滝沢素水の児童文学

「国際児童文学館紀要」第14号(1999.3.31 大阪国際児童文学館)に発表


 =目次=

(1)はじめに
(2)雑誌編集者としての業績
  a.〈全国小学校成績品展覧会〉の開催
  b.「誌友会」の組織化
  c.「尚交会」の組織化
  d.読者年齢の絞り込みほか
(3)作家としての業績
  a.少女小説
  b.少年小説
  c.軍事・SF・冒険・探偵小説の〈面白〉さ
  d.軍事・SF・冒険・探偵小説の〈健全〉さ
(4)おわりに
※ 


(1)はじめに

 滝沢素水が「日本少年」誌の主筆(今日の編集長に相当)を務めた期間は、1910年3月号から1912年12月号までであり、わずか3年足らずでしかない。その後、素水は「実業講習録」の主筆を経て、実業之日本社を退社。児童文学の世界から離れ、実業界へ転進していった。素水の主筆時代の当初、編輯長(今日の編集次長に相当)を務めたのは小倉紅楓であった。この年の終わり、紅楓が一年志願兵として入営したため、有本芳水が1912年1月号から後任の編輯長を務めることになる。やがて芳水は素水の後任として主筆に昇格。編輯長に新人の松山思水を据え、同誌をして発行部数20万を誇る雑誌に育て上げた。当時としては、空前の発行部数である。しかし、このように同誌が児童雑誌業界を制覇していく基礎を築いたのは、ほかならぬ素水であった。
 この時期の児童雑誌では、まだ編集者と執筆者の分業が行われていない。雑誌の記者は、企画・編集を任されていると同時に、主要な寄稿家でもあった。いわば、雑誌の顔である。本来、編集者=執筆者の活動は一体のものであった。両者を完全に分離して論じることは難しいが、本稿ではあえて編集者としての業績と作家としての業績に大別し、考証していく方法論を採りたい
 ところで、素水の経歴については遺された資料が少ない。そういう中で、平凡社版「少年冒険小説全集」の第11巻『難船崎の怪外二篇』(注1)に付属した「月報」中の記事からは、得るところが多い。とりわけ、「滝沢素水略歴」と題された一文は、短文ながら素水の経歴を探ることのできる殆ど唯一の資料である。児童読物の世界から身を引いたとはいえ、素水が健在な頃のものであり、価値が高い。以下にその全文を引用しておく。

明治十七年秋田市に生る。本名永二
明治四十年、早稲田大学英文科を卒業し、直ちに実業之日本社に入り、婦人世界編  輯長、日本少年主幹、実業講習録主任、出版部長等、同社の枢機に参す。
大正七年同社退社、実業界に入り最上採炭株式会社社長、中央機械製作(ママ)所大正證券  株式会社、大和自動車株式会社その他の取締役となる。
 大正十一年雑誌『新女性』発行、大正十三年銀行通信社創立、目下女子講義録その他出版業に従事す、著書数種あり。
 『日本児童文学大事典』(注2)を見ても、生誕の月日は不明、没年も不明になっている。実業之日本社を退社後の素水の経歴についても、上記の経歴と同じ内容の記述になっている。おそらく、大事典のこの項目は、先の記事あたりを根拠にしているのだろう。ただ、大事典には、実業之日本社社長の増田義一と素水が「同窓同郷」とある。ところが、増田は新潟県生まれ、東京専門学校(のち早大)の卒業は1893(明治26)年である。だから、素水と「同窓同郷」であるわけがない。同じ学校の卒業生だから「同窓」だと強いて言えなくもないが、「同郷」ではありえない。やはり誤認であろう。
 なお、「日本少年」の編集責任者の肩書きは、実業之日本社の社史『実業之日本社七十年史』(注3)や関係者の回想類では、〈主筆〉になっている。一方、先に引用した資料や「日本少年」中の幾つかの記事などでは、〈主幹〉とある。なぜ、肩書きにこうした揺れがあるのかは不明。本稿中では、特に必要のない限り〈主筆〉に統一した。ちなみに、「実業講習録」の編集責任者の肩書きは、一貫して〈主任〉である。

(2)雑誌編集者としての業績

 滝沢素水が主筆を務めていた頃の「日本少年」は、急速に発行部数を増大させ、めざましい発展をとげている。
 1911年の1月号は、素水が主筆になってから最初に迎えた正月号にあたる。初版12万部を発行したが、たちまち売り切れたという。素水は「誌友会の設立に就いて」(注4)と題する記事の中で、次のように記している。

『日本少年』の凄まじい勢で発展するのには自分ながら驚いた。七月、八月、さては十一月、十二月は、雑誌の厄月で、どんな雑誌でも幾らか下火になるといふのに『日本少年』ばかりは、そんな月でさへも発刊当日に売切再版といふ盛况であつた。
嘘でも何でもない。本屋へ行けば本屋の小僧が『日本少年は此頃本当によく出ます』と感嘆する。諸君『日本少年』は正月、十二万刷っ(ママ)たんですよ。少年雑誌で十二万刷る雑誌が何処にあらうか。少年雑誌の覇王だの、第一流だのといはなくても、この事実は充分に『日本少年』の勢力を語っ(ママ)てゐる。
 もともと、雑誌の正月号は、年間を通して最も発行部数の多いものである。それを割り引いても、12万部は脅威的な売れ行きであった。同年2月号の「編輯局便り」には、「最も光彩ある雑誌を諸君に提供しやうとして、夜も寝ずに連日働いた甲斐があつて、一月号の景気つたら実に意想外であつた。発行する(ママ)が否や三日ならずして、売切れになつてしまつた。再版をやツたがそれも直ぐ売切れ、松の内に三版を重ねた。これも瞬時に売切れてしまつて、四版をやらうと思つたが、もう印刷部は二月号に懸つてゐて、とても手が回らないといふ景気であつた」と、売れ行きの好調さが伝えられている。
 翌年の1912年1月号になると、発行部数はさらに増大。15万部にまで達している。素水は「インキ壺」(注5)で、次のように記す。
▼皆さんは末だ御承知でございませう。去年のお正月に私は、日本少年の愛読者は十二万あると申しました。
▼然るに一年後の今年のお正月には、驚くではありませんか。十五万の愛読者を有つやうになりました。一年に三万の愛読者の増加は決して少ない数でありません。
▼私は正月の誌上で日本少年の愛読者諸君は、自分の骨内(ママ)(肉の誤植―引用者)を愛するやうに日本少年を愛してくれると申しましたが、一年に三万の愛読者の増加は、明かに私の言を実の上に現はしたものと存じます。私は更めてお禮を申し上げると共に、今後も幾層の同情をよせられることを祈ります。
 15万部という発行部数は、正月号だけにとどまらない。間もなく、「日本少年」は、通常の月でもこれだけの部数を発行するようになった。事あるごとに15万読者を号するのである。有本芳水は1912年12月号の「日本少年」誌上で、「諸君に」と題し「素水君は非常な奮闘家で、また非常な勉強家でした。日本少年が隆隆旭ののぼる如き勢で、短日月の間に嶄然として少年雑誌界に頭角を表はし、遂に今日では十五万といふ部数を発行して、新しいレコードをつくるやうになつたのも、ひとへに素水君の健闘に他ならぬのです」と、素水の業績を誉め称えている。ちなみに、「日本少年」のこの号は素水が主筆を務めた最後の号にあたる
 翌年の1月号は、芳水が素水から主筆を引き継いだ最初の号である。発行部数は25万部にのぼったという。芳水は「今でも十五万部といふ大部数を印刷して居る本誌は、一月号は特に二十五万部といふ、雑誌界に例のない大部数を印刷しますが、それでも一月号は直ぐに売り切れてしまひますからなる可く早くお求め下さい」(注6)と、誇らしげにその事実を記している。
 このように、同誌が脅威的な発行部数の増大を成し遂げた要因は何か。次に、その要因について考察してみたい。

a.〈全国小学校成績品展覧会〉の開催

 1912年は実業之日本社の創業15周年にあたり、記念事業として〈全国小学校成績品展覧会〉を開催した。これまで五周年ごとに開いていた園遊会を取り止め、展覧会に換えたもので、今日でいう企業メセナである。実業之日本社の社史『実業之日本社七十年史』によると、「会場は上野公園竹の台(現在の東京都美術館の場所)にあった元商品陳列館を当て、全国各地から約一千三百の小学校を選んでその児童生徒の図画、工作、作文、習字、裁縫等約十二万点を陳列した。この種の催しでは当時これほど大規模なものは我国では始めてであり、わが社としても無論はじめて経験することであった」という。
 ただ、この種の展覧会としては、これが最初のものとは必ずしも言えない。例えば、「小国民」第六号(注7)によると、1889年には、上野公園内で〈教育展覧会〉が開催されている。東京府教育会の主催で、府下公私立学校生徒の作文・図画・編物などを出品したという。また、翌1890年に、同じ上野公園内で〈内国勧業博覧会〉が開催されている。「小国民」第一二号(注8)によれば、この展覧会に全国から子どもの習字図画・裁縫品・編物等が出品された。しかし、子どもの《成績品》を主たる展示物とする展覧会が、これほどの規模で開催されたことはない。しかも民間の企業メセナであったという点で、〈全国小学校成績品展覧会〉は画期的な催しであった。
 さて、この〈全国小学校成績品展覧会〉には、総裁に大隈重信を戴いた。協議員には吉岡郷甫ほか文部省の学務局長・視学官クラス多数、賛助員に芳賀矢一・新渡戸稲造・尾崎行雄を始め東京・広島の両高等師範学校校長、東京・奈良の両女子高等師範学校校長ほかを擁している。「日本少年」(注9)は、「費用一万円を提供して」云々、「特設した三十間堀の事務所には、毎日十数名の事務員と記者」云々と、準備の様子を伝える。会期は、最初、5月25日から6月13日までの予定であったものが、評判が高いため、6月18日までに延長。1日あたりの一般入場者3000人、団体入場者3000人、会期を通じて16万人の入場者があったという。入場料は一人につき5銭をとったが、小学校児童の団体は無料とした。
 会期中には皇太子をはじめ、三皇孫などの皇族、乃木大将ほかの高位高官の来場があった。実業之日本社社長である増田義一の政治力が窺える出来事であった。なお、増田はこの年の5月、衆議院議員に当選し、政界に進出を果たしている。
 展覧会の実務は石塚月亭が担当したが、素水はこの展覧会の発頭人として中心的な役割を果たしたようだ。「日本少年」(注10)の記事によると、展覧会の準備中、血の気の多い素水は増田の選挙に熱中し、月亭から「選挙は大丈夫だから、展覧会の方を遣つてくれ給へ。最う一月しかないよ」と催促された。三十間堀の事務所に行ってみると、東京市内の学校からの出品が少ないのに驚き、「綱曳きで駆け廻つた」というエピソードが伝えられている。
 ところで、博文館の編集者であった木村小舟は「何事も宣伝の世の中ではあり、殊に宣伝の巧妙なる実業之日本社の企画ではあり、為めに連日入場者雲集し、殊に高貴の御方さへ、御来観あらせらるゝといふ有様にて、私設の展覧会としては、稀に見るの名誉を博し、大成功裡に其の幕を閉ざした」「さればこそ、この事あつて以来、両誌の勢力は、真に旭日昇天の概を来し、為めに多年牢固たる地盤を擁したる「少年世界」すら、聊か後方に瞠着たるの感なきを得なかつた」(注11)と述べる。実業之日本社は、明治期を代表する児童雑誌出版社であった博文館を凌駕し、業界の頂点に立った。展覧会の開催は、同社の隆盛ぶりを内外に見せつけたと言えよう。
 《成績品》は、〈書方〉〈綴方〉〈図画〉〈裁縫〉〈手工〉の五分野に分けられた。「少女の友」(注12)によると、出品規定は概ね次のとおりであった。すなわち、〈書方〉は尋常四学年以上の各学年。〈綴方〉は尋常三学年以上の各学年で、尋常六学年に限り「親の恩」という題を課した。〈図画〉は尋常一〜三学年(三学年のみの誤植か?)に記憶画、四学年に臨画、五学年に写生画、六学年に考案画、高等一学年に写生画、二学年に考案画を課した。〈裁縫〉は尋常四学年は随意、五学年は一つ身襦袢、六学年は一つ身単衣及び補綴法、高等一学年は一つ身袷衣、二学年は一つ身綿入及び補綴法であった。〈手工〉は尋常四学年以上の各学年で、材料及び大小は随意であったという。
 優秀作には賞牌と賞状が出された。審査員は青山師範、東京高等師範、東京女子高等師範の教諭・訓導から各分野ごとに二名(綴方は六名)を選任。選考の結果、金牌が各分野につき三名。銀牌が各分野につき百名程度。銅牌が各分野につき二百名程度選ばれ、ほかに各学年を通じて成績良好と認められた学校に褒状が贈られている。褒賞式は同年6月30日、神田一ツ橋にある帝国教育会で行われた。
 《成績品》のほかにも、教育参考品として諸外国の教育品、諸種の玩具、飛行機模型などを出品した。後年、盛んに開催される教育博覧会の先駆けと言えよう。また、「日本少年」「少女の友」の二誌が如何にして制作されるかをテーマに、素水の冒険小説や有本芳水の少年詩の原稿、活字の文選・組方・紙型、ステローから印刷製本までの過程を展示。自社のPRに怠りのないことも、無論であった。
 《成績品》を集めるため、実業之日本社では全国2000余校の小学校を対象に出品を勧誘した。勧誘の対象となる学校は、各府県の視学が各郡から三校を選ぶというやりかたであったらしい。前年、日本の植民地になったばかりの朝鮮にも出品を促した。韓国皇族の来場もあり、〈日韓併合〉の事実をあらためて知らしむることに配慮したことがわかる。文部省では二回にわたって視学官会議を開いた。また、折から上京中の視学九十二名を対象にして、大隈伯爵邸を会場に会議を行っている。民間が主催する展覧会でありながら、官の力をも動員し、国家目的に添った催しであった。
 なお、「少女の友」の広告に「児童成績品の展覧会が、少年少女の学業進歩に利益する処多いといふ事は、今更申すまでもありません。そして、日本全国小学校児童の成績品を一堂に陳列して見たいといふ考は、教育家と云はず父兄と云はず、万人の斉しく希望するところでありました。けれどもこれには、莫大な費用と労力を要するので、未だ一回も挙行せられたことがありません。我が実業之日本社では、少年少女教育界の為にこれを惜み、今回、此費用と労力とを提供して、文部省協賛の下に、これを計画する事になりました」(注13)とあって、展覧会の趣旨と性格を明らかにしている。
 しかし、当時、こうした企業メセナを教育界が受け入れることは、まだ容易ではなかったようだ。東京市内の学校の出品が地方の学校に比べて少ないので、先述のように素水が先頭に立ち、実業之日本社の編集記者たちが手分けをして各学校を訪問した。すると、出品しない理由は、〈期日に間に合はない為〉はともかく、〈展覧会を営利事業と認むる為〉にあったという。説得の結果、誤解を解く学校もあったが、どうしても納得しない学校も少なくなかったらしい。一方、地方の学校からは予想の三倍も出品があった。都市部より地方の方が、視学という官の威令が行き渡っていたためかもしれない。

b.「誌友会」の組織化

 〈日本少年誌友会〉の結成は、1911年1月号の「日本少年」誌上に発表された。
 大隈重信を総裁、新渡戸稲造を副総裁、各界の名士を賛助員に戴いて発会。「顧れば、吾人が大方の庇護と同情の下に、我が『日本少年』を発行してより、年を閲みすること茲に五回。単に歳時の長短を以て之を律すれば、未だ多く言ふに足らずと雖も、幸にして吾人の主張と努力は夙に世の容認するところとなり、今や全国の四隅を通じて、熱烈なる愛読者の数、既に十二万に達せり」(設立の趣旨)と「日本少年」誌の隆盛を背景にしている。会の目的は「毎年一回乃至数回東京及び其他の都市に順次誌友大会を開き、随時随所に誌友会を催すこと」「子弟の教育に就いて常に当局者と連絡を保ち、諸種の研究を為すこと」ほかと、会則に定められている。また、「幹事は幹事長(主筆と編輯長のこと―引用者)の適当と認めたる少年に限り、一地方に一名乃至数名を置く」「誌友会は幹事と幹事長と協定の上、随時随所に開く。誌友会には事情に許す限り幹事長出席すべし」として、地方の読者にも配慮。幹事には有力な投書家が任命される。編集者と読者との結びつきをより一層強める工夫であった。
 とはいえ、「『日本少年』の愛読者を総て会員とす。但し直接本社より購読する者と、書店より購読する者とを問はず」(規則)とあるように、会といっても強固な会員制のもとに組織されていたわけではない。
 第1回の誌友大会は、1911年3月5日、東京麹町の有楽座で開催された。
 内容は、新渡戸稲造・大隈重信ほかの談話、活動写真(吉沢商会)、おとぎばなし(岸辺福雄)、お伽芝居(有楽座演劇部員)、剣舞(日比野雷風)、独楽の曲芸(松井源水)などであった。
 大会の宣伝は、大規模かつ周到に準備された。東京市内の「主立っ(ママ)た学校の前の文房具店に頼んで店先に広告のビラを下げ、四日には数十人の人を雇って、『日本少年誌友大会』と赤地に白く染め抜いた幅広の襷をかけさせ、十万のビラを全市に撒いた。一日に十万のビラを撒いたことは未だ甞っ(ママ)てないとのことである」(注14)と伝えられている。当日になると、朝から日比谷・上野・九段で盛んに花火を打ち上げた。こうして、大会は非常な人気を呼び、入場整理にあたった編集記者が入場しきれない参加者多数を断るのに忍びなかったという。
 当日の参加者には景品が配られた。森永太一郎からは森永の菓子2000個とムスクピール2000個、中山太陽堂からクラブ歯磨2000袋、三間印刷所・日能製版所からは絵ハガキ2500枚である。他企業とのタイアップによる読者サービスは、実業之日本社の得意とするところであった。
 第2回の誌友大会は、「少女の友」誌友会と協力し、「関西合同大会」として開催された。1911年10月15日(日曜日)・17日(嘗祭)の2日間の日程で、京都(15日午後)、神戸(17日午前)、大阪(同日午後)の三ケ所で開催された。内容は「談話」(谷本富―京都帝大教授)「お伽噺」(岸辺福雄―幼年の友主筆)「お伽喜劇」「お伽芝居」(天野石川一座―有楽座演劇部)「合作冒険美談不覚の涙」(素水ほか各記者が出演)その他であった。
 東京の誌友大会と同様に宣伝につとめ、大盛況であった。大阪の読者の感想に、「素水先生、誌友会は大規模で発表されましたね。記者様が五人と岸辺先生と有楽座の演劇部が来るといふので、大阪は煮え返るやうです。今まで恁んな大きな会は開かれたことがないので(ママ)す昨日本屋に行きましたら、大きな看板が出てゐました。私は其看板を見た時思はず胸が躍りました。入場券は最うなくなつたかと心配しましたが幸にまだ二三枚残つてゐました。広告郵便も見ました。学校の前のビラも見まし(ママ)たさすが素水先生の計画されるだけあつて何から何まで抜かりのないのは実に敬服しました」(注15)とある。「十八日は学校のボートレースで休みになりますので私は最うヂツとしてをられません」(注16)として、遠方から参加を希望する少年もあった。
 また、あらかじめ、編集記者の宿泊の予定(日程、旅館の名と場所)を誌上(注17)に公表して、面会を求める読者にも眼配りを忘れない。
 ほかに、各地方で小規模な誌友会がこまめに開催されている。
 一例をあげると、1912年6月29日には、長野県で松本愛読者会を開催。少年読者(小岩井真水)の書いた「信州松本愛読者会の記」(注18)によると、松本の神道公会所に読者300人が参集した。当日は、有本芳水が出張して、挨拶と詩の朗読・講話を行っている。ほかに、講談(招屋扇橋)・唱歌(金井千里少年)・演説(信濃民報記者=野村菱堂)・詩吟(信濃民報記者=丸山梧楼)などが演じられた。
 こうした小規模な誌友会にも、会則にあるとおり、可能な限り主筆または編輯長が出張している。地方在住の読者へのサービスにも、怠りがなかったのである。

c.「尚交会」の組織化

 「尚交会」の発足は、「日本少年」の1911年11月号に、「素水主幹の活動 新作小説の配本」「尚交会々員を広く天下に募る」と題して、華々しく報じられた。記事の内容は次のとおりであった。

尚交会は素水主幹と最も親密な関係ある会です。これまで素水主幹は一部の読者の希望に従つて、自作の小説を廻覧に供してをりましたが、廻覧では各自の所に保存して置くことが出来ないといふので、一冊の本として発行して貰ひたいと、総ての人から申して来ます。また一般の読者からも、素水主幹の小説を発行して下さいといふ註文が沢山まゐりますので、今度会員組織にして、年に四回、新作の小説を会員に頒つことにしました。
一 冒険小説怪洞の奇蹟=明年正月一日発行=怪洞の秘密は何ぞ見よ勇少年の大活躍
一 少年少女小説籬の花=明年四月上旬発行=可憐の少年薄命の少女一読紅涙珊珊
一 怪奇小説難船崎の怪=明年七月下旬発行=暗黒の海上に魔風吹き荒び怪雨降り頻る
一 少年少女小説生か死か=明年十月下旬発行=天来の奇想妙構文は火の如く花の如し
本は以上の四冊で第一冊『怪洞の奇蹟』は既に脱稿しました。何れも素水主幹の新作で、結構の面白く痛快なことは今更らいふ必要ありますまい。一冊各々百五十頁以上、装幀は川端龍子画伯の意匠になり、極めて美しい本です。定価は一冊三十五銭郵税四銭ですが、会員には左の通り割引をして配本いたします。
特別会員=四冊分として会費一円を前金でお払ひ込みになつた方
普通会員=二冊分として会費五十五銭を前金でお払ひ込みになつた方
臨時会員=一冊分として会費三十二銭を前金でお払ひ込みになつた方
この会費をお納めになれば、本の出来次第此方からお送りします。郵税は此方で負担します。お申し込みになる方は、振替貯金か為替で会費をお送り下さい。振替貯金になさる時は、郵便局へ行つて口座番号三二六番と尚交会々費であることを局員にいふのを忘れてなりません。
尚交会々員は素水主幹と最も親密なる関係あるもので、会員は尚交会々員名簿に一一記載して置くのでありますから、満員の時は遺憾ながら会員たることをお断り申します。申込期限は十二月十日までですが、一日も早くお申し込み下さい。
 尚交会叢書は、このようにして刊行された。会員頒布という方法であらかじめ一定の販売数を確保。さらに「日本少年」誌上に新規入会者の氏名を麗々しく順次掲載し、読者の関心を煽っている。「満員の時は」云々という件もある。会員が多く集まったとしても、増刷をすれば済むはず。それをわざわざ「遺憾ながら会員たることをお断り申します」と特記した。読者の心理の機微を突いた断り書きである。
 ところで、もともと、主だった読者の間では素水の作品を郵便で回覧するという、一種の回覧雑誌の如きシステムがあった。この叢書は、そうしたシステムを予約出版に発展させたもの。会費を前納すると、素水の新刊書が出る度に配本される仕組を作り上げたのである。
 尚交会の組織化については、素水の著名のある「読者からの手紙」(注19)にも、詳しく記載されている。先に述べた〈一種の回覧雑誌の如きシステム〉についても、「尚交会に就いて書かれた方は、何れも僕の小説を今まで廻覧してをつた人で、尚交会を設けることは過日僕から左ういつてやつたのである」として、少年読者(静岡の増本孝)の手紙が紹介されている。
先生、何とまア美しい絵ハガキでありませんか。私どもは尚交会々員たるが為に、先生からあんな美しい絵ハガキを頂くかと思ふと嬉しくつてなりません。お手紙も拝見いたしました。勿論大大賛成です。私は友だちも誘つて皆会員にするつもりです。先達の『花紅葉』は非常に面白く読みました。覚治少年が母と別れて旅に出る所や、途中で怪しい人間に遭つて、それを追ひまくる所などは、息も吐くことが出来ませんでした。私はあれを二日ばかりの間に皆読んでしまひましたよ。しかし今までは、あんな面白いものを、読んでしまへば直ぐ次の人に廻はしてやらなければならなかつたのが今度は手許に一冊頂けるんですもの。こんな愉快なことはありません。会費は昨日お送りしました。
 このような巧みな販売戦略もあって、尚好会叢書は営業的にかなりの成功をおさめたようだ。
 第1回配本『冒険小説怪洞の奇蹟』(注20)が出ると、「発売当日に売切れて忽ち三版を重ね、既にお求めになつた読者諸君からは、(中略)賞讃の手紙が毎日のやうに参ります」(注21)という状況であった。第2回配本『少年少女小説籬の花』(注22)の自序によれば、「少年少女諸君の要求に適つたのでありませう。先に公にした「怪洞の奇蹟」は私自身にも予期しなかつたほどの非常なる歓迎を受けて、僅か数箇月のうちに五版を重ぬるに至りました。こんなことは少年少女の読書界に類のないことなのであります」と、この叢書の試みが〈少年少女読書界の記録を破つた〉ことを強調している。『籬の花』自体も売れ行きが好調で、「素水主幹の籬の花は、怪洞の奇蹟にも増した大好評で、今度は大部数を発行したにも係らず、発行後十日もたたぬうちに早や四版を重ねました。愛読者からは毎日の様に面白かつたといふ手紙が参ります」(注23)というほどであった。第3回配本『怪奇小説難船崎の怪』(注24)になると、さらに売れ行きが良く、「素水君の『難船崎の怪』は『怪洞の奇蹟』に劣らぬ大好評、素水君は未だ出ぬ先から『今度のは歓迎される』と余ほど自信あるもののやうに言つてゐたが、発行後忽ち五版を重ねたので同君の鼻息益す荒く『そら見給へ。実際今度のは面白いんだからなア』と、昨今は傍へもよられないやうな気焔である」(注25)という。こうして、尚好会叢書は回を重ねるごとに売れ行きを伸ばしていったのである。
 むろん、叢書の成功と「日本少年」の発展は、互いに相乗効果をもたらすことになった。
 叢書の内容に関する読者の反響についても、多くの資料がある。これについては、素水の作家としての業績に即して、後述することとしたい。
 なお、第4回配本『少年少女小説生か死か』については未見のため、遺憾ながら不詳である。

d.読者年齢の絞り込みほか

 素水の編集ぶりの特色のひとつは、対象とする読者の年齢を絞り込んだことである。
 素水は「『難船崎の怪』に就いて」(注26)と題する一文の中で次のように回想している。

 謂ゆる『少年もの』の読者を、幾つ位と見るのが本当で(ママ)しようか。これが私が『日本少年』を主宰してをつた当時、最も悩んだ問題の一つであります。
 女の子は総じて、少いことを誇りとし、若い上に若からんことを努める傾向があります。少なくとも、若く見られるのを苦痛としないのが、その持つて生れた性分と見ても差支なく、女学校に入つてからでも、依然として少女雑誌を愛読し、間がよければ卒業するまで少女雑誌の愛読者で押し通します。従つてその年齢は、十二三から十七八歳と見て、大過はないでせう。
 ところが男の子は、子供らしく見られるのが大嫌ひで、中学へでも入らうものなら、直ちに少年雑誌を棄てゝ、分りもしないのに、青年ものを読まうといふのが、一般の気風です。従つて少年雑誌の読者は、年齢が最も短かく、十二三から十四五と見なければなりますまい。
 総合雑誌は、とかく対象とする読者年齢が拡散しがちなものである。しかし、「日本少年」の場合は「十二三から十四五」という年齢の読者に焦点をあて、編集されていた。寄稿家にも、そうした年代に絞り込んだ原稿を期待していたという。素水自身も、同誌がライバル誌を押さえて成功したのは、ターゲットを絞り込んだことに理由の一つがあると考えていたようだ。素水は上記の引用部分に続けて、次のように記している。
 私はかういふ考から『日本少年』を編輯したのですが、多くの作者の中には、兎もすれば程度の高いものを書いてよこすのには閉口しました。殊に冒険小説になると、その傾きが一層甚しく、立派な青年ものになつてしまふのです。『難船崎の怪』は、その点に於て細心の注意を払つたもので、ややもすれば筋の運びの面白くなるといふ場合でも、それが為に大人の領分に入る時は、強ゐて引き戻して『十四五』に止めたのです。
 青年ものは、高級の読者からは最大の讃辞を受けますし、また実際、讃辞を寄せる位の人は、高級の読者ですがそれは、少数であつて純な少年の立場に立つたものは、無言の歓迎を受けてそれに売行きの上に表れるのです。『日本少年』が、当時少年雑誌界に覇を唱へたのも、私の冒険小説が受けたのも、さうした意味に外ならないと思ひます。
 従来の「お伽噺」が対象としていたような読者年齢とも違う、「冒険世界」や「武侠世界」などといった雑誌が対象としていた読者年齢とも違う。そういう年代の読者に明確に焦点を当てたところが、確かに素水が成功をおさめた理由の一つであったのかもしれない。
 ところで、素水が「日本少年」誌の主筆に就任して、まず最初に行ったことは、「記者の頁」欄の新設であった。この欄の第1回に、素水は「孤立せる一頁」(注27)と題して次のように書いている。
日本少年百有余の頁は、記者のものでもなければ読者のものでもない。最初の一頁から最後の一頁まで、悉く記者と読者との共有である。だから、記者は、一字一句と雖も読者といふ観念なくして筆を下すことが出来ないと共に、読者は一字一句と雖も見遁してはならぬ義務を有してゐる。
けれども其百有余の頁のうちに、たっ(ママ)た一頁読者の共有でない頁がある。それは乃ちこの『記者の頁』で、この一頁だけは僕一人の占有であるから、如何なることを書かうとも記者の随意であると共に、読者もこの一頁に対しては、読んでも読まいでもといふ自由を持っ(ママ)てゐる。
 このように、「記者の頁」欄の新設は、編集者たちが身辺雑記的な記事を書くことによって、読者が編集者に親近感や一体感を得られるように工夫したものであった。読者はスター編集者を身近な存在に感じることによって、自然に雑誌へ肩入れをしていくようになる。いかにも、編集者と執筆者の分離が行われていないこの時代らしい試みである。
 「記者の頁」欄はのちに「ダンワクラブ」または「談話クラブ」という名称に変更され、長く続くことになる。次に掲げるのは1912年8月号の「談話クラブ」の一部である。
▼草水君 病氣で鎌倉に静養してゐる。この頃髭を落し、坊主頭になつた。
▼月亭君 郷里から未だに帰つて来ない。噂に聞けば三越に注文して礼式用の羽織や袴を新調したさうな。
▼水裏君 何が何でも今年は避暑に行つて、大いに遊んで来ると素晴らしい勢でいつてゐる。金でも儲けたのか知ら。
▼芳水君 七月にも復郷里に帰つた。今度は行く時は一人だが来る時は二人ださうだ。一人は誰だらう―併し之は懸賞ではありませんよ。
▼峡水君 益す肥つて行く。去年あたりから痩せなければならん筈だがと、頸をひねつてゐる人があつた。
▼鼓川君 髪を伸さうとして苦心してゐる。髭は諦めをつけたらしい。まア諦めをつけたのは怜悧な仕方だね。あれぢやモノにならんから。
▼小葉君 新しく家を構へたが、女中がないと溢してゐる。
▼湘南君 下宿屋住ひの呑気な身体、ちよいちよい引つ越して歩くので有名だ。
▼白水君 女学校の先生をしてゐた時は兵隊さんといふ綽名をつけられたさうだ。
 編集者たちのたわいもない日常を描くだけで、殆どメッセージらしきものがない。読者に何かをアピールしたいというものではなく、読者に記者の日常を知ってもらい、身近かな存在に感じてもらうということに狙いのあったことがわかるだろう。
 こうして、素水の狙いが、ターゲットを絞り込み、読者に親近感を抱かせること。いったん獲得した読者を掴んで離さないことにあったことがわかる。
 その他、素水の主筆時代には、各種の読者サービスが次々に企画された。
 例えば、「日本少年」1911年7月号によると、文芸欄の入選者にはメタルを贈呈し、同一人でメタルを五個得た人にはメタルと引換に銀時計を進呈することとした。1912年4月号は、箕面電車(現・阪急電鉄)とのタイアップで、関西方面の読者へのサービスを行っている。これは「少女の友」との共同企画で、大阪から郊外の箕面までの往復割引乗車券や箕面動物園の無料観覧券、観覧車の無料乗車券を雑誌中に綴じ込むというものであった。同じ4月号には、3月27日に素水と芳水が久能山に登山することを予告。静岡方面の読者に登山への参加を呼びかけている。芳水・思水の時代には、こうした私的旅行とも社用出張ともつかない企画が多くなるが、そのはしりであった。
また、雑誌の体裁の向上についても、めざましいものがある。
まず、1912年1月号からは紙質の改善、増頁を行った。「本号は御覧の通り新らしき姿と新らしき内容を以て現はれました。改良を施した点も少なくございません。今までの色紙を廃して全部白い紙にしたのも其の一つでございます。新年号は特に三十二頁を増しましたが、不断の号も今まで九十六頁であつたのを十六頁増して百十二頁とし、全部白い光沢紙を用ゐます」という。
次に、同年7月号からは、本文頁の挿絵を三色刷にした。「前号の本欄で予告して置いた本誌の大改良! それは何であらう。諸君はすぐに「ハハアこれだナ」と気がつくであらう、即ち四十九頁よりの色刷である」「しかもその色刷は三色である。これは実に雑誌界の新レコードと云つてもよく、ここに本誌が卒先して着手したのである。本誌の印刷所たる東洋印刷会社は、ほとんど全力を挙げてそれに努力してゐる」という記事がある。
 かくして、1911年6月号の読者(山梨県・水沢秋紅)の投書に、「去年の三月、素水先生が主管になつてから日本少年の面目は俄然として変つた。そして月毎に進歩して行く。健忘性なる読者は素水先生の主管(ママ)たることを忘れたやうに、この頃の発展を偶然のやうに思つてるが、これ皆素水先生の尽力の結果である。日本少年の盛大を思ふものは素水先生の功労を忘れてはならぬ」と記されるまでになった。当時の読者には、素水の主筆就任以来、「日本少年」誌の発展ぶりが目にもあざやかであったことを示す資料である。

(3)作家としての業績

 滝沢素水の作風は、概ね次の推移を経て変遷している。
 まず、少女小説の書き手として登場した。「少女の友」誌上に、少女が日常の生活の中で感じる哀しみを題材にした作品など、多数を掲載した。
 一方、「日本少年」には、少年の希望や友情を題材に少年小説を寄稿した。同誌の主筆に就任してからは、こうした分野の少年小説を多作。とりわけ、親元をはなれて都会に暮らす苦学生を主人公にした作品群に人気があった。また、軍事・SF・冒険・探偵小説にも筆を染めた。やがて、こうした分野のものが主流になっていく。しかし、素水が「実業講習録」に移ってからは、いきおい作品の掲載も減少し、やがて姿を消すことになった。
 そいう中で、「冒険お伽怪飛行船」(注28)は、冒険小説とお伽噺の要素を併せ持った変わり種である。怪飛行船に乗った賊が毎日のように東京に現れては爆裂弾を落としていく。力雄少年は無断で借りた飛行船に乗って、怪飛行船を追跡するが、操縦に慣れないため、空中に投げ出されてしまう。すると、大鷲がやってきて転落する力雄を高雄山の奥にさらっていく。大鷲から力雄を助けたのは、偶然、遠足に来ていた春二と秀助の二少年であった。彼らは協力して、外国人に操られた賊の一味を退治する。タイトルに〈お伽〉と付けられているように、かなり荒唐無稽なストーリーである。
 素水が「日本少年」に最初に掲載した作品は「久太郎君の頓智」(注29)というお伽噺風の短編であった。これは、山奥で道に迷った少年たちがいったんは狸に化かされるが、逆に狸を騙して同類と偽り、帰り道を聞き出すというものである。こうした荒唐無稽なお伽噺の系列の延長上に、冒険小説への傾斜という要因が加わった。そこに、「怪飛行船」が成立したのであろう。
 これらは、やや低学年を対象にしたもので、読者年齢を絞り込むということからは、逸脱したものと言えるかもしれない。実業之日本社では「日本少年」よりさらに低年齢むけの「小学男生」(注30)を出すが、これはもう少し後の時期のことになる。
 ほかに「松原の茶屋」(注31)では、旅先で持ち金の無くなった少年が茶店で無銭飲食をするが、同席した客に代金を払ってもらう。素水はこれを通り一遍の人情ものにしなかった。まずい饅頭を大喰らいする者たちのそれぞれの思惑。それをユーモラスに描く短編に仕上げたのである。あるいは「幾治の一日」(注32)では、いたずら小僧の一日をユーモアあふれる筆致で描く。素水の作品には、こうした滑稽ものの系譜に属するものもある。
 このように、素水の作品群は決して一様ではない。だが、何と言っても素水の真価が発揮されるのは、少女小説、少年小説、軍事・SF・冒険・探偵小説の分野であろう。そこで、それぞれの分野ごとに、その特徴と傾向を考察していくことにしたい。

a.少女小説

 素水が最初に書いた少女小説は「学校友だち」で、これは「少女の友」第一巻第二号(注33)への掲載である。田舎の学校から東京の学校に転校してきた少女が、転校先でいじめを受ける。幸い親切な同級生に励まされ学期を終えることができた。次の学期になると、今度はいじめの中心になっていた少女が転校して行き、その少女から手紙が来る。内容は、自分が転校してみてあなたの気持ちが分かった。私はあなたに成績を追い越されるのを恐れてあのような行動をとったが、今は自分の行いを悔いているというものであった。手紙を読んだ少女は「お可哀さうだとも思ひ(ママ)またが、心の底の底では嬉しいよーな気もしました」と思う。物語は「その学期の成績は、前のよりもよくありませんでした」と結末がつけられる。いじめられていた少女の成績が良かったのは、彼女の意地に由来していたのである。通り一遍の教訓物語に堕せず、少女の正直な心のうちを描いた短編。佳品であった。
 「醜い顔」(注34)は、美しい友だちに比して、自分の器量が良くないことを哀しむというもの。少女は自分の写真の顔のあたりへ傷をつけ、「長い間袂に顔を埋めて泣きました」という結末になっている。この短編も、また、器量の善し悪しも心の持ちようというような安易な結論に走っていない。その点を高く評価したい。
 「縮緬の着物」(注35)には、それほど深刻な問題ではないけれど、いかにも少女らしい哀しみを描いている。少女は友だちと木綿の紋附を着て学校に行く約束になっている。しかし、祖母はそれを許さず、縮緬の紋附を着て行けと言う。少女は友だちにからかわれるに違いないと、暗い気持ちで登校せざるを得ない。運動会というハレの日に、孫娘が地味な着物で登校することを祖母は好まない。その気持ちは善意から出たものだが、孫娘の気持ちをまるで理解していない。母も、娘の気持ちはわかっていながら、姑に遠慮して娘の頼みを受け入れてくれない。こうして、少女の哀しみの背景には、おとなたちの思惑が絡んでいる。
 素水の少女小説の殆どは、こうした傾向の作品である。
 その中で、「お家騒動美登子様」(注36)は、やや異色の長編少女小説である。素水の少女小説中で最も人気を呼んだ。のちに、素水は連載中を振り返って、次のように回想している。

 その頃少女の友を編輯して居つたのは水裏先生と長谷部湘雨先生=水裏先生がお父さんで湘雨先生がお母さんとすれば、私たちは叔父さんといふ格で、代る代る小説を書きました。殊に峡水先生と私とは毎号書きました。峡水先生の評判を取つたのは『光ちやん』で、私のは=ないでせうツて。それだからおテン…さんだといふんです。ありましたね、大にありましたね、『美登子さん(ママ)』といふので、何でも一年半か二年続きましたよ。(注37)
 このように、素水自身も、これを自分の少女小説の代表作として評価していたようだ。『怪洞の奇蹟』中に附録として収録されたことも、そうした認識のあったことを裏付ける。
 この長編は、華族の家に生を受けた薄幸の少女の運命を軸に、お家騒動を描いたものである。棚橋伯爵家には、先代の伯爵の遺言がある。それは、いったん家督を弟に譲るが、先代の娘の美登子姫が一七歳になったとき、姫にしかるべき婿養子を迎えて家督を継がせるようにというものであった。しかし、当代の伯爵は、美登子を強引に他家に嫁入りさせ、家督を我がものにしようと企む。伯爵家の重臣の子である和夫・春野の兄妹や忠実な女中が奔走するけれども、美登子は次第に窮地に追いつめられていく。
 人気が高かったため、連載の回をおうごとに読者からたくさんの手紙が寄せられるようになった。こうした熱烈な読者からの反響は、当時の「少女の友」誌上に掲載されている。次に紹介するのは、1909年11月号に掲載された投書である。
▲紫(ママ)水先生の「美登子様」は余りお可哀さうなので、繰り返し読み返し、近頃にない夜更しをしました。時計がボンボンと十二時を打つ。涙にうるんだ眼で静かな室を見廻す。こんな淋しい夜、美登子様は葉山で何をしてゐらつしやるでせう。涙がまたホロホロと頬を伝はりました。(芝区愛宕下町二の四 羽田静江)
▲素水先生の「美登子様」が、いよいよ葉山へいらつしやる時のお心持はどんなでございましたらう。又、帽子を眉深に顔を隠してゐた男の人は誰でせう。きつと殿様のお使だと思ひます。どうしますす(ママ)ね。(長野県東築摩郡和田村 窪田照代)
▲「美登子様」はお可哀さうに肺炎ださうですね。これももとは矢張伯父様が悪いんだわ。葉山へ行けなんて仰しやるんですもの。(栃木県佐野町江戸町 岡田ヨシ子)
▲「美登子様」は本當にお気の毒ですわ。憎らしい伯(ママ)父様。あんなに咯血しても、葉山行を延しなさらないんですもの。私、お父様にお話して、「きつと美登子様は近い中に亡くなるでせうね」といつて泣きました。(豊橋市豊橋病院内 加藤ひさ子)
 投書を読むと、当時の読者がこの作品のどういうところに興味を持っていたかがわかるだろう。少女たちは〈お可哀さう〉〈お気の毒〉と、薄幸の美登子の身の上に同情し、〈涙〉を流している。悪役の叔父の評判が悪いのは当然だが、中でも叔父の手先である女中頭のお駒には非難が集中する。「「少女の友」を買つて来て、素水先生の「美登子様」はどうなつたらうと、心配しながらあけて見ますと、あのお駒があのよーなひどいことをしたので、私は可哀さうで可哀さうで、その晩はやすめませんでした」(注38)というように、彼ら悪役が憎々しげに描かれれば描かれるほど、美登子に同情が集まるのである。
 一方、お家乗っ取りの企みに対抗する正義の兄妹や女中の活躍も描かれ、これに対抗して叔父方の企みも次々と展開していく。〈帽子を眉深に顔を隠してゐた男の人は誰でせう〉という謎も提示される。梗概からもわかるように、探偵小説的な要素をかなり加味した長編であった。素水はのち探偵小説を盛んに書いているが、そうした意味からも注目に値する長編少女小説である。
 ただ、美登子はお家の乗っ取りを狙う叔父の企みに耐え続けるものの、肺炎にかかってあっけなく死んでしまう。美登子の死という究極の不幸を迎え、物語は突然に終わる。せっかく盛り上がってきたところで、哀しい結末という方向に流れてしまうのである。
 また、連載の途中にして、〈きつと美登子様は近い中に亡くなる〉と投書があるくらい、結末が見えてしまっている。だから探偵小説としての要素は弱い。しかし、のちに軍事・SF・冒険・探偵小説家として活躍する素水の萌芽と見ることができよう。

b.少年小説

 作品集『籬の花』には、「少年小説出京」(注39)「立志小説苦学生」(注40)を収録。『難船崎の怪』には「侠勇奇譚腕」(注41)を、それぞれ収録している。
 このうち、「出京」と「苦学生」は独立した作品だが、登場人物や内容に継続性がある。全体として、苦学生の失敗譚になっている。
 田舎の中学生であった不二雄君という少年は、志を抱き、家の者に内緒で東京に出る。東京に出てみると、当てにしていた同郷の少年が見つからない。やむをえず、某英語学校に通いながら様々な職業に就き、車夫として働く最中に路上で倒れる。この間に、同郷の友人や苦学生仲間との友情も描かれる。けれども、物語の中心はあくまでも苦学の失敗する展開にある。
 ただ、あまりに悲惨な状況設定であるゆえ、収拾がつかなくなったためであろうか。かなり、中途半端な終わり方になってしまった。「苦学生」の結末部分は、次のとおりである。

『苦学生』の話は、これから縺れる。これから面白くなる。けれども不二雄君も貞三君も書いて欲しくないといふ。当人の書いて欲しくないものを書くのは罪だ。遺憾ながらこれで擱筆する。
 このように、リアリティーのある物語であり、それなりに興味深いものではある。けれども、せっかく盛り上がってきたところで物語を中断してしまうのだから、作品としての完成度は低いと言わざるを得ない。
 一方、「腕」は、先の連作と打って変わって、苦学生の成功譚である。
 花田少年は成績が良く人望もあったが、郷里の中学校内の対立を収めるために退学。東京に出て苦学することになる。東京では、同じ郷里から出た実業家の中谷が、花田の人柄を見込んで学資援助の申し出をするものの、花田はこれを丁重に断って自活の道を選ぶ。しかし、同郷の不良学生の仕業に巻き込まれ、無実の罪で警察に逮捕されてしまう。それを知った中谷は警察の誤解を解くために骨を折るというものである。
 この中編では、次のように、成功譚として締め括られている。
 如何にも人を信じて(ママ)疑はない、中谷の懍乎たる言葉に、花田は思はずハラハラと落涙しこの人こそ自分の知己である。自分の一生は中谷のために捧げようと決心した。
   * * *
 かくて花田は中谷の骨折で無罪放免され、学校卒業の後は中谷の世話で実業界に入り、士魂商才の実業家として、実業界のきけもの利者として盛名を天下に走せるに至つた。
 上記の結末部分については、雑誌への初出形より単行本形の方が、少年の成功を具体的に書いている。すなわち、初出形には、「* * *」以後の部分は存在せず、単行本への収録にあたって書き加えられたのである。もともと、素水は単行本への収録にあたり、加筆・修正を加えることは殆ど行わない。その素水が、ここでは苦学生の輝かしい成功ぶりをつけ加えている。おそらくは、「出京」「苦学生」の連作の結末が中途半端になってしまったことへの反動からであろう。しかし、「* * *」以降は、言わずもがなの蛇足ではあるまいか。苦学生の成功を強調したいあまり、作品としての完成度をかえって壊してしまったのではないかと思われる。
このように、素水の少年小説では、一方では、苦学を志す少年に勇気と希望を与える成功譚。もう一方では、挫折を描いて、決して苦学が容易でないことについても語られる。夢ばかりが語られるのではない。のちに、実業家として自立するリアリストとしての眼を感じる。ちなみに、少し後の時代、佐藤紅緑の少年小説が「少年倶楽部」誌上に連載され、一世を風靡する。紅緑の少年小説は、成功と出世を強調し、貧しい境遇の少年にも夢を与えようとする物語であった。素水の少年小説は、それに比べるとより現実的である。リアリティーのある作品だと言える。
ほかに、「二階」(注42)では、亡き父を継いで実業家になる志を立てた少年の心情を描く。縫之助は両親を早く失い、叔母に育てられた。叔母は長唄の師匠をしているので、縫之助は自然と長唄を覚えて巧みである。従姉妹の絹子は縫之助に長唄で身を立ててはどうかと言うが、彼は実業家になる決意をする。物語は「凡ての誘惑に克つものは強者だ」という縫之助の心中の叫びで終わる。「東京へ」(注43)も、中学校を中退した少年が苦学を決意。旅費を節約するため徒歩で国境を越えるという立志ものである
その一方、「少年小説少年絵師」(注44)では、戦死した父の遺言で軍人にならねばならぬ少年
の哀しみを描いている。新吉は運動が苦手で、級友や姉の露子から馬鹿にされている。本当は画家になりたいのだが、母の言葉に動かされ、ついに軍人になる決意をする。「新吉は、さっ(ママ)き引裂いた紙と、噛み砕いた筆を怨むように凝と見入っ(ママ)た。自分が強ゐられたる希望の下に一生を犠牲にせねばならぬ運命を悲しんで。露子はもう傍にゐなかっ(ママ)た」と、結末に描かれている。
 「少年小説母の家」(注45)も同様に少年の哀しみを描いている。峯次の父はどうしたわけか妻を疎んじて、別宅に住まわせている。母が肺の病気をわずらってからは、峯次は、全く会うことができなくなった。そこで、母付きの看護婦に頼み込んで母を見舞う。そして、母は感きわまった。「親を思ふ子の至情、かうまで厚いかと思ふと熱い涙は止め度なしに頬を伝はつた。瓦斯はジイジイと低く音を立てて、哀れな母子の上に蒼白い光をなげてゐる」と締め括られる。
 いずれも、男の子は強く逞しくなければならないとする固定観念に縛られていない。少年の哀しみを率直に捉えている。少女の哀しみを描いた少女小説との関連を思わせる。
 総じて、素水は少年の行動と心情を自分の一方的な思い入れだけから描くのではなく、多面的な観点から描いていく作風であったと言えよう。

c.軍事・SF・冒険・探偵小説の〈面白〉さ

「勇少年」(注46)は、最も初期の冒険小説であろう。勇少年の父は洪水を引き起こしかねない架橋工事に反対し、計画は中止された。それを恨む土工のボスが勇の家に脅迫状を送ってきたので、勇は決闘を申し込む。少年はいったん不覚をとって土工の一味に捕らえられるものの、逆転勝利を収めるというストーリーである。少年の義侠心を軸に物語が展開する。ここからわかるように、まだ、少年小説の要素を残した中間的なものであった。
やがて、素水の関心は冒険の要素を中心とした創作に移っていく。
 「刃の光」(注47)は「冒険小説に学術を加味したもので、今までに例のないものである」(注48)と、予告のあった長編。剛志と健之助の二少年が、山中に出没する天狗や天女の正体を確かめに行く。その正体は、謎の女を頭に戴く一味の仕業であった。女は米国の大学を卒業して帰国した者だと自称。秘密の隠れ家から地元の人々を遠ざけるため、仕掛を凝らして怪しのものを出現させていたのである。地下の隠れ家には様々な仕掛けがあり、沼の水中に直接つながるガラス張りの部屋もある。予告にたがわず、SF的な要素に趣向を凝らした長編の冒険ものであった。
 「鉄血少年」(注49)は、剛胆な少年が活躍する長編である。春雄少年は房州の親戚の家で正月を過ごしていると、海岸で船が難破した。春雄は乗船者を救うため、嵐の中を勇敢にも海に飛び込み、人々から賞賛された。そして、たまたま難破船に乗船していた渡島侯爵夫人に誘われ、連れだって東京に帰る。その途中、山中で賊に襲われた。これをきっかけに、侯爵家に恨みをもって付け狙う悪の一味と、春雄との戦いが始まる。悪の首魁が自ら変装し、侯爵家に下男として入り込んだり、別の悪の一団が絡んで事件が複雑に展開したりしていく。悪人の寺尾軍之進が春雄の従兄弟であったという意外性もあり、探偵小説風の設定が色濃く見られる長編であった。ただ、最後の場面で寺尾はいとも簡単に改心してしまう。結末の弱さは否めない。
 「冒険小説水中の兇漢」(注50)は、じゅうゑ十衛少年の活躍を描く、読み切りの短編である。近所に押し入って少女を誘拐した凶悪犯を、十衛が追跡。凶悪犯は荒れ果てた屋敷内の大樹の中に姿を消す。そこに、十衛の跡をしたってきた愛犬に導かれた警官隊が駆けつけるが、どうしても入り口の仕掛がわからない。思い切って十衛が庭の池の中に飛び込んでみると、水中にガラス張りの隠れ家を発見するというストーリーである。水中に潜む悪人というSF的な発想は後述する「難船崎の怪」以来のもので、凶悪犯を追跡する過程に探偵小説の要素が色濃い佳作である。
 この分野の作品には、先に述べた尚交会叢書のほか、書き下ろしの単行本に特に見るべきものが多い。のち、有本芳水や松山思水がさかんにこうした分野の単行本を書き下ろしたが、これに道をつけたといえる。
 ここでは、「怪洞の奇蹟」を軸に、素水のこの分野の作品について取り上げることにしたい。この作品は尚好会叢書の第1回配本『怪洞の奇蹟』の冒頭を飾った。単行本に書き下ろしの長編と思われる。
 内容は光雄と綾子の兄妹の活躍を描く誘拐ものである。綾子は先代の宝部子爵の忘れ形見である。だが、当代の子爵(先代の弟)は、密かに綾子を自分の家来に引き取らせ、家督を横領。綾子を引き取った家来は、自分の実子(末娘)ということにして育てる。この家来の長男が、光雄少年に当たる。そういう事情を知った悪人が、子爵家の財産を狙って、綾子を誘拐。綾子を助けようとする光雄たちと、二派の悪人たちが、三つ巴に入り乱れて綾子を奪い合う。光雄が綾子を救出する道具に、当時、大流行の飛行機を使用し、読者の人気を呼んだ。
 素水は、作品集『怪洞の奇蹟』の冒頭に、次の自序を書いている。

少年雑誌『日本少年』の編輯をしてをる私は、多くの読者から一冊の纏つた読み物を出して下さいと屡々望まれました。実際只今のところでは、少年少女の読み物といつては月々に出る雑誌とお伽噺の本があるばかりで、その外には殆んどありません。私ども少年雑誌にたづさはつてをる者の立場として、久しい間健全な、面白い、純少年少女の読み物をほしいと望んでをりました折柄、かういふ注文を屡々受けましたので、これを世に公にすることにいたしました。
 自序からは、素水の狙いとするところが明確にわかるだろう。すなわち、従来のお伽噺にはない〈健全な、面白い、純少年少女の読み物〉というところに、狙いがあったのである。
 それでは、〈面白い〉とは、具体的にいかなることを意味しているのだろうか。
 「怪洞の奇蹟」について、読者からの反応が「日本少年」誌上に掲載されている。これを手がかりに〈面白い〉とは何かについて考えてみたい。
 次に掲げるのは、「評判」と題して「日本少年」(注51)に掲載された読者からの反響である。
▲私は学校から帰りに局へ行つて見たら、「怪洞」(ママ)の奇蹟が来て居たので、嬉さの余に家へ着かない前に中をのぞいて見たら、光雄少年が飛行機に乗つて鳩を捕へるところでした(ママ)家に帰つて読むと、面白い事面白い事。一読血湧肉躍る程で飛行機が暴風の為に落されて光雄少年が飛び下りた時などは、もしや悪漢の為に捉えられはしまいかと心配しながら読みました。本當に面白い本です。諸君是非買つて読んでみたまへ。(福島県河沼郡野沢町渡部広)
▲「怪洞の奇蹟」!!実際ふるひつきたいほど面白い。素水先生の傑作中の傑作だ。光雄が姿を変へて綾子を救ひに行つた所などは…噫「怪洞の奇蹟」!!痛快痛快。(新潟県中蒲原郡石山村菅沼久光)
 これを読むと、〈一読血湧肉躍る〉〈痛快〉ところに、読者たちがこぞって興味を引かれていたことがわかるだろう。「日本少年」は素水が主筆を務めている。だから、投書がこの雑誌に掲載されるということは、こうした受け取り方が素水の意にかなっているということを意味する。
 また、少女読者への配慮だろうか。主人公の少年の活躍に加えて、物語の進展につれ、副主人公である少女の数奇な身の上が、次第に明らかにされていく。この点については、上記の「評判」欄に続けて、次の感想が掲載されている。
▲早速読んで見ますと、少女綾子の身の上が思はれて知らず知らず涙が出ました。又附録の「美登子様」を姉や妹に読んできかせますと我が身の上の事の様に涙を流して熱心に聞いて居りました。(兵庫県城崎郡西気村北村茂)
▲「怪洞の奇蹟」は、正月中惜しみ惜しみ読みました。或時は読みながらホロリホロリと涙がこぼれた位です。(福島県郡山町大町津野喜七)
 読者の感想では、〈少女綾子の身の上が思はれて知らず知らず涙が出ました〉〈ホロリホロリと涙がこぼれた〉ということが強調されている。そういう観点からすれば、この物語もまた華族のお家騒動の一種であることに違いはない。しかも、単行本として出版されるにあたり、附録として「美登子様」が収録されている。つまり、単行本全体を通じ、《華族のお家騒動》《可哀そうな少女の物語》という共通の趣向で貫かれていると言える。こうした《可哀そうな少女の物語》ということも、また、「怪洞の奇蹟」の面白さの一つなのである。
 ほかに、「評判」欄の末尾には「滝沢素水先生の新著『怪洞の奇蹟』は、近頃にない大評判の面白い冒険小説です。殊に有名な川端龍子先生の挿絵は実によくできてゐます」という記述がある。この部分は他と違って無記名なので、読者の投書ではなく、書き手は同誌の記者なのだろう。川端は「日本少年」の表紙絵を担当し、この雑誌の売りものの一つであった。挿絵の面白さを指摘した投書がなかった。そこで、そのことを記者自身が補足し強調したものと思われる。
 尚交会叢書は配本を重ねるごとに、〈一読血湧肉躍る〉〈痛快〉という要素をより強めて行ったようだ。この叢書の第3回配本『難船崎の怪』の冒頭に位置する表題作は、SF冒険小説の要素が強く、読む者を退屈させない。
海辺の村に避暑に来たつよし剛少年は、怪しげな噂を耳にする。それは、難船崎の丁度三哩沖にさしかかると、どんな大きな船であっても、不思議な渦に巻き込まれて沈没してしまうというものであった。そこで周辺を探検しているうちに、難船崎と入江を隔てた廃城で海賊の一味に囚われる。剛少年は一味に加わるとみせて巧みに彼らを欺き、囚われの父娘を助けた。海賊のボスは海底に秘密根拠地を設けた外国人のセイボイ博士であった。博士は人工渦巻の中を通って海上と海底の通路を確保し、船を沈める道具にも使っていたのである。
嵐の闇夜の海岸に幽霊の如くさまよう狂女、捕われの鉄仮面の男、外国人の驚くべき発明という題材の興味性で、読者を引き付けてやまない佳品であった。
 この作品集の自序には、次のように書かれている。
私が近頃にない興味を以て書いたこの物語の中には、恐らく皆さんの想ひも設けぬ
▼珍らしいこと
▼驚くべきこと
▼怖ろしいこと
▼勇ましいこと
が書いてあります。恁うした物語を望んでゐらつしやる少年少女諸君にお勧めいたします
 ここで言う〈珍らしいこと〉〈驚くべきこと〉〈怖ろしいこと〉〈勇ましいこと〉は、ストーリーの面白さよりも、題材の面白さを強調する表現である。これに関連して、芳水は「日本少年」に「怪奇小説『難船崎の怪』を読む」(注52)と題する署名入り記事を書き、この長編を次のように評している。
素水君は今まで色色な小説を書いたけれども、海のことを描いたのは殆どない。鉄血少年の初めには難破船のことが描いてあつたけれども、それもホンの発端に過ぎなかつた。だから僕は『難船崎の怪』といふ名前を聞いた時、素水君に海のことが書けるだらうかと内内危んでゐた。
処が『難船崎の怪』を読んで驚いた。米国の理学博士が潮の差退きを利用して海底に宏壮なる居室を構へ其処を根拠地として世界の海上権を一手に握る恐るべき陰謀を企て、大仕掛の海賊を働く処が、素水君の生気ある筆に巧みに描かれてある。
海底の居室、実に破天荒の奇想ではないか。何うして斯くの如き驚くべき仕組が出来るだらう。これを読んだなら、何人でも素水君の偉大なる想像力に驚くと共に、その痛快なるに快哉を叫ばぬものはあるまい。
『難船崎の怪』は、この驚くべき恐るべき博士の陰謀を、紅顔の美少年が片つ端からブッ毀して行くのを描いたもので、鉄仮面、怪婦人など、全く意想外の人物が編中に躍つて来る。幾年人の住まはぬ城中に鉄の面を被せられた人を見出した時、少年の驚きは何んなであつたらう。一寸先も分らぬ真暗な晩に、顔色の真蒼な、髪振り乱した女に、氷のやうに冷たい手で頬を撫られた時、少年は何と思つたらう。
怪奇小説!!怪奇小説!!僕は正直に白状するが近頃にこんな面白い小説を見たことがない。素水君の小説だからといふ意味に於てでなく、最も面白い小説であるといふ意味に於て、これを我が日本少年愛読者諸君に勧める。
上記のように、芳水が高く評価しているのは、〈破天荒の奇想〉〈意想外の人物〉という題材の面白さである。このようにして、素水の自序の内容をより具体的に、しかも作品に即して評している。
時の経過とともに、題材の興味性により読者の興味を引こうとする方向に、作者自身や周囲の関係者の意識が変化していったようである。

d.軍事・SF・冒険・探偵小説の〈健全〉さ

 素水が『怪洞の奇蹟』の自序に言う〈健全〉とは、如何なることを意味しているのだろうか。
 「怪洞の奇蹟」では、綾子と光雄の兄妹は互いに相手のことを心配し、慕いあっている。綾子は華族の家に産まれ、密かに光雄の家に引き取られた。だから、血はつながっていないのだが、兄妹としての関係を微塵も崩していない。あくまでも、恋人どうしの情愛ではないというところが、〈健全〉だというのだろう。
 血のつながらない兄妹というパターンは、素水の好むところで、尚交会叢書の第2回配本『籬の花』にも登場する。作品集の表題作も、また、妹が誘拐されるという長編である。
 兄の金之助は子どもに恵まれなかった裕福な夫婦の養子で、妹の艶子は金之助が貰われてきた翌年に産まれた実子であった。熊吉はこの家に書生として置いてもらっているが、艶子を誘い出してわがものにしようとする。熊吉は自分の伯母にあたるお留に唆されたのであった。だが、お留は熊吉を欺き、悪人仲間の《蝮のお政》と共謀の上、誘い出した艶子を売り飛ばしてしまう。一方、心労のあまり病気になった金之助は、静養先の伊東で偶然に艶子を発見。親切な爺さんに助けられ、悪人の手から脱するまでを描いている。
 素水は「血を分けた兄妹でない兄妹金之助と艶子との間に起つた縺れ合つた、情愛に富んだ事件を書いたものですが、自分が感興に乗つて書いたものだけ、よほど面白く出来てをる積りです。どうか御覧の上御批評を願ひます」(注53)と、内容の紹介をした。金之助と艶子について、両親はゆくゆくは夫婦にしても良いと考えている。そのような男女間の情愛めいた設定で読者の心をときめかせておきながら、これをあくまでも恋愛感情ではないとする。恋愛感情ということからの《逃げ》である。こういうことを子どもの読み物として〈健全〉だとしたのである。
 〈健全〉であることの、もう一つの要素は、ナショナリズムである。
 『痛快小説空中魔』(注54)は、大仕掛な軍事・SF冒険ものである。出版当時、現実に戦われていた第一次大戦を取り入れている。陸軍予備役の大庭将軍は、海軍予備役の速水将軍と協力。パナマ運河近辺の密林とエクアドルの遥か沖合いの孤島に、それぞれ秘密基地を建設し、来たるべき国難に備えている。ドイツは欧州戦線で九分どおり勝利し、北米合衆国はドイツ側に立って参戦。独・米連合軍は、パナマ運河を利用して太平洋方面に侵攻しようとしている。大庭将軍らは、逆に、パナマ運河を奪取して大西洋方面に侵攻する作戦を立てるというストーリーである。潜航時間が長く高速の小型潜航艇、射程四〇キロの無煙無音の大砲、全ての爆発物を爆発させてあらゆる武器を無力化するF光線といった新兵器を、敵味方が駆使する。

 一難去れば一難来り、一の発明を成就すれば敵の新しい発明に裏切られる。味方の間諜あり、敵の間諜あり、我に侠骨の支那人あり、敵に花の如き独逸少女あり、我に無煙無音の爆弾あり、敵にF光線あり、剣あり、死あり、それ等が混戦状態に陥るのだから面白い。
 兎に角、いよいよ危機一発と云ふ場合に『空中魔』がそれを平定して万国条約を締結し、人類は将に黄金時代に入らんとするのです。諸君が読んで痛快を叫ぶべきを信じて疑ひませぬ。
 これは、素水自身が「痛快文庫第四編『空中魔』現はる」と題して著した署名入り記事で、「日本少年」(注55)に掲載された。この記事によると、ナショナリズムの貫徹が世界平和の確立と人類の黄金期に、矛盾なく繋がっていく。楽天的であり、〈健全〉な世界観である。
 『空中魔』の梗概から明らかなように、秘密結社には祖国の為という絶対的な正義がある。中立国の領土内に秘密基地を作ろうが、武装集団を配備しようが、問題ではない。きわめて単純で素朴なナショナリズムに立脚した物語なのである。
 また、この作品は、宮崎一雨・阿武天風・平田晋策へと続く、日米未来戦ものの系譜のハシリとして注目したい。
 『空中魔』! 刻下の欧洲の大戦乱に、斯くの如き結末を与へるものがあるとすれば、それは正にこの戦乱を境として来るべき新時代の象徴であるといふ事が出来よう。『空中魔』は即ちその象徴である。
 然り、欧洲の大戦乱は確かに或る時代と、次の新らしい時代との境界線(又境界戦)である。そしてその欧洲の大戦乱が表であるとすれば、本書の物語は裏である。裏から生れた『空中魔』が表と裏全体を統一すると云ふ痛快味が即ち本書の味であると、作者は自讃し度い。
欧洲大戦第二年目の冬   著者
 右は『空中魔』の自序である。いかにも第一次大戦中らしさが感じられる。日本は青島戦や南洋方面等への派遣艦隊、あるいは商船が撃沈されたようなことを除いて、殆ど戦禍を受けていない。国内では好景気に沸いていた。そういうゆとりが窺えるのである。米独同盟という予測は荒唐無稽なものであったものの、来るべき日米間の衝突をこの時点で早くも予測して描く未来戦争ものとして、児童文学史上に位置づけることができよう。
 最後になったが、〈健全〉という言葉には、勧善懲悪の枠組みこそが最もふさわしい。
 どのように巧みに仕組まれた悪事であっても、必ず悪は破れ正義が勝つ。「怪洞の奇蹟」や「難船崎の怪」は、そうした内容の〈健全〉さという点で、典型的である。素水の作品に限らず、大衆的児童文学に共通した枠組みの作品なのである。
 『冒険秘譚暗中の怪人』(注56)は、素水が「日本少年」の主筆を退いてから最初に出した長編である。扉を開けると、タイトルの下に「是れ少年小説の作家として盛名ある著者が、一年間、総ての雑誌刊行物に筆を絶ち、専心一意、苦心に苦心を重ね、心血を搾りて書きたるもの」云々とある。満を持して世に送り出した力作であった。
 茂と健二は一つちがいの従兄弟で、ともに学校で聞こえた腕力家である。茂の姉の菊枝は長く仏蘭西にいたが、夫に死別したので帰朝。しかし、ホブニーという悪の団体に狙われているため、姿を隠している。ホブニーは仏蘭西の貴族の不良少年からなる団体であった。悪人たちに懸賞金を出して、世界中の主立った美女を誘拐している。直接、菊枝の身を狙うのは、時田を頭に戴く一味と、外国人のブラデイに率いられた一味である。二派の悪人たちは互いに争いながら菊枝の身を奪い合う。けれども、茂と健二は家名を辱めないため、警察に頼ることができない。したがって、何度試みても菊枝の奪還に失敗。その都度窮地に追いつめられる。結局、やむを得ず警察の力を借りることになるが、それでも菊枝の救出はあくまでも彼らの活躍があって成し遂げられた。
 『痛快小説百鬼団の粉砕』(注57)も、長編の誘拐ものである。澄江子は母と二人暮らしの少女である。父の小林大尉は青島戦に出征したあと、どうしたわけか消息が絶えている。澄江子の従兄妹にあたる河島実は、今年17歳の快男児で、講道館に通っている。事件は百鬼団という悪の組織に澄江子が誘拐されたことから始まる。実少年は身代金3000円をもって指定の場所に向かうが、まんまと奪われてしまう。百鬼団は身代金を奪ったあと、澄江子を上海の蛇使いの見せ物に売り飛ばした。一方、軍から秘密の命令を受けていた小林大尉は、大陸各地を転々とした後、上海で任務を完了。その夜、偶然にも我が娘が見せ物にされているのを見る。救い出そうとするが、座頭の奸計にかかり、かえって囚われの身となってしまう。実少年の方も、単身で上海航路の怪しい客船に乗り込む。だが、澄江子の救出に失敗して、無人島に流れ着くなど、危機に直面すること度々であった。しかし、最後は講道館の仲間たちの強力な助力を受け、小林大尉と澄江子を助け出す。
 上記の二つの長編では、国際的な犯罪組織に少年が立ち向かう。これらの長編が優れているのは、少年がスーパーマンのような活躍をするのではないことだ。もしそうなら、月並みな冒険・探偵ものに終わっていたであろう。だが、力関係は圧倒的に犯罪組織の側に有利であるから、少年は常に窮地に追いつめられていく。そのように、少年は失敗に失敗を重ねながらも、執拗に犯罪組織に追いすがる。そして、ついには逆転勝利を掴むのである。
 悪の集団は恐るべき力を持っている。しかし、悪は必ず世に顕れ、滅びることになる。そいう点で将に〈健全〉な世界観を少年読者に与える物語であった。

(4)おわりに

 滝沢素水が編集者としてなした業績は、近代的な雑誌経営という意味で注目にあたいする。素水の斬新な取り組みについて、あらためて整理すると次のようになる。

1 企業メセナ(思い切った規模の文化事業)
2 宣伝の重視(あらゆるメディアを動員した過去に例を見ない大量の宣伝)
3 読者の組織化(顧客の掌握と確保)
4 読者の親和感の喚起(スター編集者へ身内意識を持って貰う)
5 ターゲットの絞り込み(対象とする読者年齢を絞り込む)
6 雑誌を中心に据えた総合的な事業展開(叢書の発行など)
7 読者サービスの強化(懸賞や他企業とのタイアップなど)
 現代にも充分に通じる取り組みである。同様の手法は、有本芳水や松山思水の主筆時代にも引き継がれていった。こうした素水の取り組みが「日本少年」誌の発展の基礎を築いたのである。
 作家としての業績では、大衆的児童文学の作品を幅広く手がけた。与えた影響は、有本芳水や松山思水といった「日本少年」系の作家にとどまらない。とりわけ、SF冒険ものや軍事冒険ものの分野で、素水に続く作家たちに先駆けた業績を遺したと言えよう。
こうして素水の手腕が認められ、出版部長を勤めるなど、実業之日本社内で頭角をあらわしていった。特に、経営面での手腕があったらしく、やがて実業界に転進していくことになる。
以上のように、素水が児童文学に関わった期間は比較的短いが、「日本少年」の黄金期の基礎を築いた。「日本少年」のみならず、少年少女読物の分野に新たな経営上の手法、作品創作上の手法をもたらしたのである。その業績は大きいと言わねばならない。

(1999.1.25)

【附記】
本稿は第37回日本児童文学学会研究大会(1998年10月24日、鳴門教育大学)における口頭発表が原型となっている。なお、資料の一部を上笙一郎氏から借覧した。ご好意に心より感謝したい。

注1 第10回配本 1930年4月15日
注2 大阪国際児童文学館編 1993年10月31日 大日本図書
注3 1967年6月10日 実業之日本社
その後、同社の百年史が出たが、七〇年史を下敷きにしたものと思われるため、あえて参照することはしない。
注4 「日本少年」1911年1月号
注5 「日本少年」1912年2月号
注6 「日本少年」1912年12月号
注7 1889年11月10日
注8 1889年5月10日
注9 1912年4月号
注10 1912年7月号
注11 『少年文学史 明治篇』1942年7月10日 童話春秋社
注12 1912年8月号
注13 1912年4月号
注14 一記者「日本少年第一回誌友大会の盛况」(「日本少年」1911年4月号)
注15 「大阪の佐野辰次郎君の手紙」(「日本少年」1911年11月号)
注16 「岡山の藤原律太君の手紙」(「日本少年」1911年11月号)
注17 「日本少年」1911年10月号
注18 「日本少年」1912年8月号
注19 「日本少年」1911年11月号
注20 1912年1月1日 実業之日本社
注21 「日本少年」1912年2月号
注22 1912年4月16日 実業之日本社
注23 「日本少年」1912年6月号
注24 1912年8月10日 実業之日本社
注25 「日本少年」1912年10月号
注26 平凡社「少年冒険小説全集」第巻の「月報」(書誌は注1参照)
注27 1910年3月号
注28 「日本少年」1912年10月〜12月号
注29 1907年9月号
注30 創刊号は1919年10月号
注31 「日本少年」1909年9月秋季増刊号
注32 「日本少年」1911年8月号
注33 一九〇8年3月号
注34 「少女の友」1908年9月号
注35 「少女の友」1908年10月号
注36 「少女の友」1907年7〜12月号
注37 「其頃のこと」(「少女の友」1916年6月号)
注38 「少女の友」1909年10月号に掲載された読者からの投書
注39 初出は「日本少年」1908年7月臨時増刊号
注40 初出は「日本少年」1908年10月〜12月号
注41 初出は「日本少年」1911年9月〜12月号
注42 「日本少年」1910年3月春季増刊号
注43 「日本少年」1912年3月春季増刊号
注44 「日本少年」1910年3月号
注45 「日本少年」1911年7月号
注46 「日本少年」1909年3月臨時増刊号
注47 「日本少年」1911年2月〜6月号
注48 「日本少年」1911年1月号
注49 「日本少年」1912年1月〜7月号
注50 「日本少年」1915年9月秋季増刊号
注51 「日本少年」1912年2月号
注52 1912年9月号
注53「ダンワクラブ」(「日本少年」1912年5月号)
注54 1916年1月1日 実業之日本社
注55 1916年2月号
注56 1914年3月20日 実業之日本社
注57 1916年3月10日 実業之日本社