「少年文武」創刊号から見た中川霞城の業績

「翻訳と歴史」第6号 2001年5月号(2001.5 ナダ出版センター)に発表




 中川霞城(1850〜1917)は、京都生まれ、本名を登代蔵、諱を重麗という。他に、霞翁・西翁・柴明・四明などの名を用いている。「日出新聞」などの記者、京都美専の講師ほかを歴任。俳人としても知られている。児童文学上の業績は、理科を中心にした知識読物・グリムほかの翻訳・児童劇の脚本・伝記・論説・解説記事など幅広い分野に及ぶ。草創期の児童文学に大きな役割をはたした。子どもむけには「少年園」「小国民(のち「少国民」と改題)」「少年倶楽部(北隆館)」などに稿を寄せた。また、神田・駿河台に自ら出版社・張弛館を興し、児童雑誌「少年文武」を刊行。木村小舟は「少年雑誌記者としては、「少年園」の太華、「小国民」の研堂両子と共に、当代三指に屈すべき人であらう」(『増補:改訂|少年文学史 明治篇』(1942 童話春秋社)と、霞城の業績を高く評価している。
 「少年文武」の創刊号は1890年1月17日付の刊行で、定価1冊8銭。四六判、本文52頁に附録30頁を綴じ込むという構成である。本格的な子どもむけの商業雑誌としては「少年園」「小国民」に続く試みであった。創刊号の巻頭に「少年文武は武芸、文学、理科、美術の四柱を以て一堂を建築し、其中に忠孝節義の神霊あり、是れ実に少年文武の本体なり」と宣言し、「東洋人種の白晢人種に於けるは恰も往時町人百姓が武士に於けるか如く、常に凌辱を蒙り、なかなかに口惜しき事ども数多有之候得ば、なまめきたる文学にのみ心を移し、万一にもいざ戦争といふ日に於て、おめおめ人の笑ひと相成、親には不孝、君には不忠、生て甲斐なき身の上と相成候様の事あらんには、斯くては日本の恥辱、末代までの瑕瑾に候条、先づ武を以て己が骨格と心得、文を以て血液とし、之を養はんこと最も懈怠あるべからず」と、雑誌の性格を規定する。また、木村小舟をして「其の外装の美なることは、『少年園』に優ること数段であつた。蓋しこれ山人が美術眼の致す所と認められる。即ち表紙の意匠は温雅なる色彩によつて、錦旗の地文を顕し、これに鏡と玉と剱とを配置し、間々桜花を散在せしめて、専ら国粋の美を発揮せる点は、『少年園』がやゝ欧風に傾けるに対して、其の主張するところを遺憾なく表示せるものといへよう」(前掲書)と言わしめている。
 この雑誌の正確な終刊の時期は不明である。第8号(1890年8月15日)からは発行人が中川重麗から中山治次郎へ変更になり、まもなく霞城は故郷の京都に居を移した。そして、おそらく1891年頃に終刊となったものと思われる。饗庭篁村・高橋太華・坪内逍遥・陸羯南・幸田露伴・内藤耻叟など、一流の文士が寄稿している。また、木村小舟の『少年文学史』(前掲)によれば、1895年に復刊されて第1号のみを出したというが、未見である。
 さて、霞城は創刊号に自ら筆をとって三つの異なるジャンルの作品を載せている。このほか無署名の記事の大部分は主宰者たる霞城の手になるものであろうが、ここではこれら三つの主要な作品を軸にして、霞城の児童文学上の業績について概観することにしたい。
 第一は、張弛館主人の名で著した「理科春秋」である。これはあだ名を胡蝶狂生、甲虫博士という二人の小学生が登場し、二人の問答をきっかけに理科の知識を解説する趣向の作品である。胡蝶狂生は背が高く痩せていて活発で、「花咲くも鶯啼かずば花に声なし、春来るも蝶飛ばずば春に姿なし」という「詩人」タイプの少年である。甲虫博士は背が低く太っていて沈着で、「僕は想像を好まず、(中略)僕は常に甲虫の無骨なるを愛す」と「実用」を旨とする少年である。彼らは第1年第3冊(1890年3月15日)以降、「理科日記」と題する続きものにも登場。体格・性格・主義において対照的な少年は、ともに「少年文武」誌の理念の一方を体現する存在であり、この雑誌の常連として人気を集めた。
 さらに、霞城山人の名で『理科春秋 春』(1890年5月12日 張弛館)が上梓された。これは創刊号の「理科春秋」を増補・加筆して刊行したもので、緒言に「春晴に青を踏み、秋天に高きに登り、夏の旅行、冬の団欒(ママ)、実に是れ人間の至楽なり、而して皆以て少年の教育修養に利すべきなり、(中略)少年にして若し四時の自然を朋友とし、事物の観察に怠らざれば、其の得る所豈に独り物理の智識に止まらんや」と述べる。知識を詰め込むことより観察を通じて知識を体得することを重要視するところに、霞城の理科読物の斬新さがあった。また、二人の少年を教え導く左周先生は、年齢三十有余で、理科大学(のち東京帝大)を卒業。海外留学もしたが思うところあって郷里で私立小学校を開き、自ら校長となったという設定で、霞城の理想の教師像といえる。ただし、あくまでも知識を習得する目的は「富国強兵は国家を独立せしむる柱石なり、而して富国強兵の事、実に理科の智識に資り、其の応用に胚胎するもの多きに居る、理科の教育大に奨励せざる可からず」というところにあって、霞城の教育観の有りようと時代性を強く感じさせられる。
 ところで、タイトルからわかるように『理科春秋』は春夏秋冬の全四巻を予定したものであったが、実際には「春」の巻を刊行したのみで終わっている。しかし、少年時代に霞城の業績に触れていたく感激した木村小舟が、後年、霞城の序文の寄稿を仰いで同題の『理科春秋』(1902 文武堂)を自ら著していることからわかるように、過小に評価されるべきではない。山縣悌三郎の『理科仙郷』(バックレー原著 1886〜87 普及舎)と並び、初期の理科読物として高く評価されてしかるべきであろう。
 なお、理科読物とは趣を異にするが、霞城には「百年後の戦争」と題する翻訳がある。これは霞城山人の名で「少年世界」誌に連載(1898年1月1日〜3月1日 5回連載)したもの。多くの新兵器が登場するSF仕立ての翻訳作品で、タイトル下に「学理小説」と付記されている。
 第二に注目すべき作品は、無署名の翻訳「活木馬奇譚」である。タイトル下には独逸グリム氏著とあり、確認できる範囲では第1年第10冊(1890年10月15日)まで、断続的に連載され、未完に終わったものと思われる。「少年文武」はナショナリズムを基調とした雑誌ではあるものの、決して排外主義的ではない。欧米の優れた芸術や智識、歴史や伝記を紹介することには、非常に熱心であった。こうしたことを積極的に学びとりながら富国強兵に務めるべきだという姿勢が見られるのである。
 霞城は初期のグリムの翻訳・紹介者として知られている。創刊後、まだ間もない頃の「小国民」誌には、「狼と七匹の羊」(KHM5 1889年9月10日〜10月10日 2回連載)、「雪姫の話」(KHM53 1890年3月10日〜9月3日 6回連載)、「忠猫の策略」(1890年11月3日〜12月18日 4回連載)が、立て続けに掲載されている。「狼と七匹の羊」を除いては本邦初訳であった。総て無署名だが、「小国民」誌をめぐる人脈からみて、おそらく霞城の筆になったものと目されている。「忠猫の策略」には「西洋小説」のツノガキがあり、いわゆる「長靴をはいた猫」の翻訳である。これらがいかなる原書を参照したものかは不明だが、KHM番号のない話が含まれていることからみると、少なくとも1857年版(第7版、いわゆる「決定版」)でないことだけは確かであろう。その後も続けて、無署名の「鈍太郎物語」(KHM83 1892年10月18日〜11月3日 2回連載)などの連載があり、おそらくこれらについても霞城の筆になったものであろう。
 また、「指太郎」(KHM37 1892年12月3日〜12月18日 2回連載)以下の一連の記事は連載のタイトルとして「西翁物語」と冠している。これは西翁を名乗る人物が子どもたちを集めて「何くれとなく西洋にありたる事共を話し聞かせる」という趣向のもので、内容はグリムの翻訳にとどまらない。現に連載の第一回(1892年11月18日)は霞城お得意の理科読物で始まっている。また、「拇太郎の遊歴」(KHM45 1893年3月1日〜3月15日 2回連載)では、タイトル下に霞翁の署名が入っている。
 その後、「少国民」に誌名が改題されてからも、西翁の署名入りで「魔法婆」(KHM69 1896年1月18日)、「蝦蟇の王の話」(KHM1 1896年2月10日)、「烏に成た七人の子」(KHM25 1896年6月18日)を寄稿した。
 第三に注目すべき作品は、霞城山人名で掲載された「自由之一箭」である。内容はシラーの「ウィリアム・テル」の翻訳で、確認できる範囲では第2年第3冊(1891年3月30日)まで、断続的に連載されている。連載第一回の冒頭には、春のや主人朧(大河内翠山)と河竹黙阿彌の序文を掲げる。
 この脚本は霞城が自序に「此の訳本は、甞て山人か演劇改良の議論盛んなりし頃、梓に上せ、世に公にせんと、一二名家の序文までも得たれども、狂気の沙汰と断念し、其後久しく故紙堆中に埋み置きたるものなり」と記しているように、もともと子どものために翻訳されたものではなかった。黙阿彌の序文が「明治十九年霜月下旬」の日付になっていることがこれを裏付けている。したがって、こうした成人むけの脚本を「少年文武」誌に載せるにあたっては、霞城にとまどいもあったようで、「少年文武に掲くる所以は、固より我か文学に益せんとの心にあらす、維廉得(ウヰルヘルム、テル)の言行は、少年の気質鍛練上に、大に益する所あるを信ずれはなり」と弁明に務めるものの、やはり強引すぎる理由づけであろう。ちなみに、冨田博之の『日本児童演劇史』(1976 東京書籍)によると、「ウィリアム・テル」の本邦初演は1905年「瑞西義民伝」(巌谷小波翻案・演出)であったという。
 この作品に先立ち、「少年園」誌に「新年の餅」(1889年1月3日)が掲載された。無署名だが、霞城によってドイツの文献から翻案されたものとされている。タイトルの下には「小供芝居」とあり、「自由之一箭」の場合とは違って、当初から明確に子どもむけを意識したものであった。冒頭に「この小供芝居『新年の餅』は独逸の遊戯書中より訳せしものにて、実に少女の遊戯に係れり。諸君の解し易からんがため、其人名を日本名に改め、且つ基督降生祭の一種の麺包を改めて新年の餅とし、成るべく日本の事情に通ぜしめたれども、唯是れ一例を示して世の心ある人に小児の為めに斯かる遊戯芝居を作るも亦其幸福を増すの一端ともならんとの意を表したるに過ぎず。読者深く巧拙を問ふこと勿れ」とある。内容は私塾の娘のお律が貧しい孝太少年に同情し、下女に新年の鏡餅を届けさせる。孝太が餅を切ってみると、中には銀貨十五円が入っていた。これはお律が私塾の教師をしている母と相談し、着物の新調を諦めて自分の貯金を取り崩したものであったというものである。かつてはわが国における児童劇の脚本の嚆矢とされたこともあった。しかし、前掲の『日本児童演劇史』によれば、すでに前年の5月に同じ原書をもとにした『独逸新作小児演劇 外題正月の餅』(鶴岡義五郎・編輯発行)が上梓されているとのことである。ただ、内容においては霞城の作に軍配が上がるようで、「『正月の餅』が、歌舞伎の院本のように、書き流してあるのに対し、中川霞城の『新年の餅』の方は、脚本の形に、セリフが行分けして書いてある。セリフも、霞城の方が、脚本として数段すぐれている」(同書)という。
 このほか、児童劇の脚本の分野には「少年狂言」と名づけられた一群の作品がある。
 まず、「小国民」誌には「くだもの狂言」(1890年9月3日)、「春雨:奇談|燕の仇打」(1891年6月3日〜7月18日 2回連載)がある。「くだもの狂言」は、梨と栗がそれぞれに備わった針で猿を撃退するというもの。「燕の仇打」は海岸で精巧な巣を造っていた燕の夫婦が、それを雀に横取りされる。そこで、人家の軒下に巣を造ることを思いつく。軒下であるから巣は簡単な仕組みで済んだというものである。ともに理科知識を織り込んで、面白おかしく観劇しているうちに知識が身につくように考えた新工夫の脚本であった。無署名ながら、内容から考えておそらく霞城の作であろうと推定されている。
 「少年文武」誌にも、第2年第3冊(1891年3月30日)に「少年狂言」として「仁和寺の法師(徒然草)」が、第2年第6冊(1891年9月15日)に「新古少年狂言」として「博士拝(新狂言)」「入間川(古狂言)」がある。無署名ではあるが、「少年文武」誌への連載であるから、まず、霞城の作に間違いはあるまい。「少年園」にも霞城山人名で「梅見」(1893年3月3日)、「烏公達」(1893年9月18日)を載せ、タイトルの下に「少年狂言」とある。
 単行本としては、霞城山人の名で『少年狂言:二十五番|太郎冠者』(1892年11月8日 学齢館)を著している。これは児童劇の脚本集として、わが国で最も早く出版されたものである。「注意」として「此書は少年の遊戯の為めに戯れに著はしたるものなり、材料は内外名士の逸事奇譚を主とし、或は本邦の書に採り、或は西洋の書に採り、或は又た新聞雑誌等より採りたるもあり、東西古今一ならす、要するに狂言として趣味多きを撰みたるのみ」と記されている。福沢諭吉・帆足万理・大久保彦左衛門・藤田東湖・ボルテールなどが実名で登場。滑稽でナンセンスなストーリーの脚本によって構成され、今日読み直しても思わず笑みが浮かぶ。例えば第23番「ごまかし」は、田舎出の書生が入学試験に「ごまかし」で及第しようとする。ところが、「ごまかし」を「胡麻菓子」のことだと思いこんでいたので、東京の書生にからかわれ試験で大失敗をするというものである。
 このように創刊号の主だった作品から霞城の業績を見ていくと、「少年文武」の創刊号はこの頃の霞城の児童文学への関心のありようを如実に反映したものであり、自らの業績を集大成するものとして企画されたものといえよう。



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