小学生むけ雑誌のスタイルを開拓した「小国民」

『「小国民」解説・解題・総目次・索引』(1999.10.25 不二出版)に発表

 

 「小国民」は同時代の「少年園」や「日本之少年」に比べると、より低い年齢層の読者に焦点をあてた雑誌である。ちなみに、創刊号の緒言(事実上の創刊の辞)は「拝啓、我が幼き国民、第二の日本国民たる、幼年諸君足下」云々という呼びかけで始まるが、ここにいう幼年とは、おおむね小学生(当時は四年制)を指すものと考えて良い。記事の文体についても言文一致体を基本にし、文語体を採用する場合でもなるべく平易な表現になるように配慮されている。のちに石井研堂が「明治初期の少年雑誌」(「太陽」1927年6月)で回想するところによれば、米国の雑誌 HARPER'S YOUNG PEOPLE をモデルにしたものだという。こうして、これまで適当な総合雑誌を有していなかった年齢層の子どもが、初めてその機会を手にすることができた。やがて、博文館から出た「幼年雑誌」(1891年創刊)が大資本を背景にした競争雑誌として誕生。誌面上で投稿の読者をも巻き込みながら、互いに敵意をむき出しにした応酬を繰り返すことになるが、本誌はこの分野における開拓者として児童文学史に残る役割を果たしたと言えよう。
 創刊当時は他に競争誌もなく、児童雑誌のみならず、総ての雑誌と比較しても驚異的な発行部数を誇った。
 ところで、創刊号の復刻は再版を底本にせざるを得なかったが、このことは図らずも創刊号の初版が売り切れたことを証明することになっている。第2年第22号の「館告」にも、「本誌、十八、十九、二十の三号は、売切れにて、御注文に応じがたかりしが、何れも、再版出来上りたれば」云々とあって、その後も品切れ状態が発生し、再版の発行が続いていたことがわかる。第3年第1号の「館告」には「小国民は、すでに、小学雑誌の王位を棄て日本諸雑誌の王位を占むるに至れり」云々と誇らしげに宣言されている。
 発行部数を窺わせる記事としては、第1年第4号に「今や巳(ママ)に八千余部を刷り出すほどの勢に相成候に付」云々、第3年第2号には「今は三万に埀とする」云々、第4年第18号には「十万余部」という記述がある。宣伝のため誇張のあることは割り引いても、かなりの発行部数である。研堂が『「小国民」綜覧』(1941)で回想するところによれば、日清戦争中が本誌の最盛期であり、この頃は一万五千部発行されたという。おそらく、このあたりが実数であろうか。
 この時代の児童雑誌は、「少年園」に山縣悌三郎があり、本誌に石井研堂があるというように、強固な理念をもった主宰者があった。「少年園」の場合は編集者が経営者をも兼ねていたが、本誌の場合は経営者が雑誌の内容に口出しすることは一切なかったという。また、本誌の初期の記事はほとんどが無署名であり、大部分は研堂が一人で書いたようである。であるから、「小国民」の歴史を辿ることは、とりもなおさず研堂という一人の卓越したジャーナリストの仕事を辿っていくことにほかならない。
 しかしながら、実のところ、研堂が本誌の編集を担当し始めた時期については、必ずしもあきらかではない。確実なところでは、1891(明治24)年刊行の第3年第10号に掲載された館告に「石井研堂君。/これまで、本館の客員として尽力されし同君は、今回、其官職を辞し、専ら小国民の編輯主筆たることを諾せらる」とある。「官職」というのは、東京有馬小学校の訓導のことで、この時点までは兼職の編集者であったことになる。しかし、おそらくほぼ創刊の頃から事実上の編集長を務めたであろうとは、諸家の見解の一致するところである。してみると、小学校の教員を務めながらほとんど一人で雑誌の記事を書き、編集・発行を続けたことになる。驚異的なエネルギーといえよう。
 本誌の創刊の頃は、自由民権運動の抑圧を経て天皇制国家として法的な統治機構が整備確立された時期にあたる。近代国家として最初の対外戦争である日清戦争を控え、ナショナリズムの高揚期であった。1889(明治22)年2月には大日本帝国憲法が発布、翌年10月には天皇制国家の精神的支柱たる「教育勅語」が発布された。本誌では勅語の全文を第2年第23号に掲載し、勅語の精神をして編集の理念とした。以後、ことあるごとに勅語の精神に沿うべきことを強調。第4年第1号の巻頭にも「本誌の執る所の主義は、畏れ多くも、教育勅語の精神を貫くに、外ならざること論なし」云々とある。
 このように、教育勅語の精神を奉体することが理念の中心に据えられたが、本誌の記事全体が総て教訓一辺倒であったわけではない。例えば、遊技法の紹介・考物・画探しなどといった記事がそれである。娯楽的な記事はかなりの人気を集めたようだ。「或る教育家の如きは、『私の宅の子弟は、毎夜寝に就くまで、小国民の考へ物を考へ通しです、これ位、学課に身を入れて呉れたら』と、いふて、長嘆した」(『「小国民」綜覧』)という。これらは「御慰みに供す」(創刊号の緒言)ことを目的とした記事であり、子どもに娯楽を提供しようとする姿勢の見られることに注目しておきたい。
 しかし、何と言っても、研堂がもっとも力を注いだ記事は、博物・理科関係の記事である。巌谷小波が創作読物の開拓者であるに比し、研堂は知識読物の開拓者といわれるゆえんであろう。この当時、欧米の進んだ知識を子どもたちの間に普及することは時代の要請であった。わけても研堂は理科読物を重視した。1879(明治12)年のこと、研堂の郡山小学校時代の恩師であった御代田豊は、教え子を福島の師範学校に引率し、理化学の実験を見せた。研堂はいたく感銘を受けて、のちに研堂が理科読物を積極的に手がける端緒になったといわれている。本誌では、簡単な理科の実験などの紹介のほか、例えば「眼目の公判」では、裁判形式で目の働きを解説している。子どもが読みやすい工夫をしながら、理科の知識を自然に身に着けさせようとした試みであった。かつて研堂が小学校の教員を経験したことは、知識読物を平易で子どもの興味をひくように仕上げる上で役だったと思われる。こうした仕事は、やがて知識読物の歴史における金字塔『理科十二ケ月』(全12冊 1901 博文館)や『少年工芸文庫』(全24冊 1902〜4 博文館)へと結実していくことになる。
 一方、博物関係の読物では「動物会」が単行本化されるなどして特に著名である。これは、地球上の動物の代表が獅子の召集に応じて集い、それぞれが安楽に生活を送るすべを貰うというストーリー。木村小舟は「至極平易の筆致を以て、各動物の生態、特徴を記述すること頗る正確に、一切の荒唐無稽の事項を排け、側面より動物学の真諦を知らしめることに苦心せる点が、即ち此の一篇の生命と見られよう」(『少年文学史 明治篇 上巻』 1942 童話春秋社)と評している。続く「虫国議会」では、昆虫の生態を議会形式で面白おかしく紹介している。ちなみに、当時の宣伝では農科大学(現東京大学農学部)の教科書に採用されたとあるけれども、これは和文を英訳する時の和文の底本に使用されただけであるらしい。一連の議会形式の読物は帝国議会の開設を背景にした趣向であった。第一回通常議会の召集は1890年11月(翌年3月に閉会)のことである。
 ほかに、「不思議国巡回記」「西国巡礼」と題する読物が連載された。これらは国内の各地を周遊旅行する趣向の地理読物である。著者名は周遊子になっているが内容からみて研堂であろう。とりわけ前者では交通の手段として自転車を使用。我が国で自転車が流行し始めるのは1889〜90(明治22〜23)年ごろであるから、この趣向は子どもの興味をかなり引いたはずである。内容では、各地の独特の風俗・行事の紹介に力を入れた。民俗の記録など価値なしとされていた風潮の中で、研堂の試みは貴重であった。そもそも、研堂の最初の本格的な子どもむけの単著は『十日間世界一周』(1889)であり、本誌と同じ版元から上梓されている。この著作は、著者と同名の研堂散史という人物が登場。気球に乗って十日間で世界を一周した。そのおりの日記を種に、各地の風物を紹介するという趣向の地理読物であった。研堂の得意とする分野の創作であった。
 こうした長年の児童読物とのかかわりは、その後、研堂の著述活動の基礎を築くことになった。例えば「小国民」に長期連載された「話の種」「日本事はじめ」は、わが国におけるさまざまな事物の起こりなどを取り上げた。「今世少年」には「明治庶物起原」を掲載。これらは、研堂の代表的な著作『明治事物起原』へと結実していくことになる。
 以上のように、研堂は知識読物については力を入れたが、創作読物を有用とは認めなかった。研堂自身も「私は元来夢のやうな小説が嫌ひで、地理、博物、理化学のやうな、形体のあるものゝ説話を好み」(『「小国民」綜覧』)云々と記している。生涯を通じても、『鯨幾太郎』(1894 学齢館)のような例外を除いて書いていない。「小国民」の初期の頃では、高橋太華が執筆する史伝がわずかに文学作品らしいものであったが、やがて時代の推移によって文学作品も掲載せざるを得ない状況になっていく。子ども読者に喜ばれるものを載せる方針のあらわれでもあろうか。創作読物としては、おそらく中川霞城と思われる人物が「狼と七匹の羊」「雪姫の話」「忠猫の策略」(「長靴を履いた猫」のこと)ほかを訳している。これらはグリムの翻訳として最初のものではないが、初期の紹介として貴重なものである。他には、幸堂得知(東帰坊の名でも執筆)の創作読物のほか、各種の翻訳物語や戯曲が主なものである。
 また、この時代の児童雑誌に共通して見られることだが、創刊当初から投稿欄を重視した。創刊号を例にとると、表紙・広告を併わせてもわずか28頁にすぎない誌面中、「作文の稽古」欄には2頁を割いている。やがて雑誌全体の増頁に伴い「文林」欄と名前を改めた上で増頁され、しだいに充実がはかられていく。度々引用する木村小舟の『少年文学史』に「極めて丁寧親切に、一々添削批評を下し、其の用語の妥当ならぬもの、若しくは文法上の誤謬等にも、到れり尽せりの手段を講ずるに吝ならざりし」「児童の作文に対して、かくまでに懇切に指導せる例は、他の一般少年雑誌に類あるを見なかつた。蓋しこれ編輯者が実地教授の経験の致すところか」と評されている。
 さらに、特筆すべきことは、口絵・挿絵を重んじたことである。研堂が「小国民」の編集を担当する上で、最も力を注いだことの一つとされている。「小国民の挿画」(第5年第24号)と題する記事に「画工を選み、彫刻師を選み、与に其技倆の十分を尽さしめて、明治の今日に成る挿画の最高程度を後の世に伝へんと欲する」云々とある。「雑誌で儲けた丈は、悉く其雑誌の挿絵や印刷費に掛けて了ふ」(『「小国民」綜覧』)とまで言われた。
 この件については、「少国民」第10年第2号に掲載の「少国民歴史」と題する記事中で研堂が詳しく回想しているので、これを援用しながら整理してみたい。
 まず、口絵について、当初は尾形月耕・小林清親・富岡永洗などすでに名のある画家を登用。のちには、まだ無名であった小堀鞆音・尾竹国観のような画家を登用している。第7号からは、木口木版を取り入れた。担当者としては、佐久間文吾及び精巧館彫刻部の名が伝えられている。精巧館とは、フランスで木口木版の彫刻を研究して帰朝した合田清が創設したものである。第2年第9号からは口絵がカラー化された。小林清親の「牛若丸気質鍛練之図」がそれで、少年雑誌界の嚆矢とされている。また、小川一真が帰朝して写真銅版を初めて発表。これを雑誌の挿絵に採用したのも第16号が最初であるという。
 第12号からは「文林」欄に滑稽なポンチ画が掲載されはじめ、以後、恒例となった。一色刷で読者の投稿の間に挟まれているためあまり目立たないが、当時としては画期的なことである。マンガ史の上からも、もっと注目されてよいことだと思う。
 ところで、「小国民」にはいくつかの異版が存在する。とりわけ、口絵や挿絵については、異版の存在がめだつ。多くは着物の柄が異なるように軽微な変更であったが、全く異なる絵に差し替えられたケースとして第2年第19号の口絵「松平信綱剛胆の図」を取り上げたい。
 復刻版の底本とした版では、物音に驚いた将軍が寝間着姿のまま自ら大刀をひっさげ、信綱を問いつめている。中央右よりには、信綱を取りなす役割を果たした源崇夫人の姿が、大きく描かれている。緊迫感にあふれ、本文の内容を過不足なく描いたみごとな図柄だといえよう。一方、異版では、信綱は庭に平伏。将軍は袴姿で脇差しのみを帯び、殿上に立っている。源崇夫人の姿はなく、代わりに殿居役と思われる二名の武士が描かれている。どちらの口絵も小林清親の筆になるとはいえ、前者に比べると後者には緊迫感があまり感じられない。また、本文中には殿居の武士に関する記述はまったく存在せず、逆に源崇夫人が取りなし役として重要な役割を果たしている。本文との整合性という点からも、明らかに前者の方が優れている。清親があらかじめ二枚の絵を仕上げて渡しておいたものか、最初の絵が研堂の気に入らなかったため描き直しを依頼したものかまでは不明であるが、いずれにせよ、研堂が口絵・挿絵を重視したことの反映である。
 口絵以外の図版についても、第2年第16号の9頁にある平家蟹の図の場合、復刻版が底本とした原本では左上を向くように配置されている蟹の図が、異本では右上を向くように傾けて配置されている。版自体は同じものであるが、レイアウト上のバランスからいえば、明らかに左向きの方に軍配があがる。これもおそらく研堂の強い意志によって変更されたものであろう。
 ほかに、「小国民」誌上では子どもの興味をひきそうな題材を積極的に取り入れている。
 例えば、福島中佐の単騎シベリア横断旅行が成功すると、「福島君遠征始末」と題してこれに関する記事で第5年第14号の全頁を埋め、大評判を取った。日清戦争が始まるや、戦場を題材にした口絵類をはじめ戦争関係の記事を続々と掲載し、誌面を埋め尽くした。とりわけ「牛荘市街戦」(第7年第8号)の網版印刷では「技術上に失敗ありとは言へ三色版を雑誌に挿みたる嚆矢なるべし」(「明治初期の少年雑誌」)と、実験的な試みをも駆使した。しかし、手旗信号を紹介した「海軍の信号」(第7年第1号)が軍機に触れるとして告発され、重禁固三カ月の判決を受けた。幸い、控訴中に戦争が終結したため刑罰は免れたが、「嗚呼露国」(第7年第18号)で遼東半島還付問題を論じて発禁処分を受けた。皮肉にも、本誌を頂点にまで至らしめたこの戦争がきっかけとなり、「少国民」と改題の上で再出発せざるをえなくなったのである。かくして、「小国民」時代は終わりを告げた。