永島永洲の児童文学
―冒険・探偵小説を中心に―
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永島永洲(ながしまえいしゅう)は明治中頃から大正中頃にかけて活躍した作家であるが、今日ではすっかり忘れ去られている。わずかに、近刊の『日本児童文学大事典』(注1)に項目として取り上げられているにすぎず、従来の児童文学の研究書の類に永洲に関する記述は見られない。
永洲の活躍した時期は、小川未明の『赤い船』(注2)、島崎藤村らの『愛子叢書』(注3)、鈴木三重吉の『湖水の女』(注4)などが次々と刊行され、やがて「赤い鳥」が創刊(注5)されようとした頃で、大正期の芸術的児童文学の揺籃期にあたる。この当時、永洲は「少年の愛読者は一人だつて永島君の名を知らない方はないでせう。そして一人だつて永島君の小説を愛読しない人はないでせう」(注6)と言われるほどの人気作家であった。作品の発表誌は、時事新報社から刊行されていた「少年」「少女」の両誌に限定されるが、前誌には73篇、後誌にも12篇(推定1篇を含む)にのぼる短編・中編・長編の作品を数えることができる。子どもむけの作品集としては、『少年:奇話|活劇』(注7)と、『生死(しようし)の境』(注8)の2冊がある。
永洲の作風は多様で、探偵もの・冒険もの・友情もの・時代ものといった分野にわたり、大衆的児童文学の主たるジャンルをほぼ網羅している。中でも、子どもむけの探偵小説の分野では、草分け的存在の一人であり、ほぼ同時期に活躍していた三津木春影と並んで人気があった。作品中には、ストーリー展開の意外性と実録風の臨場感あふれる描写に文才の冴えをみせ、とぼけた味のある滑稽な作品もあって、器用な書き手であった。
この時期の子どもむけの冒険・探偵小説については、先行する研究文献が殆ど見当たらず、この分野に関する研究はほぼ空白状態にあると言ってよい。本稿では、永洲の児童文学の特質について、特に冒険小説と探偵小説に焦点をあてて考察を行うこととし、今後この分野の研究が進展することを期待したい。
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永洲の経歴については、『明治新聞雑誌関係者略伝』(注9)に、次のように記されている。
慶応三年生、大正六年八月八日歿。五一歳。(一八六七〜一九一七)新聞記者。埼玉県行田在大塚村の名主加藤栄之助次男。出でて永島家を嗣ぐ。名は今四郎。明治二三年慶応義塾卒業、直ちに『朝野新聞』に入社。「千代田の大奥」の連載があり、これはのちに単行書となっている。明治二六年一一月『朝野新聞』は一旦廃刊したが、『新朝野新聞』として再刊されると、その社に残った。しかし『新朝野新聞』は社勢極めて不安定であったため、明治二九年『時事新報』に転じ、歿時に至った。著書に右のほか『虞拉斯頓公伝』(望月小太郎と共訳)がある。末松謙澄の『谷間の姫百合』もその大半はこの人の手になるという。「時事新報」は福沢諭吉の主宰になる新聞である。永洲が慶応義塾の出身であったことから、社勢が不安定な「朝野新聞」「新朝野新聞」より「時事新報」に転じたことは、自然な成り行きであった。時事新報社では、20年間以上にわたって活躍し、社会部長の職に在任中に死亡している。このように、永洲は一貫して新聞記者の道を進む傍ら、おとなむけ新聞小説の執筆など著作活動を行なっていた。
『少年』の創刊は明治三十六年の十月で、号を重ぬる事百七十、年を閲する事十五年、此長い年月の間、終始一貫、いそがしい社務のかたはら、わが『少年』の為めに尽された永洲先生の努力、好意、援助の力は実に非常なもので、創刊当時の『少年』主幹寺山星川君を援けて、小説に、記事に、独得の健筆をふるはれ、明治三十七年一月、『少年』で新たに懸賞綴り方を募集するや進んで其選者となり、多病蒲柳の質を以て、よく大正六年七月号に至るまで、一回も休まれなかつた許りでなく、其深切、公平なる選定批判は、少年懸賞文の価値をして、九鼎の重きをなさしめた功績は、諸君の熟知せらるゝ所であります。永洲は「少年」「少女」の両誌の編集に直接関係するようなことはなかったものの、両誌へのかかわりは単なる一執筆者にとどまるものではなかった。発行元の時事新報社の幹部記者として、〈常にかげになりひなたになつて記者を督励援助〉し、大きな影響力を有していたのである。永洲自身は「『少年』発刊十年紀念の日」(注11)で、「今も猶ほ記憶に新らしいのは、雑誌の題名撰定の時、里川(りせん)君(初代編輯主幹の寺山里川―引用者)始め二三の人が卓子を囲んで思ひ思ひの案を書き並べ、それが面白からう、是れが可(よ)からうと、小半日の商量を費して、始めて『少年』の二字に極(きま)りかけた其時の光景である。」と、当時の思い出を語っている。このように、永洲は、「少年」という誌名の決定をはじめ、雑誌の創刊計画に深く参画している。また、「少女」の表紙の題字も永洲の筆に成るものであり、永洲を抜きにして「少年」「少女」の両誌を語ることはできない。なお、安倍の追悼文中に〈小説に、記事に、独得の健筆をふるはれ〉云々とあることから、永洲は文学作品以外にも〈記事〉を書いていたようである。しかし、永洲の書いた〈記事〉があったとしても、無署名であるため特定することはできない。
記者がはじめて時事新報社員の末班に列し、永洲先生にお目にかゝつたのは明治四十一年の一月で、時事新報主筆石川幹明先生の下に社会部長として永洲先生の声望は実に都下新聞界の権威でありました。(中略)間もなく記者は社長の命により、思ひがけなく『少年』部に転ずる事になりましたので、永洲先生と机をならべて居た期間は極めて短時日でありましたが、併し『少年』と永洲先生との関係は、より密接であつた為め、爾来十年間、常にかげになりひなたになつて記者を督励援助せられたので、幸ひにして大過なく今日まで過ごす事が出来たのであります。
従つて愛読者諸君との交驩、親密の度は永洲先生の方が記者よりも遥かに長い許りでなく、『少年』と『少女』以外には、自から署名して筆を執られる様な事は殆んどなかつたので、先生の少年少女小説は、両誌独得の好読物として、毎号非常な喝采と歓迎と好評を得たのであります。構想の奇、文章の妙は言はずもあれ、上品、健全、清新といふ点では、恐らく現代の少年文学の作家中、先生の右に出づる者は幾人もなからうと思ひます。
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永洲の最初の作品集である『少年:奇話|活劇』には、冒頭に自序が付されている。短い序文ではあるが、永洲が子ども向けの作品を執筆する上での、心構えが読み取れる。
お伽噺の神代らしい境に入らず、又た冒険や探検物語の往々奇に過ぎて、却て実際に遠ざからうとする弊を成るべく避けて、翻訳ものと否とを問はず、すべて世に有り得るやうな少年界青年界の事実を原とし、それに色を添へ、変化を添へ、且つ読み了つて後ち何等かの影の、少年諸君の脳に残るやうにと勉めたのがこの『少年:奇話|活劇』である。今や少年諸君の読みものは、山を積み玉を聚めて、何んの不足もない折りから、あへて (ママ)拙い此の蛇足を添へやうとするのも、畢竟それが為である。以上が全文である。ここでは、まず、永洲が〈お伽話〉と一線を画していることに注目したい。言うまでもなく、これは巌谷小波に代表される明治の児童文学の潮流との訣別を意味する。
阿母さまが読んで、坊ちやまのお伽をする、坊ちやまの睡気が覚めて、後を後をとせがむ。兄さんと弟の君と顔を並べて黙つて見る、いつか互の手が出て自分の方へ引寄せくらの喧嘩となる。学友会か何かで話の種にする、大勢の耳が熱して目が皿になり、興に乗つては思はぬ絶叫に満坐を驚かす。といふのが少年小説の目的だとすると少年小説は頗る物騒のものゝやうにも思われるが、やがて眠りについた坊ちやまの夢の中(うち)、仲直りの済んだ兄弟の笑顔の底、さては会果てゝ後帰り行く学友の後姿には、必らず穏かな、そして健かな、何等かの影の添ふことを疑はぬ。永洲がこのような執筆態度であるということは、読者にとってみれば、堅苦しい雰囲気がなく、率直に謎解きや冒険を楽しむことができるということになる。もっとも、永洲としても、読後には〈必らず穏かな、そして健かな、何等かの影の添ふことを疑はぬ〉として、感動のあとに自然に教訓が残ることは否定していない。前掲の『少年:奇話|活劇』の自序においても、〈読み了つて後ち何等かの影の、少年諸君の脳に残るやうにと勉めた〉と記されている。結局、永洲は、教訓自体の否定はしないが、結果を性急に求めることもしないという志向をしていたのだろう。
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『少年:奇話|活劇』の自序に、〈お伽噺〉は〈神代らしい境〉に入るものとしていることから、永洲は神話・伝説・昔話と〈お伽噺〉を同意義に理解していたことがわかる。〈お伽噺〉とは、必ずしも神話・伝説・昔話のみを題材とするものではないが、主要な題材の一つには違いないから、永洲の理解もそれほど突飛ではあるまい。
一方、「少年」「少女」の両誌には、〈少年小説〉〈少女小説〉または〈小説〉という角書きが付されているものが、多く存在する。おそらく、こういった角書きは、作者自身の手によってではなく、雑誌の編集者の手によって付されているのであろう。しかし、永洲の場合は「少年」「少女」の両誌の編集に大きな影響力を有していたのであるから、角書きの内容が永洲の意に反しているというようなことは、考えられない。しかも、先述のように、第二作品集『生死の境』の自序の中には、「少年小説の目的」云々という表現があって、永洲自身が〈少年小説〉という語を意識的に使用している。〈少年小説〉という用語は、多様な意味の使われ方をしているが、本稿では〈男児むきの日常物語〉というような狭い意味ではなく、〈男児むき女児むきを問わず、主として冒険・探偵小説としての要素の強い物語。または一般に感動ものとか美談ものと呼ばれるジャンルの物語〉という意味で用いることとしたい。
永洲の作品を概観すると、〈お伽噺〉の系列の作品の数はごく少なく、しかも初期の頃に限定される。大部分は〈少年小説〉の系列の作品に分類することができる。
永洲にとって、最初の子どもむけの作品は、「少年」の創刊号(注32)に掲載された「人食姫(ひとくいひめ)」である。この作品では、貧乏な夫婦の間に生まれた娘が女神に救われて天国で暮らすうち、禁じられた部屋を覗く。娘は神に詫びることをしないので罰を受け、口をきけなくされて地上へ追放される。地上の世界では、娘は王妃となって次々と子を産むが、女神はその度に罰として子を隠すので、娘は人食の罪を着せられる。娘は火あぶりの刑に処せられようとしたとき、初めて自らの罪を女神に詫びる。すると、女神は罪を許して子を返し、娘の疑いは晴れる。この作品は永洲の言う〈お伽噺〉であり、教訓的な結末で終わっている。作品中では、主人公の名前を雪子とし、雪子を《京人形》のように美しいと表現した上、日本画家の筒井年峰の手になる挿絵を添えるなど、かなり日本風にアレンジされている。しかし、ストーリーを全体として見れば、トンプソン(Thompson,Stith)の分類によるMT710(「聖母の子」(注33))の類型に、ほぼ当てはまる。おそらく外国の作品の翻案であろうと推定されるが、具体的に何をテキストにしたかは未詳である。なお、「少年」は創刊号の売れゆきが良かった為、創刊号には再版が刊行されている。この版では、「人食姫」という題が「食人姫」(ひとくいひめ)に変えられているが、内容は変わらない。
「人食姫」の評判が良かった為か、永洲は以後、「少年」に〈お伽噺〉を掲載している。「石なげ合戦」(注34)、「サッサと踊れ」(注35)は、各々トンプソンの類型のMT612(「三枚の葉」)とMT670(「動物言葉」)に当てはまる。基になったと思われるテキストは、「人食姫」の場合と同じく未詳である。
「天竺の鬼」(注36)は、やや他と趣を異にしている。舞台を天竺とし、主人公の名前も「多摩」「羅闍」にして、獅子や椰子を小道具に用いるなど、いかにも天竺らしい描写が多く、翻案としての体裁をとっていない。内容は天竺の二人の旅役者が鬼が出るという噂の山の中で野宿したとき、一方の役者があまり寒いので鬼の衣装を付けて寝込んでしまう。もう一方の役者が夜中に目ざめると、鬼の衣装を付けた相棒を本物の鬼と見誤り、大声をあげて逃げ惑う。鬼の衣装を付けた役者が相棒の大声に驚いて後を追って逃げると、相棒は鬼が追いかけてきたと思って益々逃げ迷う。結局、二人は一晩中無駄な追いかけっこをしていたという笑い話である。このモチーフは仏典「百喩経」に起源のあることが確認でき、後年にも江口渙が同じモチーフで「鬼が来た」(注37)を書いて、繰り返し子どもむけに再話されている。この作品についても基になったテキストは未詳である。しかし、トンプソンによると、MT612とMT670は、いずれもインドあるいは仏典に起源があるというので、あるいはこれらの〈お伽噺〉は、仏教説話集のようなものをテキストにしたのかもしれない。
右のような〈お伽噺〉から、永洲の作風が変化する転機となった作品は、「平和の仇(あだ)」(注38)である。この作品は日露戦争を謳った文語詩で、〈平和の仇〉とはむろんロシアのことを指す。そして、「実(げ)にや千歳一遇/例しなき義の戦/名に負ふ桜の国の/宇内に轟かん/珍らしや優曇華(うどんげ)の/来れいざ戦はん」と何の疑いもなく日露戦争を〈義の戦〉と位置づけ、〈帝国大日本〉の勝利への確信を高らかに謳いあげている。当時の子ども向けの雑誌では、日露開戦(1904年2月)を受け、こぞって戦況に関する記事や、戦争を題材とした作品を掲載していたが、この動きに「少年」も例外ではなかった。こうした状況の中で、永洲は「平和の仇」に続いて、「小さな兵隊」(注39)、「高塔の少女」(注40)、「父の凱旋」(注41)、「白文字」(注42)の日露戦争に関係した作品を書いている。
「小さな兵隊」では、出征する父を号外売りの少年が健気な姿で見送る。その姿に感心した父の隊の隊長は、〈軍人の子〉と書いた旗を立てて号外を売るよう勧める。すると、このことが評判となって少年の号外が良く売れるようになり、病気の母を抱えた少年の家の生活が楽になる。この作品では留守家族の困窮を描いており、戦意高揚一辺倒ではなく、現実の社会の困難な面をも、ある程度ながら反映している。
「高塔の少女」は「奉天の戦ひの折、実際に有つた事実だといふのを、又た聞きまして綴つて見た」という設定の作品で、親孝行な中国人の少女が主人公である。少女は、日本軍の間諜の容疑でロシア軍に捕らわれている父の安否を尋ねて、毎日、高塔に登っている。初めはロシア軍の見張りとして協力し、やがて日本軍が入城してくると日本軍に協力してロシアの旗を引き下ろす。そして、日本軍に父の身の上を訴えて、父を救い出すことに成功する。この作品では、日露両軍のどちらに正義があるかというようなことは殆ど問題にされておらず、中国人少女の感動的な親孝行ぶりが中心に描かれている。
「父の凱旋」では、日露休戦が成立した後、日本に凱旋して来るはずの父を待つ母と少年を描く。予備軍曹であった父は家族の行く末を思い、大陸へ出撃する前に、一旦、脱営をしてしまう。だが、我が家の様子を覗き見に帰ると、母と子の健気な姿に心を打たれてそのまま帰営した。したがって、軍にも家族にも脱営のことは気付かれていない。やがて、戦場に赴いた父は大きな手柄をたて、少尉に異例の出世をして凱旋する。この作品では、父は根っからの勇士であった訳ではなく、戦場の手柄話が作品の中心に据えられるのでもない。母と子が凱旋軍の列を見ながら、父の姿の見えないことを心配していると、聯隊旗手を務めている父を発見するという劇的な展開に中心がおかれている。
「白文字」では、中学校の体操の教員をしている元曹長が、受持ちをしている将軍の子どもの悪戯をかばって学校を辞める。その後、この教員が戦場で件の将軍の命を助けた曹長であったこと、その際に将軍と曹長を救ってくれた中国人の少年を手元に引き取って養育していることが明らかになる。そして、将軍の尽力で元曹長の復職が許される。この作品では、隠れた手柄や善行が知れた時の少年たちの感動が描かれている。
このように、いずれの作品も、〈実際〉の美談という体裁に仕上げられ、戦場に於けるスーパーマン的な活躍など荒唐無稽な展開となることを極力排除している。思いもよらぬ意外性のある展開を描く手際の良さには、後に探偵小説に活かされる才能が感じられる。
こうした日露戦争に題材をとった作品の成功により、永洲は〈事実〉を題材とした〈少年小説〉への自信を深めたと思われる。
ちなみに、永洲が遺した2冊の作品集には、〈お伽噺〉は1篇も収録されていない。もっとも、「平和の仇」以降の作品においても、北海道の貨物列車内に紛れ込んだ熊と鉄道員が素手で戦う「汽車内の决闘」(注43)や、兄弟が狼に襲われた時、自分たちが転がしている綿の入った篭の中に入って狼や悪漢と戦う「篭城」(注44)のように、冒険的な題材の面白さと荒唐無稽さを備えた作品がある。だが、全体としてみれば、作品の傾向は、明らかに〈お伽噺〉から〈少年小説〉へ中心が移っている。
〈お伽噺〉と〈少年小説〉に対する永洲の意識の違いは、作品の仮名遣いの違いにも現れている。永洲の作品を文体からみると、一部の文語詩を除いて、全てが言文一致体で書かれている。だが、仮名遣いについて初期の頃の作品を検討してみると、いわゆる〈わ仮名〉と〈旧仮名〉の間で捩れ現象が見られる。具体的には、最初の作品である「人食姫」から「天竺の鬼」までの〈お伽噺〉については〈わ仮名〉を用いているのに、〈お伽噺〉としては最後の作品である「サッサと踊れ」では〈旧仮名〉を用いている。だが、〈少年小説〉としては最初の作品であり、「サッサと踊れ」より後に発表された「小さな兵隊」については〈わ仮名〉を用い、以後は一貫して〈旧仮名〉を用いている。
〈わ仮名〉については、巌谷小波に代表される当時のお伽噺が〈わ仮名〉を用いていたことの影響から、永洲も〈お伽噺〉では一般的な仮名遣いである〈わ仮名〉を自然に用いていたと考えられる。しかし、現実の生活に即した〈少年小説〉については、〈お伽噺〉に用いられる〈わ仮名〉ではふさわしくないとする判断があったのではないか。ただ、文体の転換は一気に行われたのではなく、迷いを伴っている。「サッサと踊れ」「小さな兵隊」の間で見られる仮名遣いの捩れ現象は、作風の転換期における迷いの反映であったと思われる。なお、「少年」では創刊当時から言文一致体が主体であるが、殆どの作品・記事の表記は〈わ仮名〉ではなく〈旧仮名〉である。
以上のように、若干の紆余曲折を経ながらも、〈お伽噺〉と訣別し〈少年小説〉に作風が変化していった背景としては、発表誌の「少年」の性格ということが考えられる。「少年」は新聞社系のものとしては最初の子ども雑誌であり、内容では時事問題や理科読物・社会読物を重視している。例えば、創刊号の巻頭には、「満州問題」(安岡秀夫)と題する、日露戦争直前の緊迫した満州の状況を伝える時事問題の解説を掲載して評判が良かったし、その後も「時事解説」として子どもむきに時事問題を紹介するなど、いかにも新聞社系の雑誌らしい編集ぶりであった。木村小舟は「敢て紙数の多きを求むることなく、寧ろ内容の堅実性と、外観の純美とを生命とする」(注45)と評している。したがって、荒唐無稽なお伽噺よりも、〈実際〉の社会に即した〈少年小説〉の方が、〈堅実性〉を重視する雑誌の性格に馴染むのは自然な成り行きであった。また、永洲自身も社会部長の任にある新聞記者であり、日常、さまざまな事件を記事として扱い馴れていることも、〈お伽噺〉から〈少年小説〉へという作風の変化を促す下地となっていたと思われる。
なお、「少女」掲載の作品でも、〈事実〉に題材を求めるという傾向は、一部の例外を除いて、殆ど変わりはない。「少年」に比べて、登場人物に少女が多いという程度である。その理由としては、次のことが考えられる。まず、「少女」の創刊は「少年」よりかなり遅く、1913年10月のことであり、すでに、この頃には永洲の作風は確立していて、永洲の〈少年小説〉には定評があった。次に、「少女」が創刊されるまでの「少年」の読者は、必ずしも男児に限られていたわけではなく、男児・女児の別が未分化の状態であった。そのため、「少女」の創刊が永洲の作風に、それほど大きな変化を促す必然性はなかったのである。
「少女」の創刊第一号を御覧になつたお方は、表紙の題字が、永洲永島今(いま)四郎先生の筆に成つた事を御記憶の事と思ひます。同時に初号第一の呼物であつた「美しき捕虜」と題する可憐なる物語を筆頭に、殆ど毎号少女小説に、歴史小説に絢爛の筆をふるはれた永島永洲先生の御名を知らない方はないでせう。(中略)「少女」に掲げた先生の小説が、常に清新純潔、良家の子女の読物として識者の間に歓迎されて居た事は申すまでもありません。晩年は御病気勝ちで「少女」にはあまり筆を執られませんでしたが、「少女」を思ふの念は決して記者におとりませんでした。(以下略)安倍季雄は「永島永洲先生を悼む」(注46)で、「少女」における永洲の作品の特徴について、右のように記している。ただ、永洲の「少女」掲載作品には、「泰時に睨まれた少女」(注47)など、武家社会に題材を求めた〈歴史小説〉がある。これは、後述するように、永洲が晩年に「少年」で冒険小説の長期連載を試みたのと同じく、作風の転換を目指した試みであろう。しかし、武家社会に材を求めた〈歴史小説〉という枠組では、少女のヒーローが活躍することに無理がある。結局、貞女もの・烈女ものが多くなり、〈歴史小説〉は〈清新純潔〉な〈良家の子女の読物〉と言うほど成功せず、新味や生彩がないままに終わった。
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永洲の少年小説を集めた最初の作品集は、『少年:奇話|活劇』と題し、1912年7月5日、長風社から刊行された。縦17.5×横11.5センチ、398頁の小型本で、定価50銭、全18篇を収録した短編集である。収録された作品は、すべて「少年」に既発表の作品である。奥付けによると、著者は永嶋(ママ)今四郎、出版社の所在は東京市麹町区富士見町六丁目となっている。次に、目次を掲げておく。【 】内の数字は初出誌の通巻号数、後の年月は初出誌の発行年月を意味する。( )内は初出時のタイトルである。
各短編の配列を見ると、おおむね初出の順に従っており、作品のタイトルについても、殆どが初出のままになっている。一見したところでは、非常に無造作な配置であるように思われるが、実はそうではない。まず、冒頭の「学校紀念日」と巻末近くの「少年画家」は、初出の順にしたがっていない。次に、冒頭に位置する「学校紀念日」については、タイトルも「福引物語」から改題がなされている。この作品集中、字句の修正を除くと唯一の改題らしい改題である。
学校紀念日(福引物語) 【25】 1905年10月 怖ろしき船 【12】 1904年9月 唖の使 【14】 1904年11月 二本の籤(二本の籖) 【15】 1904年12月 風船乗 【16】 1905年1月 篭城 【17】 1905年2月 血染の白百合 【22】 1905年7月 高塔の少女 【23】 1905年8月 大活劇 【24】 1905年9月 橄欖娘 【27】 1905年12月 写真物語 【28】 1906年1月 父の凱旋 【30】 1906年3月 决闘 【32】 1906年5月 番兵 【38】 1906年11月 うれし涙 【42】 1907年3月 少年画家 【29】 1906年2月 間諜 【53〜54】 1908年2〜3月 荒海 【57〜58】 1908年6〜7月
『生死の境』中の作品の配列は、『少年:奇話|活劇』の場合とは違って、一見して初出の順よりも作品の内容を優先していることがわかる。
鉄橋 【103・105】 1912年3年5月 伏兵(負けじ魂) 【47〜48】 1907年8〜9月 寝室の鍵 【100】 1912年1月 生死の境 【55〜56】 1908年4〜5月 予言者 【66〜67】 1909年3〜4月 競走 【26】 1905年11月
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成人の読者を対象とした探偵小説流行の歴史は、まず、明治二〇年代の初め頃、黒岩涙香らの翻訳・翻案ものが流行したことに始まる。だが、この流行への反動として、明治二〇年代中頃から、探偵実話の流行現象が見られるようになり、この流行は大正一〇年代まで続く。このように、大正期の探偵小説の主流は探偵実話であったが、「実話に実話なし」(注50)と言われているように、実際にはかなり事実を潤色したり、探偵実話という名前を借りた創作ものが多かった。こういった成人むけの探偵小説をめぐる潮流の変化を敏感に察知して、永洲は〈実際〉の生活の中に起こり得る〈事実〉を重視するようになったと考えられる。ただ、永洲の言う〈実際〉や〈事実〉は、あくまでもフィクションとしての〈実際〉や〈事実〉である。〈実話〉と言わず、あくまでも〈創作〉であることを認めているところに特徴があった。
中島河太郎は、涙香の後継作家たちの作品について、「おおむね翻案か、犯罪読物に堕するものが多く、創作は振るわなかった。論理を主軸にするより、冒険奇譚を強く表面に押し出した春浪の冒険小説に移るとともに、対象は少年に限られてしまった」(注51)と述べている。だが、もともと、押川春浪のデビュー作『海島冒:険奇譚|海底軍艦』(注52)では、謎解きの要素が加味されていた。まず、冒頭部分で謎の老女が登場し、出帆の延期を忠告する。そして、終末局面になって、老女の息子が海賊の仲間に入っていたことがわかり、その正体があかされる。ストーリー展開上の本筋ではないけれども、謎めいた老女の出現とあやしげな忠言は、独特の雰囲気を創りだした。前記の伊藤秀雄の著書によると、「春浪の作風は冒険が主で探偵味は従になっていたが、一派を開いたというべきである」「従来の探偵小説に冒険趣味を加えたのは、春浪の独創といってよい」と、探偵小説史の上でも春浪の評価は高い。なお、春浪は博文館の「冒険世界」の主筆として活躍し、後には博文館の首脳陣と対立して自ら「武侠世界」を興している。そして、自らも筆を取ってこれらの雑誌に多数の作品を掲載する一方、阿武天風、三津木春影など多くの作家を育てた。
三津木春影は日本における子どもむけ探偵小説の開拓者であった。続橋達雄は、「三津木春影 序説」(注53)において、春影の子どもむけの作品を〈探偵(推理)小説〉〈スパイと戦う話〉〈お伽話〉の三つの系列に分類した上で、「鋭い観察と科学的な方法(推理・実験)、スリルにみちた勇気ある行動を中心とする呉田博士の系列こそが、春影の得意とする分野であった」と結論づけている。〈呉田博士〉ものとは、オースチン・フリーマン(Freeman,Richard Austin)の作品の翻案で、主人公のソーンダイク博士を〈呉田博士〉、舞台をロンドンから東京へなどと置き換えて、法医学ほかの科学知識を推理に応用し、大いに人気を集めていた。後年、横溝正史・江戸川乱歩・西田政治・甲賀三郎といった作家たちは、こぞって春影の作品を少年時代に愛読していたと回想している。なお、晩年の春影は「日本少年」の専属のようになるけれども、子どもむきに作品を書きはじめた頃は、「少年」に〈呉田博士〉ものなどを盛んに発表していた。ここに、永洲との接点を見いだすことができる。
すでに述べたように、永洲は「少年」の主要な寄稿家の一人であった。そして、永洲もまた、探偵小説の系列を最も得意としていたのである。永洲は子ども向け探偵小説の書き手として忘れてはならない作家であり、斯界においてライバル関係にあったといっても良い。
永洲の作品中には、新しい知識や技術を使って謎解きを行うという探偵小説が、かなりの量を占めている。
「五重塔」(注54)は、夏休みに四人の学生が各々の得意を生かして、写真の撮影と現像=化学の知識の応用、鏡を利用した器具を使った井戸さらい=工学の知識の応用、貂を使った鼠退治=動物学の知識の応用、蜂を使ったリューマチの治療=医学の知識の応用、を行って、地方の住民の役にたちながら旅行をする作品である。旅先では、こうした利器の類と知識を活かして、盗みの罪を着せられた人物の無実を証かす。真犯人は狂人であり、盗難にあったと思われていた玉手箱は彼によって井戸の中に投げ込まれていたという謎解きによって、事件が解決している。学生が学校で学んだ知識をもとにした工夫を事件の解決に活かすという展開が、読者の置かれている環境に引き比べて共感し易く、興味を覚え易かったと思われる。
「顕微鏡」(注55)では、老夫婦が世間の同情を引き、人々からほどこしや見舞金を受けるのを怪しんだ主人公が、写真や顕微鏡を使って不正を暴く。不正を暴くためには、まず、記念のためという口実で、焼死したはずの老夫婦の子どもの遺骨を写真に撮っておく。次に、顕微鏡を使ってその写真を拡大する。すると、骨に番号が打ってあることが発見できた。ここから、この〈遺骨〉が医学校の標本室から盗まれたものであることが発覚する。言葉巧みに言い逃れる詐欺師に対して、有無を言わせぬ証拠を突き付ける学生の活躍をみごとに描いている。
「弾痕」(注56)では、殺人未遂の疑いを受けた兄の潔白を信じる妹が、現場に残された弾痕を手がかりに真犯人を見つける。冒頭の銃撃事件の発生から犯人と思われる人物の逮捕、そして素人探偵の推理による真犯人の究明へという展開は、探偵小説として本格的なものであった。佐川春風の作品を初めとする後年の探偵小説と比較しても、遜色がない。また、当時は珍しかった飛行機の発明工夫ということを絡ませている。ちなみに、わが国で最初に飛行機の公式飛行が成功したのは、1910年12月のことであり、この作品はその翌年の3月号に掲載されているから、飛行機を取入れた作品としてかなり初期の頃に属する例である。他に、飛行機を取り入れている作品には、三保の松原を背景に取入れた感動ものの「電話が来た」(注57)などがあり、永洲は子ども読者の飛行機への興味の高まりを巧みに作品中に取り込んでいる。
これらの作品では、いずれも、顕微鏡などの新しい技術や知識、推理の積み重ねによって事件が解決される。学校で学んだ新しい技術や知識、知力を駆使するということに、読者の共感を狙っている。こういった傾向の作品には、春影の作品の影響があるのかもしれない。
また、永洲の探偵小説においては、おどろおどろしい猟奇的な事件が描かれることは殆どなく、〈実際〉の生活の中で起きる〈事実〉が描かれている。職業探偵は一人も登場せず、すべて探偵としては素人の主人公が事件を解決する。素人探偵は、知識や新しい技術を武器に謎解きを行い、事件を解決に導き、読者の知的興味を刺激するよう配慮されている。探偵が呉田博士のような大人ではなく、少年である点で、大正期の末に人気を集めた小酒井不木の〈少年科学探偵〉ものに先行する試みであったとも言えよう。このように、少年・少女の日常生活の中で事件が発生していること、しかも、少年・少女が大人の探偵の活躍の添えものとして描かれるのではなく、少年・少女自身が素人探偵や鍵になる人物として事件を解決に導くものが多いことに、新鮮さが感じられる。
ところで、春影の探偵小説には「外国物の翻案が多くその意味では、独創性に乏しく、少年小説史上に残る作品を作り出したとは云い難かった」(注58)という評価がされている。例えば、〈呉田博士〉ものでは登場人物の名前が日本風に改められたり、舞台が日本に設定されたりしていても、外国臭をきわめて濃厚に残しており、一読して翻案ものであることがわかる。永洲の場合も、先述した『少年:奇話|活劇』の自序に、〈翻訳ものと否とを問はず〉云々という記述があって、具体的にどの作品が〈翻訳もの〉にあたるのかということは、いまのところ不明であるものの、外国種の作品が含まれていると考えられる。だが、仮に、外国種の作品が混じっていたとしても、巧みな翻案で外国臭を感じさせない。永洲の作品では、一読して明らかに外国種を思わせるような作品は例外的であり、ここに、春影の〈呉田博士〉ものとの違いが見られる。このように、永洲の探偵小説は独創的で先駆的な試みとして、春影を凌ぐ観がある。
しかし、永洲の場合は、活躍の舞台が「少年」「少女」の両誌に限定されていた。その上、春影は文筆専業であり、病苦のうちにも多数の作品を執筆しなければならないのに対して、永洲には新聞記者という職業があった。永洲は文筆で暮らしをたてていた訳ではないので、多作する必要はない上に、たとえ他誌からの依頼があったとしても、「少年」「少女」の経営母体である時事新報社への遠慮という意識が働いたに違いない。したがって、特定の愛読者の間では絶大な人気がありながら、活動の舞台の狭さゆえ、人気の拡がりに欠けていたのである。その上、春影の作品では〈呉田博士〉や〈小島恭一〉のような大人の探偵がヒーローとして登場し、所謂〈科学的探偵〉を行ったり、外国のスパイを摘発する。このような春影の作品と、永洲の作品とを比較すると、当時の子ども読者の眼から見れば、どうしても後者の地味さに比して前者の派手さが目立ちがちであったのかもしれない。
なお、大正期には、この時期の代表的な大衆的児童文学作家である阿武天風や宮崎一雨などが挙って冒険小説を創作するようになったため、このジャンルの作品は隆盛を極めることとなり、いったん、探偵小説は振わなくなっていった。しかし、やがてこれらの冒険小説は「時代の進展とともに同工異曲のマンネリズムが飽かれ」るようになり、「勇敢無比の少年を主人公に仕立てて、非現実な行動をとらせるよりは、そのヒーローを少しでも現実に近づけて、知能を働かせる探偵役に起用するほうに嗜好が移って」(注59)行くようになる。こうして、大正期の末になると、佐川春風(森下雨村)や小酒井不木といった作家たちが台頭し、子どもむけの探偵小説は本格的に開花するが、これは永洲や春影の没後のことになる。
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永洲の作品には、継母が継子を虐待するというストーリーが多くみられ、継母というものは継子を虐待するものだとする固定観念に安易に依りかかっている。
「深夜の悲鳴」(注60)では、継母が継娘を虐待して押し入れの中に閉じ込める。ところが、継娘が空腹の為に動けなくなっているところをその家に入った泥棒が見つける。泥棒は自分の罪がばれるのを覚悟の上で継娘を助けたのち、自首をする。忍び込んだ泥棒によって継娘が救われるという点に工夫が見られるものの、継母は継娘を虐待するものだとする固定観念の上に成り立つ作品であることには変わりがない。
虐待される子どもが実子の場合でも、親が極端な吝嗇家であるために娘を虐待するというような設定になっている。こういった親は、最後には必ず改心するようになっており、子どもたちは逆境にもかかわらず健気である。また、少女が虐待される作品に限って言えば、彼女たちが自分の力で不幸な境遇から脱することは殆どなく、たくましい少年や青年によって救出されることが常である。
作品中で悪が懲らされる場合には、継子の虐待、極端な吝嗇、泥棒やギャング、財産の横領、偽善といった個人の犯罪・罪悪に限られている。もっと大きな社会悪に触れられることは決してない。
先述した「小さな兵隊」でも、日露戦争に出征中の兵士の留守家庭が困窮しているという問題を描いてはいるものの、結局は、出征兵士の子どもが、勇ましい戦場の手柄を伝える新聞の号外売りとなり、周囲もそれを助けるので後顧の愁いがないという結末になっている。反戦はおろか厭戦気分も見受けられない。「美しい捕虜」(注61)では、堤防をめぐって利害が対立し、不仲になっている村同士であっても、少女たちの誠意・友情によって仲直りをさせることができるように描かれる。だが、もともと、築堤というものは、川を挟んだ両岸の住民の間では鋭く利害が対立するもので、片岸の堤防が強化されることは、対岸の堤防が破れることに直結する。この作品では、こういう対立の根源に触れられることはなく、大人たちの対立は氷解してしまう。作品中に稀に貧しい主人公が登場する場合でも、懸命に努力をすれば必ず立身出世して報われるという結論になっている。「少機関師」(注62)では、貧乏な少年が学校を中退して鉄道会社に入る。腕は良いが品行の悪い機関士やその従弟にあたる工員の迫害を受けながらも、彼は次々に出世をする。やがて、機関士を経て重役になり、鉄道会社の社長の令嬢との結婚が取沙汰される。しかし、なぜ、青年が貧乏であり、学業を途中で放棄しなければならなかったのかということについて、深く追求されることはない。
アイヌや台湾の原住民については、今日から見れば、きわめて差別的な偏見・固定観念に基づいて描いている。
「怖ろしき船」(注63)では、船内で反乱を企てるのはアイヌの船員であり、陰謀に対して勇敢に立ち向かうのは、たまたま船客となっていた日本人(和人)の少年である。「敵は海賊」(注64)でも、同様に、アイヌやそのほかの北方の小数民族を海賊として描いている。「唖の使」(注65)は、主人公の日本人の少女が父から預かった事業資金を、台湾の列車の中で守りとおすという展開の作品である。父は〈土匪〉が資金を狙っているのを察知し、娘を自分とは別の車両に粗末な衣服を着せて乗り込ませ、大切な風呂敷包を守るように言い付ける。ある〈土人〉は、少女に盗みを疑いをかけて風呂敷包を取り上げようとするが、少女は必死に守りきる。最後に、怪しげな髭の日本人が、実は父の雇ったボディーガードであったという意外な展開もあり、事件の展開に適度なスピード感と緊張感があってかなり読ませる作品であった。風呂敷の中身が三千円の大金であることも、最後になって始めて種あかしがある。しかし、ここでは、現地の住民はすべて怪しげな〈土人〉や〈土匪〉として描かれている。「生死の境」(注66)では、台湾の原住民のうち、〈生蕃〉は野蛮な人殺し、〈熟蕃〉は半開・従順で日本人の警官に協力するが〈生蕃〉との戦いでは意気地なし、日本人の警官は勇敢で義侠心に富んだ知恵者として、描き分けられる。こうして、夫々の民族に対する偏見・固定観念をそのまま登場人物の性格に当てはめている。また、〈生蕃〉の反乱の理由を「台湾は素と自分等の国であつたのだ、然るに支那人が来て横領する、近頃は又日本人が来て吾物顔に威張り散らす、実に怪しからぬ事だと歯噛をなし、何んと宥めても賺しても、総督府の命に従ひません」と作品中に記しながら、そうした〈生蕃〉の言い分に理があるというようなことは考えもつかず、総督府の命に従わないのは、彼らが野蛮だからとして済ましている。「二本の籖」(注67)に至っては、日本人の狩猟家が誤って台湾の原住民を傷つけたから彼らを怒らせたという設定になっているにもかかわらず、日本人の行為に何ら反省はなくて、原住民を野蛮な人殺しとして描いている。
このように、少数民族や原住民は野蛮であり、人殺しを平気でする悪人として描かれる。それに対して、日本人(和人)は文明人であり、勇気と正義感にあふれているというように描かれる。なぜ植民地で反乱がおきるのか、なぜ抑圧者・支配者たる日本人(和人)に少数民族や原住民が反感を抱くのかということは全く無視されている。せいぜい、「生死の境」で「高潔な美しい人の情(こゝろ)を、この生蕃に見やうとは、僕も今迄思はなんだよ。」「打てばこそ渠奴等(あのやつら)は跳返へるけれど、此方の仕向け次第では、喜びもしやう、懐きもしやう、余り討伐一辺に逸るのは此処考へもんぢやぞ君。」として、〈土人〉の中にも見込みのある人間がいるので、良い方向に導いてやろうという程度の〈良心〉が垣間見えるにすぎない。植民地支配や少数民族に対する迫害という大きな矛盾に目が向けられることはないのである。
他にも、犯人は精神障害者や精神薄弱者であったというような結末の謎解きがめだち、こういった人々は犯罪を犯すものだという偏見が見られる。また、身体障害者を笑ったり差別を当然とする表現が散見される。
以上のとおり、永洲の作品は、一般の常識や固定観念、時には差別的な偏見をも当然のこととして描かれている。むろん、こういった傾向は、当時の他の作品にも大なり小なり見ることができる。ただ、ここでは、作品が当時の一般の常識や固定観念を超えないということは、体制にかかわるような大きな問題や社会的な問題に触れないことにつながることに注目しておきたい。安倍季雄が「少年」の追悼文中で言う〈健全〉とは、あくまでもこうした体制内の常識的な価値観に基づく〈健全〉さであった。ここに永洲の限界を見ることができる。
なお、晩年の永洲は日常生活から掛け離れた冒険小説への傾斜を強め、「少年」に「巖壁の鍵」(注68)、「高塔の雲」(注69)の2篇の長期連載、「少女」に「馬賊の妹」(注70)の連載を行っている。
「巖壁の鍵」は、年若いながらも格闘技に秀でた主人公、傍若無人にふるまう怪人物、正義の老将軍といった魅力ある人物を絡ませ、主人公の妹の誘拐や密輸といった犯罪事件を描いた。最後には信じきっていた伯父が黒幕であったという意外な結末が用意されている。長編の冒険探偵小説として破綻もなく、それなりに成功を収めた作品であった。「高塔の雲」は、これまでの永洲の作品の舞台が国内や台湾に範囲が限られ、ごく一部の作品が中国大陸を舞台にしていた程度であったものを、思い切ってシンガポール、スマトラといった大きな範囲に舞台を広げている。長編の冒険小説の方向に作風の転換をねらった作品であったと思われる。しかし、少年主人公が行方不明の姉を追って南洋に渡り、知識を生かして南洋の酋長になるといったかなり荒唐無稽な面がめだつ。また、日本国内や船中では弱々しかった少年が、外国へ行くと突如大活躍するという点がいかにも不自然で、作品としては成功しなかった。「馬賊の妹」では、日本人の兄が大陸で馬賊の幹部になる。しかし、少女向けということを意識して妹の八面六臂の活躍を中心に描くという点に無理があり、やはり、荒唐無稽な展開であった。
右のように、「巖壁の鍵」では手慣れた探偵小説の要素をかなり残していたのに対し、「高塔の雲」「馬賊の妹」では「冒険や探検物語の往々奇に過ぎて、却て実際に遠ざからうとする弊」(注71)を自ら犯してしまった。晩年に日常生活から掛け離れた冒険小説への転換を試みた理由は、おそらく、冒険小説の流行という時代の流行を取り入れようとしたことにあるのだろうが、結局、永洲の特長を活かせず成功しなかった。永洲の冒険小説は、小手先だけで纏められたようで生彩がなく、宮崎一雨や阿武天風などの冒険小説には比ぶるべくもなかったのである。
「少年」の投稿欄を通じて子どもと接点を持ち、作品中に飛行機など子どもが興味を持ちそうな素材を積極的に取入れようとしていたことからすると、永洲はいま子どもが何を喜ぶかということに敏感な作家であったと考えられる。子どもの要望に敏感であったことが日常生活から掛け離れた冒険小説への傾斜を強めることになったという推定が正しいとすれば、不幸なことに、そうしたことが作家としての特長を活かす方向に資するのではなく、押し潰すことに繋がってしまったのである。
【付記】
「少年」誌は稀覯資料であるため、従来はこれを通読することができなかった。ところが、幸いなことに、故南部新一氏の旧蔵資料が、大阪国際児童文学館に南部新一記念文庫として収蔵され、この資料中に多数の「少年」誌が含まれている。本稿は南部新一記念文庫なしには成立しえなかった。関係者各位に感謝したい。
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