巌谷小波「日本昔噺」叢書の書誌的研究

「学大国文」第45号 (2002.3 大阪教育大学国語教育講座・日本アジア言語文化講座)に発表



 

=目次=

(1)はじめに
(2)発行年月日と書名
(3)構想の変遷
(4)終わりに

《資料》「日本昔噺」叢書の構成と刊行状況


 
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(1)はじめに

 巌谷小波の「日本昔噺」叢書(全24冊)は、1894年から96年にかけて博文館から刊行された。個人が著わした児童文学の叢書としては、わが国最初のものである。この叢書が完結するや、小波は収録しきれなかった題材を含めて新たに「日本お伽噺」叢書全24冊を刊行。さらに「世界お伽噺」叢書全100冊、「世界お伽文庫」叢書全50冊がこれに続く。かくして、内外の昔話・伝説を集大成することは、小波のライフワークの一つとなった。「日本昔噺」叢書こそ、日本昔話をスタンダードな形に集大成することをめざし、明治お伽噺の巨人・小波がなしとげた数ある業績の中でも最も重要なもののひとつであるといえよう。

 「日本昔噺」叢書は復刻版(1971年10月25日 臨川書店)が刊行されている。日本児童文学史における基本的な文献のひとつでもあるため、基礎的な文献調査はすでにひととおり行われているだろうと考えられがちである。しかし、実際に先行文献の調査に着手してみると、発行年月日や書名の表記といった最も基本的な書誌的事項についてさえ、研究が及んでいない。復刻版も初版を底本に採用していないからである。

 幸いにも、筆者は『日本昔噺』(2001年8月8日 平凡社)を「東洋文庫」叢書の一冊として復刊する機会を得て、本文校訂と「解説」の執筆に携わった。本稿では、この機会を通じて知り得た諸問題について整理したい。併せて、この叢書の成立の過程と変遷について考察してみたいと思う。

 
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(2)発行年月日と書名

 まず、発行年月日についてのべる。

 「日本昔噺」叢書の各巻の発行年月日について、各種の先行する研究文献を比較参照してみると、奇妙なことに気づく。例えば、鳥越信『日本児童文学史年表1』(1975年9月10日 明治書院)と大阪国際児童文学館編『日本児童文学大事典』(1993年10月31日 大日本図書)を比較参照すると、各巻の発行年月日が微妙に異なっている。このような発行年月日の記述の食い違いの例は枚挙にいとまもない。文献ごとに食い違いが存在するといっても過言ではないかもしれない。

 そもそも、ある書物の初版出版年月日を確認するためには、その書物の初版を確認する必要がある。だが、常に初版を確認することができるとは限らない。そこで、重版ものの奥付に併記された初版の発行年月日から実際の初版の発行年月日を推定することが行われる。しかし、重版ものの奥付に併記された初版の発行年月日と、初版の奥付に記載された発行年月日を比較すると、しばしば両者の間に食い違いのあることがある。ことに明治期の図書について、こうした事例がめだつ。したがって、特に明治期の図書については、初版の発行された年月日の確定が難しい。

 また、たとえ初版を確認できたとしても、もうひとつやっかいな問題が存在する。それは検閲制度から派生した問題である。すなわち、記載された発行年月日と内務省に届け出られた発行年月日が一致していないことのあることだ。出版社から内務省に届けられた検閲本(単行本)は、検閲が終了したあと原則として旧・帝国図書館に交付されていた。そして、その多くは戦後に国立国会図書館へ所管替えになったのである。こうした資料の中には、奥付の発行年月日が手書きで訂正されたうえ、発行責任者の訂正印が押印されているものがある。おそらく内務省への届け出の際に、何らかの理由で書類上の発行年月日と奥付に記載された発行年月日との間にずれが生じたもののであろう。こうした場合には、初版の奥付を印刷しなおすことなく、検閲本の奥付の発行年月日だけを訂正して済ますことが、便宜的な措置として黙認されていたようだ。

 このように、書類の形式だけが整っていれば良いとするお役所仕事が、後世の書誌研究を混乱させているのである。奥付の発行年月日と内務省への届出年月日のいずれの発行年月日を採るかという判断を迫られる場合、わたしは内務省への届出を優先すべきであろうと考える。そもそも、出版年月日というものは形式的・便宜的な要素が多分にある。現実問題として、初版の奥付に記載された発行年月日と、実際に出版社からその書物が出荷された年月日は、必ずしも一致するものではない。もともと、初版の発行年月日などというものは形式的なものなのであるから、内務省への届出日が法律上の正式な発行年月日であることを重視したいと考える。

 「日本昔噺」の場合も、先行する研究文献に記載された発行年月日にさまざまな食い違いが存在するのは、おそらく編著者の誤記や誤植によるものではないだろう。先行文献の編著者が、重版の奥付に併記された初版発行年月日をもって初版の発行年月日として記載したか、初版を現認した場合でも検閲本を確認したか流布本を確認したかによって差が出たものと考えられる。

 ただし、「日本昔噺」叢書に限っては、初版の検閲本を現認することはそれほど困難なことではなかったはずだ。それは、全24冊のうち22冊までの検閲済資料が国立国会図書館に所蔵されていた。そして、22冊中の1冊は欠頁のある破損本だが、残る21冊がほぼ完全な形で保存されていたからである。これらが総て内務省から旧・帝国図書館に交付された検閲本であったことは、資料に押された各種の印や奥付の訂正印などによってわかる。初版の確認が困難であったのならともかく、これまでの先行文献の編著者が、国立国会図書館の所蔵本を調査するという基本的な作業すら怠っていたことに、驚きを禁じ得ない。

 次に、書名についてである。

 あらゆる分野の資料について書誌を記述しようとするとき、どうしても避けて通れない問題がある。それは、表紙・内題・奥付などに記述されているタイトルに、しばしば食い違いがあることである。この場合は、諸版の比較検討をはじめ、さまざまな資料を総合的に勘案した上で、タイトルを決定していくことになる。

 例えば第3編『猿蟹合戦』の場合である。表紙には「猿蟹合戦」とあるが、内題と各ページの柱、および終末タイトルは「猿蟹仇討」で統一されている。初版の各編に掲載された予告または既刊案内の広告によると、第1〜2編の予告では「猿蟹合戦」、第3〜8編の既刊案内では「猿蟹仇討」、第9編以降の既刊案内は「猿蟹合戦」で統一されている。

 また、第17編『安達原』の場合には、表紙には「安達か原」、内題には「安達原」、各ページの柱には「安達ケ原」、終末タイトルは「安達ケ原」と、まちまちである。初版の各編に掲載された予告または既刊案内の広告によると、第1〜16編の予告および既刊案内では「安達原」、第17〜19編は未確認(第17〜18編は欠本、第19編は欠頁のため)、第20編以降に掲載された既刊案内は「安達ケ原」で統一されている。

 先行文献のタイトルの表記にさまざまな食い違いがあるのは、編著者の判断の違いの反映であって、それ自体は必ずしも不自然なことではない。しかし、発行年月日の問題からもわかるように、先行文献の編著者は、初版を含む諸版についてどれだけ総合的かつ厳密に比較検討してきたのであろうか。それを思うと、非常に心もとないものを感じざるをえないのである。

 以上の問題点を考慮したうえで、あらためて各編の構成と刊行年月日とタイトル・附録・序文類を整理し、これをまとめて本稿の末尾に《資料》として掲載する。

 
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(3)構想の変遷

 第1編『桃太郎』の初版にひとつの社告が掲載されている。この社告は「日本昔噺」叢書全体の刊行予告とともに掲載されたもので、事実上の創刊の辞とも受け取れる内容の一文であった。掲載の箇所は奥付の上で、無署名だが、叢書を企画した意図を伝えるものとして、非常に興味深い。この社告は重版ものや復刻版には見当たらず、おそらくこれまでに内容を紹介されたこともないと思われるので、次に全文を引用しておく。

桃太の遠征、猿蟹の戦争、兎の功名、雀の報恩、是等はお伽はなしの傑作と仰かれて幾百年来幼年諸君に謹聴せられ、秀吉も家康も西郷も木戸も、皆一たびは是等の話を無上の講話とも小説ともして喜びたりき。されと錦の衣裳も目馴れては麗はしからずと、幼年文学の大手筆たる巌谷漣山人が、敏妙無類の奇想を凝らし快筆を揮ひ、古搆に就て新案を立て、一層面白くして有益なるやう綴らるゝに、当代名家の精美なる絵画をさへ加へ、全部十二冊として毎月二回発行するもの、即天下無雙の昔文庫なり。


 これとまったく同じ社告が、第1編『桃太郎』から第3編『猿蟹合戦』までに掲載され続けている。また、これとほぼ同文の広告を「少年世界」誌ほかににも散見することができる。

 まず、ここで注目したいことは、「敏妙無類の奇想を凝らし快筆を揮ひ、古搆に就て新案を立て、一層面白くして有益なるやう綴らるゝ」云々というくだりである。第1編『桃太郎』には、この一文とは別に、小波自身による「口上」と題した序文が掲載されている。ただ、ここには昔噺には「書いたものが頗る少い」ので「兎に角一集にして置きたい」とか「昔噺の請売三昧」と書かれているだけで、「新案を立て」るとか「面白くして有益なるやう」に書くという趣旨のことは一切書かれていない。

 この社告の趣旨に即して、「桃太郎」について見てみよう。小波は『桃太郎主義の教育』(1915年2月15日初版 1916年4月15日5版 東亜堂書房)の中で、「桃太郎」には様々なバリエーションが伝承されてきたことについて触れ、「上流から流れて来たは、桃ではなくて二つの箱で、その一つを拾つて帰つたら、中から桃が出たと云ふのもあり。桃太郎の産れる段も、桃の中から飛び出すのではなくて、まづ二人が桃を食べたら、急に若夫婦の昔に還り、間もなく男の子を産んだと云ふのもある」と紹介。その上で、「僕は兎も角東京を標準として、専ら行はれて居る型を採る事にした」と述べている。しかし、ここには小波の児童読物観が如実に反映しているのだ。若返り型を採用することは、セックスの問題を避けて通れないからである。

 ほかにも、「是はしたり、苟にも親子となれば、子が親の世話になるに、何の不思議もない筈。其代りまた其方が成人すれば、私等夫婦が厄介に成る故、つまりは五分五分損徳無しぢや。それを今更改つて、礼では此方が痛み入る」とか、「が、先方は寝耳に水、此方は兼て覚悟の前。寄手に七分の強味あれば、敵には十分の弱味がありますから、さしもの鬼も拒ぎ兼ね、見る見る中に追ひまくられて」云々など、いたるところに物語の展開に合理的な理屈や理由を付けようとする姿勢がみられる。また、「命斗りは御助けとは、面に似合はぬ弱い奴だ。然し其方は永の間、多く人間を害めたる罪あれば、所詮生け置く訳にはゆかぬ、是より日本へ連れてゆき、法の通り首を刎ね、瓦となして屋根上に梟すから、免かれぬ処と覚悟を致せ!」という桃太郎の台詞があるが、この場面は本来なら血なまぐさい場面を想像させるところである。これを小波一流の戯作調の滑稽味で切り抜けていることがわかる。

 このように内容の改変を検討していくと、これらの改変こそが明治お伽噺の特質であり、時代の限界の反映であったことがわかる。第1編『桃太郎』の初版の一文は、この叢書の全体を通した刊行のねらいを非常に率直に記述したものだといえよう。

 次に、この一文からわかることは、当初、この叢書は毎月2回の刊行が予定されていたということである。しかし、刊行の開始以来、月に2冊のペースで刊行が行われたことは一度もなかった。そこで、叢書の刊行予定を実態に合わせるため、毎月1冊のペースで刊行するように変更されることが告知されることになった。それは第4編『松山鏡』からのことである。「古搆に就て」以下の部分について、次のように変更されている。

古搆に就て新案を立て一層面白くして有益なるやう綴らるゝに、画は当代十二名家を撰びて毎冊各家の精妙なる絵画を加へ、全部十二冊として毎月一回発行するもの、即天下無双の昔噺文庫なり


 こうして、当初は毎月2冊の刊行予定であったものを毎月1冊に変更している。だが、それでも第11編『物臭太郎』までは、巻末などに掲載された広告には「毎月二回発兌」と記載されたままになっている。このような不統一から、刊行予定の間隔については博文館としてもかなり揺れがあったようである。また、「当代十二名家を撰びて」云々とあるように、各冊ごとに一人ずつの画家を起用することを明記し、表紙絵や挿絵にも費用を惜しまず力を入れることを予告している。


表1 社告からみた刊行の順の変更(1)
タイトル1 社告5 社告11 社告
『桃太郎』111
『玉の井』222
『猿蟹合戦』333
『松山鏡』444
『舌切雀』577
『大江山』666
『花咲爺』755
『俵藤太』888
『かちかち山』999
『瘤取り』101010
『文福茶釜』111112
『物臭太郎』121211


 表1は、第1編『桃太郎』kから第11編『松山鏡』までの初版に掲載された刊行予定の社告について、変更のあった状況を一覧表にしたものである。数字は各編の編数を意味する。直前の編と変更のない編については省略した。

 この表からわかるように、第1編から第4編までの社告では、第5編が『舌切雀』、第7編が『花咲爺』と予告されているが、第5編の社告からはこの2編を入れ換えている。すなわち、第5編が『花咲爺』、第7編が『舌切雀』として刊行されたのであった。また、第1編『桃太郎』から第10編『瘤取り』の社告までは第11編が『文福茶釜』と第12編が『物臭太郎』と予告されているが、第10編の社告ではこの2編についても入れ換えている。すなわち、第11編が『物臭太郎』、第12編が『文福茶釜』として刊行された。

 しかし、第11編が刊行されたこの時点でも、叢書を24編にまで拡張する計画は刊行予定の社告に掲載されることはなかった。それでは、いつごろから叢書の構想が24編にまで拡張されること決まったのだろうか。読者に対して告知されたのは、第12編が刊行された時点のことであった。この編からは、既刊の12編を一括して《前編》とし、今後刊行予定の12編をまとめて《後編》とする。刊行の頻度については「毎月一回十日発兌」と明記している。そして、《後編》の各編を紹介する社告が掲載されている頁には、次の一文が掲載されている。この一文も無署名だが、叢書を企画した意図を伝えるものとして、非常に興味深い。重版ものや復刻版に見当たらず、先に紹介した社告と同様である。次に全文を引用、紹介する。

「漣(オヂ)さん漣さん。「何です何です。「又昔噺の後篇(アト)が出るの。「未だいくらも有ますから、九月から続けて出します(ママ)相変らず読んで頂戴よ。それに今度は前のより、もつとやさしく書きますから少しも解からない事はありませんよ、「それでお噺はどんなお噺。「まア此の目次を御覧なさい。(ママ)ヤア蛇(ヂヤ)殺しもあらア。「鬼婆(ババア)もあらア。「鞍馬山もあらア。「山姥もあらア。「面白いなア。「面白いなア。


 一見してわかることは、初期の頃の社告が文語文で書かれているのに対して、会話形式の口語文で書かれていることである。つまり、子どもにわかりやすく親しみやすい形式・文体になっている。ほかに、「後篇」という漢字に「あと」、「目次」という漢字に「じゆん」とルビをふっていることなども興味深い。ルビひとつみても、より一層子どもにもわかりやすくすることに配慮したことがわかるからである。内容において注目されるべきことは、「今度は前のより、もつとやさしく書きますから少しも解からない事はありませんよ」「面白いなア」というくだりであろう。「新案を立て一層面白くして有益なるやう」云々は、どちらかというとおとなに向けたアピールであろう。これに対して「今度は前のより、もつとやさしく書きます」は、明らかに子どもに向けたアピールである。もともと、この叢書は言文一致体を採用し、小学生程度の子ども読者を想定した内容のものであった。もとより、叢書の性格自体に変更があったとまではいえまい。しかし、「面白い」ことと「有益」であることより、「やさしく」かつ「面白い」ことを前面に打ち出したのである。そうしたPRのありように、子ども読者を従来より意識しはじめていることが窺える。

 次に、叢書の構想の変遷を「少年世界」誌の広告に見てみよう。

 後篇の刊行が告知されたのは第14号(1895年7月15日)のことである。この号では第11編『物臭太郎』と第12編『文福茶釜』の刊行告知を主体とし、後篇の刊行については「日本昔噺後篇は来八月より発刊す。」とのみ記載されている。後篇の各編の構成はもとより、後篇が全12編からなっていることすら記されていない。

 ちなみに、実際に後篇が刊行されるのは九月に入ってからのことであった。また、第10編「瘤取り」までの社告では第12編を『文福茶釜』、第12編を『物臭太郎』と予告していた件については、「少年世界」誌の第13号(1895年7月1日)で第12編が『物臭太郎』になったことを告知している。後篇の各編の内容が詳しく告知されたのは第15号(1895年8月1日)のことである。ここには先に紹介した第12編『文福茶釜』の社告とほぼ同文の広告文が一頁分を使用して大きく掲載されている。


表2 社告からみた刊行の順の変更(2)
タイトル12社告16社告20社告
『八頭の大蛇』131313
『兎と鰐』141414
『羅生門』151515
『猿と海月』161616
『雲雀山』17 1921
『安達ケ原』18 1717
『浦島太郎』19 1818
『一寸法師』202019
『金太郎』212120
『猫の草紙』222222
『牛若丸』232323
『鼠の嫁入』242424


 表2は、12編『文福茶釜』から第24編『鼠の嫁入』までについて、表1に準じて作成したものである。この表からわかるにあるように、第15編『羅生門』までの社告では第17編が『雲雀山』であったが、第16編『猿と海月』の社告では『安達ケ原』に変更された。以後の予定は第18編が『浦島太郎』で第19編が『雲雀山』というように告知されている。しかし、実際には『雲雀山』の刊行はさらに遅れることになる。第17編『安達ケ原』から第18編『浦島太郎』の初版は欠冊、第19編『一寸法師』は欠頁のためその後どのように読者に告知されていったのかはわからないが、第20編『金太郎』の社告では第21編が『雲雀山』と告知されている。

 また、第20編『金太郎』の社告からは、序文や唱歌類の著者についても予告が出るようになっている。このうち、唱歌の著者については、第21編『雲雀山』から第24編『鼠の嫁入』まで総て異なっている。その状況は表3のとおりである。


表3 唱歌類の作者の変更(1)
 書名予告の著者実際の著者
21『雲雀山』前田利声建部綾子
22『猫の草紙』増山正直川島宗端
23『牛若丸』高崎正風清岡覚子
24『鼠の嫁入』黒川真頼水原翠香


 さらに、第22編『猫の草紙』の社告からは表4のように変更されたが、これも実際に刊行されたときの著者とは異なっている。


表4 唱歌類の作者の変更(2)
 書名予告の著者実際の著者
23『牛若丸』木村正辞清岡覚子
24『鼠の嫁入』黒川真頼水原翠香


 「少年世界」誌の広告を見ても、唱歌類の著者は刊行の直前まで表3または表4の社告の予告状況と全く同一であった。さらに、「少年世界」誌の第2巻第5号(1896年3月1日)と第2巻第6号(1896年3月15日)の広告によると、第19編『一寸法師』の唱歌は高崎正風と予告。同じく「少年世界」誌の第2巻第7号(1896年4月1日)の広告では、第20編『金太郎』の唱歌は前田利声と予告されている。第17編『安達ケ原』から第19編『一寸法師』までの社告は未確認だが、おそらく「少年世界」誌の広告と同一の予告内容になっていたであろうと推定される。

 以上のように、発行の直前になっても唱歌類の著者はひんぱんに変更されることが繰り返されていたのである。

 重版ものや復刻版をもとに判断する限り、「日本昔噺」の構想はあたかも当初から細部にわたるまできちんと計画されてから刊行されていたかのように思われる。しかし、実際はそうではなかった。「日本昔噺」叢書の刊行当初はひとまず基本的な構想だけがたてられたのである。読者の要望にも「もつとやさしく書きます」と応えるなど、刊行していく中で少しずつ変更が加えられ、完成されていったことがわかる。
何よりも、附録の初出を調べると、このことは容易に察しがつくだろう。すなわち、第10編『瘤取り』の附録「蝿と団扇」(初出は1894年7月15日「幼年雑誌」)と、第11編『物臭太郎』の附録「月と雲」(初出は1894年8月15日「幼年雑誌」)は、第1編『桃太郎』の刊行の時点(1894年7月11日)ではまだ刊行されていない。同様に、第19編『一寸法師』の附録「虎の児」(初出は1895年10月1日「少年世界」)は、第12編『文福茶釜』の刊行の時点(1895年8月12日)ではまだ刊行されていないのである。
 
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(4)終わりに

 最終配本である第24編『鼠の嫁入』には、「日本昔噺帙入」と題した広告が掲載されている。定価は「壱帙金三拾五銭」「郵税拾二銭」とある。「一寸まア奇麗ですこと、それが昔噺の帙入ですか、六冊づゝで一帙になるの。ほんとに私も、かうして揃へて置きましやう。」と、従来から購入してきた読者にも保存版として購入することを奨めている。この広告は例によって初版のみで確認でき、掲載の場所は奥付の頁である。

 もともと、この叢書の価格は1冊5銭で、6冊まとめると27銭に割引されている。それを6冊入の1帙で35銭で販売するのだから、帙なしとの差額は8銭で、この叢書の1冊分より高価である。したがって、帙入りはそれなりに贅沢な内容の豪華版だということになる。なお、郵税(郵送料)は1冊につき2銭であるから、6冊では12銭で帙入りと同じ料金になる。

 もっとも、「少年世界」誌の広告によると、第2巻第1号(1896年1月1日)と第2号(同年1月15日)に、全く同文の広告が載っている。それは「見よや見よ見よ此帙を/第一帙が出来たぞや/而も奇麗に出来たぞや」云々という内容のもので、「第一帙、第二帙一月出来」とある。その後、帙入本の広告が載っていないので、全24編の完結を待たずして実際に帙入本が刊行され始めたかどうかは不詳である。
今日のわれわれが容易に目にすることのできる復刻版は帙入りであるから、「日本昔噺」叢書は最初から帙入りで刊行されていたかのような錯覚を起こしがちである。しかし、少し考えてみればわかるように、初版は1冊ずつバラ売りされていったのだから、この段階から帙に入れて販売されていたはずはない。帙がついていたかどうかを含めて、ある文献資料が発行当時どのような形態で刊行されていたか、その後どのように変更されていったかということを突き止めることは容易ではない。復刻版は稀覯資料を容易に目にすることができるという点では非常に便利なものだが、同時にこうした落とし穴のあることも事実である。

 ただし、「日本昔噺」叢書に限っては、初版刊行当時の状態がほぼそのままの形で国会図書館に保存されていたことも事実である。これまで、誰も初版をもとに書誌を検討してみようとしなかっただけにすぎない。書誌的研究の場合、常に初版を確認しなければならないことが常識とされながら、最も基本的な文献のひとつに数えられるこの叢書についてさえ、このような状況であったことに驚きを禁じ得ない。


 
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《資料》
「日本昔噺」叢書の構成と刊行状況

[凡例]
  1. このリストは初版から作成することを原則とした。ただし、第17〜18編の初版は現認できず、第19編の初版は欠頁のため奥付を現認できなかった。
  2. 初版を現認できなかった号については重版に拠って発行年月日などを推定し、発行年月日のあとに*印を付した。この場合、なるべく初版に近い版の表記を用いるように務めた。
  3. 各編とも、判形は菊判で頁数は34〜50頁、定価は5銭である。
  4. [  ]内は原本にない補記を意味する。
  5. このリストは『日本昔噺』(2001年8月8日 平凡社)の解説に掲載したものを転載した。
  6. このリスト中には、今日から見て人権上問題のある差別的な表現が一部に含まれるが、それらは過去の社会的背景を反映したものであるから、歴史的な資料性を有することに鑑み、原文のままにした。

  1. 『桃太郎』 富岡永洗画/春のや主人[坪内逍遥]「序」/大和田建樹「ほまれのたから」/小波「口上」「桃太郎」 1894・7・11
  2. 『玉の井』 小林永興画/紅葉山人[尾崎紅葉]「序」/佐々木信綱「桂かげ」/小波「玉の井」 1894・8・5
  3. 『猿蟹合戦』 菅原丹陵画/寧斎主人[野口寧斎]「題詞」/戸川残花「徳不孤必有隣」/小波「猿蟹仇討」 1894・9・4
  4. 『松山鏡』 武内桂舟画/竹の屋の主人[饗庭篁村]「はしがき」/萩の家主人直文[落合直文]「小波山人の松山鏡をよみて」/小波「松山鏡」「十2月の苺」 1894・10・24
  5. 『花咲爺』 水野年方画/思軒居士[森田思軒]「(無題)」/湯浅吉郎「小供と犬」/小波「花咲爺」 1894・12・10
  6. 『大江山』 歌川国松画/眉山人[川上眉山]「序」/中邨秋香「大江山」/小波「大江山」「奴凧の幽霊」 1895・1・28
  7. 『舌切雀』 三島蕉窓画/学海老人依田百川[依田学海]「(無題)」/硯堂主人美静[福田美静]「舌切雀」/小波「舌切雀」「初午の太鼓」 1895・2・20
  8. 『俵藤太』 藤島華仙画/露伴牧童[幸田露伴]「(無題)」/呉竹廼舎島居忱「蜈蚣退治」/小波「俵藤大」「紙雛と高砂」 1895・3・23
  9. 『かちかち山』 寺崎広業画/幸堂得知「はしがき」/秋屋老夫[本居豊頴]「かちかち山の草子を見て」/小波「勝々山」「燕と鯉幟」 1895・5・11
  10. 『瘤取り』 山田敬中画/落合為誠「序」/麓の軒主人[物集高見]「(はしがき)」/小波「瘤取り」「蝿と団扇」 1895・6・14
  11. 『物臭太郎』 梶田半古画/思案外史[石橋思案]「序」/黒川真頼「ものくさ太郎の草紙のはしに書つく」/小波「物臭太郎」「月と雲」 1895・7・25
  12. 『文福茶釜』 鈴木華邨画/志賀[志賀重昂]「序」/清矩[小中村清矩]「日本昔噺といふ草子のはしに」/小波「文福茶釜」「狂:言|魔法弟子」 1895・8・12
  13. 『八頭の大蛇』 尾形月耕画/巌本善治「序」/蓬室主人武郷[飯田武郷]「8股大蛇」/小波「八頭の大蛇」「鳶ほりよ、りよ」 1895・9・10
  14. 『兎と鰐』 高橋松亭画/三昧道人[宮崎三昧]「(無題)」/榲邨[小杉榲邨]「謡曲の詞をかりて」/小波「兎と鰐」「大和玉椎」 1895・10・11
  15. 『羅生門』 筒井年峯画/遅塚麗水「(無題)」/小中村義象「羅生門」/小波「羅生門」「駄法螺」 1895・11・18
  16. 『猿と海月』 久保田金僊画/高橋五郎「日本昔噺序」/こまの家のあるじ[奥好義]「海月と猿のむかしばなしをきゝて」/小波「猿と海月」 1895・12・15
  17. 『安達ケ原』 小堀鞆音画/蘇峯[徳富蘇峰]「(無題)」/諏訪忠元「安達か原をよめる今様」/小波「安達原」「新物臭太郎」 1896・1・15*
  18. 『浦島太郎』 永峯秀湖画/江見水蔭「(無題)」/物集高見「水の江の曲」/小波「浦島太郎」「鴬と風の神」 1896・2・25*
  19. 『一寸法師』 小林清親画/雪嶺迂人[三宅雄次郎]「日本昔噺序」/水野鈔子「一寸法師の始に」/小波「一寸法師」「虎の児」 1896・3・15*
  20. 『金太郎』 右田年英画/元良勇次郎「日本昔噺序」/大田原千秋子「金太郎」/小波「金太郎」「不思議の画筆」 1896・4・23
  21. 雲雀山』 玉桂女史[中村玉桂]画/桜痴居士[福地桜痴]「(無題)」/建部綾子「雲雀山」/大江小波「雲雀山」「雪娘と烏娘」1896・6・2
  22. 『猫の草紙』 浅井忠画/霞城山人[中川霞城]「日本昔噺序」/川島宗端「猫の草紙」/小波「猫の草紙」「人魚」 1896・6・20
  23. 『牛若丸』 橋本周延画/絅斎小史[柳井絅斎]「題詩」/清岡覚子「牛若丸」/小波「牛若丸」「力の鍵」 1896・7・13
  24. 『鼠の嫁入』 河端玉章[川端玉章]画/重剛[杉浦重剛]「(無題)」/翠香女史[水原翠香]「嫁の君」/小波「鼠の嫁入」 「小めくら」 1896・8・20



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