高橋太華の児童文学

―史伝とお伽話を中心に―

「児童文学研究」第26号(1993.9.1 日本児童文学学会)に発表




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 高橋太華(1863〜1947年 本名次郎)は、明治20年代初めから30年代初めにかけて、多数の児童文学作品を遺している。児童文学との係わりは、友人であった山縣悌三郎に協力して雑誌「少年園」の創刊に関与し、創刊号から第13号までの編集主任をつとめたことに始まる。また、石井研堂とは小学校以来の同窓生・友人であり、その関係からも雑誌「小国民」(のち「少国民」)にも関係が深い。作品数はおそらく二百数十篇にのぼると思われるが、本稿では、このうち、最も多数を占める史伝類とお伽話類に絞って、太華の児童文学の特質を探ってみたい。
 なお、木村小舟によれば、「少年園」の巻頭の論文のうち「大部分は、其の筆致よりして、太華山人の手に成れるもの多きに居り」(注1)云々とある。この他にも無署名のものが相当数にのぼると考えられるが、本稿では太華の作品であることが明白に推定できるものを除き、こういった無署名の記事については対象としない。

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 太華の業績中で、最も多数を占めるものは歴史読物であり、このうちの殆どは人物を中心とした史伝である。先行する文献においても「太華山人の『日本十八勇将伝』『本朝五将軍伝』及び『和漢忠烈伝』等は、連続数十号に亘りて、附録式に取扱はれ、精密なる挿絵(永洗、桂舟、鞭音、半古)と相俟つて、『小国民』の特色の一となつた」(注2)と評価が高い。また、太華が史伝を書き始めた1891年は、わが国最初の子ども向き歴史読物の叢書「家庭教育歴史読本」(注3)が刊行され、ベストセラーとなっている年である。この叢書の成功は、これに続く「日本歴史譚」(注4)など歴史読物の大流行をもたらしていくことになる。一方、当時の児童雑誌においても競いあうように歴史読物が掲載されていた。こういった歴史読物の発展と流行の背景には、当時の教育界からの強い要請があったことに注目しておきたい。すなわち、当時の教育界では、功利主義的な色彩が強いとされる「学制」(1872年)の理念から、忠孝を旨とした「教育勅語」(1890年)の理念へと、転換が行われていた。これに伴って、忠孝を尽くした人物を中心に国史を教えようとする歴史教育の方向が確立され、子ども向けの歴史読物が待望されていたのである。
 ところで、太華が「小国民」に史伝を執筆するようになった頃、太華は未だ少年園社に籍を置いていた。のちに「少国民」の発行元となった北隆館の社史に、「高橋太華氏は発行者の高橋氏(高橋省三のこと―引用者)とは旧友で其初号発行の相談相手で種(ママ)の材料殊に史伝の記事は毎号其筆に成つた」(注5)という記述があるが、この記事によると、太華は「小国民」の創刊当初から関係していたということになる。ちなみに、太華の署名入り作品が初めて「小国民」に見えるのは1890年12月18日号の「美少年」(ただし、岳仙草の署名を用いた)で、これは同誌の第25号にあたる。また、この間の事情については、太華自身の記述によると、「或日学齢館館主、余を根岸の僑居に訪ひて、曰ひける様、今日世に行はるゝ雑誌の数、千百にも超ゆれと(ママ)も、発行の部数万に上るものは稀れなり、况して二万三万に至るものをや、(略)されば此際非常に奮発して、本誌に毎号八頁の附録を添えんと欲するなり、先生願はくは筆を捉りて此附録を助け給へと。世にも稀なる其志、筆を採るは鍬を把るよりも嫌ひなる性質(うまれつき)なれと(ママ)も、かく聞く上はいかて(ママ)辞まんやと答ふに」(注6)云々であるという。この記述によれば、1891年の初頭の時点では、太華は社外からの協力者という立場にあったこと、そして、史伝を執筆するようになった直接の動機は、個人的なつきあいのあった高橋省三からの強い要請であったことがわかる。
 太華の史伝の特徴は、第一に、出来る得る限りの資料を吟味し、考証に正確を期そうとする姿勢である。『河村瑞賢』(注7)の「緒言」によると、「河村瑞賢の事諸書に散見すれと(ママ)も、年代事実等区々にして大に異同あり、中には誤りて紀伊国屋文左衛門の行とせらるゝものも少からず。此編年暦は専ら墓碣銘平生の行為及び一生の事業は、諸書中稍拠るべきものを参考せり」「本書を編するに引用したる書目の大畧左の如し」などとある。このように、資料の採否及び根拠となる資料の検討を重視する。そして、その上で、資料の記述を鵜呑みにせず、太華自身の判断を加えて記述がなされる。例えば、諸葛孔明については、「草盧三顧の事は、陳寿の三国志に基くことなれども、魏略には孔明劉備の許に至て説ける由詳に載す。魏略も古き書なれば、必ず三国史の説にも拠り難けれど、亮が上表に先帝自ら枉屈して臣を草盧の中に顧る云々とあれば、三顧の事疑ふべからざるが如し」(注8)というように、太華の判断が下されている。
 第二に、人物の事跡を記述する際には、誤伝や誇張、後世に付加された伝説・風聞の類を極力排除しようとする姿勢が顕著である。例えば、源義経については「世に伝ふらく、義経衣川に死せず、蝦夷に渡り、満州に入りぬと。此説に附会して様々の事を挙げて実にせんとするものあり」という説を紹介したあと、「義経の如き英雄の人、漫(みだり)に死を軽ぜずして逃れ去りしやも量り知り難し、されば蝦夷に渡りたりとの説は必す(ママ)しも虚談(なきこと)なりとも断め難し、唯今日まて(ママ)に義経の蝦夷に渡り満洲(ママ)に入りしとて、挙ぐる證拠は牽強附会、芒漠として雲を攫むが如きに過ぎざるが故に、一の想像説と見なして此には取らず」(注9)と断じている。熊谷直実についても「世に直実敦盛を討て世の無情(ママ)を感じ、仏道に帰せりといふは、平家盛衰記に拠るものなれども、例の作り話し取るに足らぬことヽ知るべし」(注10)とするなど、その姿勢は一貫している。
 こうした太華の姿勢の背景には、徹底した合理主義が窺える。すなわち、古書の記述について太華が誤りであると判断するものには、不可思議で合理的な説明のつかない記述に関するものが多いのである。太華の姿勢が最も良く顕れている例として、「孝女万寿伝」(注11)の本文中の一節を次に引用しておく。
万寿の事を記せしもの少からず、然れども世の人の能く知れるは、唐絲草紙及び頼豪怪鼠伝の二つなり、唐絲草紙は古きものなれども、中に奇怪に亘る節あるを免れず、怪鼠伝は馬琴が唐絲草紙を本として造り設けたる小説なれば、素より取るに足らず。此篇は重に唐絲草紙に拠り、他の五六の書を参考して、唯少年の解するを旨として記述したるものなり、怪しきことは一切採らず、信ずべきもののみを拾へり。
 他にも、源頼光について「頼光が武勇に関しては、土蜘蛛退治酒顛童子退治の如きこと、世に伝はること多けれども、真しからぬことのみなれば、此には載せず」(注12)など、その例は多い。このような方針のためか、平清盛の熱病に関する有名な条についても、「其病はいとも激しき熱病にして、苦痛堪へ難きに、石船に水を湛へて、其中に浴しけれども、木(ママ)忽ち沸きかへるばかりなりしとぞ」(注13)として、〈とぞ〉とあくまでも伝聞の体をとっている。また、ジャンヌダルクについても、「終に『仏蘭西の王位をして、再び確立せしめ、外国の兵を駆逐するは汝が任なり』との天命を受けたりと想像せり。是れ、只苦心焦慮の余に出でたる夢想に過ぎざりしが、尚ほ未だ経験に富まざる少女なれば、飽くまで天命を受けたるものなりと自信せり」(注14)としている。このように、神の啓示なくしてはジャンヌダルクの活躍は有り得ないので、啓示は少女の〈夢想〉にすぎないという注釈をわざわざ付け加えるという徹底ぶりである。
 なお、「新田神社」(注15)は、新田義興に関する怪異譚を記した作品であり、太華の史伝としては異例である。だが、この場合にも、「義興亡後祟をなせしことに就いては様々の話しあれども一も信しからず未開の世の常として亡霊亡魂の奇怪を事々しく伝ふるものなれば是れまた異むに足らず言ふに足らず素より根もなき浮説に過ぎず、唯当時の人の思想(こころ)を知らんの料として之を見れば奇怪なる浮説も秋の夜の話し草の種子には面白き節なきにしもあらざれば此に語らん歟あなかしこ真実(まこと)にありし話しとな聞き給ひそ」と言わずもがなの断り書きを書いており、こういうところにも、太華の合理主義が顔を覗かせている。
 第三に、史伝中に取り上げる人物についても、架空の人物や実在の疑わしい人物は排除されている。ただ、実在が疑わしいと思われる人物であっても、武田信玄配下の武将山本勘介のように例外的に取り上げられていることもある。しかし、この場合にも「山本勘介がこと、甲陽軍鑑及び系図の外拠るべきものなし、軍鑑は妄説謬談更に取るに足らざるものなることは先人の論ずる所なり、されは(ママ)勘介の如き人物も実にありしにあらずといふものあり、その論は姑く置き、唯世に伝ふる山本勘介とは如何なる人かを少年諸子に知らせんとするのみ」(注16)という断りを冒頭部に付して記述を始めている。したがって、太華の史伝には神話時代の伝説上の人物は殆ど登場しない。もっとも、「和漢忠烈伝 日本武尊」(注17)の場合は異例である。また、「和漢忠烈伝 和気清麻呂公」(注18)においても、道鏡の刺客が清麻呂を襲う時、「俄に鳴神はためきて」云々と記している。このように、皇室に纏わる神話・伝説に関しては、例外扱いをしているようである。
 以上のとおり、太華の史伝には、主観を排し考証に正確を期して、空想・想像や作りごとめいた事を排する姿勢が見られることを述べてきた。しかしながら、太華は全くこのような記述の態度に終始していたわけではない。子ども向けの読物であるということから、太華なりの思いが込められていることもまた事実である。すなわち、「此書を編するに引用したる諸書は、最も古くして且つ最も正確に近きもののみを択びたり。然れと(ママ)も、事実に害なくして少年に益あることは、俗書と雖捨てざる處亦少からず、是れ少年の心を楽めんを主とすればなり」(注19)と自らの狙いを語るような例は、しばしば見受けられる。こうして、太華は考証に重点を置きつつも、自らの思い、すなわち〈事実に害なくして少年に益あること〉を子どもにむけて語りかけるという観点をも導入しているのである。また、太華が作品中において、あくまでも〈少年の心を楽しめんことを主〉としていることにも、注目をしておきたい。これは明治期の児童文学一般に見られる態度でもあるが、児童文学を通じて子どもを楽しませながら教育しようとする児童文学観をここに見ることができる。そして、子ども向けであっても安易に程度を落とさない。今日の観点から見れば限界があるものの、それなりに子どもに向けた真剣なまなざしが窺える。
 上記のような太華が子どもに向けた思いは、時として、作品中に直接顔を覗かせる場合がある。例えば、「項羽」(注20)の冒頭部には「余は奸侫邪智唯功を己に収むるを目的とする所謂偉人よりは、この直情径行力山を抜き気世を蓋ふの快男子を愛するなり。いでや快男子の行為(しわざ)の略(あらまし)を語らんか」という思いを記述している。また、伍子胥が亡き暴君の墓を鞭打ったというエピソードについて、「仮令暴戻の事多かりしも、君はこれ君なり、况して既に死して久しきをや、君臣の義、争でか其墓を発き、其尸を鞭つが如きを得べき、其節義の心なき甚だしといふべし。然れども支那の君臣の間は我が国の君臣を以て律し難きものあり、况や戦国の世、父を殺し君を弑すを以て風となせし時をや、伍子胥の如く其父を思ふものも亦得難かりしなり」(注21)としている。これは、中国と日本の忠の概念の違いと、戦国の世に親に孝を尽くすことの尊さについて、注釈風のスタイルをとって読者に語りかけたものである。
 しかし、上記のような例よりも、史伝に取り上げる人物の人選ということ自体に、太華の子どもに向けた思いが明確に顕れているだろう。
 まず、太華の史伝では、「北畠親房」(注22)「楠木正成」(注23)など南朝方の武将を取り上げた作品が多い。これらの史伝では、当然のことのように、南朝正当論に立った史観に基づいて執筆がなされている。その為、敵方として描かれる北朝方の武将は、「尊氏素より野心を抱くこと深かりければ、独り護良親王を退け奉りしを以て足れりとせず、猶ほ義貞の威望あるを悪み、折もあらば之を無きものにせんと企てたり」(注24)というように、悪人・逆臣として描かれる。したがって、北朝方の武将が主人公に取り上げられた例は、「本朝五将軍伝 足利尊氏」(注25)以外に確認できない。〈本朝五将軍伝〉に選ばれた武将は、源頼朝、足利尊氏、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康であり、この人選は、いずれも天下の覇者となった武将を取り上げようとしたものと考えられる。その為、太華としては、他とのバランス上、尊氏を無視するわけにはいかないので、やむを得ず北朝方の武将を取り上げたのかもしれない。
 ちなみに、先にあげた「本朝五将軍伝 足利尊氏」の内容をみると、尊氏は必ずしも逆臣として描かれていない。次に掲げるのは、尊氏が配下の武将に語る心境である。
『我が官位顕達今日に至りしは、微功に由ると雖も、豈君の鴻恩に非ずや、恩を戴きて恩に反くは臣たるものゝせざる所なり、仰今(そもそも)君の逆鱗あるは親王を失ひ奉りたると、軍勢催促の両条なり、是一も尊氏が所為にあらず、此子細を陳ぜば逆鱗などか静まらざらん、方々は兎もかくも、尊氏に於ては君に向ひ弓を引き矢を放つことあるべからず、さても遁る所なくば剃髪染衣の形にもなり、君に不忠ならざることを子孫に残すべし』
こうして、南朝方の武将を主人公とした史伝に描かれる場合とは違って、尊氏は決して朝廷に反逆する意思はなかったとされている。そして、「尊氏は建長寺に入りて、出家せんとて既に髻を切りし折なれば、直義驚きて尊氏直義降参するとも出家するとも許すべからざるよし認めたる偽りの状を作り、これを敵の屍より得たりとてさし示し、遂に遁れ難き身なれば出でゝ敵を拒ぎ給へと、様々に説きしかば、尊氏遂に志しを決し」云々というように、弟の直義の企みが反逆の背後にあるということになっている。その上で、「降参するものならば深讎大敵なりとも其領地を奪ふ如きことをせず、况して功ある臣をや、必ず重祿厚賞を酬いんとするなり」というように、尊氏は人徳のある人物として描かれているのである。
 このように、太華の史伝では、逆臣とされる北朝方の武将でさえ悪人として描かれず、悪人・逆臣の類はついに主人公としては一人も取り上げられなかった。これは、欠点については一切記述せず、美徳のみを強調するという点で、現代もなお、多くの伝記読物に共通して見られる記述態度である。だが、何はともあれ逆臣とされる尊氏を取り上げたこと自体、先にあげた「家庭教育歴史読本」や「日本歴史譚」といった当時の歴史読物のベストセラーには見られない特徴であろう。
 次に、源義家(注26)や島津義弘(注27)のような武将、藤原鎌足(注28)のような忠臣、文覚上人(注29)のような僧侶を多く描いていることが、特徴として挙げられる。いずれの作品においても、主人公は勇敢・頌武といった気風、信念を曲げずに困難に打ち勝つ気構え、忠孝を尽くす美徳などを備えた人物として描かれている。歴史上に有名な人物の他には、「少年園」に「忠僕」(注30)と題して、主人の没落後も忠義を尽くし続ける庶民を描いている。
 また、主人公に女性が取り上げられることは少ない。女性が取り上げられたことを確認できたのは、「孝女万寿」(注31)「思川(おもひがは)(烈婦伝)」(注32)「如安達克(ジヨアンダーク)」ほか四編の場合のみである。外国人のジャンヌダルクを除いた日本の女性は、主人や親または子に良く仕えるということを通じて忠義や孝行を尽くし、貞節を守った人物である。いずれも能動的に行動するのではなく、他人に尽くすか仇を討つ女性として描かれている。こうしたことは、明治期の作品であるから当然ではあろうが、ここに太華の女性観が反映しているということも事実である。
 他には、「貝原益軒」(注33)「中江藤樹先生」(注34)のような学者や、「頼山陽」(注35)「渡辺華山」(注36)のような文人が、多く主人公として取り上げられている。いずれも、誠実に学問や文学・絵画の道を究めた人物として描かれる。「寛政五大小説家」(注37)では山東京伝、十返舎一九、式亭三馬、柳亭種彦、曲亭馬琴を取り上げ、彼等の奇行なども紹介しながら、太華が得意とする江戸文学の知識に基づいた記述を行っており、同時代の歴史読物と比べて珍しい。
 最後に、薩長土肥出身の明治維新の功臣について取り上げられている例は、全く確認できない。維新の英雄としては、唯一、「開陽丸」(注38)で榎本武揚が取り上げられているだけである。先に掲げた「美少年」では、戊辰戦争で板垣退助の命を狙う会津の少年武士の最期を感動的に描いている。これにらついては、太華が旧二本松藩の武士の家に生まれ、幼児期に戊辰戦争の敗戦を体験していることが影響しているのかも知れない。維新後は、徴兵忌避者として隠れた生活を送っていた時期もあった。こうしたことから、薩長土肥の功臣を取り上げることを良しとしなかったのであろう。また、東海散士『佳人之奇遇』(注39)は柴四朗の原案、太華・鈴木天眼・西村天囚の協力、太華の執筆により成ったと言われる。かくして、太華の反骨精神と政治への関心の高さが窺える。

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 太華の作品中、史伝に次いで数が多いのは、お伽話の類である。このジャンルの作品を纏めた単行本には『宝ばなし』(注40)があり、「三の宝」(注41)「盲目と聾耳」(注42)「宝の珠」(注43)「三太郎」(注4)の四作品が収録されている。お伽話は、「小国民」誌上に〈昔の翁〉〈日暮(ひぐらし)の翁〉という名で掲載されることが多かった。その為、太華の史伝が従来から注目されていたのに対して、太華がお伽話を執筆していたことについては、これまでの文献では殆ど触れられていない。
 太華のお伽話を最初に確認することができるのは、「小国民」の1891年1月3日号に頽花老人の名で掲載された「太郎丸」という作品である。署名入りの作品としては太華の全作品を通じて第二作めにあたり、史伝の掲載開始に先だつ早い時期に書かれている。この作品では、臆病者が偶然に手柄を立て勇者であるかのように思われるというモチーフが、グリムの「いさましいちびっこのしたてやさん」(KHM20)にきわめて似かよっている。後に詳しく述べる『宝ばなし』の「緒言」に〈翻案〉のあることが明記されていることや、この頃、「小国民」誌上で中川霞城がグリム童話の翻訳紹介を行っていることからすると、あるいはグリム童話がヒントになっているのかもしれない。もっとも、出典が明記されていないので、原話については推定の域を出ない。
 上記の「太郎丸」に較べると、「三太郎」の場合は推定が容易である。「三太郎」では、愚か聟があらかじめ嫁から注意されていたにもかかわらず、嫁の実家によばれて大失敗をする。つまり、日本に広く分布する典型的な〈愚か聟話〉のモチーフを借りている。また、「あやうい物語」(注45)は鰐が猿の生胆を取ることに失敗するというモチーフの作品であり、〈海月骨なし〉のモチーフを借りている。外国の昔話の明らかな影響としては、「宝の珠」が例に挙げられるだろう。珠を擦ると有翼の〈偉人〉が出現して主人の命令をきくこと、主人公と〈姫君〉との結婚の条件である宮殿をこの〈偉人〉が一夜にして完成することなど、アラビアンナイトからモチーフを借りている。また、「怪力五人兄弟」(注46)はビショップの再話「シナの五人きょうだい」と同じモチーフの作品である。この点については鳥越信が「日本に紹介された中国民話の子ども向け再話として最も初期のもの」(注47)という論及をしたことがあったが、この作品が太華の作であることまでは突き止められていない。
 ただし、太華のお伽話は、日本や外国の昔話をそのまま再話・翻案するのではなく、お伽話の一部に昔話のモチーフを借りながら、全体としては新しいお伽話として創作するという態度に徹している。したがって、太華のお伽話には、昔話のモチーフをストーリーの一部に取り入れたり、異なるモチーフを組合わせたりしても、昔話を再話しようとする姿勢が見られない。同時代に活躍した巌谷小波や石井研堂には昔話をスタンダードな型にまとめようとした姿勢が見られるが、こういう所に違いが現われている。
 ところで、太華のお伽話では、教訓性ということが重視されている。ストーリーの変化と面白さに重点が置かれながらも、子どもがストーリーを楽しむ中で教訓を学ぶことができるように配慮されているのである。これは、明治期のお伽話(噺)に共通して見られる特徴であろう。教訓臭の強い記述には、「人を怒らすも喜ばすも唯一言にあることがよくあります、ですから言葉は慎まなければなりませぬ」(注48)のような例がある。時には、「賢くても悪い奴は悪い報いを受け、馬鹿でも正直なれば幸福(しあはせ)を受く。だから悪い事は決して為すべからず、諸君(みなさん)御分りになりたるやいかに」(注49)「凡べて金銀は幾百万あるとも、尽くる時あれば、永き宝とし難し、唯幸福(しあわせ)は価値(ねうち)なきこと硝子玉の如きに過ぎざれども、一生身を安ずるの宝となることこの『宝の玉(ママ)』の如し。さて此宝の珠は如何(いかん)して得らるべきぞ。解つたか。少年諸子。」(「宝の珠」)と直接読者に呼びかけて教訓を垂れる場合も見受けられる。また、「三太郎」の初出では、一番最後の言葉が「何と馬鹿馬鹿しい男もあツたものではありませぬか」で終わっているが、単行本への収録にあたっては、すぐこれに続けて「併し三太郎の馬鹿々々しいのは、唯馬鹿の馬鹿らしい丈だが、世には大さう利口がツて実は此三太郎の様なことをして居る人がありはしませぬか」と教訓を垂れる。これは、初出では昔話研究でいうところの愚か聟話として完結していたものが、単行本化にあたって取って付けたように教訓性を付与された例である。
 他には、「海津の金と高島のおほゐ子」(注50)のように、伝奇的な要素の強い作品も見受けられる。
 なお、前述の『宝ばなし』には、次のような「緒言」が附されており、刊行の趣旨が記されている。
 予に二人の女児(によじ)あり、姉は六歳にして妹は三歳なり。予は晩餐の後両児を膝に控へてこれに猿蟹桃太郎の御伽話を語り聞せて其膝を枕に眠らしむるを常とす然(ママ)るに漸くにして両児は在来の話に聞き飽き、更に新しきをと請ふこと頻りなるがまゝに、已むことを得ず、其理解力に相応する単純の結構(しくみ)にして、且つ奇に走れども無邪気の心を奪ふに至らざる小話を新作し翻案して夜な夜なの話種(かたりぐさ)とすること数十に及べり。唯是れ皆無味淡泊更に修飾なき小話に過ぎざれば筆に載せ紙に顕はして世に出すべきものにあらざるのみ。されと(ママ)も亦世間の広き子を持ち給ふ父母にして無邪気なる愛らしの子供に語り聞する無邪気なる話しの種に尽きたる予の如き人なきにしもあらざるべし。乃ち且つ其人の助け且つは子供の友に供せんとして此に書肆の需むるがまゝ草稿を授けて剞■{厥・(刊−干)}に附せしむるになん。
 上記の「緒言」によれば、収録作品はわが娘に〈夜な夜なの話種〉として語って聞かせたものの〈筆に載せ紙に顕はして世に出すべきものにあらざるのみ〉というものであるかのように書かれている。だが、実は収録された全作品が「小国民」に初出の作品であって、これは事実ではない。また、自分の娘に語って聞かせたことがお伽話の執筆動機であると太華は言うが、お伽話の初出の時期からすると、娘の年齢が「緒言」の内容と合わないので、そういうことはありえない。つまり、「緒言」自体がすでに作り話(フィクション)なのである。このように、太華のお伽話は徹頭徹尾作り話として描かれているのであり、戯作的な遊び心が窺える。そして、「奇に走れども無邪気の心を奪ふに至らざる小話」というのは、事実の考証に正確を期そうとする史伝とは、全く対照的な執筆態度である。
 続橋達雄は太華の子ども向けの単行本『河村瑞賢』と『新太郎少将』(注51)について「歴史上の人物を借りながら、実質は文芸作品に近い」(注52)と評している。『河村端軒』は、江戸時代に無一物の状態から身を興し、一代にして富を築いた河村瑞軒の事跡を記した歴史読物である。正体不明の老人に諭されたことがきっかけで智恵と才覚によって富を築いた瑞軒が、江戸の大火に直面すると材木でさらに儲ける。その上で、幕府より海運や治水の事業を命じられるなど、世のために尽くすという梗概の作品である。この作品に於いては、先に触れたように、参考資料を冒頭に明記するなど史実に忠実であろうとする配慮がみられる。しかし、その一方で、利己的な儲けだけを考えるのではなく、世のために尽くすという瑞軒の姿勢を強調し、出世のきっかけをつくってくれた老人への恩返しのエピソードを配するなど、子どもに対する配慮が見られる。また、「瑞軒の智慧」という江戸時代の流行り言葉の由来から書きおこして、子どもが興味を持つように配慮している。以上のように、『河村瑞賢』は、史伝の手法を多く取り入れながらも、基本的には、史伝の手法とは異なるお伽話の手法で書かれていると言えるだろう。
 『新太郎少将』は江戸時代初期、因州鳥取藩主の池田光政という実在の人物を主人公としながら、史実に忠実ではなく、読物として執筆されている。ストーリーを紹介すると、幼少にして藩主の座についた新太郎少将(光政)が民情を知るため密かに城を抜け出して巷間に旅をする。旅の途中、悪人・盗賊に遭遇し、三度も窮地に立つうちに、亡父の落胤の秘密を知る。落胤は実在したものの、三歳のおりに幼逝していた。その後、新太郎は密かに幼君を護っていた家臣に助けられ、旅を続けて帰国すると、偽の落胤が城下に現れている。新太郎はこの企みを破って藩の危機を救う。以後、新太郎は民情を熟知して人心を掴み、名君として領内を治めたというものである。少年藩主が人買いに売られようとしたり命を奪われようとする危機に直面するたびに、いかにその危機から脱するかということに興味をかき立てられる。また、当初から登場する見るからに悪人らしき風体の武士が、実は幼君を護るため密かに家老の命令を受けて跡を慕ってきた家臣であったという意外性、ストーリー展開のテンポの速さなど、読者の心を掴む工夫が随所にみられる。主人公がスーパーマン的な力をもつのではなく、かよわい少年でありながら、知恵と勇気によって危地を脱するところに、読者である少年の共感を得たのであろう。書き講談風の諸国漫遊譚の一種ではあるが、卑俗な趣味に流れることなく、破綻も見られない。末尾に国を治める要について「重箱に盛れる味噌を、円き匙をもて撈ひ取るが如し」と教訓的な記述が見られるなど、作品の書かれた時代らしさもみられるが、こういった教訓臭の存在は、のちの大衆的児童文学に通じる点でもある。
 太華は史実に基づかない創作読物を、時には〈お伽話〉と呼んでいるが、時には〈小説〉という角書き類を添えている場合もある。つまり、太華の言う〈小説〉は、今日で言うところのそれとはかなり異なった意味で用いられていると考えられる。この点については、太華が「小説の沿革」と題する記事を「少国民」(注53)に掲載していることが、参考になるだろう。この記事中では、「竹取物語」を我が国最初の〈小説〉であるとし、江戸期に至るまでの〈小説〉を概観している。太華にとってすべてのフィクションは〈小説〉であった。そして、歴代の〈小説〉家の中では、馬琴について「専ら支那の小説に模倣し、主意を勧善懲悪の四字に取り、務めて演劇と相近づくを避け、大に従来の諸弊を一洗し、全く小説の大改革を断行し、遂に我国小説の趣向をして一変するに至らしめたり」と、最も高く評価する。この評価には、自らが創作する〈小説〉はいかにあるべきかという太華の理想が託されている。このように、太華にとって〈お伽話〉〈小説〉とはあくまでも江戸期の戯作文学の延長なのである。

(4)


 確認できた限り、太華の最後の子どもむけ作品は「少国民」の1899年9月1日号に掲載の「小西行長」である。この頃、友人の石井研堂が「少国民」の編集から退いているが、これが直接のきっかけとなって児童文学の世界から身をひいたと思われる。また、この時期には児童文学への関心が薄れていたということも考えられるだろう。翌年には岡倉天心に日本美術院に招かれ、「日本美術」誌の編集などに携わっている。これには、「小国民」を通じて親しかった同郷の塩田力蔵の力添えがあったともいう。その後、東京高等師範学校の委託調査(1908年 歴史参考品収集の為中国河南・陜西地方)や農商務省関係の仕事(1911〜12年)を経て駒沢大学漢文学作詩科の講師(1931〜41年)をつとめるなど、児童文学とは離れた分野で長く活躍している。
 なお、太華の児童文学上の業績には、史伝類とお伽話類のほか、「空鉄砲の記」(注54)のような紀行文、「上野の日本絵画協会」(注55)のような辛口の美術評論、「金玉均氏を憶ふ」(注56)のように韓国の亡命革命家について述べた政論風の随想など、多彩なものがある。紙数の関係でこれらに触れることはできなかったが、今後の課題としたい。

(注1)木村小舟『少年文学史 明治篇 上巻』1942年7月10日 童話春秋社
(注2)注1に同じ。
(注3)落合直文・小中村義象 1891年2月〜92年10月 全12冊 博文館
(注4)大和田建樹 1896年12月〜99年12月 全24冊 博文館
(注5)『北隆館五十年を語る』1940年11月4日 北隆館
(注6)「九郎判官義経」連載の冒頭に附した「はし書」(「小国民」1891年1月18日)頽花老の名で掲載。
(注7)太華散人 1892年11月2日 「少年文学」叢書第15編 博文館
(注8)太華「和漢忠烈伝 諸葛孔明」(「小国民」1893年10月18日)
(注9)太華散人「九郎判官義経」(「小国民」1891年4月18日)
(注10)岳仙「熊谷次郎直実」(「小国民」1894年9月15日〜10月1日連載)
(注11)「小国民」1891年7月18日 頽花散人の名で掲載。
(注12)太華山人「源頼光」(「少国民」1899年1月1日)
(注13)太華山人「平清盛」(「少国民」1898年9月15日)
(注14)岳仙叟「如安達克(ジヨアンダーク)」(「少国民」1897年12月1日)
(注15)太華山人「少国民」1898年11月15日
(注16)太華「和漢忠烈伝 山本勘介」(「小国民」1893年12月18日)
(注17)「小国民」1894年4月3日 岳仙叟の名で掲載。
(注18)「小国民」1893年6月3日 太華の名で掲載。
(注19)太華山人『太閤秀吉』(1893年1月28日 「少年文学」叢書第17編 博文館)の「緒言」
(注20)「少国民」1899年2月1日 太華山人の名で掲載。
(注21)岳仙叟「伍子胥伝」中(「小国民」1894年2月3日)
(注22)「小国民」1891年9月3日 無署名だが連載の状況から執筆者を太華と推定。
(注23)「少国民」1896年7月1日〜10月1日 太華山人の名で4回連載。
(注24)「新田義貞」(「少国民」1898年6月1日)
(注26)撮嚢庵草「日本十八勇将伝 第一 八幡太郎源義家」(「小国民」1892年4月3日)
(注27)太華山人「島津義弘」(「少国民」1895年2月15日〜5月1日 3回連載)
(注28)太華「和漢忠烈伝 藤原鎌足」(「小国民」1893年10月3日)
(注29)太華「文覚上人」(「小国民」1893年7月3日〜8月3日 2回連載)
(注30)1893年5月18日〜7月3日 太華の名で4回連載。
(注31)「小国民」1891年6月3日〜7月18日 頽花散人の名で4回連載。また、同じ題材で「孝女ます」(「少年園」1892年12月3日)を太華山人の名で著している。
(注32)「小国民」1895年9月1日 撮嚢菴主人の名で掲載。
(注33)「少国民」1896年3月20日 岳仙の名で掲載。
(注34)「少国民」1897年4月15日 太華の名で掲載。
(注35)「小国民」1891年12月3日 無署名だが連載の状況から執筆者を太華と推定。
(注36)「少年園」1893年1月3日 及び「少国民」1897年6月15日〜7月1日に太華山人の名で掲載。両者は同名、同内容の作品だが無関係。
(注37)「少国民」1898年2月15日〜5月1日 太華山人の名で6回連載。
(注38)「小国民」1892年1月3日 太華の名で掲載。
(注39)1885〜97年 博文堂
(注40)1896年5月23日 嵩山堂 太華山人の名で刊行。
(注41)初出は「小国民」1895年6月1日。「三宝物語」と題し、日暮の翁の名で掲載。
(注42)初出は「小国民」1891年2月18日〜3月18日。昔の翁の名で3回連載。
(注43)初出は「小国民」1894年9月15日〜12月1日。太華山人の名で6回連載。
(注44)初出は「小国民」1895年7月1日。昔の翁の名で掲載。
(注45)「小国民」1892年7月18日〜8月3日 昔々の翁の名で掲載。ただし、昔の翁は太華であることが確定できるが、昔々の翁が太華であるということは前後関係からの推定による。
(注46)「小国民」1895年4月1日 日暮の翁の名で掲載。
(注47)「雑誌『小国民』(のち『少国民』)解題(四)」(「国際児童文学館紀要」第7号 1992年3月31日)
(注48)日暮の翁「乞食の立身」(「小国民」1895年8月1日)
(注49)昔の翁「猿松」(「少国民」1896年7月1日)
(注50)「少年園」1894年1月3日 太華の名で掲載。
(注51)太華山人 1893年10月7日 「少年文学」叢書第21編 博文館
(注52)『児童文学の誕生』1972年10月1日 桜楓社
(注53)1898年1月15日 太華山人の名で掲載。
(注54)「少年園」1894年2月18日 頽花の名で掲載。
(注55)「少国民」1897年4月15日〜5月1日 岳仙の名で掲載。
(注56)「少年園」1895年1月18日 太華山人の名で掲載。