有本芳水の少年小説

「児童文学研究」第33号(2000.12.31 日本児童文学学会)に発表



 =目次=

(1)はじめに
(2)初期の少年小説
(3)《悲哀小説》の展開
(4)《冒険活劇もの》の展開
(5)滑稽小説ほか
(6)おわりに


(1)はじめに


 有本芳水は少年詩の創始者として高い評価を受けている。
 当時の子ども読者からは、熱血詩の児玉花外と並び賞されて絶大な人気を集めた。今日においても「総じて文語定型詩のなだらかで安定した詩型は音読し暗誦しやすく、固有名詞と風景とがあざやかな色彩を伴って結びついている。その底に流れる漂泊の感傷性・孤独な思いが、自我にめざめる思春期の心情に訴え広く愛誦された」(『日本児童文学大事典』1993年10月31日 大日本図書)とされる存在である。先行する研究文献も、少年詩の業績について取り上げたものがほとんどを占めている。
 しかし、その一方で夥しい数の少年小説をものしており、これらを等閑視しては、芳水の児童文学史上への位置づけを正しくなすことはできまい。
 後年、芳水は「「日本少年」にいた頃」(『児童文学への招待』加太こうじ・上笙一郎編 1965年7月5日 南北社)と題し、自らの少年小説に言及。「明治四十五年四月になって、社内に移動が行われて私は「日本少年」記者になった。多年の宿望が達したのであった。主筆は滝沢素水、私は編集長であったが、私は毎号に亘って少年小説をかいた。感傷的で、情緒を漲らせた小説であったので、これを「悲哀小説」と名づけた」と回顧している。
 また、「有本芳水氏訪問記」(鳥越信「日本児童文学」1962年4月号)によると、「有本さんは詩のほかに、いわゆる冒険活劇ものもお書きになっていますが、あれはどういうわけですか」という質問に、「あれはね、読者の中には文学好きばかりがいるわけじゃない。ほかにそういう要素もなくちゃと思って自分では気が進まなかったけど書いたんです。それ以前に押川春浪とか江見水蔭とかのものがありましてね。私は子どものときに読んだ『十五少年』、これは翻訳ですが実にこなれた文章でね、まあ、そういうものを考えていたんですがね」と答えている。《冒険活劇もの》への限定ではあるけれども「気が進まなかったけど書いた」とは、きわめて否定的な物言いではある。《悲哀小説》については幾分かの価値は認めるが、《冒険活劇もの》については価値なしといわんばかりのニュアンスを、われわれは受け止めることができるだろう。しかし、それでは芳水の少年小説、なかんずく《冒険活劇もの》は全く価値なしと断じて良いものであろうか。
 本稿では芳水が「日本少年」の編集にかかわっていた期間に、単行本として刊行されたり、「日本少年」に掲載されたりした少年小説について検討する。芳水は「少女の友」にも多くの少女むけ読物を寄稿しているが、本稿では対象から除いた。他日を期したい。なお、本稿中で発行所名を省略した単行本は実業之日本社の刊行、雑誌名を省略した作品や記事は「日本少年」への掲載である。

(2)初期の少年小説


 「少年倶楽部」が登場して編集者と執筆者の分業制を確立するまで、児童雑誌の編集者はその雑誌の主要な寄稿家でもあり、スター編集記者が自ら執筆する創作やその他の記事が雑誌の売り上げを左右した時代であった。実業之日本社から刊行(1906六年1月創刊〜1938年10月終刊)されていた「日本少年」こそ、こうした時代の最後を飾る児童雑誌である。創刊時から「日本少年」の発展の歴史を概観すると、初代主筆の星野水裏・第二代主筆の石塚月亭の時代は強力なライバル誌「少年世界」と競いあった草創期、第三代主筆の滝沢素水の時代が躍進の時代であり、第四代主筆の有本芳水の頃こそ、最も輝いた時期であった。芳水が主筆として編集に携わった最後の年の正月号は35万部を売り尽くして、質・内容ともライバル誌を遥かに凌駕し、文字どおり少年雑誌界の覇者となった。
 芳水の「日本少年」編集記者時代は、1912年1月号から素水主筆のもとで編輯長に任じられたことに始まる。編輯長とは言っても、当時の実業之日本社が刊行する雑誌では、専任の編集記者は「主筆」と「編輯長」の二人だけであった。「主筆」は今日の編集長、「編輯長」は編集次長に相当する。その後、1913年1月号からは主筆に昇格して松山思水を編輯長に据え、1919年10月、「実業之日本」主筆に転出するまでの約10年間を「日本少年」の編集記者として活躍する。この間、芳水はほぼ毎号の「日本少年」誌上に少年詩と少年小説の組み合わせで作品を掲載し続けている。
 少年小説の第一作めは「冒険小説山中の火」で、1912年1月号〜5月号への連載。2月号からは「さて皆さん、この次は如何なるでせうか」と読者から次回の構想を募集し、「私はそれを撰びよく出来てゐるのを参考にして続きをかきます」という実験的な手法を用いている。内容は誘拐犯の手に落ちた母を勇少年と父が取り戻すもの。巣窟の目星までついたのに警察の力を借りようとせず、父子の力だけで凶悪な犯罪集団と戦う点に無理があるし、軍事的要素も皆無ではあるが、その後の芳水の《冒険活劇もの》のはしりである。
 第2作めはこの年の3月春季増刊号に掲載された「立志小説馬上」である。強介少年の家は旧幕時代には立派な武士の家柄であったが、今は落ちぶれて土佐の山村で馬曳きを生業にしている。小学生の強介は学業優秀で、相良先生に将来を期待されていたものの、貧困ゆえ進学は諦めざるをえない。卒業前のこと、相良先生は病気で亡くなり、強介は悲しみにくれて家業に従事。そのもとへ、相良先生のお母さんから強介が高知の町の中学校へ進む世話をするという手紙が来る。こうした少年小説は一般的には《立志小説》と呼ばれることが多く、事実「日本少年」でもそのように表記されている。だが、芳水は少年の出世より少年の境遇の悲哀を描くことに力点を置いていることから、のちにこれらをひっくるめて《悲哀小説》と呼ぶようになったようだ。
 続く第3作めは「少年小説松前追分」で、同年6月号〜12月号に連載された。林之介は羽後の国能代の裕福な商家に生まれたが、父が事業に失敗。父は松前でラッコやオットセイの猟船の船長をしていた。やっと生活にゆとりができたと思ったのもつかの間、父は行方不明、母は病気になる。幸い、父は苦難の末に松前へたどつくことができ、母の病気も癒えて、一家は再び故郷に帰る決心をする。典型的な《悲哀小説》である。
 第四作めの「滑稽小説蟇口」は同年7月号の掲載。丹波篠山在の京吉は、父親が去年まで村会議員を務め、兄は一高に在学中という恵まれた身分。この少年が夏休み中に重ねた滑稽な体験を描く。最後は、村の夏祭りで間違って蟇口を賽銭箱へ投げ込み、騒ぎたてるのを兄に叱られて終わる《滑稽小説》である。
 芳水の少年小説を内容から見ていくと、大きく《悲哀小説》《冒険活劇もの》《滑稽小説》の3種類に大別することができる。こうして見ると、「日本少年」に少年小説を書きはじめた年のうちに、その後の少年小説のすべてのジャンルが出現していたわけである。

(3)《悲哀小説》の展開


 有本芳水のこの分野の少年小説は作品数も多く、秀作もまた多い。
 多くは、かつて裕福な身分でありながら没落した一家の悲哀を描く内容になっている。これは芳水自身の体験の反映であろう。もともと有本家は播磨の飾磨(現・姫路市飾磨区)で造り酒屋や廻船業を営んでいた裕福な家であったが、芳水の小学校から高等小学校時代の頃にかけて家運が傾いていく。そして、芳水の父の死後を継いだ長兄が事業に失敗し、持ち船はむろんのこと、先祖伝来の田地・家屋敷まで手放さざるをえなくなった。やむなく、芳水は岡山の森安家(母方の叔母の婚家)に単身引き取られる。芳水が岡山の関西中学を経て早稲田大学に進むことができたのは、森安家から学費を出してもらったからであった。このように、芳水は多感な少年時代に一家の転落と離散の憂き目にあい、このことが一連の《悲哀小説》の背景となっているのである。
 「立志小説いざさらば」は1915年4月号〜12月号の長期連載で、《悲哀小説》の要素を集大成した代表作である。
 藤本良助は播磨の室津の廻船問屋に生まれるが、亡父の代から家運が傾きはじめる。家を継いだ兄も商売が下手で、良助が小学校の高等科を卒業する少し前、総ての財産を人手に渡して伯父の家に同居することになった。伯父のやっかいになる身では、上級学校にも進めず出世が見込めないので、苦学を志して神戸へ出奔。路銀を盗まれ途方にくれるところに、小学校時代の恩師・松原先生が通りかかる。先生は神戸の会社で出世していたので、良助は玄関番として住み込みながら教えを受け、神戸中学の編入試験に合格。同級の者で野球用具を買うための拠金を断って鉄拳制裁を受けるものの、良助の境遇を知った同級生たちからかえって崇敬と同情の念を受ける。やがて中学を首席で卒業後、難なく海軍兵学校に合格する。
 藤本良助→有本歓之助(芳水の本名)、播磨の室津→播磨の飾磨という類似性を始め、主人公一家の没落が芳水の境遇を下敷きにしていることは明らかである。神戸には芳水の姉の婚家があり、神戸中学は友人の竹久夢二の出身校(中退)である。また、学資が官費給費されエリートへの道が約束されている海軍兵学校への進学、誤解から同級生に鉄拳制裁を受けながらかえって尊敬を受けるストーリーは、芳水の好むところであった。以後の《悲哀小説》でも繰り返して利用される。「少年小説梅の実」(1918年7月号)でも主人公は海軍兵学校へ進むし、「少年小説生まれ故郷」(1916年11月号)では陸軍幼年学校へ進む。「母の手紙」(1917年10月号)では、鉄拳制裁のエピソードが独立して取り上げられている。
 ほかに、「少年小説廃兵」(1918年10月号)は、地方の地主一家の主人が日露戦争で戦死。遺族が寂しい生活を送っているところへ、廃兵(傷痍軍人)が売薬を売りにくる。偶然にもその廃兵が亡き主人の戦友であったことが知れ、遺族は亡き人の話を聞かせて欲しいと引きとめるが、廃兵は「縁があつたらまた来ます」と言い残して去っていく。しみじみした哀感あふれる佳品である。「つきせぬ思ひ出の悲しさに、あの哀れな廃兵の心はどこまで私を泣かせたでせう」(1918年11月号「通信」欄)という読者の反応もあり、戦場の勇ましい話よりも、芳水はこうした《悲哀小説》に優れているように思われる。
 また、1914年1月号から一年間、芳水は浦野浜男の変名で《お伽小説》や《軍事お伽》の掲載を行っている。第一作めの「お伽小説春二と白い馬」では、負傷した父にかわって猟に出た春二少年が、可愛がっていた神馬に導かれて温泉を発見するというもの。その他、急病で入院した母を見舞うため鳥屋からオウムを借り受ける「お伽小説鸚鵡の歌」、勤め先の牧場で可愛がっていた馬を軍馬として送り出して悲しみにくれていると偶然その馬が出征中の兄の乗馬になった「軍事お伽愛馬」など、いかにも《悲哀小説》の芳水らしい短編群である。だが、1915年1月号の通信欄「新天地」に「芳水先生、浦野浜男の仮面をはいママちやどうです」という読者の指摘に「いかにも仰せの如く浦野浜男とは小生の変名に候、新年に際しここに白状いたし候」と答えている。これは浦野浜男の正体が読者に見抜かれてしまうほど、内容がパターン化していたことを意味する。
 ところで、渋沢青花は『大正の『日本少年』と『少女の友』』(1981年10月30日 千人社)で、芳水の少年詩について次のように記している。
 実業之日本社編集部内の口さがない連中が、有本さんの詩に対して、こんなことを言ったのを耳にした。
 「菜の花畑を巡礼がゆく。港に赤い灯がともり、紺ののれんに燕がひるがえり、夕の鐘が鳴る」
  これは弥次にすぎないが、なるほど有本さんのお膳立てはきまっている。それは有本さんの夢だからである。有本さんの歌では、すべての自然、人生が、美化されているからだ。そこが当時の少年の心を魅了したゆえんであろう。
 こうした芳水の「旅」を取り上げた少年詩は、《悲哀小説》に通じるものがある。少年詩と共通する「感傷性・孤独な思い」(『日本児童文学大事典』)に独特のリアリティーが存するのは、芳水の子ども時代の体験に裏打ちされているからであろう。しかも、少年詩と同じく人生が美化されている。主人公の少年は、没落の悲哀を味わいつつも、懸命に努力すれば不幸な境遇から脱する糸口や希望、立身出世のチャンスを必ず掴むことができるからである。「感傷性・孤独な思い」を強調しつつも、読者に困難に打ち勝つ勇気や夢と希望を与えている点では、積極的な意味があった。そうした特質こそが、当時の少年たちの心を捉えたのである。
 けれども、少年詩がパターン化されているように、《悲哀小説》もまた同様である。しかも、少年詩の場合には「固有名詞と風景」(『日本児童文学大事典』)に変化を持たせることが可能であったが、《悲哀小説》における状況の設定と主人公像の類型化はマンネリズムに陥らざるを得ない運命にあったのである。
 しかしながら、芳水が「日本少年」を去る直前、《悲哀小説》の題材が変化する兆しはあった。すなわち、肉親を亡くした家族の悲しみを描くことへの変化であった。そして、これもまた実生活における境遇の反映なのである。というのは、1919年1月のこと、芳水は長男の速雄を数え年五歳で亡くしている。「日本少年」には、「愛児の死」(同年3月号)と題する悲痛なノンフィクション記事や「悲しき父」(同年四月号)と題する短歌群を掲載。『悲しき笛』(同年6月15日)の「序」にも「此一巻を故郷の山に小さき墓となりて眠れる亡児速雄の霊に手向く」とある。短歌群には「いとし児のつめたきむくろ骸抱きしめてわれは悲しき父となりけり」を初めとするものが含まれている。
 愛児を亡くした悲哀は少年小説の分野にも反映。「少年小説あの笛の音は」(1919年4月号)では、病気で弟を亡くした幸之助少年が、旅の老人に「坊ちやんの悲しい心を慰めてあげよう」と尺八の音を聞かせてもらうが、やがて老人の去る日が来る。「幸之助」という名が芳水の本名「歓之助」を連想させ、哀感あふれる作品である。老人は「亡くなつた弟さんのために泣いてやるのもよいが、それではいかぬ。人間は一度は是非死ななければならなんもんだ。生まれて死ぬる者に比べたら、五つまで生きたのは幸福といはんければならん。もうあきらめるがよい」と言い残す。芳水が自分自身に言い聞かせている言葉のように思われる。「少年小説 春は逝く」(1919年5月号)では、操少年が父に連れられて箱根へ湯治に行き、そこで亡き母にそっくりな女性が俥に乗っているのを見かける。操少年の心情は「死んだ者が生きて来る道理はないと思ひ乍らも、この場合、かうして母の名を呼んで見るといふことは、はかない乍らも彼にとつて、せめてものなぐさめであつた」と記述され、「春は逝く―かうして山には春がくれて行くのであつた」と、叙情的に締めくくられる。
 このように、愛児の死を通じて人の「死」を見据える新たな題材を得た。題材とテーマに於いて少年詩や短歌に共通している。しかも、こうした少年小説は、芳水の友人でもある小川未明が自らの愛児を失った悲しみを「金の輪」(「東京読売新聞」1919年2月21〜22日)ほかの童話に昇華させていったことを連想させる。「日本少年」は大衆的児童文学の雑誌として位置づけられているが、芳水の最後の《悲哀小説》群は、むしろ、大正期の芸術的児童文学の流れに位置づけられるべきであるかもしれない。「日本少年」が秋田雨雀・小川未明・田山花袋など芸術的児童文学に位置づけられる作家の作品を積極的に掲載していることからも、掲載誌によって大衆的児童文学と芸術的児童文学を区別することは便宜的な手段にすぎないことがわかる。
 しかし、愛児の死を個人的な哀しみの感情から万人に普遍的な感情にまで昇華させ、芳水が《悲哀小説》における新たな境地を切り開く兆しはあったが、そうした作品を次々と掲載していくまでには至らなかった。その理由は、この年、社内の人事異動によって芳水が「日本少年」の主筆の任を離れることになったからに他ならない。

(4)《冒険活劇もの》の展開


 1913年5月号の「日本少年」に有本芳水の『赤い地図』の広告記事が華々しく掲載された。「今度出る『赤い地図』は同先生が初めての長編小説であります。それは勇敢なる一少年が、露西亜人に奪られた軍港の地図を奪ひ返さんと、或時はボーイとなり、或時は少女と変装し、とほく哈爾賓まで行つて地図を奪ひ返すといふ実に勇壮な物語です」云々とある。
 『冒険小説赤い地図』は1913年5月10日付の刊行で、中野修二画、本文150頁。芳水にとっては最初の単著であった。しかし、主人公の不二雄少年が露西亜人の正体を見破って証拠も掴んだのだから、すぐに当局に訴え出ればそれですむ。少女に変装してまで敵の船室に潜入する必然性はない。何よりも、秘密の地図を奪いかえしたあと、地図を自らの血で染め上げておく必要などありはしない。「俺の血潮で染めた赤い地図だ! 日本人の血潮だよく見て置け。」という不二雄少年のせりふや、『赤い地図』というタイトルからしても、芳水の主張はここにあったのだろうが、ストーリーの整合性より気分だけが先行してしまっている。先述の広告記事には芳水生の署名入りで「日記の内より」と題し、「夜になると玉木鎮夫といふ少年が遊びに来た。(中略)僕は玉木君の前に原稿を出した。それは『赤い地図』の原稿である」云々という記載がある。これによると玉木少年は「これは面白い」「先生、実に面白く詩的に出来てゐますねえ」と言ったという。「詩的に出来てゐます」とは叙事的というより叙情的にできているという意味であろう。テンポのあるストーリー展開の変化と国際的な舞台の広がりが人気を集めたものか、手元の版は第6版で6月25日付の刊行であり、相当な売れ行きであったことは事実である。だが、構成に無理が多いことから優れた少年小説とは言い難く、習作というほどのものであろう。
 それでも、『赤い地図』の刊行は、芳水が「日本少年」へこの分野の少年小説を本格的に掲載し始める契機となった。
 同年6月号には「冒険小説孤島の牢獄」を掲載。画期的な無線電話を発明した久原博士と息子の進少年が外国人に誘拐される。外国人の正体は海賊で、発明の秘密を某国に売り渡そうと企んでいたというもの。この号への掲載は、おそらく《冒険活劇もの》の書き手としての芳水の存在を読者に印象づけようとする配慮であったと思われる。さらに、同年10月「秋季増刊大戦争」号には「少年軍事冒険空中大戦争」を掲載。「A国とわが国との談判は遂に破裂した」で始まる未来戦ものである。内容は、埴原繁少年が下付予備海軍中将の許しを得て義勇飛行機隊に参加し、主戦場となったH島で敵の暗号帳を奪うというもの。A国とは米国、H島とはフィリピンを暗示する。下付中将は「日本少年」の寄稿家である肝付兼行中将がモデルであろう。翌年9月の青島戦(第一次大戦)には日本軍の飛行機が初めて実戦に使用されるから、近未来の現実を先取りしている。滝沢素水や松山思水と比較すると、芳水は未来戦ものを殆ど題材にしておらず、多くは外国のスパイと戦うという内容のものであった。その中でこの作品は例外に属するものの、秀作といえる。《冒険活劇もの》の書き手としての芳水のデビューは必ずしも作家としての内的欲求に基づくものではなかったが、ここに至ってこの分野の少年小説の書き手としての地位を不動のものにしたといえよう。
 やがて、一連の《冒険活劇もの》の成功に気を良くしてか、実業之日本社では「痛快文庫」全六篇の刊行を企画する。「本文庫は各冊とも一冊定価三十五銭郵税六銭なり。若し六冊分を一時に前金にて本社に申込めば六冊にて壱円七十銭(外に郵税三十六銭)に割引し、右申込者の氏名を日本少年誌上に発表す」(「日本少年」1915年9月号)という巧みな宣伝もあって、たちまちベストセラーとなった。この叢書の特徴については同じく「日本少年」の広告記事に「或は燃ゆるが如き忠君愛国の精神、孝悌信義の情を写し、或は近代科学の大威力を描し、趣味津津、血あり涙あり、一読思はず痛快を絶叫する」「作者は悉く当代に於て、少年諸君の人気を一身に集めらるる素水芳水思水の三先生で、小説の筋は欧洲戦争とか支那の革命とか云ふやうな活きた問題を捉へ来り、それを面白く述べてゐる」(1916年3月号)とある。広告における「素水芳水思水の三先生」という記述こそ、「痛快文庫」の性格を象徴的に表している。先に素水は「尚交会叢書」(全4冊とも滝沢素水著 1912年 実業之日本社)の成功を通じて、この分野の叢書の刊行と「日本少年」の部数拡大が表裏一体のものであることを社の内外に実績をもって示した。「痛快文庫」の企画こそ、素水の跡を受けた芳水・思水がそうした路線を引き継ぎ発展させた企画であったことを意味しているのである。そして、当時の少年たちが興味を覚えている「活きた問題」を「面白く」描くというところに、少年の興味・関心に応えていこうとするジャーナリストとしての姿勢を見ることができる。
 『冒険小説怪軍艦』は1915年10月7日付の発行で、「痛快文庫」中の第1篇にあたり、川端龍子画、本文三〇〇頁の堂々たる長編である。手元の版は10月20日付の第3版であるから『赤い地図』を上まわるペースで増刷がなされている。ストーリーはドイツ人のケルネルを団長とする海魔団が世界中の海を荒らし回っている。彼らは驚くべき科学力で日本の軍艦「畝傍」を沈め、その船体を海底の本部として使用。三浦半島沖の海中にも秘密の根拠地を築いている。予備海軍大将の大迫平八郎は、副官の花井大尉とその弟の友太郎少年を三浦半島に派遣。友太郎らは相良博士の発明した水中透視機を活用して海魔団の日本支部を壊滅させる。さらに大迫大将は廃艦になった軍艦「扶桑」と水兵の一隊を借り受けて南洋に出動し、海魔団の本部を壊滅させ、「畝傍」を取り戻すというものである。
 海魔団の背後にドイツのあることを暗示しているのは、いかにも第一次大戦中らしい。「畝傍」は、フランスで建造後、日本に回航される途上の1886年12月に行方不明となり沈没したと推定されている。押川春浪の『海島冒険奇譚海底軍艦』(1900年11月15日 文武堂)に登場するなど、少年読者にとってはお馴染みの素材である。この「畝傍」が南洋の海底で海魔団の本部として使用されているという奇想天外なアイデアが卓越している。「扶桑」は日清戦争時の主力艦であり、実在の軍艦を登場させて少年読者の人気を引きつける配慮がなされている。海魔団の撲滅をなにゆえ秘密裏になさねばならないのかという点に問題なしとは言えない。しかし、日清戦争で活躍したのち廃艦となった軍艦で、日清戦争を前に期待されていながら行方不明になった軍艦を奪い返すという意表を突いたストーリー、SF的な道具使いのユニークさ、時事問題を巧みに取り入れていること、「日本少年」と親しい関係にあった東郷平八郎を連想させる人物が活躍することなどによって人気を集めたのであろう。
 『武侠小説馬賊の子』は1916年2月17日付の発行で、「痛快文庫」の第五篇にあたり、川端龍子画、本文254頁の長編である。手元の版は2月25日付の第3版で、『怪軍艦』をさらに上回るペースの増刷ぶりである。「日本少年」の1916年3月号中の広告記事によれば、「『怪軍艦』の如きは既に第六版を重ね、最近発行の武侠小説『馬賊の子』の如き、一週日を出でざるに忽ち初版再版を売り尽し、今や将に第三版も売り切れんとするの盛況を呈して居ります」という。のちに平凡社から「少年冒険小説全集」シリーズ中の第八巻として『馬賊の唄 外一篇』として改題のうえ刊行(1929年7月20日)された。ストーリーは、乃木軍で活躍した篠原中佐が、日露戦争後、馬賊に身を投じて地形を偵察。「支那政府」の内情を探るうち、袁世凱が皇帝に即位しようとする陰謀に対抗するものの、袁の部下の李模国に毒殺された。日本に残された中佐の遺児・勇と弓子の姉弟は、天洋社の首領・頭川実の同情を得て養育されていたが、やがて父の遺志を継いで馬賊の首領・林元興のもとへ行く許しを得た。林の素性は西南の役の生き残りで、大西郷の戒めにより大陸に逃れ密かに日本の為に尽くしていたのである。勇少年は頭川から贈られた日本刀を引っさげ姉とともに林の元に至る。李が父の仇であることを知ると仇討ちを志し、何度も危機を潜り抜けながらついに李を倒すというものである。
 頭川実のモデルは玄洋社の頭山満だと思われ、頭山の大アジア主義の思想を背景にしつつ義侠少年の仇討に焦点をあてている。ストーリー展開に破綻もなく、この分野における芳水の少年小説中の秀作である。「序」に「余は血と涙を愛す。/余は少年を愛す。/余は少女を愛す。/余は日本刀を愛す。」と述べ、本文の冒頭に白楽天の「琵琶行」を掲げて、勇壮かつ悲壮な主人公の心情を描くことに力点をおいている。こういう所にこそ芳水の才能は傾けられていたのであり、この少年小説が最も成功した理由があるように思われる。
 軍事もの以外には探検ものがある。
 「探検小説焙烙島探検記」(1914年3月春季増刊「探検」号)は、姫路の沖にある焙烙島を姫路中学の一年生が探検するというもの。家人に内緒で四人の中学生が島に渡ると嵐になり、怪人に出くわして恐い思いをする。怪人とは家島(播磨灘北部にある諸島)から来ていた島守だったという落ちがついて、面白い小品に仕上がっている。
 「冒険怪奇小説骸骨島」(1914年3月号〜7月号)では、全島が砂金でできている骸骨島をめざし、春日男爵一家が探検に出かけるが、探検船の船長や船員たちの正体は海賊だった。しかし、海賊たちが一家の皆殺しを謀って、洋上で羅針盤を壊し船に火をつけた上、ボートに乗り移るのは不可解な手口である。また、一家が海に飛び込んだ先に、偶然にも同じ骸骨島をめざす外国船が仲間割れから全滅して漂流しているのも、不自然で都合が良すぎる。力を入れた中編でありながら、成功しているとは言い難い。
 このように、芳水の《冒険活劇もの》は、読者サービスの観点から少年の興味・関心に応えて雑誌の売り上げに寄与しようと書き始められたものであった。作家としての内的欲求に起因するものとは言えず、必ずしも成功作ばかりではない。殊に中・長編においては構想に綻びを見せることもある。しかし、テンポのあるストーリー展開や意外性、スケールの大きい国際的な舞台の広がり、時事問題を取り入れるなど少年の興味・関心を引きつける素材選択の巧みさ、SF小説としてのアイデアの面白さでは、独自の作風を確立して評価できる少年小説も多い。《悲哀小説》の如く同じパターンを繰り返してマンネリズムに陥ることもない。とりわけ主人公の勇壮かつ悲壮な心情を描くことに於て、他の追随を許さなかったといえよう。
 さらに、芳水の《冒険活劇もの》は、題材とテーマに於いて少年詩に共通するところが見られる。例えば、青島戦が勃発するや芳水はこの問題を取り上げ、少年詩「征独の歌」(1914年10月号)で「ああ東海の日本国/建国以来の屈辱に/立ちて扶桑の精これる/正義の剣をひらめかせ。」と、いわゆる三国干渉への復讐戦を歌い上げた。「嗚呼佐久間少佐」(1914年11月号)では、「征馬悼みて日は暮れぬ/恨は長し白沙河や/さればこれより秋ぐさは/君が血潮に赤く咲くらむ―。」と、少佐の戦死を悲痛に結んだところに芳水らしさが窺えよう。「日本少年」の編集を離れた後も、「少年航空兵」(1927年11月号)で「われらは少年航空兵/天皇陛下のためならば/何の惜しかろこの命/飛んで行かうぞ支那の空」と、時局への決意を勇壮に歌い上げた少年詩を寄稿している。このように、少年詩に価値はあるが《冒険活劇もの》には価値なしと、両者を分離して評価できるものではないのである。

(5)滑稽小説ほか


 滑稽小説は先任の編集記者たちが「日本少年」の呼び物の一つとして重視してきたもので、有本芳水がこの分野に筆を染めるのは自然の成り行きであった。
 芳水が同誌の主筆に就任してまもない1913年3月の春季増刊号は「滑稽少年」号として刊行された。芳水も「滑稽小説伯父さんの顔」を執筆している。内容は、金ちゃん・伝ちゃんの兄弟と植木屋で鳶の親方をしている江戸っ子の伯父さんが登場。兄弟がお話しの続きを聞きたいばかりに火事だと言って伯父さんをだましたり、お話しに夢中になって神棚のお神酒をひっくり返したり、子ども相撲に出場するという三つのエピソードからなっている。しかし、肝心の滑稽味がない。芳水のもとで編輯長をしていた松山思水の「滑稽小説K君の悪戯」(同号に掲載)と比べて、どうしても見劣りしてしまう。思水は滑稽小説の名手として人気があった。敵国のみならず戦争という行為自体まで茶化してしまうユニークさであり、そういう秀作と比較すべくもなかろう。芳水の滑稽小説は主筆という立場上やむを得ず執筆したものの、小手先だけでまとめただけという印象を受ける。
 その中で、「五郎」名義で執筆した「滑稽お伽鉄之助」(1913年6月号)は、まずまず水準以上のできである。漢方の村医者・黙庵先生は近所に新しい医者が開業したのですっかり暇になり、孫の鉄之助と滑稽な問答をする。鉄之助と一緒に尋ねて行った寺の門が閉まっているので黙庵が困ってしまうと、鉄之助は横手の木戸口に案内する。その理由は木戸口に小さい鉈が掛かっていたからで、「小鉈→こなた→此方」のことだという。キャラクターにおかしみがあり、頓智もあって、ナンセンスとして上出来であろう。ほかに「絵画お伽膠州湾攻撃」(1914年10月号)は、三太郎少年が玩具のモーターボートを改良して作った地中潜行機をひっさげて青島戦に出征。ドイツ軍の砲台の下に爆裂弾をしかけるというもの。ナンセンスな中に時事問題を取り上げ、敵国を笑い飛ばしている。
 芳水の少年小説中、変わり種は「少年社会小説 工夫の子」(1916年8月号)である。晃太郎は村の子どもたちから「ヤアイ、ヤアイ土方の子!食ひつめ者の子!」と侮りを受ける。晃太郎の父は「流れ者でも、工夫でも、皆な国のために仕事をしてゐるんだ」と歯を食いしばるというもの。結論は「お前は心の持ちやう一つで、如何な偉い者にでもなれる。しつかり勉強しろよ。」と立身出世主義を出ないものの、珍しく職業に貴賎はないという社会批判のテーマを取り上げた短編である。芳水の社会認識は「各地に起つた米騒動は、実に前代未聞のことではありませんか(中略)何れにしても、大正の聖代にかかる不祥事の起るといふことは、大いに悲しむべきことと言はねばなりません」(1918年9月号「編輯だより」)という言葉に集約される。無関心でもなく左翼的でもないというところだろう。また、芳水は野球好きでも知られ、「野球小説血染めのボール」(1914年5月号)「野球小説兄の代りに」(同年六月号)を掲載し、東草水と共著で『野球美談』(1913年5月24日)を著している。戯曲形式の「悲しき投手」(『少年少女対話六人集』岩下小葉ほか共著 1921年11月28日)もある。このように、社会批判のテーマやユニークな野球小説に踏みだしてはいたものの、持続的に執筆することはなかった。
 ほかに、思水との共著で、「続少年文庫」シリーズの第1編『旗』(1914年7月15日)、第2編『日本刀』(同年10月5日)を著し(第3編『海』は未見)ている。これらは、世界各国の旗と日本刀に関する知識読物・歴史読物に日本軍人の活躍を描く軍事読物をあわせて各一冊の本にまとめたもの。子ども読者の多様な知的要求に応じたもので、手慣れた編集・構成になっている。
  総じて、こうした少年小説群は少年読者の興味・関心に応えて、サービス精神の旺盛さが窺える。しかし、器用に纏められてはいるものの、《悲哀小説》や《冒険活劇もの》に比べると、芳水の独自性を発揮し、独自の作風を確立するまでには至っていない。
 そういう中で注目できるのは、ノンフィクションものであろう。
 「信州駒ヶ嶽上の大悲劇」(1913年10月号)で遭難した小学校の教員・生徒にインタビューしたり、遭難現場への登山を試みるなど、時事問題をいちはやく取り入れた旅行記事を書いている。ほかに「日本探検競争信濃飛騨国境探検記」(同年12月号)、「富士登山競争 富士登山記」(1918年9月号)を思水と共著するなど、登山・旅行関係の記事が多い。渋沢青花は『大正の『日本少年』と『少女の友』』(前掲)で、こうした一連の企画について、「編集記者としては、読者の好奇心を煽り、人気を盛り立てようという一心から出た企画に違いなかろうが、はたから見ると、なるほどうまいことを考えたものだなと、羨望されても仕方がなかった。」と、やや皮肉混じりで回想している。しかし、こうした企画が「日本少年」の呼び物の一つとなり、同誌が躍進する基盤を築いたことも事実である。また、旅行関係の記事は〈旅〉を素材とする少年詩と表裏一体のものであって、「日本少年」の人気を盛りたてたことも忘れてはなるまい。

(6)終わりに


 有本芳水は叔母のやっかいになって早稲田に通う境遇を考えると、少年時代より投稿を重ねながら目指していた文学の道をあきらめ、出版社に就職せざるを得なかった。1909年、実業之日本社へ入社した芳水は当初「婦人界」の記者となり、「多忙な記者の身には、最早詩歌に親しむことはゆるされなかつた」(『芳水詩集』 1960年10月1日 復原再版)という。若山牧水・北原白秋・三木露風など、少年時代から親しんできた投稿仲間たちが次々と文壇デビューを果たす中で、内心忸怩たるものがあったに違いない。しかし、「日本少年」に配属されるや「私は詩歌に対する愛着心が断ち切れぬままに、詩を通して、少年たちの純情心を培かい、育んでみたい」と「旅の哀愁と、感傷をとり入れた詩」(同前)を連載。少年読者たちの心を捉えた。芳水は少年詩の「哀愁」と「感傷」が《悲哀小説》に通じると思ったものか、それが後年の《悲哀小説》に価値を認める回顧につながっている。一方、《冒険活劇もの》への「気が進まなかったけど書いた」という否定的な物言いは、作家としての内的欲求が執筆動機でないという思いからであろう。《冒険活劇もの》は文学的価値が低いとする一般の風潮への配慮もあったに違いない。しかし、すでに述べたとおり、この分野の少年小説でも芳水は独自の作風を確立している。《冒険活劇もの》だけをもってしても、芳水の業績は大衆的児童文学史に特筆されるべきであり、価値なしと断じられるようなものではない。しかも、《悲哀小説》と《冒険活劇もの》を通じて少年詩に共通する題材とテーマもあり、両者は不可分の関係にある。また、文学作品は常に作家の内的欲求が執筆の動機であらねばならないとは限るまい。
 10年足らずの期間であったものの、芳水が「日本少年」の編集記者を務めたこの時期は、芳水・思水と並び称されて子ども読者の人気を集めた時期である。文学者として最も輝いた時期であった。けれども、その後、芳水は実業之日本社の看板雑誌「実業之日本」の主筆に転じるとともに、子どもむけの創作から遠ざかっていく。それでも、「日本少年」に寄稿することは断続的に続けるものの、再び少年小説に筆を執ることはなかった。一方、松山思水は子どもむけの創作との関わりを続けたが、これは思水が「小学男性」主筆を経て「日本少年」主筆に返り咲き、子どもむけ雑誌の担当を続けたことや、実業之日本社を去って「子供の科学」の編輯長に迎えられたという事情からである。ある時期に子どもむけの創作を多く書いて作家としての才能を開花させながら、出版社内の配置転換によってその分野から遠ざかってしまう。こうした現象は、スター編集記者が雑誌の主要な執筆者を兼ねる古いシステムの抱える矛盾である。少年雑誌界の覇者が「日本少年」から「少年倶楽部」に交代していくことは必然であった。芳水こそ、古いシステムの最後を飾るスター編集記者を代表するひとりであったと言えよう。