インターネット版

児童文学資料研究
No.104

発行日 2006年5月15日


目  次


児童読物・絵本の統制とそれへの希望大藤幹夫
『話法と朗読法』所収の童話論(2)藤本芳則
北原白秋「上京当時の回想」への疑問上田信道

児童読物・絵本の統制とそれへの希望

  「教育・国語教育」(厚生閣)収録
  昭和13年7月1日 発行

 昭和13年10月に内務省警保局図書課より発表された「児童読物改善ニ関スル指示要綱」は、戦中児童文学のみならず児童文学史上見過ごすことの出来ないものである。
 それをいち早くとりあげ「児童読物の統制とそれへの希望は時流に魁けた本誌の特種記事」(「編輯後記」)とするのが本稿である。
 記事見出しは「近く内務省では児童読物・絵本の統制に着手することになつたさうであります。非常時局のバツクを他にしても、早晩どの一角からか、立案を見なければならぬ性質のものでありますが、それにさきだち一般教育の見地から左記の諸家に児童読物の統制と、それへの希望に関して御意見を戴きました。」とするものである。すでに時代にあって統制あるものと見越した記事である。
 その諸家とは、東京女子高等師範附属小学校主事の堀七蔵以下奈良女子高等師範学校訓導・河野伊三郎、作家・松田解子、評論家・高倉テル、日出学園主事・野村芳兵衛の各氏である。
 まず堀の記事(「児童読物の統制に関して」)から紹介しよう。
 「今回内務省では児童読物絵本類の統制に乗出すといふことは頗る適当な処置であらう。」と書き出される。「児童の批判力の欠如せるに乗じ、大衆読物よりも児童読物が頗る多種多様に出版されてゐる。世界各国どこよりも我が国に於ては児童読物や児童絵本の種類が多く、しかもその価格が他の物価に比して高価であるのではあるまいか。」と現状認識を示す。「その中には児童を喰物とするのではないか、児童の無智なるに乗じて羊頭を掲げて狗肉を売るが如く疑はれるやうな読物がないでもない。また児童に悪影響を及ぼすが如き内容のものも皆無ではなく、豆本の如きものにて児童の視力を減退させるが如く細字のものも少なくない。また兎角児童の理会の程度などを無視し、単に親の歓心をそゝるが如きものもないではない。」とあるが、児童を「批判力の欠如」「無智」と認めるような発言に驚かされる。これが現場にある教師の児童観なるものであろうか。「内務省が是等の欠陥を矯正して健全なる児童読物を廉価に供給するが為め児童読物絵本等の統制をなすならば誠に結構といはねばならぬ。」との「希望」を読む限り、堀の「指示要綱」に期待するものは「児童読物を廉価」にすることにつきる、とも読める。「所謂角をためて牛を殺すが如き結果を招来しないやう細心の注意を偏に希望する次第である。」と危惧する事態が迫っていた。
 河野の「統制蓋しその理あり」も、堀の所論と合い通じるものである。「国家依政のため、国策のためには、国民として遵守せねばならぬ。個人を本体として国策を顧みざるものありとすれば、現代非常時下に於ける更正を誤つたものと言はねばならぬ。」とする立場からもそれが伺える。「かゝる非常時局が、現時国策として、児童読物・絵本の統制を図るは至つて当然であると確かに思ひ得る。」

思想界の上から亦は児童精神力の上から、もつと早く統制すべきであり、その時期がすでに通り過ぎたのであるかも知れない。此回この統制の行はれる当つては、出版業者は一個の社の営利に膠着するの偏見を避けて、国策に準依すべく、営業することが、国家に対しての本心であらねばならぬ。
 河野は国語教育についての多くの著作もあり、よく知られた研究者であったが、この時点の発言からは完全な国策順応者であったことが窺われる。
 次の発言もそれを証明するものであろう。
主情主義文学、児童文学の隆盛時代には、児童読物はノアの洪水であつた。やゝもすればかかる文学は欧文学に傾向し易きものである。然し現今に於ては戦地文学が台頭していることは否まれない。太平記、源平盛衰記等はやはり非常時世下に生れた日本独特の文学である。私はこの時代に於けるこの種文学の誕生を心から念願して已まぬ。
 以下は河野の結語である。
 戯(ママ)弱点より来る悲哀的感傷的、しかも明朗活発、奔放なる児童の精神を阻止する様な質のものはこれを断じてお互が出版してはならぬ。
 要は出版者の国家良心によることで、個人を捨て国策に依準して経営すべきである。
 児童観については、堀より子どもを見ていることが読み取れるが、ここでも指摘されるのは「出版業者」サイドへの課題設定に終わっている感が拭えない。
 次は、松田解子の「希望」(「科学の機能と本質に触れたものを」)である。
 冒頭、松田は「内務省が児童の読物や絵本を統制をするといふことですが、大体どんなものが篩ひおとされるか、何がのこされるかわかるやうな気がします。」と記している。時代の読みを予感させる。
 松田が、「第一、もつと科学的な要素をもつた本がほしいことです。」と書くのは、時代を思うとき皮肉な「希望」であった。
 「タンクとか飛行機とかバクダンとかを、その場かぎりの低級な興味で読ませるために利用するのではなく、それらのものゝもつ機能や本質に触れ得るテーマのもとに扱ふ試みなどがあつてもいゝと思ひます。」は現状を知る発言だろう。
児童ののびやかな創造性を、ゆつたりと抱擁して、生れて来たこの世界が、なほどんなにかくれたる真理や、よろこびに満ちてゐるかを暗示し、勉強や、運動や、人のいふことをすなほに受けいれる度量をもつ楽しさなども、ケチくさい教訓を無理強ひする態度でゝはなく、自然と彼らに発見させるやうな、そんな能力を知らず知らずに与へてくれる本や雑誌を望みます。
 この「希望」は、現在にも通用する子どもの本に寄せられる「希望」であろう。
 「次に、値段の問題があります。たまに、いゝ本だナ、と思ふのにぶつかると、それはきつと高い。絵本の色彩なども、いゝナと思ふのは、とび上がるほど高い。」というのも現在と変わらない子どもの本の現状である。
高倉テルの「希望」(「まづ編輯スタッフを作れ」)には、「統制 と ゆう 事 わ、結局 消極的な 事 でわ ありますまいか?(略)もつと 子供 の 為の 本 お 善くする 積極的な 努力 が 要る と 思います。」「 今 子供 の 読物 が 極端に 悪い 原因 わ、子供 に 関する 専門家 と 出版者・著者・画家 とが 離れて いる 事 です。子供 の 事 お 心 から 心配 も せず、又 知識 も 持たない 人 が、単に 営利的な 目的 から 子供 の 本 の 出版 お したり 画 を 描いたり して います。 これ で 善い 物 が 作れそーな 事 が ありません。」
これを打開する方策として、「子供 に 関する 専門家 お 集めて 編輯スタッフ お 作ります。その スタッフ の 方針に 随つて、画家 や 著者 が 本 お 作り、そして 常に スタッフ の 批判 お 受けます。」現在の作者・画家・編集者のチームによる絵本作りと通じる提言である。
取り締り だけ でわ、俗悪な 物 わ なるほど 減る かも 知れない が、しかし、同時に、味の ない 物 が 多く なり、本当に子供 の 求めて いる 物 お 反つて 与えて やれない 心配 が あります。
は、穏当な「希望」になっている。
 野村は具体的な提言(「児童雑誌への註文」)をしている。
学校の教科書に聯絡してゐると言ふので、為になるだらうと、母親達に 思はせるために、母親たちが子供に買つてやるが、その内容は、単に全科詳解に類するやうなものであつて、何等子供達の求知心を育てない。随つて、本当は子供達はあまり読まない。さう言ふ児童雑誌は紙を粗末にするだけの話だから止めた方がよい。
は、いつに変わらない子どもの本事情である。
 「同じ支那事変の記事を載せるにしても、戦争美談勿論よいが、それだけでなく、もう少し子供達に支那をわからせてほしい。」「支那の子供はどんな遊びをしてゐるか」「支那の子供はどんなおやつを食べてゐるか」「支那の学校はどう言ふ学校か」「お角力さん達は、どんな御馳走を食べるか、一度に何ばい位たべるか」「お角力さんにはどう言ふ作法があるか、幾つ位の時から部屋入りをして、どう言ふやうにしてお稽古をするか」といった具体的な内容を希望している。
修身でも国史でも、材料の目新しいものを取入れてほしいとは思はない。あまり材料の多いのは、却つて子供達を疲れさせていけない。それよりも、出来るだけ子供文化の角度から、つまり、子供達の眼は何処を見つめてゐるかと言ふ観点から教科と同じ材料に新鮮な光を当ててほしいと思ふ。
 ここにきてようやく子どもの目線からからの発言に出会う。しかし時代はこうしたささやかな「希望」さえ踏みにじって進んだ。

(大藤幹夫)




『話法と朗読法』所収の童話論(2)
―岸辺福雄「幼児のお噺」―

藤本芳則


 実際の口演童話を交えながら体験を語ったもの。理論的な内容とはいえないが、口演童話への姿勢や方法がよく伝わってくる。講演で演じた話も記録されているので、具体的に特徴を把握できる。岸邉には、『童話の実際と其批評』『お伽噺仕方の理論と実際』などの(編)著があるが、これはこれで、岸辺流口演童話の参考になろう。
 全部で五つ項目をたてているので、順に紹介する。

「桃太郎の噺」
 30年間に1500回くらい桃太郎を話してきた、と前置きし、「新しい桃太郎の話」の口演から講演が始まる。口演は、ほぼそのまま掲載されているようで、大砲で鬼ケ島を攻撃するなど当代風にアレンジされている。面白いのは、ある舞踊劇で桃太郎をみた感想として、「桃太郎に土産を捧げたと云ふことにならなければならぬ訳でありまして、奪つたと云ふことになりましたら問題にならうと思ひます」と述べていること。掲載されている桃太郎でも、主張通り、鬼は、「是はお土産です」と語っている。桃太郎が鬼ケ島から宝物を持ち帰ることの是非は、現代でもときおり話題になることがあり、宝物を持ち帰るのではなく、嫁取譚として再話した絵本のあることは周知のとおり。その一方、征伐主義、軍国主義につながるから教科書で教えるのはよろしくないという議論に対しては、「野暮な話」と、岸辺は一蹴している。

「童話研究の段階」
 口演童話家としての楷梯を、「器用で始めて、器用で話して居る時代」(「器用時代」)、「聞いた凡ゆる人を並べて、その覚えたのを並べる時代」(「模倣時代」)、「斯うやつたら宜からう、あゝやつたら宜からうと、色々様々に組合せて見る」時代(「研究時代」)「人のものものばかり考へたり、貰つたり、書換へたりして居つては気が済まないと云ふ時分」(「創作時代」)の四つに分ける。最後の創作時代が、「本当の童心になる時」で、「子供と、話す私と、両方が面白いのでござりまして、迚もいい気分になります」と説く。体験からの四段階説である。
体験をもとにした記述では、次の部分が興味深い。
[口演童話の歴史は=引用者注]御承知の通り古いと申した所で二十年。童話を、まあ一番早く話して掛つたのは、私は職務柄でございますから約四十年。巖谷先生や久留島君などは、それから後の方ですから、実演童話と云ふのは私が最も古いのです。古いのですけれども、遂に進みませぬで六十二になつちまひました。(225頁)
 『話法と朗読法』は、前号に記したように、昭和10年刊だから、岸辺の言をもとに計算すれば、口演童話は大正の始め頃に始まったことになる。しかし、実際には、明治からあったのだから、その頃から社会的に認知されてきたということだろう。具体的な例としては、一九一五年の大塚講話会の創設などがあげられようか。岸辺自身は40年まえから語りはじめたと述べているから、22歳頃からとなる。ちょうど師範学校を出て、小学校教員になった時期である。職務柄というのは、小学生に語ることだったかと思われる。幼稚園を開設するのは、1903年だから、幼稚園と考えるには時期がずれている。
 だれが口演童話をはじめたのかは、興味のそそられるところである。『日本児童文学大事典』の「口演童話」(勝尾金弥)の項目には、「巌谷小波が京都で試みたのが最初という説と、それ以前に岸辺福雄がしていたという説がある」(『日本児童文学大事典』)とある。先の岸辺22歳の頃は、ちょうど小波が京都で試みたという時期とほぼ同じであり、岸辺の言葉をそのまま受け取ることは難しい。小波、岸辺以外にも、同時期に、名前が伝わっていないだけで、教員などで、口演を試みた人物のいたことは、十分考えられる。誰がというより、近代的な児童文学が出発すると共に、若干のずれはあるものの、おおむね時期を同じくして口演も出発していることに注目しておくべきだろう。

「詩から童話を作る」
 アンデルセンは、そのまま語ることはできないが、詩的気分にひたるためには、ぜひとも読まねばならないと主張する。今日子どもたちにしている噺には詩的な雰囲気が欠けていて、「童話界の淋しさを感じさせる」からである。だからグリムよりもアンデルセンを奨めるとして、具体的に長田幹彦と竹友藻風の訳が良いというような記述もみられる。詩的な話をそのまま子どもに話すことはできないといいながら、語り手には詩的気分が必要だというあたりに、岸辺の口演への姿勢があった。
久留島武彦が、「大きな声でハッキリと話す雄弁術的な」(『日本口演童話史』)話術であったのに対し、岸辺は、「一人一人の子どもによりそって、ささやくように話した」(同前)といわれる。詩的気分の重視は、「ささやくよう」な話し方と関係するものと思われる。
 具体例として、西條八十の詩の童話化が示されている。物語性は感じられず、オノマトペと繰り返しだけで聞かせるような話である。

「絵噺の作り方と其の例」
 絵噺は、岸辺が早くから取り組んでいた方法であり、北村大栄著『童話絵話の作方・話し方』を紹介した折に若干触れた(100号参照)。本節では、絵噺の作り方の具体的方法には触れず、面白さに流されてはいけないことと、御前口演の経験を語っている。そのなかで、「今日の童話家の中で修身の童話に就ては今日では私以上の経歴を有つて居る人はいない」と自負する部分がある。当代の口演童話家は、面白いといわれ、拍手の数が多いことを重んじて、「修身の教授には少しもなりませぬ」と批判する。岸辺にとって口演童話に教育性を盛り込むのは当然のことであった。

「ラヂオのお話」
 良寛を題材に大阪の放送局で話した苦心を語り、実際に話した一節を掲載する。身振りがなく声だけでは、口演は難しいことが語られている。


北原白秋「上京当時の回想」への疑問

上田信道


 北原白秋「上京当時の回想」は「文章世界」第9巻第10号(1914年9月1日)への掲載。第一詩集『邪宗門』刊行までの白秋の身辺事情を伝えて貴重である。岩波書店版の『白秋全集』35(1987年11月9日刊)にも収録されるなど、すでに周知の資料だが、いうまでなく本人の回想類というものは必ずしも真実を伝えているとは限らない。しばしば誤りや曖昧な記述が含まれているものだ。
 まして、この記事には、末尾に「(談)」という記載がある。《談》とあるからには、白秋が自ら筆を執った文章ではなく、白秋の談話を他者が取り纏めた記事である。むろん、内容については白秋のチェックを経ているが、直筆のものに比べて資料としての価値が劣ることは否定できない。
 例えば、次のくだりである。

私は殆ど中の上席を占めてゐたけれど、あまり文学書を耽読してゐた為め、到頭その年の試験(1899年3月の進級試験―引用者)に幾何一課で落第する事になつた。
 これでは、数学のうち「幾何」の一科目で中学を留年したことになる。
 ところが、学籍簿によればこれは事実ではない。留年の年の「幾何」の成績は75点であったからだ。もともと、数学のうちで「幾何」は、どちらかというと白秋が得意とした科目で、第五学年(一年目は休学、二年目めは試験放棄)を除くと、一度も落第点をとったことはない。
 つまり、数学で留年したことは事実でも、「幾何」の落第点云々は、白秋の記憶違いか雑誌記者の誤記かであった、と思われる。これまでの評伝類の多くにも「幾何」の一科目で落第点をとったとあるのは、おそらく「上京当時の回想」の記述を無批判に受け入れた結果であろう。
 ところで、先ごろ拙著『名作童謡 北原白秋…100選』(2005年6月20日 春陽堂書店)を上梓したところ、白秋ゆかりの或るかたからお叱りの書簡をいただいた。
 まず、ご指摘をいただいたのは、拙著中に書き下ろした評伝「帰らなむ、いざ」についてである。
 1904(明37)年の3月末のことでした。
 鹿児島本線の矢部川駅(現・瀬高駅)から、ひとりの青年が東京へ旅立ちます。この青年こそ、伝習館中学を中退した白秋でした。まだ柳川に鉄道は通じていませんので、この駅から父の許しを得ないまま無断で上京したのです。
 この日、父・長太郎は会議のため留守でした。そこで、スキをついて汽車に飛び乗った、というわけです。この日のために、母・しけは北原家の一番番頭さんに泣きついて、二百円という大金を用立ててくれました。資金は番頭さん個人の家と土地を担保に入れて、銀行から借り入れたのだそうです。
 ご指摘は、以上のくだりが「上京当時の回想」の次の記述に反している、というものであった。
 中学の五年の卒業試験が来た。丁度三日月の晩私は急に気が狂ひ出して、またその墓場(自殺した親友の墓がある―引用者)へ飛んで行つた。翌朝ぼんやりして帰つた頃には殆どもう三角(数学の一科目―引用者)の試験を受くる気になれなかつた。皆が私を寝かして氷で頭を冷やしてくれた。そんなこんなで中学も其儘卒業せずに済んだ。私は愈上京して早稲田の文科に入り度いと思つたが父が許してくれなかつた。愈母の同情ひとつを頼りにして家を抜け出すとなつた時、やつと父は許してくれた。我儘でこそあれ、富有に育つた私はいざ上京となると途方に暮れた。汽車中でも、下宿をしたら、第一ラムプの掃除や下帯の始末はどうしたものだらうと、それが一番に苦労になつたのだ。をかしい話であるが、それ迄私は一人で店に品物を買ひに行つた経験も無かつたのである。
 つまり、白秋はあらかじめ父=長太郎の承諾を得たのち、早稲田の文科への入学を志して出郷した。基本文献の「上京当時の回想」にさえ目を通しておらず、白秋の名誉を傷つけるものだ、というご指摘であった。
 しかし、「新潮日本文学アルバム」25『北原白秋』(1986年3月25日 新潮社)には、父の承諾を得たのは上京した後のことであった、という記述がある。
 この書は山本太郎の編集、北原隆太郎の資料提供・協力によるもので、本書中の「評伝」は山本太郎、「年譜」は北原隆太郎がそれぞれ筆を執っている。ちなみに、山本太郎は白秋の親友=山本鼎と白秋の妹=家子との間の長男で、北原隆太郎は白秋の長男にあたる。白秋にきわめて近い身内によって書かれたものであるから、資料としての信頼度は高いとみてよい。
 そこで、山本太郎の「評伝」から、該当するくだりを次に抜き出してみよう。
 一方、父長太郎の眼を盗み、母しけと弟鉄雄の手により上京のプランは密かに進められていた。早大の入学日は迫っている。母は夫にしれぬよう、一番番頭末吉の家と土地を抵当に二百円の資金を銀行から借入、布団包を二階からそっとおろした。会議で外出した長太郎の留守をねらって三月末日、白秋は母と鉄雄と少数の人々に送られ鹿児島本線矢部川駅から大きな夢を抱いて東京へ旅立ったのである。二十歳の春、下帯ひとつ自分で洗ったことのないトンカ・ジョン(良家の長男のこと―引用者)の出発だった。
 ここで注目したいのは、「下帯ひとつ自分で洗ったことのないトンカ・ジョンの出発」という記述である。『北原白秋』が刊行された時点では、まだ、『白秋全集』35は刊行されていない。だが、著者の山本太郎が「上京当時の回想」を念頭に置いていたことは明らかだ。そうでなければ、「下帯」云々という特徴的な記述がふたつの文章に共通して出現していることに説明がつかない。白秋の甥=山本太郎が白秋の回想を読みながらあえてその記述に拠らず、かつ、白秋の長男=北原隆太郎が格別の異を称えることなく『北原白秋』が刊行され、版を重ねていったのである。何らかの口伝が北原家に伝わっていたとみるのが自然であろう。
 また、白秋の「母の同情ひとつを頼りにして家を抜け出すとなつた時」という記述は、かなり曖昧だといえる。矢部川駅から旅だった時をもって《家を抜け出す時》としたとは限らないからだ。「家」を《柳河(柳川)の北原家の家屋敷》という意味に解釈せず、旧民法下における制度としての《家》と解釈するならば、白秋は出郷したあと東京に落ち着いた時をもって《(制度としての)家を抜け出すとなった時》としている、とも読めるのではないか。
 次に、拙著中の随所に「県立伝習館中学校」または単に「伝習館中学校」とあるのは誤りで、「福岡県立中学伝習館」が正しいというご指摘が、同じお叱りの書簡中にあった。
 しかし、正確にいうと、白秋の入学時の学校名は「福岡県尋常中学伝習館」であった。「福岡県立中学伝習館」は白秋の中退時の校名であり、1928(昭3)年に白秋が母校を訪問し講演したときには「福岡県中学伝習館」という名称であった。ほかに、伝習小学校師範伝習学校、福岡県立柳河師範学校、福岡県立柳河中学校、公立中学伝習館、尋常中学橘蔭学館、私立尋常中学伝習館などと称した時期もあったようだ。
 だが、短い評伝や年譜の中に異なった校名を次々に記述していくと、読者の混乱を招きかねない。そのため、便宜上の措置として、拙著ではすべてを通称名の「県立伝習館中学校」または「伝習館中学校」で統一している。岩波書店版の『白秋全集』でも、編者は煩雑を避けて通称名をもちいたのであろう、と推察できる。
 最後に、お叱りの書簡には拙著に収載の「年譜」についてもご指摘をいただいている。そのうち、次の三箇所については著者の不徳のいたすところである。ここにお詫びして訂正させていただく。
269頁 同月、「城ヶ島の雨」を作詞 10月、「城ヶ島の雨」を作詞
273頁 大木敦夫と「詩論」を創刊 大木惇夫と「新詩論」を創刊
 もし拙著を重版する機会があれば、これらの誤りの箇所を改訂したい。

(完)