永島永洲の児童文学

―冒険・探偵小説を中心に―

「国際児童文学館紀要」第9号(1994.3.31 大阪国際児童文学館)に発表



 =目次=

(1)はじめに
(2)永洲と「少年」「少女」誌
(3)永洲の児童文学観
(4)お伽噺から少年小説へ
(5)少年小説の特質
(6)大正の探偵小説と永洲
(7)終わりに
※ 


(1)はじめに

 永島永洲(ながしまえいしゅう)は明治中頃から大正中頃にかけて活躍した作家であるが、今日ではすっかり忘れ去られている。わずかに、近刊の『日本児童文学大事典』(注1)に項目として取り上げられているにすぎず、従来の児童文学の研究書の類に永洲に関する記述は見られない。
 永洲の活躍した時期は、小川未明の『赤い船』(注2)、島崎藤村らの『愛子叢書』(注3)、鈴木三重吉の『湖水の女』(注4)などが次々と刊行され、やがて「赤い鳥」が創刊(注5)されようとした頃で、大正期の芸術的児童文学の揺籃期にあたる。この当時、永洲は「少年の愛読者は一人だつて永島君の名を知らない方はないでせう。そして一人だつて永島君の小説を愛読しない人はないでせう」(注6)と言われるほどの人気作家であった。作品の発表誌は、時事新報社から刊行されていた「少年」「少女」の両誌に限定されるが、前誌には73篇、後誌にも12篇(推定1篇を含む)にのぼる短編・中編・長編の作品を数えることができる。子どもむけの作品集としては、『少年:奇話|活劇』(注7)と、『生死(しようし)の境』(注8)の2冊がある。
 永洲の作風は多様で、探偵もの・冒険もの・友情もの・時代ものといった分野にわたり、大衆的児童文学の主たるジャンルをほぼ網羅している。中でも、子どもむけの探偵小説の分野では、草分け的存在の一人であり、ほぼ同時期に活躍していた三津木春影と並んで人気があった。作品中には、ストーリー展開の意外性と実録風の臨場感あふれる描写に文才の冴えをみせ、とぼけた味のある滑稽な作品もあって、器用な書き手であった。
 この時期の子どもむけの冒険・探偵小説については、先行する研究文献が殆ど見当たらず、この分野に関する研究はほぼ空白状態にあると言ってよい。本稿では、永洲の児童文学の特質について、特に冒険小説と探偵小説に焦点をあてて考察を行うこととし、今後この分野の研究が進展することを期待したい。

(2)永洲と「少年」「少女」誌

 永洲の経歴については、『明治新聞雑誌関係者略伝』(注9)に、次のように記されている。

慶応三年生、大正六年八月八日歿。五一歳。(一八六七〜一九一七)新聞記者。埼玉県行田在大塚村の名主加藤栄之助次男。出でて永島家を嗣ぐ。名は今四郎。明治二三年慶応義塾卒業、直ちに『朝野新聞』に入社。「千代田の大奥」の連載があり、これはのちに単行書となっている。明治二六年一一月『朝野新聞』は一旦廃刊したが、『新朝野新聞』として再刊されると、その社に残った。しかし『新朝野新聞』は社勢極めて不安定であったため、明治二九年『時事新報』に転じ、歿時に至った。著書に右のほか『虞拉斯頓公伝』(望月小太郎と共訳)がある。末松謙澄の『谷間の姫百合』もその大半はこの人の手になるという。
 「時事新報」は福沢諭吉の主宰になる新聞である。永洲が慶応義塾の出身であったことから、社勢が不安定な「朝野新聞」「新朝野新聞」より「時事新報」に転じたことは、自然な成り行きであった。時事新報社では、20年間以上にわたって活躍し、社会部長の職に在任中に死亡している。このように、永洲は一貫して新聞記者の道を進む傍ら、おとなむけ新聞小説の執筆など著作活動を行なっていた。
 永洲と「少年」「少女」誌の関係を知る上で、安倍季雄の「噫永島永洲先生」(注10)は重要な文献である。安倍は「少年」「少女」の両誌の編輯主幹をつとめており、この文献は永洲の死後に追悼文として書かれたものである。
 『少年』の創刊は明治三十六年の十月で、号を重ぬる事百七十、年を閲する事十五年、此長い年月の間、終始一貫、いそがしい社務のかたはら、わが『少年』の為めに尽された永洲先生の努力、好意、援助の力は実に非常なもので、創刊当時の『少年』主幹寺山星川君を援けて、小説に、記事に、独得の健筆をふるはれ、明治三十七年一月、『少年』で新たに懸賞綴り方を募集するや進んで其選者となり、多病蒲柳の質を以て、よく大正六年七月号に至るまで、一回も休まれなかつた許りでなく、其深切、公平なる選定批判は、少年懸賞文の価値をして、九鼎の重きをなさしめた功績は、諸君の熟知せらるゝ所であります。
 記者がはじめて時事新報社員の末班に列し、永洲先生にお目にかゝつたのは明治四十一年の一月で、時事新報主筆石川幹明先生の下に社会部長として永洲先生の声望は実に都下新聞界の権威でありました。(中略)間もなく記者は社長の命により、思ひがけなく『少年』部に転ずる事になりましたので、永洲先生と机をならべて居た期間は極めて短時日でありましたが、併し『少年』と永洲先生との関係は、より密接であつた為め、爾来十年間、常にかげになりひなたになつて記者を督励援助せられたので、幸ひにして大過なく今日まで過ごす事が出来たのであります。
 従つて愛読者諸君との交驩、親密の度は永洲先生の方が記者よりも遥かに長い許りでなく、『少年』と『少女』以外には、自から署名して筆を執られる様な事は殆んどなかつたので、先生の少年少女小説は、両誌独得の好読物として、毎号非常な喝采と歓迎と好評を得たのであります。構想の奇、文章の妙は言はずもあれ、上品、健全、清新といふ点では、恐らく現代の少年文学の作家中、先生の右に出づる者は幾人もなからうと思ひます。
 永洲は「少年」「少女」の両誌の編集に直接関係するようなことはなかったものの、両誌へのかかわりは単なる一執筆者にとどまるものではなかった。発行元の時事新報社の幹部記者として、〈常にかげになりひなたになつて記者を督励援助〉し、大きな影響力を有していたのである。永洲自身は「『少年』発刊十年紀念の日」(注11)で、「今も猶ほ記憶に新らしいのは、雑誌の題名撰定の時、里川(りせん)君(初代編輯主幹の寺山里川―引用者)始め二三の人が卓子を囲んで思ひ思ひの案を書き並べ、それが面白からう、是れが可(よ)からうと、小半日の商量を費して、始めて『少年』の二字に極(きま)りかけた其時の光景である。」と、当時の思い出を語っている。このように、永洲は、「少年」という誌名の決定をはじめ、雑誌の創刊計画に深く参画している。また、「少女」の表紙の題字も永洲の筆に成るものであり、永洲を抜きにして「少年」「少女」の両誌を語ることはできない。なお、安倍の追悼文中に〈小説に、記事に、独得の健筆をふるはれ〉云々とあることから、永洲は文学作品以外にも〈記事〉を書いていたようである。しかし、永洲の書いた〈記事〉があったとしても、無署名であるため特定することはできない。
 木村小舟は「少年」誌の特徴について、「背景には、時事新報といふ当時屈指の強力なる宣伝機関があり、且又その社と最も密接なる関係下にある慶応義塾幼稚舎の児童を買客とする」(注12)云々と述べている。〈慶応義塾幼稚舎の児童を買客とする〉ということが、例えば学校からの積極的な推薦や集団購読ということまでを含んでいるのかは不明であるが、「少年」の読者層には、裕福で知識もある家庭の子どもが想定されていたようである。田河水泡は、自分の少年時代を回想して、「少年の読みものとしては、月刊雑誌で実業之日本社の『日本少年』、博文館の『少年世界』、時事新報社の『少年』などがあったが、『少年』は大判で紙質も上等だったから、金持ちの坊ちゃん向けの雑誌だった。私は買ったこともないし、たまに見かけるぐらいなものだった」(注13)と記している。
 このように、立身出世主義を旨とし、比較的貧しい層の子どもにも夢と希望を与えようという編集方針をとった後世の「少年倶楽部」のような雑誌と、「少年」のカラーは、かなり異なっている。そして、当然のことながら、永洲の作品も「少年」のカラーに沿った内容となっているのである。
 永洲の作品中には中学生の〈時雄〉というキャラクターが登場する。「火中の姉弟」(注14)では、春休みに青梅の別荘に滞在していた時雄が、近所の別荘の火事の中から逃げ遅れた姉弟を救出する。「親友の行衛」(注15)では、時雄が冬休みに山中温泉にある友人の別荘を訪ねて、遺産横領を企む友人の継母の陰謀を破る。こうして、〈時雄〉少年にとって、自分の家の別荘や友人の家の別荘に遊びに行くことは休暇中の常である。「崖の桜が咲きました、折から月の夜頃も好し、早く来てご覧なさりませ。」(注16)という手紙を留守番の者からもらうということが、日常茶飯事として作品中にさりげなく書かれているのである。たしかに、別荘というものは、町中を離れて比較的孤立した地に建てられることが多いので、事件が起こる舞台設定としてはうってつけである。しかし、ここでは、永洲の作品中において、こうしたことが読者の生活感覚から飛び抜けて浮き上がった別世界の出来事という設定にはなっていないことに注目しておきたい。つまり、読者対象としては、女中・婆や・爺やなどの使用人や別荘の留守番といった存在を、格別、違和感をもって受け止めない環境の子どもを想定していたと考えられるのである。
 〈時雄〉以外の登場人物についても、一部の例外を除いては、比較的裕福な生活をしている生徒・学生の場合が多い。それも、中学校・女学校・高等専門学校・大学といったエリートコースの生徒・学生が殆どで、実業学校の生徒はごく例外的である。読者の境遇も同様で、それなりに将来のエリートとしての地位が約束され、生活に経済的不安はなかったと思われる。こういう読者にとって、登場人物が夏休みなどに気楽な旅行をする中で、思わぬ事件に巻き込まれて冒険をするという展開の作品は、親しみを覚え易い作品であった。
 ところで、永洲は「少年」誌上において、投稿作文の選者を長年にわたって務めている。この事については、永洲自身の「綴り方選者としての十三年」(注17)に詳しいが、「評者もやゝ物数奇ながら、少年諸君が矢鱈に綺麗な句や文を作ることにのみ熱中するを誡めん為め、校閲の文を引括めて、物知り振りの冷語も吐けば、攻撃もいたして居ります。(略)近時の応募文には、少年に見るべき常態の、あどけない処、幼きところ、即ち爛熟しないところに愛すべき姿のある事、それが段々薄らいで、動もすると老成人の語かと思はれる程の名言綺語が見えて来ました。」という件に、のちの「赤い鳥」の綴方にもつながる童心主義的な姿勢が窺える。また、入選作文を纏めた出版物には、安倍村羊(季雄)と共編の『少年:文集|月桂冠』(注18)があり、入選作と永洲の評、雑誌掲載時には無かった村羊の評が収録されている。こういった投稿の選を通じて、永洲が子どもと接点を持ち続けていたことは、作品の人気を保ち続ける上で重要なことであったと思われる。
 ちなみに、永洲は第42号(注19)の入選作として、後に児童文学作家として名を駈せる浜田広介(「広助」名で投稿)と千葉省三の作文を選んでいる。ここでは、すでに独特の文体の片鱗を見せている二人の少年の作品を高く評価して、選者としての目の確かさを証明した。この時代の「少年」の発行部数や普及の程度を知ることのできる資料は見当たらないし、「少年」を愛読したという類の証言も、あまり例がない。けれども、浜田広介や千葉省三が投稿者であったことから考えると、「少年」の影響力は今日の我々が考える以上に大きいのかもしれない。

(3)永洲の児童文学観

 永洲の最初の作品集である『少年:奇話|活劇』には、冒頭に自序が付されている。短い序文ではあるが、永洲が子ども向けの作品を執筆する上での、心構えが読み取れる。

お伽噺の神代らしい境に入らず、又た冒険や探検物語の往々奇に過ぎて、却て実際に遠ざからうとする弊を成るべく避けて、翻訳ものと否とを問はず、すべて世に有り得るやうな少年界青年界の事実を原とし、それに色を添へ、変化を添へ、且つ読み了つて後ち何等かの影の、少年諸君の脳に残るやうにと勉めたのがこの『少年:奇話|活劇』である。今や少年諸君の読みものは、山を積み玉を聚めて、何んの不足もない折りから、あへて (ママ)拙い此の蛇足を添へやうとするのも、畢竟それが為である。
 以上が全文である。ここでは、まず、永洲が〈お伽話〉と一線を画していることに注目したい。言うまでもなく、これは巌谷小波に代表される明治の児童文学の潮流との訣別を意味する。
 次に、永洲が従来の〈冒険や探検物語〉の〈往々奇に過ぎて、却て実際に遠ざからうとする弊〉を批判し、自分自身の作品については〈世に有り得るやうな少年界青年界の事実〉をもとにした事件を描くことに勉めていると述べていることに注目したい。一般的に言って、〈冒険小説〉とは、軍事もの・探検もの・探偵もの・SFものなど、多様な題材の作品のうち、冒険の要素の強い作品を総称した広範囲なジャンルにまたがる作品を意味しているやに思われる。ただ、もともと〈冒険〉という概念はきわめてあいまいであり、つかみどころがない。したがって、永洲が〈冒険や探検物語〉が〈奇に過ぎ〉ると言い、どのようなものを理想として考えていたのかを解明するためには、永洲の作品の傾向を具体的に見て行く必要があるだろう。
 「其一刹那」(注20)は、怪奇趣味を取り入れた探偵小説風の作品である。夏期休暇に日光へ出かけた中学四年の林健二は、足尾から庚申山へ足をのばす。そのおり、山中の岩窟〈人待(ひとまち)門〉に化物が出るという噂を聞いたので、探検に出かける。〈人待門〉には鬚面の怪人物と一五六歳の少女、老婆が待ち受けており、不思議なことに少年が林という姓であることを知っている。その上に、林少年そっくりの人物が写っている写真を持っていて、写真の人物は老婆が長年待ち続けた自分の婚約者であると言う。やがて、林少年の身を案じた村人たちが〈人待門〉に駆け付けると、三人の怪人物は山中に姿を消す。結末部では、この写真の人物は林少年の叔父にあたる人物で、この叔父が病死した後、許嫁が発狂して山中に姿を隠していたという謎解きが行われる。
 「闇に笑ふ少女」(注21)では、骸骨の妖怪に偽装した少女誘拐犯一味の陰謀が破られる。この作品は、東京に住む主人公(おそらくは中等学校の生徒)が台湾在住の友人の家へ遊びに行くことから始まる。友人の家は台湾で特産の樟や桧を取り扱う裕福な商家であった。主人公が友人の家へ着くと、この家の娘で、一四歳になる浪子が、台中にある別荘から行方不明になったという知らせが届く。別荘附近の洞窟には、現地の〈熟蕃〉たちの間で、次のような風評があった。それは、「昔此内で生蕃と支那冒険家との間に大争闘が起り、生蕃が負けて、多くの屍骸を洞の中へ横へてから、その怨みが骨に絡んで何んでも生蕃を冷遇する奴は支那人でも日本人でも無事には置かぬと、今もをりをり妖怪の出ることがある」というものである。主人公が浪子を探すために洞窟へ入ると、骸骨の妖怪が出たので、ピストルでこれを射ったところ、血を流した。やがて、妖怪の正体は「シャツやら股引を穿いて、その上に燐と何かとで製した薬をぬりつけ、肋骨其他の骨を描いて闇黒(やみ)に骸骨と見せた」ものであるということがわかり、浪子を助けることができた。最後に、本宅で雇っていた樸訥そうな帰化の〈生蕃〉が、この誘拐事件を仕組んだ主犯であったという意外な結末が用意されている。
 「予言者」(注22)では、不思議な予言の力を持つという触れ込みの人物が、悪事を企む詐欺師であったことが暴かれる。休職中の陸軍士官である室田一雄は、鉱山事業で成功して財を成している。ある時、室田の娘の雛人形が紛失したので、女中の瀧の強い勧めで予言者の山村に見て貰うと、たちまち古道具屋の寅蔵の店にあることを言い当てる。実は、山村は室田との競争に敗れた元鉱山主で、瀧と寅蔵は山村の一味であった。山村は彼等を使って室田家に入り込み、復讐をしようと企んでいたのである。ところが、寅蔵の店の小僧をしている七郎少年がこの陰謀を知り、密かに室田に知らせておく。山村は室田一家をダイナマイトで爆死させようとしたが、室田は逆に山村を罠に掛けて捕らえることに成功する。最後の大逆転がみごとな探偵小説であった。
 「大活劇」(注23)は『少年:奇話|活劇』に収録され、作品集全体のタイトルにもつながる作品で、永洲の作風が良く顕れている。主人公の青年は法学校を卒業したばかりで、執達吏事務所に新米の書記として勤めている。ある日、この新米書記は、裁判所の命令書を持って、契約に違反して北海道へ移動しようとする芸人一座の行動を差し止めに行く。ところが、差し止めに行った先では、興行師に騙されて言葉巧みに命令書を取り上げられてしまう。仕方なく一座の様子を探っていると、一座の女太夫は主人公の青年の幼な友達であり、北海道へ移動することを嫌がっていることがわかる。そこで、主人公は奮起して機知を働かせ、客の中にたまたま一人の旧友がいたのを利用して、興行師にこの一座がすっかり探偵の一団によって取り囲まれていると思い込ませる。そして、命令書を取り返し、移動差し止めの命令を執行することに成功する。おかげで、女太夫は無事に故郷へ帰ることができた。以上が梗概である。この作品ではそれほど大きな事件が起きるわけでもないし、とりてたてて凶悪な犯罪人が登場するわけでもない。執達吏事務所の書記の〈実際〉の生活の中で、たまたま悪知恵のはたらく興業師と騙しあい、駆引きをするにすぎない。だが、書記と興業師との間の真剣なやりとりや、次の展開の意外性への興味によって、読者を退屈させることはない。この作品は、〈世に有り得る〉ような〈青年界の事実〉を描くという趣旨に合致する力作であり、永洲にとっても、代表作としての思い入れの強い作品であったに違いない。
 他に、先述の「親友の行衛」では、別荘の物見の塔・秘密の通路・秘密の合図の呼鈴といった探偵小説ではおなじみのトリックが駆使される。
 冒険の舞台でも、北海道や台湾という遠隔の地域一辺倒ではなく、むしろ、《埼玉県吉見の百穴》(注24)《秩父の山中》(注25)《青梅》(注26)といった少年の日常になじみのある場所が多い。
 右にあげた作品群においては、悪魔や化物や予言者などこの世には存在しないというような合理的な信念に基づいて事件が解決される。不合理で世に有り得ないような展開にはならない。永洲は〈実際〉の生活の中に起こり得る〈事実〉を題材として取り上げることを志向しており、合理的な範囲内ならば、登場人物がさまざまな冒険的な行動をとること自体を否定しているわけではない。むろん、永洲の作品はフィクションであり、現実の事件そのままを基にした実録ものを志向しているのではない。生活童話風の日常を描くことを志向しているのでもない。あくまでも、架空でありながら、〈実際〉に起こり得る事件を実録風に描く作品を志向しているのであり、〈事実〉に〈色を添へ、変化を添へ〉ることを積極的に肯定している。この当時のベストセラーである「立川文庫」は、主人公が超人的な活躍をして人気があったが、低俗視されていた。永洲のねらいは「立川文庫」のような荒唐無稽な展開を避け、フィクションとしての〈実際〉、フィクションとしての〈事実〉に即して、リアルな作品の世界を展開することにあったのである。
 ところで、永洲の作品中に、教訓を露骨に垂れているものは、殆ど見られない。無駄使いを戒めた「橄欖娘」(注27)や、妹の虚栄心を満足させてやるために軍事機密を売り渡してしまった青年を描く「海上のダンス」(注28)に、強い教訓臭が見られる程度である。
 その理由としては、永洲が〈少年小説〉の目的は少年を喜ばせ夢中にさせることにあると考えていたことがあげられる。次に引用するのは、『生死の境』の自序の全文である。
阿母さまが読んで、坊ちやまのお伽をする、坊ちやまの睡気が覚めて、後を後をとせがむ。兄さんと弟の君と顔を並べて黙つて見る、いつか互の手が出て自分の方へ引寄せくらの喧嘩となる。学友会か何かで話の種にする、大勢の耳が熱して目が皿になり、興に乗つては思はぬ絶叫に満坐を驚かす。といふのが少年小説の目的だとすると少年小説は頗る物騒のものゝやうにも思われるが、やがて眠りについた坊ちやまの夢の中(うち)、仲直りの済んだ兄弟の笑顔の底、さては会果てゝ後帰り行く学友の後姿には、必らず穏かな、そして健かな、何等かの影の添ふことを疑はぬ。
 永洲がこのような執筆態度であるということは、読者にとってみれば、堅苦しい雰囲気がなく、率直に謎解きや冒険を楽しむことができるということになる。もっとも、永洲としても、読後には〈必らず穏かな、そして健かな、何等かの影の添ふことを疑はぬ〉として、感動のあとに自然に教訓が残ることは否定していない。前掲の『少年:奇話|活劇』の自序においても、〈読み了つて後ち何等かの影の、少年諸君の脳に残るやうにと勉めた〉と記されている。結局、永洲は、教訓自体の否定はしないが、結果を性急に求めることもしないという志向をしていたのだろう。
 以上のような永洲の作風について、安倍季雄が前掲の「少年」の追悼文中で〈上品〉〈健全〉〈清新〉という点を強調していることは至言であった。〈上品〉〈健全〉〈清新〉という評価は、生活にゆとりもあり知識もある中流以上の層の親たちに受け入れられ易い価値観であり、そういった階層の親たちからみれば、安心して子どもに与えられるということを意味している。ただ、〈上品〉〈清新〉ということはともかくとして、〈健全〉という評言の意味することについては、後にいま少し検討を加えることとしたい。
 なお、馬鹿正直で融通がきかないことから同僚や上官から疎まれていた兵隊が、その欠点によってかえって手柄をたてる「番兵」(注29)、猫好きの老婆が愛猫をかわいがってくれる親族に遺産を与えると言ったことから、珍妙な遺産争いが起こる「猫騒動」(注30)、〈滑稽小説〉と銘打った「和睦の写真」(注31)のような、ユーモラスでとぼけた味のある作品にも、永洲の作風の独自性が見られることを付け加えておきたい。

(4)お伽噺から少年小説へ

 『少年:奇話|活劇』の自序に、〈お伽噺〉は〈神代らしい境〉に入るものとしていることから、永洲は神話・伝説・昔話と〈お伽噺〉を同意義に理解していたことがわかる。〈お伽噺〉とは、必ずしも神話・伝説・昔話のみを題材とするものではないが、主要な題材の一つには違いないから、永洲の理解もそれほど突飛ではあるまい。
 一方、「少年」「少女」の両誌には、〈少年小説〉〈少女小説〉または〈小説〉という角書きが付されているものが、多く存在する。おそらく、こういった角書きは、作者自身の手によってではなく、雑誌の編集者の手によって付されているのであろう。しかし、永洲の場合は「少年」「少女」の両誌の編集に大きな影響力を有していたのであるから、角書きの内容が永洲の意に反しているというようなことは、考えられない。しかも、先述のように、第二作品集『生死の境』の自序の中には、「少年小説の目的」云々という表現があって、永洲自身が〈少年小説〉という語を意識的に使用している。〈少年小説〉という用語は、多様な意味の使われ方をしているが、本稿では〈男児むきの日常物語〉というような狭い意味ではなく、〈男児むき女児むきを問わず、主として冒険・探偵小説としての要素の強い物語。または一般に感動ものとか美談ものと呼ばれるジャンルの物語〉という意味で用いることとしたい。
 永洲の作品を概観すると、〈お伽噺〉の系列の作品の数はごく少なく、しかも初期の頃に限定される。大部分は〈少年小説〉の系列の作品に分類することができる。
 永洲にとって、最初の子どもむけの作品は、「少年」の創刊号(注32)に掲載された「人食姫(ひとくいひめ)」である。この作品では、貧乏な夫婦の間に生まれた娘が女神に救われて天国で暮らすうち、禁じられた部屋を覗く。娘は神に詫びることをしないので罰を受け、口をきけなくされて地上へ追放される。地上の世界では、娘は王妃となって次々と子を産むが、女神はその度に罰として子を隠すので、娘は人食の罪を着せられる。娘は火あぶりの刑に処せられようとしたとき、初めて自らの罪を女神に詫びる。すると、女神は罪を許して子を返し、娘の疑いは晴れる。この作品は永洲の言う〈お伽噺〉であり、教訓的な結末で終わっている。作品中では、主人公の名前を雪子とし、雪子を《京人形》のように美しいと表現した上、日本画家の筒井年峰の手になる挿絵を添えるなど、かなり日本風にアレンジされている。しかし、ストーリーを全体として見れば、トンプソン(Thompson,Stith)の分類によるMT710(「聖母の子」(注33))の類型に、ほぼ当てはまる。おそらく外国の作品の翻案であろうと推定されるが、具体的に何をテキストにしたかは未詳である。なお、「少年」は創刊号の売れゆきが良かった為、創刊号には再版が刊行されている。この版では、「人食姫」という題が「食人姫」(ひとくいひめ)に変えられているが、内容は変わらない。
 「人食姫」の評判が良かった為か、永洲は以後、「少年」に〈お伽噺〉を掲載している。「石なげ合戦」(注34)、「サッサと踊れ」(注35)は、各々トンプソンの類型のMT612(「三枚の葉」)とMT670(「動物言葉」)に当てはまる。基になったと思われるテキストは、「人食姫」の場合と同じく未詳である。
 「天竺の鬼」(注36)は、やや他と趣を異にしている。舞台を天竺とし、主人公の名前も「多摩」「羅闍」にして、獅子や椰子を小道具に用いるなど、いかにも天竺らしい描写が多く、翻案としての体裁をとっていない。内容は天竺の二人の旅役者が鬼が出るという噂の山の中で野宿したとき、一方の役者があまり寒いので鬼の衣装を付けて寝込んでしまう。もう一方の役者が夜中に目ざめると、鬼の衣装を付けた相棒を本物の鬼と見誤り、大声をあげて逃げ惑う。鬼の衣装を付けた役者が相棒の大声に驚いて後を追って逃げると、相棒は鬼が追いかけてきたと思って益々逃げ迷う。結局、二人は一晩中無駄な追いかけっこをしていたという笑い話である。このモチーフは仏典「百喩経」に起源のあることが確認でき、後年にも江口渙が同じモチーフで「鬼が来た」(注37)を書いて、繰り返し子どもむけに再話されている。この作品についても基になったテキストは未詳である。しかし、トンプソンによると、MT612とMT670は、いずれもインドあるいは仏典に起源があるというので、あるいはこれらの〈お伽噺〉は、仏教説話集のようなものをテキストにしたのかもしれない。
 右のような〈お伽噺〉から、永洲の作風が変化する転機となった作品は、「平和の仇(あだ)」(注38)である。この作品は日露戦争を謳った文語詩で、〈平和の仇〉とはむろんロシアのことを指す。そして、「実(げ)にや千歳一遇/例しなき義の戦/名に負ふ桜の国の/宇内に轟かん/珍らしや優曇華(うどんげ)の/来れいざ戦はん」と何の疑いもなく日露戦争を〈義の戦〉と位置づけ、〈帝国大日本〉の勝利への確信を高らかに謳いあげている。当時の子ども向けの雑誌では、日露開戦(1904年2月)を受け、こぞって戦況に関する記事や、戦争を題材とした作品を掲載していたが、この動きに「少年」も例外ではなかった。こうした状況の中で、永洲は「平和の仇」に続いて、「小さな兵隊」(注39)、「高塔の少女」(注40)、「父の凱旋」(注41)、「白文字」(注42)の日露戦争に関係した作品を書いている。
 「小さな兵隊」では、出征する父を号外売りの少年が健気な姿で見送る。その姿に感心した父の隊の隊長は、〈軍人の子〉と書いた旗を立てて号外を売るよう勧める。すると、このことが評判となって少年の号外が良く売れるようになり、病気の母を抱えた少年の家の生活が楽になる。この作品では留守家族の困窮を描いており、戦意高揚一辺倒ではなく、現実の社会の困難な面をも、ある程度ながら反映している。
 「高塔の少女」は「奉天の戦ひの折、実際に有つた事実だといふのを、又た聞きまして綴つて見た」という設定の作品で、親孝行な中国人の少女が主人公である。少女は、日本軍の間諜の容疑でロシア軍に捕らわれている父の安否を尋ねて、毎日、高塔に登っている。初めはロシア軍の見張りとして協力し、やがて日本軍が入城してくると日本軍に協力してロシアの旗を引き下ろす。そして、日本軍に父の身の上を訴えて、父を救い出すことに成功する。この作品では、日露両軍のどちらに正義があるかというようなことは殆ど問題にされておらず、中国人少女の感動的な親孝行ぶりが中心に描かれている。
 「父の凱旋」では、日露休戦が成立した後、日本に凱旋して来るはずの父を待つ母と少年を描く。予備軍曹であった父は家族の行く末を思い、大陸へ出撃する前に、一旦、脱営をしてしまう。だが、我が家の様子を覗き見に帰ると、母と子の健気な姿に心を打たれてそのまま帰営した。したがって、軍にも家族にも脱営のことは気付かれていない。やがて、戦場に赴いた父は大きな手柄をたて、少尉に異例の出世をして凱旋する。この作品では、父は根っからの勇士であった訳ではなく、戦場の手柄話が作品の中心に据えられるのでもない。母と子が凱旋軍の列を見ながら、父の姿の見えないことを心配していると、聯隊旗手を務めている父を発見するという劇的な展開に中心がおかれている。
 「白文字」では、中学校の体操の教員をしている元曹長が、受持ちをしている将軍の子どもの悪戯をかばって学校を辞める。その後、この教員が戦場で件の将軍の命を助けた曹長であったこと、その際に将軍と曹長を救ってくれた中国人の少年を手元に引き取って養育していることが明らかになる。そして、将軍の尽力で元曹長の復職が許される。この作品では、隠れた手柄や善行が知れた時の少年たちの感動が描かれている。
 このように、いずれの作品も、〈実際〉の美談という体裁に仕上げられ、戦場に於けるスーパーマン的な活躍など荒唐無稽な展開となることを極力排除している。思いもよらぬ意外性のある展開を描く手際の良さには、後に探偵小説に活かされる才能が感じられる。
 こうした日露戦争に題材をとった作品の成功により、永洲は〈事実〉を題材とした〈少年小説〉への自信を深めたと思われる。
 ちなみに、永洲が遺した2冊の作品集には、〈お伽噺〉は1篇も収録されていない。もっとも、「平和の仇」以降の作品においても、北海道の貨物列車内に紛れ込んだ熊と鉄道員が素手で戦う「汽車内の决闘」(注43)や、兄弟が狼に襲われた時、自分たちが転がしている綿の入った篭の中に入って狼や悪漢と戦う「篭城」(注44)のように、冒険的な題材の面白さと荒唐無稽さを備えた作品がある。だが、全体としてみれば、作品の傾向は、明らかに〈お伽噺〉から〈少年小説〉へ中心が移っている。
 〈お伽噺〉と〈少年小説〉に対する永洲の意識の違いは、作品の仮名遣いの違いにも現れている。永洲の作品を文体からみると、一部の文語詩を除いて、全てが言文一致体で書かれている。だが、仮名遣いについて初期の頃の作品を検討してみると、いわゆる〈わ仮名〉と〈旧仮名〉の間で捩れ現象が見られる。具体的には、最初の作品である「人食姫」から「天竺の鬼」までの〈お伽噺〉については〈わ仮名〉を用いているのに、〈お伽噺〉としては最後の作品である「サッサと踊れ」では〈旧仮名〉を用いている。だが、〈少年小説〉としては最初の作品であり、「サッサと踊れ」より後に発表された「小さな兵隊」については〈わ仮名〉を用い、以後は一貫して〈旧仮名〉を用いている。
 〈わ仮名〉については、巌谷小波に代表される当時のお伽噺が〈わ仮名〉を用いていたことの影響から、永洲も〈お伽噺〉では一般的な仮名遣いである〈わ仮名〉を自然に用いていたと考えられる。しかし、現実の生活に即した〈少年小説〉については、〈お伽噺〉に用いられる〈わ仮名〉ではふさわしくないとする判断があったのではないか。ただ、文体の転換は一気に行われたのではなく、迷いを伴っている。「サッサと踊れ」「小さな兵隊」の間で見られる仮名遣いの捩れ現象は、作風の転換期における迷いの反映であったと思われる。なお、「少年」では創刊当時から言文一致体が主体であるが、殆どの作品・記事の表記は〈わ仮名〉ではなく〈旧仮名〉である。
 以上のように、若干の紆余曲折を経ながらも、〈お伽噺〉と訣別し〈少年小説〉に作風が変化していった背景としては、発表誌の「少年」の性格ということが考えられる。「少年」は新聞社系のものとしては最初の子ども雑誌であり、内容では時事問題や理科読物・社会読物を重視している。例えば、創刊号の巻頭には、「満州問題」(安岡秀夫)と題する、日露戦争直前の緊迫した満州の状況を伝える時事問題の解説を掲載して評判が良かったし、その後も「時事解説」として子どもむきに時事問題を紹介するなど、いかにも新聞社系の雑誌らしい編集ぶりであった。木村小舟は「敢て紙数の多きを求むることなく、寧ろ内容の堅実性と、外観の純美とを生命とする」(注45)と評している。したがって、荒唐無稽なお伽噺よりも、〈実際〉の社会に即した〈少年小説〉の方が、〈堅実性〉を重視する雑誌の性格に馴染むのは自然な成り行きであった。また、永洲自身も社会部長の任にある新聞記者であり、日常、さまざまな事件を記事として扱い馴れていることも、〈お伽噺〉から〈少年小説〉へという作風の変化を促す下地となっていたと思われる。
 なお、「少女」掲載の作品でも、〈事実〉に題材を求めるという傾向は、一部の例外を除いて、殆ど変わりはない。「少年」に比べて、登場人物に少女が多いという程度である。その理由としては、次のことが考えられる。まず、「少女」の創刊は「少年」よりかなり遅く、1913年10月のことであり、すでに、この頃には永洲の作風は確立していて、永洲の〈少年小説〉には定評があった。次に、「少女」が創刊されるまでの「少年」の読者は、必ずしも男児に限られていたわけではなく、男児・女児の別が未分化の状態であった。そのため、「少女」の創刊が永洲の作風に、それほど大きな変化を促す必然性はなかったのである。

 「少女」の創刊第一号を御覧になつたお方は、表紙の題字が、永洲永島今(いま)四郎先生の筆に成つた事を御記憶の事と思ひます。同時に初号第一の呼物であつた「美しき捕虜」と題する可憐なる物語を筆頭に、殆ど毎号少女小説に、歴史小説に絢爛の筆をふるはれた永島永洲先生の御名を知らない方はないでせう。(中略)「少女」に掲げた先生の小説が、常に清新純潔、良家の子女の読物として識者の間に歓迎されて居た事は申すまでもありません。晩年は御病気勝ちで「少女」にはあまり筆を執られませんでしたが、「少女」を思ふの念は決して記者におとりませんでした。(以下略)
 安倍季雄は「永島永洲先生を悼む」(注46)で、「少女」における永洲の作品の特徴について、右のように記している。ただ、永洲の「少女」掲載作品には、「泰時に睨まれた少女」(注47)など、武家社会に題材を求めた〈歴史小説〉がある。これは、後述するように、永洲が晩年に「少年」で冒険小説の長期連載を試みたのと同じく、作風の転換を目指した試みであろう。しかし、武家社会に材を求めた〈歴史小説〉という枠組では、少女のヒーローが活躍することに無理がある。結局、貞女もの・烈女ものが多くなり、〈歴史小説〉は〈清新純潔〉な〈良家の子女の読物〉と言うほど成功せず、新味や生彩がないままに終わった。

(5)少年小説の特質

 永洲の少年小説を集めた最初の作品集は、『少年:奇話|活劇』と題し、1912年7月5日、長風社から刊行された。縦17.5×横11.5センチ、398頁の小型本で、定価50銭、全18篇を収録した短編集である。収録された作品は、すべて「少年」に既発表の作品である。奥付けによると、著者は永嶋(ママ)今四郎、出版社の所在は東京市麹町区富士見町六丁目となっている。次に、目次を掲げておく。【 】内の数字は初出誌の通巻号数、後の年月は初出誌の発行年月を意味する。( )内は初出時のタイトルである。

学校紀念日(福引物語)【25】1905年10月
怖ろしき船【12】1904年9月
唖の使【14】1904年11月
二本の籤(二本の籖)【15】1904年12月
風船乗【16】1905年1月
篭城【17】1905年2月
血染の白百合【22】1905年7月
高塔の少女【23】1905年8月
大活劇【24】1905年9月
橄欖娘【27】1905年12月
写真物語【28】1906年1月
父の凱旋【30】1906年3月
决闘【32】1906年5月
番兵【38】1906年11月
うれし涙【42】1907年3月
少年画家【29】1906年2月
間諜【53〜54】1908年2〜3月
荒海【57〜58】1908年6〜7月
 各短編の配列を見ると、おおむね初出の順に従っており、作品のタイトルについても、殆どが初出のままになっている。一見したところでは、非常に無造作な配置であるように思われるが、実はそうではない。まず、冒頭の「学校紀念日」と巻末近くの「少年画家」は、初出の順にしたがっていない。次に、冒頭に位置する「学校紀念日」については、タイトルも「福引物語」から改題がなされている。この作品集中、字句の修正を除くと唯一の改題らしい改題である。
 「学校紀念日」では、中学校の創立記念日に、二年生の寄宿生が余興として福引をすることになる。福引の賞品は、生徒各人が思い思いに一品を買ってきて、幹事に渡す約束になった。そこで、主人公の少年が町で品物を物色していると、何かの競り売りをしているので、つい調子にのって品物の内容を確かめないまま、競り落としてしまう。競り落としてみると、品物は古くて大きく重い細工台であったことがわかる。少年はこのようなつまらない品物を引き取るのはいやなのだが、仕方なく荷車に載せて寄宿舎へ帰る。寄宿舎では、学友たちからさんざん馬鹿にされ笑い者にされるので、主人公が癇癪を起こして鉈で壊してみると、金の屑が多量に出て来る。実は、この細工台は、職人が金や宝石を二代にわたって細工し続けてきたため、長い年月のうちに自然に金の屑がたまったのであった。この思わぬ発見のため、たちまち形勢が逆転して、主人公は大いに面目をほどこす。このように、「学校紀念日」は少年の〈実際〉の生活の中で起こる事件を描いて、犯罪や陰謀というようなこととは一切関係がないが、やや滑稽な中に意外性のある事件の展開と種あかしは、読者を退屈させない。『少年:奇話|活劇』の自序に言うように、〈少年界の事実〉に〈色を添へ、変化を添へ〉て、永洲のねらいが最も成功している作品の一つで、自信の一作であったろう。そのため、永洲としては冒頭にこの作品を配置したものと思われる。「福引物語」から「学校紀念日」へタイトルを変更した理由は不明であるが、それなりにこの作品に手間をかけていることから、愛着やこだわりのあったことは確かである。
 「少年画家」の場合は、この作品の後に続く「間諜」や「荒海」との共通性を重視する配置がなされたと思われる。「少年画家」では、天神様の境内の梅の枝に正体不明の馬の絵が次々と吊り下げられる。そして、この絵は馬のように駈けだせという意味のお告げだとして、農民騒動が扇動される。ところが、実は、この絵は一人の少年が絵の寒稽古のために神社へ奉納していたものであった。「間諜」では、少女が仲良しの隣家の少年の隙を見て、馬市に出される途中の馬に毒を飲ませる。それは、隣家の馬ができのよいことを妬んだ自分の父親に命令されたからである。二人は馬市から自分たちの村へ帰る途中、狼の群れに襲われたが、少女は少年の活躍で命が助かった。少女は自分の行いを後悔して告白するが、実は、馬が死んだのは少女が飲ませた毒のためではなく、別の原因であったということがわかる。「荒海」では、幼い甥に遺された遺産を横領しようとした叔父夫婦が、甥の殺害を企てる。その現場に居あわせた医師が、機転をきかせて麻睡薬を注射して叔父を眠らせる。覚醒した叔父は甥の純真さについて医師から懇々と諭しを受け、改心をするという作品である。
 いずれの作品も、最後の場面には意外な謎解きが用意されており、冒険活劇の色彩が強い探偵ものであった。このように、永洲は、「少年画家」以下、作品集の最後を探偵ものとしての要素の強い三点で固めている。こうした作品の配置は、永洲がこの時点で、探偵小説というジャンルを明確に意識し、重要視していたことの表われであろう。
 永洲の第二作品集は『生死の境』と題し、1913年5月15日、少年教育社から「少年愛読叢書」の第一編として刊行されている。A5判、206頁、定価30銭で、全6篇を収録した作品集である。すべて「少年」に既発表の作品を収録している。奥付によると、著者は永島今四郎、出版社の所在は東京市麹町飯田町六丁目一三番地となっている。次にこの作品集の目次を掲げるが、『少年:奇話|活劇』の場合と同様に、【 】内の数字は初出誌の通巻号数、後の年月は初出誌の発行年月である。( )内は初出時のタイトルである。
鉄橋【103・105】1912年3年5月
伏兵(負けじ魂)【47〜48】1907年8〜9月
寝室の鍵【100】1912年1月
生死の境【55〜56】1908年4〜5月
予言者【66〜67】1909年3〜4月
競走【26】1905年11月
 『生死の境』中の作品の配列は、『少年:奇話|活劇』の場合とは違って、一見して初出の順よりも作品の内容を優先していることがわかる。
 冒頭の「鉄橋」と末尾の「競走」は、感動もの・美談ものと一般に言われている作品である。「鉄橋」は、級友たちと自分の自分の伯父にあたる教師の間で、板挟みになる少年の苦悩を描く。絶望のあまり、鉄道自殺を図る主人公の少年を助けたのは監獄破りの男であったという種あかしが、最後になされている。「競走」は、初出の時期から判断すると、『少年:奇話|活劇』の編成には洩れたものの、永洲としては捨て難い作品であったようである。この作品では、誠実な青年店員が、奉公先である商売が傾いた材木商のために努力する。ある時、先着順で有利な取引ができることになったため、店の主人の期待を一身に受けた青年店員が自転車で駆けつけることになる。途中、青年店員が他人に同情したために、商売敵に遅れをとることになるが、偶然、出会った人物が取引先の主人であることがわかり、事なきを得る。やはり、意外性のある種あかしに優れた作品である。このように「鉄橋」は友情の尊さを描き、「競走」は同情の尊さを描く作品であるが、それにもかかわらず、説教調や教訓臭を感じさせる露骨な表現は見られない。読者が作中の人物の行動に感動を覚える中で、自然にこれらの訓意を読み取ることができるように留意されている。
 ちなみに、これらと同じ感動もの・美談ものには、「决闘」(注48)(『少年:奇話|活劇』に収録)や、「プラツトホーム」(注49)などがある。
 前者は、杏乾製(あんずぼし)造所に勤める従姉妹どうしの女工が、杏の種抜き競争をするというものである。女工のお秋は、いつも仕事が遅いと非難されている。一方、お秋の従姉妹にあたるお春は、仕事が早くて評判が良く、地主の息子の陽太郎も心を寄せている。ある時、工場で種抜き作業の競争が行われることになり、お秋はこれを機会に奮起して、お春と最後まで争った末に一番となる。ところが、お秋は、彼女に好意を寄せる壮漢(わかもの)の千吉が、お秋の成績を多めにごまかしていたことを知る。正直なお秋はこのことを地主に自訴するが、地主は数を正確に手控帳につけており、やはりお秋が一番であったことがわかる。そして、お秋とお春、陽太郎と千吉は気持ち良く和解する。
 後者は、継子いじめをする継母が改心するというものである。名物の〈乙女おこし〉の秘伝は、祖母から孫娘のお留に伝えられている。秘伝を実子に伝えたい継母のお鉄は、幽霊に化けてお留の命を縮めようと企むが、これが発覚して家を出てしまう。その上で、今度は遠縁の男と共謀して、贋の〈乙女おこし〉を大々的に売り捌き、本物を駆逐する勢いである。〈乙女おこし〉が粗悪な贋物に取って代られることを心配したお留は、お鉄の遠縁の男に自ら家伝の書附を差し出して、せめて〈乙女おこし〉の名前だけは汚さないで欲しいと懇願する。お留の優しい心を知ったお鉄らは、心から前非を悔いる。そして、お鉄は再びお留や祖母と一緒に暮らすようになる。
 このように、これらの作品は、ともに感動的に友情や母子の愛情を描く中で、最後に種あかしや意外性のある結論のあることが共通している。感動もの・美談ものと言えば、後の時代の池田宣政の作品が最も良く知られているが、永洲の作品は、探偵小説風に謎解きやどんでんがえしといった手法を凝らした感動もの・美談ものであり、ここに永洲の独自性が見られる。
 先述したように、永洲の作品には、単に子どもの歓心をかおうとするのではなく、子どもの興味を引き付けながらも、子どもを教育しようとする姿勢が窺える。『生死の境』においては、巻頭に「鉄橋」、末尾に「競走」が配されている。感動もの・美談ものをこのように配置したのは、あくまでも自分が〈健全〉なイメージを持つ作家であることをアピールしようとしたからであろう。
 「鉄橋」と「競争」に挟まれた形の他の4篇の作品は、探偵小説である。このうち、「伏兵」はこの作品集中で唯一、初出時のタイトルを変更するという手間をかけており、「学校紀念日」の場合と同様、この作品に対する愛着やこだわりのあらわれであろう。「生死の境」は作品集全体のタイトルとしても採用されているので、この作品集中で重視されていることは明らかである。
 「伏兵」では、大事な荷車を盗まれた少年が泥棒を追跡し、一旦は泥棒に捕まってしまうものの、巧みに言い逃れて逆転に持ち込む。「寝室の鍵」では、奉公先で盗みの疑いを受けた少年が無実を晴らす。要領も良く家人の受けも良い同僚が、実は悪党の手先であったという意外な結末が用意されている。この二つの作品では、主として少年が活躍して事件を解決するが、さらにこれに続く二つの作品は、主としておとなが活躍して事件を解決する作品である。
 「生死の境」は、台湾の原住民の〈生蕃〉を討伐する日本人の警官が主人公である。〈生蕃〉との戦いに敗れて捕虜となった警官たちは、豆による籤引で殺される順番を決められることになった。白豆を引いた者はとりあえず後回しにされるが、黒豆を引いた者はただちに殺されるというのである。第1回めの籤引きでは、黒豆を引き当てた植村という警官に代わって武島という警官が名乗りをあげ、引き立てられて行った。その夜、植村は隙を見て脱出することに成功し、命が助かる。そして、植村は二百人あまりの大仕掛けな討伐隊とともに山へ入るが、再び〈生蕃〉の逆襲にあって敗色が濃くなる。しかし、死んだと思われていた武島が突然現われて、味方の窮地を救う。実は、処刑役の〈生蕃〉のうちの一人が、武島の勇気に心をうたれて、密かに彼の命を助けていたのである。このように、この作品は軍事探偵ものの一種であった。
 なお、先にも触れた「予言者」では、悪巧みが暴かれる端緒は少年店員の活躍によって開かれるのだが、ダイナマイトまで使う凶悪犯を最終的に追いつめるのは、あくまでも社長である。少年が不自然なまでにスーパーマン的な活躍をするという展開にはなっていない。
 以上のように、2冊の作品集は、探偵小説風の趣向を凝らした感動もの・美談ものと、〈事実〉に根ざした冒険もの・探偵ものを重視した編成になっている。永洲がこうした傾向の作品を代表作として考えていたことは、間違いなかろう。そして、これらは、当時の水準から見て、安倍季雄が言うところの〈清新〉な作品群であったと言えよう。
 ところで、『活劇』に収録された作品は、殆どが読みきりの短編として雑誌に掲載された作品による編成である。それに対して、『生死の境』は2回連載の作品を中心にした編成となっている。二つの作品集へ作品が振り分けられた際には、おおまかながらも作品の長さが基準の一つとなっていたということも考えられる。

(6)大正の探偵小説と永洲

 成人の読者を対象とした探偵小説流行の歴史は、まず、明治二〇年代の初め頃、黒岩涙香らの翻訳・翻案ものが流行したことに始まる。だが、この流行への反動として、明治二〇年代中頃から、探偵実話の流行現象が見られるようになり、この流行は大正一〇年代まで続く。このように、大正期の探偵小説の主流は探偵実話であったが、「実話に実話なし」(注50)と言われているように、実際にはかなり事実を潤色したり、探偵実話という名前を借りた創作ものが多かった。こういった成人むけの探偵小説をめぐる潮流の変化を敏感に察知して、永洲は〈実際〉の生活の中に起こり得る〈事実〉を重視するようになったと考えられる。ただ、永洲の言う〈実際〉や〈事実〉は、あくまでもフィクションとしての〈実際〉や〈事実〉である。〈実話〉と言わず、あくまでも〈創作〉であることを認めているところに特徴があった。
 中島河太郎は、涙香の後継作家たちの作品について、「おおむね翻案か、犯罪読物に堕するものが多く、創作は振るわなかった。論理を主軸にするより、冒険奇譚を強く表面に押し出した春浪の冒険小説に移るとともに、対象は少年に限られてしまった」(注51)と述べている。だが、もともと、押川春浪のデビュー作『海島冒:険奇譚|海底軍艦』(注52)では、謎解きの要素が加味されていた。まず、冒頭部分で謎の老女が登場し、出帆の延期を忠告する。そして、終末局面になって、老女の息子が海賊の仲間に入っていたことがわかり、その正体があかされる。ストーリー展開上の本筋ではないけれども、謎めいた老女の出現とあやしげな忠言は、独特の雰囲気を創りだした。前記の伊藤秀雄の著書によると、「春浪の作風は冒険が主で探偵味は従になっていたが、一派を開いたというべきである」「従来の探偵小説に冒険趣味を加えたのは、春浪の独創といってよい」と、探偵小説史の上でも春浪の評価は高い。なお、春浪は博文館の「冒険世界」の主筆として活躍し、後には博文館の首脳陣と対立して自ら「武侠世界」を興している。そして、自らも筆を取ってこれらの雑誌に多数の作品を掲載する一方、阿武天風、三津木春影など多くの作家を育てた。
 三津木春影は日本における子どもむけ探偵小説の開拓者であった。続橋達雄は、「三津木春影 序説」(注53)において、春影の子どもむけの作品を〈探偵(推理)小説〉〈スパイと戦う話〉〈お伽話〉の三つの系列に分類した上で、「鋭い観察と科学的な方法(推理・実験)、スリルにみちた勇気ある行動を中心とする呉田博士の系列こそが、春影の得意とする分野であった」と結論づけている。〈呉田博士〉ものとは、オースチン・フリーマン(Freeman,Richard Austin)の作品の翻案で、主人公のソーンダイク博士を〈呉田博士〉、舞台をロンドンから東京へなどと置き換えて、法医学ほかの科学知識を推理に応用し、大いに人気を集めていた。後年、横溝正史・江戸川乱歩・西田政治・甲賀三郎といった作家たちは、こぞって春影の作品を少年時代に愛読していたと回想している。なお、晩年の春影は「日本少年」の専属のようになるけれども、子どもむきに作品を書きはじめた頃は、「少年」に〈呉田博士〉ものなどを盛んに発表していた。ここに、永洲との接点を見いだすことができる。
 すでに述べたように、永洲は「少年」の主要な寄稿家の一人であった。そして、永洲もまた、探偵小説の系列を最も得意としていたのである。永洲は子ども向け探偵小説の書き手として忘れてはならない作家であり、斯界においてライバル関係にあったといっても良い。
 永洲の作品中には、新しい知識や技術を使って謎解きを行うという探偵小説が、かなりの量を占めている。
 「五重塔」(注54)は、夏休みに四人の学生が各々の得意を生かして、写真の撮影と現像=化学の知識の応用、鏡を利用した器具を使った井戸さらい=工学の知識の応用、貂を使った鼠退治=動物学の知識の応用、蜂を使ったリューマチの治療=医学の知識の応用、を行って、地方の住民の役にたちながら旅行をする作品である。旅先では、こうした利器の類と知識を活かして、盗みの罪を着せられた人物の無実を証かす。真犯人は狂人であり、盗難にあったと思われていた玉手箱は彼によって井戸の中に投げ込まれていたという謎解きによって、事件が解決している。学生が学校で学んだ知識をもとにした工夫を事件の解決に活かすという展開が、読者の置かれている環境に引き比べて共感し易く、興味を覚え易かったと思われる。
 「顕微鏡」(注55)では、老夫婦が世間の同情を引き、人々からほどこしや見舞金を受けるのを怪しんだ主人公が、写真や顕微鏡を使って不正を暴く。不正を暴くためには、まず、記念のためという口実で、焼死したはずの老夫婦の子どもの遺骨を写真に撮っておく。次に、顕微鏡を使ってその写真を拡大する。すると、骨に番号が打ってあることが発見できた。ここから、この〈遺骨〉が医学校の標本室から盗まれたものであることが発覚する。言葉巧みに言い逃れる詐欺師に対して、有無を言わせぬ証拠を突き付ける学生の活躍をみごとに描いている。
 「弾痕」(注56)では、殺人未遂の疑いを受けた兄の潔白を信じる妹が、現場に残された弾痕を手がかりに真犯人を見つける。冒頭の銃撃事件の発生から犯人と思われる人物の逮捕、そして素人探偵の推理による真犯人の究明へという展開は、探偵小説として本格的なものであった。佐川春風の作品を初めとする後年の探偵小説と比較しても、遜色がない。また、当時は珍しかった飛行機の発明工夫ということを絡ませている。ちなみに、わが国で最初に飛行機の公式飛行が成功したのは、1910年12月のことであり、この作品はその翌年の3月号に掲載されているから、飛行機を取入れた作品としてかなり初期の頃に属する例である。他に、飛行機を取り入れている作品には、三保の松原を背景に取入れた感動ものの「電話が来た」(注57)などがあり、永洲は子ども読者の飛行機への興味の高まりを巧みに作品中に取り込んでいる。
 これらの作品では、いずれも、顕微鏡などの新しい技術や知識、推理の積み重ねによって事件が解決される。学校で学んだ新しい技術や知識、知力を駆使するということに、読者の共感を狙っている。こういった傾向の作品には、春影の作品の影響があるのかもしれない。
 また、永洲の探偵小説においては、おどろおどろしい猟奇的な事件が描かれることは殆どなく、〈実際〉の生活の中で起きる〈事実〉が描かれている。職業探偵は一人も登場せず、すべて探偵としては素人の主人公が事件を解決する。素人探偵は、知識や新しい技術を武器に謎解きを行い、事件を解決に導き、読者の知的興味を刺激するよう配慮されている。探偵が呉田博士のような大人ではなく、少年である点で、大正期の末に人気を集めた小酒井不木の〈少年科学探偵〉ものに先行する試みであったとも言えよう。このように、少年・少女の日常生活の中で事件が発生していること、しかも、少年・少女が大人の探偵の活躍の添えものとして描かれるのではなく、少年・少女自身が素人探偵や鍵になる人物として事件を解決に導くものが多いことに、新鮮さが感じられる。
 ところで、春影の探偵小説には「外国物の翻案が多くその意味では、独創性に乏しく、少年小説史上に残る作品を作り出したとは云い難かった」(注58)という評価がされている。例えば、〈呉田博士〉ものでは登場人物の名前が日本風に改められたり、舞台が日本に設定されたりしていても、外国臭をきわめて濃厚に残しており、一読して翻案ものであることがわかる。永洲の場合も、先述した『少年:奇話|活劇』の自序に、〈翻訳ものと否とを問はず〉云々という記述があって、具体的にどの作品が〈翻訳もの〉にあたるのかということは、いまのところ不明であるものの、外国種の作品が含まれていると考えられる。だが、仮に、外国種の作品が混じっていたとしても、巧みな翻案で外国臭を感じさせない。永洲の作品では、一読して明らかに外国種を思わせるような作品は例外的であり、ここに、春影の〈呉田博士〉ものとの違いが見られる。このように、永洲の探偵小説は独創的で先駆的な試みとして、春影を凌ぐ観がある。
 しかし、永洲の場合は、活躍の舞台が「少年」「少女」の両誌に限定されていた。その上、春影は文筆専業であり、病苦のうちにも多数の作品を執筆しなければならないのに対して、永洲には新聞記者という職業があった。永洲は文筆で暮らしをたてていた訳ではないので、多作する必要はない上に、たとえ他誌からの依頼があったとしても、「少年」「少女」の経営母体である時事新報社への遠慮という意識が働いたに違いない。したがって、特定の愛読者の間では絶大な人気がありながら、活動の舞台の狭さゆえ、人気の拡がりに欠けていたのである。その上、春影の作品では〈呉田博士〉や〈小島恭一〉のような大人の探偵がヒーローとして登場し、所謂〈科学的探偵〉を行ったり、外国のスパイを摘発する。このような春影の作品と、永洲の作品とを比較すると、当時の子ども読者の眼から見れば、どうしても後者の地味さに比して前者の派手さが目立ちがちであったのかもしれない。
 なお、大正期には、この時期の代表的な大衆的児童文学作家である阿武天風や宮崎一雨などが挙って冒険小説を創作するようになったため、このジャンルの作品は隆盛を極めることとなり、いったん、探偵小説は振わなくなっていった。しかし、やがてこれらの冒険小説は「時代の進展とともに同工異曲のマンネリズムが飽かれ」るようになり、「勇敢無比の少年を主人公に仕立てて、非現実な行動をとらせるよりは、そのヒーローを少しでも現実に近づけて、知能を働かせる探偵役に起用するほうに嗜好が移って」(注59)行くようになる。こうして、大正期の末になると、佐川春風(森下雨村)や小酒井不木といった作家たちが台頭し、子どもむけの探偵小説は本格的に開花するが、これは永洲や春影の没後のことになる。

(7)終わりに

 永洲の作品には、継母が継子を虐待するというストーリーが多くみられ、継母というものは継子を虐待するものだとする固定観念に安易に依りかかっている。
 「深夜の悲鳴」(注60)では、継母が継娘を虐待して押し入れの中に閉じ込める。ところが、継娘が空腹の為に動けなくなっているところをその家に入った泥棒が見つける。泥棒は自分の罪がばれるのを覚悟の上で継娘を助けたのち、自首をする。忍び込んだ泥棒によって継娘が救われるという点に工夫が見られるものの、継母は継娘を虐待するものだとする固定観念の上に成り立つ作品であることには変わりがない。
 虐待される子どもが実子の場合でも、親が極端な吝嗇家であるために娘を虐待するというような設定になっている。こういった親は、最後には必ず改心するようになっており、子どもたちは逆境にもかかわらず健気である。また、少女が虐待される作品に限って言えば、彼女たちが自分の力で不幸な境遇から脱することは殆どなく、たくましい少年や青年によって救出されることが常である。
 作品中で悪が懲らされる場合には、継子の虐待、極端な吝嗇、泥棒やギャング、財産の横領、偽善といった個人の犯罪・罪悪に限られている。もっと大きな社会悪に触れられることは決してない。
 先述した「小さな兵隊」でも、日露戦争に出征中の兵士の留守家庭が困窮しているという問題を描いてはいるものの、結局は、出征兵士の子どもが、勇ましい戦場の手柄を伝える新聞の号外売りとなり、周囲もそれを助けるので後顧の愁いがないという結末になっている。反戦はおろか厭戦気分も見受けられない。「美しい捕虜」(注61)では、堤防をめぐって利害が対立し、不仲になっている村同士であっても、少女たちの誠意・友情によって仲直りをさせることができるように描かれる。だが、もともと、築堤というものは、川を挟んだ両岸の住民の間では鋭く利害が対立するもので、片岸の堤防が強化されることは、対岸の堤防が破れることに直結する。この作品では、こういう対立の根源に触れられることはなく、大人たちの対立は氷解してしまう。作品中に稀に貧しい主人公が登場する場合でも、懸命に努力をすれば必ず立身出世して報われるという結論になっている。「少機関師」(注62)では、貧乏な少年が学校を中退して鉄道会社に入る。腕は良いが品行の悪い機関士やその従弟にあたる工員の迫害を受けながらも、彼は次々に出世をする。やがて、機関士を経て重役になり、鉄道会社の社長の令嬢との結婚が取沙汰される。しかし、なぜ、青年が貧乏であり、学業を途中で放棄しなければならなかったのかということについて、深く追求されることはない。
 アイヌや台湾の原住民については、今日から見れば、きわめて差別的な偏見・固定観念に基づいて描いている。
 「怖ろしき船」(注63)では、船内で反乱を企てるのはアイヌの船員であり、陰謀に対して勇敢に立ち向かうのは、たまたま船客となっていた日本人(和人)の少年である。「敵は海賊」(注64)でも、同様に、アイヌやそのほかの北方の小数民族を海賊として描いている。「唖の使」(注65)は、主人公の日本人の少女が父から預かった事業資金を、台湾の列車の中で守りとおすという展開の作品である。父は〈土匪〉が資金を狙っているのを察知し、娘を自分とは別の車両に粗末な衣服を着せて乗り込ませ、大切な風呂敷包を守るように言い付ける。ある〈土人〉は、少女に盗みを疑いをかけて風呂敷包を取り上げようとするが、少女は必死に守りきる。最後に、怪しげな髭の日本人が、実は父の雇ったボディーガードであったという意外な展開もあり、事件の展開に適度なスピード感と緊張感があってかなり読ませる作品であった。風呂敷の中身が三千円の大金であることも、最後になって始めて種あかしがある。しかし、ここでは、現地の住民はすべて怪しげな〈土人〉や〈土匪〉として描かれている。「生死の境」(注66)では、台湾の原住民のうち、〈生蕃〉は野蛮な人殺し、〈熟蕃〉は半開・従順で日本人の警官に協力するが〈生蕃〉との戦いでは意気地なし、日本人の警官は勇敢で義侠心に富んだ知恵者として、描き分けられる。こうして、夫々の民族に対する偏見・固定観念をそのまま登場人物の性格に当てはめている。また、〈生蕃〉の反乱の理由を「台湾は素と自分等の国であつたのだ、然るに支那人が来て横領する、近頃は又日本人が来て吾物顔に威張り散らす、実に怪しからぬ事だと歯噛をなし、何んと宥めても賺しても、総督府の命に従ひません」と作品中に記しながら、そうした〈生蕃〉の言い分に理があるというようなことは考えもつかず、総督府の命に従わないのは、彼らが野蛮だからとして済ましている。「二本の籖」(注67)に至っては、日本人の狩猟家が誤って台湾の原住民を傷つけたから彼らを怒らせたという設定になっているにもかかわらず、日本人の行為に何ら反省はなくて、原住民を野蛮な人殺しとして描いている。
 このように、少数民族や原住民は野蛮であり、人殺しを平気でする悪人として描かれる。それに対して、日本人(和人)は文明人であり、勇気と正義感にあふれているというように描かれる。なぜ植民地で反乱がおきるのか、なぜ抑圧者・支配者たる日本人(和人)に少数民族や原住民が反感を抱くのかということは全く無視されている。せいぜい、「生死の境」で「高潔な美しい人の情(こゝろ)を、この生蕃に見やうとは、僕も今迄思はなんだよ。」「打てばこそ渠奴等(あのやつら)は跳返へるけれど、此方の仕向け次第では、喜びもしやう、懐きもしやう、余り討伐一辺に逸るのは此処考へもんぢやぞ君。」として、〈土人〉の中にも見込みのある人間がいるので、良い方向に導いてやろうという程度の〈良心〉が垣間見えるにすぎない。植民地支配や少数民族に対する迫害という大きな矛盾に目が向けられることはないのである。
 他にも、犯人は精神障害者や精神薄弱者であったというような結末の謎解きがめだち、こういった人々は犯罪を犯すものだという偏見が見られる。また、身体障害者を笑ったり差別を当然とする表現が散見される。
 以上のとおり、永洲の作品は、一般の常識や固定観念、時には差別的な偏見をも当然のこととして描かれている。むろん、こういった傾向は、当時の他の作品にも大なり小なり見ることができる。ただ、ここでは、作品が当時の一般の常識や固定観念を超えないということは、体制にかかわるような大きな問題や社会的な問題に触れないことにつながることに注目しておきたい。安倍季雄が「少年」の追悼文中で言う〈健全〉とは、あくまでもこうした体制内の常識的な価値観に基づく〈健全〉さであった。ここに永洲の限界を見ることができる。
 なお、晩年の永洲は日常生活から掛け離れた冒険小説への傾斜を強め、「少年」に「巖壁の鍵」(注68)、「高塔の雲」(注69)の2篇の長期連載、「少女」に「馬賊の妹」(注70)の連載を行っている。
 「巖壁の鍵」は、年若いながらも格闘技に秀でた主人公、傍若無人にふるまう怪人物、正義の老将軍といった魅力ある人物を絡ませ、主人公の妹の誘拐や密輸といった犯罪事件を描いた。最後には信じきっていた伯父が黒幕であったという意外な結末が用意されている。長編の冒険探偵小説として破綻もなく、それなりに成功を収めた作品であった。「高塔の雲」は、これまでの永洲の作品の舞台が国内や台湾に範囲が限られ、ごく一部の作品が中国大陸を舞台にしていた程度であったものを、思い切ってシンガポール、スマトラといった大きな範囲に舞台を広げている。長編の冒険小説の方向に作風の転換をねらった作品であったと思われる。しかし、少年主人公が行方不明の姉を追って南洋に渡り、知識を生かして南洋の酋長になるといったかなり荒唐無稽な面がめだつ。また、日本国内や船中では弱々しかった少年が、外国へ行くと突如大活躍するという点がいかにも不自然で、作品としては成功しなかった。「馬賊の妹」では、日本人の兄が大陸で馬賊の幹部になる。しかし、少女向けということを意識して妹の八面六臂の活躍を中心に描くという点に無理があり、やはり、荒唐無稽な展開であった。
 右のように、「巖壁の鍵」では手慣れた探偵小説の要素をかなり残していたのに対し、「高塔の雲」「馬賊の妹」では「冒険や探検物語の往々奇に過ぎて、却て実際に遠ざからうとする弊」(注71)を自ら犯してしまった。晩年に日常生活から掛け離れた冒険小説への転換を試みた理由は、おそらく、冒険小説の流行という時代の流行を取り入れようとしたことにあるのだろうが、結局、永洲の特長を活かせず成功しなかった。永洲の冒険小説は、小手先だけで纏められたようで生彩がなく、宮崎一雨や阿武天風などの冒険小説には比ぶるべくもなかったのである。
 「少年」の投稿欄を通じて子どもと接点を持ち、作品中に飛行機など子どもが興味を持ちそうな素材を積極的に取入れようとしていたことからすると、永洲はいま子どもが何を喜ぶかということに敏感な作家であったと考えられる。子どもの要望に敏感であったことが日常生活から掛け離れた冒険小説への傾斜を強めることになったという推定が正しいとすれば、不幸なことに、そうしたことが作家としての特長を活かす方向に資するのではなく、押し潰すことに繋がってしまったのである。

【付記】
「少年」誌は稀覯資料であるため、従来はこれを通読することができなかった。ところが、幸いなことに、故南部新一氏の旧蔵資料が、大阪国際児童文学館に南部新一記念文庫として収蔵され、この資料中に多数の「少年」誌が含まれている。本稿は南部新一記念文庫なしには成立しえなかった。関係者各位に感謝したい。

(注1)大阪国際児童文学館編 1993年 大日本図書
ただし、初版1刷には〈永州〉と誤植がある。
(注2)1910年12月15日 京文社
(注3)全5冊 1913年2月〜14年8月 実業之日本社
(注4)1916年12月21日 春陽堂
(注5)1918年7月
(注6)「少年」第108号(1912年9月号)
(注7)1912年7月5日 長風社
(注8)1913年5月15日 少年教育社
(注9)宮武外骨・西田長寿著 1985年11月15日 みすず書房
(注10)「少年」第170号(1917年10月号)
(注11)「少年」第121号(1913年10月号)
(注12)『少年文学史 明治篇』下巻 1942年10月15日 童話春秋社
(注13)田河水泡・高見澤潤子『のらくろ一代記―田河水泡自叙伝』 1991年12月11日 講談社
(注14)「少年」第19号(1905年4月号)
(注15)「少年」第112〜113号(1913年1〜2月号)
(注16)「火中の姉弟」(「少年」第19号 1905年4月号)
(注17)「少年」第163号(1917年3月臨時増刊号)
(注18)1914年1月1日 時事新報社
(注19)1907年3月号
(注20)「少年」第106〜107号(1912年7〜8月号)
(注21)「少女」第19号(1914年7月号)
(注22)「少年」第66〜67号(1909年3〜4月号)
(注23)「少年」第24号(1905年9月号)
(注24)「■{皷/冬}々山」(「少年」第11号 1904年8月号)
(注25)「篭城」(「少年」第17号 1905年2月号)
(注26)「火中の姉弟」(「少年」第19号 1905年4月号)
(注27)「少年」第27号(1905年12月号)
(注28)「少女」第21号(1914年9月号)
(注29)「少年」第38号(1906年11月号)
(注30)「少年」第72〜73号(1909年9〜10月号)
(注31)「少女」第25〜26号(1915年1〜2月号)
(注32)1903年10月号
(注33)タイプ名の訳語は『民間説話』上・下(S.トンプソン著 荒木博之・石原綏代訳 1977年 社会思想社)によった。以下も同様である。
(注34)第2号 1903年11月号
(注35)第5号 1904年2月号
(注36)第3号 1903年12月号
(注37)「赤い鳥」1924年7月号
(注38)「少年」第6号(1904年3月号)
(注39)「少年」第10号(1904年7月号)
(注40)「少年」第23号(1905年8月号)
(注41)「少年」第30号(1906年3月号)
(注42)「少年」第43〜44号(1907年4〜5月号)
(注43)「少年」第13号(1904年10月号)
(注44)「少年」第17号(1905年2月号)
(注45)『少年文学史 明治篇』下巻(前掲)
(注46)「少女」第58号(1917年10月号)
(注47)第49号(1917年1月号)
(注48)「少年」第32号(1906年5月号 『奇話活劇』に収録)
(注49)「少年」第36〜37号(1906年9〜10月号)
(注50)伊藤秀雄『大正の探偵小説』1991年4月30日 三一書房
(注51)『少年小説大系』第7巻 1986年6月30日 三一書房
(注52)1900年11月15日 文武堂
(注53)「野州国文学」1991年12月15日
(注54)「少年」第45〜46号(1907年6〜7月号)
(注55)「少年」第69・71号(1909年6・8月号)
(注56)「少年」第90号(1911年3月号)
(注57)「少年」第121号(1913年10月号)
(注58)二上洋一『少年小説の系譜』1978年2月25日 幻影城
(注59)中島河太郎『少年小説大系』第7巻 1986年6月30日 三一書房
(注60)「少年」第39号(1906年12月号)
(注61)「少女」創刊号(1913年1月号)
(注62)「少年」第49〜51号(1907年10〜12月号)
(注63)「少年」第12号(1904年9月号)
(注64)「少年」第115〜116号(1913年4月号)
(注65)「少年」第14号(1904年11月号)
(注66)「少年」第55〜56号(1908年4〜5月号)
(注67)「少年」第15号(1904年12月号)
(注68)第136〜147号(1915年1〜12月 12回連載)
(注69)第148〜159号(1916年1〜12月号 12回連載)
(注70)第31〜36号(1915年7〜12月号 5回連載)
(注71)『少年:奇話|活劇』の自序