山縣五十雄の《小公子》

―翻案「寧馨児」の意味するもの―

「翻訳と歴史」第13号 2002年7月号(2002.7 ナダ出版センター)に発表




 バーネット(Burnett,F.E.H.)の『小公子』('The Little Lord Fauntleroy' 1886)は、若松賤子によって初めてわが国に紹介されたとされている。「小公子」の連載第一回は1890(明23)年8月23日付の「女学雑誌」であった。
 しかし、同じ原作を翻案した別の作品が、賤子の「小公子」とほぼ同時期に別雑誌へ連載されていたことは、ほとんど知られていない。連載第一回は1890(明23)年8月25日付の「少年文庫」誌で、タイトルは「寧馨児」(ねいけいじ)、著者名は螽湖(しゅうこ)漁史であった。つまり、若松の「小公子」からわずか2日遅れで、もうひとつの《小公子》の連載が開始されていたことになる。
 螽湖漁史とは、山縣五十雄(1869〜1959)のことである。五十雄はいまの滋賀県水口町に生れ、東京帝大英文科を中退。はじめ、兄の山縣悌三郎が発行していた「少年園」誌の編集に携わり、のちには同誌から分離独立した「少年文庫」の実質上の編集責任者をつとめている。その後、「万朝報」英文欄担当記者を経て、京城の総督府御用新聞「ソールプレス」社長や外務省嘱託などを歴任した。
 投稿者の年齢が次第に高くなるととともに、「少年文庫」が成人むけの文芸雑誌「文庫」に発展的解消をしていったことは周知のとおりである。こうしたことからわかるように、「少年文庫」は「少年園」に比べて文芸作品を重視する編集方針をとっているところに特徴があり、そこに悌三郎と五十雄の文学観の違いが現れている。
 さて、「寧馨児」が掲載された欄は「文芸」欄で、掲載の号や頁などは次の一覧のとおりである。
第3巻第8号8月25日17〜23頁
第9号9月10日21〜26頁
第10号9月25日19〜24頁
第11号10月10日26〜35貢
第12号10月25日25〜30頁
第4巻第13号11月10日31〜38頁
第15号12月10日20〜24頁
 以上、7回の連載であるが、ちょうど主人公が祖父の伯爵に最初に対面したところで連載が中断し、完結していない。 第15号の冒頭に「第五章、初対面。(上)」とあることから、五十雄に連載を継続する意思のあったことは明らかだ。だが、どうしたわけか以後の号には作品の掲載がなく、未完に終わった理由などを記した記事も見あたらない。
 第8号掲載部分の冒頭には、著者自筆の序文がある。この序文によると、連載に先だって、予告記事(未見)が出たようだ。
 少年文庫第四号に於て、次号より西洋の有名なる少年小説を翻案し、ふた葉と題し、続々掲載すべき由約し置きつるに、我れインフルーエンザにかゝり、又地方に漫遊しなどして執筆の機会なく、遅れ遅れて遂に今日に至りぬ、破約の罪謝するに由なし。当号より掲載し始むる寧馨児は即ち是にして、ふた葉を改題したるなり。
 つまり、当初のタイトルとして「ふた葉」を予定したあと「寧馨児」(『広辞苑』によると、幼少からすぐれている人の意)に変更したのである。このように、タイトルにはかなり苦心した跡が見受けられるが、このタイトルは後の翻訳者に影響を及ぼすことはなかった。「小公子」のタイトルがすっかり定着し、以後の翻訳者もほとんどがこれにならうようになったこととは、大きな違いである。
 また、「寧馨児」は翻訳でなく、舞台と登場人物を日本に移した翻案であった。翻訳でなく翻案とした理由については、五十雄が前記の序文中で次のように記している。
我れ初めは之を訳せんと思ひしかど、それにては乾燥無味の直訳に傾きて、情思の移らざるものあれば、乃ち大胆にも我嫻はざる筆を以て翻案を試みぬ。原文如玉、訳文如瓦、骨は米国大家に成り、肉は拙劣なる我が手になる、あたら千金の駿馬の骨を、一文の価なき贅物となさんこと、銕面皮の我ながら耻かしき心地ぞする。
 「小公子」が日本の児童文学史上で高い評価を受ける理由の一つは、文体の新しさにあった。すなわち、言文一致体の採用である。これに引き替え、「寧馨児」の場合は、地の文が文語文、会話部分が口語文で書かれていた。
 五十雄が「原文如玉」として〈文章〉にこだわるとき、言文一致でなく文語を選んでいることは興味ぶかい。当時の児童文学においては、玉の如き文章に言文一致体はふさわしくないと考えられていたことがわかるからだ。
 ここでは、具体的に冒頭の一文を例に引きながら、「寧馨児」の文体の特徴について検討してみよう。
 清郎幼ければとて父が病床に就きし日より乳母の里へ預けられしが、幼心にも父のこと忘るゝ日とてはなく、十日ばかり経ちて家より迎ひの女来りし折は大喜びにて飛んで出で、乳母に抱かれて家に帰りしが、家内静寂として湿り勝なり。乳母の手より飛び下りるやうにして母の居室へ躍り込み、膝にすがりて『お父さまの病気は』と問へば、母清郎を抱き寄せ、双の眼に熱き涙を漲ぎらして、声顫はし『お父さまは神様のとこへ』と後言ひ得で啜り泣きす。
 セドリツクが清郎とされているように、登場人物の氏名はすべて日本風に改められている。そのほか、ハヴイシヤムは池上、ドリンコート侯爵は佐野伯爵というようになっている。
 佐野伯爵家の先祖は「太閤や清正と同じ時期のお人で、今からもう三四百年も前で、清正なぞと同じくらいエラかつた」という。子ども読者にもきわめてわかりやすい説明だといえる。
 また、清郎は大阪の中之島公園に近いとある横町にある小奇麗な借家で育ち、伯爵家は東京にある。つまり、イギリス貴族の居住するロンドンを東京、ニューヨークを商人の町・大阪に見立てている。この見立ても子ども読者にわかりやすいことへの配慮からだろう。
 ここで想起されるのは、巌谷小波が日本最初の本格的な創作児童文学とされる『こがね丸』を文語文で書いたという事実である。『こがね丸』は「寧馨児」の連載が中断した翌年の1月に、「少年文学」叢書の第1編として博文館から刊行された。小波は自序の中で「只管少年の読み易からんを願ふて、わざと例の言文一致も廃しつ。(中略)是却て少年には、誦し易く解し易からんか」と、文語文を採用した理由を弁じている。幼児の頃から漢文素読に馴れた当時の子ども読者たちにとって、新しい文体である言文一致体は読みにくいという判断があったものと思われる。
 作品の舞台、登場人物やさまざまな設定を子どもにわかりやすく改めても、文体には文語文を採用する。この当時とすれば、五十雄や小波による文語文の選択は常識的な判断ではある。賤子による言文一致体の選択こそ、一般の認識からすればむしろ非常識な判断であった。
 しかし、非常識であったはずの賤子の選択が、結果として時代を先どりした試みであり、世の注目を集めることになった。そのため、「寧馨児」と「小公子」の間で評価が極端に分かれたのであろう。
 それでは、「寧馨児」の文体は今日からみて価値なしと断じてよいのだろうか。
 わたしの見たところ、登場人物の会話中に方言が用いられていること。すなわち、英語を共通語、米語を大阪弁に見立てて書き分けていることに、「寧馨児」の文体上の特徴がある。これこそ、「寧馨児」が「小公子」の追随を許さない独創的な新工夫であり、そこに今日的な価値を認めることができよう。
 次に掲げるのは、乾物屋の老爺(「小公子」ではホツブス)と清郎の間の会話である。
『叔父さん、伯爵つて何に?
『伯爵といふのは位や、華族の事や。
『そう、衆議院の議長と伯爵とどちらがエライの?
『そりや議長の方がエライ、伯爵なんていふ華族は祖先のおかげて(ママ)成つて居るのや、誰でもなれる、あかんわい。 自己は華族は大嫌い、華族がこゝへ来たら追出してやる。
『叔父さんは何故そんなに華族が嫌い?
『なんでも、華族は皆嫌いや、平民をいぢめくさるさかい。
 この部分を賤子の『小公子』(1897年1月 博文館)から該当する会話部分を抜きだしてみる。
 をぢさんは、侯爵だの伯爵だのといふ人、たんと知つ(ママ)るの?
 そんな奴知つてゐてたまるものかよ、私の店へでも這入つて見るがいゝ、どうしてやるか、弱いものいぢめをする圧制貴族めらを、こゝらの明箱へなんぞ、腰をかけさせてたまるものか。
 一読してわかるとおり、「寧馨児」の乾物屋の老爺は大阪弁で、『小公子』のホツブスは共通語で話している。
 「いぢめくさるさかい」という言葉は、関西地方でもあまり品のよくないもののいい方ではある。しかし、乾物屋の老爺の言葉は、大阪人らしい権力への反感を庶民の言葉で素直に語っている。庶民階級の老爺が普通にしゃべる言葉としてはいかにもふさわしいともいえる。
 五十雄は滋賀県水口の出身であるから、関西方言を熟知していたものと思われるが、こうした方言と共通語の使い分けこそ、五十雄の並々ならぬ手腕のあらわれといえよう。
 乾物屋の老爺のほかにも、清郎の乳母・お米(『小公子』では下女・メレ)も、「坊ちやん、用かありますさかい早う帰へっておいでやす、阿母はんが待つて居やはる」というように、活き活きした大阪弁で話している。
 この部分についても、『小公子』では「坊ッちやま、お帰りなさいよ、かあさまが御用ですから」と、あたりさわりのない共通語で書かれているだけである。
 なお、乾物屋の老爺の発言は、掲載の前年にあたる1889年2月には大日本帝国憲法が発布され、掲載の年の11月には第1回帝国議会が開会されるという状況を反映している。《自由進歩主義》を自らの政治信条と公言する五十雄の面目躍如といったところであろう。
 以上のように、乳母のお米や乾物屋の老爺など庶民は地元の言葉である大阪弁で会話を交わしているが、面白いことに、清郎や清郎の母は共通語を話している。庶民の言葉は大阪弁、伯爵家に関わる人びとの言葉は共通語というように使い分けられている中で、母と子の会話部分がともにほぼ共通語なのである。
 もっとも、清郎が庶民と親しく会話をするときは、大阪弁で話す場合もある。しかし、その場合でも方言色は顕著ではない。せいぜい『いゝえ、嘘じやないの、池上さんが東京のお祖父さんのとこから来て、そう言ひましたよ、私が大きう成ッたら伯爵になるんだと。だから私は東京へ行かんならんの。』と発言する程度で、大阪弁は「とこ」「大きう」「行かんならんの」の部分である。
 これはおそらく、清郎の母の出自と関係が深いと考えられる。「此婦人元来由緒正しき家に生れながら、家の不幸に零落れて、悲しくも浮川竹に身を沈めて老母を養ひ、孝行の誉れいと高かり」云々だからである。
 貴族や由緒正しい家柄の出身者は共通語を話し、庶民は方言を話す。今日から見たその是非はともかく、共通語と方言の書き分けによって話者の身分の違いを表現しようという姿勢は徹底している。
 次に、佐野伯爵(「小公子」ではドリンコート侯爵)の言葉について考えてみよう。
『和子様は今夜は別荘に御泊りでございます。明日御連れ申そうと存じまして。
『ウン、そうか、孫はどんな奴か、母はどうでも好いが、孫はどんな奴か。馬鹿か、又下品な小僧か。
『イエ、どう致しまして。和子様はなかなか御立派で、御賢うござります。
『よしよし、それから身躰は丈夫か。
『誠に御壮健でいらせられますが、よその若様とは大分御様子が違います。
『そうだらう野卑で町人らしく、「(ママ)礼も作法も知らぬ小僧に違いない。
 このように、伯爵と家令の会話では、家令と横柄な伯爵の立場の違いが巧みに書き分けられている。比較のため、これに相当するドリンコート侯爵の言葉を「小公子」中の一節から、適宜、書き抜いてみる。
全体どんな奴だな、其小息子といふは、なに、お袋のことは聞ずとも好い、子供はどうだ?
なに、馬鹿か?たゞし、犬ッ子の様な不器用者か? 腹がアメリカだといふ処が、現然と見えて居るといふのか?
どうだ?壮健で、よく伸た方かな?
さうあらうさうあらう。米国の子供といへば、礼儀作法も知らぬ乞食めらだといふことは、いつも聞くことだ。
 「犬ッ子の様な不器用者」「腹がアメリカだ」という表現にやや違和感を感じるが、文章表現に限っていうと、五十雄と賤子の文章にとりたてて優劣は認められない。
しかし、一般の子ども読者にはイギリス貴族がアメリカ人を見下す理由があまりよくわからなかったのではないか。悌三郎はその点に配慮して、華族が町人を見下すという図式にこれを置き換えたところが、巧みだといえよう。
 続橋達雄は「『小公子』と日本児童文学」(季刊「子どもの本棚」第13号 1975年1月)で森田思軒の『小公子』への評言や式亭三馬の『浮世風呂』を例に引き、若松の「小公子」は「ホッブスたち一般民衆のことばは少し迫真力に乏しいような気がします」と評している。
 手元にある博文館版の『小公子』(第31版 1919年4月刊)には「江湖の評言」が附録として掲載されているので、この附録から思軒の評言を引用してみよう。
尤も服する所は談話ダイアログなり貞正なる淑女英爽なる童子鄙俚なる村婢万やの主人靴みがきの少年恣■{目・(隼−十)}我慢なる老侯爵給仕御者牧師佃戸声容歴々として活現せむとす流石に下等賤民の詞は女学士が常に親接せざる所なれば其甚だ勉めたるに拘はらず概して尚ほ二三分の憾を遺す者あるに似たり然れども此外は殊にヒロー小公子の詞の若きは工夫力量実に十二分といふべし
 「流石に下等賤民の詞は(略)尚ほ二三分の憾を遺す者あるに似たり」は的確な評言で、確かに賤子の翻訳はこの点に不足がある。思軒は五十雄の翻案にまったく触れてはいないが、この点で五十雄の翻案は賤子の翻訳をはるかにしのぐものがあった。
 なお、続橋は先に紹介した文の中で、「『小公子』がはじめて日本に紹介された時、それがおとな対象の小説として識者たちに受けいれられたこと、子ども読者が念頭になかったことは指摘してよいでしょう」と述べている。
 中村哲也によると、「小公子」の読者の大半は「共同体的な子育てから切り離され、活字メディアを通して育児知識を得、家庭の中で子どもを養育することのできる新興の中流層の母親たち」であり、「これらの母親たちの間で『小公子』は受容され、子どもたちへと伝えられていった」(『図説子どもの本・翻訳の歩み事典』2002年4月30日 柏書房)という。
 「小公子」が第4回めまでは「小説」欄、以降は「児籃」欄に掲載されていることから、特に連載の初期の頃について、おとなむけに書かれたという評価は正鵠を得ている。
 しかし、「寧馨児」については、明らかに子ども(小学校上級程度)を意識した雑誌「少年文庫」に掲載されている。こうしたことからみても、「寧馨児」までをも視野に入れなければ、日本における《小公子》の紹介の歴史について正確な評価をなすことのできないことは明らかだろう。



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