インターネット版

児童文学資料研究
No.102

発行日 2005年11月15日


目  次


『児童文化 上』収録論文紹介(2)大藤幹夫
国書刊行会版『西條八十全集』への疑問(1)上田信道
『実演の仕方と心得(実演仏教童話全集第九巻)』(2)藤本芳則

『児童文化 上』収録論文紹介(2)

  西村書店 発行
  昭和16年2月25日 発行

 前号で取り上げたのは、「総論」に継ぐ「各論」の第一章になる「児童と図書」であった。今回紹介するのは第二章の「児童と文学」にあたる。
 まず坪田譲治の表題は「児童文学」である。(以下ゴシックは見出し語)「児童文学とは」「成人が制作して、児童に与へる童話や童謡のこと」という。
 「現代日本の児童文学を知るためには、藤村、未明、広介、宮沢賢治等の童話、白秋の童謡等に就て、直接御覧になるのが何よりです。」と付言している。ここに宮沢賢治をあげていることに注目したい。

児童のための文学でありさへすれば、私はこれを児童文学と称すべきものと考へます。児童のためと言ふことは、内容表現共に児童に適するもの、そして児童に解るもの、そしてこれが文学であること、この三つが必要の条件と考へます。
 「児童文学は 文学の基本形式」。時・所・人物とその行動を描く文学の公理に近いのが児童文学である、と説く。
 「児童文学には世界がなければならない」。「作品といふのは、どのやうに小さいものでも、それを取りまく作者の世界がなければならないといふのであります。又、その正確なる部分でなければならないと思ふのであります。」
 「作品と世界の解釈」。「作品はこの世界を有機体として写すといふこと、それを生きた姿で作品に変へるといふことと、この世界に対する解釈がなければならないといふことが言はれるのであります。」
 「児童は人生を知りたがつてゐる」。子どもは、「この世界を矢も楯もたまらぬほど知りたがつてゐる(略)つまり認識したがつてゐるのであります。」「だから童話の第一の役目はその児童の要求に応ずるといふことであります。」「何より美しいこの世の姿を見せてやらなければなりません。そしてこの世の生活に正しい喜びを感じさせて安心させてやらなければなりません。」
 「文学とは何ぞや」。「文学、殊に児童文学は玩具である。」「玩具の世界に於ては、彼等(注・子ども)はこの世の征服者であります。超人のやうな力をもち、神のやうに万能であります。これが文学に於ても同じことが言はれないでありませうか。」「実生活に於ては、彼等が体験し能はざるところを、文学の世界で体験するのであります。」しかし、「玩具は死物でありますが、文学は生物である」。「一人や二人では何百年を費やしても味ふことのことの出来ない人生を味ひ、また凡庸なものでは到達することの出来ない人生の高き深き、或は広き鋭き境地に達することが出来るのであります。」「文字による人生の実験教育、これが児童文学といふものではないかと、私は考へます。」を結論としている。
 次は槙本楠郎の「日本児童文学運動概説」である。以下にその文言を抜書きしてみる。
 明治二十四年一月に刊行された巌谷小波の『こがね丸』は「日本最初の文芸家の創作した「児童文学」と認められたものだつた。」この「少年文学」シリーズは「川上眉山の『宝の山』以外は、偉人物語または非芸術的な単なる少年読物にすぎなかつた。」「しかしかうしたシリーズに、当時の少壮作家が多数参加したといふことは、それ自体一つの児童文学運動であつたし、また児童文化運動の上に新しい機運を醸成する結果となつた。」
 児童のための歌謡と劇は非常に発達が遅れた。「ホトトギス」誌に発表された漱石の作品や野口雨情が、詩集『枯草』の中に入れた「雛祭り」などは、「口語調での先駆に過ぎなく、文語調のものは有本芳水によつて完成したとも云へる。」
 劇は、明治二十五年に霞城山人(中川重麗)が、「少年狂言二十五番」と銘うつて『太郎冠者』を出版したのが「日本で最初の児童劇集」であるが、「いはゆる「茶番」であり「狂言」であつた。」明治三十六年十月、日本最初の「子供のための芝居」として小波の脚色で彼の翻案お伽噺『狐の裁判』『浮かれ胡弓』が川上音次郎、貞奴一座によって公演された。目新しいこともあって「相当の好評を博し」たが、その後のお伽芝居とか少女対話というものは、「内容が貧弱なため程なく公演されなくなつてしまつた。」
日本の児童文学の発達の後を辿つて観れば、明治維新が起点となつてゐる。そして児童文化、児童教育運動の中から児童文学が生れたのであるが、それは文化的企業者(雑誌経営者・出版社)によつて利用されつヽ育つて行つた。
 明治三十六年七月十二日、久留島武彦が師の小波を招いて「お伽倶楽部」の発会式を挙げ、「口演童話」運動の基礎を作った。これが「日本で最初の児童文学関係の団体であり、団体運動であつた。」
 大正期に生まれた新しい児童文学運動の精神は、
戦争や人生苦とは無縁の、「エンゼル天使」の如き純真無垢の「童心」をいたはり育てることを念願としたもので、運動の中心をなしたものは、大正七年六月、小市民的ロマンチシズムの小説家、鈴木三重吉の創刊した児童文芸雑誌『赤い鳥』で(略)忽ちにして旧児童文学派を圧倒してしまつた。
 この「赤い鳥」運動への槙本の視線は醒めている。
 『赤い鳥』の運動は、決して結社的の強力な団体組織の運動ではなく、ロマンチシズムの小説家として行詰まつた鈴木三重吉が、外国の児童文学の創作的な書直しの仕事に自分の資質を生かし得ることを見出し、やがて児童読物の浄化を企ててこの運動を起したので、それには知名の文壇人が多数参加している。
 この児童文学運動の成功の要因をつぎのように纏めている。
(1)インテリゲンチャの聡明さと自由な文化生活の創造的雰囲気をモティフに、「大人の父」たる「エンゼル天使」の如き児童乃至児童生活を表現しようと努力して、しかもその文学的形象化に苦心したこと
(2)そして当時有力な成人芸術界の作家たちにかうした努力をなさしめたものは、ヨーロッパ大戦の終焉による「永遠の平和」感とデモクラシー思潮と、も一つは彼等作家たちの後継者(児童)が丁度かヽる芸術を要求する年齢期に達しはじめてゐたこと
を挙げているが、趣旨がよく読み取れない。
 「赤い鳥」の「崩壊」について、槙本は、
 デモクラシー思想は社会主義的運動の台頭と、一方では国家主義的統制の強化との板挟に遇ひ、『赤い鳥』運動も次第に萎微沈滞して、自由主義的創造性を強調した主張も崩れ、やがては所謂「童心」の殻の中に閉ぢこもり、彼等の好ましき「児童」や「童心」に拝跪するに至つたのである。
と捉える。「だが凋落の一途を辿る中に、よく児童文学の純粋さを守り通さうとしたことは感謝すべきである。」との謝辞もある。
 云ふまでもなく「新体制」は高度国防国家の確立を目ざすもので、要するに国家を第一義とし、国民の協和を必須条件としてゐる。総和総力の淳風美俗の国民性を涵養し、科学的創造力を助長せしめる指導性ある児童文学こそ、今日以後必要とするものであつて、徒に独善的な個性的な心理主義に陥つた作品とか、たゞ珍奇な興味的な素材主義の作品などは影をひそめるであらう。そして今後の児童文学運動は、艱苦欠乏の中で、統制ある綜合的な、官民一体となつた民族運動の一翼として強力に展開させられるであらう。
 この(昭和15年10月22日)の日付のある、かつてのプロレタリア児童文学の理論的指導者の結語は重苦しい。

(大藤幹夫)



国書刊行会版『西條八十全集』への疑問(1)  

上田信道


 1991(平3)年より国書刊行会から『西條八十全集』(全17巻、別巻1巻)が刊行中である。このうち既刊の第6巻と第7巻には童謡が収載されていて、これらの巻の「解題・解説」は藤田圭雄の筆になるものだ。
 該当する巻に掲載された「解題・解説」の記述をまとめると、収載された童謡の本文は、次の基準で作成されたことになっている。

  • 『西條八十童謡全集』(1924年5月25日 新潮社)に収載の童謡はこれに拠る。
  • 同書に未収載の童謡は初出誌に拠る。
 八十は『西條八十童謡全集』(以下『童謡全集』と略記)より前に、『鸚鵡と時計』(1921年1月30日 赤い鳥社)を編んでいるが、この童謡集に収載された童謡は総て『西條八十童謡全集』にも収載されている。また、八十は1924年4月に渡欧している。このとき、八十には『童謡全集』に自らの童謡の業績を纏めておこうという意志があった。
 したがって、『童謡全集』を底本にして本文を作成すること自体は、きわめて妥当な編集方針である。
 『童謡全集』に未収載の童謡は初出誌に拠るということも、順当であろう。
 その一方、今年に入って、わたしは『名作童謡 西條八十100選』(2005 春陽堂書店)を編纂・上梓する機会を得た。これは主として大正期に西條八十が創作した童謡を100編選び、1編ずつに註釈と鑑賞を書いたうえ、評伝と年表を附すという企画であった。
 このとき、童謡の本文については原則として『西條八十全集』(以下『全集』)に拠らず、新たに作成することとした。
  • 童謡の本文は、『西條八十童謡全集』を底本にした。
  • 右の全集に収録されていない童謡は、初出形を底本にした。諸般の事情で初出形によらない場合は、そのつど明記した。
 以上の方針を凡例に記したところ、ある読者から《まったく同じ方針で編集された先行する『全集』の軽視ではないか》という質問を受けた。むろん、『全集』に拠らない理由は、その本文に疑念があるからだ。この際、『名作童謡 西條八十100選』(以下、『100選』)に収載の童謡に限ってではあるが、『全集』の本文に見られる問題点について、整理・記録しておくことも無意味ではないだろう。
 ただし、著作権の関係上、本稿では童謡の全文を掲載できないことをお断りしておく。童謡の全文について『100選』への掲載頁を併記しておくので、ご面倒でも該当する頁を参照していただきたい。
 まず、『童謡全集』に収載の童謡についてである。
 底本であるはずの『童謡全集』と比較して、『全集』には次の相違がある。
タイトル『全集』6の頁『100選』の頁『全集』6『童謡全集』
『100選』
肩たたき83162〜1634
牧場の娘85166〜1672四十と四十と
のこり花火87170〜1714雨の霽れま雨の霽れま
「肩たたき」と「のこり花火」の場合は、不注意の誹りは免れまいが、単純な誤植と考えられる。
 しかし、「牧場の娘」の場合は、あきらかに単純な誤植とは違う。
 初出誌の「童謡」(1923年8月号)に《四十と六本》とあり、『童謡全集』に《四十と三本》とあるからだ。つまり、『全集』は本文を『童謡全集』でなく、初出誌から採っている。なぜか「解題・解説」に明記した方針に拠っていないのである。
 また、この童謡は《数遊び》の唄である。第一連が《五十と三頭》で、第二連が《四十と三本》と《三》の数が揃っているところに、この童謡の面白味がでている。したがって、八十は初出誌が《三》と《六》と不揃いであったことを嫌い、《三》に揃えるよう訂正したものと考えられる。そういう意味からしても、この童謡は『童謡全集』から本文を採るべきだろうが、あえて初出誌に拠っているのは、どうしたわけだろう。
 次に、『童謡全集』に未収載の童謡についてである。
 『全集』の「解題・解説」によると、「ABC」(「全集」49頁)の初出誌は、「小学男生」(1921年4月号)ということになっている。しかし、同誌の該当号を調べると、タイトルやモチーフこそ同じだがまったく別の童謡が載っている。これも、いかなる理由によるものか不可解だ。
 ただ、西條嫩子編『西條八十童謡全集』(1971年1月20日 修道社 191〜192頁)には、『全集』と同じ本文の童謡が掲載されている。その一方で、西条八十著作目録刊行委員会編『西条八十著作目録・年譜』(1972 西条八束・刊)によると、「ABC」の初出誌は「小学男生」(1921年4月号)とあり、童謡の本文は『全集』とは別のものだ。これらを総合して勘案するに、八十には「ABC」という同タイトルで別内容の童謡が2編ある、ということになる。
 そこで、『100選』の100〜101頁では、やむをえず「全集」に掲載の童謡と「小学男生」に掲載の童謡の両方を併載しておいた。『全集』掲載の「ABC」について、出典を解明していくことは今後の課題としたい。

(未完)



『実演の仕方と心得(実演仏教童話全集第九巻)』(2)

  大関尚之ほか著
  昭和10年9月15日発行
  実演仏教童話全集刊行会

 (承前)

 「童話の改作と話し方練習法」(内山憲堂、151〜230頁)
 タイトルが示すように、前半は子どものために既存の物語をどう改めればよいかを記し、後半に話し方の練習方法を具体的に述べる。全部で次の四章から成る。「童話の材料」「童話の改作」「話し方練習法」「話し方練習上の注意」。内山憲堂は、幼稚園長をつとめたほか、幼児教育者の養成にもかかわっていたから、その改作の方法は、幼児教育の中の童話(昔話も含む)のありかたを知るよい例になるだろう。
 「童話の材料」では、童話の素材として、「古事記」「日本書紀」をはじめ日本の古典、外国では、「ヂャータカ」「イソツプ」「ドン・キホーテ」(表記は原文のママ、以下同じ)などが列挙されている。説話、創作の別はなく、作品選択の基準は明確ではない。次にいくつかの観点から、作品の取り扱いについて注意を促している。「時代性」という点に関しては、「かちかち山」「花咲爺」なども『燕石襍志』でみると残忍だから、そのまま子どもには与えられないとする。「今日の時代精神なり、良風俗、善習慣に反せないやうに改作すると云ふことは教育的立場から当然のこと」と考える。とはいっても「大人の功利的な考へ」から、「桃太郎を飛行機にのせたり」することなどには、批判的である。しかし現実には、戦意高揚を目的とした映画に、内山が否定したこのような場面があったのは周知のところ。「国民性」という点では、「国体、皇室に関することについては特別の注意」が必要として、新国語読本巻四の「かく(ママ)やひめ」で帝が殿にかえられていることを指摘する。「年齢」の点では、幼児、一・二年、三・四年、五・六年とそれぞれにふさわしい内容として、リズミカルなもの、空想的なもの、勇力的なもの、実話的なものが「選ばれる必要がある」と説く。「必要がある」というような断定的な表現が、全体に何箇所かあり、よくいえば、明確だが反面狭さがうかがわれる。
 本論の中心部分である「童話の改作」の章で、内山は、改作の必要な理由として、「民族童話」の成った時代では当然のことが、今日には通用しないことがあること、「みにくい家鴨の子」のように作者の作意が児童に対しては露骨すぎること、などをあげている。「常に日本の現代の幼児にと云ふことを念頭に置く必要がある」からというので、、「七匹の仔山羊と狼」でいえば、山羊を知らない子どもも多いから親しみ深い兎にし、七匹では多いから四匹にするなどは、「児童の為に許さる可き改作」と説く。このような改作は、内山個人のものというより、当代の〈常識〉とみるべきだろう。明治時代によくみられた翻案風の改作が生き残る余地がここに見て取れる。
 読む童話と話す童話の違いを述べた箇所では、児童の理解に応じること、長い話を短くすること、及びその逆の改作についての注意がある。具体例として巖谷小波『童話の聞かせ方』から「指環大名」をひく。非教育的な話の改作について述べた箇所では、恋愛と残酷性に注意を促す。
 「話し方練習法」の章では、先達の話を聞く重要性のほか、映画、狂言、落語等の諸話芸との関連を述べたあと、具体的諸注意に及ぶ。話の組立てに言及して、「聴いてゐて、どうなるだらうかと云ふ予想的興味が必要である」と、いわゆる物語性の必要が表明されている。言葉については、「子供に理解出来る言葉を選ぶ」ことが肝要で、理想的には、それぞれの年齢の子どもが使う言葉で語るべきだという。一見当然のことのようだが、分かることばだけだと、失われるものもあるはずである。たとえば、新しいことばに触れる機会とか、その言葉でないと伝わらない微妙なニュアンスなど、いろいろあろうが、それらには言及していない。
 「上品な言葉が必要」として、示された例は滑稽である。(アンダーラインは傍点 以下同じ)

 「おいお前は明日海へいくかい。」/「おれは行かないよ、お前一人で行け。」
というよりも、
 「君、明日海へ行きませんか。」/「僕は、御用があつて駄目なんですけれど。」
の方が、「どんなに上品で子供らしいかも知れない」という。幼稚園や小学校などの教育現場で語られた口演童話には、本当にこのような「上品な言葉」を用いるのが一般的傾向だったのかどうか、気になるところである。
 最後にジェスチャーについても触れ、「童話は音声によつて聞かしめ、ゼスチユアーによつて見せしむる一種の綜合芸術である」と主張。「一番大切なことは、自然に無理のないゼスチユアーを用ひると云ふこと」だと記す。ジェスチャーは不要と主張する口演童話家もいるが、内山はそうではない。千人規模の口演では大きな技巧的のものであってもよいとし、少人数では会場に応じた自然なジェスチャーを推奨する。

「児童劇実演の仕方と心得」(長尾豊、231〜316頁)
 児童劇という場合、児童が演じる劇と、児童がみる劇の二通りの意味で使われるが、ここでは、前者である。「実演仏教童話全集」には、児童劇も収録されているので、附録として収めたのだろう。全体は、「序」「演出の考へ方」「舞台」「幕」「場面」「服装」「持ち物」「動き」「出はひり」「位置」「脚本の与へ方」と分けられており、最後に具体例として全集七巻所収の「知らない」の演じ方を示す。
 児童の演じる劇の考え方の基本は、「児童の劇演出は遊戯である」という立場である。「児童自身の演ずること、それが主体」だから、観客は必須ではない。指導者があれこれ子どもに教示したり指示するのではなく、子どもを自身に考えさせる、分からせることを要諦とする。

(藤本芳則)




著 書 紹 介

同人の著書が相次いで刊行されました。この機会にご購読いただけましたら幸いです。
  • 日本の幼年童話の流れを振り返る

    『展望日本の幼年童話』
    大藤幹夫・藤本芳則 編
    2005年2月21日発行 双文社出版
    A5判 167頁 1,800円(税別)

  • 名作童謡シリーズ(全3冊)

    珠玉の童謡集 まるごと白秋!
    『北原白秋…100選』 2005年6月20日発行

    煌きの童謡集 まるごと八十!
    『西條八十…100選』 2005年8月20日発行

    癒しの童謡集 まるごと雨情!
    『野口雨情…100選』 2005年11月5日発行

    上田信道 編著 春陽堂書店
    各冊 B6判 280頁 2,800円(税別)