インターネット版

児童文学資料研究
No.105

発行日 2006年8月15日


目  次


戦中期の與田凖一―「教育・国語教育」誌の所論から―大藤幹夫
鈴木三重吉の投稿「亡母を慕ふ」について上田信道
『家庭唱歌』第一集藤本芳則

戦中期の與田凖一 ―「教育・国語教育」誌の所論から― 

大藤幹夫


 先に本間千裕氏より『與田凖一の戦中と戦後』(高文堂出版・平成十八年)の寄贈を受けた。戦中期の児童文学に関心のある筆者には、戦中期に活躍した與田の所業に筆を染められた論考に引き付けられた。
 本稿において與田の戦中期の所論に注目して紹介したい。
 まず「教育・国語教育」(以下誌名省略)の昭和10年6月号の〈誌友特輯〉「深川二郎編「児童文学の新しい動向」」に寄せられた「童話文学の新動向―小さなメモとして―」である。
 ジャーナリズムが童話なり童謡を「みかへらなくなつてから久しい」のは「一は童話文学自身への反省といふことに就ても問題がふくまれてゐる」と指摘される。
 「「文学性」も「問題性」も感得出来ない」現状にあって、「小川未明、浜田広介、坪田譲治の諸先覚の直線的守持を発見する」と言う。小川未明の近業には、「相変らず詩情の張り切つた子供の世界が展開されてあ」るものの、「中に一見子供の生活の平明な描写のみに終つた話もあつて、子供自身がそれ等の空気の中にひとりで這入つて行けるかが懸念されます」。浜田広介は「無駄のない、一種の調子を持つた独特の表現形式でもつて、子供達に多くの読者を持つてゐる」「以前から氏が主張して来た、童話に於けるリアルの守持に就ては、今日もなほそれを固持してゐるかに見られます。しかしそれは、心理上に於けるリアルを云つたものでありまして、外形上の、つまり子供の現実生活を指して云はれたものでありません。」と批判的な言辞がうかがわれる。一方、坪田譲治について「子供の実際生活そのもののリアルが問題でありまして(略)常に子供の生活―遊戯性がテーマとされてゐまして、この点は、すくなくとも、私には一等身近かに考へられる興味深い作家のやうに思はれてなりません。」
 言葉をついで坪田に興味を持つ点は、「今日の世相からは、子供の現実生活といふことが、当然問題性を持つて来るからです。」と言及する。
 坪田に好意的な與田ではあるが、次のような批評もある。

坪田氏の作では、遊戯生活の中で子供に生々ハツラツとしていろんな冒険をこころみさせ、不安の世界へ一度おびき入れておいて、最後では充分にはらはれた冒険と勇気に恩賞を与へるのですが、この象徴味は口はゞつたいやうですが、一寸、普通には感得され得るかどうかと思はれる程高度の文学性を持つたものです。それで、功利的に見るともつと、直接的な手法がのぞまれますし、氏の自身の子供のみにテーマを持たれた点にさみしさを感ずるのです。つまり、子供の「社会生活」がもつとく氏に書いて貰へたらと欲が出るのです。
 「今日童話や童謡が第一線に取りあげられないといふ事実は、「童心」の再検討、「児童観」の再認識がうながされていい一つの証左ではないでせうか。」の指摘は興味深い。
今後に期待する新人作家として名を上げるのは、奈街三郎、槙本楠郎、藤井樹郎、森三郎、塩月武彦、與田凖一で、すでに「ごん狐」を「赤い鳥」に発表していた新美南吉の名はない。
 「この国に女流の作家にめぼしい人のゐないのもさみしいものです。一種の社会的地位からや、ヂレッタントとして等、低調な作物をものする人は相当ゐますけれど…」が結びになる。
 昭和十一年一月号(一日発行)の「児童文学の新動向」は、「大正七八年頃から勃興して昭和初期に流行を極めた児童文学は、今日ほとんど乱脈の体たらくである。」と厳しい書き出しである。そして「ついで憂鬱な現象が容赦なく我々を襲ふのだ。即ち、童心万能、童心惑溺の時代である。童心礼拝から、童心溺愛への傾斜現象である。」それは、「児童文学の興行化時代とも呼ぶことが出来ようか?特に児童の音楽と舞踊に関する方面に於てはその傾向の甚だしいものがあつた。」
さて、「今日の児童文学の現状」はどうか。
 ここで「父のおもひに燃えた」鈴木三重吉が取り上げられる。「赤い鳥」創刊は、長女鈴子誕生の折、「即刻自分の娘にどんな読物を与へていいかに思ひを走せ」た「父性的本能からもたらされた一種の感傷の所業」と見られる。

 偶々三重吉が作家であつたこと、幼童時代の富裕生活から少年時代の崩壊的環境に相(ママ)遇した越歴に依つてきつく児童と児童読物に対する熱情を湧き立たせたこと、そしてそれが「父」の経験と結びついた―これ等の因が「赤い鳥」をもくろんだので、一般の世間の情勢も、前述した如く、総じてかゝる傾向のうごきを見せてゐたことは言ふまでもあるまい。
 大正末期の児童文学興隆時代は「「童心」とは、成人の全く忘却し去つた天国の世界を意味した。成人の感傷が随喜してこれを三拝して、分析してみるいとまを作らなかつた。」「しかし「童心」の解明はその感傷の霧で包まれにごつてしまつてゐたので、実は決して「童心」は別天地のものではない。我々が一度は通つて来た成人とは地つゞきの世界であることが反省の面に浮かび上がつて来る。」
 與田の言う「今日の、堕落し来たつた児童文学の情勢」とは、どのようなものか。
 童話方面では、寄席芸人的実演家の活躍がそれを示してゐるし、童謡方面では、徒らに流行歌の流れに添ふ、チンドン屋よろしくの俗謡がレコードやラヂオによつて助長される。それはもう童謡の文学性を忘却してしまつてゐる。それは明治時代の唱歌の効(ママ)利主義をすてて、娯楽趣味に身を落した一種の唱歌に過ぎないものと見る。それならば、むしろまだ一つの効(ママ)利の目的を持つた明治の唱歌がどれだけましか知れないのだ。現に、明治唱歌は、童謡に代つて復興した感がないではない。

 児童たちは、頂(ママ)度、牧場のやうな柵にかこまれた学校内で、羊のやうに飼はれてゐるではないか。一度校門を放れると、荒つぽい現実の風が、まだ柔弱な彼等の肌を吹きすさぶ(略)そこには当然、社会の空気全部への暖房設置が行はれなければならないのだ。社会の根本的な改革がそれを解ママ結して呉れるのだ。「(ママ)ソビエットに於ける児童文学の健康性が我々にいい範例を示してゐる。)(略)「童心」についての再認識、再考察は目下の急務ではないか!
 この時期にあたって「ソビエットの児童文学の健康性」に言及しているところに注目した。児童心理学の発達段階についても「ブルジョア階級か、中産階級か、プロレタリアかの、階級差異によつても異動の生ずることは当然である。」プロレタリア児童文学に近い発言と読める。
 この現実の荒風にチェックされる児童にとつては、「童心」随喜の、感傷所産による従来の児童文学の産衣では間に会(ママ)はなくなつてゐる。(略)この荒風になほ耐えて伸びて行かんとする、人間の強く生きんとする本能の動向、これを確立し、暗示するのが、我々の必要とする今日の、明日の児童文学の本領とならなければならない。(全文傍点)
 さらに言葉をついで言う。
児童と児童相互が形造つてゐる児童の社会生活をも文学の上に表出されなければならないのだ。(全文傍点)
 與田の「鈴木三重吉はこの意味で、早くから児童相互の生活文学を確立することを主張した。」との発言は消化不良に思える。鈴木三重吉が「一人の童話作家をも世に送らなかつたのは、三重吉の作家的狭量」との批判に対して、多くの作家に「古来のお伽話や口碑や伝説の文学的な再燃や外国物の翻訳が多かつたので、三重吉のかゝる要望に適ふやうな作家が輩出しなかつたと見て至当である。」との見方はおもしろい。三重吉が「創刊当初に一、二篇の創作をかいたのみで、それ以後は休刊まで、そして復活から今日まで外国ものの再現のみに固持してゐることを甚だうらみとするものである。(訳物によるマ マ効積は認る)」
 思えば、この時期昭和十一年一月は、まだ鈴木三重吉存命の時であった。
 「赤い鳥」の休刊直前からあらはれて、復活より今日まで、そして愈ゝ油ののりきつて来た坪田譲治の作品こそは、児童の社会生活を対照(ママ)としてゐるものとして注目されていいし、三重吉も「赤い鳥」復活が無意義でなかつたことをこの一事でもつてしても、満足してよい。
 表現は難解であるとしても、立派な児童文学の作品として、ウエイクネルの「下から見た世界」を推したい。彼は自分の娘(モーニと作中で呼んでゐる)が生れ落ちてから自我意識に目覚めるまでの仔細な生活記録をーそして幼童から見た、つまり、下からみた、成人(両親)の生活についての感覚と叡智の記録を表出してゐるのである。
與田らしい結語である。(未完)


鈴木三重吉の投稿「亡母を慕ふ」について  

上田信道


 鈴木三重吉が満14歳当時のこと、「少年倶楽部」誌に投稿した作文「亡母を慕ふ」が、みごと入選を果たした。
 入選の前年、三重吉は旧制・広島県広島中学校(のち、県立第一中学校を経て広島国泰寺高等学校)へ入学しているので、この作文は同校二年生のときのものということになる。商業誌に掲載された三重吉の著作物は、これをもって嚆矢とする。
 掲載誌は北隆館から刊行されていた「少年倶楽部」の第4号で、1897(明30)年4月5日付の発行である。ちなみに、この雑誌はこの年の1月に創刊されたばかりの月刊誌で、のちに大日本雄弁会講談社から刊行された同タイトルの大衆児童文学雑誌とは無関係である。
 また、これにやや遅れて、同じ北隆館から刊行されていた「少国民」誌の第9年第10号、1897(明30)年5月7日付発行の号にも、三重吉の投稿作文「天長節の記」が入選。口絵の「入選者肖像」に三重吉の写真が掲載される、という出来事もあった。ほかに、三重吉は「新声」「新文学」の両誌などへも、さかんに投稿しているようだ。
 さて、「亡母を慕ふ」だが、これまで年譜などにタイトルが紹介されることはあっても、その内容についてまで紹介される機会はほとんどなかったように思う。岩波書店版の『鈴木三重吉全集』にも掲載されていない。
 そこで、すでに著作権も消滅していることであるから、ここに全文を掲載・紹介しておくことにしたい。
 なお、原文の改行は一箇所のみで行頭の字下げはなく、句読点もない。仮名遣いは原文のままにした、漢字は新字体に改め、繰り返し記号(「ゝ」「々」は除く)は該当する文字で開いた。

木動かざらむと欲すれば風止まず子養はむと欲するも親待たず思ひ廻らせば余が九歳の秋慈愛ふかゝりし母上はふとせし病にかゝりて枕につかせ給ひてより日々に重らせ給ひ医よ薬よと人々の看病怠りなきに余は之を労りもせで学校より帰るや否や稽古道具をなげやりたるまゝ唯遊びに餘念なかりき
一日母上は余を枕辺に呼び召されて息くるしげにくれくれと誡め給ひぬ時しも余は母上の痩せおとろへ給へる手もてなでさすり給ひつゝ誡め給ひし詞の身にしみてそゞろに両の目に涙あふれけるが泣顔人に見られじと詞の終るを待たで飛ぶが如くに立ち去りぬ思ひきや此対面は此の世のなごりならむとは遂に母上は無情の風に誘はれ給ひて物さびしき秋の九月二十八日の夕ぐれに桐の枯葉散り落つると諸共に稚けなき弟を気になし給ひつゝ帰らぬ旅に出で立ち給ひぬかゝる事のあらむと知りたらむには日々枕辺に侍ひて孝行の一端をも致しまひらすべきに剰へ最後の御詞に甲斐々々しき御返事さへせざりしを思へは(ママ)胸は砕け頭は破るゝ心地して袂を噛み裂き畳をかきむしりて声を限りに泣き叫びしも甲斐なし扨も悲ひかな余の喜びを両親と共にせむと思へど母あらず艱苦を語りて共に泣かむと欲せば母あらず又少しく物せばやと文机によりて考ふれば此一事の浮びて為めに心気快からざりし事果して幾回ぞや天若し余が母上を呼ママひ返し余をして孝を尽さしめは(ママ)余が悦びはたとふるに物なしと仰で天に訴ふれど天応せ(ママ)ず俯して地に願へど地答へず鳴呼天地何ぞ無情なる鳴呼青苔白露の墓下に眠り給へる我ママか亡き母上は今や如何なる夢をか結び給ふらん
 以上が全文である。
 三重吉は1882(明15)年9月、父・悦二、母・ふさの三男として、いまの広島市大手町一丁目に生まれた。母の病没は1891(明24)年9月のことで、享年は37歳であった。以後、三重吉は父と祖父母によって育てられることになる。
 つまり、文中に「余が九歳の秋」とあるように、入選作文は六年前の出来事を回想して書かれたものである。雑誌の選評に「愴凉悲欝、卒読に禁へず。」とあるように、幼くして母を失った三重吉の心境を窺い知ることができるだろう。
 なお、三重吉は、旧制中学に入学したころから読書や作文に興味を覚え、「映山」という号で雑誌に投稿を始めているが、「少年倶楽部」誌での投稿者名は本名の「鈴木三重吉」で、「広島県広島猿楽町」と住所の紹介だけがあって、学校名など個人情報に関する記述は何もない。これは「少年倶楽部」誌の入選作文としては標準的なものだ。
 次に「亡母を慕ふ」についての評価である。
 むろん、全国誌への入選作とはいっても、これは広島在住のまだ無名の旧制中学生の作文にすぎない。
 例えば「息くるしげにくれくれと誡め給ひぬ」とあれば、その《くれくれ》の内容や、それを死の床にある母から聞いた少年の感じたことを、率直かつ具体的に知りたいところだ。表現からいっても、母の死を「無情の風に誘はれ給ひて物さびしき秋の九月二十八日の夕ぐれに桐の枯葉散り落つると諸共に」云々という比喩は昔から言い古されたものであるし、「胸は砕け頭は破るゝ心地して袂を噛み裂き畳をかきむしりて声を限りに泣き叫びしも甲斐なし」や「木動かざらむと…」と「子養はむと…」、「天に訴ふれど…」と「地に願へど…」のような対句表現のレトリックにしても、みな同様である。要するに、母を亡くした子どもが書いた作文のステロタイプという域を出ていない。
 ただ、これらはあくまでも、今日の観点からの評価である。
 三重吉のこの作文が、その頃の文学少年たちがこぞって投稿を競いあった全国誌に入選した理由は、おそらくそういった内容よりも文章、すなわち文体が高く評価されたのではないだろうか。なるほど、美文調の流れるような文体は当時の旧制中学低学年の少年が書いたものとしては遥かに水準を超えている。のちに「千鳥」をして文壇に頭角をあらわす並々ならぬ才能のありようを窺い知ることができるだろう。
 また、のちに三重吉が「赤い鳥」誌において行った投稿作文の募集と選評について考究するうえでも、三重吉自身の書いた投稿作文のありようを知っておくことは不可欠である、と考えられる。

(完)



『家庭唱歌』第一集

  岡村増太郎編述・四竈訥治撰曲
  明治20年10月(日付無)
  普及社

 『小学唱歌集』の初編が出たのは明治一四年であるから本書はその六年後ということになる。所見は同年一一月三〇日再版御届の奥付のある再版。横長で大きさも『小学唱歌集』の体裁を真似たかと思われる。少なくとも四集までは出た模様(未確認)。一か月後に再版されているので好評だったらしい。編述の岡村は、『理科教科書』『初等教育作文一千題』その他多くの教科書類を手がけている。序文を含めた総ページは二七頁。「家庭唱歌第一集の序」(梅の舎主人)が最初に置かれ、「序」が続く。
 「序」によれば、「音楽の道は人心を和げ風化を助け教育の上には欠くべからざるものにこそありけれ」という認識の下、「守謡や数へ歌」をあつめたもの。前半は「勧学の歌」(福羽美静)などの数え歌を収録するが、後半一六頁以降は、「桃太郎」をはじめ、昔話が収録されている。七五調のリズムが整っているので、「序文」にいう「守謡」であろうか。
 昔話に署名はなく、岡村の記述と思われる。収録されているのは「桃太郎」「猿と蟹」「舌切雀」「花咲爺」「かちかち山」で、いわゆる五大昔話である。江戸期のものとの比較や、他の同時期の再話との比較検討も興味深いテーマだが、今はとりあえず全体を紹介しておきたい。誌面の都合上収録順に「桃太郎」「猿と蟹」「舌切雀」の三つをとりあげる。漢字、変体仮名は現行のものに改め、ルビを略したが適宜残した箇所もある。ワープロで示せない漢字は〓で表し、注は〔 〕に記した。漢字は新字体に改め、繰り返し記号(「ゝ」は除く)は該当する文字で開いた。

「桃太郎」
柴の折戸の賎が家に。翁と媼が住まひけり。翁は山に薪こり。媼は川に衣濯ひ。日毎日毎の世渡りも。いと浅ましき朝熊山(あさまやま)。いと閙(いそがしき)五十鈴川。流れ流るゝ水面瀬に。流れ来れる桃の実の。世に類なく太ければ。あな珍しと持帰り。折敷に据ゑて愛る中。桃はわれからうち割れて。男子(をのここ)ひとり出にける。老の夫婦は驚きつ。又
悦びつ取上げて。桃の中より出でたれバ。桃の太郎と名(なづ)けつゝ。簪の花と愛でけるに。次第に人に成るにつれ。猛しくもまた敏くして。翁と媼の高き恩。深き恵みに報いんと。鬼ハ時々人里に。渡りてにくき挙動(ふるまひ)を。憎しと常に思ふより。黍の団子を糧となし。犬猿雉子随従(したがへ)て。鬼が島わ(ママ)に打わたり。鬼を征討(ことむ)け其島の。黄金白銀種々の。宝を収め帰り来て。翁と媼に捧げつゝ。豊かに富める身となしし。親に仕ふるまめ心。実にありがたき例なり。鬼てふものハ世にあらず。人たる道にそむきたる。心の鬼の醜鬼の。邪人(よこしまひと)を鬼といふ。幼な心に善悪を。しらせんために伝へたる。昔の人のおしへ艸。

「猿と蟹」
人里遠き奥山の。渓間に遊ぶ猿と蟹。蟹の持てるは握り飯。猿の持てるは柿の核。核と飯とを換バやと。猿の迫るに力なく。飯を渡して核を取り。核をば園に植ゑけるに。年たつ程に実を結び。色さへ殊にうるハしく。みのれるさまは〓〔よみ「なが」〕むれど。蟹の横這捗らず。梢に登る術なきに。空を見上げていたづらに。眼を慰むるのみなるを。猿は見すまし我儕(わなみ)社。得手の業なり其?を。取りて得させん其代に。また我儕にも得させよと。云ひさま梢へ攀上り。己が気侭に採り喰ひ。蟹には更に与へねバ。蟹は懦弱(かよわ)き身をかこち。せめては我にも一ツだに。与へよかしと謂ひぬるを。猿ハ惜みて渋々に。渋き青?一ツとり。擲うちければ蟹の背に。ハタと当りて背をわられ。蟹は不具の身となりて。敵うつべき術なく。うれへ悲むを
りも折。尋ね来れる蜂鶏卵。搗舂等(つきうすども)が斯くと聞き。憎ツくき猿めが振舞や。いでや敵を取りてんと。猿の庵に潜みつゝ。待とは如何に神ならで。しら猿智恵に一人咲(ゑみ)。残りの?も我物と。打うなづきつ爐のはたに。居寄る折柄燃頻る。榾の中より飛出づる。鶏卵ハ猿の横顔へ。パチと〓〔よみ「は」〕ぬれバたまり兼。焼処(やけど)に薬貼たんと
す。その手を蜂はつよく刺す。こハ溜らじとあはたしく。厨の水に冷すをり。瓶に潜みて待つ蟹が。いたく其手を鋏みけり。猿は愈々驚きて。こけつまろびつ戸を明て。迯る折しも搗臼は。棚の上より転げ落ち。むんづと猿を踏敷いて。たしなめけりと己が身に。なす罪咎ハ己が身に。因果応報まのあたり。かへるといへる理を。稚児達にさとすため。昔の人の教草。

「舌切雀」
鄙も翁と媼あり。翁が常にいつくしみ。飼ふて楽む雀あり。ある日翁の営業(なりはひ)に。出たるあとに媼一人。洗濯物の糊壺の。乾き減りしを只管に。雀の所為(わざ)と思ひなし。其舌切りて放ちけり。翁は帰りてよしをきゝ。情なき事してけりと。杖にすがりてこゝかしこ。雀のありか尋ぬるに。みちに雀に行逢ひて。見れバ昔の飼雀。雀踏しつゝ悦びて。己がねぐらに伴ひつ。最と珍しき海山の。うまき物どももて来つゝ。酒を勧めつもてなすに。翁も深く打解けて。厚き心を喜
びつ。いざまからんと夕暮に。暇乞ひして立ちければ。さらバ土産のしるしまで。黄金白銀絹つむぎ。さはの宝を遺りけり。媼は見るより慾と腰杖に張りつゝ我も亦。宝乞ひ得て帰らんと。先の怨みはしらずげに。雀を訪ひつ竹葛篭。乞ひつせおいて帰るさに。中は如何なる宝ぞと。蓋をあくれバ這(こ)ハいかに。宝にあらで鬼羅刹。化生の数々あらはれて。媼が邪慾を懲せしと。己が幸のみ冀がひ。人の歎きを省みぬ。邪しま人を戒しむる。昔の人の教草。

(藤本芳則)