インターネット版

児童文学資料研究
No.100

発行日 2005年5月15日


目  次


「学校劇の問題」大藤幹夫
北村大榮『童話絵話の作方・話し方』藤本芳則
林古渓「浜辺の歌」考(1)上田信道
創刊100号に思う同 人

「学校劇の問題」

  「芸術教育」大正13年10月1日
  モナス 発行

 ここに言う「学校劇の問題」とは、いわゆる「学校劇禁止の訓令」(冨田博之著『日本児童演劇史』昭和51年、東京書籍)をめぐる所論である。
 その経緯を「季刊 少年演劇」(昭和44年10月号)所収の木戸若雄の論稿「学校劇禁止訓令の前後」に拠って見ると、大正13年6月、文相に就任した岡田良平は、同年八月の地方長官会議の席上、文部行政について訓辞し、その中で、学校劇について、「学校に於て脂粉を施し仮装を為して劇的動作を演ぜしめ、公衆の観覧に供するが如きは、質実剛健の民風を作興する途にあらざるは論を待ず。当局者の深く思を致さんことを望む。」と語り、ついで直轄学校長(当時の官立学校長)あてに、文部次官をして九月三日付でつぎの通牒を出させた。「語学練習等ニ於イテ脂粉ヲ施シ、演劇興行ニ近キ行ヲ為スモノ有之趣、此ノ如キハ固ヨリ訓令ノ精神ニ照ラシ不可然義ニツキ、爾今貴校ニ於テモ十分御監督ノ上万事遺憾ナキヲ期セラレ度、依而此段通牒ス」
 この訓令が「学校劇禁止令」と受け止められている。が、木戸も書くように「文字面に表われた意味を正確にとらえると、これは「禁止」にはならない。」しかし「現実的には、禁止に等しい効力を及ぼしたことも否定できない。」これ以後「学校劇はわずかに成城学園だけに命脈を保つような情勢になった。」
 当時、演劇教育に情熱を傾けていた宮沢賢治にもこの「訓令」は何らかの影響を与えたに違いない。「賢治の演劇への熱は断ち切れてしまう」(『宮沢賢治 エピソード313』宮沢賢治を愛する会編、扶桑社、1996年)とも言われる。

 さて「芸術教育」(大正13年10月号。先の冨田の著書には7月号とある。)は「学校劇は質実剛健の気風に反するか」の見出しで「右に対する文相及諸家の意見」を小見出しに以下の人たちの論を掲載している。

「絶対に禁止した訳ではない」文部大臣 岡田良平
「訓示を常識的に解釈せよ」文学博士 沢柳政太郎
「極めて曖昧な言葉使ひだ」野口援太郎)
「文相から済度せよ」巌谷小波
「数年前の実際に戻るは差支なからう」樋口長市
「学校劇に対する訓示に就て」龍山義亮
「文相の訓辞は不徹底」小寺融吉
「学校劇について」千葉春雄
「学校劇は質実剛健の風を作興する為めに起つたものだのに」長尾豊
「劇で亡びる国はない」赤井米吉
「旧式政治家の犠牲か」為藤五郎
 冨田は、当時の「教育界全体の反応は必ずしも反発するものばかりでなく」として、「この禁止令的訓令は確かに時弊に適当したものであった」(「教育時論」に掲載された春夢軒主人の「大正十三年教育回顧」大正13年12月25日号)意見が「大勢を占めていたといってよい。」と書くが、冨田と同じ資料を紹介した木戸は「大部分は文相の無理解をつくもので、なかでも最大最強の反発は、教育擁護同盟によって打ち出されたそれであった。」と書いている。「芸術教育」所収の意見も木戸の見解を裏付けるものが多い。
 まず文相の意見を少し詳しく見たい。「あの訓示の趣旨は、つまり「劇」といふ言葉に重きを置いたものであつて、決して学校劇を絶対的に禁止した意味ではない。」と弁明がある。ここで言われる「劇」とは「脂白粉をつけ、衣裳や背景を立派に飾つて公衆に見せようとする」ものである。「仮装をやめて、単に所作や言葉をかへて劇的動作を教室でやらせるの迄禁止する意味ではない。」「家庭では宜しいが学校では悪いといふ様な風に、学校と家庭をを形式的に区別した訳ではない。」とある。「帰する処は教師そのものを向上せしめねばならぬから、何よりも先ず師範教育の改革を図りたいと思つてゐる。」
 ならばなぜそれが「学校劇」が対象になるのかが語られていない。
 文相を除く10人の論者のうち唯一文相の発言にはっきり賛意を表明したのが、芸術教育会会長の沢柳政太郎ひとりである。「あの訓示をそのまヽおとなしく常識的に解釈すれば、決して禁止の意味にも何もなつて居はしない。」「一体教育家程常識のないものはない。(略)宜しく教育者たるものはもう少し平静な態度で訓辞訓令の趣旨を了解してほしいと思ふ。」
 文相の訓令内容について「文相が劇に対する理解を持たない為」(野口援太郎)、「歴史的仮名遣を復旧以上の文化の逆転である。」(樋口長市)や「小さい反感が起りました。」と言う千葉春雄は「余りにも皮相なところにのみ目をつけてるといふやうな気がします。」と不満を表す意見が続く。長尾豊は、西洋の学校劇は「いはゆる質実剛健の民風を作興するために起つたものだと思ひます。それがわが国に移された時に、却つて軽佻浮華だか何だかその反対の風を助長するものとなるといふことは考えて見れば不思議で不思議でなりません。」と皮肉っている。
 文相の訓辞の言葉が「曖昧」としたのが野口である。他にも「不徹底」(小寺融吉)「文相の質実とは如何なものか一応説明してもらいたい」(赤井米吉)「文句の具合は必ずしも悉く賛成するものではない。物足らぬ点のあることを感ずる」(龍山義亮)と言う声もある。「突込まれた時にはいくらでも云ひ開きの出来る様な狡猾な言ひ表し方である。大臣として実に不都合なものである。」(野口)とあるが、実はこれこそ官僚的答弁の典型と思われる。「日本の旧式政治家の思想の根底に、尚征服欲望、侵略意識、軍国主義等の思想が根強く残つて居る証拠に帰したい」(為藤五郎)との見方もある。
 巌谷小波の発言がおもしろい。「あの訓旨は、必しも反対すべきではないとしても、只時と場合との、その宜しきを得なかつたのを、甚だ遺憾とする」とある。「憾むらくは、その訓旨があまりに堂々と、真正面から槌の如く振り下ろされたために、実際文相自身すら予期しない程度まで、強く響き過ぎた観のある事だ。」「真の時代に適した文相であつたら、よくその幣を咎めるにしても、あんな不器用な云ひ方はしまい。」ある人の言辞として「昔なら知らぬ事、もう大正も十三年の今日、文部大臣の訓旨なぞが、それほど効果のあるものではないから、案じる程の事もあるまい」を紹介して「此言にも、一面の真理が無いでもない。」「芸術教育を普及するには、まづ文相から済度してかヽらねばならぬ。」
 赤井は「質実剛健の民風を作興したいなら、人々の射幸心をそヽつて安い利子で人民の金をまきあげる様な債券をよすのだ。馬の改良の為に人心を腐らす様なことをよすのだ。或る人は働いても働いても貧乏しなければならず。或人は眠つてゐても遊んでゐても、いくらつかつても費いきれない程に金が入つて来る様な社会状態を止めるのだ。劇で亡びる国はない。文相の猛省を促す。」というような厳しい意見を寄せている。
 「児童劇の名づけ親」とされる坪内逍遥の「児童劇におしろいを用ふる必要はない。亦、公衆に見せる必要もない。児童劇は児童同志の戯れであらねばならぬ。」とする新聞談話を併載している。

(大藤幹夫)



『童話絵話の作方・話し方』

北村大榮
香風閣書房
昭和10年6月20日発行

 四六判、242頁、布装上製、函入、1円50銭。附録に「実演童話集」を収める。著者北村は、駒澤大学に学び、東京の幼稚園で園長をつとめた。本書のほか『お釈迦さま』『観音さま』『家庭禅話』『幼稚園を中心としての曹洞禅の普及』など何冊かの著書がある。
 全体は、「童話絵話の理論」と「実演童話之部」から成っている。ただし、童話絵話の理論部分は32頁、その具体例二作品が42頁、残り168頁は、実演童話である。理論編は、約八分の一強の分量しかない。しかし、絵話についてのまとまった当代の文献は、ほとんど管見に入らないので、とりあげておきたい(本書以前に『日曜学校に応用したる絵噺と人形芝居』〈内山憲堂著、法蔵館、昭2.7〉があるが未見)。
 昭和になって平絵による街頭紙芝居の隆盛を背景に、高橋五山による「幼稚園紙芝居」が刊行されたのは、本書刊行と同じ昭和10年のことであった。紙芝居は、幼稚園などの保育現場に普及し、現在にいたっている。しかし、現在では紙芝居ほどポピュラーではないが、絵とお話が一体化したもうひとつのジャンルとして、絵話があった。念のために付言すると、本書の書名は、「童話」と「絵話」の意ではなく、「童話絵話」(どうわえばなし)と一語に解する。絵をみせながら話をするのである。本書は、その絵話の理論を述べたものである。(以下、「童話絵話」を「絵話」と略称)
 岸辺福雄の「序文」を付すが、そこで岸辺は、お伽噺の口演は、「言葉を以て絵を画」くのが理想であるが、不可能であるとすれば、便法を見出さねばならないと述べたあと、「『絵ばなし』それが、其の便法である。老生は三十年以前に用ひた事があつた」と回想している。岸辺は、明治38年頃すでに絵話を試みていたのである。しかし、「完全に絵画に無能な自分は、残念ながら終に中止するの已むなきに至つた」とあって絵話制作は、継続しなかった。紙芝居がまがりなりにも画家の手になったのに対し、絵話は、素人が絵筆を握って描くところに困難があった。北村も画家ではないが、幾多の体験から岸辺の挫折を乗り越える道を提示しようとしたもので、「老生の如きも亦大に学ぶ処があつた。それと共に、直に昔に返つて絵ばなしの再起を思ひ立つたほどである」と、儀礼的な性格の文章にしてはややオーバーな賛辞をおくっている。
 「童話絵話の理論」は、次のような項目で構成されている。「はしがき」「童話絵話とは何か」(目次では「童話絵話」が「実演絵話」となっている)「童話絵話の目的」「絵話の起原と沿革」「童話絵話と児童映画」「児童は童話と絵話と何れを好むか」「童話絵話の利益」「童話絵話は童話童話よりむづかしいか」「童話絵話に用ふべき話の種類」「童話絵話の作り方」「実演する迄の諸準備」「実演上の注意」「絵話の実例」。
 北村は、「はしがき」で執筆の動機を、しばしば絵話について質問されるたびに、「今迄に童話絵ばなしに就いての著書がない為に、自分の経験談をして居つた」が、今回「斯道の研究者や、幼児の教育に従事される人々の為に参考とし手引としたい」ためと述べている。絵話に関心を寄せる人々が少なからずいたことがわかる。北村自身、絵話に興味を抱いたのは、大正10年頃に平岡信敏(東京市視学)の絵話に接したことによるという。
 『日本口演童話史』には、絵話の起原について二説紹介されている。ひとつは、明治40年に服部愿が演じたというもので、もう一つは、岸辺福雄が明治36年に開設した東洋幼稚園のために絵話を始めたという説(「絵話の起原と沿革」に記述されている)である。これは、「序文」で岸辺自身の述べているところと照応する。岸辺自身が絵話を制作することはなかったが、絵話そのものまで中止したわけではなかったらしい。鏑木清方の門下や小林古径の描いた絵の他に、大震災までに40余りの絵があったという岸辺の言葉が紹介されている。これらの話は、主に小波の世界お伽噺からとっていたという。口演に適していたと同時に、絵画化も容易な作品と判断されていたからであろう。
 絵話の二大家として、後藤春樹、前出の平岡信敏の名前があがっている。後藤は、絵を一枚ずつ捲り上げるスタイルの絵話を最初に考案した人物とのこと。
 映画と絵話との比較では、それぞれの長所欠点が述べられているが、ここに記すほどのことでもない。ただどういうわけか、紙芝居との比較論がない。紙芝居は、まだ教育的メディアとしての地位をしめていなかったのだろうか。
 絵話は、通常の口演童話よりも子どもに歓迎されることや、幼稚園児ばかりでなく小学校上級生や大人にも興味を抱かせることが述べられる。
 技術的な事項も少し紹介しておく。
 まず、話は、口演童話と同じで起承転結のはっきりしたものが望ましいのはもちろんだが、比較的変化の多いものを選び、絵画として表現しやすいものを選ぶこと。また、クレヨンや墨絵よりも水彩画がもっとも望ましい。絵は図案的で、形を明確にし、類似した絵を避けて変化に富んだ絵を描くこと、等が説かれている。おおむね紙芝居の制作と大差ないが、絵に仕掛け(トリック)を施すことに積極的なところが、若干異なるようである。絵話は、紙を重ねて上部を綴じ、上に捲っていくというスタイルなので、舞台に入れて抜くスタイルの紙芝居よりも仕掛けを作りやすく演じるのも容易だからであろう。仕掛けは、平面的な絵に、立体的な動きを加えて観客の興味をひきつけようとするものであるが、多用しすぎると弊害もうまれると説く。
 絵話のスタイルには捲るものの他に、巻取式のものも紹介されている。紙芝居が分離された紙を一枚ずつ抜いて演じるのに対し、巻物のように繋ぎ合わせ、フィルムを巻き取るようにして上演するというものである。
 絵話の例として北村が何度も上演した二作品、「キンノハト」「カンチヤン」が収録されている。前者は、絵も収められていて、絵話のイメージをつかみやすい。いずれも教訓性の強いもので、特に言及するまでもない。
 附録の「実演童話集」は、実際に上演して反響のあったものを収録したという。絵話の材料としてほしいという希望を述べている。

(藤本芳則)



林古渓「浜辺の歌」考(1)

上田信道


 林古渓(1875〜1947)は、本名竹次郎。歌人・国漢文学者。東京・神田生まれで、哲学館卒。旧制松山高校講師や立正大学教授などを歴任し、詩人としては「浜辺の歌」の作詞で広く知られている。この唄の作曲は成田為三である。
 本稿を起こすにあたって、まず、堀内敬三・井上武士編『日本唱歌集』(1958 岩波文庫)によって、この唄の歌詞(ルビを含めて原文のまま)を確認しておく。

一 あした浜辺(はまべ)を さまよえば、
(むかし)のことぞ しのばるる。
(かぜ)の音(おと)よ、雲のさまよ、
よする波(なみ)も かいの色(いろ)も。
二 ゆうべ浜辺(はまべ)を もとおれば、
(むかし)の人ぞ、忍(しの)ばるる。
(よ)する波(なみ)よ、かえす波(なみ)よ。
(つき)の色(いろ)も、星(ほし)のかげも。
 いまでは、これを歌詞の決定版として歌うことが多いようだ。
 しかし、この唄が広く世に歌われるようになったのは、いわゆるセノオ楽譜版『浜辺の歌』の刊行以降のことである。これは1918(大7)年10月1日の発行で、発行所はセノオ音楽出版社。表紙画は竹久夢二で、巻末の奥付頁にはタイトルの上に小さく「独唱」とある。
 次に、セノオ楽譜版の歌詞(ルビ・仮名遣いは原文のまま、漢字は新字体)を紹介する。
一、あした浜辺をさまよへば
昔のことぞしのばるゝ。
風よ音よ、雲のさまよ、
よする波もかひの色も。
二、ゆふべ浜辺をもとほれば、
昔の人ぞ、忍ばるゝ。
寄する波よ、かへす波よ、
月の色も、星のかげも。
三、はやちたちまち波を吹き、
赤裳(あかも)のすそぞぬれもせじ。
やみし我はすべていえて、
浜辺の真砂(まさご)まなごいまは。
 セノオ楽譜版と岩波文庫版の最も大きなちがいは、第三節の存在である。岩波文庫版の註釈によると、「この作品はもと三節のものとして作曲されたが、作詞者は第三節が原作の趣を失っているものとして、同節の歌われることを望まなかった。原作は多分、四節から成り立っていたが、作詞者自身、はやくその手控えを失い、再案に至らなかった。以上、著作権者からの申出に従って、ここには第一、第二節の歌詞のみを掲げた」という。
 また、鮎川哲也の『唱歌のふるさと 旅愁』(1993 音楽之友社)に、古渓の子息にあたる林大へのインタビューが掲載されている。これによると、この唄が初出雑誌に発表されたとき、「歌詞の三番の前半と四番の後半がくっつけられていまして、これでは意味がとおらん、とおやじは言ってました。後にセノオ楽譜から出版されたのですが、版権なんかは無視された時代ですから、おやじのもとには連絡もきません。いつだったかおやじに、思い出したらどうかと言いましたら、忘れちゃったよ、という返事でしたがね」ということである。
 そこで、問題の第三節である。
 「はやち」ははやて疾風のことだから「はやちたちまち波を吹き」は《疾風が波のしぶきを吹きあげて》と解釈できる。しかし、それでは「赤裳のすそぞぬれもせじ」の意味がわからない。《赤い裳のすそが濡れない》と続くのはどう考えても変だ。また、「やみし我はすべていえて」では《病気になったわたしはすべて癒って》という意味になるが、なぜ《すべて》なのかわけがわからない。
 そのほかにも、セノオ楽譜版の第一節の「風よ音よ」を、岩波文庫版では「風の音よ」に変えている。この改稿によって、「あした浜辺を さまよえば」と「ゆうべ浜辺を もとおれば」、「昔のことぞ しのばるる」と「昔の人ぞ、忍ばるる」、「風の音よ、雲のさまよ」と「寄する波よ、かえす波よ」、「よする波も かいの色も」と「月の色も、星のかげも」と、第一節と第二節の歌詞が完璧な対句表現に直されたのである。
 これまでのべてきたように、セノオ楽譜版の刊行にあたって作詞者の意向はまったく反映されていない。それは巻末の奥付頁に掲げられた刊行の辞(ルビ省略、仮名遣いは原文のまま、漢字は新字体)からも裏づけられる。
本曲の作曲者たる成田為三君は、山田耕作(ママ)氏の門下で作曲にたけた人です。それで、こうした作曲の一二を世に問ふて見たいとの希望から、此処に刊行いたす次第となったのです。私は、今、成田為三君を我が楽界に紹介するの機会を得た事を喜びと致します(ママ)
大正七年九月  妹尾幸陽 
 このように、作曲者の成田為三の希望によって楽譜を出版したことを大書しておきながら、作詞者の林古渓についてはひとことの言及もないのである。
 なるほど、こうしてみるとセノオ楽譜版は作詞者の意志を無視したばかりか内容も支離滅裂で、古渓がこの楽譜を否定したのは当然だと思われる。しかし、「浜辺の歌」の改稿をめぐる経緯は、実はそれだけで片づくほど単純なものではない。

(未完)




創刊100号に思う


  • ささやかな冊子が創刊以来一〇〇号を迎えました。ここまで続けてこられたのは一に同人の支えにあります。一九八〇年八月十五日に創刊して以来二十五年を閲しました。その間に目を留めてくださる方によって一九九九年には、日本児童文学学会より「特別賞」を授与されました。同人への大きな励ましになりました。児童文学・児童文化の論文の「落穂拾い」の形で始めたものがこうして重ねて見るとひとつの形になります。児童文学研究に少しでも寄与できればと願っています。今後ともご支援をお願いいたします。(大藤幹夫)

  • 埋もれた資料の埃を払い、その形を確かめるのが面白くて、一〇〇号を迎えました。とはいえ、ときおり耳にし、目にする読者諸氏のことばがなければ、ここまで続けることはできなかったと思います。今後は、埋もれた資料から垣間見えた景色を丁寧にスケッチしなければと思っていますが、いましばらく、資料の紹介、整理もつづけてみようと思います。今後もどこまで続くかわかりませんが、よろしくお願いいたします。(藤本芳則)

  • 児童文学史研究の基本は、資料を発掘し、整理し、評価することの積み重ねにあると思います。本誌が創刊されて以来二十五年、少しは児童文学史研究の進展に寄与できましたでしょうか。初めはほんのささいな試みではあっても、それを継続することの大切さを日々教えられています。(上田信道)

著 書 紹 介

同人の著書が相次いで刊行されました。この機会にご購読いただけましたら幸いです。
  • メディアと童謡をめぐる《ふしぎ》を解き明かす
    上田信道著『名作童謡ふしぎ物語』
      2005五年1月20日発行 創元社
      四六判 230頁 1,500円(税別)

  • 日本の幼年童話の流れを振り返る
    大藤幹夫・藤本芳則編『展望日本の幼年童話』
      2005年2月21日発行 双文社出版
      A5判 167頁 1,800円(税別)