研究ノート


 新美南吉・少年小説の魅力

これはわたしの講演の記録です。そのうち、論文にしようと思っていましたが、機会がないままになっていたものです。とりあえず、ここで公開して、みなさまがたのご意見やご批判をいただいた上で、あらためて書き直そうと思います。講演は、1995年5月29日、京都アンデルセンハウスで行いました。講演会「新美南吉の世界」という企画の一環でした。熱心な聴衆のおけげで、充実したひとときであったと思います。なお、関連するエッセイに「岩波文庫版『新美南吉童話集』の刊行に思う」があります。

 表現上の特性からみた二つの〈ごんぎつね〉

ここでは、文学作品の研究にパーソナルコンピュータを活用してみようと試みました。研究データは全てコンピュータ処理した結果、得られたものです。といっても、漢字使用率・行あたりの文字数・色彩語ほか特定の語に着目する程度の、ごく初歩的な試みにしかすぎません。それでも、〈ごんぎつね〉以外の南吉の作品や、「赤い鳥」掲載の南吉以外の作家の作品にも目をむけて、「ごん狐」に他者の手が入っているという仮説を検証することができたのではないかと考えます。

 喪失の物語・新美南吉「家」をよむ

主人公の〈喪失〉の思いを軸にしながら、南吉の作品「家」にみられる「かなしみ」とは何かを明らかにします。「かなしみ」は全南吉作品を通じて重要な語です。子どもの〈成長〉という問題について、南吉は作品中にいかに描いているかを考証しています。

 新美南吉「屁」にみられるこども像

南吉の作品「屁」の分析をとおして、南吉は子どもの屈折した心をリアルに描いていることを明かにします。南吉は子どもを読者対象とした作品中に、こうした子どもの〈陰〉の部分について描いています。ここに南吉作品の児童文学史上における意義が存することを考証しています。

 新美南吉「手袋を買ひに」論

「手袋を買ひに」は新美南吉の代表作の一つに数えられています。ここでは、初稿と決定稿における校異に着目し、母狐の「ほんとうに人間はいいものかしら」という問いの意味について考えます。
この作品のもつリアリティーと魅力は、この母狐の問いかけによって支えられていることがわかります。さまざまな欠点を指摘されながらも、この作品がいまだに根強い人気をもっているのは、この問いかけのもつ意味の深さが我々を魅了してやまないからでしょう

 研究と資料『1928年版 水口』

巽聖歌は童謡・少年詩の歴史の上に大きな業績を残しました。北原白秋に師事し、「赤い鳥」出身の童謡詩人として、佐藤義美・与田凖一と並び称される存在です。ここに紹介する『1928年版 水口』は、巽聖歌が初期の頃に作製した自筆童謡集の一つ。これまでに公刊されたことがなく、その存在すら一般には知られていませんでした。形態こそ粗末なものですが、巽の初期の頃の童謡づくりの過程をたどることができ、貴重な資料となっています。
著作権を尊重しなければいけませんので、自筆童謡集の本文の翻刻は「国際児童文学館紀要」第15号にのみ掲載される予定です。ここでは自筆童謡集に関する研究論文のみを掲載しています。
なお、関連するエッセイに『1928年版 水口』(日本児童文学学会関西例会発表要旨)があります。

 大正期における日米未来戦記の系譜

大正期は日米未来戦記がしきりに書かれ始めた時期であり、今日のシミュレーション小説の流行が想起されます。子どもむけの日米未来戦記は、当初、大人むけの出版物の影響下に成立。宮崎一雨から阿武天風へと書き継がれていきます。はじめは海軍軍備制限条約に反対するという単純な意図のもとに書かれましたが、次第に複雑な国際政治の動きを反映するようになりました。SF的な道具立てをも取り入れて、独自の展開をとげていくようになります。

 阿武天風の軍事冒険小説

阿武天風は明治末から昭和前期にかけて活躍した編集者・作家です。元海軍将校という経歴から、とりわけ軍事冒険小説に特徴が見られるほか、探偵小説・SF小説にも業績が多くあります。ここでは、日米未来戦ものに焦点をあてながら、子どもむけの作品について概観します。
なお、ここをクリックすると天風の作品「日米戦争夢物語」を読むことができます。

 永島永洲の児童文学

大衆的児童文学の歴史の中で、忘れられていた作家に焦点を当てた論考です。永島永洲は主として「少年」誌上で活躍し、子どもの身近な生活中に起こる事件をリアルに描きました。こうした作風の探偵小説は、他に類を見ない業績であることを明らかにしています。
なお、ここをクリックすると永洲の作品「大活劇」を読むことができます。

 宮崎一雨の児童文学

大正期から昭和前期にかけて活躍した大衆的児童文学の作家である宮崎一雨の業績を日本児童文学史上に位置づけました。特に未来戦争ものに焦点を当てながら、軍事・冒険・探偵・SFの各分野における業績を明らかにした論考です。
なお、ここをクリックすると、論文発表後あらたに判明した事実を記した論考「補説・宮崎一雨とその周辺」を読むことができます。

 小酒井不木の児童文学

小酒井不木の探偵小説や評論の執筆活動の期間は、1921年年暮れに始まり29年春に彼が没するまでの、僅か7年あまりにしかすぎません。にもかかわらず、子ども向けの作品だけでも、相当な数にのぼり、中でも、〈少年科学探偵〉シリーズでは、児童文学史上に不朽の名を遺しました。このシリーズの面白さは、際立った論理性、知的好奇心の満足、斬新で独創的なアイデアへの驚きと感動ということにあります。このシリーズは、面白さと《健全》さの間の、絶妙なバランスの上に成り立っていると言えましょう。
なお、ここをクリックすると不木の作品「紅色ダイヤ」を読むことができます。

 児玉花外の児童文学

児玉花外は明治大学の校歌を作詞したことなどで知られる詩人ですが、草創期の少年詩の分野でも、有本芳水とともに大きな業績を遺しています。花外が少年詩人としての主要な業績をあげる時期は、大正初年から10年あまりの間であり、内容においては熱血詩というべき叙事詩群、形式においては花外調とか花外情調と呼ばれる独特の散文詩群に最も特徴が現れています。しかし、花外が少年詩を最も多作した時期は〈芸術的内容を持つた唱歌〉である《童謡》の全盛期であり、読者である子どもたちの支持は受けながらも、花外に続く資質を持った詩人が続いて現われることはなかったのです。

 大衆少年雑誌の成立と展開

大衆少年雑誌の成立の条件を草創期の児童雑誌に探り、その誕生から展開にいたるまでを明らかにします。

 滝沢素水の児童文学

滝沢素水は、「日本少年」の全盛期の基礎を築いた編集者・作家でした。本稿では素水の多彩な業績のうち、編集者としての業績と作家としての業績について論究します。

 有本芳水の少年小説

有本芳水は少年詩の創始者として高い評価を受けています。当時の子ども読者からは、熱血詩の児玉花外と並び賞されて絶大な人気を集めました。
しかし、その一方で夥しい数の少年小説をものしており、これらを等閑視しては、芳水の児童文学史上への位置づけを正しくなすことはできません。ここでは芳水が「日本少年」の編集にかかわっていた約10年間に、単行本として刊行されたり、「日本少年」に掲載されたりした少年小説について検討します。

 松山思水と「日本少年」

松山思水は、全盛期の「日本少年」における代表的な編集者・作家の一人でありました。ここでは、思水の多彩な業績のうち、滑稽もの・軍事冒険もの・探偵ものを中心に論究します。思水が「日本少年」誌上に書き続けた作品は、膨大な数にのぼりますが、その特質を明らかにすることは、ひとり思水のみならず、この時期の大衆的児童文学の特質の全般を解明することにつながることでしょう。

 馬賊の唄・物語を駆ける馬賊

明治末から大正初期にかけて、軍事冒険小説に描かれた馬賊は青少年の大陸雄飛の夢を育みました。有本芳水・池田芙蓉・宮崎一雨・阿武天風・山中峯太郎・檀一雄の作品を取りあげながら、多くの青少年に影響を与えた馬賊ものの歩みを明らかにします。

 小学生むけ雑誌のスタイルを開拓した「小国民」

明治期の雑誌「小国民」は、日本で初めて小学生(当時は四年制)を対象に発行され、この分野における開拓者として児童文学史に残る役割を果たしたと言えるでしょう。
本稿は復刻版「小国民」の解説として執筆したものです。
なお、関連するエッセイに「石井研堂の児童読物」、論文に「小国民」誌の異版があります。

 「小国民」誌の異版

明治期を代表する児童雑誌「小国民」には多くの異版があります。本稿では多くの異版を詳解することによって、草創期の児童雑誌における再版の刊行をめぐる諸問題、挿画や図版・口絵をめぐる諸問題について考究します。同時に、希有の出版文化人であった石井研堂の業績の一端を明らかにします。
論文の性質上、多数の図版を含んでいますので、普通の電話回線経由では少し重いかもしれません。
なお、関連するエッセイに「石井研堂の児童読物」、論文に小学生むけ雑誌のスタイルを開拓した「小国民」があります。

 解説―巌谷小波「日本昔噺」叢書―

「日本昔噺」叢書は、明治お伽噺の巨人・小波がなしとげた数ある業績の中でも、最も重要なものの一つです。この叢書が完結すると、収録しきれなかった題材を含めて新たに「日本お伽噺」叢書全24冊を刊行。さらに「世界お伽噺」叢書全100冊、「世界お伽文庫」叢書全50冊がこれに続きました。かくして、内外の昔話・伝説を子どもにむけて整理・集大成することは、小波のライフワークの一つとなりました。
なお、この原稿は『日本昔噺』(「東洋文庫」 2001.8.8 平凡社)に「解説」として掲載したものです。
関連するエッセイに「森鴎外と児童文学」があります。

 巌谷小波「日本昔噺」叢書の書誌的研究

「日本昔噺」叢書は、個人が著わした児童文学の叢書としては、わが国最初のものです。わたしは『日本昔噺』(2001.8.8日 平凡社)を「東洋文庫」叢書の一冊として復刊する機会を得て、本文校訂と「解説」の執筆に携わりました。本稿では、この機会を通じて知り得た諸問題について整理します。併せて、この叢書の成立の過程と変遷について考察します。

 高橋太華の児童文学

高橋太華は明治期を代表する児童文学作家・編集者の一人でありながら、これまで研究対象とはされてきませんでした。本稿では、史伝とお伽噺を中心に作家としての業績を整理し、日本児童文学の開拓者の一人として、児童文学史上に位置づけています。
なお、関連するエッセイに「石井研堂の児童読物」があります。

 「少年文武」創刊号から見た中川霞城の業績

中川霞城は明治期の児童雑誌「少年文武」を主宰。初期の科学読物の書き手、児童演劇脚本の書き手、グリム童話の翻訳家としても知られています。本稿では、「少年文武」の創刊号から霞城の業績全体を見通して整理し、児童文学史上に位置づけています。

 山縣五十雄の《小公子》―翻案「寧馨児」の意味するもの―

 バーネットの『小公子』は、若松賤子により「女学雑誌」誌上で初めてわが国に紹介されたとされていますが、これとほぼ同時期に同じ原作の作品が「少年文庫」に翻訳され連載されています。タイトルは「寧馨児」、著者名は螽湖漁史でした。ここでは、もうひとつの《小公子》について論じます。

外字の表記について

JISで定義されていない文字には■を当てています。しかし、これでだけではどのような字か分からないので、簡単な式で注釈を加えています。
すなわち、仮に"恙"が外字であったとすると、■{(美−大)/心}と表記します。同じく、仮に"涌"が外字であったとすると、■{(汀−丁)・(踊−足)}と表記しています。"闢"は■{門<(壁−土)}で、"応"は■{(庁−丁)<心}になります。

ツノガキの表記について

いわゆるツノガキもやっかいな問題です。
例えば、『少年の歌』という書名のアタマに"名作童話"というツノガキがあり、しかも"名作"と"童話"の2行に分けて表記されている場合は、『名作:童話|少年の歌』と表記しています。


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