児童文学資料研究
発行日 2006年2月15日 |
『児童文化 上』収録論文紹介(3) | 大藤幹夫 |
『話法と朗読法』所収の童話論(1) | 藤本芳則 |
国書刊行会版『西條八十全集』への疑問(2) | 上田信道 |
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『児童文化 上』収録論文紹介(3)西村書店 発行昭和16年2月25日 発行 |
伝唱(ママ)童謡を基石としなかつた明治唱歌は童心を圧迫したが、童心開放を叫んだ文学童謡は、後に逆に童心といふ固定した枠の中に子供達を押し込めてしまつた。とする見方である。
われわれは、圧縮された子供達を童心の柵内から広々とした人間練成への広場へ、柵外へ、逆に、再び、開放すべく努力しなければならない。「童謡の現状と今後の童謡」にあって、与田の言葉は厳しい。
と、提言する。この「人間練成の広場」(傍線筆者)の実態には触れられないが、時代を考えると警戒すべき提言といえる。
一方には、文学的にレベルが高められて行きながら、子供からだんだん離れてしまひ、作家達自身の末梢的な感覚情緒をそれなりの鋭敏さに働かすだけに止まり、趣味趣向化されて、子供とは縁の遠い、一種変奇な教養人(原文傍点)のための狭小な存在になつてしまつた。その反対に、一方には、子供に即く、といふことが平俗平板な追従の傾きになり、はては極端に散文化してしまつて、なかには刺激的な対話入り、文句入り童謡まで出来た(レコード童謡)。その表現は全く平俗な言葉のられつに終り(伝唱ママ童謡中の平俗性とは同日に論ぜられない程の)謡としての正しい意味の言語的甘美さも純化もなければ、従つて真に生々した子供の生活感情の躍動もなくなつた。与田の結語を少し長いが写しておく。
国民自覚の、進めてはその高揚の合唱歌として、健全闊達な子供の歌謡の創作は緊迫のことだと考へられる。それは小国民としての心身の全体的な練成に役立つ力強いリズムを備へてゐなければなるまい。「兵隊さんよ有難う」といふやうな環境的客観的な歌ひ方から、主体的自己燃焼的な、子供の側からの謡の盛り上りへと発展しなくてはなるまい。音楽的等に依存することなく、それ自身独立した、児童文芸の最も中心的先進的な一表現形式として、又日本語の基本的純化に根ざして、幼児詩、少年少女詩の書かれて行く方向が想定される。「環境的客観的」とか「主体的自己燃焼的」などといった意味のよくわからない言葉を含むが、ここでは先の「練成」に「小国民としての」という言葉がかぶされている点に注目したい。
昭和十三年秋の児童読物浄化運動以来、驚くほど健康な方向へ、急速に発展して来てゐるのである。実にこの浄化運動は、最近の童話文学を正しく発展させる上に、幾つもの大きな役割を果たした。「児童読物改善ニ関スル指示要綱」は、確かに「童話作家のなかには、ストックをはたいても追いつかぬほど、インフレ景気に恵まれた人も出るありさま」(菅忠道『日本の児童文学』)であったが、結果的には、菅も認める通り「その統制ぶりには文化的よそおいをつけながらも、なし崩しに強圧を加えて、児童文化・児童文学を国策一色にぬりつぶす方向に、事態は動いていった」(同書)のである。
浄化運動に於いては特に、建設的な日本精神の発揚を強調し、個人主義を排して国民協力の精神を尊ぶこと、仮空の題材を排して、堅実な生活の上に立つべきこと、生産と勤労を尊ぶこと、そして児童への徒な追従を斥け高い指導性へと導くことが、熱心に強調されたのである。この運動は、児童読物が利潤を対象として取扱はれてゐることの、国家的損失を除去しようとしたばかりか、読物による児童教化の根本的方針を世に示した。と、高く評価している。
一方永い間、児童を毒する低俗な読物とたヽかひ、文学建設の苦闘を続けてきた真面目な作家を、世間にひろく推し出すことなつたのである。子供の世界は、次第に明るくなり、作家たちの心も頓に拓けて来た。そして日本の将来に対する明るい希望を、新体制の樹立に先立つて、世間にひろく与へたのである。と、賛同している。
生活に内包する意味をとらへない。従つて問(ママ)題に乏しく、方向が曖昧であり波瀾が無い。のつぺらぼうで面白くない。殊に童話界の純粋文学派などと言はれてゐる人たちの作品には、この傾向が強い。極端に言へば、大人の眼から眺めて、俳諧趣味で書いている。大人が読んでは文章の味ひにも感心するが、子供は一向相手にしてくれない。と、鋭い。この評言は「赤い鳥」時代の作品にも通じるものがある。
いま国策的な児童文学といはれるものは、概ね卓見がなく、創造がなく、普通一般に国策といはれてゐるものの形態に追従し、その貴重な内容を理解しようとせずに、たゞ無責任な便乗を事としてゐるものが少くないかも知れない。その事は明らかに時局への追従であり、新しい型の利己主義であらう。「今後の童話文学」への展望として、「作家は、童話によつて児童の感情に訴へ、行動を促進し、彼等が将来の国民として、新しい日本の建設に対処し得るやうな逞しい性格を作り、更に一層立派な創造をなしとげて行く力と勇気を与へなければならない。」これこそ、言うところの国策的な児童文学であろうが、言辞が空文化している。以下の文章もむなしい言葉の羅列に終わる。その中で「今後の文学は大いに政治性を持たねばならぬ。」が目を引く。
児童はやがて、新しい体制の我が祖国を担つて立つのである。今後の児童文学は、彼等の魂を磨く技師として、彼等の心を結ぶ組織者として、益々その重要性を加へて来る。それに応ずる作家の活動は、今日既に始まつてゐる。この文章がどれほどに説得力をもって読者に届いたであろうか。
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『話法と朗読法』所収の童話論(1) | 藤本芳則 |
笑ひといふことを目標とする必要はない。唯彼等の求める心に解説を与へ、安易の心を持たす、さうしてそれが彼等の生活に、さうすると宜い、成る程さういふ時にさうしたならば助かつた。この満足を与へることが出来れば、彼等は決して笑つたからといふて忘れるものではないと思ふのであります。
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国書刊行会版『西條八十全集』への疑問(2) | 上田信道 |
一九二二年(大正一一)二月一日「コドモノクニ」。『少年詩集』に収録の際、「帽子」と改題。してみると、全集の本文は《『童謡全集』に未収載の童謡は初出誌に拠る》のだから、「ぼくの帽子」の本文は「コドモノクニ」に拠った、と読める。しかし、現実には「コドモノクニ」に拠っていない。『少年詩集』(1929 大日本雄弁会講談社)にも拠っていない。