松山思水と「日本少年」
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これまで、大衆的児童文学と呼ばれる分野の研究では、大日本雄弁会講談社の「少年倶楽部」系の作家を取り上げることが中心であったように思われる。確かに、大正期の終わり頃から敗戦前まで、「少年倶楽部」は大衆的児童文学をリードしていたが、この雑誌が黄金期を迎える前、大正期の斯界をリードしたのは、実業之日本社の「日本少年」であった。であるから、「日本少年」を舞台に活躍した編集記者・作家たちを避けて、大衆的児童文学の歴史は語れないはずである。しかし、有本芳水を例外として、研究対象に取り上げられることは、これまで殆ど無かったのではあるまいか。
そこで、本稿では、芳水とともにこの雑誌の黄金期を築いた、松山思水の業績について取り上げる。
松山思水(1887年4月1日〜1957年7月27日)は、本名二郎。和歌山県生まれで、1912年に早稲田大学英文科を卒業。同年11月に実業之日本社に入社し、「日本少年」の編集担当となった。号の《思水》は、入社時の命名のようだ。後に思水は、「水のやうになりたいと思つて、思水とつけました。何のわだかまりもなく、執着もなく、而も山を周り岩を貫いて、遂には目差す大洋に入る水のやうに、倦まずたゆまず自分の道を履んで行きたいのです。又一つには人間に水が無くて叶はぬ様に、日本少年にとつて無くてならぬ記者の一人になりたいとの、こんな潜越な考へも交つてゐるのです。」(注1)と述べている。同僚の原掬水・渋沢青花は、早大の同級生にあたる。
その後の思水は誠文堂などを経て、文筆業に専念。著作には、滑稽ものや軍事・冒険・探偵もののほか、『絵本甲越軍記』(注2)のような歴史もの、『趣味の小鳥』(注3)『南北極地の探検』(注4)のような知識読物、『太郎の科学』(注5)のような科学読物など、多数がある。また、本名の《二郎》と狂言を意識したものか。《次郎冠者》という筆名でも、滑稽ものを中心に執筆。二つの名前で書き続けられた創作は、膨大な数にのぼる。本稿では、こうした多彩な業績のうち、「日本少年」に関連したものを中心に論究したい。その特質を明らかにすることは、ひとり思水のみならず、この時期の大衆的児童文学の特質の全般を解明することにつながるだろう。
なお、思水について、参考文献らしいものは、ほぼ、皆無。わずかに、『日本児童文学大事典』(注6)(以下、単に『大事典』という)中の「松山思水」の項目(著者は勝尾金弥)に、比較的詳しい記述がある。本稿の執筆にあたっても多くのことを教えられたが、事実の誤りも見受けられないではないので、適宜、これを正しつつ、論をすすめていきたい。
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思水の「日本少年」時代は、第1期と第2期に分けることができまる。
まず、第1期である。
第1期は、1912年12月号をもって、滝沢素水が「日本少年」の主筆(今日でいう編集長に相当)から「実業講習録」に転出し、代わって有本芳水が主筆に昇任。芳水の跡を受けて思水が編輯長(今日でいう編集次長に相当)に就任したことに始まる。ここに芳水主筆、思水編輯長の体制が始まった。この体制は、1919年9月号をもって、芳水が「実業之日本」主筆に、思水が「小学男生」主筆に転任するまで続く。この体制のもと、「日本少年」は話題作を続々と掲載して発行部数を大きくのばし、黄金期を迎えるのである。
次に、第2期である。
第2期は、思水が1921年9月号から「日本少年」に復帰し、主筆を務めた時期である。編輯長は、思水の跡を受けて就任していた中島薄紅が、引き続き務めた。この体制は、思水が1924年9月に新しく創刊された大人むけの雑誌「東京」の主筆に転出。代わって薄紅が主筆に昇任するまで続く。その後、思水は実業之日本社を退社。1927年2月号から「子供の科学」(注7)の編輯長に迎えられている。
思水の「日本少年」時代がこの雑誌の黄金期にあたることは、発行部数からも裏付けられよう。
加藤謙一の『少年倶楽部時代』(注8)によると、「日本少年」は「部数二十万と号して誌界第一位を誇っていた」とも言う。ただ、芳水は「日本少年にいた頃」(注9)で、「はじめは五万であったのが一五万に増加した」と記す。思水の主筆就任の「御挨拶」(注10)に「愛読者十五万」云々という記述のあることからも、このあたりが実数か。対する「少年倶楽部」は、新年号の発行部数で、1921年が6万、翌年が8万。1924年には飛躍的に増大し、30万となった(『少年倶楽部時代』)という。新年号は通常より多く発行されるのが普通だから、通常号で15万と公称する「日本少年」の隆盛ぶりがわかる。
ところで、思水の作家としての業績が創作という形で資料が残るのに比し、編集者としての業績は明瞭な形で資料が残らない。それでも、関係者の証言や読者との交流の記事、誌面構成の特徴などから、編集者としての業績を探ることは、ある程度、可能であろう。
さて、「日本少年」が読者との交流をとりわけ重んじていたことは、従来から指摘されている。『実業之日本社七十年史』(注11)によれば、「日本少年」には「他誌に見られぬ特色として、編集者と読者との特別に親密な精神的結びつきがあったことを忘れてはなるまい」という。
実際の誌面にその実例を見てみよう。
1913年12月号の「日本探検競争信濃飛騨国境探検記」がそのひとつ。これは編集記者からなる《探検隊》を組織し、その《探検》の様子を面白おかしく報告する記事である。あらかじめ、探検先を読者から公募しておき、その中から最高点を占めた案を採用する企画であった。行程は、信州松本から徒歩で出発し、白骨温泉に一泊。阿房峠を経て飛騨高山に至るというもの。記事中には、《探検》らしさを強調するため、やや大げさな書きぶりがめだつ。けれども、今日のように整備された道路が存在しない時代であったから、人夫を雇って峻険な道を行く、かなり本格的な登山行であったことには違いない。公募中の最高点を占めたこの《探検》の計画は、五千三百十六票を集めたという。当時の読者の間で相当な関心を集めていたことがわかる。探検先の公募で前もって人気を煽っておく以外にも、出発地の松本と目的地の高山では地元の読者との間で読者会を開催。地方の読者へのサービスにも怠りがない。
1918年1月〜2月号の「虎狩の記」(2月号では「朝鮮虎狩の記」と題す)は、思水が朝鮮半島の奥地にまで出かけ、実際の虎狩に同行するという記事である。思水は護身用のピストルを携えていたといい、大げさな表現でなく、《探検》の名に値するであろう。探検家が寄稿した探検記の類とは異なって、編集記者が実際の探検に参加するということから、読者にとっては遥かに興味深く感じられたと思われる。ちなみに、この虎狩は、欧州大戦に伴って生まれた船成金の山本唯三郎が計画したもの。のちに、渋沢青花は『大正の『日本少年』と『少女の友』』(注12)で、「もうけにいったのは汽船会社で、各社長は豪遊ぶりを発揮した。その一人は、朝鮮に虎狩をするという破天荒な快挙をやったが、それを聞き込んだ当時『日本少年』の記者だった松山思水君は、さっそく申込んで一行に加わり、虎狩りの記事を書いた」と、思水の辣腕ぶりを回想している。
1918年9月号の「富士登山競争 富士登山記」は、芳水と思水が富士山登山の競争をするという記事。選手を務めた芳水と思水が、それぞれの体験を記事にまとめている。この企画は、芳水が御殿場口から、思水が吉田口から、同時刻に登山を開始。山頂を経て、決勝点の浅間神社奥宮前の郵便局で、スタンプを押して貰うまでの早さを競うというものである。読者は、この競争の勝者と敗者の氏名、それぞれの所用時間を予想し、郵便で投票。一等から三等までの当選者一千名を、応募総数二十一万六千七百五十一通のうちから選んだという。応募数・当選者数からみて、この企画は大変な人気を呼んだようだ。
青花は、思水の編集記者時代の第1期と第2期の間に主筆を務めたが、彼は前掲の『大正の『日本少年』と『少女の友』』で、こうした一連の企画につき、やや皮肉混じりに次のような回想をしている。
ある日、薄紅君が顔をあげて、テーブルの向うからわたしに話しかけた。また、「日本少年」の記事中には、編集記者の身辺雑記の類を積極的に載せている。いわば楽屋落ちネタの記事で、編集記者と読者との親密化をはかったのである。これは素水あたりが積極的に始めたようだ。1910年3月号には「記者の頁」欄を初めて掲載。素水は「僕は今後この頁を籍りて、気随気侭なことを書く」と、宣言している。この企画は「記者ダンワクラブ編輯楽屋ばなし」(注13)を経て「談話クラブ」に定着。類した記事は、素水以降の編集記者たちにも引き継がれて行った。思水が「日本少年」主筆に就任の際に掲載した「御挨拶」(注14)に、「諸君と記者との間をもう一層親密にし、日本少年の真価を天下に宣伝して、日本国中の少年諸君を、悉く日本少年の愛読者にしたい」(注15)云々とあるのも、こうした流れの中での発言であろう。
「渋沢さん、有本さんや松山さんが編集していた時代の『日本少年』では、よく社費でいろいろの催しをしたり旅行したじゃありませんか。ぼくらもそういう企画を立てようじゃないですか」
(中略)
編集記者としては、読者の好奇心を煽り、人気を盛り立てようという一心から出た企画に違いなかろうが、はたから見ると、なるほどうまいことを考えたものだなと、羨望されても仕方がなかった。
その頃の少年雑誌、少女雑誌では、主筆、編集長、記者が、自ら表面に乗り出して、お伽噺をかき、少年少女小説をかいた。(中略)実業之日本社から出た「日本少年」「少女の友」では、私、松山思水、星野水衷(水裏の誤植―引用者)、岩下小葉などが、表面に乗り出して作品を公にした。従って記者と読者との間に不離の親近感があった。然るに講談社で「少年倶楽部」「少女倶楽部」が発行されるようになってから、編集者、記者は、表面に立たなくなり、読者にとって、何人によって編集されているのか一向知ることができなくなった。時代の推移が然らしめたのであろうか。芳水の認めるように、編集者が執筆者を兼ねるシステムは衰退し、やがて編集者と執筆者の分業化がすすんでいく。時代遅れの編集システムに、〈時代の推移〉は容赦ないのである。前掲の『実業之日本社七十年史』は、「日本少年」の衰退の原因を次のように分析する。
『日本少年』は明治三十九年創刊以来、石塚月亭、滝沢素水、有本芳水とつづく編集長の時代は、編集者の個人的魅力が中心となって誌勢は大きく発展したが、やがて時代は移って近代的な綜合編集方針を採る講談社の抬頭で、本誌は『少年倶楽部』と絶えず競争的立場にさらされ、大正末期から凋落の一途をたどるようになったのである。であるから、思水あたりが、編集記者が執筆者を兼ねた旧いシステムにおける最後のスター編集記者といえるかもしれない。
―有本さんは詩のほかに、いわゆる冒険活劇ものもお書きになっていますが、あれはどういうわけですか。こうした軍事・冒険・探偵ものを重視する方針が、彼らの跡を受けた青花の主筆時代とは異なっているようだ。青花は『大正の『日本少年』と『少女の友』』で、自らの編集ぶりを回想して、次のように記している。
―あれはね、読者の中には文学好きばかりがいるわけじゃない。ほかにそういう要素もなくちゃと思って、自分では気が進まなかったけど書いたんです。それ以前に押川春浪とか江見水蔭とかのものがありましてね。私は子どものときに読んだ『十五少年』、これは翻訳ですが実にこなれた文章でね、まあ、そういうものを考えていたんですがね。
わたしは、少年時代から探検物語が好きだったし、好んで登山などをしたためもあって、冒険事実談は進んで掲載した。しかし、少年が大人も及ばぬ活動をするという虚構の探偵小説は、あまり歓迎しなかった。他の少年雑誌では少年を主人公として、血湧き肉踊る小説を載せて読者を吸収しているのに、これをしないわたしは、編集者として失格だったかもしれぬ。が、わたしの性格のせいだからいたし方ない。むろん、青花も右の一文に続けて、「ただし『少女の友』のときと同じように、友人の森下雨村君にだけは長篇の冒険小説を依頼した」とは書いている。しかし、これでは、青花自身も認めるように、大衆的児童文学の雑誌の編集者として〈失格〉であったと言えるのではないか。ライバル誌の「少年倶楽部」は、軍事・冒険・探偵ものを載せて、次第に部数をのばしてきている。「少年倶楽部」の台頭に、青花のような編集方針をもってしては、とうてい対抗することはできなかったであろう。これにひきかえ、思水には、第1期における軍事・冒険・探偵もので実績もある。「小学男生」の主筆に転任してからも、幼年むきにこうした分野の創作を重視し、自らも「蛮島征伐」(注18)ほかを書いている。思水の「日本少年」への復帰は、このあたりに理由があったのではないかと、考えられないでもない。
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思水が実業之日本社に入社したとき、「入社の辞」(注19)と題する短文を「日本少年」に載せている。次の引用は、その一部である。
諸君は毎日学校で有益な而も面白い勉強をされて居ます然し学科は頭を疲からします。疲れた御頭を癒やしながら知らぬ間に見聞を広め趣味品性を陶冶するのが私等記者の任務ではありますまいか。で諸君は散歩か遠足か博覧会へでも行く気持で我が日本少年を愛読して下さいませんか。ここに、その後の思水の姿勢が、端的に凝縮されていると言えよう。〈疲れた御頭を癒やす〉という娯楽性、そしてまるで〈博覧会〉のような多様性。これこそが、思水の特徴だと言える。
近来父兄諸君が、子弟の読物に対して深い注意を払はれるやうになつたのは悦ばしい事であります。下劣な読物が白紙のやうに綺麗で、且つ汚れ易い少年の精神に、遠慮会釈もなく汚点を印して行くのは寒心に堪えません。けれどもあまりに細心に、子弟の読物を選択して、神経過敏に陥られてはなりません。その結果少年を精神上の病人扱ひにしてゐる方をよく見受けます。露骨に教訓を含ましたある種のお伽噺や、修身の例話めいた、偏狭な又は浅薄な道徳を説いたある種の物語類を以て、最上の少年の読物と思ふ方があつたならば、大きな誤りであります。この種のもののみを子弟に読ませる方があつたならば、丁度健康者に浅田飴や肝油ドロツプスばかりを与へるのと同じであります。病弱でない限り、少年であるからと云つて、さう薬菓子ばかりを与へられては堪りません。これは思水の創作を集めた単行本『滑稽短篇集ビツクリ函』(注20)の「序」の中の一節。ちなみに、この序文は〈その一〉が子どもむけ、〈その二〉が大人むけに書かれたもので、引用文は〈その二〉中の一節である。思水は、このように世の大人たちの間に存する風潮。すなわち、読書に狭義の教育的効果ばかりを求めようとする風潮を批判した上、次のように結論づける。
私の小説は薬菓子ではありません。近眼者流の父兄には歓迎されないかも知れませんが、純然たる少年の精神的の食物であります。相当の精神的消化力をもつた少年ならば、充分に消化して血とし肉とすることが出来ます。たまには不消化物が不用意に混入されてあつても、却つて精神的の胃に抵抗力を与へることになります。このように、〈疲れた御頭を癒やす〉ことを〈純然たる少年の精神的の食物〉と言い換えている。大人たちに受け容れられ易いようにという配慮からであろうか。特に、滑稽ものについては、「お笑ひ草になれば、それで本望。/毒にも薬にもならないところが価値のあるところ。」(注21)と、言い切っている。今日においては常識的な発言かもしれないが、読書に狭義の教育性を求めることが普通であった当時としては、非常に斬新な発想であろう。むろん、自分の作風のみが最上の子どもの読物だとまでは主張していない。彼の主張は「教訓一点張を排する」ところにあるのであって、「教訓物語」を排斥しているわけではない(前記「序」)のである。ここに、旧時代の読書観を抜けきれない点を見出すこともできるが、新しい潮流を積極的に受け入れようとする柔軟性をも持っている。思水は先の「序」の引用部分のやや後に続けて、「少年をして少しロマンチツクな芸術的の頼味性を与へる読物の必要」を感じているとも記す。これは、この時代に台頭しつつあった小川未明や鈴木三重吉などによる新しい童話。いわゆる芸術的児童文学の流れをも肯定した発言であると考えられる。
1 滑稽ものと喜劇このように、作家としての思水の業績には、将に〈博覧会〉の如き多様性が見られるのである。しかし、単にこうした分類をしていくだけでは、作家としての思水の業績を評価・検討することに繋がらないのではないか、と考える。なぜなら、こういった5つの分野は、この時期の少年雑誌一般に存する諸分野、それ自体が反映したものだからである。この当時、少年むけの雑誌に長く携わっていた作家の業績を分類していっても、結局、類型的・没個性的な結果が得られるにすぎないであろう。
2 冒険・軍事・探偵もの
3 少年の生活や心情をリアルに描いた少年小説
4 歴史もの
5 旅行・紀行記事ほか
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思水が「日本少年」へ最初に執筆した創作は、滑稽ものであった。1912年12月号に掲載された「滑稽小説 実験」がそれである。『大事典』には翌年1月号の「滑稽小説 歯痛の妙薬」と題する滑稽ものだとある。これは誤りであるが、児童文学作家としての出発点が滑稽小説であったという事実には変わりがない。
「滑稽小説 実験」は、茶目雄・凸一という子どもが主人公。二人は、巡査は自分たちの悪知恵を見抜けないだろうと思い、実験を試みた。すなわち、交番に立ち小便をし、それを見とがめた巡査にでたらめな名前を名乗るという計略である。しかし、巡査は子どもたちの帽子を脱がせ、そこに記された名前を確認して、彼らの嘘を見破る。その後、二人は、学校でも家でも大目玉を喰ったというもの。
悪戯小僧が失敗をするところに、おかしみを狙った創作である。悪戯小僧が咎められるとは言え、過度の教訓臭も感じられず、笑いと教訓がほどよいバランスを保っている。また、登場人物の名前を〈茶目雄〉〈凸一〉というように、現実にはおよそありえない滑稽で珍妙な名前にする手法は、思水の滑稽ものに一貫。デビュー作にして、こうした手法の見られることに注目しておきたい。このように、新人の児童文学作家としては、上々の滑り出しであったと言えよう。
彼の滑稽ものは評判が良かったものとみえ、その後も、滑稽ものを毎号のように書いた。同じ年の8月号には「滑稽小説 牛肉と犬」、9月号には「滑稽小説硝子屋の喜劇」と題する二作続きの連作を書く試みも行っている。
第一作めは、肉屋の少年店員をしていた凸松が野良犬の群れに追われ、配達途中の肉を皆やってしまう。凸松の主人のゲジ禿はそれを知って怒るが、そのしぐさから近所の人の笑い者になるというもの。
第二作めは、先の失敗以来、肉屋がはやらなくなったので、ゲジ禿はガラス屋に転業。近所の悪戯小僧どもにボールを与え、彼らがボール遊びでガラスを割ってしまうのを待つ。計略は図にあたってガラスの注文が来るが、凸松と言い争いをしているうちに仕事先の屋根から転落。旦那様の大事な鉢ものを壊してしまうというもの。商売繁盛の神様として大流行のビリケン人形をさりげなく登場させるなど、当時の世相にも目配りをした軽妙なタッチが秀逸である。
『大事典』によると、主人公を一定にした滑稽ものの連作の開始を1917年からとされている。だが、こうしたかなり遅い時期からとするのは、明らかな誤りである。「滑稽小説 牛肉と犬」「滑稽小説硝子屋の喜劇」の連作に続き、すでに1915年には長期間にわたって、主人公を一定にした連作ものを書き始めているからだ。すなわち、飛太郎という少年を主人公とした滑稽ものをこの年の1月号から6月号まで。三太郎という少年を主人公とした滑稽ものを3月・6月と7月から12月まで、それぞれ掲載している。こうした試みを手始めに、さらに2年後、1917年1月〜12月号の「飛六兵六六六日記」。その翌年、1918年1月〜6月号の「大笑小学校ニコニコレコード」という通しタイトルの連作に発展していく、というのが正しい。
これらの滑稽ものは大評判を呼び、「日本少年」の呼びものの一つとなった。実業之日本社でも、思水の創作を続々と単行本として上梓。『ニコニコ双紙』(注22)を皮切りに、『滑稽短篇集ビツクリ函』などは、順調に版を重ねていった。
ただ、思水は「日本少年」における滑稽ものの創始者という訳ではない。思水の入社前から滑稽ものには伝統があった。例えば、先輩である滝沢素水が、すでに、こうした分野の創作を掲載し、「幾治の一日」(注23)ほかを書いている。思水の入社後も、「今までに一番可笑しかったこと」(注24)という小特集を組むなど、滑稽ものには力を入れていたのである。このように滑稽ものに力を入れる環境のもと、新人である思水が滑稽ものでデビューしたのである。後年、渋沢青花は『大正の『日本少年』と『少女の友』』で「松山思水君は滑稽小説で売出し、いまだにそれをいう古い愛読者が児童文学者のなかにもある」と回想している。このように、思水は滑稽ものの創始者ではないけれど、「日本少年」の滑稽ものを代表する著者の一人となったのである。
滑稽ものでのデビューが思水の内在的な欲求に基づくものであったか、ということまでは不明である。しかし、青花は『大正の『日本少年』と『少女の友』』で、「外面的に陽気な人」ではあるが「別段平生の行為に、滑稽な雰囲気がある人ではなかった」と証言。少なくとも、思水の日常に滑稽な面が現れていたということはないようだ。
ここで注目しておきたいことは、まず、思水の滑稽ものでは、良い子よりむしろ悪戯者の描きかたの方に、生彩の見られることである。むろん、悪戯者たちのやることは、必ず失敗し、笑い者にはなる。しかし、悪戯者たちのやることは憎めず、彼らは愛すべき存在として描かれている。読者が、悪戯をしてはいけないという教訓を得るよりも、悪戯をすることの楽しさに共感を得ることに重きが置かれているのではないだろうか。
思水は先述の『滑稽短篇集ビツクリ函』の「序」のうち、子ども読者むけに書いた〈その一〉で、次のように書いている。
これを読んで呉れる少年諸君が、『オヤこれは僕の事を書いたのぢやないかしら。』と吃驚仰天するから『ビツクリ函』である。右のように、明治期以来、綿々と続いてきた教訓主義的な児童文学観を否定する。悪戯者たちのやるような悪戯を現実に行うわけにはいかないし、悪戯することを勧めるのでもない。しかし、フィクションの中でなら、悪戯者たちに共感し、悪戯の痛快さを味わうことに、何ら差し支えはない。むしろ、そうすることが子どもの感情を解放し、豊かにすることにつながるであろうと考える。ここに、思水の滑稽ものへの思いの斬新さがあった。こうした文学観は、教訓主義的な児童文学観と異なるばかりではない。子どもは純真無垢な存在であるとする童心主義的な児童文学観。すなわち、大正期の芸術的児童文学を特徴づける思潮とも、明らかに異なる児童文学観なのである。
まさかこれ程の悪戯はしなくとも、若しやつたならば、嘸痛快であらうと思つてゐることを、飛六兵六のやんちや連が臆面もなく実行してゐる。少くとも少年の抱いてゐるある一面の思想なり、感情なりに、あまりによく触れ、あまりによく共鳴してゐるから『ビツクリ函』である。
『失敬な、僕達はそんな悪戯つ子ぢやない。』と怒る方があつたならば、世にはこんなやくざな少年もあるものかと―それと知らずに玩具の『ビツクリ函』の蓋に手を触れて、不意に飛び出した怪物に、アツと吃驚仰天するのと同じ意味に於て、『ビツクリ函』である。
成金とは汗を出して働かないで、一寸した機で金持になつた者のことを云ふ。成金に限つて、金の威光を笠に被て、地獄の沙汰も金次第と云つた風に貧乏人を踏み付けにする。金次はその成金の一人息子と生れたので、矢張金のあるのを鼻にかけて、友達仲間で我侭ばかりして手が付けられない。然しその内には麺麭を買つて貰つたり、氷水を飲ませられたりしては、部下になつて、頭を下げてゐる意気地なしの奴等もでてきた。これは冒頭部分の一節。社会の歪みが子どもたちの日常生活にまで及ぶ。そうした現象を鋭く突く姿勢が現れている。
呆助 金次の家には、そんなに金があるんかい。百万円も寄附して学校を拵へる程の成金なのかい。また、〈普選運動〉も、思水の風刺精神の槍玉にあげられた。
変太 馬鹿な、そんな事があるものか。小さな船を一隻か二隻持つてゐて、少しばかり儲けただけなんだ。それも平和になつてから運賃が三分の一にも下落して、今ぢや借金だらけでつぶれさうになつてゐるんだつて、家のお父さんが云つてゐたよ。あんな虚栄心の強い奴は一度ひどく懲してやるがいいんだ。
私の小説は少年の実生活の一面を捕へ来て、『お前の姿はこれだ。』と云つて少年に見せてゐるのであります。それを見て多くの少年は只無邪気にワハハハハと笑つてしまひませう。その奥に私の覘つてゐる批判までは心付かないでせう。然しそれでいいのです。それだけでも少年は自然に人生とか社会とか云ふことを、それと自覚せずして悟るやうになります。そして余裕ある人間を作り上げる一助となります。世の中のことが堅苦しくなく了解出来て、寛大で而も誘惑に乗ぜられない素質を作る一助となると信じます。少くともそのつもりで私は自分の小説を書いてゐるのです。(注28)つまり、子ども読者に「人生とか社会とか云ふこと」が直ちに理解されることはなくとも、自然に「それと自覚せずして悟る」ようになる。「世の中のことが堅苦しくなく了解」できるようになることをめざすというのである。
この喜歌劇は素人の皆さんが、おやりになれるやうにと思つて書きました。だから筋はごくあつさりとしたものにして、それにむづかしい仕草や、巧妙な表情を要せないやうにしてあります。適宜の節を付けて各各立つて歌へばよいのです。そのおつもりで何かの機会で実演して下されば光栄です。(以下略)続く10月号からの「ヤンチヤ倶楽部」シリーズでは、再び散文形式の滑稽ものにもどる。が、翌1919年1月〜8月号の「喜劇アンポンタン座」シリーズでは、全編を喜劇の台本形式で通している。「喜劇アンポンタン座」の連載終了後、実業之日本社ではこれを中心に構成した既出の単行本『喜歌劇と喜劇あんぽんたん』を刊行。版を重ねていることから、このシリーズは評判が良かったようだ。
喜歌劇と喜劇と銘を打つてゐながら、滑稽小説体のものや。喜劇でないものが幾篇か交つてゐる。アンポンタンのする仕事だ。少し位のウソは許し給へ。単行本の内容からみて、〈滑稽小説体のもの〉とは、「ヤンチヤ倶楽部」シリーズの諸篇である。ちなみに、「喜劇でないもの」とは、歴史劇「嫩源氏誉白旗」のことである。
尤も滑稽小説の方は、会話だけをひきぬけばそのまゝ喜劇の台本になるやうなものばかりだから、弁解の道は付くわけだ。
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初期の思水は、〈少年小説〉と銘打った短編を書いている。〈少年小説〉とは、この頃の「日本少年」の角書に頻出する名称で、少年の友情や心情をリアルに描いた創作群である。
この分野での思水の最初の創作は、「少年小説試験の前日」(注35)である。中学生の「私」は、偶然、同級生の佐藤と学校の給仕の林が話している内容を聞いてしまう。佐藤は、林の父が彼の父の世話になっているのをいいことに、林に教員室から代数の試験問題を盗み出せと迫っているのである。「私」は佐藤に忠告して盗みの計画を止めさせ、改心した佐藤と一緒に代数の復習に取り組む。おかげで、佐藤は及第点ぐらいは大丈夫だと自信をつけるというもの。「夕日は明日の成功を予示するが如く華かな夕焼を残して羽山の森に沈んでゆく。」で締めくくられ、さわやかな読後感と読者の感動を誘う小品である。
続く「少年小説 ヨツト」(注36)では、ふとしたことから華族の子どもの晴雄と知り合いになった太郎少年の心の動きを描く。太郎は身分の違いを乗り越えて晴雄と心が通いあったように感じた。だが、女中が晴雄を迎えに来たことをきっかけに、心の通いあいなどということは、太郎の錯覚にすぎなかったことを悟る。金持ちの華族を批判的に描くところに、思水らしさの顕れた小品である。
第1期の思水は、こういった傾向の〈少年小説〉を、滑稽ものと平行して書いていたのである。
『大事典』によると、はじめ思水は滑稽味皆無の〈少年小説〉を書いたが、《間もなく探偵小説や冒険小説へと変質して行った》とされている。しかし、丹念に調べていくと、〈少年小説〉の系統は、〈冒険・軍事・探偵もの〉の系統と平行して書かれる時期が、かなり長い間続いていることがわかる。
例えば、思水の第1期が終わろうとする頃の創作にも、〈少年小説〉を見ることができる。1919年3月号の「少年小説尊き死」がその一つ。ヴェルサイユ会議に出席する各国の代表団を迎える混雑の中、フランス人の少女が代表団の自働車に轢かれそうになる。彼女を救った少年が主人公として描かれた。彼は日本からの留学生で、少女をかばって死んだというもの。講話会議はこの年の1月18日〜6月28日の開催であるから、執筆時点では開会中。こうした社会的な関心事を題材に取り入れた、日本の勇気ある少年の行動を感動的に描く創作であった。
このように、〈少年小説〉の系統から冒険・軍事・探偵もの系統に変質していったという評価は正確でない。滑稽味皆無の〈少年小説〉とは別に、新しく冒険・軍事・探偵ものの系統の創作に筆を染め始めたというべきであろう。
思水が「日本少年」に書いた最初の冒険・軍事・探偵ものは、1913年秋季増刊号(注37)の「少年軍事探偵小説要塞の危機」である。ロシア人とおぼしきスパイ団が日本海軍の要塞の秘密を探っている。それを突き止めた日本の少年が命を狙われながらも、要塞指令官に通報して、祖国の危機を救うというものである。思水は「編輯たより」に「武装されたる平和!!現在の平和はこれである。各国は全力を挙げて軍備を拡張してゐる。そしてその武力が少しでも他に優れやうものなら、すぐ劣つた国を伐つのだ」「軍備拡張の問題は我国でも年来喧ましく論ぜられてゐる。然しそれには莫大の金が入る。第二の国民たる諸君の急務は、富国の策である」と、自らの主張を述べている。
この創作が掲載された増刊号は、特集名が《大戦争》になっている。紙面構成は、口絵に「襲撃」(谷洗馬)と「戦の物がたり」(竹久夢二)を置き、「日本の大戦争」(文学博士喜田貞吉)以下3編の「戦史」、「サラミスの大海戦」(無署名)以下14編以下の「大戦争」、「少年軍事冒険小説空中大戦争」(有本芳水)と「少年軍事探偵小説要塞の危機」(松山思水)の2編の「小説」、その他からなっている。おそらくは、この特集を組むにあたって、編輯長の思水も冒険・軍事・探偵ものを書かねばならなくなった。このあたりが、この系統の創作を書き始めた切っ掛けではなかったか。当初は自発的な動機からの執筆ではなかったようだ。
思水が軍事・冒険・探偵ものを本格的に書くようになるのは、欧州大戦が勃発してからのことである。
1914年12月号の「怪奇小説少年軍事探偵」は、ドイツ兵に火刑にされかけても屈しない日本の少年を描く。少年には知らされていなかったが、この火刑の一件は伯父が支配人をしている映画会社の撮影であったというオチがついている。ちなみに、日本の対独宣戦布告は、この年の8月23日のことであった。
翌1915年1月号の「滑稽お伽飛太郎の年始状」は、飛太郎という少年の伯父が青島戦から凱旋する。そして、伯父が独軍から分捕った大砲を貰って、弾丸のかわりに年賀状を詰め込み、日本中に発射。日本中の人は大喜びするが、捕虜として収容中の独国兵だけは腰を抜かすというもの。軍事・冒険ものとは言えないが、前年9月〜11月の青島戦を素材に取り入れた滑稽なナンセンスものであった。
この年の春季増刊号(注38)の「少年義勇小説血染の電線」は、観戦武官を父に持つ日本の少年が、フランスの少年義勇軍に加わる。少年は仏軍の電信線の破壊工作をする独軍の間諜と戦い、手柄をたてるというもの。作中には、実在の日本人、滋野清武(男爵、仏軍大尉)が登場。飛行船からの攻撃にさらされた主人公を救う。滋野は仏軍航空隊へ義勇兵として参加して話題になった人物であり、少年の興味を巧みにひく、工夫が見られる。
同じく、この年の秋季増刊号(注39)では、「冒険小説毒蛇の女王」を掲載。台湾の奥地で道に迷った達雄少年と道案内の〈生蕃〉の銅珍少年は、〈生蕃〉の蛇祭の生贄にされる寸前の日本人の少年、鋭治を助ける。そして、鋭治の姉の露子が〈生蕃〉に誘拐されているのを知り、3人で彼女を助けにいくというものである。
この創作は軍事ものではないが、〈生蕃〉を操る悪の巨魁は〈台湾お類〉と名乗る。生まれはドイツで本名をルイゼと言い、若い娘を誘拐しては蛇使いに仕立て、上海や米国に売り飛ばしている。ドイツ人を悪役に仕立てたところが、欧州大戦中の創作らしい。増刊号の通例として、読切の短編に仕上げられている。短編ながら、ストーリー展開に破綻や無理がない。軍事・冒険・探偵ものへの思水の進出を象徴する佳品であると言えよう。
このように、軍事・冒険・探偵ものを矢継ぎ早に執筆したのである。当時の少年雑誌を見ると、欧州戦線や青島戦を描いたノンフィクションやフィクションを、競い合うように掲載している。同時代の作家では、宮崎一雨も青島戦が転機になって、軍事・冒険・探偵ものに力を入れるようになった。欧州大戦は、思水に限らず、日本のこの分野の創作全般に大きな影響を与えたのである。思水が軍事・冒険・探偵ものを多作するにつけては、こうした時代の要請のあったことを指摘しておきたい。
なお、この分野の思水の創作中では、「怪奇小説密書」(注40)が、最も円熟味を見せている。
中国の革命党(孫文派)を助け、袁世凱派の間諜団と戦う日本の少年を描く。革命党の志士の息子である趙少年は、日本から中国の上海にむかう船中で、父から託された大切な密書を袁世凱派の間諜に奪われる。そこで、親友である日本人の鉄弥少年に全てを打ち明けた。鉄弥少年は著名な〈支那浪人〉の息子で、趙少年とともに命がけの冒険をして、ついに密書を奪い返す。鉄弥少年の父にあたる鉄心や、趙少年の父にあたる史進の活躍に加えて、袁世凱の突然の死亡という事件もあり、ついに間諜団は壊滅するというストーリーである。
次に掲げるのは、冒頭付近の一節である。
趙の父の趙史進は黄興孫逸仙等と共に支那革命を断行した憂国の志士であるが、袁世凱が大統領となると共に、急劇党の史進は袁に睨まれて、日本へ亡命して来た。然るに昨年末より世界の大問題となつた袁の帝政運動が、どの位この志士の義憤を発せしめたであらうか……彼は如何なる手段を取つても、帝政に反対して、飽く迄も支那共和国を守り立てんと、直ちに同志に激して、一大秘密運動を開始した。この創作は中国大陸における政治上の動向を反映。袁世凱が皇帝即位を目論んだことが物語展開の重要な要素となっている。現実には、参謀本部が青木宣純中将を上海に派遣し、中国南部の反袁運動を支援させるのが、連載開始直前、1915年の12月。袁世凱の病没が連載中の1916年6月であるから、現実と同時進行の物語であった。社会的な問題に敏感であった思水らしい創作であるが、滑稽ものの場合とは違って、こうした現実の動向に正面から取り組んで書き継いだ長編である。この頃、山中峯太郎は孫文派らに加わって活動しているが、未だ、大衆的児童文学の書き手としては本格的に活躍していない。思水のこの創作あたりは、山中峯太郎に代表される軍事・冒険もののはしりであったと言えよう。
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松山思水が「日本少年」で活躍した時期は、いわゆる芸術的児童文学の隆盛期でもあった。しかし、思水が「日本少年」に描いたような社会的な問題は、芸術的児童文学においては、僅かの例外的な創作で象徴的に反映されるばかりである。
一方、思水は欧州大戦など、様々な社会的な問題を滑稽ものに取り入れて、それらを笑い飛ばし、茶化してしまう。ここに、思水の風刺精神の現れを見ることができる。
また、冒険・軍事もののありようを、日本帝国主義の反映というように単純化することは、学問的な評価ではない。日本児童文学学会編で先ごろ刊行された『児童文学の思想史・社会史』(注51)も、こうした単純化の謗りを免れないであろう。
例えば、ひとくちに〈大陸浪人〉と言っても、帝国主義的な侵略の先兵とばかりは言いきれない側面を持つ。宮崎滔天のような民権派の人物から、頭山満のように帝国主義的な思想からだけではその行動を説明しきれない人物まで、複雑で雑多な立場の人々の集合を、一括してそのような名称で呼んでいたにすぎない。先述した「怪奇小説密書」を読む限り、鉄弥少年の父にあたる鉄心の誠意ある行動を、日本の侵略主義的立場の反映とばかりは言えまい。思水は、「日本少年」の記事中で、「私は思想上ではデモクラシー党です」(注52)と述べているが、この創作には、かなりリベラルな志向が反映していると言えよう。
日本の児童文学の歩みを社会思想史的な観点から論じるとき、もっとも等閑視されているのは、思水の創作のような大衆的児童文学ではあるまいか、と考える。
(1998.1.15)
【附記】
本稿は第36回日本児童文学学会研究大会(1997年11月9日 梅花女子大学)に於ける口頭発表をもとに、加筆・訂正を加えたものである。
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