滝沢素水の児童文学
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滝沢素水が「日本少年」誌の主筆(今日の編集長に相当)を務めた期間は、1910年3月号から1912年12月号までであり、わずか3年足らずでしかない。その後、素水は「実業講習録」の主筆を経て、実業之日本社を退社。児童文学の世界から離れ、実業界へ転進していった。素水の主筆時代の当初、編輯長(今日の編集次長に相当)を務めたのは小倉紅楓であった。この年の終わり、紅楓が一年志願兵として入営したため、有本芳水が1912年1月号から後任の編輯長を務めることになる。やがて芳水は素水の後任として主筆に昇格。編輯長に新人の松山思水を据え、同誌をして発行部数20万を誇る雑誌に育て上げた。当時としては、空前の発行部数である。しかし、このように同誌が児童雑誌業界を制覇していく基礎を築いたのは、ほかならぬ素水であった。
この時期の児童雑誌では、まだ編集者と執筆者の分業が行われていない。雑誌の記者は、企画・編集を任されていると同時に、主要な寄稿家でもあった。いわば、雑誌の顔である。本来、編集者=執筆者の活動は一体のものであった。両者を完全に分離して論じることは難しいが、本稿ではあえて編集者としての業績と作家としての業績に大別し、考証していく方法論を採りたい
ところで、素水の経歴については遺された資料が少ない。そういう中で、平凡社版「少年冒険小説全集」の第11巻『難船崎の怪外二篇』(注1)に付属した「月報」中の記事からは、得るところが多い。とりわけ、「滝沢素水略歴」と題された一文は、短文ながら素水の経歴を探ることのできる殆ど唯一の資料である。児童読物の世界から身を引いたとはいえ、素水が健在な頃のものであり、価値が高い。以下にその全文を引用しておく。
明治十七年秋田市に生る。本名永二『日本児童文学大事典』(注2)を見ても、生誕の月日は不明、没年も不明になっている。実業之日本社を退社後の素水の経歴についても、上記の経歴と同じ内容の記述になっている。おそらく、大事典のこの項目は、先の記事あたりを根拠にしているのだろう。ただ、大事典には、実業之日本社社長の増田義一と素水が「同窓同郷」とある。ところが、増田は新潟県生まれ、東京専門学校(のち早大)の卒業は1893(明治26)年である。だから、素水と「同窓同郷」であるわけがない。同じ学校の卒業生だから「同窓」だと強いて言えなくもないが、「同郷」ではありえない。やはり誤認であろう。
明治四十年、早稲田大学英文科を卒業し、直ちに実業之日本社に入り、婦人世界編 輯長、日本少年主幹、実業講習録主任、出版部長等、同社の枢機に参す。
大正七年同社退社、実業界に入り最上採炭株式会社社長、中央機械製作(ママ)所大正證券 株式会社、大和自動車株式会社その他の取締役となる。
大正十一年雑誌『新女性』発行、大正十三年銀行通信社創立、目下女子講義録その他出版業に従事す、著書数種あり。
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滝沢素水が主筆を務めていた頃の「日本少年」は、急速に発行部数を増大させ、めざましい発展をとげている。
1911年の1月号は、素水が主筆になってから最初に迎えた正月号にあたる。初版12万部を発行したが、たちまち売り切れたという。素水は「誌友会の設立に就いて」(注4)と題する記事の中で、次のように記している。
『日本少年』の凄まじい勢で発展するのには自分ながら驚いた。七月、八月、さては十一月、十二月は、雑誌の厄月で、どんな雑誌でも幾らか下火になるといふのに『日本少年』ばかりは、そんな月でさへも発刊当日に売切再版といふ盛况であつた。もともと、雑誌の正月号は、年間を通して最も発行部数の多いものである。それを割り引いても、12万部は脅威的な売れ行きであった。同年2月号の「編輯局便り」には、「最も光彩ある雑誌を諸君に提供しやうとして、夜も寝ずに連日働いた甲斐があつて、一月号の景気つたら実に意想外であつた。発行する(ママ)が否や三日ならずして、売切れになつてしまつた。再版をやツたがそれも直ぐ売切れ、松の内に三版を重ねた。これも瞬時に売切れてしまつて、四版をやらうと思つたが、もう印刷部は二月号に懸つてゐて、とても手が回らないといふ景気であつた」と、売れ行きの好調さが伝えられている。
嘘でも何でもない。本屋へ行けば本屋の小僧が『日本少年は此頃本当によく出ます』と感嘆する。諸君『日本少年』は正月、十二万刷っ(ママ)たんですよ。少年雑誌で十二万刷る雑誌が何処にあらうか。少年雑誌の覇王だの、第一流だのといはなくても、この事実は充分に『日本少年』の勢力を語っ(ママ)てゐる。
▼皆さんは末だ御承知でございませう。去年のお正月に私は、日本少年の愛読者は十二万あると申しました。15万部という発行部数は、正月号だけにとどまらない。間もなく、「日本少年」は、通常の月でもこれだけの部数を発行するようになった。事あるごとに15万読者を号するのである。有本芳水は1912年12月号の「日本少年」誌上で、「諸君に」と題し「素水君は非常な奮闘家で、また非常な勉強家でした。日本少年が隆隆旭ののぼる如き勢で、短日月の間に嶄然として少年雑誌界に頭角を表はし、遂に今日では十五万といふ部数を発行して、新しいレコードをつくるやうになつたのも、ひとへに素水君の健闘に他ならぬのです」と、素水の業績を誉め称えている。ちなみに、「日本少年」のこの号は素水が主筆を務めた最後の号にあたる
▼然るに一年後の今年のお正月には、驚くではありませんか。十五万の愛読者を有つやうになりました。一年に三万の愛読者の増加は決して少ない数でありません。
▼私は正月の誌上で日本少年の愛読者諸君は、自分の骨内(ママ)(肉の誤植―引用者)を愛するやうに日本少年を愛してくれると申しましたが、一年に三万の愛読者の増加は、明かに私の言を実の上に現はしたものと存じます。私は更めてお禮を申し上げると共に、今後も幾層の同情をよせられることを祈ります。
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1912年は実業之日本社の創業15周年にあたり、記念事業として〈全国小学校成績品展覧会〉を開催した。これまで五周年ごとに開いていた園遊会を取り止め、展覧会に換えたもので、今日でいう企業メセナである。実業之日本社の社史『実業之日本社七十年史』によると、「会場は上野公園竹の台(現在の東京都美術館の場所)にあった元商品陳列館を当て、全国各地から約一千三百の小学校を選んでその児童生徒の図画、工作、作文、習字、裁縫等約十二万点を陳列した。この種の催しでは当時これほど大規模なものは我国では始めてであり、わが社としても無論はじめて経験することであった」という。
ただ、この種の展覧会としては、これが最初のものとは必ずしも言えない。例えば、「小国民」第六号(注7)によると、1889年には、上野公園内で〈教育展覧会〉が開催されている。東京府教育会の主催で、府下公私立学校生徒の作文・図画・編物などを出品したという。また、翌1890年に、同じ上野公園内で〈内国勧業博覧会〉が開催されている。「小国民」第一二号(注8)によれば、この展覧会に全国から子どもの習字図画・裁縫品・編物等が出品された。しかし、子どもの《成績品》を主たる展示物とする展覧会が、これほどの規模で開催されたことはない。しかも民間の企業メセナであったという点で、〈全国小学校成績品展覧会〉は画期的な催しであった。
さて、この〈全国小学校成績品展覧会〉には、総裁に大隈重信を戴いた。協議員には吉岡郷甫ほか文部省の学務局長・視学官クラス多数、賛助員に芳賀矢一・新渡戸稲造・尾崎行雄を始め東京・広島の両高等師範学校校長、東京・奈良の両女子高等師範学校校長ほかを擁している。「日本少年」(注9)は、「費用一万円を提供して」云々、「特設した三十間堀の事務所には、毎日十数名の事務員と記者」云々と、準備の様子を伝える。会期は、最初、5月25日から6月13日までの予定であったものが、評判が高いため、6月18日までに延長。1日あたりの一般入場者3000人、団体入場者3000人、会期を通じて16万人の入場者があったという。入場料は一人につき5銭をとったが、小学校児童の団体は無料とした。
会期中には皇太子をはじめ、三皇孫などの皇族、乃木大将ほかの高位高官の来場があった。実業之日本社社長である増田義一の政治力が窺える出来事であった。なお、増田はこの年の5月、衆議院議員に当選し、政界に進出を果たしている。
展覧会の実務は石塚月亭が担当したが、素水はこの展覧会の発頭人として中心的な役割を果たしたようだ。「日本少年」(注10)の記事によると、展覧会の準備中、血の気の多い素水は増田の選挙に熱中し、月亭から「選挙は大丈夫だから、展覧会の方を遣つてくれ給へ。最う一月しかないよ」と催促された。三十間堀の事務所に行ってみると、東京市内の学校からの出品が少ないのに驚き、「綱曳きで駆け廻つた」というエピソードが伝えられている。
ところで、博文館の編集者であった木村小舟は「何事も宣伝の世の中ではあり、殊に宣伝の巧妙なる実業之日本社の企画ではあり、為めに連日入場者雲集し、殊に高貴の御方さへ、御来観あらせらるゝといふ有様にて、私設の展覧会としては、稀に見るの名誉を博し、大成功裡に其の幕を閉ざした」「さればこそ、この事あつて以来、両誌の勢力は、真に旭日昇天の概を来し、為めに多年牢固たる地盤を擁したる「少年世界」すら、聊か後方に瞠着たるの感なきを得なかつた」(注11)と述べる。実業之日本社は、明治期を代表する児童雑誌出版社であった博文館を凌駕し、業界の頂点に立った。展覧会の開催は、同社の隆盛ぶりを内外に見せつけたと言えよう。
《成績品》は、〈書方〉〈綴方〉〈図画〉〈裁縫〉〈手工〉の五分野に分けられた。「少女の友」(注12)によると、出品規定は概ね次のとおりであった。すなわち、〈書方〉は尋常四学年以上の各学年。〈綴方〉は尋常三学年以上の各学年で、尋常六学年に限り「親の恩」という題を課した。〈図画〉は尋常一〜三学年(三学年のみの誤植か?)に記憶画、四学年に臨画、五学年に写生画、六学年に考案画、高等一学年に写生画、二学年に考案画を課した。〈裁縫〉は尋常四学年は随意、五学年は一つ身襦袢、六学年は一つ身単衣及び補綴法、高等一学年は一つ身袷衣、二学年は一つ身綿入及び補綴法であった。〈手工〉は尋常四学年以上の各学年で、材料及び大小は随意であったという。
優秀作には賞牌と賞状が出された。審査員は青山師範、東京高等師範、東京女子高等師範の教諭・訓導から各分野ごとに二名(綴方は六名)を選任。選考の結果、金牌が各分野につき三名。銀牌が各分野につき百名程度。銅牌が各分野につき二百名程度選ばれ、ほかに各学年を通じて成績良好と認められた学校に褒状が贈られている。褒賞式は同年6月30日、神田一ツ橋にある帝国教育会で行われた。
《成績品》のほかにも、教育参考品として諸外国の教育品、諸種の玩具、飛行機模型などを出品した。後年、盛んに開催される教育博覧会の先駆けと言えよう。また、「日本少年」「少女の友」の二誌が如何にして制作されるかをテーマに、素水の冒険小説や有本芳水の少年詩の原稿、活字の文選・組方・紙型、ステローから印刷製本までの過程を展示。自社のPRに怠りのないことも、無論であった。
《成績品》を集めるため、実業之日本社では全国2000余校の小学校を対象に出品を勧誘した。勧誘の対象となる学校は、各府県の視学が各郡から三校を選ぶというやりかたであったらしい。前年、日本の植民地になったばかりの朝鮮にも出品を促した。韓国皇族の来場もあり、〈日韓併合〉の事実をあらためて知らしむることに配慮したことがわかる。文部省では二回にわたって視学官会議を開いた。また、折から上京中の視学九十二名を対象にして、大隈伯爵邸を会場に会議を行っている。民間が主催する展覧会でありながら、官の力をも動員し、国家目的に添った催しであった。
なお、「少女の友」の広告に「児童成績品の展覧会が、少年少女の学業進歩に利益する処多いといふ事は、今更申すまでもありません。そして、日本全国小学校児童の成績品を一堂に陳列して見たいといふ考は、教育家と云はず父兄と云はず、万人の斉しく希望するところでありました。けれどもこれには、莫大な費用と労力を要するので、未だ一回も挙行せられたことがありません。我が実業之日本社では、少年少女教育界の為にこれを惜み、今回、此費用と労力とを提供して、文部省協賛の下に、これを計画する事になりました」(注13)とあって、展覧会の趣旨と性格を明らかにしている。
しかし、当時、こうした企業メセナを教育界が受け入れることは、まだ容易ではなかったようだ。東京市内の学校の出品が地方の学校に比べて少ないので、先述のように素水が先頭に立ち、実業之日本社の編集記者たちが手分けをして各学校を訪問した。すると、出品しない理由は、〈期日に間に合はない為〉はともかく、〈展覧会を営利事業と認むる為〉にあったという。説得の結果、誤解を解く学校もあったが、どうしても納得しない学校も少なくなかったらしい。一方、地方の学校からは予想の三倍も出品があった。都市部より地方の方が、視学という官の威令が行き渡っていたためかもしれない。
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〈日本少年誌友会〉の結成は、1911年1月号の「日本少年」誌上に発表された。
大隈重信を総裁、新渡戸稲造を副総裁、各界の名士を賛助員に戴いて発会。「顧れば、吾人が大方の庇護と同情の下に、我が『日本少年』を発行してより、年を閲みすること茲に五回。単に歳時の長短を以て之を律すれば、未だ多く言ふに足らずと雖も、幸にして吾人の主張と努力は夙に世の容認するところとなり、今や全国の四隅を通じて、熱烈なる愛読者の数、既に十二万に達せり」(設立の趣旨)と「日本少年」誌の隆盛を背景にしている。会の目的は「毎年一回乃至数回東京及び其他の都市に順次誌友大会を開き、随時随所に誌友会を催すこと」「子弟の教育に就いて常に当局者と連絡を保ち、諸種の研究を為すこと」ほかと、会則に定められている。また、「幹事は幹事長(主筆と編輯長のこと―引用者)の適当と認めたる少年に限り、一地方に一名乃至数名を置く」「誌友会は幹事と幹事長と協定の上、随時随所に開く。誌友会には事情に許す限り幹事長出席すべし」として、地方の読者にも配慮。幹事には有力な投書家が任命される。編集者と読者との結びつきをより一層強める工夫であった。
とはいえ、「『日本少年』の愛読者を総て会員とす。但し直接本社より購読する者と、書店より購読する者とを問はず」(規則)とあるように、会といっても強固な会員制のもとに組織されていたわけではない。
第1回の誌友大会は、1911年3月5日、東京麹町の有楽座で開催された。
内容は、新渡戸稲造・大隈重信ほかの談話、活動写真(吉沢商会)、おとぎばなし(岸辺福雄)、お伽芝居(有楽座演劇部員)、剣舞(日比野雷風)、独楽の曲芸(松井源水)などであった。
大会の宣伝は、大規模かつ周到に準備された。東京市内の「主立っ(ママ)た学校の前の文房具店に頼んで店先に広告のビラを下げ、四日には数十人の人を雇って、『日本少年誌友大会』と赤地に白く染め抜いた幅広の襷をかけさせ、十万のビラを全市に撒いた。一日に十万のビラを撒いたことは未だ甞っ(ママ)てないとのことである」(注14)と伝えられている。当日になると、朝から日比谷・上野・九段で盛んに花火を打ち上げた。こうして、大会は非常な人気を呼び、入場整理にあたった編集記者が入場しきれない参加者多数を断るのに忍びなかったという。
当日の参加者には景品が配られた。森永太一郎からは森永の菓子2000個とムスクピール2000個、中山太陽堂からクラブ歯磨2000袋、三間印刷所・日能製版所からは絵ハガキ2500枚である。他企業とのタイアップによる読者サービスは、実業之日本社の得意とするところであった。
第2回の誌友大会は、「少女の友」誌友会と協力し、「関西合同大会」として開催された。1911年10月15日(日曜日)・17日(嘗祭)の2日間の日程で、京都(15日午後)、神戸(17日午前)、大阪(同日午後)の三ケ所で開催された。内容は「談話」(谷本富―京都帝大教授)「お伽噺」(岸辺福雄―幼年の友主筆)「お伽喜劇」「お伽芝居」(天野石川一座―有楽座演劇部)「合作冒険美談不覚の涙」(素水ほか各記者が出演)その他であった。
東京の誌友大会と同様に宣伝につとめ、大盛況であった。大阪の読者の感想に、「素水先生、誌友会は大規模で発表されましたね。記者様が五人と岸辺先生と有楽座の演劇部が来るといふので、大阪は煮え返るやうです。今まで恁んな大きな会は開かれたことがないので(ママ)す昨日本屋に行きましたら、大きな看板が出てゐました。私は其看板を見た時思はず胸が躍りました。入場券は最うなくなつたかと心配しましたが幸にまだ二三枚残つてゐました。広告郵便も見ました。学校の前のビラも見まし(ママ)たさすが素水先生の計画されるだけあつて何から何まで抜かりのないのは実に敬服しました」(注15)とある。「十八日は学校のボートレースで休みになりますので私は最うヂツとしてをられません」(注16)として、遠方から参加を希望する少年もあった。
また、あらかじめ、編集記者の宿泊の予定(日程、旅館の名と場所)を誌上(注17)に公表して、面会を求める読者にも眼配りを忘れない。
ほかに、各地方で小規模な誌友会がこまめに開催されている。
一例をあげると、1912年6月29日には、長野県で松本愛読者会を開催。少年読者(小岩井真水)の書いた「信州松本愛読者会の記」(注18)によると、松本の神道公会所に読者300人が参集した。当日は、有本芳水が出張して、挨拶と詩の朗読・講話を行っている。ほかに、講談(招屋扇橋)・唱歌(金井千里少年)・演説(信濃民報記者=野村菱堂)・詩吟(信濃民報記者=丸山梧楼)などが演じられた。
こうした小規模な誌友会にも、会則にあるとおり、可能な限り主筆または編輯長が出張している。地方在住の読者へのサービスにも、怠りがなかったのである。
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「尚交会」の発足は、「日本少年」の1911年11月号に、「素水主幹の活動 新作小説の配本」「尚交会々員を広く天下に募る」と題して、華々しく報じられた。記事の内容は次のとおりであった。
尚交会は素水主幹と最も親密な関係ある会です。これまで素水主幹は一部の読者の希望に従つて、自作の小説を廻覧に供してをりましたが、廻覧では各自の所に保存して置くことが出来ないといふので、一冊の本として発行して貰ひたいと、総ての人から申して来ます。また一般の読者からも、素水主幹の小説を発行して下さいといふ註文が沢山まゐりますので、今度会員組織にして、年に四回、新作の小説を会員に頒つことにしました。尚交会叢書は、このようにして刊行された。会員頒布という方法であらかじめ一定の販売数を確保。さらに「日本少年」誌上に新規入会者の氏名を麗々しく順次掲載し、読者の関心を煽っている。「満員の時は」云々という件もある。会員が多く集まったとしても、増刷をすれば済むはず。それをわざわざ「遺憾ながら会員たることをお断り申します」と特記した。読者の心理の機微を突いた断り書きである。
一 冒険小説怪洞の奇蹟=明年正月一日発行=怪洞の秘密は何ぞ見よ勇少年の大活躍
一 少年少女小説籬の花=明年四月上旬発行=可憐の少年薄命の少女一読紅涙珊珊
一 怪奇小説難船崎の怪=明年七月下旬発行=暗黒の海上に魔風吹き荒び怪雨降り頻る
一 少年少女小説生か死か=明年十月下旬発行=天来の奇想妙構文は火の如く花の如し
本は以上の四冊で第一冊『怪洞の奇蹟』は既に脱稿しました。何れも素水主幹の新作で、結構の面白く痛快なことは今更らいふ必要ありますまい。一冊各々百五十頁以上、装幀は川端龍子画伯の意匠になり、極めて美しい本です。定価は一冊三十五銭郵税四銭ですが、会員には左の通り割引をして配本いたします。
特別会員=四冊分として会費一円を前金でお払ひ込みになつた方
普通会員=二冊分として会費五十五銭を前金でお払ひ込みになつた方
臨時会員=一冊分として会費三十二銭を前金でお払ひ込みになつた方
この会費をお納めになれば、本の出来次第此方からお送りします。郵税は此方で負担します。お申し込みになる方は、振替貯金か為替で会費をお送り下さい。振替貯金になさる時は、郵便局へ行つて口座番号三二六番と尚交会々費であることを局員にいふのを忘れてなりません。
尚交会々員は素水主幹と最も親密なる関係あるもので、会員は尚交会々員名簿に一一記載して置くのでありますから、満員の時は遺憾ながら会員たることをお断り申します。申込期限は十二月十日までですが、一日も早くお申し込み下さい。
先生、何とまア美しい絵ハガキでありませんか。私どもは尚交会々員たるが為に、先生からあんな美しい絵ハガキを頂くかと思ふと嬉しくつてなりません。お手紙も拝見いたしました。勿論大大賛成です。私は友だちも誘つて皆会員にするつもりです。先達の『花紅葉』は非常に面白く読みました。覚治少年が母と別れて旅に出る所や、途中で怪しい人間に遭つて、それを追ひまくる所などは、息も吐くことが出来ませんでした。私はあれを二日ばかりの間に皆読んでしまひましたよ。しかし今までは、あんな面白いものを、読んでしまへば直ぐ次の人に廻はしてやらなければならなかつたのが今度は手許に一冊頂けるんですもの。こんな愉快なことはありません。会費は昨日お送りしました。このような巧みな販売戦略もあって、尚好会叢書は営業的にかなりの成功をおさめたようだ。
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素水の編集ぶりの特色のひとつは、対象とする読者の年齢を絞り込んだことである。
素水は「『難船崎の怪』に就いて」(注26)と題する一文の中で次のように回想している。
謂ゆる『少年もの』の読者を、幾つ位と見るのが本当で(ママ)しようか。これが私が『日本少年』を主宰してをつた当時、最も悩んだ問題の一つであります。総合雑誌は、とかく対象とする読者年齢が拡散しがちなものである。しかし、「日本少年」の場合は「十二三から十四五」という年齢の読者に焦点をあて、編集されていた。寄稿家にも、そうした年代に絞り込んだ原稿を期待していたという。素水自身も、同誌がライバル誌を押さえて成功したのは、ターゲットを絞り込んだことに理由の一つがあると考えていたようだ。素水は上記の引用部分に続けて、次のように記している。
女の子は総じて、少いことを誇りとし、若い上に若からんことを努める傾向があります。少なくとも、若く見られるのを苦痛としないのが、その持つて生れた性分と見ても差支なく、女学校に入つてからでも、依然として少女雑誌を愛読し、間がよければ卒業するまで少女雑誌の愛読者で押し通します。従つてその年齢は、十二三から十七八歳と見て、大過はないでせう。
ところが男の子は、子供らしく見られるのが大嫌ひで、中学へでも入らうものなら、直ちに少年雑誌を棄てゝ、分りもしないのに、青年ものを読まうといふのが、一般の気風です。従つて少年雑誌の読者は、年齢が最も短かく、十二三から十四五と見なければなりますまい。
私はかういふ考から『日本少年』を編輯したのですが、多くの作者の中には、兎もすれば程度の高いものを書いてよこすのには閉口しました。殊に冒険小説になると、その傾きが一層甚しく、立派な青年ものになつてしまふのです。『難船崎の怪』は、その点に於て細心の注意を払つたもので、ややもすれば筋の運びの面白くなるといふ場合でも、それが為に大人の領分に入る時は、強ゐて引き戻して『十四五』に止めたのです。従来の「お伽噺」が対象としていたような読者年齢とも違う、「冒険世界」や「武侠世界」などといった雑誌が対象としていた読者年齢とも違う。そういう年代の読者に明確に焦点を当てたところが、確かに素水が成功をおさめた理由の一つであったのかもしれない。
青年ものは、高級の読者からは最大の讃辞を受けますし、また実際、讃辞を寄せる位の人は、高級の読者ですがそれは、少数であつて純な少年の立場に立つたものは、無言の歓迎を受けてそれに売行きの上に表れるのです。『日本少年』が、当時少年雑誌界に覇を唱へたのも、私の冒険小説が受けたのも、さうした意味に外ならないと思ひます。
日本少年百有余の頁は、記者のものでもなければ読者のものでもない。最初の一頁から最後の一頁まで、悉く記者と読者との共有である。だから、記者は、一字一句と雖も読者といふ観念なくして筆を下すことが出来ないと共に、読者は一字一句と雖も見遁してはならぬ義務を有してゐる。このように、「記者の頁」欄の新設は、編集者たちが身辺雑記的な記事を書くことによって、読者が編集者に親近感や一体感を得られるように工夫したものであった。読者はスター編集者を身近な存在に感じることによって、自然に雑誌へ肩入れをしていくようになる。いかにも、編集者と執筆者の分離が行われていないこの時代らしい試みである。
けれども其百有余の頁のうちに、たっ(ママ)た一頁読者の共有でない頁がある。それは乃ちこの『記者の頁』で、この一頁だけは僕一人の占有であるから、如何なることを書かうとも記者の随意であると共に、読者もこの一頁に対しては、読んでも読まいでもといふ自由を持っ(ママ)てゐる。
▼草水君 病氣で鎌倉に静養してゐる。この頃髭を落し、坊主頭になつた。編集者たちのたわいもない日常を描くだけで、殆どメッセージらしきものがない。読者に何かをアピールしたいというものではなく、読者に記者の日常を知ってもらい、身近かな存在に感じてもらうということに狙いのあったことがわかるだろう。
▼月亭君 郷里から未だに帰つて来ない。噂に聞けば三越に注文して礼式用の羽織や袴を新調したさうな。
▼水裏君 何が何でも今年は避暑に行つて、大いに遊んで来ると素晴らしい勢でいつてゐる。金でも儲けたのか知ら。
▼芳水君 七月にも復郷里に帰つた。今度は行く時は一人だが来る時は二人ださうだ。一人は誰だらう―併し之は懸賞ではありませんよ。
▼峡水君 益す肥つて行く。去年あたりから痩せなければならん筈だがと、頸をひねつてゐる人があつた。
▼鼓川君 髪を伸さうとして苦心してゐる。髭は諦めをつけたらしい。まア諦めをつけたのは怜悧な仕方だね。あれぢやモノにならんから。
▼小葉君 新しく家を構へたが、女中がないと溢してゐる。
▼湘南君 下宿屋住ひの呑気な身体、ちよいちよい引つ越して歩くので有名だ。
▼白水君 女学校の先生をしてゐた時は兵隊さんといふ綽名をつけられたさうだ。
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滝沢素水の作風は、概ね次の推移を経て変遷している。
まず、少女小説の書き手として登場した。「少女の友」誌上に、少女が日常の生活の中で感じる哀しみを題材にした作品など、多数を掲載した。
一方、「日本少年」には、少年の希望や友情を題材に少年小説を寄稿した。同誌の主筆に就任してからは、こうした分野の少年小説を多作。とりわけ、親元をはなれて都会に暮らす苦学生を主人公にした作品群に人気があった。また、軍事・SF・冒険・探偵小説にも筆を染めた。やがて、こうした分野のものが主流になっていく。しかし、素水が「実業講習録」に移ってからは、いきおい作品の掲載も減少し、やがて姿を消すことになった。
そいう中で、「冒険お伽怪飛行船」(注28)は、冒険小説とお伽噺の要素を併せ持った変わり種である。怪飛行船に乗った賊が毎日のように東京に現れては爆裂弾を落としていく。力雄少年は無断で借りた飛行船に乗って、怪飛行船を追跡するが、操縦に慣れないため、空中に投げ出されてしまう。すると、大鷲がやってきて転落する力雄を高雄山の奥にさらっていく。大鷲から力雄を助けたのは、偶然、遠足に来ていた春二と秀助の二少年であった。彼らは協力して、外国人に操られた賊の一味を退治する。タイトルに〈お伽〉と付けられているように、かなり荒唐無稽なストーリーである。
素水が「日本少年」に最初に掲載した作品は「久太郎君の頓智」(注29)というお伽噺風の短編であった。これは、山奥で道に迷った少年たちがいったんは狸に化かされるが、逆に狸を騙して同類と偽り、帰り道を聞き出すというものである。こうした荒唐無稽なお伽噺の系列の延長上に、冒険小説への傾斜という要因が加わった。そこに、「怪飛行船」が成立したのであろう。
これらは、やや低学年を対象にしたもので、読者年齢を絞り込むということからは、逸脱したものと言えるかもしれない。実業之日本社では「日本少年」よりさらに低年齢むけの「小学男生」(注30)を出すが、これはもう少し後の時期のことになる。
ほかに「松原の茶屋」(注31)では、旅先で持ち金の無くなった少年が茶店で無銭飲食をするが、同席した客に代金を払ってもらう。素水はこれを通り一遍の人情ものにしなかった。まずい饅頭を大喰らいする者たちのそれぞれの思惑。それをユーモラスに描く短編に仕上げたのである。あるいは「幾治の一日」(注32)では、いたずら小僧の一日をユーモアあふれる筆致で描く。素水の作品には、こうした滑稽ものの系譜に属するものもある。
このように、素水の作品群は決して一様ではない。だが、何と言っても素水の真価が発揮されるのは、少女小説、少年小説、軍事・SF・冒険・探偵小説の分野であろう。そこで、それぞれの分野ごとに、その特徴と傾向を考察していくことにしたい。
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素水が最初に書いた少女小説は「学校友だち」で、これは「少女の友」第一巻第二号(注33)への掲載である。田舎の学校から東京の学校に転校してきた少女が、転校先でいじめを受ける。幸い親切な同級生に励まされ学期を終えることができた。次の学期になると、今度はいじめの中心になっていた少女が転校して行き、その少女から手紙が来る。内容は、自分が転校してみてあなたの気持ちが分かった。私はあなたに成績を追い越されるのを恐れてあのような行動をとったが、今は自分の行いを悔いているというものであった。手紙を読んだ少女は「お可哀さうだとも思ひ(ママ)またが、心の底の底では嬉しいよーな気もしました」と思う。物語は「その学期の成績は、前のよりもよくありませんでした」と結末がつけられる。いじめられていた少女の成績が良かったのは、彼女の意地に由来していたのである。通り一遍の教訓物語に堕せず、少女の正直な心のうちを描いた短編。佳品であった。
「醜い顔」(注34)は、美しい友だちに比して、自分の器量が良くないことを哀しむというもの。少女は自分の写真の顔のあたりへ傷をつけ、「長い間袂に顔を埋めて泣きました」という結末になっている。この短編も、また、器量の善し悪しも心の持ちようというような安易な結論に走っていない。その点を高く評価したい。
「縮緬の着物」(注35)には、それほど深刻な問題ではないけれど、いかにも少女らしい哀しみを描いている。少女は友だちと木綿の紋附を着て学校に行く約束になっている。しかし、祖母はそれを許さず、縮緬の紋附を着て行けと言う。少女は友だちにからかわれるに違いないと、暗い気持ちで登校せざるを得ない。運動会というハレの日に、孫娘が地味な着物で登校することを祖母は好まない。その気持ちは善意から出たものだが、孫娘の気持ちをまるで理解していない。母も、娘の気持ちはわかっていながら、姑に遠慮して娘の頼みを受け入れてくれない。こうして、少女の哀しみの背景には、おとなたちの思惑が絡んでいる。
素水の少女小説の殆どは、こうした傾向の作品である。
その中で、「お家騒動美登子様」(注36)は、やや異色の長編少女小説である。素水の少女小説中で最も人気を呼んだ。のちに、素水は連載中を振り返って、次のように回想している。
その頃少女の友を編輯して居つたのは水裏先生と長谷部湘雨先生=水裏先生がお父さんで湘雨先生がお母さんとすれば、私たちは叔父さんといふ格で、代る代る小説を書きました。殊に峡水先生と私とは毎号書きました。峡水先生の評判を取つたのは『光ちやん』で、私のは=ないでせうツて。それだからおテン…さんだといふんです。ありましたね、大にありましたね、『美登子さん(ママ)』といふので、何でも一年半か二年続きましたよ。(注37)このように、素水自身も、これを自分の少女小説の代表作として評価していたようだ。『怪洞の奇蹟』中に附録として収録されたことも、そうした認識のあったことを裏付ける。
▲紫(ママ)水先生の「美登子様」は余りお可哀さうなので、繰り返し読み返し、近頃にない夜更しをしました。時計がボンボンと十二時を打つ。涙にうるんだ眼で静かな室を見廻す。こんな淋しい夜、美登子様は葉山で何をしてゐらつしやるでせう。涙がまたホロホロと頬を伝はりました。(芝区愛宕下町二の四 羽田静江)投書を読むと、当時の読者がこの作品のどういうところに興味を持っていたかがわかるだろう。少女たちは〈お可哀さう〉〈お気の毒〉と、薄幸の美登子の身の上に同情し、〈涙〉を流している。悪役の叔父の評判が悪いのは当然だが、中でも叔父の手先である女中頭のお駒には非難が集中する。「「少女の友」を買つて来て、素水先生の「美登子様」はどうなつたらうと、心配しながらあけて見ますと、あのお駒があのよーなひどいことをしたので、私は可哀さうで可哀さうで、その晩はやすめませんでした」(注38)というように、彼ら悪役が憎々しげに描かれれば描かれるほど、美登子に同情が集まるのである。
▲素水先生の「美登子様」が、いよいよ葉山へいらつしやる時のお心持はどんなでございましたらう。又、帽子を眉深に顔を隠してゐた男の人は誰でせう。きつと殿様のお使だと思ひます。どうしますす(ママ)ね。(長野県東築摩郡和田村 窪田照代)
▲「美登子様」はお可哀さうに肺炎ださうですね。これももとは矢張伯父様が悪いんだわ。葉山へ行けなんて仰しやるんですもの。(栃木県佐野町江戸町 岡田ヨシ子)
▲「美登子様」は本當にお気の毒ですわ。憎らしい伯(ママ)父様。あんなに咯血しても、葉山行を延しなさらないんですもの。私、お父様にお話して、「きつと美登子様は近い中に亡くなるでせうね」といつて泣きました。(豊橋市豊橋病院内 加藤ひさ子)
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作品集『籬の花』には、「少年小説出京」(注39)「立志小説苦学生」(注40)を収録。『難船崎の怪』には「侠勇奇譚腕」(注41)を、それぞれ収録している。
このうち、「出京」と「苦学生」は独立した作品だが、登場人物や内容に継続性がある。全体として、苦学生の失敗譚になっている。
田舎の中学生であった不二雄君という少年は、志を抱き、家の者に内緒で東京に出る。東京に出てみると、当てにしていた同郷の少年が見つからない。やむをえず、某英語学校に通いながら様々な職業に就き、車夫として働く最中に路上で倒れる。この間に、同郷の友人や苦学生仲間との友情も描かれる。けれども、物語の中心はあくまでも苦学の失敗する展開にある。
ただ、あまりに悲惨な状況設定であるゆえ、収拾がつかなくなったためであろうか。かなり、中途半端な終わり方になってしまった。「苦学生」の結末部分は、次のとおりである。
『苦学生』の話は、これから縺れる。これから面白くなる。けれども不二雄君も貞三君も書いて欲しくないといふ。当人の書いて欲しくないものを書くのは罪だ。遺憾ながらこれで擱筆する。このように、リアリティーのある物語であり、それなりに興味深いものではある。けれども、せっかく盛り上がってきたところで物語を中断してしまうのだから、作品としての完成度は低いと言わざるを得ない。
如何にも人を信じて(ママ)疑はない、中谷の懍乎たる言葉に、花田は思はずハラハラと落涙しこの人こそ自分の知己である。自分の一生は中谷のために捧げようと決心した。上記の結末部分については、雑誌への初出形より単行本形の方が、少年の成功を具体的に書いている。すなわち、初出形には、「* * *」以後の部分は存在せず、単行本への収録にあたって書き加えられたのである。もともと、素水は単行本への収録にあたり、加筆・修正を加えることは殆ど行わない。その素水が、ここでは苦学生の輝かしい成功ぶりをつけ加えている。おそらくは、「出京」「苦学生」の連作の結末が中途半端になってしまったことへの反動からであろう。しかし、「* * *」以降は、言わずもがなの蛇足ではあるまいか。苦学生の成功を強調したいあまり、作品としての完成度をかえって壊してしまったのではないかと思われる。
* * *
かくて花田は中谷の骨折で無罪放免され、学校卒業の後は中谷の世話で実業界に入り、士魂商才の実業家として、実業界のきけもの利者として盛名を天下に走せるに至つた。
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「勇少年」(注46)は、最も初期の冒険小説であろう。勇少年の父は洪水を引き起こしかねない架橋工事に反対し、計画は中止された。それを恨む土工のボスが勇の家に脅迫状を送ってきたので、勇は決闘を申し込む。少年はいったん不覚をとって土工の一味に捕らえられるものの、逆転勝利を収めるというストーリーである。少年の義侠心を軸に物語が展開する。ここからわかるように、まだ、少年小説の要素を残した中間的なものであった。
やがて、素水の関心は冒険の要素を中心とした創作に移っていく。
「刃の光」(注47)は「冒険小説に学術を加味したもので、今までに例のないものである」(注48)と、予告のあった長編。剛志と健之助の二少年が、山中に出没する天狗や天女の正体を確かめに行く。その正体は、謎の女を頭に戴く一味の仕業であった。女は米国の大学を卒業して帰国した者だと自称。秘密の隠れ家から地元の人々を遠ざけるため、仕掛を凝らして怪しのものを出現させていたのである。地下の隠れ家には様々な仕掛けがあり、沼の水中に直接つながるガラス張りの部屋もある。予告にたがわず、SF的な要素に趣向を凝らした長編の冒険ものであった。
「鉄血少年」(注49)は、剛胆な少年が活躍する長編である。春雄少年は房州の親戚の家で正月を過ごしていると、海岸で船が難破した。春雄は乗船者を救うため、嵐の中を勇敢にも海に飛び込み、人々から賞賛された。そして、たまたま難破船に乗船していた渡島侯爵夫人に誘われ、連れだって東京に帰る。その途中、山中で賊に襲われた。これをきっかけに、侯爵家に恨みをもって付け狙う悪の一味と、春雄との戦いが始まる。悪の首魁が自ら変装し、侯爵家に下男として入り込んだり、別の悪の一団が絡んで事件が複雑に展開したりしていく。悪人の寺尾軍之進が春雄の従兄弟であったという意外性もあり、探偵小説風の設定が色濃く見られる長編であった。ただ、最後の場面で寺尾はいとも簡単に改心してしまう。結末の弱さは否めない。
「冒険小説水中の兇漢」(注50)は、じゅうゑ十衛少年の活躍を描く、読み切りの短編である。近所に押し入って少女を誘拐した凶悪犯を、十衛が追跡。凶悪犯は荒れ果てた屋敷内の大樹の中に姿を消す。そこに、十衛の跡をしたってきた愛犬に導かれた警官隊が駆けつけるが、どうしても入り口の仕掛がわからない。思い切って十衛が庭の池の中に飛び込んでみると、水中にガラス張りの隠れ家を発見するというストーリーである。水中に潜む悪人というSF的な発想は後述する「難船崎の怪」以来のもので、凶悪犯を追跡する過程に探偵小説の要素が色濃い佳作である。
この分野の作品には、先に述べた尚交会叢書のほか、書き下ろしの単行本に特に見るべきものが多い。のち、有本芳水や松山思水がさかんにこうした分野の単行本を書き下ろしたが、これに道をつけたといえる。
ここでは、「怪洞の奇蹟」を軸に、素水のこの分野の作品について取り上げることにしたい。この作品は尚好会叢書の第1回配本『怪洞の奇蹟』の冒頭を飾った。単行本に書き下ろしの長編と思われる。
内容は光雄と綾子の兄妹の活躍を描く誘拐ものである。綾子は先代の宝部子爵の忘れ形見である。だが、当代の子爵(先代の弟)は、密かに綾子を自分の家来に引き取らせ、家督を横領。綾子を引き取った家来は、自分の実子(末娘)ということにして育てる。この家来の長男が、光雄少年に当たる。そういう事情を知った悪人が、子爵家の財産を狙って、綾子を誘拐。綾子を助けようとする光雄たちと、二派の悪人たちが、三つ巴に入り乱れて綾子を奪い合う。光雄が綾子を救出する道具に、当時、大流行の飛行機を使用し、読者の人気を呼んだ。
素水は、作品集『怪洞の奇蹟』の冒頭に、次の自序を書いている。
少年雑誌『日本少年』の編輯をしてをる私は、多くの読者から一冊の纏つた読み物を出して下さいと屡々望まれました。実際只今のところでは、少年少女の読み物といつては月々に出る雑誌とお伽噺の本があるばかりで、その外には殆んどありません。私ども少年雑誌にたづさはつてをる者の立場として、久しい間健全な、面白い、純少年少女の読み物をほしいと望んでをりました折柄、かういふ注文を屡々受けましたので、これを世に公にすることにいたしました。自序からは、素水の狙いとするところが明確にわかるだろう。すなわち、従来のお伽噺にはない〈健全な、面白い、純少年少女の読み物〉というところに、狙いがあったのである。
▲私は学校から帰りに局へ行つて見たら、「怪洞」(ママ)の奇蹟が来て居たので、嬉さの余に家へ着かない前に中をのぞいて見たら、光雄少年が飛行機に乗つて鳩を捕へるところでした(ママ)家に帰つて読むと、面白い事面白い事。一読血湧肉躍る程で飛行機が暴風の為に落されて光雄少年が飛び下りた時などは、もしや悪漢の為に捉えられはしまいかと心配しながら読みました。本當に面白い本です。諸君是非買つて読んでみたまへ。(福島県河沼郡野沢町渡部広)これを読むと、〈一読血湧肉躍る〉〈痛快〉ところに、読者たちがこぞって興味を引かれていたことがわかるだろう。「日本少年」は素水が主筆を務めている。だから、投書がこの雑誌に掲載されるということは、こうした受け取り方が素水の意にかなっているということを意味する。
▲「怪洞の奇蹟」!!実際ふるひつきたいほど面白い。素水先生の傑作中の傑作だ。光雄が姿を変へて綾子を救ひに行つた所などは…噫「怪洞の奇蹟」!!痛快痛快。(新潟県中蒲原郡石山村菅沼久光)
▲早速読んで見ますと、少女綾子の身の上が思はれて知らず知らず涙が出ました。又附録の「美登子様」を姉や妹に読んできかせますと我が身の上の事の様に涙を流して熱心に聞いて居りました。(兵庫県城崎郡西気村北村茂)読者の感想では、〈少女綾子の身の上が思はれて知らず知らず涙が出ました〉〈ホロリホロリと涙がこぼれた〉ということが強調されている。そういう観点からすれば、この物語もまた華族のお家騒動の一種であることに違いはない。しかも、単行本として出版されるにあたり、附録として「美登子様」が収録されている。つまり、単行本全体を通じ、《華族のお家騒動》《可哀そうな少女の物語》という共通の趣向で貫かれていると言える。こうした《可哀そうな少女の物語》ということも、また、「怪洞の奇蹟」の面白さの一つなのである。
▲「怪洞の奇蹟」は、正月中惜しみ惜しみ読みました。或時は読みながらホロリホロリと涙がこぼれた位です。(福島県郡山町大町津野喜七)
私が近頃にない興味を以て書いたこの物語の中には、恐らく皆さんの想ひも設けぬここで言う〈珍らしいこと〉〈驚くべきこと〉〈怖ろしいこと〉〈勇ましいこと〉は、ストーリーの面白さよりも、題材の面白さを強調する表現である。これに関連して、芳水は「日本少年」に「怪奇小説『難船崎の怪』を読む」(注52)と題する署名入り記事を書き、この長編を次のように評している。
▼珍らしいこと
▼驚くべきこと
▼怖ろしいこと
▼勇ましいこと
が書いてあります。恁うした物語を望んでゐらつしやる少年少女諸君にお勧めいたします
素水君は今まで色色な小説を書いたけれども、海のことを描いたのは殆どない。鉄血少年の初めには難破船のことが描いてあつたけれども、それもホンの発端に過ぎなかつた。だから僕は『難船崎の怪』といふ名前を聞いた時、素水君に海のことが書けるだらうかと内内危んでゐた。上記のように、芳水が高く評価しているのは、〈破天荒の奇想〉〈意想外の人物〉という題材の面白さである。このようにして、素水の自序の内容をより具体的に、しかも作品に即して評している。
処が『難船崎の怪』を読んで驚いた。米国の理学博士が潮の差退きを利用して海底に宏壮なる居室を構へ其処を根拠地として世界の海上権を一手に握る恐るべき陰謀を企て、大仕掛の海賊を働く処が、素水君の生気ある筆に巧みに描かれてある。
海底の居室、実に破天荒の奇想ではないか。何うして斯くの如き驚くべき仕組が出来るだらう。これを読んだなら、何人でも素水君の偉大なる想像力に驚くと共に、その痛快なるに快哉を叫ばぬものはあるまい。
『難船崎の怪』は、この驚くべき恐るべき博士の陰謀を、紅顔の美少年が片つ端からブッ毀して行くのを描いたもので、鉄仮面、怪婦人など、全く意想外の人物が編中に躍つて来る。幾年人の住まはぬ城中に鉄の面を被せられた人を見出した時、少年の驚きは何んなであつたらう。一寸先も分らぬ真暗な晩に、顔色の真蒼な、髪振り乱した女に、氷のやうに冷たい手で頬を撫られた時、少年は何と思つたらう。
怪奇小説!!怪奇小説!!僕は正直に白状するが近頃にこんな面白い小説を見たことがない。素水君の小説だからといふ意味に於てでなく、最も面白い小説であるといふ意味に於て、これを我が日本少年愛読者諸君に勧める。
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素水が『怪洞の奇蹟』の自序に言う〈健全〉とは、如何なることを意味しているのだろうか。
「怪洞の奇蹟」では、綾子と光雄の兄妹は互いに相手のことを心配し、慕いあっている。綾子は華族の家に産まれ、密かに光雄の家に引き取られた。だから、血はつながっていないのだが、兄妹としての関係を微塵も崩していない。あくまでも、恋人どうしの情愛ではないというところが、〈健全〉だというのだろう。
血のつながらない兄妹というパターンは、素水の好むところで、尚交会叢書の第2回配本『籬の花』にも登場する。作品集の表題作も、また、妹が誘拐されるという長編である。
兄の金之助は子どもに恵まれなかった裕福な夫婦の養子で、妹の艶子は金之助が貰われてきた翌年に産まれた実子であった。熊吉はこの家に書生として置いてもらっているが、艶子を誘い出してわがものにしようとする。熊吉は自分の伯母にあたるお留に唆されたのであった。だが、お留は熊吉を欺き、悪人仲間の《蝮のお政》と共謀の上、誘い出した艶子を売り飛ばしてしまう。一方、心労のあまり病気になった金之助は、静養先の伊東で偶然に艶子を発見。親切な爺さんに助けられ、悪人の手から脱するまでを描いている。
素水は「血を分けた兄妹でない兄妹金之助と艶子との間に起つた縺れ合つた、情愛に富んだ事件を書いたものですが、自分が感興に乗つて書いたものだけ、よほど面白く出来てをる積りです。どうか御覧の上御批評を願ひます」(注53)と、内容の紹介をした。金之助と艶子について、両親はゆくゆくは夫婦にしても良いと考えている。そのような男女間の情愛めいた設定で読者の心をときめかせておきながら、これをあくまでも恋愛感情ではないとする。恋愛感情ということからの《逃げ》である。こういうことを子どもの読み物として〈健全〉だとしたのである。
〈健全〉であることの、もう一つの要素は、ナショナリズムである。
『痛快小説空中魔』(注54)は、大仕掛な軍事・SF冒険ものである。出版当時、現実に戦われていた第一次大戦を取り入れている。陸軍予備役の大庭将軍は、海軍予備役の速水将軍と協力。パナマ運河近辺の密林とエクアドルの遥か沖合いの孤島に、それぞれ秘密基地を建設し、来たるべき国難に備えている。ドイツは欧州戦線で九分どおり勝利し、北米合衆国はドイツ側に立って参戦。独・米連合軍は、パナマ運河を利用して太平洋方面に侵攻しようとしている。大庭将軍らは、逆に、パナマ運河を奪取して大西洋方面に侵攻する作戦を立てるというストーリーである。潜航時間が長く高速の小型潜航艇、射程四〇キロの無煙無音の大砲、全ての爆発物を爆発させてあらゆる武器を無力化するF光線といった新兵器を、敵味方が駆使する。
一難去れば一難来り、一の発明を成就すれば敵の新しい発明に裏切られる。味方の間諜あり、敵の間諜あり、我に侠骨の支那人あり、敵に花の如き独逸少女あり、我に無煙無音の爆弾あり、敵にF光線あり、剣あり、死あり、それ等が混戦状態に陥るのだから面白い。これは、素水自身が「痛快文庫第四編『空中魔』現はる」と題して著した署名入り記事で、「日本少年」(注55)に掲載された。この記事によると、ナショナリズムの貫徹が世界平和の確立と人類の黄金期に、矛盾なく繋がっていく。楽天的であり、〈健全〉な世界観である。
兎に角、いよいよ危機一発と云ふ場合に『空中魔』がそれを平定して万国条約を締結し、人類は将に黄金時代に入らんとするのです。諸君が読んで痛快を叫ぶべきを信じて疑ひませぬ。
『空中魔』! 刻下の欧洲の大戦乱に、斯くの如き結末を与へるものがあるとすれば、それは正にこの戦乱を境として来るべき新時代の象徴であるといふ事が出来よう。『空中魔』は即ちその象徴である。右は『空中魔』の自序である。いかにも第一次大戦中らしさが感じられる。日本は青島戦や南洋方面等への派遣艦隊、あるいは商船が撃沈されたようなことを除いて、殆ど戦禍を受けていない。国内では好景気に沸いていた。そういうゆとりが窺えるのである。米独同盟という予測は荒唐無稽なものであったものの、来るべき日米間の衝突をこの時点で早くも予測して描く未来戦争ものとして、児童文学史上に位置づけることができよう。
然り、欧洲の大戦乱は確かに或る時代と、次の新らしい時代との境界線(又境界戦)である。そしてその欧洲の大戦乱が表であるとすれば、本書の物語は裏である。裏から生れた『空中魔』が表と裏全体を統一すると云ふ痛快味が即ち本書の味であると、作者は自讃し度い。
欧洲大戦第二年目の冬 著者
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滝沢素水が編集者としてなした業績は、近代的な雑誌経営という意味で注目にあたいする。素水の斬新な取り組みについて、あらためて整理すると次のようになる。
1 企業メセナ(思い切った規模の文化事業)現代にも充分に通じる取り組みである。同様の手法は、有本芳水や松山思水の主筆時代にも引き継がれていった。こうした素水の取り組みが「日本少年」誌の発展の基礎を築いたのである。
2 宣伝の重視(あらゆるメディアを動員した過去に例を見ない大量の宣伝)
3 読者の組織化(顧客の掌握と確保)
4 読者の親和感の喚起(スター編集者へ身内意識を持って貰う)
5 ターゲットの絞り込み(対象とする読者年齢を絞り込む)
6 雑誌を中心に据えた総合的な事業展開(叢書の発行など)
7 読者サービスの強化(懸賞や他企業とのタイアップなど)
(1999.1.25)
【附記】
本稿は第37回日本児童文学学会研究大会(1998年10月24日、鳴門教育大学)における口頭発表が原型となっている。なお、資料の一部を上笙一郎氏から借覧した。ご好意に心より感謝したい。
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