大衆少年雑誌の成立と展開

―明治期「小国民」から大正期「日本少年」まで―

「国文学」第46巻6号 2001年5月号(2001.5.10 学燈社)に発表



 =目次=

(1)はじめに
(2)草創期の児童雑誌
(3)大衆少年雑誌の誕生
(4)大衆少年雑誌の展開

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(1)はじめに


 日本の児童雑誌が芸術雑誌と大衆雑誌に画然と分離するのは、ほぼ「赤い鳥」の創刊(1918年7月)以降のことのように思われる。ただ、鈴木三重吉をして「俗悪」「下劣」と言わしめた大衆児童雑誌の成立は、芸術児童雑誌の成立よりやや早く、ほぼ明治末のことであった。以後、二つの系統の雑誌は殆ど相互に関係のないまま独自の道を進むことになった。ここでは、雑誌の記事内容にではなく、部数拡大のために創りだされた様々な手法やシステムに重点を置いて論述することをあらかじめお断りしておく。そして、まず、芸術雑誌と大衆雑誌に分離する以前の明治期の児童雑誌「小国民」を中心に記述を始めたい。しかるのちに、大正期に絶頂期を迎える大衆少年雑誌「日本少年」を取り上げ、明治期に開発された手法やシステムがどのように引き継がれ、展開していったのかについて考察することにする。
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(2)草創期の児童雑誌


 草創期の児童雑誌は「少年園」(1888年11月〜1895年4月)に山縣悌三郎があり、「小国民」(1889年7月〜1902年12月)に石井研堂があるように、確固たる理念をもった主宰者があった。「少年園」の場合は編集者が経営者をも兼ねていたし、「小国民」の場合は経営者が雑誌の内容に口出しすることは一切なかったという。
 「小国民」の創刊当初の発行人は高橋省三であった。木村小舟の『少年文学史 明治篇』上巻(1942年7月10日 童話春秋社)によると、岐阜県の出身で一時期は少年園(「少年園」誌の発行元)の営業部に勤務したことがあったらしいが独立して出版社・学齢館を興した。また、ごく初期の号から石井研堂が実質上の主筆の任にあったようである。
 「小国民」は概ね小学生(当時は4年制)を読者対象に想定した総合児童雑誌で、これまで他誌が対象としたことのない年齢層であった。創刊号(1889年7月10日付)は初版2,500部を売り尽して直ちに再版を出した。第1年第4号(1889年10月10日付)には「今や巳(ママ)に八千余部を刷り出すほどの勢に相成候に付」云々、第3年第1号(1891年1月3日付)の「館告」には「小国民は、すでに、小学雑誌の王位を棄て日本諸雑誌の王位を占むるに至れり」云々、第3年第2号(同年1月18日付)には「今は三万に埀とする」云々、第4年第18号(1892年9月18日付)には「十万余部」という記述まである。宣伝のため誇張のあることは割り引くにしても、当時としては驚異的な発行部数である。後年、研堂が回想(『「小国民」綜覧』1941年10月21日)するところによれば、この雑誌の最盛期は日清戦争中で、発行部数は15,000部であったという。このあたりが平均的な実売部数だろうか。かくして、児童雑誌の大量発行時代の幕が切って落とされた。
 「小国民」は、最先端の印刷技術を取り入れながら、他誌に例を見ない大量の口絵・挿画・図版を掲載して、費用を惜しまなかったところに特徴があった。第2年第8号から西洋木口版の技術を導入、第3年第15号(1891年8月3日付)には早くも写真銅版(網目版)の技術を導入している。写真銅版を雑誌に導入する試みとしては、これが我が国最初の例であったという。また、多色刷りの口絵を毎号掲載したことも当時としては思い切った試みであった。中でも、第2年第24号(1890年12月3日付)は気球乗りに取材した「風船乗実况図」(小林清親・画)である。後年、研堂は『増補:改訂|明治事物起原』下巻(1944年12月28日 春陽堂)に「明治二十三年、英人スペンサー氏、横浜にて風船乗を興行し、十一月十二日、東京に上りて天覧に供し、同二十四日、上野博物館内の広場にて興行し、縦覧せしむ、索つきのまゝよく上昇の目的を達せり。」と、感慨をこめて記述している。それもそのはずで、「小国民」の記事「風船乗実見の記」によると、好奇心旺盛な研堂は画家の小林清親を伴ってスペンサーの興行を見物に行っている。今日ならカメラマンを伴って取材に出かけるところを、報道写真のかわりに清親に口絵を依頼したのである。しかも、雑誌の発行の日付は興行の行われた日からわずか9日めにあたる。さらに、「小国民」のこの口絵には二種類の異なる絵柄の版が現存している。おそらく、最初の口絵が気に入らなかったため、何かのおりに刷り直しをしたものであろう。話題性のある報道記事にビジュアルな口絵をつけて速報に心がけ、しかも一流の画家を起用した口絵を刷り直すことまでしている。こうしたこだわりぶりこそ、まさに研堂の真骨頂であった。
 また、1891年10月28日、社主・高橋省三の出身地でもある岐阜県・愛知県一帯に大地震が発生。全壊焼失142,000戸、死者7,200人と伝えられている。「少年園」も、この年の11月3日号を皮切りに、地震関係の記事を掲載した。12月18日号には、投稿作文の課題に「震災地の人に贈る文」を出すなど、積極的にこの震災について取り上げている。しかし、「小国民」の場合はさらに進んで、広く読者から義援金を募る企画を立てている。同年10月5日号に「特別館告」を掲載して、「岐阜愛知両県下の、罹災小学校新築費用」として「一ト口金五銭以上」の寄附を呼びかけ、総額で200円を集めたという。少額の義捐金をいちいち記帳し管理する手数は容易なことではないが、こうした手数にかかる費用は総て学齢館が負担。全く営利を離れ、児童書出版社が取り組んだ最初の本格的な社会事業であった。同時に、義捐金の目的は小学校再建の費用を喜捨することを通じて「教育勅語の聖旨を奉体する微志をつくす」(前掲「特別館告」)ことにあったことを忘れてはなるまい。地震の前年に発布された教育勅語の精神を体験的に学ぶことが企図されていた。適宜な義捐活動は同誌の信用を高めることにもなったのである。
 なお、第7年第1号(1895年1月1日付)に掲載した記事「海軍の信号」が軍機に触れるとして告発された。記事の内容が手旗信号を紹介していたためである。これについては、裁判中に戦争が終結し法令自体が廃止されたので事なきを得たものの、さらに追い打ちをかけるように、この年の第7年第18号(1895年9月15日付)に至って発行・発売禁止の処分を受けた。その理由は「嗚呼露国」と題する記事がいわゆる三国干渉に論及して当局の怒りを招いたためと言われる。この処分を機に、誌名を「少国民」に変更して改題第1号(1895年11月10日付)を刊行。だが、経営不振から翌年には経営権が北隆館に譲り渡されている。
 「幼年雑誌」(1891年1月〜1894年12月)は殆ど唯一「小国民」に対抗しうる雑誌であった。だが、版元の博文館は大資本を背景とする総合出版社であったものの、「小国民」との競争には意外に苦戦をしている。わずかに巌谷小波のお伽噺が好評であったとはいえ、博文館に関係の深い木村小舟をして「内容外観共に遥かに『小国民』の優れることは否み難い」(『少年文学史 明治篇』)と言わしめるほどであった。それは博文館が発行する雑誌の種類があまりにも多く、間口を拡げすぎたからである。そこで、博文館ではおりからの日清戦争の戦勝気運にのって、従来発行していた20数種の雑誌を「太陽」と「少年世界」の二大雑誌に整理・統合することにした。かくして、「少年世界」(1895年1月〜1933年1月)は、「日本之少年」「幼年雑誌」「学生筆戦場」「婦女雑誌」のほか「少年文学」「幼年玉手函」の二つの叢書を統合し、「日出新聞」(のち「京都新聞」)の小説記者をしていた小波を主筆に迎えて誕生したのである。創刊号から小波のお伽噺や江見水蔭の冒険小説を始め、各種の論説・史伝・科学などを毎号掲載。さしもの「小国民」も新興の「少年世界」に圧倒された。小波の主筆時代は以後22年間も続くことになる。このように、この頃の児童雑誌の編集者はその雑誌の主要な寄稿家でもあり、スター編集記者が自ら執筆する創作やその他の記事が雑誌の売り上げを左右した時代であった。同時に、「少年世界」の登場は、確固たる理念をもった主宰者による雑誌の経営から商業主義に基づく雑誌の経営へと、時代の趨勢が転換していったことを意味している。こうした児童雑誌の新しい経営形態の確立こそ、大衆児童雑誌の成立のために欠かせない条件であった。
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(3)大衆少年雑誌の誕生


 実業之日本社から刊行されていた「日本少年」(1906年1月〜1938年10月)こそ、大資本を背景にした商業主義に基づく新しい経営形態の申し子であり、かつ、その劈頭を飾るにふさわしい大衆少年雑誌であった。
 「日本少年」の発展の歴史を創刊時から概観すると、初代主筆の星野水裏・第二代主筆の石塚月亭の時代は強力なライバル誌「少年世界」と競いあった草創期、第三代主筆の滝沢素水の時代が大衆少年雑誌としてのスタイルを確立した躍進の時代、第四代主筆の有本芳水・第五代主筆の松山思水の頃が絶頂期であった。まず、素水が主筆になってから、「日本少年」の誌面は少年小説・冒険小説や冒険もののノンフィクション・伝記ものが中心の構成に変化し、著しく売り上げを増している。素水が最初に迎えた正月号にあたる1911年の1月号は初版12万部を発行し、たちまち売り切れた。翌年の1月号には15万部にまで達した。さらに、翌年の1913年1月号は、芳水が素水から主筆を引き継いだ最初の号で、発行部数は25万部にのぼったという。1919年1月号は芳水が主筆として編集に携わった最後の年の正月号で、35万部を売り尽くしている。
 加藤謙一の『少年倶楽部時代』(1968年9月28日 講談社)によると、対する大日本雄弁会講談社の「少年倶楽部」(1914年11月〜1962年12月)は1921年1月号で6万部、翌年1月号が8万部。1924年1月号は飛躍的に増大したものの30万部にすぎない。
 もっとも、新年号というものは通常号よりかなり多く発行されるのが普通である。思水が主筆に就任した際の「御挨拶」に「愛読者十五万」云々という記述があるので、このあたりが通常号の実数だろうか。ただ、この当時の児童雑誌は大勢の子どもたちの間で回し読みされるのが普通であったから、通常号で15万部売れていたといっても実際の影響力はそれを遥かに凌ぐものがあったはずである。かくして、ライバル誌の「少年世界」を圧倒し、後発の「少年倶楽部」をまったく寄せつけない健闘ぶりで、明治末から大正中頃にかけて児童雑誌の世界を席巻したのである。
 このように、脅威的な発行部数の増大を成し遂げた要因は何か。それは読者の興味関心をひく魅力的な読物や記事による誌面構成もさることながら、巧みな大量宣伝、イベントや読者組織を通じた読者の動員、誌面を中心にした多角的な事業展開などにあった。そして、こういった手法は大衆児童雑誌の基本的な戦略として、その後も長く引き継がれていくことになる。その取り組みについて、具体的に見てみよう。
 まず、〈日本少年誌友会〉という名で、読者の組織化を図っていることに注目したい。大隈重信を総裁、新渡戸稲造を副総裁、各界の名士を賛助員に戴いたこの会の目的は、「毎年一回乃至数回東京及び其他の都市に順次誌友大会を開き、随時随所に誌友会を催すこと」「子弟の教育に就いて常に当局者と連絡を保ち、諸種の研究を為すこと」ほかと、会則に定めがある。第1回の誌友大会は、1911年3月5日、東京麹町の有楽座で開催。新渡戸稲造・大隈重信ほかの談話、活動写真(吉沢商会)、おとぎばなし(岸辺福雄)、お伽芝居(有楽座演劇部員)、剣舞(日比野雷風)、独楽の曲芸(松井源水)などといった内容であった。しかも、大会の宣伝は大規模かつ周到に準備された。東京市内の主立った学校の前の文房具店に頼んで店先に広告のビラを下げ、4日には1日のうちに10万枚というかつて無い大量のビラを全市に撒き、当日は朝から日比谷・上野・九段で盛んに花火を打ち上げるという徹底ぶりであった。また、森永太一郎から森永の菓子2,000個とムスクピール2,000個、中山太陽堂からクラブ歯磨2,000袋、三間印刷所・日能製版所から絵ハガキ2,500枚の提供を受けて参加者に配布し、他種企業とのタイアップによる読者サービスを行っている。さらに、この年の10月には「少女の友」誌友会と協力して「関西合同大会」を京都(15日午後)、神戸(17日午前)、大阪(17日午後)で開催したほか、全国の地方都市でも小規模な誌友会がこまめに開催されている。
 「日本少年」の1911年11月号には「素水主幹の活動 新作小説の配本」「尚交会々員を広く天下に募る」という見出しで、「尚交会」の発足が華々しく報じられた。これは一定の会費を払い込むと会員として登録され、新規入会者の名前は「日本少年」誌上に順次麗々しく掲載される。そして、会員には素水の新作の冒険小説が年に4回配本されるという割引頒布システムである。こうした巧みな販売戦略もあって、「尚好会叢書」は営業的にかなりの成功をおさめたようだ。
 1912年には社費1万円を投じて実業之日本社の創業15周年記念事業〈全国小学校成績品展覧会〉を開催し、内外にその隆盛ぶりを見せつけている。素水はこの展覧会の発頭人として中心的な役割を果たし、月亭が実務を取り仕切った。社史『実業之日本社七十年史』によれば、「会場は上野公園竹の台(現在の東京都美術館の場所)にあった元商品陳列館を当て、全国各地から約1,300の小学校を選んでその児童生徒の図画、工作、作文、習字、裁縫等約十二万点を陳列した」という。総裁に大隈重信、協議員には吉岡郷甫ほか文部省の学務局長・視学官クラス多数、賛助員に芳賀矢一・新渡戸稲造・尾崎行雄を始め東京・広島の両高等師範学校校長、東京・奈良の両女子高等師範学校校長ほかを擁した。会期は5月25日から6月13日までの予定であったものを6月18日までに延長。一日あたりの一般入場者3,000人、団体入場者3,000人、会期を通じて160,000人の入場者があり、皇太子をはじめとする皇族や乃木大将ほか高位高官の来場もあった。入場料は一人につき5銭をとったが小学校児童の団体は無料。この種の展覧会としては最初の試みではないが、民間の一出版社が企画・実施した社会事業である上、これほどの規模のものは公的なものを含めて過去に例がない。
 各種の企画には誌面を有効に活用し、読者の関心を引きつけることに腐心した。例えば、1913年12月号の「日本探検競争信濃飛騨国境探検記」では編集記者からなる《探検隊》を組織し、その《探検》の様子を面白おかしく報告する。探検先はあらかじめ読者から公募しておき、その中から最高点を占めた案を採用する企画で、この計画は5,316票を集めたものであったという。行程は、信州松本から徒歩で出発し、白骨温泉に一泊。阿房峠を経て飛騨高山に至るというもの。実際には《探検》というほどでもないが、今日のように道路が整備されていない時代であるから、人夫を雇って峻険な道を行く、かなり本格的な登山行であった。さらに、出発地の松本と目的地の高山では、地元の読者との間で読者会を開催。地方の読者へのサービスにも怠りがない。また、1918年9月号の「富士登山競争 富士登山記」は、芳水と思水が富士山登山の競争をする記事である。この企画は、芳水が御殿場口から、思水が吉田口から、同時刻に登山を開始。山頂を経て、決勝点の浅間神社奥宮前の郵便局で、スタンプを押して貰うまでの早さを競うというもの。読者は、この競争の勝者と敗者の氏名、それぞれの所用時間を予想し、あらかじめ郵便で投票しておく。実に応募総数2116,751通のうちから、一等から三等までの当選者1,000名を選んだという。ほかに、第一次大戦によって生じた空前の好景気を背景に、某成金が計画した虎狩に思水が朝鮮半島の奥地まで同行する「虎狩の記」(1918年1月〜2月号)など、この種の冒険企画ものを盛んに実施している。
 このように斬新で多様な企画を次々と打ち出した結果、「他誌に見られぬ特色として、編集者と読者との特別に親密な精神的結びつきがあった」(『実業之日本社七十年史』)というまでの関係を読者との間に築くことに成功し、「日本少年」の黄金期を築いていったのである。
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(4)大衆少年雑誌の展開


 「小国民」は多色刷の口絵を売り物にしたが、「日本少年」もこの路線を継承したばかりでなく表紙についても多色刷とした。のちには本文記事中の挿画まで多色刷にすることを試みている。川端龍子、竹久夢二、佐々木林風、細木原青起、池部釣などの一流画家を起用したほか、創刊20周年めにあたる1926年には当時絶大な人気のあった高畠華宵を「少年倶楽部」から引き抜いて専属契約を結ぶことにした。その結果、「少年倶楽部」はたちまち売り上げが激減し、一時的に苦境に立たされた。いわゆる華宵事件である。しかし、「少年倶楽部」ではこの苦境を逆手にとり、誌面構成を読物に重点を置く方向に切り替えて、新人作家や子どもむけの読物に手を染めていなかった作家たちを発掘・起用することに努めて成功した。この事件こそ、口絵や挿画を売り物に部数の伸長をはかる「小国民」以来長く続いたシステムが敗北したことを意味している。
 また、有本芳水は滝沢素水主筆の下で編輯長を務め、松山思水は芳水主筆の下で編輯長を務めている。主筆とは今日でいう編集長、編輯長とは編集次長にあたり、当時の実業之日本社では専任の編集記者はこの二人だけで、ヒラの編集記者は他誌の主筆や編輯長が兼任するというシステムであった。歴代の主筆・編輯長のコンビの中でも、芳水主筆・思水編輯長の時代こそ、芳水・思水と並び称されて子ども読者の絶大な人気を集め、最も輝いた時期であった。しかし、その後、芳水は実業之日本社の看板雑誌「実業之日本」の主筆に転じるとともに、子どもむけの創作から遠ざかっていく。少年詩などを「日本少年」に寄稿することは断続的に続けるが、再び本格的に筆を執ることはなかった。ある時期に子どもむけの創作を多く書いて作家としての才能を開花させながら、出版社内の移動によってその分野から遠ざかってしまう現象は、スター編集記者が雑誌の主要な執筆者を兼ねる古いシステムの抱える矛盾である。他方、思水は「日本少年」主筆から「小学男性」主筆に転じ、さらに「日本少年」主筆に返り咲いた。実業之日本社を去ってからは「子供の科学」の編輯長に迎えられ、子どもむけの創作との関わりを続けることができた。二人は個人的な親交は続けるものの、進む道を分かったのである。こうして、芳水・思水は古いシステムの最後を飾るスター編集記者となった。一方、ライバル誌の「少年倶楽部」は編集者と執筆者の分業制というシステムに特徴があった。これは従来に見られない画期的な新システムであり、このシステムの前に「日本少年」は敗北。思水が社内移動で主筆の座を去ってからは、はかばかしいスター編集記者を擁立することができず、「日本少年」の凋落傾向に歯止めががかからなくなっていく。
 こうして、少年雑誌界の覇者が、旧来のシステムにとらわれていた「日本少年」から、新しいシステムを大胆に採用した「少年倶楽部」に交代していくことは必然であった。



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