表現上の特性からみた二つの〈ごんぎつね〉


「国際児童文学館紀要」第13号(1998.3.31 大阪国際児童文学館)に発表


 =目次=

(1)はじめに
(2)漢字使用率からみた〈ごんぎつね〉
(3)行あたり文字数ほかからみた二つの〈ごんぎつね〉
(4)おわりに


(1)はじめに

 〈ごんぎつね〉は、新美南吉の代表作の一つとされるが、この作品には二つの異なる形態が現存する。
 一つの形態は「権狐」で、原稿罫のノート「スパルタノート」に1931年10月4日付で書かれたもの。標題下に「赤い鳥に投ず」という書き込みがある。「校定新美南吉全集」(1980〜83 大日本図書)において、初めて正確な内容が紹介された形態である。
 もう一つの形態は「ごん狐」で、「赤い鳥」の1932年1月号に掲載されたもの。教科書教材として採用されるなど、一般に広く流布している形態である。
 この二つの〈ごんぎつね〉の相互の関係について、校定全集第3巻の「解題」では、概ね、次のような推定がなされている。
 まず、南吉は「権狐」を書きあげたが、推敲の状況からみてこれが最初の草稿であった。次に、新たに原稿用紙へ作品をしたため、それを「赤い鳥」に投稿。その結果、同誌に掲載された形態が「ごん狐」である。二つの〈ごんぎつね〉の間に認められる多くの異同については、《「赤い鳥」投稿の際の南吉による推敲のためか、鈴木三重吉の補筆のためかは断定できない》と記述。そして、さらに進めて《わざわざ「赤い鳥に投ず」と題しているのだから、「赤い鳥」に投稿した原稿は「スパルタノート」版とあまり大きな異同がなかったと考えられるので、三重吉の多くの補筆があったことは、十分考えられる》としている
 以上の推論によれば、「ごん狐」には南吉以外の第三者の手が大幅に入っていることになる。しかし、南吉が「赤い鳥」に投稿した原稿自体が現存していない以上、確かな根拠の存しないことも事実。であるからこそ、《断定できない》と慎重な記述がなされているのである。
 ところが、校定全集以降に書かれた諸論考には、ややもすると、この《断定できない》ことを、あたかも既定の事実であるかの如く扱うものが、見うけられる。確かに、「ごん狐」に三重吉の手が入っているという推論自体は、決して突飛な思いつきではない。三重吉が他者の原稿に手を加えて「赤い鳥」に掲載したことには、確実な証拠や証言がある。また、南吉が三重吉の手入れに異をとなえることは、ありえなかったであろう。当時、わずか16歳の無名の少年投稿家にすぎなかったからだ。しかし、こうした傍証だけでは、確実な根拠とは認め難い。南吉が実際に「赤い鳥」へ投稿した原稿と、現存する「権狐」がほぼ同一のものだと考えることすら、確実なことではないのである。
 そこで、本稿では、次のことを試みた。すなわち、〈ごんぎつね〉以外の南吉の作品や、「赤い鳥」掲載の南吉以外の作家の作品にも目をむけて、「ごん狐」に他者の手が入っているという仮説を検証することである。検証の方法としては、漢字使用率、行あたりの文字数、色彩語ほか特定の語に着目した手法を用いることとした。検証の過程を通じて、南吉の作品全般に通じる表現上の特性を明らかにすることも、また、可能なのではないかと考える。

(2)漢字使用率からみた〈ごんぎつね〉

 一般に、児童文学の書き手が漢字を使用する際には、読者である子どもの年齢に配慮するものである。すなわち、年齢の高い読者にむけては漢字を多用し、年齢の低い読者にむけては使用を抑える。意識的であるか否かを問わず、こうした振る舞いはごく普通のことである。ゆえに、漢字使用率を計測することは、児童文学の書き手が対象に考えている読者の年齢を推定する上で、かなり有力な手段となりうる。
 しかも、南吉には小学校の代用教員の経験もあるのだから、漢字使用率については一般の成人より敏感だったのではあるまいか。
 そこで、まず、新美南吉の主要な生前発表の散文について、漢字使用率(タイトル・章題・最終行の日付・空白を除く)を計測することにした。次の表1は、その結果を漢字使用率の高い順(句読点・記号を含まない場合)に並べたものである。

表1 新美南吉作品に見られる漢字使用率

作品名句読点・記号を
含む
句読点・記号を
含まない
童話に於ける物語性の喪失32.4%34.6%
久助君の話(初出形)30.0%31.8%
川〈B〉(初出形)27.9%30.1%
坂道28.0%29.8%
権狐26.1%29.6%
花を埋める26.4%28.0%
25.2%27.3%
久助君の話23.9%26.0%
川〈B〉23.9%25.7%
22.8%25.1%
手袋を買ひに22.3%24.5%
おぢいさんのランプ20.4%22.0%
張紅倫19.3%21.4%
牛をつないだ椿の木17.9%19.7%
和太郎さんと牛17.0%18.7%
うた時計15.8%18.6%
うた時計(初出形)15.5%18.2%
花のき村と盗人たち15.9%17.7%
正坊とクロ15.9%17.4%
ごん狐15.3%17.1%
のら犬12.6%14.6%

 表1によれば、これらの散文における漢字使用率(句読点・記号を含まない場合。以下同じ)は、明らかに、対象とする子ども読者の年齢に応じて異なっているようだ。
 まず、「赤い鳥」掲載の諸作品について見てみよう。この雑誌には、「のら犬」「ごん狐」「正坊とクロ」「張紅倫」の4編の散文の作品が掲載されている。このうち、「張紅倫」はやや漢字使用率が高いものの、ほぼ10%台の半ばから後半の範囲内にある。「赤い鳥」掲載の諸作品のほか、「うた時計」などの諸作品も漢字使用率が低く、「ごん狐」の漢字使用率(約17%)に近似的である。
 ただ、「ごん狐」を除いて、「赤い鳥」に掲載された他の作品には、投稿原稿または投稿時の控えのようなものが残っていない。そのため、これらの作品の漢字使用率の低いことが、投稿原稿の書き手の意識的または無意識的な振る舞いの結果だと即断することは、危険であろう。むしろ、これらの作品の漢字使用率にバラつきがなく、低い値で揃っていることは、第三者の介入を容易に想像させる。第三者の介入の余地のない「権狐」の漢字使用率は「ごん狐」よりかなり高い。してみると、この想像が的外れでない可能性は、かなり高いのではないか。
 ところで、「うた時計」の初出誌は「少国民の友」であるが、この作品はもともと学年別雑誌「こくみん三年生」にむけて執筆されたものであった。たまたま、治安当局の強い〈指導〉により雑誌の統合が断行され、結果として「少国民の友」に掲載されたという事情がある。したがって、この作品が国民学校三年生という限られた年齢の読者にむけて執筆されたことは、明らかだ。また、この作品の漢字使用率について、書き手はかなり確信をもっていたようである。なぜなら、童話集に収録される際も、漢字使用率の変化が殆ど認められないからだ。
 であるから、漢字使用率が10%台の半ばから後半の範囲にある作品群は、「赤い鳥」掲載のものをも含めて、国民学校中学年程度という年齢の読者を想定していると考えて良かろう。たとえ、「赤い鳥」掲載の諸作品の漢字使用率が、投稿原稿の書き手の振る舞を反映したものでなかったとしても、投稿原稿の書き手自身が書き変えの結果を受け入れていたことは明らである。しかも、「赤い鳥」掲載の諸作品は、投稿原稿の書き手が〈作家〉として認知される以前の初期の創作であった。これに対し、「赤い鳥」掲載以外の諸作品は、投稿原稿の書き手が新進の〈作家〉として認知されてからの創作である。つまり、投稿原稿の書き手が創作に〈習熟〉した結果、初期の作品の漢字使用率の〈正しさ〉を追認したと考えるべきであろう。
 次に、「花を埋める」「坂道」「久助君の話(初出形)」のように、「哈爾賓日日新聞」に掲載された諸作品は、漢字使用率の高さが顕著である。この新聞は植民地で発行された日本語の新聞であり、もとより子どもの読者を想定した新聞ではない。また、「川〈B〉」の初出誌「新児童文化」は、成人を読者対象とした研究・理論誌であった。漢字使用率が一般成人向けの新聞とほぼ同じ水準にあるのは、ごく自然なことであろう。興味深いことに、これらの漢字使用率は、「権狐」の漢字使用率(約30%)にきわめて近い。つまり、漢字使用率という観点からみると、「権狐」は子ども読者を意識したものとは思えないのである。おそらく、この書き手が子ども読者の年齢を意識しないで自由に書くと、漢字使用率は30%程度になるのではないか。したがって、「権狐」には子どもに読ませるという意識がそれほど働いておらず、かなり自由に書かれた作品であるという推定が成り立つだろう。
 なお、評論「童話に於ける物語性の喪失」の場合は、漢字使用率が飛び抜けて高い。この評論は「早稲田大学新聞」に掲載された評論である。だから、この評論の書き手が意識する読者は、一般の成人の平均よりはるかに高等な教育を受けた読者であるはずだ。大学新聞から執筆を依頼されたという気負いもあったことと思う。ゆえに、漢字使用率の高さは頷けよう。
 さらに、「久助君の話」の場合は、初出形と童話集形との間に、5%以上のもの差が存在している。「川〈B〉」の場合も同様である。その理由は、前者が成人の読者を対象とした新聞への掲載、後者がこどもの読者を対象とした童話集への掲載であることから、書き手が書き分けたからだと考えて良い。このように、同じ内容の作品であっても、成人を読者とした新聞では漢字の使用率が高く、子どもを読者とした童話集では低い。しかも、子どもを読者として意識した童話集の水準に比し、「ごん狐」の漢字使用率はさらに低いのである。
 ちなみに、「手袋を買ひに」「久助君の話」「川〈B〉」のような『おぢいさんのランプ』中の諸作品は、一部を除いて、漢字使用率はおおむね25〜26%の範囲にある。したがって、この童話集の書き手には、次のような感覚が存していたようだ。すなわち、この童話集の読者には、この程度の漢字使用率が適当だという感覚である。先に述べたように、「うた時計」の漢字使用率は、国民学校の三年生を意識した結果である。だから、「手袋を買ひに」以下の諸作品の漢字使用率は、それより高い年齢である国民学校の高学年を意識した結果だと思われる。つまり、『おぢいさんのランプ』は、全体として、今日でいう小学校中学年から高学年むけということを、書き手が強く意識した童話集だと考えられよう。
 意識的か無意識的かはさておき、以上のように、想定する読者の年齢に応じて、南吉が漢字の使用率を変えていることは、明白であろう。
 実際、「権狐」を一読した読者は、「ごん狐」より高い年齢の読者を想定しているという印象を受けることと思う。それは、「ごん狐」に比して漢字使用率が著しく高いからである。
 ここで計測の対象とした子どもむけの作品は、次のように区分することができる。それは、低い年齢の子ども読者を想定した童話と、それより高い年齢の子ども読者を想定した少年小説である。最も初期の創作である二つの〈ごんぎつね〉は、それぞれ異なる読者の年齢を意識している。その後の南吉の指向を暗示していると言えよう。
 しかも、「ごん狐」の漢字使用率は「権狐」と比較して、きわめて低い。この使用率の低下は「久助君の話」や「川〈B〉」の書き変えの例と比べても、かけ離れている。つまり、書き変えが書き手自身の行為であることが明らかな場合に比して、異例なのである。
 ここで、鈴木三重吉の署名のある児童文学作品における漢字使用率に目を転じてみよう。投稿された〈ごんぎつね〉に手を入れたと仮定される三重吉の漢字使用率(タイトル・章題・最終行の日付・空白を除く)はどの程度のものだろうか。次の表2に、計測結果をまとめた。

表2 鈴木三重吉作品に見られる漢字使用率

作品名句読点・記号を
含む
句読点・記号を
含まない
パイプ10.0%11.1%
ぽッぽのお手帳16.4%18.2%
湖水の女21.2%23.2%
丘の家21.9%24.3%

 「パイプ」は、「赤い鳥」1932年3月号への掲載。この作品を選んだ理由は、「ごん狐」の掲載の時期に近く、かつ三重吉の署名のある短編だからである。「ごん狐」の掲載に遅れること2ケ月であった。
 「ぽッぽのお手帳」は「赤い鳥」創刊号(1918年7月号)への掲載。三重吉の子どもむけの作品はほとんどが翻訳・再話だが、この作品は唯一の創作童話で、代表作の一つとされている。
 「湖水の女」は、第1童話集『湖水の女』(1916年12月21日 春陽堂)への掲載である。この作品は、三重吉の子どもむけの作品のうち、最も初期の頃に書かれた童話。童話集の標題作になっていることからもわかるように、三重吉の代表作の一つとされている。
 「丘の家」は、「赤い鳥」1921年12月号への掲載で、作者は〈丹野てい子〉名になっている。この作品を選んだ理由は、「赤い鳥」掲載の作品のうち、三重吉が他人名義で書いたことが明かな作品だからである。
 表2から明らかなように、三重吉が執筆したことの明らかな作品は、「権狐」に比べて漢字使用率がまだかなり低いことがわかる。つまり、三重吉は童話の読者には、漢字使用率を抑えた方が適切だと考えていたと思われる。
 また、「赤い鳥」に掲載された童話のうち、鈴木三重吉の改作のあることが確実で、かつ、元原稿の状態が分かっているものがある。それは芥川龍之介の「蜘蛛の糸」である。小島政二郎の証言によると、三重吉は「芥川が世間で持ては囃されるのは当り前だ。(中略)しかし、文章だけについて云へば、まだ子供のための文章に馴れてゐないところがある。君のために、そこを指摘してやるからよく見てゐたまへ。」(「眼中の人」「小説新潮」1994.11)と言って、芥川の原稿に赤インクのペンを入れたという。
 そこで、「赤い鳥」版と「芥川龍之介全集」版の二つの〈くものいと〉について漢字使用率を計測すれば、三重吉が他者の原稿を改作する際の癖がわかるのではないかと考えた。実際に計測してみたところ、「赤い鳥」掲載のものは27.5%、元原稿は29.4%(いずれもタイトル・句読点・記号を除く)である。つまり、三重吉は「赤い鳥」に掲載する際、子ども読者を意識して原稿の漢字使用率を減じる傾向のあることがわかる。
 こうしてみると、「権狐」と「ごん狐」の漢字使用率の差異は、南吉自身の意志によって生じたものではないと考えられる。子どもに読ませるためには漢字使用率を低く抑えるべきだと考える第三者の介在を想定することの方が、より合理性をもつ。そして、第三者とは三重吉自身か、または三重吉の意を汲む人物である可能性が高いと思われるのである。

(3)行あたり文字数ほかからみた二つの〈ごんぎつね〉

 ところで、二つの〈ごんぎつね〉を一読すると、明らかに「ごん狐」の方が「権狐」より短いような印象を受ける。実際に、両作品の全文字数を計測すると、「ごん狐」は4800文字、「権狐」は5095文字(いずれの文字数もタイトル・句読点・記号を除く)という結果が得られ、この印象の正しさが証明できる。
 ただ、〈ごんぎつね〉は漢字使用率の差がかなり大きい。そのため、文字数の多少が作品自体の長短を、そのまま、正確に反映しているわけではない。仮に全く同じ内容の二つの文章があったとした場合、漢字使用率の高い方が短い文章のように見えるからである。文章の長短をより正確に比較するためには、総ての漢字を仮名にひらいた上で計測することが有効であろう。
また、作品全体の文字数だけではなく、作品を構成する行数の比較や、行あたりの文字数について比較をすることも、有効な方法となるだろう。ここに言う行とは、文の書き出しからその書き出しを締めくくる句点までのこと。この間に「 」が含まれていた場合は、「 」中の句点は無視すると、定義しておく。
 表3は、こうした計測(タイトル・章題・最終行の日付を除く。句読点・記号を含む。)の結果をまとめたものである。

表3 二つの〈ごんぎつね〉の行数と文字数

*見かけ上の文字数仮名に換算した文字数
「権狐」「ごん狐」「権狐」「ごん狐」
行数176147 176147
最大文字数181194 222214
最小文字数3535
合計文字数50954800 63025462
平均文字数28.9432.65 35.8037.15
標準偏差18.4020.67 22.86 22.91

 表3の結果から、「ごん狐」は「権狐」に比べ、作品全体の文字数と行数が格段に少ないことがわかる。書き変えにあたって、表現を削り、内容を引き締めているのである。しかし、行あたりの文字数の平均値については、逆に「ごん狐」の方が「権狐」より多い。つまり、一行あたりが長くなっているのである。この結果は漢字使用率の低さによって生じる見かけ上からだけの現象ではない。総ての漢字を仮名に換算した場合でも変わらないからだ。
 それでは、作品を書き変える際、文字数・行数が減少し、その反面、一行あたりが長くなるという傾向は、新美南吉の場合に一般的な傾向なのであろうか。これを調べるためには、書き手自身の手によって書き変えられたことが確実な作品について、行数と字数の変化を計測する必要がある。  表4は、その結果(タイトル・章題・最終行の日付を除く。句読点・記号を含む。)をまとめたものである。

表4 他の作品の行数と文字数

*「久助君の話」「川〈B〉」
初出形単行本形初出形単行本形
行数115126244246
最大文字数10198164167
最小文字数5855
合計文字数4133437277348001
平均文字数35.9334.6931.6932.52
標準偏差23.2620.58 20.8721.30

 表4の結果から、通常、これらの作品の書き手が作品を書き変える際には、文字数・行数とも増加する傾向にあり、一行あたりの長さにさしたる変化のないことがわかる。また、字数・行数とも、書き変え時に増加する傾向が見られる。つまり、初出の記述を削除するのではなく、これに加筆し表現・内容を膨らませているのである。
 こうした傾向に比較すると、表4の作品の書き手にしては、〈ごんぎつね〉の書き変えは特異であることがわかる。またしても、〈ごんぎつね〉の書き変えは、南吉自身の手によるものではなく、第三者の介在を考えることが合理性をもつということになる。
 ただ、二つの〈ごんぎつね〉を表現上から比較すると、書き変えを行った人物があえて置き換えることを避けたと思われる語も目につく。それは、色彩語である。次の表5と表6に、二つの〈ごんぎつね〉の色彩語を抜き出してみる。

表5 「権狐」の色彩語

・《黄色》く濁つた水が、いつもは水につかつてゐない所の芒や、萩の木を横に倒しながら、どんどん川下へ、流れて行きました。
・兵十は、ぬれた《黒》い着物を着て、腰から下を川水にひたしながら、川の中で、はりきりと云ふ、魚をとる網をゆすぶつてゐました。
・その中には、芝の根や、草の葉や、木片などが、もぢやもぢやしてゐましたが、所所、《白》いものが見えました。
・鰻のつるつるしたはらは、秋のぬくたい日光にさらされて、《白》く光つてゐました。
・十日程たつて、権狐が、弥助と云ふお百姓の家の背戸を通りかかると、そこの無花果の木のかげで、弥助の妻が、おはぐろで歯を《黒》く染めてゐました。
・こんな事を考へ乍らやつて来ると、いつの間にか、表に《赤》い井戸のある、兵十の家の前に来ました。
・お墓には、彼岸花が、《赤》いにしきの様に咲いてゐました。
・やがて、墓地の方へ、やつて来る葬列の《白》い着物が、ちらちら見え始めました。
・兵十が、《白》い裃をつけて、位牌を捧げてゐました。
・兵十は、《赤》い井戸の所で、麦を研いでゐました。
・まだ《青》い煙が、銃口から細く出てゐました。

表6 「ごん狐」の色彩語

・ただのときは水につかることのない、川べりのすすきや、萩の株が、《黄いろ》くにごつた水に横だほしになつて、もまれてゐます。
・兵十はぼろぼろの《黒》いきものをまくし上げて、腰のところまで水にひたりながら、魚をとる、はりきりといふ、網をゆすぶつてゐました。
・その中には、芝の根や、草の葉や、くさつた木ぎれなどが、ごちやごちやはいつてゐましたが、でもところどころ、《白》いきものがきらきら光つてゐます。
・こんなことを考へながらやつて来ますと、いつの間にか、表に《赤》い井戸のある、兵十の家の前へ来ました。
・墓地には、ひがん花が、《赤》い布のやうにさきつづいてゐました。
・やがて、《白》い着物を来た葬列のものたちがやつて来るのがちらちら見えはじめました。
・兵十が、《白》いかみしもをつけて、位牌をささげてゐます。
・いつもは《赤》いさつま芋みたいな元気のいい顔が、けふは何だかしほれてゐました。
・兵十が、《赤》い井戸のところで、麦をといでゐました。
・《青》い煙が、まだ筒口から細く出てゐました。

 このように、「ごん狐」は「権狐」の色彩語を、ほぼ、そのまま引き継いでいる。黄色い濁流と黒い着物と魚の白い腹、墓地の赤い彼岸花と白い葬列、土俗的な風景である赤い井戸、悲劇を引き起こした後に残る青い煙。しばしば指摘されるように、こうした色使いは、実に印象的なものである。そして、「権狐」から「ごん狐」への間に介在したと思われる第三者も、このみごとな色使いには一切手を付けなかった。それは実に賢明であったと思う。
 むろん、その一方で、あえて置き換えを行った思われる語も目につく。それは、《背戸》という語である。「権狐」にある《背戸》という語は、「ごん狐」では全く用いられていない。《裏》または《うら》という語に置き換えられている。そして、「権狐」に《裏》《うら》という語は、一度も使用されていない。どちらかというと、《背戸》は田舎の土俗的な風物を連想させる語である。これに対し、《裏》《うら》という語は、すぐれて共通語的な語ではなかろうか。
 周知のように、「赤い鳥」においては方言を認めず、掲載作品は共通語による表現に統一されていた。ゆえに、「赤い鳥」の編集方針は《背戸》にではなく、《裏》《うら》に通じるものがあると考えられる。
 そこで、次の表7と表8に、二つの〈ごんぎつね〉だけではなく、南吉の他の童話も含めて、《背戸》と《裏》《うら》の用例を抜き出してみる。

表7 《背戸》の使用例

【牛をつないだ椿の木】
・年とつたお母さんは隣の鶏が今日はじめて卵をうんだが、それはをかしいくらゐ小さかつたこと、《背戸》の柊の木に蜂が巣をかけるつもりか、昨日も今日も様子を見に来たが、あんなところに蜂の巣をかけられては、味噌部屋へ味噌をとりにゆくときにあぶなくてしやうがないといふことを話しました。

【権狐】
・畑へ行つて、芋を掘つたり、菜種殻に火をつけたり、百姓家の《背戸》につるしてある唐辛子をとつて来たりしました。
・権狐は、《背戸》川の堤に来ました。
・《背戸》川はいつも水の少い川ですが、二三日の雨で、水がどつと増してゐました。
・十日程たつて、権狐が、弥助と云ふお百姓の家の《背戸》を通りかかると、そこの無花果の木のかげで、弥助の妻が、おはぐろで歯を黒く染めてゐました。
・鍛冶屋の新兵エの家の《背戸》を通ると、新兵エの妻が、髪を梳つてゐました。
・弥助のおかみさんが、《背戸》口から、「鰯を、くれ。」と云ひました。
・そして、兵十の家の《背戸》口から、家の中へ投げこんで、洞穴へ一目散にはしりました。
・《背戸》口から覗いて見ると、丁度お正午だつたので、兵十はお正午飯の所でした。
・それで権狐は《背戸》へまわつて、《背戸》口から中へはいりました。
・そして、跫音をしのばせて行つて、今《背戸》口から出て来ようとする権狐を「ドン!」とうつて了ひました。
・所が兵十は、《背戸》口に、栗の実が、いつもの様に、かためて置いてあるのに眼をとめました。

【張紅倫】
・畠道に出て、ふりかへつて見ると、紅倫が《背戸》口から顔を出して、さびしさうに少佐の方を見つめてゐました。

【耳】
・道の北側は反対に段々低くなつてゆき終は《背戸》川にいたるのである。
・そこで子供達が仲間を召集しようと思ふと、道に立つて、道の南にある家に向つては、仰向いて、《背戸》から呼び、道の北にある家に向つては、下の方をむいて、家の正面から呼ぶのである。

表8 《裏》《うら》の使用例

【川〈B〉】
・学校の《裏》手へ向つて一直線に走つてゐる細い道に出たとき、五十米ほど前を、薬屋の音次郎君が何かつまらないことでも考へてゐるやうに、拍手をしては右手を外の方へうつちやりながら歩いていくのを見た。
・薬屋の音次郎君が、或る午後《裏》門の外で久助君を待つてゐて、今から兵タンのところへ薬を持つていくからいつしよに行かうとさそつた。
・「《裏》の藁小屋で死んだまねをしとつたら、ほんとに死んぢやつたげな。」とはじめの一人がいふと、他の者達は明かるく笑つて、兵太郎君の死んだまねや腹痛のまねのうまかつたことを一しきり話し合つた。

【川〈B〉初出形】
・学校の《裏》手へ向つて一直線に走つてゐる、細い道に出たとき、五十米突程前を、薬屋の音次郎君が、何かつまらない事でも考へてゐるやうに、拍手をしては右手を外の方へうつちやりながら歩いて行くのを見た。
・薬屋の音次郎君が或る午後《裏》門のそとで久助君を待つてゐて、今から兵タンのところへ薬を持つていくから一緒に行かうとさそつた。
・「《裏》の藁小屋で死んだ真似をしとつたらほんとに死んぢやつたげな。」と始めの一人がいふと、他の者達は明るく笑つて、兵太郎君の死んだ真似や腹痛の真似のうまかつたことを一しきり話しあつた。

【ごん狐】
・はたけへはいつて芋をほりちらしたり、菜種がらの、ほしてあるのへ火をつけたり、百姓家の《裏》手につるしてあるとんがらしをむしりとつて、いつたり、いろんなことをしました。
・十日ほどたつて、ごんが、弥助といふお百姓の家の《裏》をとほりかかりますと、そこの、いちぢくの木のかげで、弥助の家内が、おはぐろをつけてゐました。
・鍛冶屋の新兵衛の家の《うら》をとほると、新兵衛の家内が、髪をすいてゐました。
・弥助のおかみさんが《裏》戸口から、「いわしをおくれ。」と言ひました。
・そして、兵十の家の《裏》口から、家の中へいわしを投げこんで、穴へ向つてかけもどりました。
・《裏》口からのぞいて見ますと、兵十は、午飯をたべかけて、茶碗をもつたまま、ぼんやりと考へこんでゐました。
・それでごんは家の《裏》口から、こつそり中へはいりました。

【正坊とクロ】
・すると、ダンスををはつたお千代が、うすいももいろのスカートをひらひらさせて、舞台《うら》へ、ひきさがつてきました。

【張紅倫】
・少佐はこんな話をするたびに、日本のことをおもひうかべては、小さな窓から《裏》の畠の向うを見つめました。

【和太郎さんと牛】
・すると西の方の学校の《裏》道を、牛車がいちだいやつて来ました。

 表7と表8において、検索の対象とした作品は、次のとおり。すなわち、「牛をつないだ椿の木」「嘘」「うた時計」「うた時計(初出/少国民の友)」「おぢいさんのランプ」「ごん狐」「権狐」「川〈B〉」「川〈B〉(初出形)」「久助君の話」「久助君の話(初出形)」「正坊とクロ」「張紅倫」「手袋を買ひに」「童話に於ける物語性の喪失」「のら犬」「花のき村と盗人たち」「花を埋める」「耳」「和太郎さんと牛」である。表7と表8に掲載のない作品は、用例が無かったということになる。初出形と童話集収録形に異同のある作品については、とりあえず、別の作品として処理した。「童話に於ける物語性の喪失」は、童話ではないが、参考までに対象とした。
 このようにして、全ての用例を抜き出してみると、二つの〈ごんぎつね〉の場合を除いて、《背戸》という表現を《裏》《うら》に置き換えたという例は存在しない。同じ「赤い鳥」への投稿作品である「張紅倫」と「正坊とクロ」については、投稿原稿またはその控えの原稿が残っていないので、置き換えの実態を調べることはできない。だから、断定的な結論までには至らないが、それにしても〈ごんぎつね〉に見られる置き換えは、特異な例と言えるだろう。
 なお、「張紅倫」に《背戸》と《裏》が混在しているが、この作品も「赤い鳥」誌への掲載であり、第三者による置き換えの可能性が高いと思われる。「ごん狐」の場合でも《裏》と《うら》の用例が混在している。「赤い鳥」においては、用語・用字の統一には必ずしも厳格ではない。これは、「赤い鳥」に掲載された作品全般に通じることである。「蜘蛛の糸」の場合でも《云》と《言》、《お釈迦様》と《お釈迦さま》、《絶間》と《絶え間》が不統一である。これに対し、全集版ではこうした不統一は見られない。
 想像をたくましくすると、次のようなことも考えられないではない。つまり、今は失われた「張紅倫」の投稿原稿では、《背戸》という表現に統一されていたのではないかということである。

(4)おわりに


 以上述べてきた理由から、二つの〈ごんぎつね〉の異同に、第三者が関与した可能性はかなり高いように思われる。そして、この異同の特徴を分析すると、鈴木三重吉の意思に沿った形で改作が行われたことは、明らかであろう。
 これまで、二つの〈ごんぎつね〉の異同について論じた論考は、「権狐」が南吉自身の身辺の事情や南吉の郷土を色濃く反映し、「ごん狐」がそれらの背景を遮断され、没土俗的な作品に改作されたとするものが、主流をなしているように思う。
 例をあげると、北吉郎『新美南吉「ごん狐」研究』(1991 教育出版センター)は、「三重吉は、作品の舞台になっている現地に対する無知と草稿の執筆意図についての無理解(若しくは、無視)の下に、文章表現上の効果を第一にして手直しをしたために場面によって不統一箇所や矛盾点を種々残すことになった」と、結論づけている。ここに言う「草稿の執筆意図」とは、狐が兵十に尽くした行為は〈求愛〉に基づくというもの。「権狐」に南吉自身の恋愛体験の反映をみている。
 また、沢田保彦『新美南吉 ごんぎつねの成立と変容』(1996 明治図書出版)は、〈ごんぎつね〉に登場する場所と人物を、現実の岩滑・岩滑新田地域とそこに居住した人物にいちいち比定。現実に合わない改作に「原作者の意図を無視した責任」を問う。しかし、結局のところ、沢田が比定する確かな根拠は示されない。沢田自身がそのように思ったというだけにすぎず、説得力がない。
 上記の例は、次のことが前提になっている。すなわち、南吉自身の身辺の事情や作品の舞台となった地域の実状に適合しない異同は、総て三重吉の手による改作の結果だとすることである。
 しかし、改作者が原作の何を変え、何を残したかということを総合的に考察せず、一方的に《無理解》を断じ、《責任》を問うことは、適当ではない。少なくとも色彩語については、改作者は手をつけていないのである。また、上記の論考は、一方の当事者である三重吉、あるいは三重吉の意志を受けた第三者の側に、考察が及んでいない。新美南吉の作品以外についても対象を拡げ、「赤い鳥」における改作全体に目をむけて、さらに検討を重ねていくことが、今後の課題となるだろう。
 ここで、改めて確認しておきたいことがある。それは、「権狐」は南吉が子ども読者の年齢ということを意識せず、自由に創作した作品であったということである。〈童話〉という語は、多様な意味を背負っている。「低年齢の児童のための創作物語を指す語」(『日本児童文学大事典』1993 大日本図書)として使用されたり、「読者を児童と限定せず、象徴や空想を内容とする文芸の一様式」(同前)という意味で使用されたり、というようにである。南吉は後者の意味を込めて「赤い鳥」に投稿したのであろうか。少なくとも、小学校の中学年程度ではなく、それ以上の年齢の読者を想定したことは明らかである。
 だとすると、〈ごんぎつね〉のラストの悲劇は、本来、おとなの読者、またはかなり高い年齢の子ども読者にむけて描かれたものだ、ということになる。だから、これほどの悲劇を〈童話〉に描くことに躊躇はなかったのかもしれない。ただ、南吉自身の意図はともかく、「赤い鳥」にはもう少し低い年齢の子ども読者にむけて掲載され、この形態が流布することとなった。「ごん狐」は、現在も、小学校4年生の国語の教科書に掲載されている。未だにこの傾向は続いている。しかし、互いに心のつうじあわないことが、これほどの悲劇を引き起こすということを、あえてより低い年齢の読者にむけて提示する。こうしたことに踏み切った「赤い鳥」の編集サイドの決断は、従来の〈子どもむけ〉という既成概念を超えるものがあった。そういう点で、彼らの感覚は実にみごとだったと言えよう。

【付記】
本稿で試みた方法論は、大阪国際児童文学館における共同研究「パーソナルコンピュータを使用した児童文学作品分析支援システムの研究」の成果の一部を、南吉研究に応用したものである。また、「日本児童文学学会第33回研究大会シンポジウム 児童文学研究と情報処理」(1994.11.13 於:大阪国際児童文学館)、「日本児童文学学会第35回研究大会ラウンドテーブル 新美南吉作品の表現〜研究方法をめぐって〜」(1996.10.27 於:市邨学園短期大学)における私の提言から着想を得ている。
なお、本稿において計測・検索の対象とした本文データは、このホームページ上に公開中である。

(1998.1.15)