、お婆さんはそんなことには全く興味を示しません。つまり、小さい太郎と大人であるお婆さんの間では、心が通じ合いません。大人と子どもとでは、まるで住む世界が異なっているのです。
 そこで、小さい太郎は心が通じ合う友だちを探しに出かけます。
まず初めに、金平ちゃんの家に行きますが、金平ちゃんは病気になったので遊ぶことができません。次に、恭一君の家に行きますが、恭一君は海のむこうの三河の親類に養子に行っていました。最後に、年長の安雄さんの家に行きます。けれども、安雄さんは既に大人の世界に移ってしまっていたのです。というのは、今日から家業の車大工を継ぐために、お父さんについて修行するようになったのでした。
 この「小さい太郎の悲しみ」という作品では、心が通じ合っていた友だちとの別れが、次第にエスカレートしていきます。病気の金平ちゃんとは、病気がなおれば遊ぶことができます。養子に行った恭一君は、盆と正月には帰ってきます。ですから、そのときに遊ぶことができるのです。しかし、安雄さんのように、子どもの世界から大人の世界に移ってしまった人とは、もう二度と一緒に遊んで心を通い合わせることはできません。
 このように、所属する世界を隔ててしまった人とは、二度と再び心を通じ合わせることができないということに、小さい太郎は非常に深い悲しみを感じます。
 ところで、南吉は子どもの時、母方の祖母の家に養子にやられた経験があります。
 ご存知かとは思いますが、南吉は幼くして実母と死別しています。そして、継母をむかえる訳ですが、養子先は実母の実家にあたります。ですから、南吉の本名は、生まれた時の渡辺正八から新美正八に変わっているのです。
 それはさておき、養子先ではお婆さんとの二人暮らしになじめず、養子の籍はそのままにして、すぐに実家の渡辺家にかえされました。この作品は、自分の死を悟った時、子どもの時の経験をモチーフに取り込んだものと思われます。
 〈自己と他者の心は通じ合うのか〉と言う疑問に即して言えば、〈通じ合わない〉という結論になっていますね。

 そして、「疣」という作品です。
 「疣」では、松吉と杉作という兄弟が出てきます。兄の松吉は国民初等科五年生。弟の杉作は四年生という設定になっています。この兄弟は田舎に暮らしていますが、夏休みに、彼らの家へいとこの克巳が遊びにきました。克巳は町の子どもで、家は床屋をしています。松吉とは同い年です。
 さて、克巳が町に帰る前日のことです。彼らは、裏山の池に泳ぎに行きました。昔のことですから、盥を浮き袋がわりにします。けれども、池の中程まで来たところで、三人とも疲れきってしまいました。三人はそれこそ必死になって励ましあい、協力しあったので、何とか泳ぎきることができました。
 こうして、文字どおり死に直面するという大事件を経験して、彼らは心を通い合わせ、友情を結ぶようになったのです。
 「疣」というのは大変風変わりな題ですが、これは克巳と松吉の心がすっかり通い合ったので、友情の印に松吉の疣を克巳に譲り渡したということから来ています。もちろん、実際に疣を譲り渡すことなどできませんが、譲り渡すまじないをしたのです。
 友情の印に疣が欲しいと思い、まじないで疣を譲り渡すというところに、いかにも、子どもらしい論理が描かれています。
 やがて、秋になりますと、松吉兄弟の家では収穫のお祝いに餡ころ餅をつくりました。このあたりで、〈農揚げ〉と呼んでいる習慣です。
 松吉兄弟は、お母さんに言われて餡ころ餅を克巳の家へ持っていくように言いつかります。たぶん、おじさん・おばさんからお駄賃を貰えるでしょうし、克巳にも会うことができるので、兄弟は大喜びでお使いにでかけます。
 ところが、克巳の家に着いてみると、おじさんもおばさんも留守にしていたので、お駄賃は貰えません。そのうち、克巳は一人で家に帰ってきますが、遊びにきた町の子と二階へあがったままで、松吉兄弟は見事に無視されてしまいます。
 このように、夏休みには確かに心が通い合っていたと思っていたのに、それは幻想にすぎなかったということがわかります。村の子と町の子というふうに、住む世界が異なり、立場が異なっている子どもどうしの心は通じ合わないのでした。
 〈自己と他者の心は通じ合うのか〉と言う疑問に即して言えば、〈通じ合わない〉という結論になっています。

(4)「狐」について

 あと、「狐」という作品が残りました。「狐」については、少し詳しく、お話したいと思います。
 実はこの作品、南吉の童話「手袋を買ひに」と関係が深いように思われます。その理由は、勿論、両方とも狐が出てくるというような、単純なことではありません。「手袋を買ひに」と「狐」には、どちらも、〈母〉という事を考えさせる問題が描かれていると思われるからなのです。
 ここで、「狐」のストーリーをかいつまんで、お話しいたしておきます。ストーリーは、ごく単純です。
 主人公は文六ちゃんという、やせっぽちで、色の白い、眼玉の大きい子どもです。
 文六ちゃんは友だちと、村の鎮守のお祭に出かけます。途中、下駄屋さんに立ち寄って新しい下駄を買うのですが、お婆さんから晩に新しい下駄をおろすと狐がつくと言われてしまいます。これは、昔からの迷信ですね。
 それから祭へ行って、帰る途中のことです。
 連れだって祭に行った友だちたちは、文六ちゃんが狐になったような気がしてきます。そのため、文六ちゃんを気味悪く思うようになります。文六ちゃん自身も、自分に狐がついたような気がして不安になりました。そして、文六ちゃんは家に帰ると、お母さんに、自分が狐になったらどうするか、ということを聞きます。お母さんは自分も狐になってくれるというのですが、文六ちゃんの不安は解消されません。
 「狐」は概ね、このようなストーリーの作品です。
 この作品について、小野敬子さん。この人は南吉の地元で短大の先生をしています。小野さんが『南吉童話の散歩道』(1992 中日出版社)という本の中で、この「狐」について論じています。
 私の理解するところによりますと、小野さんは、この著書の中で次のようなことを述べているように思います。即ち、南吉の作品においては、〈理想の母親像〉を描こうとする力が常に働いていたというのです。
 小野さんは次のように書いています。

「手袋を買ひに」で果たすことができなかった理想の母親像の創造を、南吉は「狐」の中のたとえ話において達成することができた。たとえ話であったから創造することができたのである。
この童話(「狐」のこと。「狐」が童話であるということには疑問がありますが、これは別のことですので、ここでは無視します。―引用者)に託した母子の最高に心の通い合う世界は、南吉にとって見果てぬ夢だった。
 このような見解は、「狐」に描かれた母親像を〈理想〉のものとして解することが根拠になっているわけです。しかし、私はそのようには思っていません。私の読み方では、「狐」に描かれた母親像は決して〈理想〉のものではないのです。以下、その根拠について述べることにします。

 ところで、冒頭に少し名前を出しました続橋達雄さんは、『南吉童話の成立と展開』(1983 大日本図書)で、南吉の〈母〉に対する思いには、二つの面のあるということを指摘しています。この問題、実はなかなか根深い問題がありますが、時間の都合もありますので、ここでは簡単に、続橋さんの記述にそうかたちで、南吉の日記類中の記事を紹介しておくにとどめたいと思います。
『スパルタノート』1931年2月15日の記述
もし母が生きてゐるなら本などもつとかひてくれようと思ふも

1937年3月3日の日記
母は昨夜のことで朝から気嫌が悪い。何といふ狭量な己を抑へることの出来ぬ女だらう。
(中略)彼女は一度も正当な理由で怒つたことはない。いつもひとりで理由をこしらへて怒つてゐる。実に不愉快な女だ。

1941年7月18日の日記
父か母の死ぬ日がやつて来る。それが一番恐ろしい。さうすると私の家はめちやめちやになつてしまふ。私が病弱で無能だから。

 南吉の〈母〉に対するイメージは複雑で、一通りではありません。ふだんの気持でいるときの南吉は「甘えん坊で、親思いの一面を示す」のですが、しばしば継母への不満を表明し、不満のはけ口に実母のイメージを求めることがあります。そして、「時には継母の冷たさに実母の愛を思い、時には継母を実母のように慕っている」というように、続橋さんは書いておられます。
 このように、続橋さんは南吉の実生活上、〈母〉というものに対して特別な感慨のあることを指摘しているのです。
 ここまでは、私も同感です。けれども、続橋さんは、続いて、「狐」に現れた〈母〉のイメージは〈実母〉か〈継母〉かという考察を行っています。そして、「南吉が限りなく甘えることのできた実母のイメージだった」としているのです。「文六は、母との一体感、共同のいのちを求めている。文六と母の流す涙は、それぞれの側からの《愛の哀しみ》というべきか」というのが、続橋さんの結論でありました。概ねこのような分析が、続橋さんの分析です。
 しかし、「狐」という作品は、本当に南吉の理想の母親像を描いているといえるのでしょうか。そもそも、〈実母のイメージ〉〈継母のイメージ〉や〈理想の母親〉〈母親らしくない母親〉というようなステロタイプで、南吉の作品に描かれた〈母〉について考えようとすることは、妥当な読み方といえるでしょうか。私はそのような単純な割り切り方で、この作品を読むことは、正しくないと思っております。

 少年小説「狐」では、母はあくまでも文六ちゃんを愛し、文六ちゃんは母を慕い続けています。そのことは紛れもない事実です。にもかかわらず、この作品において、文六ちゃんが母の愛情に包まれているように見えるのは、人間関係のごく浅い、表面的なところにしかすぎないのです。つまり、この作品は、人間関係の深いところでは、人間というものは所詮孤独なものなのだということを読者に思い知らさせていると言えるでしょう。作品を読んで、読者はこの事実を知った時、愕然とすることになります。
 「狐」の中で、祭の場面が出てきます。この場面では、お多福湯のトネ子が稚児さんになって舞を舞います。しかし、祭礼という晴の場においては、日頃よく知っているはずのトネ子であっても、神子という全く異なる者に変身をして見しまいます。
 また、いつもは仲の良い友だちであっても、いったん文六ちゃんが狐になったのではないかという疑問を抱きますと、急に態度を豹変させてしまいます。彼らは文六ちゃんが狐になったと思い込んだとき、文六ちゃんをおそれるようになるのです。
 一方、文六ちゃんは日頃心が通じ合っているとおもっていた友だちから、みごとに裏切られてしまいます。
 それでは、文六ちゃんと最も親しい関係にあるお母さんの場合はどうでしょうか。
 文六ちゃんのお母さんが、文六ちゃんの友だちたちのように、普段は見せない面を垣間見せ、文六ちゃんを裏切るようなことは、絶対にないと言いきれるでしょうか。
 作品中では、もし文六ちゃんが狐になってしまったらお母さんも狐になると言ってくれます。さらに、お母さんは、もし狐になった文六ちゃんが猟師に捕まりそうになったら、文六ちゃんの身代わりになるつもりだと言います。「狐」の最後は、次のように締めくくられています。
「犬は母ちやんに噛みつくでせう、そのうちに猟師が来て、母ちやんをしばつていくでせう。その間に、坊やとお父ちやんは逃げてしまふのだよ。」
「いやだよ、母ちやん、そんなこと。そいぢや、母ちやんがなしになつてしまふぢやないか。」
「でも、さうするよりしやうがないよ、母ちやんはびつこをひきひきゆつくりゆくよ」
「いやだつたら、母ちやん。母ちやんがなくなるじやないか」
「でも、さうするよりしやうがないよ、母ちやんはびつこをひきひきゆつくりゆつくり…」
「いやだつたら、いやだつたら、いやだつたら!」
 文六ちやんはわめきたてながら、お母ちやんの胸にしがみつきました。涙がどつと流れて来ました。
 お母さんも、ねまきのそででこつそり眼のふちをふきました、そして文六ちやんがはねとばした、小さい枕を拾つて、あたまの下にあてがつてやりました。
 今日では〈びつこ〉という表現にひっかかりを感じる方もおありでしょうが、いわゆる差別語の問題について、いま、論じるゆとりはありません。南吉がこのように書いたのは歴史的事実であるということで、ご容赦下さい。
 それはさておき、このように、少年小説「狐」には、我が子の為には命をも投げ出そうとするお母さんの愛情が溢れています。実に感動的な場面です。
 しかし、ここで見方をかえて、文六ちゃんの立場からこの場面の意味を考えてみましょう。お母さんの言うことは、客観的にはいかに愛情に溢れた行為ではあったとしても、文六ちゃんの気持ちの上からすると、お母さんに見捨てられたということに等しいのです。ですから、お母さんの言う事が愛情であるといわれても、ほんとうのところ、文六ちゃんは困ってしまうのではないでしょうか。何故ならば、文六ちゃんは常にお母さんがそばにいてくれて、愛され慈しまれ続けることを求めています。何故ならば、肝心のお母さんがいなくなってしまっては、元も子もなくなってしまうからです。
 また、お母さんとしても、自分の言うことを文六ちゃんの立場に立って考えてみると、子どもを捨てることと同じことなのだということは、充分、分かっているのではないでしょうか。
 けれども、だからといって、この「狐」中に書かれたお母さんの決意そのものを非難することは、誰にもできないでしょう。我が子を救う道が他にないという場合、我が身を犠牲にすること。このことが、究極の愛情の表現であることには違いないからです。
 ここには、明白なパラドックスが見いだされでしょう。客観的には愛情にあふれた尊い行為であっても、子どもの立場から見れば見捨てられてしまったことに等しいというパラドックスです。このパラドックスを解決し、母と文六ちゃんをともに救うような手段はありません。つまり、「狐」において、お母さんは如何に行動すべきかという問いに答えを出すことは、もともと不可能なのでした。
 結局、小野さんや続橋さんの言う〈理想の母〉などというものは、この作品中には、初めから存在ていないのです。神ならぬ身にとって、文六ちゃんはお母さんの胸にしがみつくしかありません。もちろん、お母さんの胸というのは、母性の象徴ですね。お母さんは涙をぬぐうしかほかに、なすことがありません。
 このように読み解いて来ますと、「狐」だけが例外的に〈母〉と〈子〉の理想的な心のつながりを描いているとする小野さんや続橋さんのお考えは、決して妥当なものではないことがわかります。
 それでは、最晩年の南吉は、何故このような回答不能で救いのない問いを作品の中で問い続けたのでしょうか。それは、死期を悟った南吉が、もう一度、自分が生涯にわたってこだわり続け、特別な感慨を抱き続けてきた母親という存在について、作品の上で纏めをつけておきたかったからではないかと思います。南吉がいよいよ人生の終わりを迎えようとするその一瞬、命の最後の残り火をかきたてながら、私たちに人生の難問を問いかけた。そう思うと、晩年の一連の少年小説は、なんとも壮絶で悲しい作品であったと思います。

(5)おわりに


 以上が、最晩年の南吉の少年小説に対する私流の読み方です。
 なお、「狐」につきまして、私は以前に「手袋を買ひに」と併せて論じたことがありますので、もし機会がありましたらご一読下さい。(「新美南吉の作品における〈母〉―「手袋を買ひに」と「狐」を中心に―」=「本とこども特別版」3 1993.6.15)

 私のお話は、いよいよ終わりに近づきましたが、最後にもう一言だけ、つけ加えさせていただきたいと思います。簡単に言いますと、児童文学における〈向日性〉〈理想主義〉ということです。

 児童文学という分野に対しては、一般に抜き難い固定観念があります。それは、子どものための作品だから結末は明るくなければならないとする固定観念です。
神宮輝夫という人。この人は優れた英米児童文学の翻訳者であり、研究者です。日本児童文学についても、優れた業績があります。この神宮さんが、「日本児童文学」という雑誌の、1968年4月号で、次のような発言をされています。
理想主義、向日性というマジカルなことばは、必然的に人間の暗い部分、世の中の悪などを排除しようとする。だから人間を一面的にとらえたり弱点をかばい長所を誇張する。世の動きも、理想に対してセンチメンタルな飛躍をするか、使いふるしたハピーエンドに堕していく。
 このように、向日性や理想主義について、批判的見解が述べられています。つまり、児童文学において、向日性や理想主義ということを絶対の真理と考え込むことには限界があると言うことですね。
 実のところ、向日性や理想主義の問題について語り出すと、なかなかやっかいなものがあるのですが、ここでは単純化させていただきます。
 南吉が少年小説を盛んに書いておりました1940年代においては、この向日性や理想主義が自明の理として信じられておりました。この時代に、南吉は向日性神話に囚われることがなかったことは驚きです。南吉の作品においては、立場の異なる者どうしは心がつうじあうのだろうかということが、一貫して描き続けられました。もう少し一般化して言いますと、自己と他者は本当に理解しあうことができるのか、人間というものは孤独な存在であるのかという問いが、作品中で問い続けられたということになるでしょう。
 日本の児童文学の歴史を振り返った時、南吉以前に、人生の暗い部分について、これほど深刻な問いかけを行った児童文学作家は、殆ど皆無といっても良いでしょう。こういった深刻な問いかけを、児童文学作品の中で問い続けたところに、今日の我々がなおも心をひかれるものを感じるのではないでしょうか。ここに南吉の少年小説の独自性と魅力が存在すると言えるでしょう。
 以上で、本日の私のお話を終わらせていただきます。


★関連するエッセイ「岩波文庫版『新美南吉童話集』の刊行に思う」にリンクします。