研究と資料『1928年版 水口』
―巽聖歌の未刊行自筆童謡集について―
「国際児童文学館紀要」第15号(2000.3.31 大阪国際児童文学館)に発表


 =目次=

(1)はじめに
(2)自筆童謡集の意味
(3)収載の童謡と校異の状況
(4)終わりに


(1)はじめに


 巽聖歌(1905〜1973)は、岩手県日詰町生まれ、本名野村七蔵。北原白秋に師事し、佐藤義美・与田凖一と並び称され、「赤い鳥」出身の童謡詩人として、童謡・少年詩の歴史の上に大きな業績を残した。
 没後20年を経た1993年のこと、夫人の野村千春氏から巽の旧蔵資料が大阪国際児童文学館に寄贈された。寄贈資料はおびただしい量の自筆原稿・書簡・雑誌・図書などによって構成されている。中でも、初期の頃に書かれた自筆原稿類は貴重なものである。また、先ごろ、巽聖歌の旧蔵資料(自筆原稿・書簡・雑誌・図書など)が東京都日野市で新たに発見され、地元の篤志家の手で整理が進められている。これに併せて有志の手によって「たきび」の文学碑が市内の公園に建立されるなど、その業績は童謡から少年詩への転換期において果たした役割を中心に再評価されつつある。
 ここに紹介する『1928年版 水口』は、巽の自筆童謡集の一つであり、右のいきさつから大阪国際児童文学館所蔵となった資料中に含まれている。この自筆童謡集については、著作権継承者である野村千春氏のご好意で特に許諾をいただき、ここに全文を翻刻することができた。(インターネットでは非公開。)

(2)自筆童謡集の意味


 巽聖歌が最初に単著として出した童謡集は『雪と驢馬』である。発行所はアルス、1931年12月18日付の刊行。冒頭に師の北原白秋の「序」を掲げ、満を持しての上梓である。アルスは白秋の弟にあたる北原鉄雄が経営する出版社で、巽自身の勤め先でもあった。「後記」に「作品総数約八百篇、その中から本集には僅かに五十八篇だけを採録した。(中略)斯うしてみると私の歩いて来た道もほの明るんで来る」と、巽は記している。初期の童謡の集大成であり、巽の詩業に区切りをつける記念碑的な出版であった。
 ところで、この第一童話集の刊行に先立ち、巽自身の手によって複数の自筆童謡集が製作されている。いずれも原稿用紙を二つ折りにして簡単に袋綴じにしただけのもの。特に出版のあてがあっての製作ではない。自分の詩業をまとめておきたいという意識から、このような試みがなされたのであろう。一連の自筆童謡集は巽の生前には未刊行であったものの、巽の手許で大切に保管されてきた。形態こそ粗末ではあるが、巽の初期の頃の童謡づくりの過程をたどることができ、貴重な資料となっている。その内容については没後刊行の『巽聖歌作品集』上・下(1977年4月25日 其刊行会)に収載。『1928年版 水口』を除いて総て公刊されている。
 そこで、まず、『巽聖歌作品集』への収載順にしたがって、それらの自筆童謡集を概観しておきたい。
 一連の自筆童謡集のうち、もっとも巽が力を込めて作製したものは、1927年版『童謡集 水口』であろう。この自筆童謡集には「昭和二年五月」と日付けがある。
 まず、冒頭に「白秋先生へ捧ぐ」と献辞がある。また、「チチノキ」(VOL.5 NO.1 1932年2月29日)及び『巽聖歌作品集』によると、同じものを二部作って友人の平野直に贈っている。いうまでもなく、白秋は「赤い鳥」投稿童謡の選者であり、巽の童謡を高く評価。巽にとっては生涯の師であった。平野直は巽が一八歳のおりに出郷した際、さしあたって頼った友人である。いずれも、巽にとっては恩人・友人にあたる。その両者に捧げたのであるから、巽の意気込みがわかる。
 さらに、自筆童謡集は無署名または単に「巽聖歌」と署名があるだけだが、1927年版『童謡集 水口』だけには唯一「巽聖歌著」とある。普通、自筆原稿の署名の下に「著」とは書かないものだろう。それをあえて「著」と書いたところに、原稿用紙をただ綴じただけの自筆童謡集とはいえ、世に送りだす著作物の一つだという巽の自覚が窺える。
 次に『野芹』である。「一九二五年五月より一九二七年四月まで」と自注があり、"水口"を中心としたものを集めてみた。自筆童謡集"水口"はこの中よりの三十三編である。」と記されている。
 『月夜』は「一九二五、六年分」で、『巽聖歌作品集』には「一部昭和二年の作品を含む」と注がある。「捨てべきが当然であらうが、どんなに拙くとも一年間の努力は笑はるべきでない。かへって、真に悩んだこの一年こそ、記念するべきであらう。尚、以前のものをも集めたいとさへ思ふ。」と記されている。粗末な自筆童謡集であっても、一冊にまとめてみたいという熱い思いが読み取れる。
 『茱萸』には「一九二七年五月より一九二七年九月まで」とある。「この集の出来る期間はもっとも悩んだ。生活、理想、やっと腰を据へて傷々しい日を眺め得られるやうになった。然してまた、この集の期に於て、先輩の苦しんでるところ判りかけて来た。」と、このころ創作上の悩みを突き抜けて創作上の新境地を開拓しつつあったことを記している。
 『雲雀』は「昭和二年九月〜昭和三年五月までの作品」とある。『巽聖歌作品集』には「おとな向きの詩を含む」と注がある。
 『巽聖歌作品集』収載の自筆童謡集は以上の五集であった。
 だが、『巽聖歌作品集』には、なぜか『1928年版 水口』と題された自筆童謡集だけが収載されていない。したがって、この自筆童謡集は一般には存在すら知られていなかったものである。しかも、この自筆童謡集は次に述べる製作の時期からみて、一連の自筆童謡集の最後を飾っている。この時点までにおける童謡創作活動の集大成として編まれたものであり、その意味は大きい。
 また、『水口』という同タイトルの自筆童謡集が二つも製作されたという事実は、実現こそしなかったものの、童謡集『水口』を広く世に問いたいという願望のあらわれではないだろうか。
 さて、『1928年版 水口』は、四〇〇字詰原稿用紙二つ折り、おもて・うら表紙をあわせ全19枚を袋とじにしたもの。おもて表紙中央に「1928年版」「水口」のタイトルがあり、タイトル下に「巽聖歌」の署名。うら表紙は白紙のままである。おもて表紙には「1928・3・10」の日付のある作品「川窪」の原稿、うら表紙には「1928・3・29」の日付のある作品「街へ行く子」の原稿を、それぞれ裏返しにして転用。どちらの作品も『雲雀』に収録されたものである。序文・目次の類いは全く存在しない。 また、自筆童謡中の一篇「雲雀」は五月の創作であることがわかっている。
 1928年といえば、前年から巽は久留米市の日本キリスト教教会で米人牧師の助手兼日本語教師をしている。のちに与田凖一が「九州では君に異状な生活の挫折があつた。精神の飢餓があつた。君は教会の屋根裏に巣をつくり、神の子となつて、そして、牧師の、ヒステリーの細君に三銭の沢庵を買ひにやらされた。わづかに日曜学校と、外人の日本語教師としての報酬が、ガスと、鍋と、きゆすの把手を動かしたのだ」(「チチノキ」前掲)と述べている。苦難の時代であった。
 この時代は、また、創作活動においても苦難の時代であった。平野直は、一連の自筆童謡集の頃の巽について「巽はその頃、苦悩のどんぞこだつた。泣きながら童謡を作つてゐた。作れないと云つては泣き、作れたと云つては泣いた」(「チチノキ」前掲)と回想する。創作上の行き詰まりの時期にあったことが窺える証言である。
 巽自身の言葉によれば、「「水口」以後の私は、童謡詩人としての光栄の中に、烈しい鞭韃と叱正を感ずることが出来た」(『雪と驢馬』)という。確かに、この頃は巽にとって師の白秋から激賞を受ける一方で批判も受ける行き詰まりの時期であり、創作上の転機ともなった時期であった。巽は『雪と驢馬』の刊行の時点までに、自らの詩業には三つの転機があったことを回想している。すなわち、「最初は「水口」であり、童詩への袂別となり、第二回は久留米時代の「風」以後、第三回は「カンガルー」以来である」(『雪と驢馬』)という。『1928年版 水口』には転機を形づくったとされる童謡のうち「水口」と「風」の二作を収載している。
 やがて、この年の八月には白秋のすすめで上京し、アルス社に入社することになって、苦難の時代は終わりを告げた。
 これらの事実を総合すると、この自筆童謡は久留米時代の終わり頃、上京直前に纏められたと考えるのが妥当ではないか。だとすれば、めぐまれない生活の中で童謡の創作をもって世に出ようとした決意が込められているはずである。あるいは、製作の時期が上京直後にまでずれ込むとすれば、念願の上京をはたして童謡の世界に身を置くことのできた興奮の中で纏められたということになる。
 いずれにしても、この自筆童謡集は、巽にとって人生の転機であり詩業の転機ともなった時期の製作であることに違いはない。

(3)収載の童謡と校異の状況


 次の表は、『1928年版 水口』に収載された童謡が他の童謡集にはどのように収載されているかという状況をまとめたものである。この表中で実際に刊行された童謡集は『雪と驢馬』のみで、他はすべて自筆童謡集である。1927年版『童謡集 水口』については、便宜的に「水口」とのみ記した。

 雪と驢馬 水口  野芹  茱萸  雲雀 
水口
  
家垣根路で
  
子きゞす
  
わなつくり
  
冬田
  
茱萸原
  
麦ふみ 
  
お月夜
  
■{木・(慮−思)<旦}子
 
 
第三皇子
  
  
 
   
からたち
  
辛夷
   
雪柳
  
 

 上記の表から明らかなように、新たに書き下ろした童謡は一篇もない。すべて、これまでまとめた自筆童謡集から選んだ童謡によって編まれている。したがって、童謡の創作意欲のあらわれというよりは、自分の業績を集大成して世に問いたいという意識のあらわれと考えるべきであろう。しかも、収録された童謡の内容は、それまでの自筆童謡集の形態とも、『雪と驢馬』以後の形態とも違う。巽の童謡の推敲過程が非常によく窺えて興味深い。
 佐藤通雅は「巽聖歌『童謡集 雪と驢馬』」(上笙一郎編『日本 童謡のあゆみ』1997年3月30日 大空社)で『雪と驢馬』に収載の童謡について「いずれの作品も極限まで余剰なことばを削ぎ落としており、このまま行ったら俳句になるのではないかと思わせるほどだ」と評している。一連の童謡は決して一朝一夕に生まれたのではなく、身を削るような努力の賜物であった。そして、われわれは自筆童謡集を詳細に検討ていくことを通じて、そうした努力のあとを丹念に検証することができる。
 ここでは、まず「お月夜」について、やや詳しく校異の状況を紹介しておこう。
 1927年版『童謡集 水口』では「咲く梨 お月夜/ほのぼの 寒いよ//お月夜 濡れてく/蝶々が ひとつよ//お乞食だ 女だ/片頬が 光るよ//黒谷 和讃か/誦してく 声すよ」と、前半の叙情的な表現が一転。後半の生々しく即物的な表現との対照で仕上げられている。全体を無難にまとめるのではなく、あえて対照的な表現を試みようとする意気込みは感じられるが、やや荒削りでありアンバランスであるように思われる。
 これに対して『1928年版 水口』では「咲く梨 お月夜/ほのぼの 寒いよ。//お月夜 濡れてく/蝶々が 一つよ。//お乞食だ 和讃を/片頬が 光るよ。//ほのぼの 咲く梨/飛行機 ひゞくよ。」と表現がやわらげられる。そして、末尾は再び叙情的に締めくくられている。全体の調和、バランスをより重視した改作である。
 『雪と驢馬』では「咲く梨、/お月夜、/ほのぼの/寒いよ。//お月夜、/濡れてく/蝶々が/ひとつよ。//お乞食だ、/和讃を、/片頬が/光るよ。//ほのぼの/咲く梨、/お月夜/更けるよ。」とされている。句読点を除いてほぼ『1928年版 水口』に近い形態が採用されている中で、終末の表現がさらに叙情的に改作された。
 ほかにも、「わなつくり」は「屋根の雪」と改題の上、『雪と驢馬』に収録。「からたち」も同様に「月夜」と改題の上収録された。いずれにも、校異がある。「第三皇子」は「大正十五年十二月十九日/御父陛下の御病篤く、」云々で始まる前書きの内容が、三種の童謡集ごとに大幅に異なっている。
 また、「家垣根路で」には「田に副へる家垣根路行けば桧葉の/木にからみ咲く見ゆ通草の花は。」という短歌が付されている。これは1927年版『童謡集 水口』にも『雪と驢馬』にも付されておらず、初出の「赤い鳥」(1925年10月号)には付されていたもの。この短歌は平野直から「この歌は、新奇さのみの外なにものもない、選者に媚びるもの」(「チチノキ」前掲号)と、初出当時に批判されたいわくつきの短歌である。短歌を付すべきか付さざるべきか、最後まで巽には迷いがあったようだ。
 さらに、1927年版『童謡集 水口』に収載された各童謡には、句読点はまったくみあたらない。しかし、『1928年版 水口』においては句読点がつけられ、この方針は『雪と驢馬』にもそのまま引き継がれている。
 言うまでもなく、句読点の有無は童謡のリズムと密接な関連があるので、ここでは特に童謡「水口」を取り上げて、詳しく検討していくことにしたい。まず、もともと初出誌の「赤い鳥」では句点がつけられていた。次に1927年版『童謡集 水口』ではこれを削除。さらに『1928年版 水口』と『雪と驢馬』ではこれを復活している。その後も、句点については揺れがあり、例えば後年に巽が好んで色紙に書いた「水口」には、通常は句点がない。
 巽自身は創作時のころを回想して、「水口」で到達した境地について『雪と驢馬』の「追記」で次のように記している。
 ある日、七月のある日、私は烈しい制作慾にぶっつかつた。田の畔を渡つてゐた私は、急いで家へ駈け込んだ。そして激しい情熱に吃り吃り蒼白く書きつけたのがあの「水口」であつたのだ。書いてしまつて私はほつとした。(中略)私はこの時ほど感激に震へて律調を考へ考へ書いたことはない。「水口」の四四四調、「野芹」の三三三・四四四調は何れの世にか若しもあつたとしても、あの場合、私にとつては新発見の沃野であり、私の内的生活も、環境もあれ以外には表現のしようがなかつたのである。
 すなわち、この《四四四》調のリズムこそが、「水口」において到達した技法上の達成点であったのである。そして、各連の最後に句点を打つという行為は、《四四四》のリズムをより明示的に浮かび上がらせる効果をあげるであろう。
 巽は白秋主宰の歌誌「多磨」の同人となり、歌人としても業績をあげた。佐藤通雅は「短歌初期においてこれだけ定型を駆使できたことには驚かされる」(前掲)と評価し、これを「様式表現に親和する資質」(前掲)と結論づけている。
 また、白秋は「四四四調は私も小曲でやつて見ましたが、全く気品のある調律です。箏唄調の脱化ですがいい形式だと思つて、私もこれまで一人でやつて来ました。いま巽君のこの作を見て大いに意を強うしました。」(「赤い鳥」1925年10月号)と賞賛した。
 このように、「赤い鳥」にはじまり『1928年版 水口』と『雪と驢馬』に引き継がれた句点は、そうしたリズムへのこだわりに由来しているのではないかと考えられる。
 巽は時事新報社から出ていた「少年」「少女」両誌の編集記者の職を得たものの、徴兵検査を受けるため1925年四月に帰郷した。その上で、岩手銀行日詰支店に職を得つつ、都会生活で疲れた精神を故郷で休めることになったのである。童謡「水口」はそのおりの創作であった。文字どおり、巽にとっては転機となった童謡であり、それだけに愛着と思い入れは強い。先の『雪と驢馬』の引用では、「烈しい制作慾にぶっつかつた」「激しい情熱に吃り吃り蒼白く書きつけた」とあるが、技法上から言えば一時の高揚感から一気に書き終えられた童謡では決してない。周到に計算された技法である。事実、いったん「水口」がほぼ今日伝えられている形で定着し、「赤い鳥」に投稿されたのちも、句点については推敲が重ねられていったのである。
 ところで、童謡「水口」については、句点の有無のみならず、童謡集中における配列の順序にも注目しておきたい。
 1927年版『童謡集 水口』においては、童謡「水口」は詩集の末尾に配されている。この自筆童謡集はこれまでの自己の創作活動の総括として纏められたものと考えられる。「白秋先生へ捧ぐ」という冒頭の献辞がそうした意識のあったことを示している。そういう性格のある自筆童謡集の末尾に配したということは、師の白秋をして「おっとりとしていい気品のある芸術童謡です。めづらしいほどいい。」(「赤い鳥」1925年10月号)とまで賞賛せした童謡を、自らの創作活動の達成点として最後尾に配したと考えることができるのではないだろうか。
 ところが、その一方でこの童謡「水口」は『1928年版 水口』では童謡集の冒頭に配されることとなった。『雪と驢馬』においても同様である。すなわち、「水口」を代表作として認識していたことには違いないにしても、巽の詩業の到達点としてではなく、新たな出発点として位置付けられたのではあるまいか。
 このことは、『雪と驢馬』の刊行をもって己の詩業の到達点とせず、「私はこの童謡集を送り出して第四の転身に向はう。新しいカナンの沃野を望むべく」と『雪と驢馬』の「追記」に自ら記していることを想起させる。
 そもそも、「水口」は「赤い鳥」(1925年10月号)に投稿され、「推奨」の童謡として選ばれたものである。選者であった白秋は、『雪と驢馬』の「序」でこの童謡について投稿のあった頃を回想し、改めて次のように激賞している。
 わたくしをして曽て激賞せしめたかの「水口」は、『赤い鳥』の童謡欄に於て、少くとも、童謡をより高い詩へと展開せしめた新人中の第一声であつた。その品位あり余情ある近古の雅調は、而もまた聖歌自身の其後の詩風の根幹と成つた。(中略)
 聖歌は、その童謡の生長史を三期に劃してゐる。すなはち、「水口」を中間とする前後である。前には自由律の童謡時代があり、後には古典のスタイルを経ての平語と幼少への開放時代である。
 すなわち、「水口」を巽の童謡創作の転換点として位置付け、高く評価しているのである。「水口」を冒頭に配することが『雪と驢馬』において始められたことであるなら、師の白秋の意を受けてそのようになされたということも考えられる。しかし、冒頭に配されることが開始されたのは『1928年版 水口』においてである。刊行を予定したわけでもない自筆童謡集であってみれば、そうした師の意志が反映されたとは考えにくい。したがって、代表作「水口」に対する巽自身の評価の変化が、二つの自筆童謡集が製作された間の一年間のにあったのではないだろうか。
 谷悦子は「巽聖歌の童謡について―自筆童謡集『茱萸』を中心に―」(「児童文学研究」第10号1979年9月15日 日本児童文学学会)で、「水口」において師の白秋から激賞された四四四調が他の投稿家によって模倣されるようになったこと。やがて「相互模倣が幾分この頃は目立つて来たやうである。もつと内容の上にも形式の上にも創意を要する。もつと苦しんでもらひたく思ふ」(「赤い鳥」1927年5月号)という師の批判を受けるに至った事実を指摘する。そして、巽は苦悩の時期を経て「風」に見られる《躍動性》と《七五調》を生み出したと論じている。
 内容(素材)において、風は《動的》であり《躍動性》のある童謡であることは、谷論文の指摘するとおりであろう。
 しかし、「風」をして「七五調とみなすことができる」(谷論文)と概括するには無理があるように思う。三音・四音・八音・九音といった例外が多すぎるからである。ただ、それにしても七音と五音の多用は紛れもない事実であり、明らかに《四四四調》に代表される過去のリズムと一線を画する作品であったことには違いない。
 「水口」から出発し、ようやく「風」に至って新しい境地を切り開いたという自信を得た。師の白秋の批判を克服できたのである。もはや、「水口」の手法(四四四調)に拘泥する必要はない。そういう境地が巽をして思い出深い出世作である「水口」を冒頭に配せしめたのであろう。

(4)終わりに


 実は、自筆童謡集『水口』には、おそらく、もう一種類別のバージョンが存在していたと思われる。それは平野直に贈った『水口』である。この自筆童謡集については、たびたび引用してきた「チチノキ」に平野が目次を紹介している。その目次を見ると、現存する1927年版『童謡集 水口』とも『1928年版 水口』とも明らかに内容が異なっていることがわかる。
 さらに興味深いことは平野が内容を紹介している「巻末小記」である。この一文は現存する二つの童謡集『水口』には全く見当たらない。孫引きになるが、次に掲げる末尾の一節は、1927年版『童謡集 水口』がこれまでの自己の創作活動の総括として纏められたとした拙論における考察を補強するものであろう。
『昨年の作は悪かった』と言はれたことがあつた。悪ければ悪いほど、多く悩んでゐる。どんなに拙くとも、真劔になした努力は、笑はるべきでない。かへつてその為に真に悩んだその一年こそ、記念さるべきであらう。
(中略)知る人ぞ知る。この一冊を綴じて、パンの蔓でも探さう。明日からは明日の詩が生まれることである。
 さて、『1928年版 水口』は、ようやくここに全容が公開されたばかりである。
近年、童謡史研究の分野においても主要な童謡集の複刻版が刊行され、資料の整備が進みつつある。埋もれた作家や作品を発掘・再評価する動きが強まっているかのようにも思う。本稿と『1928年版 水口』の完全覆刻がそうした状況に何かしら資することができれば幸いである。今後の進展を期待したい。