阿武天風の軍事冒険小説

―日米未来戦の系譜を中心に―

「国際児童文学館紀要」第10号(1995.3.31 大阪国際児童文学館)に発表


 =目次=

(1)はじめに
(2)天風の経歴について
(3)日米未来戦の系譜
(4)天風と潜航艇
(5)天風と飛行機
(6)「太陽は勝てり」と「日米大決戦」
(7)終わりに
※ 

(1)はじめに


 阿武天風(あぶてんぷう)は、押川春浪が才能を見出し育てた作家・雑誌編集者である。春浪が博文館を去ってからは「冒険世界」を引き継ぎ、主筆を務めた。作家としての業績には、軍事冒険小説・SF小説・探偵小説のほか、海軍軍人の生活に取材したノンフィクション作品などがある。当初は博文館の「冒険世界」「中学世界」「少年世界」ほか、晩年は講談社の「少年倶楽部」「少女倶楽部」「幼年倶楽部」ほかに多く執筆した。単行本には『海上生活譚』(注1)『海上:生活|怒涛譚』(注2)『武侠:小説|怪潜行艇』(注3)『武侠:小説|仮面団体』(注4)がある。膨大な著作を遺しながら、これまで本格的な研究対象とされたことはない。
 天風は軍事冒険小説やSF小説の先駆者の一人に数えられている。だが、従来の評論・研究の類では直感的に、あるいは印象風にそのように語られるにすぎない。どのような点が先駆的であるのかを実証的に明らかにしなければ、研究の名に値しないだろう。そこで、天風の作品のうち、日米未来戦を題材とする作品の系譜を中心に取り上げて論じることにしたい。
 日米未来戦は、明治末から昭和前期にかけて、大衆的児童文学において繰り返し書き継がれた題材の一つであった。児童文学の分野において、初めてこの題材を本格的な作品に著した作家は宮崎一雨だとされている。一雨が最も活躍した大正末から昭和初めは、軍縮・平和主義が叫ばれた時代である。にもかかわらず、この時期にも日米未来戦を題材とした作品がとぎれることはなかった。やがて軍国主義的な風潮が高まるにつれて、平田晋策らの作品が人気を集め、これらの作品は当時の子どもたちの思想形成にきわめて大きな影響を与えることになる。本稿は、天風の子ども向け未来戦ものを、宮崎一雨と平田晋策らの未来戦ものとの中間に位置づける試みである。
 なお、天風に関する主たる参考文献には、『[天狗倶楽部]快傑伝』(注5)がある。これは春浪が主宰する〈天狗倶楽部〉の主要メンバーの列伝である。本稿もこれに負うところが少なからずあった。ただ、学術論文ではなく一般むけの著作であるため、典拠や引用文献の書誌を明確にしておらず、引用にあたっても原文の表記を改めている。

(2)天風の経歴について


 天風は、海軍兵学校出身の予備役少尉であった。日本海海戦では巡洋艦千代田のマスト上で着弾観測の任を務め、海戦を見渡せる配置に就いていたという。作家・雑誌編集者としては、異色の経歴の持ち主であろう。こうした経歴と文学上の業績は切り離し難い関係にあるので、まず、天風の経歴から記述を始めることにしたい。
 天風の経歴について最も基本的かつ重要な資料は、『海上生活譚』の「序」である。筆者の河岡潮風は博文館の社員で、春浪の下に「冒険世界」の編集を担当していた。今日では稀覯本に属するので、次に主要部分を書き抜いておく。
今軟弱文士共の面あてにその生ひ立ちを語れば、天風君、本名は信一。長門国阿武郡三見村の人憚(ママ)り乍ら幼にして神童でも何でもなし。父君は平十郎。本年八十にして尚ほ健。村内の名望家にして、郵便制度創始以来の郵便局長にて、正八位である。母君は米子。年歯正に七十よく働き、よく年少者を憫むと云ふ。この二人の間に生れたる同君、豈健ならざらんとするも得べけんやで、明治十五年九月八日、白水山下に呱々の声をあげてより今に至るまで、一度左脚を侵された外は、病気らしき病気に囚はれなかつた(ママ)四万石の小大名の後裔に似もつかぬ蛮骨漢で、やゝ長じて村の小学校で餓鬼大将を気取り、戦ごつこして糞壷へ落ち、黄金仏となり、先生の鼻をつまゝしたる事ありと云ふ。
 中学は私立萩学校。腕白加減は益々つのり、ストライキの名人。袋叩きの主称者。エスケープの親玉。教場で午前九時ごろ―而かも講義中、昼の弁当を食ひし事もあり。脱柵して竹薮で食事して一週間留置処分に処せられし事もあり。
 当時好きな学課は英語と国語。嫌ひで、且つカラツペタなるは数学。父君の菜園を手伝はされて、未来のアドミラルが肥桶をかついだ事は大なる不平であつたさうだ。
 三十四年中学を卒へ、その冬海軍兵学校に進み(注6)、数学と物理に膏をしぼられつゝ三年を送る。シカシ此の生活は自由にして愉快なりし由。候補生に頭を突込んだ時はあたかも日露の戈を交へつゝあるの春也。脾肉を嘆じつゝ韓崎丸にて実地練習を積み、三十八年一月軍艦千代田(注7)乗組となる。艦長は東伏見宮依仁親王殿下にて、その御指揮のもとに、朝鮮海峡の警備、日本海大海戦。樺太攻撃などに参加し、後扶桑(注8)に転じたが、海上勤務の為め左脚に病を獲て三十九年二月退職。同時に扶桑も廃艦となりし也。かくて四十年八月予備役に編入された。尤もそれは肉体だけの事。心はつねに現役以上に働いて、海を恋し軍艦を愛するの熱情は、世の若者をして一人にても多く、此の海軍思想を抱かしめんと、釼を捨てゝより以後専らペンを執る身となつたのである。現に雑誌冒険世界、中学世界などにその本名の外、『髭の少尉』なる匿名で痛快無比なる文章を草した。一片耿々の志、天下を憂ふるものあるにより、その作物自ら凛然として生気を帯び、ヘツポコ文士輩が、遊蕩費を得んが為めに、徹夜して、なぐり書きせし、小説類とは自ら撰を異にす。
 天風は山口県下の素封家に生まれている。天風の「抱腹絶倒:天風漁史|露探嫌疑物語」によれば、姓の〈阿武〉は〈あんの〉と読むのが正しい。だが、少なくとも東京に居を定めてからは、一般には〈あぶ〉と読まれていたようである。作者名のルビが〈あんの〉とある記載は、今のところ一例しか確認できない。引用資料中の〈四万石の小大名の後裔〉云々は、阿武家の祖先が中世の阿武郡一帯の領主であったというほどの意味である。なお、故郷の阿武郡三見(さんみ)村は後に萩市に編入され、阿武家の家督は天風の兄が相続したはずである。
 1907年の春、天風は押川春浪と運命的な出会いをしたようである。潮風の「序」によると、当時の天風は脚疾のため既に海軍を退職していたことになるが、正しくは休職中の身であった。天風が「冒険世界」や「中学世界」に執筆するようになったのは、おそらく春浪の勧めによってであろう。後年、天風は「同人に加はるの辞」の中でこの頃を回想し、「私は去る明治四十年春、先覚故押川春浪君が一見の知己に感激し、剣を抛つて同君の獅子吼(ししく)に呼応し、日夕至密の交友に純正なる人格の暗示的感化を享け」たと述べている。
 春浪が博文館首脳陣との意見対立から「冒険世界」主筆の職を辞した直後、天風は博文館へ入社している。『博文館五十年史』(注11)には、明治44(1911)年の項に「十月三十日「冒険世界」主任押川春浪氏辞職し、翌三十一日阿武信一(天風)氏が入館した」と記録がある。春浪は博文館を辞すと自ら武侠世界社を興したので、主要な寄稿家は「武侠世界」に移っている。そのため「冒険世界」は誌勢がふるわないが、それでも天風は6年近く孤塁を守り続けた。
 春浪と天風との交友関係には格別なものがあった。その例を「冒険世界」主筆の交代の経緯に見てみよう。博文館を去るに際して春浪は「告別之辞」(注12)で、「唯だ此際に於ても意を安んじ得るは、余の信友阿武天風君が、今後余に代つて本誌を主宰せらるゝ事なり。阿武君は硬骨気節の士、本誌の活力愈よ加はるを信じて疑はず」云々と記している。これに応じて天風は「春浪先生を送る」(注13)で、「顧みるに冒険世界が先生の手に依りて呱々の声を挙ぐるや、余先生の召に応じて、外間より之を扶養するの責に任ぜり。爾来年を経るに従がひ、誌運隆々として昂り、先生の所期漸く実現されんとする秋に当りて、突如、先生涙を揮つて此最愛の冒険世界を去り了んぬ」云々と決意を述べた。「冒険世界」は春浪が育てあげた雑誌であり、春浪としても後髪を引かれる思いがあったに違いない。その「冒険世界」を託すに足る人物として、天風は春浪から全幅の信頼を受けていたことがわかる。
 春浪亡きあと武侠世界社を引き継いだ針重敬喜(はりしげけいき)は、「阿武天風君を送る 特派員としてシベリアに」(注14)で、次のように記している。
春浪さんが博文館を去つて、武侠世界を創立する時、君も亦其傘下に加はつて活動す可き事は皆人の予期した所であつた、しかも君は春浪さんの遺した冒険世界を引受けて武侠世界の方には来なかつた、其時僕等門外漢は(僕はまだ武侠世界社に入社して居なかつた)君の態度に対して非常なる反感を有つて居つた、或時は君を不徳漢と罵つた事もあつた。併し君はそれに対して殆んど一言の弁解もしなかつた。[中略]
 君は嘗て僕に斯う云つた『冒険世界をやつたのは一に押川春浪君の命令推選(ママ)によるのだ、お前が是非やれと云ふからやつたのだ』と、君の武侠世界に来ないで冒険世界をやつて居たのも、僕が武侠世界を春浪さんの魂だとして受け継いだのも一に春浪さんの意志にあつたのだ、其点に於て君と僕とは春浪さんの跡嗣ぎと云つても差支ない、只君は表面同じ商売をやつて居るので春浪さんに対して他より反逆者の如く取扱はれ、僕は恰も順当の後継者となつたやうな位置を占めた相違があるばかりだ。
 このように、春浪が博文館を去った当初、天風は仲間うちから相当な非難を浴びたようである。しかし、もともと「冒険世界」主筆の座は春浪自身が天風に託したものであるし、主筆交代後も天風は春浪との共著を上梓している。天風と春浪の交友は、春浪が世を去るまで変ることなく続いたのであった。やがて、仲間うちの誤解もとけている。
 ところで、天風の別名が〈髭の少尉〉であることは従来から広く知られているが、天風にはこのほか多くの別名がある。〈阿武激浪庵〉〈虎髯大尉〉〈黒面中尉〉〈黒面魔人〉などである。中でも、〈虎髯大尉〉については、これまでSF小説・探偵小説などの開拓者、とりわけ初期のドイルの翻訳・紹介者として名前を挙げられながら、天風と別人として扱われることが多かった。別人扱いをされても、それぞれがこの時期を代表する作家の一人とされるほど、天風の業績は大きい。なお、これらの別名は、初出誌の「冒険世界」や「中学世界」と、阿武天風の名義の短編集『海上生活譚』『海上:生活|怒涛譚』を対照することなどによって、比較的容易に判明する。従来は、初出と単行本の照合などを怠ってきたため、未詳とされてきたにすぎない。
 〈虎髯大尉〉は〈こぜんたいい〉と読むべきであろう。もともと、これは春浪の『海島冒:険奇譚|海底軍艦』(注15)中に登場するニックネームで、この人物は本名を〈轟(とどろき)鉄夫〉と言う雄風堂々たる海軍士官である。この由来は、いかにも、春浪の強い影響を受けた天風らしい。なお、〈虎髯〉は同書のルビから〈こぜん〉と読むことがわかる。また、「冒険世界」には〈虎髯将軍〉というニックネームが散見されるが、これは吉岡信敬(しんけい)という早稲田の名物学生のことで、天風とは別人である。だが、同誌中には〈虎髯将軍〉に〈こぜん〉とルビがあるので、〈虎髯〉の読みに関するもう一つの根拠になる。ただ、〈虎髯大尉〉の名前は、天風以外にも河岡潮風が用いていることが確実である。その根拠は、潮風の著書『冒険:壮遊|五洲怪奇譚』(注16)中に、虎髯大尉の名義で「冒険世界」に掲載された作品が収録されていることである。そういえば、〈黒面中尉〉名の作品などには、天風らしからぬ題材のものがあり、天風周辺の人物の筆名については不可解なことが多い。
 天風が博文館を退社するのは1917年の事である。『博文館五十年史』によると「今年は博文館創業第三十周年に際し、館主は博文館経営の任を副館主大橋進一氏に委ね、同時に編輯局に一大陶(ママ)汰を行ふて面目を一新した。即ち五月二十八日先づ坪谷善四郎の編輯部長を転じて、新たに設けたる総務部長とし、管理部に勤務せしめ、更に六月一日に至り、多数主要記者の更迭を行つた」という。要するに、「冒険世界」の不振を理由に博文館を馘首されたようである。
 博文館退社後の天風は、春浪亡き後の武侠世界社に参加した。この時、天風は「同人に加はるの辞」(注17)を寄せて、「私が冒険世界を去るといふことは、故押川君との間に潜在する深い宿命的の因縁から落離したやうにも思はれて、無限の痛感に虐まれつゝあつたのでございますが、測らざりき、武侠世界社の懇切なる勧請を受け、故押川君の遺されました武侠主義の大旆(はい)下に馳せ参ずることができるやうになりました」と記している。
 しかし、天風の「武侠世界」時代は長くない。針重敬喜の「阿武天風君を送る 特派員としてシベリアに」によると、天風は1918年の暮にシベリアへ旅立っている。針重は「然るに今度君はシベリアに行く事になつた、勿論君の仕事は我々の常に壮なりとして居つた所のもの、平素の主張をシベリアの野に於いて実行せんとする所のものであるから、君の行を旺にする事に於ては僕人後に落ちるものではない、が併し机を並べて居た我々には如何にも名残り惜しい事である」云々と記している。なお、この時期はシベリア出兵(1918年8月〜22年10月)のただ中である。見出しには〈特派員〉とあるが、何等かの政治的な志を立てて武侠世界社を去ったようだ。翌1919年の武侠世界社の「同人並に社友」(注18)中に、天風の名はない。
 大陸へ渡ってからの天風の業績には、不明なことが多い。この空白を埋める資料としては、「朝日新聞」(東京版)の死亡記事がある。これは1928年6月22日付夕刊に「阿武天風氏死去」というタイトルで掲載されている。次に全文を引用紹介しておく。
予て持病のため青山南町倉上(くらかみ)病院に加療中の元冒険世界主筆阿武天風氏は二十二日午前零時遂に死去した行年四十七歳
氏は海軍候補生として日本海大海戦に参加し少尉に任官後脚疾のため軍務を退き故押川春浪氏と冒険世界を創刊し数年後志を大陸にいだき大正七年来ハルピンに西伯利新聞を経営して満蒙地方を雄飛中であつたが不幸病を得昨秋帰京遂に起たざるに至つた
告別式は二十三日午後三時から四時まで大森町不入斗九二八自宅で営むはず
 上記の記事中には、〈冒険世界を創刊し〉云々という誤りを含んでいる。だが、〈満蒙地方を雄飛中〉云々という記述は重要である。在満中の天風は「少年倶楽部」「少女倶楽部」に寄稿していた。「天風先生は今支那に在り、擾乱(ぜうらん)相次ぐ謎の国支那の此の頃をぢつと見つめていらつしやいます」(注19)という記事から、天風がこの時期に満州で何らかの政治活動に携わっていたことが確認できる。
 「西伯利新聞」については、いかなる内容の新聞か調べがつかない。ただ、寺尾幸夫(玉虫孝五郎)の『露支人に伍して』(注20)によって、ある程度の手がかりは得られる。著者の寺尾は、内地の新聞各社を渡り歩いたジャーナリストで、「西伯利新聞」の編集責任者を務めている。天風の「冒険世界」主筆時代の主要な寄稿家の一人でもあった。新聞経営の人脈については、衆議院議員の小島七郎が「往年余が阿武天風君と共に哈爾賓に西伯利新聞を経営した時に」云々という序文を寄せていることも、手がかりとなる。ほかに、天風自身の序文中には「日露の修交が逐次行動化せんとする今日、また日支両国の親善が、殆んど無条件で必要とせらるゝ今日」云々という記述がある。この頃の天風の活動と政治的立場をある程度窺うことができるだろう。
 また、在満中の天風は「少年倶楽部」に「曠原の侠少年」(注21)を連載し、満州の馬賊を描いている。子どもむけの読物には珍しく、馬賊と現地の日本人実業家や張■(雨/作)霖との関係が、政治・経済・軍事の側面から具体的に描かれた作品であった。そして、同誌の消息記事には「阿武天風先生 今満洲(ママ)の長春に居られます。『曠原の侠少年』の玉稿は長春からわざわざ御送り下さつたものですから、馬賊の生活、勇少年の活劇など殆ど目に見る様に詳しいのも尤もです」(注22)とある。この頃の天風の満州での活動がしのばれる。
 なお、前記の「朝日新聞」の記事によると、天風は1926年の秋に〈病を得〉て帰京したことになっている。同紙の6月17日付夕刊に掲載の「阿武天風氏重態」という記事によると、「冒険小説家として一時故押川春浪氏等と共に青少年の愛敬の的となつてゐた阿武天風氏は数ケ月前から心臓病を煩(ママ)ひ青山北町四丁目倉上病院に入院加療中であつたが十五日夜から重患となりほとんど再起の見込みなきに至り海軍関係の旧友等が枕頭に侍し看護に力めてゐる」という。したがって、在満中に心臓病にかかって東京に帰り、入院の後、死亡したということになる。ちょうどこの頃は、「少年倶楽部」に代表作の一つ「愛国小説 太陽は勝てり」を連載中(注23)であった。同誌には「作者阿武天風先生御病気のため当分休む事になりました。残念ですが左様御承知下さいまし」(注24)という記事が出たが、「太陽は勝てり」は1927年11月をもって連載が中断している。この作品が天風の絶筆となったのである。

(3)日米未来戦の系譜


 日露戦争の頃までは、米国の外交政策は日本に対してむしろ好意的であった。だが、戦後になると、米国は日本の急速な勢力拡大に対して警戒するようになっていく。日米関係は急速に冷え込んでいった。試みに、『近代日本総合年表』(注25)から、この時期の日米関係の悪化の状況を拾い出すと、次のようになっている。
1907年11月16日
米大使、外相林菫あて書簡で、さらに厳重な労働渡航制限の励行を要請(日米紳士協約第一号)

1908年2月18日
外相林菫、米国提案の移民制限の実行方法につき回答(紳士協約第七号 移民に関する日米紳士協約成立)

1909年12月18日
米大使、清国と米英間に錦愛鉄道(錦州愛琿間)敷設借款予備協定の成立を通告、満州における鉄道の中立に関し小林外相に提議(英仏独露にも)

1910年1月21日
日露両国、米国の満州鉄道中立提議に不同意と回答
 このような状況の中で、天風をはじめ春浪周辺の人物も、米国を敵国視する題材の作品をしきりに書くようになっている。とりわけ、日本人移民排斥など米国における排日の気運の高まりに対し、彼らは激しい反発をしたようである。例えば、1913年6月の「冒険世界」には、春浪が「不埒極る米国排日党と日本耶蘇宣教師」を著し、米国における排日の動きを紹介し、外国人宣教師・日本人キリスト教信者をスパイ・売国奴扱いしている。同じ号には天風も「剣を揮つて蹶起せよ」を書いて、反米の気運を煽っている。あるいは、「未来:小説|日米戦争夢物語」(注26)の掲載頁の余白を利用して、次のような無署名の囲み記事がある。当時の対米感情を知る材料となるだろう。
米国にはエーローペーパーと云ふのがある、大々的悪徳新聞で、腰抜けの癖にワイワイ騒いで八釜しくて堪らぬ。日本と米国とが戦争すれば、日本は連戦連敗だなどゝほざいて居る。ハテサテ口は調法なものぢやテ。
 他にも、〈黄禍論〉に対抗した天風の連載「小:説|白禍」(注27)などがある。こうした記事や作品は、当時の日米間の関係悪化を敏感に反映したものである。
 この時期、日米両国では日米未来戦をテーマとする著作が続々と出版されていた。日本においては、成人を対象とした二冊の日米未来戦ものが特筆されるべきであろう。即ち、ホーマー・リー(Homer Lea)の『日米戦争』(The Valor of Ignorance 1909)の翻訳刊行と、水野広徳の『次の一戦』の刊行である。いずれも版を重ね、当時の大ベストセラーになっている。
 手元の『日米戦争』は、池亨吉訳、博文館刊行の第24版で、1913年6月15日発行。初版は1911年10月31日発行である。内容は、近未来小説仕立てではなく、近未来戦を予測したノンフィクションものである。この本の設定では、ハワイ・フィリピン方面で米陸海軍を破った日本軍が米国西海岸に上陸する。米陸軍はワシントン・オレゴンの両州方面に続き、カリフォルニア州方面でも敗れるという予測が記されている。
 『次の一戦』は近未来小説で、「序」に「菲律賓方面に於ける海陸の作戦記事は、専ら米人ホーマー、リー氏の著書に準拠したるもの」とある。手元の『次の一戦』は、金尾文淵堂刊行の第3版で、1914年8月10日発行。初版は同年6月30日発行である。著者は〈一海軍中佐〉名義になっているが、実際には現役の海軍中佐(当時)であった水野広徳である。この作品では日本の陸海軍が緒戦にフィリピンで勝利する。だが、急派された優勢な米国海軍との海戦に敗れたため、日本は極めて不利な条件で講和せざるを得ず、列強としての地位を失う。
 どちらの本も、自国の敗北を描くことを通じて軍備の充実の必要性を訴える意図をもって書かれた。水野は「序」で次のように述べている。
而して人常に言ふ、軍備は平和の保證なりと。若し果して然りとすれば、既に軍備に依つて保證せられたる平和は、必ずや軍備の荒廃に依つて破れ、軍備の欠陥に依つて危うからざるを得ず。是に於てか敢て再び問ふ、帝国現在の軍備は果して克く、帝国の平和を安全に保證するに足るものなるや。
 〈戦争は好まないが、平和を守るために軍備の増強は欠かせない〉とする理念は、後に続く日米未来戦ものに共通している。「著者は嘗て軍陣に臨みて、親しく戦争の惨状を目撃し、又屡々戦史を繙いて、深く戦争の禍害を認識せるもの。其の衷心平和を望むの情や、決して人後に落ちざるを期す」(注28)と平和の重要性を唱えるのも常套句である。平和を説くことについては天風も同様で、「日本は決して好戦国ではない、寧ろ世界の平和を望むのである」(注29)などと記している。水野は、後に海軍大佐でありながら反戦論にまで進み、退役に追い込まれる。そして、第二次世界大戦中は当局から発言を禁じられるに至るが、彼は特異な存在である。他の日米未来戦ものの作者たちは、一方で平和を口にしつつ、軍国主義的風潮を大いに煽ったものである。しかし、いずれにせよ、『次の一戦』は日米未来戦ものの先鞭をつけた本格的なフィクションとして、後世に与えた影響が大きいことに、ここでは注目しておきたい。以後の日米未来戦ものには、上記の二つの著作からヒントを得たと思われる事が多い。
 天風の作品中で、日米間の未来戦争が題材として取り上げられ始めるのは、『日米戦争』や『次の一戦』にやや先行している。最初の作品は「潜航艇夢物語」(注30)であった。単行本『海上生活譚』にも収録されており、天風としても自信作であったようである。
 主人公は擬人化された日本の潜航艇である。ここでは、潜航艇がオロンガポー軍港(フィリピンにおける米国艦隊の拠点)の攻撃を夢想する。作品中には、米国を敵国とは明記していないものの、読者が敵国を米国として読み取ることはきわめて容易であった。
 続いて、天風は「未来:小説|日米戦争夢物語」「時事小説 日米の危機」(注31)を描いた。この二つの短編では、従来、敵国の名をあからさまに記述しなかった従来の態度を一歩進めて、米国を敵国と明記するようになっている。
 「未来:小説|日米戦争夢物語」は、「冒険世界」誌上における〈世界未来記〉特集中の一篇。冒頭附近に「米国では近来(ちかごろ)大分日米戦争の小説が流行つて居るやうだから、吾輩も一つ書いて見た次第である」とある。軍事探偵ものにほのかで実らぬ恋心をからませ、さらにSF的な展開に発展させた。いかにも春浪の影響を受けた天風らしい小品である。
 作品の前半は、来るべき日米戦争に備えて米国と欧州の某国の間に結ばれた秘密条約をめぐるスパイ小説風の展開になっている。主人公の仁田原大尉は駐米大使館附の武官で、飛行家かつ飛行機の発明家でもあり、資産家でもある。仁田原はあるホテルで女優のデルマーと知り合うが、その夜、デルマーは密かに仁田原の下宿を訪れて包装を置いていく。デルマーの国籍は米国にあるが、スペイン人の血を受け継いでいた。仁田原へ寄せる恋愛感情と米西戦争の恨みから、秘密条約の写しを手渡したのである。後半に入ると一転して日米間の近未来戦争へと発展する。日本に帰った仁田原は病気を理由に休職したので、〈米探〉即ち米国のスパイであるとの風説をたてられる。実は、ひそかに独力で画期的な〈仁田原飛行機〉を発明していたのである。日米戦争が勃発すると、日本軍はこの飛行機と特殊潜航艇を投入し、台湾沖で米国艦隊を敗走させる。
 「時事小説 日米の危機」は日米未来戦の政治的・軍事的根拠を論じている。文学性より、仮想討論の内容を通じて、米国の主張の欺瞞性と日本の主張の正当性を明らかにする点に狙いがあったように見受けられる。
 作品の梗概は、〈ニユーヨーク、ヘラルドのマツク〉と、帰朝したばかりの〈国士〉の松木剛が、〈時事研究会〉主宰の大演説会で論戦するというもの。まず、マツクは、米国における日本人が良好な扱いを受けていることを述べる。そして、「要するに排日運動とか日米戦争とかいうことは、下層人士の不徳義なる疑惑から生ずる不祥なる産物である」として、日米の親善を説く。これに対して松木は、「日本人が米国に於て人間視されないといふ経験を実際嘗めて帰つた」と反論を行う。そして、米国における日米開戦論は「欝勃せる排日熱が仮りに此二三者の口をかりて公にされたので、吾等日本人は決して之を軽軽しく看過することはできない」こと、「米国の海軍拡張や、布哇(はわい)やマニラの防備や、或は近き将来に成功せんとするパナマ地峡の開通」という事実を指摘する。その上で、日本は平和を欲して米国との開戦は好まないが、米国では「太平洋の主権を獲得すべき準備に熱中して居る」ので、日本も戦争を怠るべきでないという結論であった。
 これまで述べてきた天風の作品は、いずれも短編であり、未来戦の内容もオロンガポーへの攻撃は夢であったとか、開戦劈頭の日本海軍の勝利を描いただけで、いよいよ日米両国が死力をつくして決戦を行おうとするところで終わっている。したがって、子ども読者を対象として日米間の近未来戦争を本格的に描いた作品としては、やはり、宮崎一雨の「熱血:小説|日米未来戦」(注32)を最初のものとして挙げるべきであろう。その後、一雨は自身の日米未来戦ものの総決算とも言うべき「日米大決戦」(注33)を著している。一方、天風は「太陽は勝てり」(注34)において、再び日米未来戦を描いている。両作品は同時期の連載で、期せずして競作の観を呈しているが、これについては後に詳しく述べることにしたい。

(4)天風と潜航艇


 日本児童文学史上において、潜航艇が活躍する軍事冒険小説は、押川春浪のデビュー作『海島冒:険奇譚|海底軍艦』をもって嚆矢とする。この作品中では、海底軍艦の航続距離や潜航時間がきわめて長く、潜航中も高速で航行できるように描かれている。当時の軍事技術からは、考えられない水準の性能であった。しかも、この作品が書かれた頃は、まだ、日本海軍に潜航艇自体が配備されていない。
 日本における最初の潜航艇は、日露戦争中の1904年12月に米国へ発注されている。横須賀で組み立てられたが、完成は戦後の1906年9月のことなので、実戦には間に合わなかった。日露戦争では、日露両軍とも潜航艇を海戦に投入した実績はないが、両軍とも相手方の潜航艇を大いに警戒し恐れていたという。しかし、当時の潜航艇は速度(殊に潜航中の速度)が遅く、航続距離や潜航時間も短いため、実際には軍事冒険小説中に描かれるほどの威力はなかった。沈没事故も頻繁で、1910年4月には広島湾内で六号艇が訓練中に沈没し、乗組員12名全員が死亡している。
 天風は「海軍:壮談|海底潜航艇」(注35)で、この沈没事故についても記している。元海軍将校であっただけに、潜航艇の動力や潜航の仕組み、乗組員の構成や給与待遇・潜航艇内の生活に至るまで、かなり詳しく記述したノンフィクション記事であった。六号艇の事故についても、「世の人は其真相を知つて居ない」として沈没の原因、乗組員の行動、死亡の原因を分析し、艇長以下の殉職を冷静に記録する。このノンフィクション記事でも、潜航艇が主力艦に大きな脅威を与えるほどの威力はないとされていた。しかし、天風は将来の可能性を大いに買っている。次に引用するのは、結末の部分である。
 潜航艇に実戦的価値ありやといふ質問が能く出るが、近世的な潜航艇が実戦に使用されたことがないから。(ママ)確かなことはいへないが、吾々をしていはしむれば、或程度迄は役に立つに相違ない。或程度迄なんて甚だ不得要領だが、是以上に要領を得ることができないから仕方ないとして、敵に恐怖心を懐かせるといふ間接的利益だけは慥かにあるやうだ。
 要するに現今はまだ試験時代で、殊に発達改良の余地が沢山あつて見れば、生意気に通振つたことはまだいへない。が、現今の潜航艇でも艇体(なり)に不相応な大きい発射管を備へて居るから、若し夫れ一朝其処から飛出す魚形水雷のお見舞でも受けやうものなら、急所さへ外れねば戦艦でも何でも直ちにお駄仏となること請合だから、成程まだ未成品には相違ないが却々何うして可怖(おつかな)いものである。将来艦体が大きくなり、速力殊に水面下に於ける速力が早くなれば、大いに面白い戦闘ができるんだ。
 続いて、天風は、「潜航艇夢物語」で、日本の潜航艇がフィリピンのオロンガポー軍港を攻撃するという夢想を描いている。この頃の日本海軍には、既に潜航艇が実際に配備されていた。しかし、先述したように、当時の潜航艇で作品中の設定のように敵国の軍港を攻撃することは、全くの夢物語である。
 冒頭部は、夏目漱石のパロディーで、「吾輩は潜航艇である」として、擬人化された日本の潜航艇が主人公に設定されている。この潜航艇は実戦に参加したことがないので、水雷艇たちに馬鹿にされる。そこで、潜航艇は水雷艇たちの噂話に歯ぎしりをしながら、自らの思いを読者に語る。この中で、潜航艇の戦闘的価値、自分の先祖にあたる潜航艇の歴史、海中生活の様子をかなり具体的に述べている。要するに、ノンフィクションの「海軍:壮談|海底潜航艇」をフィクションの形式で書き改めながら、日米未来戦にまで題材を広げた作品であった。
海底戦闘! 押川春浪君の冒険小説にもあるが、例の海底戦闘艇に乗つて居た人は定めし愉快だらうと思ふ、吾輩はあのやうに一つ花々敷(しく)活動がして見たい、早く何国(どこ)かと戦争がないかなア、這度(こんど)米国の艦隊が来るていが…畜生! 彼奴(きやつ)の本国では生意気に日本人排斥などを企てゝ悔しいなア…どうかして押(おつ)始めないかしら、サンチアゴやマニラで西班牙(すぺいん)のボロ艦隊を敗つて得意になつてる鼻柱をヘシ折つて遣りたい、さうしたら西班牙が痛快を叫ぶた(ママ)らうなア、殊に当年のアギナルドは百年の餾飲を下げるだらうに…。
 引用は、作品中の潜航艇の独白である。春浪がかつて空想した海底戦闘艇が実際に配備されたことへの期待、日本人移民排斥の高まりへの反発について、読者に訴えかけている。なお、引用文中のアギナルド(Emilio Aguinaldo)は実在の人物である。フィリピン独立運動の闘士で、春浪・天風を始めとした冒険小説に頻繁に登場した。米西戦争については、「戦争:事実譚|米西戦争の小説的動機」(注36)と題した天風の作品がある。
 〈髯の少尉〉名で刊行された『武侠:小説|怪潜行艇』にも、12人乗り(沈没事故を起こした六号艇を連想させる)で、〈一晩に一万哩を航走〉できる潜行艇が登場する。これには押川春浪の「序」がついているので、梗概に換えて引用しておく。
 髭(ママ)の少将(ママ)著す処の「怪電光(ママ)艇」を一読するの(ママ)に、主人公大島八郎は、月島丸の行衛不明と共に、可惜海底の藻屑とならんとして、却へつて奇異なる運命の手に救はれ、更に幾変遷、幾蹉跌、言語に名状せ(ママ)べからざる辛酸困苦を嘗めて遂ひに漸くアフリカの○○王国の光栄ある海軍大臣の椅子を占むるに至る。此間、主人公大島八郎を庇護せんとする百合花の如き美人姉妹あり、侠骨的海賊団あり、蛮人あり、悪人あり、将又猛獣あり、天災ある。縦横曲折、奇々妙々の波爛、げに読みもて行く中になかなかに以て面白い。
 上記の「序」から明らかなように、内容は春浪の冒険小説の二番煎じであり、とりたてて新しみがあるわけではない。しかも、書名中に〈潜行艇〉を掲げながら、これが登場する場面は全278頁中の12頁のみで、主人公の冒険中の一エピソードにすぎない。水準以下の駄作であるといえるだろう。あまりの不出来ぶりから、〈髯の少尉〉が天風であるかという点に疑問が湧かないでもない。しかし、親友である春浪の序文があることからみて、仮に代作であったとしても、天風の承認なしに第三者が〈髯の少尉〉を名乗っていたとは考えられない。
 ここでこのような駄作をわざわざ取り上げたのは、天風の作品中の潜航艇が春浪の海底軍艦の直接の影響下から脱していないことを明らかにするためである。天風は現実の潜航艇について、かなり詳しい知識を持っていた。先述した記事や作品からそのことは明らかである。にもかかわらず、潜航艇を題材にしたSF作品においては、独自の作風と呼び得るほどのものを打ち立てることはなかったと言えるだろう。
 なお、天風は日本の発明家に科学的知識のないこと、日本人に独創的な発明のないことを頻りに嘆いている。天風の「変妙極まるヘナ土(つち)潜航艇」(注37)は、日露戦争中、深川の船大工が潜航艇を発明したと称して海軍当局をも巻き込むという作品である。これは空気の供給源として、モグラが好む〈ヘナ土〉という奇妙なものを積み込もうとする珍発明であった。天風は日本の発明家について下記のような感慨を述べている。
 要するに日本の所謂発明家の大部分は科学的智識の欠けた素人だから困るのだ(ママ)一寸器用な性質(たち)位で大きな発明ができるものか。どうしても学者が動かなくては駄目だ。併し日本では其肝甚な先生達が至極お目出度く納まつて居るから尚更駄目だ。
 勝尾金弥は「ヴェルヌ作品の日本への影響」(注38)で、春浪のこの作品とヴェルヌの「海底二万マイル」を比較して、「ヴェルヌの科学的であるのに対し、春浪がいかにその知識に乏しいか」と指摘している。この春浪の欠陥は、彼の強い影響を受けた天風にも共通して見ることができるだろう。例えば、天風の「未来:小説|日米戦争夢物語」では、無線操縦の特殊潜航艇が、台湾沖で米国艦隊を攻撃する。ただ、この特殊潜航艇はストーリーの進行・展開とは全く無関係に、突如として都合よく出現。ここではただ「無線電信を以て操縦せらるゝ特殊潜航艇」とあるだけで、その性能や仕組みなどについては一切記されていない。『武侠:小説|怪潜行艇』でも「速力の迅速なのは、恐るべき強力なる電気を応用して駛(はし)るのであつた」とのみあるにすぎない。このように、潜航艇は新兵器として描かれながら、科学的・技術的な裏付けに欠けている。これはSF小説としては重大な欠陥である。同様のことは、「太陽は勝てり」に登場する〈電気光熱放射装置〉のようなものについても、共通して言える。前掲のように、日本人の科学的知識と探求心の欠如を頻りに嘆く天風にして、自らの作品中で、こういった限界を免れることはできなかったのである。
 ちなみに、「未来:小説|日米戦争夢物語」よりずっと後の作品である宮崎一雨の「熱血:小説|日米未来戦」でも、潜航艇隊が活躍する設定になっている。ここで登場する潜航艇は、航続距離が長く、荒天でも自由に活動ができ、敵の主力艦隊を一挙に全滅させることができる。こうした潜航艇は、作品の連載が開始される1922年の頃でも、優れてSF的であり、現実に先んじる設定であったと言える。しかし、この作品でも、ストーリーの進行や展開からすると、特殊潜航艇の出現はあまりにも唐突であって、その性能や仕組みについては何ら説明らしいものはなかった。

(5)天風と飛行機


 1910年前後のわが国では、飛行機への関心が急速に高まっている。既に海外では、1909年8月に仏国ランスにおける飛行競技会、翌年1月に米国ロサンゼルスにおける飛行競技会などが次々と開催され、飛行高度・距離・速度や滞空時間に関する記録が塗り替えられていた。こういった動向が逐次伝えられると、日本においても初飛行の成功が待望された。1910年の3月には、初めての試験滑走が行われ、日野熊蔵陸軍大尉が単葉のグラーデ機で成功している。そして、この年の12月には、いよいよ初めての公式飛行が試みられている。この飛行には、徳川好蔵陸軍大尉が複葉のアンリファルマン機、日野大尉がグラーデ機を用いて成功した。
 こうした飛行機熱の高まりは、子どもの世界にも大きな影響を及ぼしている。
 当時の少年たちの間では、模型飛行機が大流行した。徳川・日野両大尉による初飛行の前から、子どもむけの雑誌には飛行機の模型の広告や、手製の模型飛行機の作成方法を載せた記事が多く見受けられる。ほかに、雑誌の表紙や口絵にも飛行機が競うようにして描かれているし、飛行機に関する知識読物や物語の類も頻出している。
 ここでは、飛行機に関係した子ども向けの物語の例として、二つの作品をあげておく。
 お伽噺・小説の分野では、1911年1月増刊号の「少年世界」に竹貫佳水の「お伽:ばなし|凧の飛行機」(注39)がある。内容は凧が飛行機の人気を羨んで大失敗をするというたわいもないものであるが、当時の子どもの間の飛行機熱の高まりのありようが窺える。次の引用はこの作品の冒頭部である。
 ある時、玩具(おもちや)屋の店の隅で、いろいろの凧が集まつて、種々(さまざま)の世間話をして居りました。
 すると、一個(ひとつ)の奴凧が、ウンと腕をのばしながらに「ネエ君たちモウ僕等の世界も末になつたなア」と、嘆息しますと、傍から四角凧が、
「何う云ふ訳で」と問ひました。
「何う云ふ訳つて、夫は君にも解りさうなものだなア、毎日此店の主人が、新聞を読むだらう、其の新聞を聞いて居(を)るとネ、何時だつて飛行機と云ふ文字の無い事はないよ、(ママ)
 あゝ今に世の中は、飛行機にとられて仕舞つて、僕達は置てきぼりを食ふのだよ」
 と悲しさうに云ひますと、傍から、
「なるほど左様(さう)云ふと、近頃玩具を買ひに来る少年達は、皆な飛行機を売つてくれとか、飛ぶお船をお呉れとか云つて来る様だネ」
 同じ月の「少年」には、早くもスパイものに飛行機が登場する。柴田流星の「怪しの飛行船」(注40)がそれで、外国で飛行術を修得した青年が主人公である。彼は国産の飛行機に乗って、外国のスパイが上空から軍事機密を調べている飛行船を追跡する。左にこの作品の一部を引用しておく。
「宜うム(ござ)います―慥(たし)か、ボワザン式の複葉飛行機に類したのでしたね。」
「然うです。」
「発動機(モーター)はノーム式ですか?」
「左様、けれども云ふ丈の馬力があるかないか疑問ですぞ。」
「何馬力ですか。」
「三十五馬力はありますでせう。真実(ほんと)は五十馬力だといふんですが。」
 この会話の内容は、全て当時の最新知識に基づいている。飛行機の型式や発動機の馬力は全て現実のとおりである。非常にマニアックな内容であるため、今日ではよほど飛行機の発達史に詳しい人でなければ、この会話の内容は分からないだろう。しかし、当時は飛行機に対する関心が高かった為、小学生にさえこの内容に抵抗がないほどであった。あるいは、むしろ子どもであればこそ、先のような会話がたちどころに理解できてしまうのかも知れない。いつの時代でもそうだが、最新の科学技術には大人より子どもの方がより積極的な関心を寄せるものである。大人である挿絵画家は会話の内容を理解できず、ボワザン式とは似ても似つかぬあやしげな単葉機をシルエットで描くありさまであった。
 天風も、いち早く作品中に飛行機を取り入れた作家の一人である。潜航艇の配備が実現したことより、飛行機が現実に空を飛ぶようになったことの方が、天風にとってはより大きな意味をもっていたように思われる。
 調べの及んだ限り、天風が最初に飛行機に関する一文を書いたのは、1908年12月の「冒険世界」に黒面少将の名で掲載された「米国飛行器珍談」である。飛行機を取り上げたものとしては、他の著者と比べて、かなり早い時期の記事である。この記事中では、主としてライト兄弟の発明を取り上げている。大部分が何等かの外国の記事からの翻訳であるように思われる。ただし、著者の〈黒面少将〉が天風であるとするのは、あくまで推定である。根拠は、天風が〈黒面中尉〉という筆名を使用していたこと、目次には〈黒面少尉〉とあること、〈海軍少尉 阿武天風〉と記すべきところを〈少将〉と誤植した例もあることである。ここで注目しておきたいのは、この記事の本文ではなく、末尾に添えられた一文である。
日本では未だ飛行器熱が盛大でないが、ウント盛んになつて貰はねばならぬ、陸海軍では屹と何か計画のある事だらうと思ふが、国民全体が飛行器熱を起して貰はねばならぬ、彼の独逸の大飛行艇などが、更に完全に成功した暁には、夫れこそ世界の大事件である、日本陸海軍が強くても油断は出来ぬ、空中を注意せよ!空中を注意せよ!
 上記のように、当時の日本で飛行機に対する関心が低いことを嘆き、〈空中を注意せよ!〉といういかにも天風らしいフレーズの繰り返しで、飛行機への関心を煽っている。逆に言えば、まだ、飛行機に対する関心が低かったこの時期に、既に天風が飛行機に注目していたことがわかる。なお、著者が飛行機に関心を寄せるのは、主として軍事上の理由からであることを特記しておきたい。
 その後も、天風は「英国に於ける女風船乗」(注41)において、女性の飛行家を紹介する中で飛行機についても言及するなど、「冒険世界」誌上でさかんに飛行機を取り上げている。「痛快:奇譚|人造胆玉の威力」(注42)は、〈人造胆玉〉を手にした男が〈世界無銭胆力旅行〉に出かけるというナンセンスなストーリーの作品である。ここには、「巴里では飛行機に乗つて、登上と速力と飛行距離の三記録(レコード)を破り、五十万フランの懸賞を獲た。此事は或程度迄操縦に熟練すれば、其上は胆力に依つて新記録が作られるといふことを證明した」云々という記述があった。この作品では、本筋と殆ど無関係に、飛行機が唐突に登場しているが、類似の事例は当時の「冒険世界」に頻出している。当時は、飛行機ということに少し言及するだけで、読者の注目を引くことができたのである。
 こういう一連の流れの中で、天風の「未来:小説|日米戦争夢物語」が掲載されたのは、同誌の1910年4月号であった。したがって、この作品が執筆された時点では、日本ではまだ実際に飛行機が空を飛んでおらず、日野大尉の試験滑走でさえまだ行われていなかったと考えられる。まして、飛行機の国産については、1911年5月、奈良原式二号機の成功が最初である。本格的な国産機の製造開始にいたっては、遥かに下って、1919年2月、中島飛行機製作所による試験飛行の成功を待たねばならない。作品中にあるように、日本人が〈万国飛行機競争会〉で優勝したり、新型飛行機を発明したりするなどということは、夢物語にすぎなかったのである。
 しかも、「未来:小説|日米戦争夢物語」に登場する〈仁田原飛行機〉は時速二百マイル(約320q)という速力で、東京から台湾海峡の南方まで飛行できることになっている。この作品が書かれた頃の世界記録(注43)は、速度で77q、航続距離で210qにすぎなかったから、時代をはるかに先取りする設定であった。なお、1910年4月号の「冒険世界」には「近き未来に:出現すべき|破天荒の飛行機」と題する無署名記事があり、ここでは重量二万トン、時速二百マイルという飛行機のことが記されていて、〈仁田原飛行機〉を連想させる。また、天風は「変妙極まるヘナ土(つち)潜航艇」で、「新聞紙の報ずる処は(ママ)依ると飛行研究会委員の奈良原中技師(工学士)が発明した飛行機すら、結果が余り面白くないといふではないか。実際筆者は日本の飛行機発明家で信用するに足るのは奈良原君ばかりだと思つて居る」云々という記述を行っている。〈仁田原飛行機〉という名称は実在の〈奈良原式飛行機〉からヒントを得たと思われる。
 ただ、この飛行機については、発明者の仁田原大尉が〈部下五十人の兵員を指揮して〉云々という記述や、〈司令塔(ブリツヂ)〉に登って云々という記述がある。1909年にはツェッペリンの硬式飛行船が実用化されていることから、あるいはこの作品でいう〈飛行機〉は飛行船の如きものを想定しているとも考えられる。「潜航艇夢物語」には、「気の早い男が空中戦争や海底戦争を案出(かんがへだ)したのは決して無理のない話で、今になつて見ると其人の先見の明に服しなければならない」「仏国が狂気のやうになつて空中飛行器の研究に腐心した結果、どうやら昨今では将来(すへ)の見込が立つたやうな話だ、あゝ押川春浪君の小説は終に事実になつて現はれんとした。仏京巴里の公園から中空高く舞上り、舵輪一転、太平洋上の一孤島を指して虚空を駆ける底(てい)の痛快事は、必ず近き将来に演ぜらるゝに相違ない」という記述がある。これは明らかに春浪の『日欧:競争|空中大飛行艇』(注44)『続空中大飛行艇』(注45)や『英雄:小説|東洋武侠団』(注46)を念頭に置いた記述であると思われる。この当時は飛行機と飛行船を必ずしも厳密に区別せず、一括して〈飛行器〉と呼んでいたのである。しかし、「未来:小説|日米戦争夢物語」では、主人公が〈万国飛行機競争会〉に出場したというようなストーリーの前後関係や、〈魔鳥のやうな飛行機〉という表現からすると、やはり、今日でいう飛行機を想定していると考える方が妥当だろう。
 ところで、この頃、飛行機の軍事利用はまだ理論上の問題にすぎなかった。作品発表の翌年の1911年10月、イタリア軍がトルコ軍との戦闘に初めて飛行機を投入した。これが実戦における飛行機の組織的な使用の始まりであるとされている。1914年9月には日本が第一次世界大戦に参戦し、中国の青島に駐留するドイツ軍を攻撃。この戦いには、日本の飛行機が初めて投入されている。海軍の水上機のほか、陸軍の陸上機が使用され、偵察や爆撃を行って大いに少年の関心を集めた。ちなみに、陸軍気球隊長(陸軍機は気球隊に属していた)の有川鷹一中佐は、「三機交々(こもごも)爆弾を投下す」(注47)と題する一文を「飛行少年」に寄稿している。この記事中に、陸軍機が独・墺両国の軍艦二隻を攻撃したという記載がある。だが、軍艦を破壊したり戦闘力を失わせることはできず、単に敵艦を周辺の海域から追い払ったというにすぎない。
 まして、「未来:小説|日米戦争夢物語」の頃は、飛行機の試験飛行すら成功していないのである。このような時期に、「未来:小説|日米戦争夢物語」では、飛行機からの〈猛烈なる爆発力を有する投雷〉によって、米国主力艦隊に大損害を与えるという設定になっている。その後、天風は「空中飛行放談」(注48)で、飛行機の軍事利用について当時の世界各国の状況と将来の展望を述べている。左に、その一部を書き抜いておく。
 吾輩が此処まで説いて聞かせても、尚ほ頑然として昨日(きのふ)の夢を信じて居る者があつたならば、其人は数百の飛行機が何処からか飛んで来て、幾百噸の爆弾を、東京全市に投下する惨劇を見て、初めて己(おのれ)が愚を悟るより外仕方があるまい。

仮りにドレツドノート型戦艦一隻を建造する代りに、其費用を以て飛行機を造るとしたならば驚く勿れ! 優勢なる二千の飛行機を得ることができる。而も此二千の飛行機と、一隻のド級戦艦と、何れが優るといへば、無論軍配は前者へ上るに相違ない。

 噫! 試みに二千の軍用飛行機が、其性能のベストを尽して、活躍を始めたと思へ、其惨禍は如何に戦慄すべきものであらう。
 このように、日本においてはようやく飛行機による初飛行が成功した前後の時期に、天風は飛行機による東京への爆撃や主力艦への攻撃を大胆に予測しているのである。こうした予測は、宮崎一雨が「熱血:小説|日米未来戦」で飛行機を新兵器として活躍させることに、はるかに先行する。しかも、一雨の作品は、天風の「未来:小説|日米戦争夢物語」や「空中飛行放談」より10年以上も後に書かれているにもかかわらず、砲撃戦や雷撃戦が中心である。大艦巨砲主義の産物であった。ところが、天風の「未来:小説|日米戦争夢物語」では、無線操縦の特殊潜航艇と新型飛行機のみによる攻撃で、米国艦隊は殆ど戦闘力を失いマニラに逃走するという設定になっている。明治末という時点で、海上戦における飛行機の威力を大胆に描いた天風の業績は、日本のSF軍事冒険小説の歴史に特筆されるべきであろう。飛行機という道具だての使い方において、天風は一雨よりはるかに斬新で時代を先取りしていたのである。
 なお、1918年1月から5月にかけて、「お伽冒険小説 飛龍の化石」を「幼年世界」に連載している。天風としては珍しいお伽噺で、父と少年が飛行機に乗って天上国へ行くという内容である。天上国では父が妖婆と飛龍によってさらわれたので、少年は花の女神の助けを借りながら、飛龍と空中戦を行う。〈一時間百哩以上〉という高速の飛行機を、天上国・花の女神・妖婆・飛龍といったファンタジックな題材と組合わせようとする意気込みが感じられる。だが、「都合によつて一旦之で打ちきります」(注49)という中途半端な終わり方をしていることからわかるように、明らかに失敗作であった。しかし、天風が飛行機に寄せる熱い思いだけは、確かに感じ取ることができるだろう。

(6)「太陽は勝てり」と「日米大決戦」


 これまでは、主として「冒険世界」に掲載された天風の作品を見てきた。「冒険世界」の主たる読者は、今日でいうところのヤングアダルトにあたる。したがって、宮崎一雨が明らかに〈子ども〉を意識した作品と、天風が「冒険世界」に執筆した作品を単純に比較して優劣を論じることは、やや的外れであろう。そこで、天風が疑いもなく〈子ども〉を読者対象とした「太陽は勝てり」に、目を転じることにしたい。
 一雨の「日米大決戦」と天風の「太陽は勝てり」は、ともに1926年1月に雑誌連載が開始された。前者は「少年世界」に同年12月までの連載、後者は「少年倶楽部」に1927年11月までの連載で、殆ど同時期に二つの未来戦争ものが掲載されていた。理由は後で述べるが、天風も一雨も、それなりの思いを込めて力を入れた作品である。いわゆる小遣い稼ぎの手抜きはしていない。
 「日米大決戦」は、大正二十×年、パールハーバーで米国艦隊の旗艦が爆発沈没し、米国がこれを日本の仕業と決めつけたことから、日米間の戦争が勃発するという設定である。この作品では、大陸方面と太平洋方面における戦いが、同時進行で交互に描かれる。大陸の北方戦域では、上陸した米軍と日露連合軍とが戦うが、兵器と兵数に劣る日露連合軍側に敗色が濃厚であった。だが、日本軍は台湾の〈生蕃〉兵を動員して戦局は持久戦となる。大陸の南方戦域では、日本の少年義勇軍・インド独立軍・支那(中国)軍の連合軍が苦戦しながらも、北上しようとする英軍をくいとめる。太平洋方面においては、日・米両国の主力艦隊がほぼ相討ち状態となった。これを知った英国艦隊はシンガポールから出撃しようとするが、機雷により封じ込められる。一方、数に優る米国艦隊では、僅かの旧式戦艦が大破しながらも沈没を免れたので、これを修理して日本本土の攻撃にむかう。日本艦隊には対抗できる主力艦がない。そこで、日清戦争の三景艦(注50)の故事にならった。即ち、僅かに残った巡洋艦に戦艦用の新型巨砲を装備してこれを迎え撃ち、逆転勝利を収めたのである。
 この頃の「少年世界」には少年雑誌の王者であった昔日の面影はない。けれども、吉川英治や高垣眸らを執筆陣に迎えるなどの努力によって、一時的ながら販売部数の回復に成功を収めつつあった。かつて、ライバル誌の「少年倶楽部」に「熱血:小説|日米未来戦」を連載するなどして人気のあった一雨を執筆者として起用したのも、こういった立て直し策の一環であったのだろう。一雨の起用にあたって、彼が最も得意とする未来戦争ものを以て長期連載を行うところに、博文館側の意気込みが窺える。一雨としても、先に「日本少年」に連載(注51)した「長篇熱血小説 嗚呼(ああ)国難来」が中途半端なままに終わったことから、自らの名を高からしめた日米未来戦ものの集大成を図ろうとする気構えがあったと思われる。作品中には、日本の潜水艦によるパールハーバーへの奇襲、緒戦における日本陸軍のグアム・フィリピンの占領、米空母による日本本土への奇襲や米空軍による本格的な本土空襲など、未来を先取りする内容が見られた。
 ところで、一雨は海上補給路の確保をめぐる海戦によって日米未来戦の帰趨が決すると考えていた。問題はその海戦の戦われ方にある。一雨は早くから飛行機の威力に注目し、その方面の知識も豊富であったはずである。だが、「熱血:小説|日米未来戦」では、飛行機の活躍は地上軍に対する爆撃に限定され、日米両軍とも敵の主力艦隊に対する攻撃には一機の飛行機も出撃しない。もっとも、「日米大決戦」では空母から発進した飛行機によって敵艦隊を攻撃するという設定が新たに登場している。これは「熱血:小説|日米未来戦」から「日米大決戦」の間に、飛行機の進歩が著しいことを反映しているのであろう。しかし、「日米大決戦」でも、大勢は主力艦(戦艦・巡洋戦艦)の巨砲によって決することになっている。飛行機は専ら偵察や奇襲攻撃に用いられ、空母をはじめ巡洋艦・駆逐艦・潜水艦も、あくまで補助的役割を果たすにすぎない。
 ところが、一方では何の脈絡もなく、突然、〈殺人光線〉〈飛行機吸取器〉というような新兵器も登場する。このような新兵器を装備しているのであれば、もっと戦場で活用されてもよいはずである。だが、作品中では主戦場で本格的に使用されることはなく、当時、実在する兵器が重んじられていた。陸戦では歩兵・騎兵や大砲・戦車、海戦では主力艦によって決戦が行われるのである。
 もともと、一雨が未来戦ものを書き始めた動機は、日本の主力艦の劣勢を固定化するワシントン海軍軍備制限条約への反対にあった。しかし、飛行機や空母その他の補助艦が過度に活躍したり、新兵器が威力を発揮するのでは、肝心の主力艦増強の必要性を否定することになってしまう。「熱血:小説|日米未来戦」では、秘密結社が南海の孤島に武力を蓄えて、密かに日本を助ける。春浪以来のSF軍事冒険小説の伝統的なストーリー展開が見られる。確かに、このような秘密結社が存在し、新型の潜航艇隊で強力な米国艦隊を全滅させることが可能であるのならば、日本の海軍力の劣勢を一挙に覆すことができる。だが、困ったことに、これでは海軍軍備制限に反対する趣旨に反してしまう。けれども、秘密結社の力や新兵器の投入なしに、日本海軍の劣勢は覆し難い。新兵器はこうした矛盾を孕んでいるのである。
 したがって、「日米大決戦」における設定は、小艦に巨砲を装備する戦術の採用であった。秘密結社や新兵器に頼るのではなく、自前の海軍力だけで戦局の打開をはかろうとするところに工夫が見られる。だが、これは日清戦争時の三景艦にならった戦術(注52)であって、新鮮な発想ではない。しかも、巡洋艦で戦艦の代用が可能ならば、海軍の軍備制限に反対する必要がなくなってしまうことに変りはない。日本の最終的な敗戦というシナリオにまで踏込まないで、海軍軍備制限に反対する根拠を描くことにこだわる限り、こうした矛盾は避けられないのである。
 また、この作品では一時的ながら陸海にわたる日本軍の惨敗を描いたところがユニークであるが、これもすでに「熱血:小説|日米未来戦」に見ることができる。結局、全体としては「熱血:小説|日米未来戦」の発想を超えられず、二番煎じ三番煎じに終わっている。しかも、この時期の「少年世界」には、明治の少年雑誌界をリードしたかつての面影はなく、誌勢はふるわない。こうしたことから、一雨の意気込みにもかかわらず、それほどの反響を呼ぶこともなかった。
 「太陽は勝てり」は、支那(中国)で外国人排斥暴動が起き、列国が共同出兵したという設定から、物語は始まる。支那が列国軍に敗北したあと、英米両国は支那を植民地にすることを主張し、日本はこれに反対した。英米には仏国が賛成、日本には独露両国が賛成、伊国は日和見の立場に立つ。日本は独国に注文した二隻の空中軍艦をはじめ、万有科学研究所が発明した科学兵器を有している。
 忠雄少年は、万有科学研究所の所長である桜田博士の甥で、第二空中軍艦艦長の桜田中佐の息子である。彼はフリツツ少年と協力して外国のスパイ団を摘発したり、愛国少年団を組織したりして国の為に尽くす。後には、敵側の暗号を解読する特殊な才能を発揮して、軍になくてはならない存在となる。なお、フリツツ少年は万有科学研究所のシユミツト博士(独国人)の息子にあたる。
 日本と英米両国の戦端が開かれると、日本は蒙古の巴布札布(パチヤツプ)の息子を援助して支那を統一させる。また、空中軍艦でヒマラヤ越しにインド駐留の英軍を攻撃し、チラクの息子を援助してインドの独立を実現させる。フリツツ少年は日本を去り、パナマ運河の途中で独国船籍の汽船を爆破して米国大西洋艦隊の通行を阻止する。
 台湾沖では、英米の戦艦を主力とした大艦隊を日本艦隊が迎え撃った。日本艦隊は巡洋戦艦・巡洋艦を主力とし、高速を活かした戦術と空母鵬翔の活躍などにより、敵艦隊を全滅させる。また、日本の〈潜航熱射艦〉はマゼラン海峡で待ち伏せし、太平洋方面へはるばる移動中の米国大西洋艦隊を殆ど全滅させる。
 一方、フリツツ少年はパナマで米国の官憲に捕らえられて処刑されるが、これに怒った独国は英米に宣戦を布告する。露国は中東で英国を相手に戦端を開き、土耳古(トルコ)は埃及(エジプト)を占領する。ここに至って、伊国のムツソリニは、日本に好意的な立場から各国に休戦勧告をする。だが、英米はムツソリニの勧告を拒絶し、〈幽霊飛行機〉と呼ばれる見えない飛行機を投入して戦局の挽回を謀る。以上が梗概である。
 この作品はおそらく、英国人バイウォーター(Hector C. Bywater)の『日米関係未来記 太平洋戦争』(注53)の影響を受けていると考えられる。その理由としては、まず、パナマ運河の閉塞方法の類似性があげられる。航行中の商船を爆破してパナマ運河の通行を不可能にする方法が、全く同一なのである。また、マゼラン海峡における伏せ攻撃についても、同様のことが言える。米国大西洋艦隊は、パナマ運河の通行が不可能になったため、マゼラン海峡を通過して太平洋に出ようとする。これを日本の潜水艦が待ち伏せ攻撃し、大健闘の末に撃沈される。このストーリーが酷似しているのである。
 「太陽は勝てり」に於ける新しい試みとしては、二隻の空中軍艦の大活躍がある。英米にはこれに対抗する手段がない。そのため、空中軍艦はヒマラヤ越しにインドの英軍を攻撃したり、南方戦線を縦横に飛び回ることができる。この空中軍艦は〈超ツエツペリン型〉とあるので硬式飛行船の一種であろうが、この発想は春浪のSF小説を始め、〈仁田原飛行機〉といった発想を発展させたものと思われる。空中軍艦のほかにも、新ジュラルミンで造られた無音飛行機である〈爆撃式駆逐機〉、空中で敵機に放射できる〈猛毒バクテリヤ〉、水中から電熱光線を発射できる〈潜航熱射艦〉、傍受不可能な通信器である〈サクラホーン〉など、新兵器が軍の制式装備として続々と登場している。こういった新兵器の活躍は「日米大決戦」にはない発想である。日・英米の空母から発進した通常型の飛行機が、互いの主力艦隊への攻撃と防御に絶大な威力を発揮する発想も、一雨の作品にはない。こうした斬新なアイデアは、やがて平田晋策の「昭和遊撃隊」(注54)に引き継がれていく。即ち、飛行潜水艦〈富士〉やその他の新兵器の活躍、航空機を主体とした戦術の採用などである。
 もともと、SF軍事冒険小説は親友の押川春浪が始めたもので、天風は春浪の継承者の一人である。春浪の『海島冒:険奇譚|海底軍艦』の艦長が桜木大佐であるのに対し、空中軍艦の艦長が桜田中佐(のち昇進して大佐)であることや、〈虎髯大尉〉というペンネームの一件など、例証には事欠かない。殊に、日米未来戦ものについては、一雨に先駆けて手がけているという自負があったかもしれない。しかも、一雨を起用して天風のライバル企画を進行させている博文館は、かつて天風を馘首したという経緯があり、天風の心中には複雑なものがあったと考えられる。このような理由から、天風の意気込みにはただならぬものがあったようである。
 また、「太陽は勝てり」は、支那の統一と米英による干渉の排除、アジアや中東の植民地の独立という大義名分を描くことに重点を置いた作品であった。一雨の未来戦ものは、なぜ戦争が起こるのかという動機を始め、イデオロギー的な観点を殆ど無視している。これに対し、天風は戦争に至る動機、即ち日本の正義・大義名分を描くことを重視しているのである。のちの〈三国同盟〉や〈大東亜共栄圏〉につながる発想にまで踏込んでいるといえよう。
 次の引用は、「少年倶楽部」の1927年4月号に掲載された回の「太陽は勝てり」にある冒頭部分である。例によって平和主義を謳いつつ、開戦の正当性を主張している。
 愛読者諸君!!
 我が日本は平和を愛する事に於て世界のどの国にも劣つてはゐない。しかし若し此の地球の上に不正邪悪が行はれる様な事がある場合、敢然剣を執つて起つ事に躊躇するものではない。日本は極端に正義を愛する。
 英米の両国が支那に対する暴慢なる態度を日本が、見逃しておけるものではない。忠告もした。警告もした。けれども不正を敢て通さうとする英米はほとんど日本の忠言に耳をかさなかつた。東洋の平和、世界永遠の平和の為めに起つべき時が来たのだ。
 ほかに、「記者から読者へ」(注55)と題した「少年倶楽部」中の記事に次のような記述がある。このことも参照すると、天風の政治的主張を込めた作品が「太陽は勝てり」であったことが、より鮮明になる。
 此の愛国小説をお書き下さつてる阿武先生は、帝国海軍の予備将校のお方です。此の頃の日本が、やゝ太平の夢に耽つてゐるのではないかと案じられるところから、ひとつ国民の目をさます様な戦争小説をと思い立つて、阿武先生に御相談しました処、先生には手にあまる程忙がしいお仕事のあるのにもかゝはらず、『御国の為めぢや。引き受けよう』と快く御承諾下すつて今日に至つたものであります。国士の風格を具へられた阿武先生が、熱血をたゝきつける様な勢で御執筆下さるのですから、一言一句、実に日本国民の胸を射る様な気魄が満ち満ちてゐます。
 また、一雨の「日米大決戦」は、主力艦隊どうしの海上決戦に固執し、戦域をほぼアジア・太平洋地域に限定している。複雑な国際間の動きも殆ど描いていない。ところが、「太陽は勝てり」は、単に各国の軍事上の集合離散を描くのではなく、アジア・中東や欧米列強の利害が複雑に交錯する中で、物語は複雑に進行する。戦域はアジアにのみ限定されず、中東や欧州へも拡大する。伊・仏といった中立国についても、それぞれの立場から行動の違いをみせる。新兵器の開発を担う〈万有科学研究所〉の主だった研究員の国籍が、日・独・露にわたっていることは象徴的である。
 既に述べたように、天風はハルピンで「西伯利新聞」の経営を行った。こうした実生活上の政治的活動が、作品に反映しないはずはない。ことの善悪は別として、「太陽は勝てり」には明確な世界戦略がある。これは「冒険世界」時代に見られない特徴であり、ここに大陸における政治活動の反映を見ることができるだろう。一雨のように海軍力の削減ないし制限に反対というレベルに拘泥するのではなく、世界戦略を実現するために、軍事・政治・経済・科学などあらゆる力を動員しようとする立場にまで進展している。かくして、近未来を描くSF軍事冒険小説として、想像力のおもむくままに物語を展開することが可能となったのであろう。
 ところで、天風は予備役ながら海軍少尉であり、日露戦争中に実戦の経験もある。そのため、海戦の場面については、きわめてリアルかつ臨場感と緊張感をもって描くことができる。その一例として、「太陽は勝てり」中の一節を引用しておく。
だが、正直なところ初陣の士官も下士も兵員も、十四吋の巨弾が八十発も眼の前に飛んで来た時、胸をすかしたであらうか? いゝや飛んでもない! まつたくのところは、斉射弾が三千米突(メートル)も前方に落下したに係はらず、彼等はちやうどそれが頭上で炸裂したかのやうに、独でに深く甲板をなめるやうに上半身を屈めた。そして再び起き直つた彼等の蒼白(まつさを)な顔と唇は、かさくに乾いて幽(かす)かにけいれんしてゐるやうに見えた。併しそれは決して彼等の臆病を意味するものではなかつた!
(「少年倶楽部」1927年6月)
 このように、主力艦隊の会戦時の一種異様な恐怖感と緊張感を感じさせることに成功している。天風は「冒険世界」などにも、戦場におけるこういった心境を繰り返し語っている。大和魂があるから勇敢無比だという類の通俗的な軍人観をはなれて、人間である以上恐怖心はあるということを、当たり前のこととして描いたのである。実戦に臨んだ経験がなければこのようにリアルには描けないだろう。一雨や後の平田晋策らの作品には、戦況が淡々と記述されたり勇敢さが誇張されたりするだけで、戦場における兵士の心理にリアルさはない。
 また、巴布札布(パチヤツプ)は実在の人物で蒙古独立運動の闘志。文献によりパンジャップ、パプチャップなどと表記されている。1926年12月号の「少年倶楽部」には写真が掲載された。巴布札布の息子も実在し、連載当時は東京在住であった。この息子が「太陽は勝てり」を愛読しているという記事が、1926年6月号の「少年倶楽部」に載せられている。インド独立の志士チラク(Bal Gangadhar Tilak)も実在の人物である。このように実在する巴布札布とチラクの息子や、ムツソリニ(Benito Mussolini)を登場させることによっても、天風は作品にリアリティーを持たせている。春浪や博文館時代の天風が、作品中にアギナルドを登場させたことと、同様の手法である。
 ただ、「太陽は勝てり」の連載は、天風の病気によって中断のやむなきに至った。翌年には天風が死去したので、結局、未完のままに終わっている。「悲しいお知らせ」(注56)と題する次の社告をご覧いただきたい。
 阿武天風先生がなくなられらました(ママ)『太陽は勝てり』を読んだ諸君にはきつとたまらない淋しさを感じるでせうと思ひます。あの堂々たる偉丈夫がわづかな白木の位牌となつて安置されてゐるのを拝んだ時、記者は声をあげて泣き度い様な気持ちになりました。百万の諸君と共に謹んで哀悼の意を表しませう。
 ちなみに、単行本版の『太陽は勝てり』は、天風の死後の1930年8月15日、平凡社の「冒険小説全集」シリーズ中の一冊として刊行された。単行本版の結末部は、次のとおりになっている。
 =戦(いくさ)する身と空飛ぶ鳥は、何処(どこ)のいづこで果てるやら=
 何処かで此の俗謡を兵隊さんの口から忠雄少年は聞いたことがあるやうに思ふ。が、ほんとにその通りだ! マゼラン海峡の底に沈んで行く者さへあるのだ! そしてそれはその人達ばかりの運命でなくて、軈(やが)ては彼の父とその部下をも呪ふ運命でなくて何であるか!
 忠雄少年は一度でいゝからお父さんに会ひたいものだと思つた。が、桜田大佐―彼は今度大佐に陞進した―は営々として南方への出動を急いでゐた。
 それは敵の空中軍がその方面を窺ふ形勢がしきりだつたからだ!
 しかし、この部分は「少年倶楽部」の1927年10月号に掲載された回の結末部で、実際には翌11月号に南方戦線へ空中軍艦が出撃する展開がある。中断した作品であったため、かなりいいかげんな終わり方にせざるを得なかったようだ。なお、『平凡社六十年史』(注57)によると、「「少年冒険小説全集」と「令女文学全集」はワン・セットで売られた。いずれも全十五巻、一冊五十銭で、昭和四年七月から配本をはじめた。(中略)これは博文館の編集にいた本位田準一のもちこみ企画だったが、売れゆきはあまりのびず、初版五千部でしかもかなりな返本だったといわれる」という。かつて博文館にいた本位田の持ち込み企画であるため、シリーズ中には博文館にゆかりの作家が目立つ。シリーズ全体が旧作を集めただけで、中断した作品も含み、企画としては安易であった。そのため、あまり売れなかったのだろうか。

(7)終わりに


 阿武天風は軍人出身の作家らしく、生涯にわたって〈愛国〉〈皇室中心主義〉を掲げ続けた。しかし、これは時の権力に従順であったということを意味しない。シーメンス事件(1914年1月に発覚)には激しく怒り、「権兵衛殿切腹なされ」(注58)「敢て閣下に切腹の作法を教ゆ」(注59)を書いて、山本権兵衛を痛烈に批判。米国における日本人移民排斥の動きには激しく反発し、日米開戦論にまで進んだことは先に述べた。〈正義〉と〈信念〉を貫き通した人であった。
 むろん、客観的に見れば、軍国主義的な風潮を子どもたちの間に広める役割を果たしたことは否めない。天風の未来戦ものは、日露戦争後の国家主義的風潮の高揚期に忽然と現われ、大正期の軍縮・平和主義の時代を経て、一五年戦争が始まる時期に再び登場する。日露戦争をひかえて『海島冒:険奇譚|海底軍艦』を著した押川春浪以来の伝統を受け継ぎ、時々の政治・軍事の状況を敏感に反映している。宮崎一雨は児童文学において未来戦ものを確固たるものとしたが、天風はこのジャンルにイデオロギー的な観点を導入して、平田晋策らへ続く、次の世代に引き継ぐ役割を果たのである。子ども向け未来戦ものの基本的なパターンは、一雨が確立し天風が完成させたと言えよう。
 近年、シミュレーション小説と呼ばれるSF戦記ものが流行している。多くは第二次世界大戦を逆転させて描くものである。こうしたSF戦記ものの基本的な骨組みたるや、古典的な未来戦ものから殆ど進歩らしきものが見られない。わずかに、未来戦ではなく過去の戦争を逆転させて描くところに、新しみがある程度にすぎない。しかし、古典的な未来戦ものが描く戦争も、現時点から見れば既に過去に属している。シミュレーション小説とは何程の違いもない。むしろ、現代の書き手にとって第二次世界大戦は既知の戦争であるのに対し、過去の書き手にとっては未知の戦争であった。だから、過去の未来戦ものの書き手の先見性のみが、殆ど一方的に目立つことになる。しかも、最近は過去の戦争のシミュレーション小説が飽きられ始めたためか、未来戦のシミュレーション小説が出始めている。いよいよ、古典的未来戦ものとの差異はなくなってきている。
 こうしたSF戦記ものを荒唐無稽で軽薄なものだと片付けるのは容易である。けれども、かつて軍縮・平和主義の時代にも、日米未来戦ものの系列はとぎれることなく書き継がれていた。シミュレーション小説の流行は、一見平和で豊かに見える日本社会にこうした小説を受け入れる土壌があることを意味する。また、良心的といわれる現代児童文学に、今日の青少年を引きつけることのできる作品がどれだけ存在しているだろうか。このようなことを考える時、いま一度、古典的未来戦ものの流行現象について顧みる必要性を痛感する。
【付記】
 本稿は第32回日本児童文学学会研究大会(1993年11月6日 鳥取大学)における口頭発表が基礎になっている。執筆にあたっては、新しい資料を織り込むなどして内容を大幅に修正した。
 また、横田順彌および會津信吾の両氏には、貴重な資料の提供や重要な示唆をいただいた。ここに、改めて謝意を表したい。

(注1)阿武天風『海上生活譚』1910年12月5日 博文館
(注2)阿武天風『海上:生活|怒涛譚』1912年5月16日 博文館
(注3)髯の少尉『武侠:小説|怪潜行艇』1913年5月1日 大盛堂書店
(注4)髯の少尉『武侠:小説|仮面団体』1913年9月25日 大盛堂書店
(注5)横田順彌『[天狗倶楽部]快傑伝』1993年8月30日 朝日ソノラマ
(注6)海軍兵学校入学は1911年12月。同期に高野(山本)五十六らがいる。
(注7)日清戦争時に活躍した旧式艦で、日露戦争当時は三等巡洋艦に格付けられていた。
(注8)初代の扶桑。日清戦争時、既に旧式艦であった。
(注9)風来山人「抱腹絶倒:天風漁史|露探嫌疑物語」(「冒険世界」1913年4月号)
(注10)阿武天風「同人に加はるの辞」(「武侠世界」1917年9月号)
(注11)『博文館五十年史』1937年6月15日 博文館
(注12)押川春浪「告別之辞」(「冒険世界」1911年12月号)
(注13)阿武天風「春浪先生を送る」 注12に同じ
(注14)針重生「阿武天風君を送る 特派員としてシベリアに」(「武侠世界」1918年12月号)
(注15)押川春浪『海島冒:険奇譚|海底軍艦』1900年11月15日 文武堂
(注16)河岡潮風『冒険:壮遊|五洲怪奇譚』1910年10月28日 博文館
(注17)阿武天風「同人に加はるの辞」 注10に同じ
(注18)無署名「同人並に社友」(「武侠世界」1919年1月号)
(注19)無署名・無題(「少年倶楽部」1926年1月号)
(注20)寺尾幸夫『露支人に伍して』1926年5月25日 宝文館
(注21)阿武天風「曠原の侠少年」(「少年倶楽部」1925年1月〜4月号)
(注22)無署名・無題(「少年倶楽部」1925年1月号)
(注23)1926年1月号より連載開始
(注24)無署名・無題(「少年倶楽部」1928年1月号)
(注25『近代日本総合年表』第三版 1991年2月25日 岩波書店
(注26)虎髯大尉「未来:小説|日米戦争夢物語」(「冒険世界」1910年4月臨時増刊号)
(注27)阿武天風「小:説|白禍」(「冒険世界」1913年8月〜12月号)
(注28)水野広徳「序」『次の一戦』金尾文淵堂 1914年6月30日
(注29)虎髯大尉「未来:小説|日米戦争夢物語」 注26に同じ
(注30)激浪庵「潜航艇夢物語」(「冒険世界」1908年5月号)
(注31)髭の少尉「時事小説 日米の危機」(「冒険世界」1910年5月号)
(注32)宮崎一雨「熱血:小説|日米未来戦」(「少年倶楽部」1922年1月〜23年2月号)
(注33)宮崎一雨「日米大決戦」(「少年世界」1926年1月〜27年12月号)
(注34)阿武天風「太陽は勝てり」(「少年倶楽部」1926年1月〜27年11月号)
(注35)髭の少尉「海軍:壮談|海底潜航艇」(「冒険世界」1910年8月号)
(注36)髭の少尉「戦争:事実譚|米西戦争の小説的動機」(「冒険世界」1909年5月号)
(注37)天風山人「変妙極まるヘナ土潜航艇」(「冒険世界」1910年11月号)
(注38)かつおきんや「ヴェルヌ作品の日本への影響」(「日本児童文学」1978年6月号)
(注39)なほと「お伽:ばなし|凧の飛行機」(「少年世界」1911年1月増刊号)
(注40)柴田流星「怪しの飛行船」(「少年」1911年1月号)
(注41)天風子「英国に於ける女風船乗」(「冒険世界」1909年11月号)
(注42)天風生「痛快:奇譚|人造胆玉の威力」(「冒険世界」1911年1月号)
(注43)ランス飛行競技会(1909年8月)における記録。
(注44)押川春浪『日欧:競争|空中大飛行艇』1902年3月18日 大学館
(注45)押川春浪『続空中大飛行艇』1902年6月16日 大学館
(注46)押川春浪『英雄:小説|東洋武侠団』1907年12月15日 文武堂
(注47)有川鷹一「三機交々爆弾を投下す」(「少年」1915年4月号)
(注48)虎髯大尉「空中飛行放談」(「冒険世界」1911年12月号)
(注49)阿武天風「お伽冒険小説 飛龍の化石」(「幼年世界」1918年5月号)
(注50)松島・橋立・厳島の三艦のこと。小艦に巨砲を装備し、清国の定遠・鎮遠の二大戦艦に対抗した。
(注51)宮崎一雨「長篇熱血小説 嗚呼国難来」(「日本少年」1925年1月〜12月号)
   連載開始時期は推定。
(注52)実際には、大砲の反動が大きすぎて失敗であった。
(注53)バイウオーター原著 堀敏一訳述『日米関係未来記 太平洋戦争』1925年9月12日 民友社
   Hector C. Bywater 'The Great Pacific War' 1925
(注54)平田晋策「昭和遊撃隊」(「少年倶楽部」1934年1月〜12月号)
(注55)無署名「記者から読者へ」(「少年倶楽部」1927年8月号)
(注56)無署名「悲しいお知らせ」(「少年倶楽部」1928年8月号)
(注57)平凡社教育産業センター編『平凡社六十年史』1974年6月12日 平凡社
(注58)阿武天風「権兵衛殿切腹なされ」(「冒険世界」1914年3月号)
(注59)阿武天風「敢て閣下に切腹の作法を教ゆ」 注58に同じ