新美南吉「手袋を買ひに」論

―ほんとうに人間はいいものかしらという問いの意味―

「国際児童文学館紀要」第3号(1986.12.31 大阪国際児童文学館)に発表




(1)


 「手袋を買ひに」は新美南吉の代表作の一つに数えられている。この作品の初稿の成立は1933年12月26日であるが、この時期は新美南吉が東京外国語学校に在学中で、二〇歳のときにあたっている。初稿成立の時期は自筆原稿の末尾に「一九三三・一二・二六よる。」という記入のあることが根拠であるが、この自筆原稿の成立については『校定新美南吉全集』(以下校定全集と略記)の「解題」に詳しく、この「解題」では南吉の日記から次のような考証がおこなわれている。
この日の日記には、この作品については何一つ語られていない。日記によるとこの日、南吉は一日巽聖歌の家にいて、原稿の整理を手伝い、昼食から夕食までごちそうになった。しかも翌二七日には帰郷の予定で、そのため「夜おそく行つてプドルのおばさんにも別れをつげた。」というのだから、この作品を書くだけの時間はかなり制限されていた。さらに翌日の日記によると、「未明に起きて」帰郷の旅立ちをしたというのだから、一層、時間的余裕はなかったことになる。
 このように、校定全集の「解題」では、原稿末尾の日付である「一二・二六よる」に南吉が原稿を執筆する時間的なゆとりはあまりなかったということが明らかにされている。なお、自筆原稿が一日のうちに書きあげられたものではなく、幾日間かにわたって書きつがれて「一二・二六よる」に完成をしたのではないかということも考えられないではないが、私が原稿を実見したところでは、筆勢から判断して、そういう可能性があるような印象は受けなかった。したがって、現時点では、校定全集「解題」のいうように、この作品はきわめて短時間のうちに一気に書きあげられたものであると一応考えておくことにする。南吉は評論「童話に於ける物語性の喪失」の中で、「昔からよい作品は霊感によつて生まれるといはれてゐる。霊感は、又『閃く』といふ述語をいつも従へてゐる」と記して作品の創作過程における〈閃き〉ということを重視している。「手袋を買ひに」はこの〈閃き〉によって一気に書きあげられた作品なのかもしれない。
 ところで、現存する「手袋を買ひに」の原稿には、この自筆原稿の他に、他者が転写をした原稿へさらに南吉自身が加筆訂正を加えた原稿が存在する。この転写原稿は「本文に対する加筆の他に、題名の右肩に『童話』、右下に『新美南吉』の加筆があり、どこかへ送稿するつもりだったと考えられる」(校定全集「解題」)というものであるが、作品の後半部分にあたる原稿の何枚かは失われて現存していない。
 この転写原稿は「いつ、だれか、何のために転写したのかは不明」(校定全集「解題」)であるが、南吉自身の手によって加筆訂正が加えられている点に注目したい。まず、転写原稿における加筆訂正と自筆原稿に加えられた加筆訂正を比較すると、「転写のために使用されたテキストは、南吉の自筆原稿で、それも推敲以前のものだったと考えられる」(校定全集「解題」)という推定がなりたっている。この根拠については校定全集「解題」に詳しいのでここでは省略しておく。次に、同じく校定全集「解題」によると、転写原稿への加筆訂正に用いられたスカイブルーのインクは「限られたもののみに使用されており、その時期は一九三八年八月から一九三九年の五月までに集中している」という。したがって、他者に転写を依頼した原稿の成立直後にスカイブルーのインクによる加筆訂正をおこなったとするならば、スカイブルーのインクの使用時期が安城高等女学校の教員を南吉がしていた時期にあたるのであるから、成立過程が明らかになっているこの時期の他の転写原稿と同様に、南吉の教え子のひとりの手によって原稿の転写がおこなわれ、その後に南吉自身の手によって加筆訂正が加えられたと考えても無理はないだろう。このような経緯をへて成立した転写原稿ではあるが、1943年9月10日に大和書店から発行された南吉の第二童話集『牛をつないだ椿の木』に「手袋を買ひに」が収録されるにあたって使用された原稿はこの転写原稿ではなく、前述のように自筆原稿であることが校定全集で明らかになっている。こうして、結局のところ、南吉生存中にこの転写原稿をもとにした出版物が世にでたという事実はいまのところ確認されていない。
 また、これも年代は不明であるが、自筆原稿への加筆訂正がある。これには、初稿と同じブルーブラック・インクによる加筆訂正のほかに、ルビの部分のみやや黒味のかったインクによる加筆が存在する。したがって、この段階の加筆訂正は少なくとも二度にわたっておこなわれているということになる。この作品の初出である童話集『牛をつないだ椿の木』(前掲書)はこの加筆訂正の結果にもとづいていることから考えて、これらの加筆訂正はあるいは童話集収録の時点でなされたものかもしれない。なお、この童話集は南吉の死後の出版であるが、南吉自身が生前に校正を見ていることから、生前の刊行物に準じて考えることができる。したがって、この加筆訂正の時期をもう少し厳密な言い方で推定するならば、転写原稿とその加筆訂正がなされた以後から『牛をつないだ椿の木』(前掲書)の校了までの時期であるということになる。
 以上の推定が正しいとすると、初稿の成立以来、足かけ5〜6年にわたって、ルビの記入を含めるとすくなくとも三度は手が加えられたということになる。むろん、転写原稿の成立と加筆訂正、自筆原稿への加筆訂正の時期については明確な決め手はなく、結局、推定の積み重ねによるほかはないわけだが、それでも、この作品が初稿から決定稿にいたるまでに、かなり長期にわたって何度も加筆訂正が加えられ続けたということに疑問の余地はない。
 このように作品の初稿は短時間で一気に書きあげられた原稿ではあっても、その後、長期にわたって加筆訂正がくりかえされたことから、南吉としてはかなり愛着のあった作品であったことがわかる。また、南吉は、まず転写原稿に手を加えた形態による作品の発表、次に自筆原稿に手を加えた決定稿による作品の発表と、すくなくとも前後二回にわたってこの作品の発表を企図しているわけであり、しかも、現存する原稿のうち南吉の自筆の署名がある原稿はたいへん珍しいというようなことからも、南吉としてはかなりの自信作であったというように考えられる。

(2)


 「手袋を買ひに」についてしばしば指摘される問題に、なぜ母狐は危険を承知で子狐だけを町へ行かせたのかということがある。
 その町の灯を見た時、母さん狐は、ある時町へお友達と出かけて行つて、とんだめにあったことを思出しました。およしなさいつて云ふのもきかないで、お友達の狐が、或る家の家鴨を盜まうとしたので、お百姓に見つかつて、さんざ迫ひまくられて、命からがら逃げたことでした。
 「母ちやん何してんの、早く行かうよ。」と子供の狐がお腹の下から言ふのでしたが、母さん狐はどうしても足がすゝまないのでした。そこで、しかたがないので、坊やだけを一人で町まで行かせることになりました。
 引用文は問題とされる場面の一部(校定全集より引用。以後、特にことわりのない限り作品の引用は校定全集によった。)だが、なるほど危険を承知で子狐だけを町へ行かせる母狐の行動は尋常ではないという印象をうける。ここでは母狐が子狐だけを町へ行かせた行動への批判の一例として、西郷竹彦の「『手袋を買いに』論―矛盾はらむ母親像―」(日本児童文学者協会編『新美南吉童話の世界』1976年7月10日 ほるぷ)をとりあげる。
 読者である子どもたちにとって、不可解なのは、人間が〈ほんとうにおそろしいもの〉であり、〈どうしても足がすすまない〉のなら〈しかたかない〉から、〈ぼうやだけをひとりで町までいかせる〉のでなく、たかが手袋ぐらい、断念すればいいのではないか。自分自身、〈足はすくんで〉一歩もすすめないほどの危険な場所になぜ、かわいい子狐を〈ひとりで町までいかせることに〉したのか。〈しかたかないので〉というが、なぜ〈しかたがない〉のか、というわけである。
 西郷はこのようにのべたあと、「南吉は一方の手で『天使』的な母親像をまさぐり求めながら、他方の手では『悪魔』的な母親像にふれないわけにいかなかった―その矛盾が、この童話の母親像のなかに矛盾と分裂をもたらしている」ことを指摘する。そして、「作者南吉の生いたち、人となりとの関係における南吉の描く母親像の解明」をおこなうとして、「南吉が幼少(四歳)にして生母を失い、継母とのあいだに心理的葛藤があった」ということに「破綻した母親像」の原因があると論じている。しかし、作家が継母をむかえたという幼児体験をそのまま作品の解釈にあてはめて作品を解釈しようとすることが作品論としてどの程度の有効性をもつかということについては疑問をもたざるを得ない。もとより、作家論を否定するものではないが、作品というものはあくまでも作者である南吉からは自立した存在であって、作品を論じることと作家を論じることは混同されてはならない。たとえば、南吉周辺の人物の中からモデルを詮索するようなことが、そのまま作品論の深化につながるようなことはありえないだろう。けれども、この作品には「矛盾をはらむ母親像」が「裂け目を露呈している」という点で構造的な欠陥が存在するといった西郷の指摘そのものについては基本的に賛成であるし、そういう立場からこの作品の中で描かれる母親の愛に、どこかよそよそしいものを感じさせられるということについて触れておくことはやはり必要なことであろう。
 作品中では「何と云ふやさしい、何と云ふ美しい、何と言ふおつとりした声なんでせう」「坊やが来ると、暖い胸に抱きしめて泣きたいほどよろこびました」というように、母親の愛情についてはかなり誇張した表現でかかれていることがめにつく。しかし、母親の愛情というものはこのように特別にとりたてて誇張した表現であらわされなければならないものなのか、母と子の関係というものはそれほど他人行儀なものだろうかという疑問を感じる。南吉と継母の関係をここにことさらもちださなくとも、作品中で母と子の愛情が誇張されて表現されればされるほど、どことなくぎこちないものを感じざるをえないのである。まして、子狐をひとりで危険な人間の世界に送りだすという母狐の行為については、これが全く必然性に欠ける不可解な行動であるということは否定できない。
 ところで、「手袋を買ひに」には南吉自身の手による構想メモか残されている。この構想メモでは登場人物として、はじめは「母狐」「子供の狐」「帽子屋のご主人」「帽子屋のお内儀さん」「窓の中の母親」「窓の中の子供」と書かれていたが、のちに「帽子屋のご主人」が削除されて「帽子屋の娘さん」が挿入されている。結局、この構想メモの「帽子屋のお内儀さん」「帽子屋の娘さん」という構想をいかした作品は残されていないのだが、それでも、のちにのべる理由から構想メモ中の登場人物がすべて母と子の関係になっていることには注目しておきたい。
 ちなみに、この構想メモの性格については、校定全集の編集委員の一人でもある続橋達雄の「戯曲に書き直そうとしたらしいことを思わせる」(『南吉童話の成立と展開』1983年3月20日 大日本図書)という推定があるが、その一方で、校定全集「解題」では、この構想メモは「手袋を買ひに」の初稿成立以前に書かれたものであると推定されている。すなわち、構想メモの裏面が作品「チユーリツプ」の自筆原稿第二枚めに転用されていることから「『チユーリツプ』の執筆が一九三四年の一〇月二七日であるから、この構想メモがそれ以前に書かれたことは明らかだが、『手袋を買ひに』の執筆が一九三三年の一二月二六日なので、常識的には当然、このメモはさらにそれ以前に書かれたものと推定できる」としているのである。けれども、構想メモが初稿成立以前のものであると推定することが、なぜ「常識的には当然」(傍点は引用者)なのかという根拠についてここではなにも触れられてはいない。ちなみに、牧書店版の『新美南吉全集』(第一巻1965年12月8日)の「解説」(滑川道夫)では「メモによると初めは劇にするつもりであったようだ」(傍点は引用者)として、劇にするつもりであった作品を童話に変更して執筆したと推定がされている。このように、牧書店版全集では構想メモの成立の時期についてはこれを初稿成立以前のものであるとして、校定全集「解題」と同様の推定をおこなっているのである。その一方で、構想メモが戯曲形式の作品にするためのものであると推定する点では続橋説と同様である。ただし、構想メモが戯曲形式の作品にするためのものであると推定するその根拠については、滑川説も続橋説もともに明らかではない。
 ところで、管見によれば、この構想メモがどの時点で何の為に作成されたものであるかということについての明確な決め手はないものの、使用された原稿用紙の種類を検討してみることが、この問題を解明する上で重要な手がかりになっているのではないか。すなわち、初稿「手袋を買ひに」は校定全集の呼び方にならうと「マルゼン茶4」原稿用紙を使用、構想メモは「文房堂グレイ上」原稿用紙(「チユーリツプ」と同じ原稿用紙)を使用している。校定全集の「凡例」によれば、前者を使用した作品で、最も早い日付は1933年5月2日、最も遅い日付は1934年2月5日である。そして、後者を使用した作品で、最も早い日付は1934年3月15日、最も遅い日付は1934年11月4日ということになっている。したがって、もし、構想メモが校定全集「解題」の説にしたがって1933年12月26日以前に書かれたとすると、「凡例」で示された「文房堂グレイ上」原稿用紙の推定使用期間、すなわち、1934年3月15日以降という範囲を大きくはみだしてしまうことになる。使用した原稿用紙の種類によって作品の成立時期を推定することは、作家が常に使用する原稿用紙の順番を守るとはいいきれないので、かなり危険を覚悟せねばならない。しかし、少なくとも校定全集「解題」の説には重大な矛盾と疑問が生じているということはいえるだろう。また、構想メモ中に「登場人物」「情景」という記述があることから考えると、成立の時期と目的という点において、あるいは続橋説が正しいということになるのかもしれない。ただ、「登場人物」「情景」という書き方だけでは戯曲形式に書きあらためる意図があったと断定するには根拠としては弱いという気がしないでもない。したがって、現時点では、構想メモの存在によって、戯曲化のためであるかどうかはかならずしも明らかではないにしても、初稿成立後のいつの時点かで作品を書きあらためる意志が南吉にあったということが推定できるということにとどめておくことが妥当なのではあるまいか。
 このように考えると、構想メモの場合、「帽子屋のご主人」が削除されて「帽子屋の娘さん」が挿入されているというように、母と子の関係が重視され、しかも、構想メモにおいて、先行する作品の形態よりも母と子の関係をさらに強調する方向で構想が練られていることは重要になってくる。それは、構想メモにおいては、人間の母と子の間の愛情も狐の母と子の間の愛情も同じなのだという認識を子狐が得るという発想を重視する方向で作品を書きあらため補強する意志が南吉にあったことがわかるというように、このメモを解釈することができるからである。しかも、構想メモの検討を待つまでもなく、人間と狐という立場の異なるものどうしであっても母と子の間の愛情は同じであり、人間と狐の間であってもつうじあうところがあり理解しあうことができるのだという認識を得るためには、この母と子の関係をきちんと描いておく必然性があることは明らかである。にもかかわらず、作品のなかでは、結局のところ、作品の重要な柱のひとつとして構想されていたはずの母と子の関係を描くことには成功していない。さらに、既にのべたように、この作品の決定稿が成立するまでには相当の長期間にわたって加筆訂正が加えられ続けており、また、少なくとも二度にわたって作品を発表することが企画されたということから、南吉にとってはこの作品がかなりの自信作であったということが推定できる以上、時間的な理由から書き込み不足が生じたというようなことはまず考えられない。したがって、致命的とまではいえないにしても、この作品には、たしかに重大な欠陥が内在しているということが確認できるだろう。
 そして、この欠陥は、おそらくはストーリーの劇的な変化と意外性を重視するということに関連が深いと考えられる。すなわち、ストーリーの劇的な変化と意外性を重視するあまり、〈閃き〉が先走りしてしまったということが、作品中に見え隠れするということに結びついていくのではあるまいか。ストーリーの劇的な変化と意外性といえば、作品冒頭部の「母ちやん、眼に何か刺さつた、ぬいて頂戴早く早く」という書きぶりも、いかにも〈語ること〉を重視した南吉らしい表現であり、作品の冒頭部から〈聞き手〉を驚かせストーリーの展開に注目させるように計算されていることがうかがえる。しかし、こういった書きだしにしても、その筆はこびが生硬であって熟していないという印象を受けないこともない。
 また、かつて古田足日は『おじいさんのランプ』(1965年11月25日岩波書店)の「解説」のなかで、「てぶくろを買いに」について、次のように記したことがあった。
 「てぶくろを買いに」について、ある子どもはおもしろいことを言っていました。ぼくがおかあさんだったら両手とも人間の手にしてやるんだが、なぜかたっぽだけ人間の手にしたのかわからない、と言うのです。このことばはこの作品の欠点をついているとともに、作品をおもしろく読むことのできない不幸さをぼくに感じさせました。この子はここでひっかかってしまって「ほんとうににんげんはいいものかしら」という、かあさんぎつねのつぶやきを読みとれなかったからです。
 古田が母狐のつぶやきに作品の〈おもしろさ〉を感じると記していることは重要な示唆であるが、この点についてはあとで考察することにして、ここでは〈作品の欠点〉について触れておくと、母狐が子狐をひとりで町にいかせた問題や片方の手だけを人間の手に変える問題など、この作品には不自然なストーリーの展開が見られることは否定できない事実である。こうして、この作品には構造的な欠陥に由来する危うさを感じざるをえないのである。
 それにもかかわらず、この作品が広く一般に読みつがれ、児童文学の古典のひとつとして、今日もなお読者を魅了してやまない。その理由はどこにあるのだろう。

(3)


 ここで、自筆原稿の推敲過程に注目してみたい。南吉のこの推鼓過程を詳細に検討してみると、単なる部分的な加筆訂正というような範囲を大きく越えて、作品のテーマにかかわる重要な推敲がおこなわれている部分がめにつく。もはや推敲というよりは、異なった二種類の作品が書かれたといっても良いほどの改作になっている。
 まず作品の末尾の一節に関する推敲について考えてみたい。先に述べたように、「手袋を買ひに」には二種類の異なった結末が用意されており、初稿では次のような結末になっている。
お母さん狐は、
「まあ!」とあきれましたが、「ほんとうに人間はいいものかしら。ほんとうに人間はいいものなら、その人間を騙さうとした私は、とんだ悪いことをしたことになるのね。」とつぶやいて神さまのゐられる星の空をすんだ眼で見あげました。
 引用文から明らかなように、母狐は人間は恐ろしい生きものだという認識を全面的にあらため、人間はいいものだ、信頼するに足るものだという認識を得ることになっており、異なった立場に立つものどうしでもつうじあい理解しあうことができるのだという楽天的な結末になっている。しかも、転写原稿の底本がこの自筆原稿の初形(すなわち初稿)であること、自筆原稿への加筆削除は転写原稿の成立以後におこなわれたことであることから、いまは失われた転写原稿の末尾の部分でも初稿とほぼ同じような結末になっていたのではないかという推定が可能だろう。また、既にのべたように、転写原稿は自筆原稿の初形成立以降、かなり長い期間を経過したのちに転写されて成立したものであると考えられる。したがって、人間はいいものだ、信頼するに足るものだという結論は、単に推敲の過程にみられる一時的なものではなく、初稿の成立時から決定稿の成立の直前まで維持され続けていたということになる。
 こうして、人間はいいものだ、信頼するに足るものだという結論はかなり長期にわたって維持されていたと推定できるのだが、南吉が推敲の最終段階で用意をしたもうひとつの結末は、これをまったく逆転させるものであった。それは次のような結末である。
お母さん狐は、
「まあ!」とあきれましたが、「ほんとうに人間はいいものかしら。ほんとうに人間はいいものかしら。」とつぶやきました。
 このように二つの結末を比較してみると、決定稿が成立する最終段階で、異なる立場にたつものどうしでもつうじあい理解しあえるものだという楽天的な結末は完全に放棄されているということがわかる。つまり、初稿にみられた人間に対する全面的な信頼は、決定稿において、ほんとうに人間は信頼するにたりるものなのかという人間というものの存在に対する根本的な疑問に置き換えられているのである。
 ところで、この母親のつぶやきをとらえて、「〈人間って…おそろしいものなんだ〉という一面的認識にとらわれていたのが、〈本当に人間は、いいものかしら…〉とつぶやきながら、人間に対する認識に動揺がはじまった」(『文芸研教材研究ハンドブック5  新美南吉=手ぶくるを買いに』1985年2月 明治図書)と考える見方がある。
 つまり、この母狐のつぶやきは子狐の体験を通して「人間つてほんとに恐いものなんだよ」という母狐の認識が揺らぐようになったことを意味すると解釈をしているのである。ところが、.母狐の認識の動揺・変化ということに重点をおくこういったとらえかたに対して、滑川道夫が牧書店版『新美南吉全集』(前掲書)の「解説」で次のようにのべていることはたいへん重要である。
 母の愛情を流れにして、人間を恐れることを知らない子どもの純真な美しさを認めながらも、母ぎつねはなお疑いを残してこの作品は終わっている。
 滑川はこのように母狐の「疑い」に重点をおいたとらえかたをしている。母狐の認識が揺らぐようになったということに重点をおく先の『文芸研教材研究ハンドブック』の発想とは明らかにことなったとらえかたである。 また、佐藤通雅は滑川と同様の観点から、『新美南吉童話論』(1980年9月15日改訂第1版 アリス館牧新社)で、母狐の人間に対する認識について、次のようにのべている。
まず作者は、人間と、人間をひたすら恐れるかあさんぎつねという関係を提示する。例によってこの二者はおいそれとは理解し合うことのできない孤絶した存在で、それに拍車をかけるのはこの場合、かあさんぎつねの方である。…(中略)…その橋渡しの役目をするのが子ぎつねの純真無垢な心だった。子ぎつねは疑うということを知らず、かあさんぎつねの忠告をも忘れて別の手をさしだしたりするが、思わずほはえみたくなるほどのこの可憐さは抜群である。人間と動物というまったく異質なものの中間を、純粋さで溶解していくような、しかしけっして完全に溶解することはない宿命的哀感をもおびた不思議な魅力がここにはある。
 このように、佐藤は一方では子狐の存在を人間と母狐の「橋渡しの役目をする」ものであるというように位置づけており、そういう点では先の『文芸研教材研究ハンドブック』と同様の立場にたっているようにもおもわれる。だが、もう一方では佐藤は母狐の人間に対する不信の念が変化したという点に重点をおくのではなく、「完全に溶解することはない宿命的哀感」に重点をおいた書き方をしている。けれども、それでは、はたして母狐の人間に対する認識は、たとえ狐と人間の間でもつうじあい理解しあえるのだという方向で変化をしたのか、完全に溶解することはない「宿命的哀感」をどういうところに感じるのかということについては明解ではない。
 そこで、次に、この母狐のつぶやきのもつ意味について、作品にそって検討をくわえてみることにする。母狐は子狐を町に行かせるとき、人間の手に変えた方の子狐の手に白銅貨を握らせ、決して狐のままの方の手を出してはいけないと言いきかせておくが、子狐は帽子屋の店の「光がまばゆかつたので、めんくらつて、まちがつた方の手を」出してしまう。けれども、帽子屋は母狐が言ってきかせたように子狐を「掴まへて艦の中へ入れ」るようなことはしない。相手が狐であることを承知の上で手袋を売ってくれる。このような偶然のあやまちから、まず、子狐は人間というものはちっとも恐ろしいものでないということをさとる。そして、今度は「人間なんてどんなものか見たい」と考えるようにまでなって、帰り道に人間の家のようすをうかがってみる。すると、やさしい、美しい、おっとりした子守歌の声が聞こえてくる。しかも、「子狐はその唄声は、きつと人間のお母さんの声にちがひないと思ひました。だつて、子狐が眠る時にも、やつぱり母さん狐は、あんなやさしい声でゆすぶつてくれるからです」というように、人間の母と子も狐の母と子も同じなんだということがわかって、ますます自分の考えに確信を深めていく。しかし、この場面を客観的に考えてみると、子狐の「母ちやん、人間つてちつとも恐かないや」という楽天的な考え方よりも、母狐の「ほんとうに人間はいいものかしら。ほんとうに人間はいいものかしら」という疑問の方が、はるかに説得力をもって人間というものの存在を語っているようにおもわれるではないか。「ほんとうに人間はいいものかしら」という母狐のつぶやきは「人間つてほんとに恐いものなんだよ」という母狐の認識が動揺するようになったことを意味するのではなく、実は「人間つてちつとも恐かないや」という子狐の浅い認識に対して、逆に強い疑問の念を表明しているというようにとらえることが適当なのではあるまいか。
 そもそも、母さん狐がお百姓に追いかけられて命からがら逃げるようになった原因は「お友達の狐が、或る家の家鴨を盗まうとした」ことにあるのであって、狐の方に正当な代金を支払う用意があったわけではない。したがって、お百姓が自分の家の家鴨を盗もうとした狐を追いかけるのはきわめて当然のことである。それに対して、子狐の方は母狐からほんものの白銅貨をもらって手袋を買いに行くのであって、母狐の場合とは根本的に状況がことなっている。そして、帽子屋さんが手袋を子狐に渡したのは、子狐の差しだす白銅貨をカチ合わせてみたうえで、「これは木の葉ぢやない、ほんとのお金だ」と判断したからである。ここに、おもわずぞっとするような人間の狡猾さを垣間見ることができる。
 つまり、商品の取引という観点からみると、取引の相手がだれであろうと、適正な代金さえ払ってくれるのであれば、いっこうにさしつかえかないはずである。狐に手袋を売ったところで、狐がほんものの白銅貨で手袋を購入するのであれば、決して損にはならないのである。このように、作品中にみられる帽子屋さんの〈善意〉というものは、あくまでも子狐が正当な代金を支払うという前提のもとになりたっているのであって、心と心のつながりによって成立しているものではない。それは帽子屋さんの態度をみれば明らかであろう。子狐が手袋をくれと言ったとき、帽子屋さんはまず「きつと木の葉で買ひに来たんだな」と子狐を疑ってかかっている。そして、代金を心配して「先にお金を下さい」と言っているのである。したがって、帽子屋さんの〈善意〉というのは、カネという媒体をとおしたときに、はじめて成立することが可能な程度の〈善意〉なのである。また、この場面で狐の側が人間の側をだまそうとしたのは、子狐があたかも人間のこどもであるように装うことであるにすぎない。帽子屋さんからみると、狐が人間であるように装っているということは主要な問題ではなく、商取引が損にならないということが問題なのである。もし、子狐のさしだした白銅貨が木の葉の白銅貨であったとしたならば、あるいはちがった展開になったかもしれない。「掴まへて艦の中へ入れ」ることまではしないとしても、すくなくとも、帽子屋さんの〈善意〉というようなものはみられなかったであろう。しかも、狐が戸のすきまからさし入れた方の手は狐の手であって、もう片方の手が人間の手であること自体、はたして帽子屋さんが知りうるような状況であったのかということも疑問であろう。狐が戸のすきまからさし入れたのは片方の手だけであるから、狐のもう片方の手が人間の手であることを見る機会は帽子屋さんにはなかったはずである。つまり、狐の側が自分が人間であるかのように装ってだまそうとしていたことに、帽子屋さんは気づいてもいなかった可能性が大きいのである。すなわち、帽子屋さんの側からこの夜の出来事をみると、ある晩に子狐が手袋を買いに来たが、木の葉の白銅貨で帽子屋さんをだます意志はないことがわかったので、だまって子狐に手袋を売ってやったということになるだろう。こういうことから考えると、「母ちやん、人間つてちつとも恐かないや」という子狐の思いは、結局子狐の側の一方的な思いこみにすぎず、客観的にみるならば、子狐の判断はその経験の浅さからきた軽率な判断であって、母狐のもっている疑問の方がはるかに現実を直視していると言わざるを得ない。
 次に、決定稿にいたる推敲過程で加えられたもうひとつの重要な変更について触れておく。それは、狐が手袋を買いに行く場所に関する変更である。初稿では、狐が手袋を買いに行く場所は「村」であるということになっている。ところが、のちの決定稿にいたるまでの推敲の過程で、それは「町」にあらためられた。この「村」から「町」への設定の変更の問題は、たんなる場所の変更ということを大きく越えた意味をもっている。つまり、むかし家鴨を盗もうとした母狐たちが〈お百姓〉に追いかけられたということを考えてみると、その場所が田舎町であれば「町」に〈お百姓〉が住んでいたとしてもそれほど不思議なことではない。.しかし、それでも「町」というよりは「村」というイメージの方が、この場合、より適切であろう。それをあえて「村」から「町」に書き改めたというところに、南吉の思いが込められているのではないか。カネを媒体としたつながりを描くためには、共同体意識の強い「村」のもつイメージより、商品経済の発達した「町」のもつイメージの方が、よりふさわしかったのであろう。こういったことからも、この作品を、カネを通してでなければおたがいにつうじあうことができないつながりを描いたものとしてよむことができるのではないか。

(4)


 南吉が一貫して追求したテーマのひとつに、人間どうしはたがいにわかりあいつうじあうことができるのかというものがある。
 「嘘」の場合をとりあげてみよう。久助君は病気で五日間学校を休んだあと、ひさしぶりで自分の教室にもどってくる。しかし、いざ教室にもどってみると、久助君は「みんなの気持となじめない」違和感を感じ、「自分はまちがつて、よその学校へ来てしまつたのではないか」という「奇妙な錯覚」にとらわれるようになる。また、この作品では、自分が休んでいるうちに都会から転校してきた太郎左衛門に対する評価について、はじめとおわりではまるで正反対になっている。はじめ久助君は太郎左衛門の都会風の容貌になんとなく心をひかれるものを感じているが、適当な機会がないのでなかなか近付くことができない。ところが、ようやく親しくつきあえるようになってみると、あこがれの都会人であったはずの太郎左衛門は、実は大変な嘘つきであるということがしだいにわかってくる。やがて、太郎左衛門の嘘にだまされて遠い海辺までつれていかれるという事態におよんで、太郎左衛門が嘘つきでわけのわからないやつだという思いは決定的となる。日ごろ見慣れている級友たちがあるとき突然見知らぬひとたちに見えたり、あこがれの都会人であった太郎左衛門があるときを境に大嘘つきでわけのわからない人間に見えたりするということは、人間どうしはほんとうにわかりあいつうじあっているのかという問題につながっていくだろう。そして、「嘘」の結末は次のように締め括られている。
 人間といふものは、ふだんどんなに考へ方が違ってゐる、訳のわからないやつでも、最後のぎりぎりのところでは、誰も同じ考へ方なのだ、つまり、人間はその根本のところではみんなよく分りあふのだ、といふことが久助君には分つたのである。すると久助君はひどく安らかな心特になって、耳の底に残つてゐる波の音をききながら、すつと眠つてしまつた。
 このように結末には「人間はその根本のところではみんなよく分りあふのだ」という楽天的な人間観が掲げられている。ところが、作品中のこどもたちは、この結末のように、はたしてほんとうにわかりあうことができたのかということをよく考えてみると、それははなはだ疑問であろう。なるほど、遠く見知らぬ海岸で夕陽の沈むころ途方にくれてしまうという土壇場をむかえ、太郎左衛門は嘘をつかなかった。しかし、そのことだけによって作品に登場するこどもたちが「どんなに考へ方が違つてゐる、訳のわからないやつ」でも、「根本のところではみんなよく分りあふ」ということが理解できるようになったとはとても考えられない。太郎左衛門が土壇場で嘘をつかなかったということが、久助君の認識をあらためさせるほどの行動であったのかということは、はなはだ疑わしいのである。いよいよ土壇場の状況になったとき、太郎左衛門の言葉に嘘がなかったというだけで、久助君が「人間はその根本のところではみんなよく分りあふのだ」という認識にまで一気に達するというのはいかにも不自然で飛躍がある。土壇場の状況下で嘘をつかなかったということと、人間どうしがわかりあい、つうじあうことができるということは直結するようなことではなく、こういったことを直結させようとする作品の結末には明らかに短絡的な発想がみられる。
 以上のようなことから、「嘘」の場合は、結末の部分に必然性が弱く、いかにも唐突で不自然であるという印象をうける。南吉としては「人間はその根本のところではみんなよく分りあふのだ」という人間観を強調したかったのだろうが、作品はそのような作者の意図を裏切ってしまっている。そして、結局、いかにも強引な結末だという印象を残す作品におわっているのである。
 次に、南吉の幼年童話の「ゲタニ バケル」の場合をみてみよう。この作品は「手袋を買ひに」の場合と同じように、コドモのタヌキが思わぬ失敗から人間に対する信頼を得るようになるというものである。サムラヒは道の途中で自分の拾ったゲタがコドモのタヌキが化けたものであることに気がついても、わざと知らないふりをしてゲタヤまで歩いていく。ゲタヤでゲタを買ったサムラヒは「ヤ、ゴクラウダツタノウ」と言ってコドモのタヌキにオアシをやって帰してやる。そして、作品の結末をみると「コドモダヌキハ オアシヲ モラツタノデ サツキノ クルシサモ ワスレテ、ョロコビ イサンデ カヘツテ イキマシタ」というように、人間の善意への無条件の信頼によっておわっている。ここでは、「ほんとうに人間はいいものかしら」というつきつめた問いかけはみられない。人間の善意に疑問をなげかけるようなところは全くみられず、たいへん牧歌的な作品に仕上げられている点が「手袋を買ひに」とは大きく異なっている。それだけに軽い印象をうける作品におわっている。
 また、「権狐」では権狐が兵十によせる好意は全く相手につうじず、ようやくつうじるようになったのは兵十が鉄砲で権狐を撃ち、権狐かいよいよ死ぬという間際になってからであった。「久助君の話」では、久助君が日とろ慣れ親しんでいるはずの兵太郎君ととっくみあいをしているうちに、ふと相手の少年は自分の全く知らない少年なのではないかという錯覚を覚える。そして「わたしがよく知つてゐる人間でも、ときにはまるで知らない人間になつてしまふことがあるものだ」「わたしがよく知つてゐるのがほんとうのその人なのか、わたしの知らないのがほんとうのその人なのか、わかつたもんぢやない」という結末になっている。このように、これらの作品は異なる立場にたつものどうしの心はつうじあわないものだという結末になっている。南吉の作品に、こういった例は多い。
 これまでみてきたように、異なる立場にたつものどうしは心がつうじあい、わかりあうことができるのかというテーマを扱った南吉の作品の系列は、あるときにはつうじあえぬ悲しみをひきおこし、あるときは根本のところではつうじあえるのだという楽天的な結末をむかえ、二つの結末の間を揺れ動いている。
 それでは、「手袋を貢ひに」の場合はどうか。自筆原稿初形の「ほんとうに人間はいいものなら、その人間を騙さうとした私は、とんだ悪いことをしたことになるのね」という母狐のつぶやきは、人間は信頼するに足るものなのだという結論を下しているということになる。もし、この部分に加筆削除が行われなかったとすると、「嘘」の場合と同様、いかにも強引で不自然であるという印象はまぬがれえなかったであろう。ところが、決定稿に至る加筆訂正の過程で、異なる立場にたつものどうしかつうじあい理解しあうことはできるのかという疑問に強引に結論をだすのではなく、疑問を疑問として問い続けるように、作品は書き改められた。このようなことから「手袋を買ひに」は悲観的でも楽天的でもなく、ふたつの結論の間を揺れ動いている状況を定着することに成功した作品であると評価することができるのではないか。すなわち、町における母狐の体験と子狐の体験は、まったく異なる状況下における体験であって、盗むという状況下では人間は恐いものであり、正当な代価で買うという状況下では人間はいいものであるという側面をみせる。しかも、狐に対する人間の〈善意〉というものは、あくまでも正当な代価を狐が支払うという前提のもとに成り立っているのであるから、きわめて疑わしい頼りないものなのである。こうして、異なる立場にたつものどうしがつうじあい理解しあうことはできるのかという疑問は、以前にも増して深い疑問となっていくのである。
 以上のように作品をよんでみると、「手袋を買ひに」のもつリアリティーと魅力は、「ほんとうに人間はいいものかしら」という問いかけによって支えられていることがわかる。さまざまな欠点を指摘されながらも、この作品がいまだに根強い人気をもっているのは、この最後の問いかけのもつ意味の深さが我々を魅了してやまないからであろう。