解説

―巌谷小波「日本昔噺」叢書―

『日本昔噺』(「東洋文庫」 2001.8.8 平凡社)に掲載



 

=目次=

(はじめに)
(1)「日本昔噺」叢書の成立
(2)「日本昔噺」叢書の評価
(3)「附録」の諸篇、ほか


 
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 この書は巌谷小波著「日本昔噺」叢書全24冊(1894〜96 博文館)を復刊したものである。本編24篇、附録19篇、坪内逍遥ほかの「序」など、大和田建樹ほかの「唱歌」などを収録した。本文校訂については、一部、勝尾金弥氏の協力を得た。
 「日本昔噺」叢書は、明治お伽噺の巨人・小波がなしとげた数ある業績の中でも、最も重要なものの一つである。巌谷小波は本名季雄。漣山人、大江小波、隔恋坊とも称する。1870年、近江国・水口藩の藩医を務めた家に生まれた。父は明治政府に出仕したのち貴族院議員となり、一六居士と号して、書家としても知られる。小波は子ども時代からドイツ語を学んで医者になることを期待されたが、結局は文学の道に進み、1933年に没している。文部省嘱託として国定国語教科書の編纂に参画したほか、口演童話の開拓者でもあった。
 さて、この叢書の刊行が開始され始めると、営業的にも非常な成功を収めた。小波が「おとぎ四十年」(木村定次郎編『還暦記念 小波先生』 1930 所収)に記すところによると、初め全12冊の予定であったものが売れ行き好調のため途中で全24冊に変更された。また、当初一冊5円であった原稿料が第12編から10円に値上げされたともいう。
 叢書が完結するや、収録しきれなかった題材を含めて新たに「日本お伽噺」叢書全24冊(1896〜99)を刊行。さらに「世界お伽噺」叢書全100冊(1899〜1908)、「世界お伽文庫」叢書全50冊(1908〜15)がこれに続いた。「世界お伽噺」叢書の完結後には、順次、これらを袖珍本の形に再編・改訂した出版物の刊行を開始した。すなわち、『改訂:袖珍|日本昔噺』(1908 博文館)、『改訂:袖珍|日本お伽噺』(1911 博文館)、『改訂:袖珍|世界お伽噺』全10冊(1918〜22 博文館)の諸編である。小波が一連の叢書に並々ならぬ思いを注いでいたことがわかる。
 かくして、内外の昔話・伝説を子どもにむけて整理・集大成することは、小波のライフワークの一つとなった。
 
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(1)「日本昔噺」叢書の成立


 新興著しい出版社・博文館がこの叢書を企画した頃、小波は硯友社系の小説家として頭角をあらわし、「日出新聞」(のち「京都新聞」)の小説記者を務めていた。また、子どもむけの読物の作家としても注目される存在であった。『こがね丸』(叢書「少年文学」第1編 1891 博文館)はわが国最初の本格的な創作児童文学であったし、「幼年雑誌」(1891年1月〜94年12月 博文館)にもお伽噺を寄稿するなど、業績を積み重ねていた。わが国で初めて単独の著者による児童書の叢書を企画するにあたって、博文館が小波に白羽の矢を立てるのは自然のなりゆきであったといえる。
 この叢書の刊行中、小波は新しく創刊される「少年世界」誌(1895年1月〜1933年1月)の主筆として、博文館から招聘を受けた。この雑誌は「日本之少年」「幼年雑誌」「学生筆戦場」「婦女雑誌」の諸雑誌に加えて「少年文学」「幼年玉手函」の二つの叢書を統合。博文館が満を持して世に送り出した児童雑誌であった。創刊号から小波のお伽噺を初めとする各種の読物や論説・史伝・知識読物などを掲載して、たちまち明治の児童雑誌界を席巻することになる。このように、小波が児童文学の書き手として本腰を入れ、名実ともに明治お伽噺の第一人者となっていく、ちょうどその入り口に位置するのがこの叢書の企画であった。
 当時、博文館にあってこの叢書の企画を仕掛けた人物は、小波の個人的な友人でもあった大橋新太郎である。大橋と小波の間でいかなる相談がなされたかは不明。ただ、先述した「おとぎ四十年」には「少年文学で味を占めた博文館は、更に日本昔噺の名の下に、在来の我邦の有名な童話を、一定の様式に書き直すべく私に需めた。元より私の考へて居た所だから、渡りに船と直にこれに応じて、即ち桃太郎、かちかち山、猿蟹合戦、花咲爺と、相次いで新たに書き直す事にした。これが日本昔噺である」と伝えられている。こうして、小波と大橋の間では、昔話を整理してスタンダードな形にまとめあげ、記録しておこうという趣旨で企画が進められたことがわかる。大橋新太郎は、後に父・佐平の後を継いで二代目館主となり、博文館をして明治を代表する出版社にまで育てあげている。この叢書の企画や小波の起用は、大橋の時流を見る目の確かさを証明する出来事であった。
 この叢書の成立や小波の博文館入社の経緯については、勝尾金弥による詳細な考証『巌谷小波 お伽作家への道』(2000 慶応義塾大学出版会)がある。この中から参考になる事柄を簡単に紹介しておく。まず、1894年4月、小波が上京したおりに大橋からこの叢書の企画が持ちかけられた。博文館入社の誘いも大橋からのもので、この年の10月頃に相談がなされた。次に、本編各篇の著者は「大江小波述」「東屋西丸記」という名目になっているが、すでに小波は「日出新聞」の劇評欄で東屋西丸の名を使用。「日本全国、東西凡ての子どもたちに親しく読んでもらいたいという願いを込めて、新企画『日本昔噺』は『大江小波述、東屋西丸記』と名乗ることにしたのではないだろうか」ということである。
 このようないきさつの中で「日本昔噺」叢書は刊行された。菊判、34〜50頁、定価は各5銭で、各編の構成と刊行状況(*印は重版に拠る推定発行年月日)は次のとおりであった。[ ]内は解説者が補記したことを示す。
  1. 『桃太郎』 富岡永洗画/春のや主人[坪内逍遥]「序」/大和田建樹「ほまれのたから」/小波「口上」「桃太郎」 1894・7・11
  2. 『玉の井』 小林永興画/紅葉山人[尾崎紅葉]「序」/佐々木信綱「桂かげ」/小波「玉の井」 1894・8・5
  3. 『猿蟹合戦』 菅原丹陵画/寧斎主人[野口寧斎]「題詞」/戸川残花「徳不孤必有隣」/小波「猿蟹仇討」 1894・9・4
  4. 『松山鏡』 武内桂舟画/竹の屋の主人[饗庭篁村]「はしがき」/萩の家主人直文[落合直文]「小波山人の松山鏡をよみて」/小波「松山鏡」「十2月の苺」 1894・10・24
  5. 『花咲爺』 水野年方画/思軒居士[森田思軒]「(無題)」/湯浅吉郎「小供と犬」/小波「花咲爺」 1894・12・10
  6. 『大江山』 歌川国松画/眉山人[川上眉山]「序」/中邨秋香「大江山」/小波「大江山」「奴凧の幽霊」 1895・1・28
  7. 『舌切雀』 三島蕉窓画/学海老人依田百川[依田学海]「(無題)」/硯堂主人美静[福田美静]「舌切雀」/小波「舌切雀」「初午の太鼓」 1895・2・20
  8. 『俵藤太』 藤島華仙画/露伴牧童[幸田露伴]「(無題)」/呉竹廼舎島居忱「蜈蚣退治」/小波「俵藤大」「紙雛と高砂」 1895・3・23
  9. 『かちかち山』 寺崎広業画/幸堂得知「はしがき」/秋屋老夫[本居豊頴]「かちかち山の草子を見て」/小波「勝々山」「燕と鯉幟」 1895・5・11
  10. 『瘤取り』 山田敬中画/落合為誠「序」/麓の軒主人[物集高見]「(はしがき)」/小波「瘤取り」「蝿と団扇」 1895・6・14
  11. 『物臭太郎』 梶田半古画/思案外史[石橋思案]「序」/黒川真頼「ものくさ太郎の草紙のはしに書つく」/小波「物臭太郎」「月と雲」 1895・7・25
  12. 『文福茶釜』 鈴木華邨画/志賀[志賀重昂]「序」/清矩[小中村清矩]「日本昔噺といふ草子のはしに」/小波「文福茶釜」「狂:言|魔法弟子」 1895・8・12
  13. 『八頭の大蛇』 尾形月耕画/巌本善治「序」/蓬室主人武郷[飯田武郷]「8股大蛇」/小波「八頭の大蛇」「鳶ほりよ、りよ」 1895・9・10
  14. 『兎と鰐』 高橋松亭画/三昧道人[宮崎三昧]「(無題)」/榲邨[小杉榲邨]「謡曲の詞をかりて」/小波「兎と鰐」「大和玉椎」 1895・10・11
  15. 『羅生門』 筒井年峯画/遅塚麗水「(無題)」/小中村義象「羅生門」/小波「羅生門」「駄法螺」 1895・11・18
  16. 『猿と海月』 久保田金僊画/高橋五郎「日本昔噺序」/こまの家のあるじ[奥好義]「海月と猿のむかしばなしをきゝて」/小波「猿と海月」 1895・12・15
  17. 『安達ケ原』 小堀鞆音画/蘇峯[徳富蘇峰]「(無題)」/諏訪忠元「安達か原をよめる今様」/小波「安達原」「新物臭太郎」 1896・1・15*
  18. 『浦島太郎』 永峯秀湖画/江見水蔭「(無題)」/物集高見「水の江の曲」/小波「浦島太郎」「鴬と風の神」 1896・2・25*
  19. 『一寸法師』 小林清親画/雪嶺迂人[三宅雄次郎]「日本昔噺序」/水野鈔子「一寸法師の始に」/小波「一寸法師」「虎の児」 1896・3・15*
  20. 『金太郎』 右田年英画/元良勇次郎「日本昔噺序」/大田原千秋子「金太郎」/小波「金太郎」「不思議の画筆」 1896・4・23
  21. 雲雀山』 玉桂女史[中村玉桂]画/桜痴居士[福地桜痴]「(無題)」/建部綾子「雲雀山」/大江小波「雲雀山」「雪娘と烏娘」1896・6・2
  22. 『猫の草紙』 浅井忠画/霞城山人[中川霞城]「日本昔噺序」/川島宗端「猫の草紙」/小波「猫の草紙」「人魚」 1896・6・20
  23. 『牛若丸』 橋本周延画/絅斎小史[柳井絅斎]「題詩」/清岡覚子「牛若丸」/小波「牛若丸」「力の鍵」 1896・7・13
  24. 『鼠の嫁入』 河端玉章[川端玉章]画/重剛[杉浦重剛]「(無題)」/翠香女史[水原翠香]「嫁の君」/小波「鼠の嫁入」 「小めくら」 1896・8・20
 なお、この方面の先駆的な仕事として、いわゆる「ちりめん本」の存在がある。これは明治初期の出版業者・長谷川武次郎が横浜在住の西洋人や築地の外国商館に折衝・依頼して、西洋人むけのおみやげ用として制作したもの。「ちりめん本」には英文のほか仏文・独文・蘭文などがあり、石沢小枝子の「長谷川弘文社の『ちりめん本』出版目録」(「梅花女子大学文学部紀要」 第34号 2000年12月)に詳しい。英文の叢書'Japanese Fairy Tale Series'の第1編は'Momotaro, or Little Peachling'で、1885年8月17日付の刊行であった。シリーズの和名が「日本昔噺」であること、第1編が『桃太郎』であること、取り上げられている昔話の多くが共通していることなど、「日本昔噺」叢書との類似点は多い。そのため、「日本昔噺」叢書がこのシリーズを参考に企画・立案されたことは、従来から確実視されている。
 
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(2)「日本昔噺」叢書の評価


 この時期、小波が子どもむけに昔話の集大成を試みたことについては、これまで概ね好意的な評価が下されてきた。瀬田貞二は「小波は、明治二十年代にはいって、ようやく初年に定めた教育の実が全国に結ばれたころ、耳で聞く昔話を目で読む本の形で、文字を求める用意された多くの若い読者層に提供しえた、時流の適応者となった」(『落ち穂ひろい』 1982 福音館書店)と評しているが、正鵠を得た評価であろう。また、この頃、欧化主義への反動や不平等条約に代表される欧米諸国への反発から、わが国の伝統を見直そうという気運があった。そうした気運の中でこの叢書が企画されたことは、決して偶然ではない。菅忠道は、この叢書の文学史的な意味について「文明開化の波におし流されて、忘れ去られようとしていた伝承童話である。それが、民族意識の高まりに応じて回想され、子どもの読物の近代的形成に大きな役割を果すことになったわけである。(中略)グリムの場合とちがって、民間説話を集成したものではなかったが、国民童話をまとめあげるという発想は、そこからくみとられていた。そして、まさに小波のこの編著によって、日本の国民童話は定形化されることになった」(『日本の児童文学(増補改訂版)』 1966 大月書店)と位置づけている。
 小波に続く出版物には、「家庭お伽話」叢書全50冊(吉岡向陽・高野斑山/編 1907〜10 春陽堂)、『日本全国国民童話』(石井研堂/編述 1911 同文館)、「標準日本お伽文庫」叢書全6冊(森林太郎・松村武雄・鈴木3重吉・馬淵冷佑/撰 1920〜21 培風館)などがあるが、「日本昔噺」叢書に続く小波の1連の仕事を大なり小なり意識しなかったものはない。この叢書の刊行こそ、日本児童文学史の流れから見て、文字どおりエポックメイキングな出来事であった。
 しかし、小波のこの仕事に対しては批判も多い。
 小波が「日本昔噺」でなした業績の評価には、大まかに言って二つの視点があるように思われる。ひとつは文体に関する評価、もうひとつは内容の改変に関する評価である。
 まず、文体について。これについては、とりわけ第1編『桃太郎』に批判が集中している。
 次は「桃太郎」の一節である。
 時は丁度夏の初旬。堤の艸は緑色の褥を敷いた如く、岸の柳は藍染の総を垂した様に、四方の景色は青々として、誠に目も覚める斗り。折々そよそよと吹く涼風は、水の面に細波を立たせながら、其余りで横顔を憮でる塩梅、実に何とも云はれない心地です。
 引用部分に代表される小波の文体について、野村純一は「昔話は元来、出来事のみ、いうなれば惹起した事件を主体に、それを骨太に繋いでいく。枝葉末節にとらわれずに伸展していくのが方途であった。しかるに、小波の文章は叙景描写がいたずらに多くて冗漫に過ぎる」「叙景描写に加えて、そこには意図して主人公の心理まで投影しようとしている。しかしこの方法は昔話本来の姿とはまったく二律背反し、際立って背馳する方向にあった」(『新・桃太郎の誕生』 2000 吉川弘文館)と批判する。概して昔話の研究者たちからは評判が悪く、手厳しく批判されることが多いようである。しかし、その一方、勝尾金弥はまったく同じ引用箇所について「時期を明記したことから始まって、あたりの景色、吹く風から川の流れの様子まで、文芸作品化を意図した情景描写、これが本編の第一の特色である」(『巌谷小波 お伽作家への道』)と述べ、さらに婆さんの年齢が60歳であることを明記したり、拾ってきた桃をめぐる婆さんと爺さんの会話が「まるきり下町の夫婦を連想させる」ことなどを指摘する。また、滑川道夫は「子どもたちを、おもしろがらせたのしませようという小波の意図が、ここによくあらわれている」(『桃太郎像の変容』 1981 東京書籍)と評価している。
 いったん視点を変えて、近代的な児童読物が成立していく歩みの中でこの業績の意味を評価するならば、小波の試みは1概に否定しきれるものではない。小波の仕事を昔話の集成への試みと見るか、近代的な児童読物の確立への試みと見るかによって、評価が分かれるのである。
 この問題を「桃太郎」成立の過程からもう少し詳しく見てみよう。参考にした文献は前掲の『巌谷小波 お伽作家への道』と『巌谷小波日記[自明治二十年:至明治二十七年]翻刻と研究』(桑原三郎監修 1998 慶応義塾大学出版会)である。
 小波の日記によると、まず1894年5月17日の項に「午前大橋へ 日本昔噺第一編口画送る」という記述が見える。「日本昔噺」に限らず、画家は著者の完成原稿を読んでから絵を描き始めるのではなく、仕事は同時並行的に進められる。著者や出版社からは画家に対してあらかじめ依頼したい内容を示しておく。画家はそれに基づいて絵を描くのが普通の方法であった。「口画送る」という意味は、依頼したい内容を画家に示すため、小波から書簡の類いを博文館に送ったという意味のように解される。
 ということは、小波はすでにこの時点で物語の構想をほぼ固めていたことになる。実際に原稿を書き始めたのは6月1日で、この日の日記に「午前 桃太郎起筆」と記されている。ところが、いざ執筆を始めて見ると、完成までの道のりはかなり難航したようだ。ようやく同月18日に至って「夜 桃太郎 万歳」という記載があり、脱稿したことがわかる。構想を固めてから完成まで、少なくとも1ヶ月以上の日々を費やしているのである。これに引き換え、第2編『玉の井』は同年7月11日の起稿で15日の発送、第3編『猿蟹合戦』は同年8月9日の起稿で12日の発送である。いずれも短期間のうちに一気に書き上げていて、順調な仕事ぶりというべきであろう。このように、叢書の第1編『桃太郎』については、他編にまして慎重に筆を運び、工夫を重ねていた。日本昔話の集大成という新しい仕事を始めるにあたって、産みの苦しみを味わっていたというべきであろうか。
 先の「桃太郎」の引用からわかるように、叙景や会話などに饒舌とも思える表現があった。それは小波がわが国に伝わる昔話について、今日でいうところの「再話」をすることへ、当初はそれほど重きを置いていなかったからである。それよりも、口承文芸である昔話を、明治の世にふさわしい児童読物として、お伽噺という形態で蘇らせることをめざしたのである。その為、しばしば昔話の原型を壊す結果に終わったことは事実である。しかし、もともと小波の意図は昔話のストーリーの骨組みを借りながら新しい文芸表現を盛り込み、これまでにないジャンルの確立を模索することにあった。それは口承文芸である昔話への無知や無理解に起因した行為ではなく、確信的な行為なのである。このような小波の努力・工夫こそが、「日本昔噺」叢書が世に迎えられ、小波調というべき独自の作風が一世を風靡する要因となったことも、指摘しておかなければならない。
 ただし、当の小波自身の方法論に揺れがあったことも事実である。木村小舟は「時に美辞麗句を用ゐて、形容を恣にせる個所さへ見られ、随つてやゝ難解の節すらなくもない」「然るに十三編以下、即ち後期の諸篇を見ると、其の文体にも可なりの手心を加へて、漸次形容詞を少くし、子供に聞かせる「昔話」としての真価を認むるに至つた」(『増補:改訂|少年文学史 明治篇』 1942 童話春秋社 以下単に『少年文学史』と記す)と、小波の変化に注目して述べている。こうして、回を重ねるとともに、昔話の語りを尊重しようという方向に意識が変化していることが窺えるのである。
 また、のちに刊行された『改訂:袖珍|日本昔噺』をみると、口承文芸としての昔話と読物としてのお伽噺の文体を書き分けようとする意識が顕著である。小波はこの袖珍本の序文で「その改訂の重なる点わ、成るべく冗句を刪り、言語を簡にしたのにありますが、ことに著しい所わ、即ち全篇の仮名遣を、専ら新式に改めたことです」と述べている。新式の仮名遣とは「わ仮名」とも呼ばれ、引用文にも見られるように発音に近いラディカルな表記法である。ここでは仮名遣いのみならず、「成るべく冗句を刪り、言語を簡にした」と、昔話の語りの簡潔な特質を活かそうとする方向で書き直しが行われたことに注目しておきたい。さらに、木村小舟は「晩年、別途に最も平易にして最も正確なる、即ち定本「日本昔噺」を集成すべき腹案を有し、夙に桃太郎の1篇を脱稿したのであるが、これは不幸にして未発表に終り、遂に計画の画餅に帰した」(『少年文学史』)という事情のあったことを明らかにしている。
 次に、内容の改変について。例えば、「桃太郎」において「仔細を申さねば御不審は御道理。元来此日本の東北の方、海原遥かに隔てた処に、鬼の住む嶋が御座ります。其鬼心邪にして、我皇神の皇化に従はず、却て此の蘆原の国に冦を為し、蒼生を取り喰ひ、宝物を奪ひ取る、世にも憎くき奴に御座りますれば、私只今より出陣致し、彼奴を1挫に収て抑へ、貯へ置ける宝の数々、残らず奪取て立ち帰る所存。何卒此儀御闇届けを、偏へに御願ひ申します」と鬼が島を征伐する理由づけが行われている。こうした改変についても、昔話の研究家からは贅言であり昔話の枠組みを破壊するものであると非難を受けている。その一方で、明治お伽噺の成立過程を重視する立場からは、「小波の『日本昔噺』は、何よりも、面白いということが第一で、つぎに詳しくて長い、登場する役柄がはっきりして、活き活きと活動する様が目に見えるようで、理解し易い」(桑原三郎『諭吉 小波 未明―明治の児童文学―』 1979 慶応通信)という好意的な評価が下される。文体をめぐる問題と同じく、こうした内容の改変こそが明治お伽噺の成立とその歩みを解明する上で重要な手がかりを与えてくれるのである。
 「桃太郎」の執筆中、朝鮮半島では日清両国の軍事的緊張が高まっていた。すなわち、1894年5月31日に東学党軍が全州を占領すると、叛乱の鎮圧を名目として6月9日に清国軍が牙山に到着。これに対抗して日本軍は、大鳥圭介公使が海軍陸戦隊を引き連れて同月10日に京城へ着任し、12日には陸軍部隊が仁川に到着するという状況であった。このように『桃太郎』は日清両国の開戦必至という高揚感の中で執筆されたことがわかる。これをして「世間1般の人心が、戦争に夢中になつてゐる時、凡そ戦争とは縁の遠い此の叢書を、敢然として継続発行せる書肆の勇気と熱意とは、実に敬歎の外なく」(『少年文学史』)云々と評価するむきもあるが、むしろ明治国家が初めて経験する本格的な対外戦争に際して小波の高揚する感情を反映した所為であったと解すべきであろう。
 小波はのちに「桃太郎」をありうべき教育の理想と見て〈桃太郎主義の教育〉を提唱している。こうした桃太郎観について、続橋達雄は「小波は、日本人はあくまで日本人であることを自覚せよ、と同時に、世界の日本人であることに努めよ、と強調する。日本人の自覚とは忠君愛国の臣民であることであり、世界の日本人とは、尚武冒険に富む大らかな人物として日本の国威を海外に発揚する生き方を指している。彼の腕白主義・放胆な開発主義云々の〈桃太郎主義〉とは、この謂いでもあった」(『児童文学の誕生―明治の幼少年雑誌を中心に―』 1972 桜楓社)と述べている。
 こうした内容の改変についても、時間の経過につれて小波の意識は変化している。滑川道夫は『改訂:袖珍|日本昔噺』について「ここには「天津神様から、御命を蒙つて降つたもの」としての桃太郎は変容して「大日本の桃太郎将軍」となっている。また、鬼が「我皇神の皇化に従はず」という征伐の理由もない。「天つ神の御使」として征伐したのでもない。子ども向きの昔噺のすがたに接近してきているのが、いちじるしい改訂の要点であり変化であった。子どもに視点をおいて、昔噺の素朴さが生かされる方向に改訂されてきた」(『桃太郎像の変容』)と、変化の要目を指摘する。
 ところで、周知のように「桃太郎」には様々なバリエーションが存在している。小波自身も『桃太郎主義の教育』(1915 東亜堂書房)の中で、こうした異なるバリエーションについて触れ、「尤もこの話も、地方によつて多少変つて居る。上流から流れて来たは、桃ではなくて二つの箱で、その一つを拾つて帰つたら、中から桃が出たと云ふのもあり。桃太郎の産れる段も、桃の中から飛び出すのではなくて、まづ二人が桃を食べたら、急に若夫婦の昔に還り、間もなく男の子を産んだと云ふのもある」と紹介している。小波は「桃太郎」を「日本昔噺」叢書に見られる形態にまとめるにあたって「僕は兎も角東京を標準として、専ら行はれて居る型を採る事にした」とのみ述べているが、セックスの問題を避けて通れない若返り型を採用しなかったことひとつを取ってみても、小波の児童読物観が如実に反映している。思えばかつて小波は『こがね丸』で悪役の虎・金眸大王が妾の雌鹿・照射を囲っていることを批判され、第12版以降は記述を変更したことがあった。
 ほかにも、「是はしたり、苟にも親子となれば、子が親の世話になるに、何の不思議もない筈。其代りまた其方が成人すれば、私等夫婦が厄介に成る故、つまりは五分五分損徳無しぢや。それを今更改つて、礼では此方が痛み入る」とか、「が、先方は寝耳に水、此方は兼て覚悟の前。寄手に七分の強味あれば、敵には十分の弱味がありますから、さしもの鬼も拒ぎ兼ね、見る見る中に追ひまくられて」云々など、いたるところに物語の展開に合理的な理屈や理由を付けようとする姿勢がある。
 また、「命斗りは御助けとは、面に似合はぬ弱い奴だ。然し其方は永の間、多く人間を害めたる罪あれば、所詮生け置く訳にはゆかぬ、是より日本へ連れてゆき、法の通り首を刎ね、瓦となして屋根上に梟すから、免かれぬ処と覚悟を致せ!」という桃太郎の台詞がある。本来なら、血なまぐさい場面を想像させるところだが、これを小波一流の戯作調の滑稽味で切り抜ける工夫を行っている。
 このように内容の改変を子細に検討していくことを通じて、これらの改変こそが明治お伽噺の特質であり、時代の限界の反映であったことが浮かび上がってくる。こうした限界は、ひとり明治お伽噺にとどまらない。「教育性」の名のもとに「健全さ」や「教訓性」、あるいは物語の虚構性を無視した形の「合理性」が、おとなたちによって過剰なまでに求められる。そうしたいらざる要求に書き手の側も応えていくことによって、子どもの読物は歪められていく。日本児童文学の歩みはそうしたことの繰り返しであるが、その出発点の一つを、ここに求めることができる。
 
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(3)「附録」の諸篇、ほか


 これまで「お伽噺」という用語を定義抜きで用いてきたが、小波は自らが書く子どもむけの創作読物のことを「お伽噺」と呼び、この名称は明治期を通じて児童文学一般を意味する語として広く用いられるようになったものである。しかし、「日本昔噺」叢書の執筆を始めた頃、小波の思いには揺れがあった。すなわち、昔話の語り口やストーリー運びを活かして昔話の集大成を行うのか、新時代にふさわしい文章とスタイルの児童読物を確立するのかという思いの狭間に生じた揺れである。「大江小波述」の「述」(語り)と「東屋西丸記」の「記」(文章)との狭間に生じた揺れとも言えるだろう。また、この叢書の名称に「お伽噺」という名称を用いていないこと自体、この時期の小波が未だ確たる「お伽噺」観を打ち立てるまでに至っていなかったことを意味しているように思う。
 長い間人々の間で語り伝えられてきた昔話には、語りに独特の語り口があり、物語の運びに特有の論理がある。ここに叙景描写や心理描写というまったく異なるジャンルの文芸の手法を導入しようとすることに、そもそも無理があった。『桃太郎』以降、小波はこのような手法の導入を放棄し、昔話の枠組みを壊さない範囲でスタンダードな形に集大成しようという方向に変化していく。こうした揺れと変化の中で、小波流に昔話を再構築する方法論が確立されていったのである。本来は「耳から耳へ伝へられる」(『桃太郎』の「口上」)ものを「目から目へ伝へる」(同)ように改める矛盾に、小波流の折り合いをつけていったとも言えるだろう。
 しかし、この叢書の刊行を通じて、小波のめざす新しい児童読物を確立したいという思い自体は、決して放棄されたわけではない。そうした思いは、附録という形によって満足させられていったのではないかと考える。
 最初の附録は第4編の「十二月の苺」(初出「幼年雑誌」1893年12月15日号)で、内容は後にサムイル・マルシャークが著して有名になった「森は生きている」と同様のもの。この段階では外国に取材しているとはいっても、まだ昔話の再話という範囲を出ていない。しかし、第6編の「奴凧の幽霊」(初出「幼年雑誌」1894年2月1日号)になると、昔話の再話ではなく、創作読物になっている。第12編「狂:言|魔法弟子」はゲーテの「魔法使の弟子」を狂言仕立ての脚本風に書き改めたもので、いま読んでも非常に面白く仕上げられている。
 第13編「鳶ほりよ、りよ」、第14編「大和玉椎」、第15編「駄法螺」は、日清戦争がほぼ日本の勝利に終わろうとする社会的興奮状態の中で書かれた連作である。「鳶ほりよ、りよ」(初出「少年世界」1895年1月15日号)は、鳶(とんび)を「清国兵の弁髪の蔑称=豚尾」(とんび)に掛け、鳶の鳴き声を「捕虜」に掛けたもの。「大和玉椎」(やまとだましい)(「同」2月1日号)は、日本から旧満州に押し渡って生えた椎の大木を「大和魂」(やまとだましい)に掛けたもの。「駄法螺」(「同」2月15日号)は声だけは大きいが背進(背中に進む=後退)ばかりする軍隊の話で、「背進駄法螺」(はいしんだぼら)を「清国皇室の姓=愛新覚羅」(あいしんかくら)に掛けたものである。今日から見れば差別的な表現に満ちている。しかし、随所に見られる言葉の洒落で笑いをとり、ナンセンスな物語運びの面白さで、巧みに読者の興味を引きつけていることも事実である。子どもを喜ばせようとする姿勢がみられ、また、その術を心得ている。
 一連の小波の仕事を通じて、読者は「お伽噺」といえばこうした小波調のものを思い浮かべるほど、強烈に印象づけられることになった。
 この叢書のもう一つの特色は、当代一流の画家を多数起用したことである。博文館としても、表紙を総て石版多色刷りにするなど、制作に要する費用を惜しまなかった。依頼された画家の側でも、子どものものだからと手を抜くことはなかった。木村小舟は印刷刊行の際に使用された原画類を実見したことがあるらしく、「殊に初編桃太郎の揮毫を担当せる富岡永洗が、其の執筆に当りて、いかに苦心経営したるかは、遺されたる彼の草稿に、幾度となく朱を施し、屡々塗抹改削せる痕跡の歴然たるもの有るに依つて、これを證し得られるのである」(『少年文学史』)と証言している。また、小舟によると、一連の小波の叢書に起用されることは画家にとって絶好の宣伝の機会で一流の証明ともなるため、「世界お伽噺」叢書刊行の頃には「各方面より伝手を求めて、其の挿画の揮毫を引き受くべく盛んに割込運動を試みる」(『同前』)という現象が起ったほどだともいう。
 主要な画家たちについて紹介すると、富岡永洗(1864〜1905)は「ちりめん本」の画家・小林永濯の門下。小波とは『暑中休暇』(1892 博文館)などの仕事がある。ほかに「小国民」誌など。武内桂舟(1861〜1942)は初め狩野派の絵を学び、尾崎紅葉など硯友社系の作家と親交が深い。雑誌「少年世界」に親友・小波とのコンビで、写実的で正確な挿絵を多く描いた。梶田半古(1870〜1917)は四条派の絵を学び、「日本お伽噺」叢書や「小国民」誌ほかに描く。紅葉門下の作家・北田薄氷は妻。尾形月耕(1859〜1920)は独学で浮世絵を学び、江戸風俗を画題に名をあげた。子どもむけには「小国民」「幼年雑誌」誌や「日本お伽噺」「世界お伽噺」叢書など。久保田金僊(1875〜1954)は京都画学校卒業。「日本お伽噺」「世界お伽噺」叢書など小波との仕事が多い。父・米僊、兄・米斎も子どもむけの挿絵・口絵を手がけた。小堀鞆音(1864〜1931)は土佐絵を学び、東京美術学校教授などを歴任。「小国民」「少年世界」誌ほかに執筆。歴史画や武者絵を得意とした。小林清親(1847〜1915)は河鍋暁斎に日本画、ワーグマンに洋画を学んで独自の画風を打ちたてた。ポンチ絵(漫画)や名所絵などで名高い。「小国民」誌、「世界お伽噺」叢書などにも活躍。川端玉章(1842〜1913)は円山派の絵を学び、東京美術学校教授などを歴任。私費を投じて川端画学校を設立した。
 また、序文類や歌謡には当代一流の文士を配した。紙数の都合で、これについても主要な人物についてのみ記しておく。
 坪内逍遥(1859〜1935)は小説家、劇作家。東京専門学校(現・早大)の文学科を創設し、演劇改良運動などに携わった。児童劇の理論や脚本など、子どもを対象にした業績も多い。尾崎紅葉(1868〜1903)は小説家、俳人で、小波の最も親しい友人のひとり。代表作『金色夜叉』(1898〜1905)の主人公・間貫一は小波がモデルだとも伝えられている。子どもむけには『二人椋助』(1891 博文館)などを著した。落合直文(1861〜1903)は歌人、国文学者。長編叙事詩「孝女白菊の歌」(「少年園」1888・12〜89・2)などで人気を集めた。森田思軒(1861〜97)は翻訳家、ジャーナリスト。ヴェルヌの翻訳『十五少年』(1896 博文館)では一世を風靡した。幸田露伴(1867〜1947)は小説家、考証家。子どもむけには『番茶会談』(1936 小山書店)などがある。巌本善治(1863〜1942)は教育者、社会思想家。「女学雑誌」や明治女学校の経営など。妻・若松賤子は『小公子』の翻訳で知られる。小中村義象(1861〜1923)は歌人、国文学者。1時、小中村清矩の養子であったが、のち池辺姓に復姓。落合直文と共著で子どもむけの通史「家庭教育歴史読本」叢書全24編(1891〜92 博文館)を著した。徳富蘇峰(1863〜1957)はジャーナリスト、歴史家。「国民之友」誌や「国民新聞」などを経営した。江見水蔭(1869〜1934)は小説家、編集者。私塾・称好塾では小波と同窓であった。「少年世界」に冒険小説を発表するなど、子どもむけの著作が多い。「少年世界」や「探検世界」の主筆などを歴任した。中川霞城(1850〜1917)は、作家、俳人、編集者。四明・紫明とも号した。「少年文武」誌を経営し、知識読物『理科春秋』(1890 張弛館)のほか、わが国最初期のグリムの翻訳家としても知られる。
 なお、小波は子どもむけの歌謡(お伽歌)や児童劇の脚本(お伽劇)など多くの分野で業績を遺しているが、そうした多方面のジャンルに発展していく萌芽が附録その他に見られる。そういう意味でも、小波の業績中、「日本昔噺」叢書はひときわ光彩を放っている。



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