児玉花外の児童文学

「国際児童文学館紀要」第12号(1997.3.31 大阪国際児童文学館)に発表


 =目次=

(1)はじめに
(2)社会派詩人としての花外
(3)熱血の少年詩人
(4)『名作:童謡|少年の歌』の意義
(5)「夕刊売の少年」をめぐって
(6)口語自由律の詩と散文詩はじめに
(7)おわりに

※ 


(1)はじめに

 児玉花外が児童文学の分野で活躍するのは、主として大正期のことである。少年の志気を鼓舞する熱血詩人として、当時の少年の間で人気を博していたが、今日ではあまり顧みられることはない。かつて、巽聖歌は「少年詩の流れ」(注1)で花外の少年詩を高く評価。その趣旨は、最初の〈意識された作品としての「少年詩」の典型〉を有本芳水・児玉花外に見ることができるというものであった。けれども、趨勢としては、少年詩の歴史の上でも、大衆児童文学の歴史の上でも、忘れ去られようとしていた作家の一人であった。
 そうした状況の中で、先に私は『少年詩の歩みU』(注2)中に「児玉花外を中心に」と題する小論を書く機会に恵まれた。その後、花外の代表的な少年詩集である『名作:童謡|少年の歌』(注3)が「複刻叢書日本の童謡」(注4)の一冊として複刻されるなど、再評価の兆しも見えてきてはいる。しかし、花外の多種多様な児童文学上の業績を俯瞰するような研究は、今日に至るもなされていない。本稿では、花外の少年詩の分野の業績を中心にしながら、散文を含む花外の児童文学上の業績全般を検討の対象とし、独特の作風で一時代を築いた花外の作品を児童文学史の上に位置づけたいと考える。
 ところで、〈少年詩〉という語は、学問的には未だ成熟した用語であるとはいいがたい。この分野の研究はようやく緒についたばかりで、定説といえるほどのものはないようだ。そこで、とりあえずは「少年少女が読み味わうことを主眼に詩人が創作する詩」(注5)というゆるやかな定義をもってこの語を用いることにして、論を進めたいと思う。

(2)社会派詩人としての花外

 花外は同志社、東華学校、札幌農学校、東京専門学校を転々とした。いずれの学校もついに卒業することなく終わったが、その間、典型的なバンカラ学生として青春時代をすごしたらしい。のちに、花外は自らの青春時代を回想して、次のように書いている。

(一)少年時代より、文学を愛好せしかど。(ママ)将来は、政治家を以て立身せん事を、我と心に誓へり。
  (中略)
(三)其時代は、日清戦争の前後にして。(ママ)内外多事。我帝国の国運は、底力より曙光現はれ初めたり。其際、小生は情熱的、夢幻的の学生にして、剣舞など情に発作し、時代と反響する、慷慨悲歌の子なりき。今日の青年学生に比して、頗る単純に且つ一本筋なりき。(注6)

身は一私学の学生ながらも、いづれ未来は日本帝国の柱石を以て任じ、国家の堅固なる土台たらん志を抱いてゐた。だから、英雄豪傑気取りのこの学園(東京専門学校―引用者)の若者等は、よしや平生破れ帽、破れ袴を穿いてゐたとしても、彼らの胸の裏には、遠い他日にはその肉体にきらびやかな功名、栄達てふ美麗な花のさく日を堅く信じ、彼等はその純な清い心にその自育の花を俟つてゐた。(注7)
 将来、社会派詩人として文壇に登場する下地は、学生時代から確実に培われていたようだ。
 この多感な学生時代に、花外はバイロンの作品に触れて非常な感銘を受け、その後も長く傾倒することになる。バイロンに寄せる思いを「詩人は血なり焔なり将た剣なり/悲壮バイロンの如きは絶好の代表者」(注8)などと、自らの詩の中で歌いあげている。バイロンはトルコの圧制下にあったギリシアの苦況にヨーロッパの人々の目を向けさせ、身をギリシア解放軍に投じたが、こうした生涯に花外は自らの生涯をなぞらえ、《日本のバイロン》(注9)といわれることを好ましく思っていたらしい。
 「童謡」は最も初期の頃の作品である。少年詩として書かれたものではないが、後年、少年詩に手を染めることを予感させる内容のものとして重要だ。内村鑑三が主筆を務める「東京独立雑誌」(注10)に掲載。岡野他家夫によれば、「終生失わなかつた彼の童心と、幼少年への関心がうかがわれる」(注11)という。
童謡
      京都 児玉生
茜の色に照り映えし
豊旗雲の影きえて
霧立ちこむる夕暮に
堤の上にわらべ等の
声うち合せ叫ぶらく
「向ふの向ふの白い蔵
向ふの土堤の高い家
一番星よ落ちて焚け
二番星よ落ちて焚け
二番いやなら三番落ちよ
三番いやなら四番が焚けよ」
 上記が全文である。
 白い土蔵のある高い家とは、地主の屋敷のこと。地主の家に星が落ちて焼ければいいという発想が、権力者に対する反感からきていることは明らかだ。反権力的な傾向が窺われることは否めない。しかし、これを後年のプロレタリア文学の頃にいう〈社会主義〉の如き思想を背景にした作品として読むことは、適当とは思われないのである。
 花外は「動機はない」(注12)で、処女作の頃を振り返り、次のように述べている。
僕には芸術の為めの芸術、詩の為めの詩といふ思想は尠しもない。内心に横溢せる欝勃たる不平が、胸を衝いて流出し、歌はずに居られないで歌つたものが僕の詩である。即ち自分の不平が詩であり自分の詩がまた不平であつたのだ。当時は社会上下一般戦勝熱に侵され、殆ど狂するばかりだつたから、社会的不平、一種の革命的思想の声は、今日の如く外に形となつて顕れるといふことは夢にも見ることが出来なかつた。今でも彼の時代の如き感情は首尾連壁、依然として胸に漲つてゐる。
 だから、「童謡」以下、花外の初期の詩作はプロレタリア詩の如き左翼的な《思想》を反映したものではない。これらは《欝勃たる不平》を表現した詩である。漠然とした反権力的な気分を歌い込んだ詩だと考えるべきであろう。ただ、花外の少年詩の原点ともいえる詩が《欝勃たる不平》の詩だという事実は、花外の少年詩の特質を決定づける要因の一つとして重視したい。
 花外は、当初、社会主義詩人として文壇に登場。第二詩集『社会主義詩集』(注13)は出版の直前に発禁処分を受けた。後には熱血・愛国詩人へ転換。少年詩や子どもむけの散文の業績は、この〈転換〉以降のものである。谷林博は『児玉花外その詩と人生』(注14)で、花外の転換の契機は治安当局による弾圧だとしている。同書によれば、1910年の大逆事件の結果「花外と親しかった西川光次郎も弾圧によって転向した。(中略)花外は詩人として社会主義を歌いあげたが、活動家でなく争議に加わらなかった。しかし社会主義を信奉していたので、大逆事件が精神的にあたえた打撃は大きかったに違いない。そのことが社会主義を断念させ英雄志士、義人などへと傾倒を深めていった」という。
 だが、少なくとも作品上に現われている限りでは、この〈転換〉を思想的な〈転向〉とまでいえるかは疑問である。『社会主義詩集』の冒頭には、「これらの小詩は吾が宗教とする社会主義の讃美歌」だという一文がある。だから、花外は社会主義を実践的社会運動としてではなく、宗教の如き理念の一種だと理解していたようである。そもそも、この詩集には発禁処分を受けるほど思想的に過激な詩が含まれていた訳でない。合法的に発表済みの詩を纏めただけで、発禁になったのは詩集の題名が治安当局を刺激したからに過ぎないといわれている。
 明治末以降の花外は、押川春浪らの称える〈武侠主義〉への共鳴を標榜するようになった。
 次に引用紹介するのは、亡き春浪に捧げた追悼詩「押川春浪を懐ふ」(注15)である。
慷慨より悲壮に往き、感激より感激に征き、
おゝ春浪よ君は強者、
其雄魂は世を破り、蒲柳の身をも破り出でぬ。

世は濁浪の漲るを、君が清けき春浪は、日に夜を激し急調に、打ちに撃ちたる不平の声、
あゝ白浪よ再た返らず。

  (中略)

君が書きたる数巻の、日本武侠小説は、
太陽と共に永へに、地にあかあかと残るべし、
春浪の剣春浪の艦。

春や壮美の夕陽影、此世は光に男は熱に。
天地は一杯の赤き酒、我は呑みつゝ啜りつゝ、豪傑春浪を弔はむ。
 春浪への追悼の念を通じてナショナリズムを基調とした〈武侠主義〉への傾倒ぶりがわかる。春浪のいう〈武侠主義〉は、皇室中心主義を標榜し、白人の植民地主義から東洋諸国が解放されることを義とする。いわゆる明治アジア主義の範疇に属する思潮であった。
 この時期の花外の詩作の例として、「平和来と青年進路」(注16)を取りあげよう。これは第一次世界大戦の終結を題材にしたもの。13連に及ぶ長詩中に次の一節があって、花外の世界認識が良く現われている。
白人の深く知らざる宗教と宝庫、大衆と富、
東洋に印度あり、隣国に衰亡に傾かんとする支那。
黄色人相互が陸土や、愛の血の誓紙や、
東亜のことは東亜みづから大に為すべし。
あゝ之れ世界列国の真正の平和を繋結ぐがため。
 〈東亜のことは東亜みづから大に為すべし〉という信念は、「奉天将軍張作■{雨/林}」(注17)「巴布札布の旗影」(注18)「公孫樹と孫逸仙」(注19)など、大陸の政治家・軍人たちを英雄として歌いあげる詩に頻繁に顕れている。
 ただ、この時期の詩作についても、国家主義的・右翼的な《思想》といえるほど、明確で確固たる世界観を見ることはできない。例えば、第一次大戦を題材に「欧洲(ママ)戦時の詩人に寄す」(注20)を著しているが、その中に次の一節がある。
見よ独のオイツケンや仏のローマン、ローランや
欧洲(ママ)の大学者思想家の血も動揺し
強者の哲学は太しく詩の色彩を帯べり
戦争は有ゆるものに宗教以上の感化を及ぼし
凡人すら詩人のように内面外部にも美を放つ
全地球は大砲弾の如くに熱変せり。
 このように、敵味方を区別せず兵士や文化人を賛美。無節操ともいえるほどの英雄賛歌である。その一方で、第一次大戦に日本が参戦した際、上記の詩に先駆けて書かれた「秋風日本刀の歌」(注21)には、反ドイツの立場が鮮明である。
記せよ大正三年の秋、日本人は剣を抜けり
強暴の独逸は戦争の余波を東方に拡げぬ
我が日の本は武の国、剣の国
日の丸の紅旗は義憤にはためきて
秋風は男児に最も壮なる消息を齎らし
雲は動けり涛は揺めき軍艦は往く
また、「青島陥落の歌」(注22)に、次の一節がある。
青島陥落て独逸国
遼東半島横奪の
悪夢さめたりや二十年
日英同盟の正約に
独逸を■{(鷹−鳥)/月}懲らす我日本
人道のために剣あり
平和を守る弾丸あり
あゝ六千万は太陽に伴従ふ。
 反ドイツとはいっても、第一次大戦への参戦は三国干渉をなしたドイツ帝国への復讐戦だといったレベルの意識にすぎない。一方で敵味方を問わず英雄を礼賛し、もう一方で反ドイツの復讐戦を礼賛することには一貫性がなく、殆ど支離滅裂といってよい。だから、花外の詩作には、漠然とした英雄崇拝、素朴なナショナリズムに基づく発想が窺えるにすぎないといえよう。
 以上のように、強圧的な者、支配する者の横暴に対する花外の批判的な眼は生涯を通じて変わることはなかったものの、作品からは明確で一貫した《思想》といえるほどのものは窺えない。結局のところ、花外としては、主観的には思想的な挫折や転向をなしたとは思っていなかったのではあるまいか。これは花外の少年詩についても共通していると考えられるので、次にこうした観点を軸に、花外の少年詩について考察していきたい。

(3)熱血の少年詩人

 花外が少年詩に筆を染めるのは、まず、史詩の分野からである。題材には、古今東西の英雄が取りあげられた。維新の英傑・戦国の武将・南朝方の忠臣・剣豪・軍人などの武人が中心である。
 初期の少年史詩の業績を集大成した作品集に、『英雄:史詩|日本男児』(注23)がある。自序は、花外の史詩の内容・傾向が端的に窺える一文であった。


二千五百有余年、曽て斯の東方の地に無数英雄の活動したりき。今吾は其が埋骨の上に立ち、昂奮霊感自ら禁じがたく、国土尚ほ燃え上る英雄熱に刺戟され、皷舞せられつゝ此を謳へり。
乞ふ少壮よ、老夫も来つて、女も倶に高く歌ひ和せずや。声は濁るも、光輝国の詩に赤き熱気含む。
嗚呼英雄の日本よ、剣の日本よ。
 明治四十四年十月秋
著者識
 上記の「序」にあるとおり、この詩集は日本武尊からはじまって西郷南洲にいたるまでの古今の英雄を概ね年代順に並べた構成になっている。次に、やや煩雑になるが、詩集中にとりあげられた人物を掲載の順にひろってみよう。
日本武尊/坂上田村麻呂/平清盛/源為朝/木曽義仲/源頼朝/源義経/北条時宗/太田道潅/上杉謙信/武田信玄/織田信長/今川義元/北条早雲/豊臣秀吉/加藤清正/黒田如水/真田幸村/木村重成/蒲生氏郷/伊達正宗/山田長政/近藤重蔵/雲井龍雄/高杉晋作/吉田松陰/藤田東湖/橋本左内/坂本龍馬/西郷南洲
 以上、30人の英雄が取りあげられた。七五調の文語定型律を基調にした構成で、動乱の時代に活躍した武人や志士たちを歌いあげている。
真男子にて快男児
東行高杉晋作は
二十九年の短生涯
目にもとまらぬ稲妻の
天馬の空を行くに似て
華々しさに血を交へ
東西の傑並ぶなく
維新の御代を振はしぬ、
多恨多情に熱烈の
詩人肌なる英雄よ。
 これは、「高杉晋作」の冒頭の一節。花外は京都の生まれであるが、長州は父の出身地であり、花外が心の故郷と考える地であった。その地の英雄であり、尊敬してやまなかった高杉晋作を熱烈に歌いあげている。この詩集全体に漲る気分が良く顕れている一節である。
 また、平清盛と木曽義仲は不忠者・乱暴者として批判的に描かれるものの、「あゝ火の如き熱英雄/焔の終りぞ美はしき」「精悍不敵義仲を/偲べば覚ゆ寒さかな」と、滅びの美学に着目。ところが、徳川家康となると、主人公として登場することはない。大阪方の武将を描く中で〈狸爺〉と書かれるばかりで、主人公として描かれることはないのである。ここに花外の反骨の精神を見る思いがする。
 この詩集の系統は「少年偉人英雄詩伝叢書」(注24)へと連なっている。叢書は全10巻を一括して刊行。1巻につきわずか14頁の小型本で、各巻ごとに詩1篇を収めているから、都合10名の英雄・武人を取りあげた。日本児童文学史上、子どもむけの伝記の叢書は数多いが、詩のみで構成する企画はきわめてユニークであった。
 各巻ごとの構成を記すと、次のとおりである。
1 日吉丸
2 加藤清正
3 牛若丸
4 楠木正行
5 大石良雄
6 二宮金次郎
7 西郷隆盛
8 広瀬中佐
9 乃木大将
10 ナポレオン
 上記の諸巻のうち、実際に確認できたのは、1・5・6・7・10の5巻だけで、他は巻末の広告による推定である。広告によると「以下逐次刊行」とあるから、さらに続刊の予定があったようだ。しかし、どうやらこの叢書は10巻だけで、残りは未完に終わったらしい。
 さて、叢書中の人物を見ると、先の『日本男児』が歴史上の英雄・武人を多く取り上げているのに比して、同時代の軍人の登用がめだつ。ほかに、二宮金次郎を取りあげたことも、対象の広がりを感じさせる。
多くの家や村のため
誠と力尽したる
報徳教の開祖なる
あつぱれ二宮尊徳翁
蒔(ママ)負ひつゝ本を読む
孝子金次郎の姿をば
少年思へ歴史の春
 これは「二宮金次郎」の末尾の一節。〈英雄・武人〉だけでなく、こうした〈偉人〉をも含めたところに、この叢書の狙いの一つがあるようだ。
 また、各巻の巻末には無署名の「本叢書出版に就て」という一文が附され、叢書刊行の趣旨が簡潔に記されている。
三千年来錬鍛へられ巖にも似たる、強固大和民族が棲むこの東海の日本帝国に在つて、其大和魂は清くも光る真珠であります。殊にその真珠の中の真珠とも名づくべき、純良なる第二の小国民に告げたいのは、現世界を通じて悪化せんとする雪と墨との時代、やゝもすれば惜しくも哀へんとする、英雄的精神の鼓吹にほかならない。又文あり華ある武士道的気魄の復興であります。
雲は健児義経が飜へしたる白旗の如く湧く日本。水は楠公菊水の如くに断へず流るゝ日本。
紅梅か赤椿のやうなわが少年の唇から唇へ鴬よりも声高らかに日夕愛誦せられたい、この詩歌。国華桜花に先だつて国民教育上、花片のごとき微意を陳じます。
 上記の一文は、花外の史詩全体にあてはまる趣旨でもあった。
 子どもむけの史詩を纏めたものには、このほか、『世界:英雄歌|熱血男子』(注25)がある。この書には14篇の詩が収められている。以下、目次から取りあげられている人物(1篇については詩のタイトル)を掲載の順に掲げておく。人物の呼称が目次と詩の本文で異なっている場合には、( )内に本文タイトル中の呼称を記した。特定の人物を取りあげていない詩には*を付して詩のタイトル自体を記した。
源義経(「牛若丸」)/楠正行/上杉謙信/豊臣秀吉(「日吉丸」)/加藤清正/大石良雄/二宮尊徳(「二宮金次郎」)/高山彦九郎/*英雄児/西郷隆盛/広瀬中佐/乃木大将/ナポレオン/日蓮上人
 このうちの10篇は「少年偉人英雄詩伝叢書」中の諸篇と同一のもののようだ。少なくとも、5篇については確実である。出版社が同一で、詩集中にあるカラーやモノクロの挿絵も、「少年偉人英雄詩伝叢書」のカラー表紙絵とモノクロの口絵を転用。裏表紙の絵は全く同じものを用いている。序文・あとがき類のように手がかりとなるものがまったくないので推定の域は出ないが、先の叢書の「以下逐次刊行」という計画が実現できなかったため、叢書の逐次刊行という計画が形を変えて結実したものらしい。
 ただ、〈世界英雄歌〉と謳っているにもかかわらず、日本の英雄以外にはナポレオンを取りあげているのみである。その他の詩も旧作を再編集しただけで新味がなく、花外の少年詩人としての盛期がもはや過ぎ去っていることを窺わせる。
 また、諸篇のうち、「英雄児」だけは史詩ではない。他の詩と性格を異にして、特定の人物を取りあげていない。この詩は後述する岡村書店版の『名作:童謡|少年の歌』に収められた「英雄の如くに」を改題し、若干の加筆修正を加えたもの。初出は1919年7月号の「少年」である。内容は花外が得意とする少年の志気を鼓舞するもので、少年たちに呼びかける形式をとっている。最後の一連を記すと、
少年の血と春の花。
日にあたゝた(ママ)かに年に濃く、
あゝ天才か秀才か、
自ら研き養ひて、
英雄色に変りゆけ。
人生時は短かきに。
見よや歴史は死者の群
現代人傑も老いたりな。
振へ帝国の少年よ。
東より今昇る日の、
紅きにペンを染めながら、
英雄讃美を歌ふかな。
というものである。先行する「英雄の如くに」は、引用部分の第7行めと第8行めの間で連を分かち、〈春の花〉が〈夏の花〉になっている。初出と『少年の歌』ではともに誤植がないのに、「英雄児」にはあり、扱いが少し粗雑な感じがする。同様に「高山彦九郎」は『少年の歌』に収められた「熱血児高山彦九郎」の改題である。若干の相違があるが、同一の作といえる。
 「上杉謙信」は『日本男児』中の同題の詩とは異なる。「日蓮上人」については不詳である。
 こうしてみると、殆どの詩が花外の著であり、共著者に名を連ねる山崎紫紅の存在感はきわめて希薄である。あるいは、落ち目の花外に名義を貸しただけなのかもしれない。
 以上のほか、花外は〈探偵長詩〉〈探偵熱血長詩〉などと称して、ルパンものまで長詩にしている。「快男児ルパン」以下6篇のルパンものを「中学世界」(注26)に連載したものがそれである。
アルセーヌ・ルパンの『虎の牙』はまさに最後まで大胆なる活躍
猛虎の牙よりも鋭く、血飽かぬ怪人物の経路を見せたり
現仏国文豪モーリス・ルブランの著は、白虎ならぬ東海へ渡り来り
日本読書界を騒がし、驚異の的となりたり
 上記は冒頭附近の一部分。以下にルパンの活躍を歌いあげている。数多いルパンものの中でも、叙事詩の形式による作品は、他に類例を見ない。古今東西の英雄・偉人の事跡を歌う叙事詩は、その対象を架空の人物にまで拡げていったのである。
 ところで、『日本近代文学研究叢書52』(注27)では、花外の少年詩に「浪漫的な詩も見られる」ことを指摘。特に「秋の笛冬の笛」(注28)を「笛の音が糸よりも細く美しく響いてくる抒情の世界が表白され、巧みな一篇である」と高く評価している。
 花外は「方々を漂浪してゐる頃は、重に昆蟲、草木、空、雲などに内心の不平を寄せて歌つてゐる」(注29)と述べているが、この手法は少年詩の分野でも引き継がれている。「雁と月」(注30)はその典型的な例であろう。
今歳の雁は尼港より、
北の方より雁は渡れり。
青き空や、青き鉛筆、
同胞の遺書の形して、
雁は悲しくも飛来り。
 ここでは、雁と月という抒情的な題材にこと寄せて、1920年の尼港事件で殺戮された同胞への思いを託している。先の「秋の笛冬の笛」にしても、「北国の少年は、氷柱を鞭とせば、熱に解くも面白し。/機到らば剣を執り、東西南北指さゝん。」と冬の風物に託して、少年の熱き思いをうたう詩であった。古今東西の英雄・偉人の事跡を歌う叙事詩のみならず、四季折々の風物に託して少年の志気を鼓舞する手法においても、花外の少年詩は特徴的であった。
 なお、花外には少数ながら少女にむけた少女詩がある。しかし、花外の詩人としての資質は、少年にむけた熱血詩にこそ、発揮され得るものであった。少年の興味・関心を巧みに掴んだ花外も、こと少女の興味・関心となると浅薄で表層的な理解にとどまっている。佐藤光一は花外が「少女画報」に寄せた少女詩について、「少女詩に新生面を拓くべく、期待をこめての花外の起用であったが、意に反して彼の作品は退嬰的であった」(注31)とし、〈当世少女の実態の把握〉〈少女心理の読みとり〉〈少女の喜怒哀楽それぞれの心の探求〉に欠けていたことを指摘する。この点について、管見を付け加えるべきことはない。

(4)『名作:童謡|少年の歌』の意義

 花外が少年詩人としての主要な業績をあげる時期は、大正初年から10年あまりの間である。花外が詩の世界で活躍した時期は、明治中頃から昭和初めにかけての長きにわたるが、概して大正期以降の評価は低いようだ。しかし、少年詩の分野においては、この10年あまりの諸篇こそを高く評価したい。そして、この時期の諸篇の多くは『名作:童話|少年の歌』に収録されている。
 この詩集が古今東西の英雄・文豪を歌った詩を多く収録している点では、花外の他の詩集と変りはない。しかし、口語・自由律の採用、〈花外調〉とか〈花外情調〉と呼ばれる独特の形式の採用、少年の境遇や少年らしい心境を題材として積極的に取り入れていることは、従来の花外の少年詩集には見られない。花外の少年詩集の代表作であるばかりではなく、少年詩の歴史からしても重要で先進的な業績であろう。
 ただ、巽聖歌は「少年詩の流れ」(注32)の中で、『少年の歌』の《悲劇》について次のような指摘をしている。

 この『少年の歌』も、「名作童謡」と銘をうたなければならないところに、大きな悲劇がある。というのは、時代が大きく転換していたからである。大正七年に童謡童話の雑誌『赤い鳥』が発刊されて、世は挙げて「童謡時代」になっていた。この『少年の歌』のどこを押しても、童謡などという音が出てこないのであるが、それをしも「名作童謡」といわねばならなかった。そこに悲劇があるのである。
 巽は北原白秋門下の童謡詩人として出発したが、白秋の提唱する自由律の〈童詩〉、すなわち少年詩の確立に、実作をとおして力を尽くした詩人である。そうした背景を念頭に上記の一文を読むと、《悲劇》という意味あいの理解は容易であろう。
 この当時、花外の少年詩をどのように呼ぶべきかということに、出版社サイドでは迷いがあったようだ。『名作:童謡|少年の歌』の〈名作童謡〉という角書きには確かに違和感を感じる。花外の少年詩は、雑誌中では〈少年史詩〉とか〈少年新詩〉、あるいは単に〈新詩〉とか〈長詩〉と、まちまちな名称が冠せられることが多かった。大正期の童心主義全盛期の感覚では、花外の少年詩の価値を正当に評価することができなかったことを物語っているのだ。
 しかし、〈少年詩〉という呼称自体は、『少年の歌』の刊行当時から既に存在している。
 日本のバイロンと称せられる。(ママ)児玉花外先生の熱情溢るゝ、少年詩集が、此度岡本書店から、『少年の歌』として、発刊されました。東方の旭日と、桜の国に生れた、わが少年のために、愛と熱とをもつて、歌つた詩である、と先生は言つて居られます。
 其も、もつとも、如何にこの詩集が、力と愛と熱の純情溢るゝものであるかは、諸君も推察出来ませう。
 殊に、その中には、嘗つて本誌に掲載した飛行少年の歌、飛行少年隊を初め、幾多諸君の熱血を湧かしめた、少年詩が含まれてゐます。売切れぬ中に早く諸君もお求め下さい。
 上記は「飛行少年」1922年8月号掲載の無署名の記事である。ここにはっきりと〈少年詩〉という呼称が用いられているが、この呼称が一般に広く認知されることはなかったようだ。しかも、この記事にいう〈少年詩〉は熱血詩を意味し、今日の概念より狭い範囲を指していることに注意しておきたい。
 非常に短いものだが、『少年の歌』の冒頭に自序が付いている。
東方の旭日と、桜の国に生れた、わが少年のために、愛と熱とをもつて歌つた詩です。
花外
 大正十一年の春
 この詩集が対象とする読者は、なによりもタイトル自体にあきらかなのだが、自序においても〈わが少年のために〉と、詩集編纂の狙いが明確に示されている。また、これまで確認できたところ、この詩集に収録された作品の初出誌は「少年」「飛行少年」「少年倶楽部」「日本少年」である。発表誌からしても、この詩集が〈青少年〉というような幅広い年齢の読者層を想定せず、はっきりと〈少年〉と呼ばれる年齢層に絞り込んでいることは明白である。
窓にうぐひす君がため、
英雄経を唱ふらん。
古今を照す書の中に、
熱血男児の躍るらん。

障子に映る幻影の、
雪のなかなる紅梅が。
諸子よ朱唇をふるはせて、
うたへ英雄の熱情詩、
寒さきびしき風の中。

大正の春、人生の春、
紅顔の子の黒瞳は、
あゝ新しき明星を。
文の人たり、剣の人、
名を天上の雲にまで。

諸子の可愛き手を懸けよ、
枝も花さく光熱の。
下駄に靴にも踏れては、
石もたちまち火を発す。
奮へ活気の好少年。

熱血男児は艱難の、
時これ大正十一年、(注33)
赤き日の前、少年も、
日本歴史をくりかへし、
記憶の絲をまきかへし、
熱血男児を歌へよや。
 これは「熱血少年の歌」と題する少年詩の全文である。『少年の歌』の冒頭に位置し、あたかも詩集全体の序詩のような役割を果たしている。初出は「少年倶楽部」1919年1月新年増刊号で、勇ましい内容を力強い調子で歌いあげ、花外の少年詩の特徴を良く現している。空前の戦争景気や大陸・南洋方面における権益の拡大を背景に、新春の風物に託して英雄豪傑の末裔である日本の少年たちの志気を鼓舞している。
 ところで、〈熱血〉という語を文学の分野で用いるようになったのは、軍事冒険小説家の宮崎一雨をもって嚆矢とするといわれる。ときの流行語となったばかりでなく、その後も長く大衆読物の分野で多用された。引用した部分に見られるように、この語は花外も好んで使用する語の一つであり、花外の少年詩の特質を端的に表している。
大和桜の小枝をば
勇む小さな手に振れば、
日本歴史は絵の如く
花か英雄か美しく、
紛々として散りかゝる。

新興国の少年が、
燃る血潮に覚えずも、
桜の枝を振り上れば、(注34)
雲はこがれて花にまで、
髪にも眉にも落ち下る。
 上記は少年詩「桜の小枝を手に」(注35)の冒頭部分。第一次大戦の戦勝に自信を深め、世界に覇を唱える日本にふさわしい熱血少年たれと、詩を通じて呼びかけている。二つの詩を見れば明らかなように、四季の風物・日本歴史の英雄・熱血少年の血潮という要素が、花外の少年詩を特徴づけている。
 『少年の歌』中の諸篇が、政治的・社会的にトピカルな内容を取りあげていることも際立った特徴の一つである。
 例えば、詩集中に「平和の白鳩」と題する詩が収録されている。次はその一節。
我日本は対独に、
先づ青島を占領し、
地中海に南洋に
軍艦を出す、血を流す
又西比利亜に出兵し、
始終正義の戦しぬ。

少年胸を躍らして、
君よ帽子を高く振れや。
見よ青空に箭の如く、
平和の使者の白鳩は、
我日本の光りとし、
西薔薇色の雲に入りたり。

平和の鐘の鳴り止めば、
アングロサクソンの勢力が、
東洋の岸に押寄せる。
他日諸君の雄壮な手に、
此高波を排き進め、
東西文明の勝敗や。
 青島戦をはじめとする第一次大戦、シベリア出兵といった大日本帝国の事跡を、高らかに歌いあげている。〈アングロサクソンの勢力が〉云々は、日米戦争への警告である。この警告については、青年むけの詩「平和来と青年進路」(注36)にも、新興著しい米国に警戒すべきだと説く部分がみられる。
米国海軍は来々年には二倍となり、
海洋に大雄飛せんとする形勢あり。
あゝ諸君よ、之を鋭き眼に如何に見るや。
海は転覆り、鉄は朽ち、砲沈まずば、
各列強軍備を解かざれば真の平和は来らず、(ママ)
 明治末から大正初期にかけ、大衆読物の世界では日米未来戦ものがしきりに書かた。日露戦争以降の日米両国間の摩擦と緊張の激化を反映したからである。花外のこの詩もこうした流れにそったものである。日本の少年詩の歴史の中で、これほどまでに政治的な題材を取りあげた例は、プロレタリア童謡を除いて、他にあまり類例がない。花外独特のものである。
 政治的な題材のほかにも、米国の飛行家アート・スミスの来日飛行(注37)その他の事件を取りあげている。
 ほかに、野球を題材に取り入れた少年詩がある。
雪や霰の飛ぶごとく、
日本全国に勇ましく、
小さな球は揚りしよ。
梅や白桃散るごとく、
東西南北に美しく、
運動服の舞ひにしよ。
 上記は「少年野球選手の歌」(注38)の冒頭の一節。花外は野球を愛し、野球を取りあげた多くの詩を残している。当時、野球が最も人気のあるスポーツだったという一般的な背景のほか、押川春浪の主宰するスポーツ団体〈天狗倶楽部〉への参加ということも考えられる。
 以上のように、『少年の歌』中の諸篇は、単純明快でわかりやすい内容、少年の興味を巧みに詩の題材に取り入れていることが少年の心情にアピールし、人気を集めたのである。 ただ、折々の話題・事件を少年詩の題材とすることは、その時々の子どもたちに迎えられることはあっても、時代を超えた価値を生み出すことは難しい。このあたりに花外の少年詩の限界を見ることができる。これは同時代に流行していた熱血小説の類にも、ジャンルを超えていえることでもある。

(5)「夕刊売の少年」をめぐって

 『社会主義詩集』では、多く貧しい庶民や労働者・農民が詩の題材に取りあげられている。中でも、集中の「新聞幼工の歌」では、一人の貧しい少年印刷工に同情と励ましの眼差しが向けられ、次のように歌いあげられている。

浮世の様を人の手に
集めて組みてうつしては
人に見すなる新聞社
日々にかはるは現世や
人も機械も忙しけれ。

塵と鉛の工場に
組みし活字をくづしつゝ
朝に勉勤む小童あり
仕事を問へば「解版」と
答へやすらむ、振り向きて

人の心と、世はいつも
労働く児等に寒けれど
冬は活字の冷たさに
凍る指頭赤からで
インキに染みて真黒なり

  (中略)

こゝも浮世か、そが中に
別くる活字の文字よりも
早く憂世の憂の字を
知りて児童ぞいと狭き
学びの校に習ふなり。
 花外は《やまなし新聞社》に記者として勤めていたことがあり、この詩はこの時の体験をもとにしたもの。後になって、花外は「闇黒」(注39)と題する一文をものし、「新聞幼工の歌」の創作にまつわる逸話を回想している。
 インキや油が着いた、種々の顔は覚えて居る。皆人の善さそうな面で、酒嗜の老職工は特に愉快な男であつたし、ゴルキーの労働時代を偲ばせる―文学好の青年も居り、また真面目腐つた近眼の植字もをつたが、一人予は憐れむべき少年に同情をしたので。
 少年は、何でも甲府の貧乏人の伜ださうだが、学校に往く児等と道筋を違へて、一年も新聞社の門を潜るのださうなが始終小さな顔の半分を墨に黒うして居た。
 予は或日、左の如き即興詩
  (中略。以下に「新聞幼工の歌」を掲載―引用者)
 之は、お前の事だ!と読んで聞かせると、地の白い雪のやうな顔を、境遇の耻ひに赤うして、小さな前歯二本の真珠を見せた瞬間、垂俛れて了つた可憐さ!!職工一同はドツト大笑を為たので、小鹿の様に物影に隠れた姿も滑稽であつた。
 もとより、「新聞幼工の歌」は少年詩として書かれたものではない。しかし、その内容においては後の少年詩「夕刊売の少年」(注40)に連なる作品であると考えられ、重要な意味をもっている。
 「夕刊売の少年」は、欧州大戦の戦況を伝える新聞を売って自活する貧しい勤労少年を題材に取りあげた少年詩である。
見れば小さな篭の中
世界動乱を入れてゐる
夕刊たゞの一銭で
欧洲(ママ)空前の大戦が
手に取る様に知れるのだ
こゝは神田の須田町よ。

学生帽子いろいろに
尻きれ着物脛を出し
下駄や草履もしほらしい
これも国家の一事業
世界戦争を報らすのだ
こゝは浅草雷門

  (中略)

海陸軍の活動を
東京は鈴の音の海
大人は号外々々と
都四方に駈けれども(注41)
辻に可愛や貧少年
自活を続け独り立つ。
 この詩は貧しい勤労少年を励ますという点において、「新聞幼工の歌」に共通する。恵まれない境遇の少年にも温かい目を向けるところに、花外らしさが感じられるといえよう。ただ、「新聞幼工の歌」では〈世はいつも/労働く児等に寒けれど〉と恵まれない少年の境遇を生みだす社会に批判的な眼がむけられている。これに対して、「夕刊売の少年」では〈これも国家の一事業/世界戦争を報らすのだ〉と、貧しい境遇にありながらも少年なりに国の為につくしているのだという観点が貫かれる。国のために尽くす少年の姿がけなげだと称賛しているのだ。このように、花外の思想的転換が二つの詩の違いに反映しているのである。
 この頃、子どもむけの雑誌では欧州大戦の戦況を伝える記事を盛んに掲載。中でも、「少年」の発行母体は時事新報社で、新聞社系の子どもむけ雑誌の草分けであり、従来から読物や教育・学習記事ばかりではなく、世界や日本の政治・経済・軍事の情勢を子どもむけにやさしく解説し、紹介することに力を入れていた。こうした分野をも視野に入れた総合雑誌を目指す編集ぶりにこの雑誌の特色があったので、第一次大戦が勃発するや、欧州や青島・南洋における戦況を伝える記事を大きくとりあげている。とりわけ日本が参戦してからは、読物の分野でもドイツのスパイ、すなわち独探を摘発する探偵ものや、出征兵士の戦場における活躍、父や兄を出征兵士として戦場に送り出す子どもたちの美談に力を入れるようになった。そういう流れの中で、「夕刊売の少年」が掲載されたことを重視しておきたい。
 ちなみに、佐藤光一は『日本の少年詩・少女詩 T 少年詩編』(注42)で、「夕刊売の少年」を評して次のように記している。
 花外が「吾が宗教とする社会主義の讃美歌にして黄金跋扈の大魔界に対する進軍歌なり」として、明治三十六年(一九〇三)に出版するやたちまち発禁になった『社会主義詩集』に示されたように、本来の彼には社会の底辺に生きる恵まれない人々に目を向ける一面があった。
  (中略)
 少年向けに書かれた詩であるから、悲憤慷慨すべきところを、まったく押えて、最終連の2行で「自活独立」をわずかに強調したに止まっているが、言外の彼の訴えを読者である少年は理解できたかどうか、疑問である。
 しかし、「夕刊売の少年」は少年の志気を鼓舞し戦争に協力する詩であって、少年の境遇を悲憤慷慨する詩ではない。素直に国家の為に微力を尽くす少年を賛美する詩、戦争美談の詩として読めば、当時の少年に理解が容易であったことは明らかだ。しかも、この詩を掲載した号の「少年」誌は《戦争号》と銘打って、欧州戦線に取材した物語や、戦況を伝える記事を多数掲載。青島戦における航空隊の活躍についても花々しく報じるなど、国威を発揚する記事で埋めつくされている。だから、こういう状況からこの詩だけが孤立し、少年の境遇への悲憤慷慨を言外に訴えているという解釈には、そもそも無理があるように思う。
 例証として、花外の少年詩「ポストと太郎」(注43)を引いておこう。
赤い巻布上に載せ 靴模様紙の背嚢や
提たサーベル光らせて 太郎は眉あげ思案顔
ポストの前に立てゐる。

  (中略)

戦争ごつこの其の隙に 太郎は手紙出しに来た
父は弾雨の裡にあり 太郎が心は火のやうに
ポストの前に現はれた。

眼鏡をかけた祖母さん 慰問袋を母さんと
電燈の下で縫つてゐる 妹愛子も唱歌して
皆々まめで暮してる。

赤い太陽に照される 朱色ポストの律義者
戦地にゐます父上に 届けてたもれ此手紙
坊が誠の血で書いた。
 このように、出征した父親に手紙を出す子どもの姿を歌いあげている。子どもの手紙は留守家族のことを心配せず、お国のために働いてくれるよう父に訴えるものにちがいない。この詩には反戦的または非戦的な気分は微塵も見られないし、銃後の子どものけなげさが強調されている。留守家族の境遇に同情する姿勢は微塵もなく、留守家族を賛美する。紛れもなく、戦争協力の詩なのである。
 史詩についても事情は同様である。
 例えば、「本能寺の跡に立ちて」は『社会主義詩集』中の一篇である。
濠はあらねど光秀が
深き恨みは幾見ぞ
梅雨冒して丹波路や
越えきし群を神や堰く
稠座の中にのゝしられ
眉間の血汐忍びんや
世に逆賊とうたはるも
吾れ光秀に情を寄す。
 上記はこの史詩の一節である。〈逆賊〉である光秀に同情的であり、花外の反骨精神が窺える。しかし、子どもむけにこうした傾向の史詩を花外が書くようなことはなかった。
 子どもむけの商業雑誌の宿命として、その時代時代の体制が要求する《良い子》の育成を雑誌編集の理念に掲げることなしに、経営の安定は望めない。少なくとも建て前としては、こうしたことを前面に掲げることが必須である。だから、「新聞幼工の歌」や「本能寺の跡に立ちて」のような傾向の詩が、当時の子どもむけの商業誌に受け入れられる余地はなかった。花外の少年詩の創作が思想的転換の後の時期に行われた必然性がここにある。

(6)口語自由律の詩と散文詩はじめに

 花外の少年詩の多くは七五調または五七調の文語・定型律の詩であるが、後年は「…いる」調の口語・自由律の詩や散文詩も創作し、多くは『名作:童謡|少年の歌』に収められた。巽聖歌はこの詩集の先進性について「花外にはまた、散文詩形式の叙事詩もある。大正十1年だから、当然のこととはいいながら、「少年の歌」をめくりながら、目を剥く思いをした。」(注44)と、極めて高い評価を与えている。当時、〈花外情調〉とか〈花外調〉と呼ばれていたこの種の作品は、あるものは散文詩、また、あるものは散文中に詩を織り込んだものというべきかもしれない。詩とも散文ともつかない独特の形式の作品として、人気があったようだ。
 現に、花外の友人で「冒険世界」の編集責任者を務めていた阿武天風は、花外の「萩焼と高杉晋作」(注45)の掲載にあたり、作品タイトルの横に「天風曰く=激越悲壮な花外調=を推■{壮/大}す」と大書しているほどである。
 この特異な形式の作品については、「中学世界」(注46)に連載された花外の作品「坂本龍馬」が解明の手がかりとなる。ここではタイトルに〈花外調〉と付されていることと、11月号連載部分の末尾に付された無署名記事に注目したい。この記事はおそらく雑誌編集者の手になるものと思われ、「花外調は児玉氏の新たに唱導し出だされたもので、つまり新浪花節である。黒字の条下は歌詞である。其のおつもりで御愛読を願ひたい」とある。ここでいう〈黒字の条下〉が、花外調における〈詩〉の部分にあたる。
 それでは、この注釈記事が付された花外調「坂本龍馬」の書きだし部分を、具体的に見てみよう。

 =我日の本の南方に、海は蒼くてその中に、珊瑚の紅き郷土あり、こは古の建依別、武を以て鳴る涛も鳴る、称して土佐の国といふ。  天保乙未六年、十1月十五日の暁に、土佐の国は高知の城下の本町に、一人の奇童が生れた。此赤坊は顔に黒子があり、背中に一塊ほどの怪毛が生へてゐた。其母は、雲龍が胎内に入るを夢みたといふ所から、父親は、愛児が他日蛟龍の如く天下に活躍なし、英雄豪傑ともなる瑞祥だらうとて、大に祝ひ賀び、夫が名を龍馬と付けた。
 =是れぞ維新の革命に、薩長の間に奔駆して、徳川幕府に政権の、奉還首尾よく遂げさせて、かの回天の大偉業、赤手に試みし風雲児、げに南海の雄坂本龍馬。  併し乍ら、之れはグツト後のお話。幼童の折の龍馬は、何としたものか薄ぼんやりの、平常は木偶のやうに無口で物を言はず、其上にいつも青洟を垂らして居る。いや未だオマケに、夜分には十歳にもなつて寝小便をやらかす。そこで、
『お隣りの八兵衛さん。あすこの坂本の子は阿呆でせうかね。図体の大柄なくせに、あんなに二本棒を垂らしてますのは?』
  (以下略)
 将に浪花節を思わせる書きぶりである。内容から見ても、上記のような〈花外調〉〈花外情調〉に見られる特有のヒロイズムを〈新浪花節〉と銘打つのは、誠に適切であったといえる。
 ところで、先述のように、花外は文語詩「坂本龍馬」を『英雄:史詩|日本男児』中に収録。花外調「坂本龍馬」の引用部分に該当する一節は、次のとおりであった。
俊傑龍馬は南国の
土佐高知市の本町に
天保六年秋十月
塩気の風に生れたり、
初め龍馬は柔鈍の
蚯蚓の如く弱くして
十四歳まで奇童子の
洟を垂れつゝ街頭に
遊びて人に揶愉はれ
泣きては家に帰り来ぬ。
 上記のような文語詩定型律の詩を浪花節の形式で書き直すという発想は、常識的には思いもよらないことだ。花外ならではの自由奔放な着想である。ただ、花外調「坂本龍馬」は「中学世界」への発表であり、この雑誌の読者層は子どもというには年齢が高すぎる。では、この花外独特の形式は、子どもむけの作品において、どのように現われているのだろうか。
 子どもに向けて書かれ、かつ〈花外調〉〈花外情調〉である作品に「桜と乃木将軍」(注47)がある。タイトルからわかるとおり、乃木将軍が学習院院長を務めたおりのエピソードの一つに取材した作品である。やや長くなるが、冒頭部分を引用しておく。
 今日も赤坂の乃木大将、太陽照らす赤坂邸、馬上で一人立出でゝ、春風に道をめぐりめぐり、花の墨田へ向はるゝ。
其の頃日、隅田川には、学習院の春の短艇競走が開催されて居て、同校の選手達は、墨田堤の仮寄宿舎に寝起をして、頻りに熱心に練習を行続けて居たのである。
    (中略)
 世に尊きは情と花、血あり涙の将軍が今し桜の下を行く。花もさすがに感ぜしや、英傑乃木の軍帽と、駒の栗毛の鬣に、はらりはらりと散かゝる。
墨田の土手から、少し坂を下りて稍奥まつた処、小やかな一構は、其当時に借入られた、学習院の仮寄宿舎であつた。而して、此処で寝泊りしては、例の春期のボートレース選手が、大いに練習を行つて居るので有つた。
 噫凡そ人生に、楽しきものよ春と青春。墨田堤の貴公子の、春を暫らく寄る舎に、暁さすや紅い太陽。
庭の樹枝に、雀が鳴いて喧ましく噪がうが、何分にも昼間は短艇の練習で以て、十二分に疲労してゐる連中の事だから、兎ても容易の時間では、ねむい目が覚めないのも無理ではない。
所へ、庭前へ、不意に立現れた人馬の影―
 『未だお寝みだね? もう起きても宜からう! 七時だ七時だ…』
各室の障子が、一つ々々引明けられて、其処に乃木大将は、例の慈愛深い目元の皺に、少し微笑を湛えて突立つて居られる。
イヤ、驚駭き周章てた学生連、てんでに蒲団を蹴つて跳ね起きたは善いが。
 皆悉なビツクリ狼狽た山兎、可愛い眼をパチクリパチクリ。
 『夫れでは諸子さん! 切角精を出すが宜しい…』
 唯一言。恁ういはれた侭。将軍は別段に、この朝寝坊の学生連に、口小言一つも吐かれずに。早やくも老院長を乗せた馬の高い影法師は、向方の土手の桜の並木の間を進んで行く。
 花外は、全く同じ素材をもとに「乃木大将」(注48)と題する定型律の文語詩を子どもむけに書いている。先に引用した「桜と乃木将軍」に対応する部分をこの詩から引用してみよう。
赤坂新坂の乃木邸を
愛馬に跨りカツカツと
笑みをたゝへて将軍は
急いで来らるゝ隅田川
其頃学習院の生徒達
ボート練習の仮寄宿
桜の蔭に建ちゐたり

最う起きて宜かろうぞ
朝日が一杯さしてゐる
かく言ひすてゝ馬の上
早や影もなし老将軍
後ろ姿を拝しつゝ
廊下に並び感激の
涙にもらひ泣く雀
 二つの詩を比較してみると、「乃木大将」は整然とした形式のもと、無駄な描写を省いてはるかに簡潔で格調高い表現に仕上げられている。こうした点からいえば、「桜と乃木将軍」が「乃木大将」に及ばないことは明らかだ。しかし、「桜と乃木将軍」のもつ荒削りで素直な感動の表出は、いかにも花外らしい。整った「乃木大将」に比べ、「桜と乃木将軍」が不思議な魅力を湛えていることも事実である。また、読者対象である子どもを考慮した時、劇的なストーリーの展開の中に乃木将軍の人柄を讃えるという著者の意図は、「乃木大将」の象徴的な表現より、「桜と乃木将軍」の方がストレートに伝わることも間違いない。そして、最小の言葉で感動を伝えるという努力をあえて放棄したところに、当時の読者である子どもたちは花外独特の魅力を新鮮なものに感じたのではあるまいか。
 「花外:情調|高田屋嘉兵衛」(注49)は、子どもむけのこのジャンルにおける花外の達成点の一つを示している。『少年の歌』収録の際の順序では最も最後に位置しているが、わざわざ最後に配したところに、この作品に対する花外の自信のありようを窺うことができる。内容は、ロシアに毅然とした態度をとった高田屋嘉兵衛の行跡を描いたもの。あくまでも史詩の体裁を崩さない中で、「義に小なるも日本国。大なる露西亜は盟約に背き、今や露と亡ぶ有様。北の氷に閉さるる、千島問題は徳川の代。茲に高田屋嘉兵衛とて、算盤はじく手と口で、北海松前に紅髭を、前に立てゝぞ談判し、暴威を懲らし、我帝国の勝利とせし、日本一の侠商あり。」と、日露戦争やロシア革命をも背景にしながら、ロシアの横暴を憤り、日本の義を讃える。社会派詩人の面目躍如たる仕上がりになっている。
 「花外:情調|少時の頼山陽」(注50)あたりになると、もはや詩の部分と散文の部分に区別をつけることすらなくなっている。次は、書き出しの一節である。
 桜さく、王政維新の曙を、作りし本は日本外史。嗚呼勤王の魁の、鐘つきは頼山陽、山陽先生の執筆を、春爛漫に偲ぶかな。
 我日本一の史家であり、而して亦詩人である所の頼山陽先生は、其の幼名を久太郎といはれてゐた。
 其号の由来、赤いやうな山陽道は、有名な瀬戸内海が光つて連続いてゐる。
   (以下略)
 融合が限りなく進んで、ほぼ散文詩といって良い形態になっているのだ。花外調「坂本龍馬」の例でわかるように、花外のこのジャンルの作品は、初出時には詩の部分は太い活字、散文の部分は普通の活字で組まれることが多い。が、『少年の歌』に収録する際には、この区別をつけなくなっているので、初出時からの数年間に花外の意識が変化していることがわかる。「少時の頼山陽」はこうした意識の変化を示す例といえる。
 一方、子どもむけの散文の分野については、花外は殆ど業績といえるほどのものを残していない。その中で、「熱血:小説|渦巻龍夫」は花外のものとしては珍しい冒険小説である。「飛行少年」誌の1922年5月号から連載開始。10月号まで掲載されていたのは確実だが、連載終了の時期は確認できなかった。内容は15歳になる渦巻龍夫という少年が日本刀を携え、朝鮮半島を経て満州・蒙古に進み、冒険を繰り広げるという荒唐無稽ぶり。満州では長槍を振るう巨漢の馬賊を打ち負かし、改心・心服させる。龍夫少年が大陸に渡る動機らしものは何もなく、ただ漠然と冒険のための冒険にでかけている。「吾願くば一生に只一度/大陸に馬賊の群に入り/支那名物の高梁の間に出没し/馬上に長き槍を揮ひたし」(注51)というあこがれだけに寄りかかっているのだ。読者の興味を引くようなストーリーの起伏も存在なく、支離滅裂といってよい。当時の冒険小説の水準からみても、二流三流の出来である。
 「お伽:小説|雲雀のやうに」(注52)は、花外の作品中では珍しい童話風の散文である。主人公の少年の太郎は、鳥屋の店先で篭の中のヒバリを見て、生まれて始めてヒバリという鳥を知った。やがて四月になった頃、太郎は学校の友だちを誘い合わせて、桜草を見るため東京の近郊にでかけると、大空に自由に羽ばたくヒバリを見て感動を覚える。野原のヒバリに託した子どもの心情を通じて、〈大胆〉〈自由〉〈活発〉への漠然とした憧れの気分を描いている。当時流行し始めた〈童話〉という文学の新しい形式をまねた試みであろう。タイトルに〈お伽小説〉とあることから、明治期の〈お伽噺〉とは一線を画そうとする意識が感じられる。小川未明ばりの仕上がりになっている。しかし、「青い空に、晴れ晴れした美しい雲雀の音楽、紫の桜草に勇ましい少年の唱歌と軍歌……」という締めくくりの取り合わせは、童話としては珍妙で成功していない。

 少女小説には、京都清水坂の人形師の娘を主人公に描く「人形の夢」(注53)がある。ストーリーはきわめて単純。継母に虐待される少女に同情して人形が涙を流すというばかりだ。通俗的な出来で、少女詩の場合と同じく、少女の気持ちを掴み得る作品ではない。
 このほか、花外は「少年」と「少年倶楽部」に歴史ものの散文を書いている。「北越の英雄不識庵」(注54)は上杉謙信の幼年時代に、「雄壮:無比|勇士先陣の争い」(注55)は宇治川合戦の先陣争いに、各々、材を求めたもの。「驍勇:無雙|荒木又右衛門」(注56)では、道場に雀が集まるのを「なるほど竹刀イヤ竹に雀は集まる筈だ」と笑いをとる。また、「鬼玄丹の坊主首は空天へ二丈ばかりもフツ飛び上つた、さうして雲に喰ひついた。後の世の入道雲とは此から初まりだとは僕は何が何だか知らぬ」という表現も見られる。これらは講談の手法をそのまま借りたものだ。この系列の散文は「天下:豪傑|宮本武蔵」(注57)、「日本:武勇|岩見重太郎」(注58)と、掲載が続いている。一連の散文は、大衆児童文学の分野にいう講談ものに位置づけられようが、大仰な表現やナンセンスなくすぐりで子どもの興味を繋ごうとするだけで、凡庸な出来に終わっている。ただ、「北越の英雄不識庵」と「岩見重太郎」の末尾に、それぞれの主人公を歌う詩の一部が引用掲載されているのは、やがて〈花外調〉〈花外情調〉の発想に展開していくことを予感させる。内容においても、〈新浪花節〉たる〈花外調〉〈花外情調〉の先駆けに位置づけられ得るのである。

(7)おわりに

 創作の中心を少年詩の分野に移すようになる前、花外は自らの詩作を振り返って、次のような回想を書いている。

 僕には、詩を作るに立到つた動機とか、衝動とかいふものはない。また当時の詩といふものは尠しも手に取つて見たことがなかつた。従つて他人の感化とか模倣とかいふことはない。たゞ自分のが(ママ)情の行く処に任せ大胆に、自由に、奔放に諧調などは全然度外視し、欲するまゝに放逸に歌ふ事が感(ママ)出来た。外形は如斯く蕪雑なものであつたが、感情のリズムに至つては今より寧ろ其頃の作に於て認める事が出来る。(注59)
 回想中にある〈大胆〉〈自由〉〈奔放〉〈放逸〉という花外の特質は、少年詩の分野に創作の中心を移してからも、変わるところはなかった。花外の特質が独特の作風の少年詩を生みだしているのだ。すなわち、内容においては熱血詩というべき叙事詩群、形式においては花外調とか花外情調と呼ばれる独特の散文詩群である。花外の少年詩の業績は時代を一歩先んじる試みであった。少年詩の開拓者としてその名を記憶されるべきであろう。
 しかし、花外が少年詩を多作した時期は、北原白秋のいう〈童心童語の歌謡〉、西条八十のいう〈芸術的内容を持つた唱歌〉たる童謡の全盛期であった。読者である子どもたちの支持は受けながらも、花外に続く資質を持った詩人が続いて現われることはなかった。
 少年詩が再び意識的に創作されるのは、ほぼ昭和期に入ってからであった。白秋の〈童詩〉の提唱とそれに続く白秋門下の巽聖歌・与田凖一らの活躍や、ユニークな少年詩の分野を開拓したサトウハチローらの活躍を待たねばならない。
(1997.1.31)

(注1)児童文学者協会編『児童文学入門』(1957年9月18日 牧書店)
(注2)彌吉菅一・畑島喜久生編 1996年6月18日 教育出版センター
(注3)1922年4月1日 岡村書店
(注4)1996〜7年 大空社
(注5)大阪国際児童文学館編『日本児童文学大事典』(1993年10月31日 大日本図書)
(注6)「情熱的、夢幻的の学生」(「中学世界」1918年1月号)
(注7)「明治大正:痛快熱血|桂月と春浪」(「中学世界」1925年11月号/連載の第2回め。)
(注8)「欧州戦時の詩人に寄す」(「冒険世界」1916年1月号)
(注9)「飛行少年」1922年8月号
(注10)第5号 1898年8月10日
(注11)児玉花外『社会主義詩集』(1949年11月5日 日本評論社)中の「解題」
(注12)「秀才文壇」1909年8月号
(注13)単著としては第一詩集にあたる。1903年に社会主義図書部・金尾文淵堂から刊行予定であったが、発禁処分により刊行はできなかった。その後、岡野他家夫編『社会主義詩集』(1949年11月5日 日本評論社)として復元刊行された。
(注14)1976年12月1日 白藤書店
(注15)「冒険世界」1918年1月号
(注16)「冒険世界」1919年1月号
(注17)「冒険世界」1916年6月号
(注18)「冒険世界」1916年11月号
(注19)「冒険世界」1916年12月号
(注20)「太陽」1915年4月号
(注21)「学生」1914年10月号
(注22)「冒険世界」1915年1月号
(注23)1911年12月5日 実業之日本社
(注24)1926年1月28日 朝日書房
(注25)山崎紫紅との共著 1927年3月15日
(注26)1925年1月号〜8月号に連載。
(注27)昭和女子大学 1981年5月31日
(注28)『少年の歌』に収録。
(注29)「動機はない」(書誌は注12)
(注30)『少年の歌』に収録。
(注31)『日本の少年詩・少女詩 U 少女詩編』(1994年9月21日 大空社)
(注32)初出は「時これ大正八年の、」
(注33)初出は「桜の枝を振り上げば、」
(注34)『少年の歌』に収録。初出は「少年」1919年5月号
(注35)『児童文学入門』(書誌は注1)
(注36)注16に同じ。
(注37)「スミス君歓迎の歌」
(注38)初出は「少年」1921年3月号
(注39)「太陽」1908年5月号
(注40)『少年の歌』に収録。初出は「少年」1914年10月号
(注41)初出は「都四方を駈けれども」
(注42)1994年9月21日 大空社
(注43)「少年世界」1914年12月号
(注44)文学教育基礎講座第1巻『児童文学とはどんなものか』国分一太郎他編 1957年10月 明治図書出版
(注45)「冒険世界」1915年9月号
(注46)1915年11月〜12月号
(注47)『少年の歌』に収録。
(注48)『熱血男子』に収録。
(注49)「少年倶楽部」1918年1月号
(注50)「少年倶楽部」1920年4月号 『少年の歌』に収録。
(注51)「奉天将軍張作■{雨/林}」(書誌は注17)
(注52)「少年」1915年3月
(注53)「少女世界」1911年8月号
(注54)「少年」1913年1月号
(注55)「少年倶楽部」1914年11月号
(注56)「荒木又:右衛門|伊賀越敵討の巻」と改題。「少年倶楽部」1914年12月〜1915年1月号
(注57)「少年倶楽部」1915年2月号
(注58)「少年倶楽部」1915年5月号
(注59)「動機はない」(書誌は注12)