インターネット版

児童文学資料研究
No.107

発行日 2007年2月15日


目  次


三つの「転換期の児童文学」―槙本楠郎・川崎大治・夏目 弘―大藤幹夫
久木水府楼「詩人野口雨情君の苦心」上田信道
児童雑誌「絵入雑誌軍事教育」について藤本芳則

三つの「転換期の児童文学」―槙本楠郎・川崎大治・夏目 弘― 

大藤幹夫


 ここに言う「三つの「転換期の児童文学」」とは、槙本楠郎「児童文学研究[一] 転換期の児童文学」(「教育・国語教育」昭和11年4月1日発行)、川崎大治「転換期の児童読物」(「教育」昭和14年5月1日発行)、夏目弘「転換期の児童文学―岡本良雄小論を中心にー」(「子供と語る」昭和15年8月10日発行)である。
 それぞれに「転換期」とするところが違う。槙本は、「赤い鳥」から「プロレタリア児童文学」へさらに集団主義・生活主義童話への転換期を示し、川崎は、昭和十三年十月に出された「児童読物ニ関スル指示要綱」による転換期であり、夏目のそれは、いわゆる生活主義・集団主義童話から「生活童話」への転換期を問題にする。いずれも児童文学史にあって大きな「転換期」と目される。
 槙本は、「何故に児童文学が発生したか」から書き始める。そして「赤い鳥」運動に至る。この運動の特徴を次のように説く。「この運動の特徴は、何よりも児童を絶対視し、神聖視したことにある。(略)彼等は異口同音に唱えたのである。『児童は天真爛漫である。純真無垢である。天使である。大人の父である。』」しかし、「一九二〇年代の当初数年間まで、所謂「文壇」から厚遇された児童文学(童心文学)はそれ自体が社会性を喪失するに従ひ、文学界から蔑視され、文壇からは所謂「継子扱ひ」にされ、児童及び一般大衆からは支持を失つて行つた。」「その後、新興児童文学が台頭し、児童及び児童文学の社会的・科学的批判が行はれ、所謂童心文学の幼稚な「文学理論」は、既に文学理論以前のものであることを明らかにした。」と流れを纏める。
 槙本は何よりも「児童文学の創作態度」を強調する。

(1)児童の立場(心理的・社会的)で →(2)児童の関心事(趣味・嗜好・その他)を →(3)児童の読んで理解しやすいやうに→(4)文学的に形象化すること
 そして、興味ある文章が続く。
もしこの基本的な態度を一つでもおろそかにするなら、それは似て非なる児童文学作品しか出来ない筈で、最近文壇的に持て囃された宮沢賢治の「童話」と称するものの如きは正にその適例であらう。
 これは、宮沢賢治の『注文の多い料理店の』の「序」の「これらのなかには、あなたのためになるところもあるでせうし、ただそれつきりのところもあるでせうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでせうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。」との言葉を意識した文言なのだろうか。
 先に引用した槙本の文章は、『新児童文学理論』(東苑書房、昭和11年)に収録された「童話作家の創作態度」と比べると少しニュアンスの違いが読み取れる。
もしこの一つを誤つても、それは厳密な意味では「児童文学」ではなく、決して健全な「童話」とは云へないのであつて、例へば最近評判になつた宮沢賢治の「童話」と称する如きものが,u>それである。(傍線引用者)
 後者は、文章の終わりに「一九三五・一二・六」と執筆時期を示しているので本稿(「一九三六・二・二七」)のそれは、書き改めたものであることがわかり、槙本の主張の変化も読み取れるのである。
児童の日常生活の中から、児童の正しい集団的・自主的・創造的生活を導き出し、それをヨリ合理的な社会生活へと、彼等自身によつて高めさせて行くことである。
 川崎の論稿は、「児童読物ニ関スル指示要綱」発効以来「どれだけ児童の読物が、向上して来たか」の報告である。
 「一番目立つのは、所謂赤本漫画の類がぐつと減つたことである。」この点では当局の意図は達成されたと言える。「絵も文も見違へるほど良いものになつて、それが思つたより廉い値段で、どんどん売り出されてゐることである。」と、手放しである。
 月刊雑誌では、「活字が大きくなつてゐる事、振り仮名が従来の総ルビから、パラルビに変つてゐる事であらう。」
 漫画は、「全体としては、教育といふ事を大分心がけてゐるやうである。」
 「支那事情の紹介もよく載るやうになつた。」「事変以後は殊に敵愾心の対象としてこれをとりあげたものであつたが、最近ではそれが、日本精神の具象的な現はれとしての、親和的立場から取扱はれはじめてゐる。従つて同じ紹介でも、戦争ものから生活ものへと次第に移りつゝある。」
 「生産と勤労に関するものも亦、意識的にとりあげられて来た。」
 こうした好意的な評価の中にあって、「児童雑誌の新らしい方向は、グラフや口絵や短い記事の中は比較的よく示されてゐるが、童話とか小説とかの文芸作品になつて来ると、甚だ貧弱である。」と厳しい。
 単行本では、「流石に此の頃は、発禁になるやうなものは殆んど出なくなつたとの事である。」しかし、「量の上で、一番多く出版されるのは、何といつても低俗な読物本である。これは大抵外国の名作の焼直しで恥人的文筆業者が書きなぐつた原稿を、安い値段で本屋が買取つたものである。本屋は一度買つた原稿を、幾度でも、組み直し作り直して、安価で売るのである。」が、「最近此の種の本の装丁が、目立つて良くなつて来た。」との評価はどう見ていいのか。
 児童文学の本流はどうか。「(1)児童文学に於ける古典の復興、(2)古い童話作家の再登場、(3)小説家による児童読物の出版」の三つの現象が見られる、と言う。戦後第二期のそれとよく似ている。
 小川未明の「他の作家を圧倒する異常な創作力」を認めながら、「時代の中に作中の人物が身を処して行く段になると全く筆者はしどろもどろで、奈辺を見、奈辺に歩み行くべきかを知らない事はまことに悲しい。この敬愛すべき老大家が、既に現実を具象的に把握する芸術家としての力を失つてゐるといふ厳粛な事実を見るとき、我々は歴史の冷酷な進展に対して涙なきを得ない。同時に、児童文学の世界にも亦大きな転換期の来つゝある事を、深く感じさせられるのである。」と、一つの「転換期」を示唆するのであるが、具体的な指摘のないままの文章としか読めない。
 「どうやら今年は、業者・画家・作家等の方にも、時代に目ざめたいろいろな新しい団体も出来、大分陣容も整つて来たやうであるから、来年あたりから、ぼつぼつ積極的な仕事が芽生える事であらう。」との予見を示す。
 しかし、「昨年までは、児童読物の大衆性といふ事は、そのまゝ卑俗性をさへ意味してゐたが、最近では、大衆性をもつためには、健康な指導性が必要であるとまで思はれるやうになった。」と、他に「指導性」を仰ぐような姿勢がどのような時代を招いたかは歴史が証明している。
 夏目は、「新体制」と呼ばれる時を「日本は、未曾有の歴史的転換期に直面してゐる」と、時代の転換期としている。
 「子供と語る」の日本新人賞作品、岡本良雄の「八号館」、下畑卓の「三十五人の小学生」、花岡大学の「■{(谿-谷)・(誰-言)}」などを取り上げて「私はこの国の児童文学の現状について、一つの方向を感じえた」と書く。
 「今迄の児童文学が、子供の立場から、子供の関心事を、子供に理解出来る様に文学的形象を行ひ、子供を高める為に努力して来たことの正しさを認めるが、特に現在必要とされるのは、子供の世界観を正しく育てることに重点がをかれるべきではなからうか。」と、提言する。前段は明らかに槙本の主張する「集団主義・生活主義」をなぞった文章であることはすぐに読み取れる。「子供の生活感情を規定する社会的なもの国家的なものへ作家の目が正しく開かれねばならぬのだ。」ここに「国家性」の言葉を導入したところに時代の転換期が読み取れる。岡本の「八号館」の入賞は「新しい日本的生活(児童を含めての)を発見」したことが認められた成果という。
 「所謂、リアリズム童話の提唱は、働らく子供への関心が示されると、忽ち粗製濫造の生産童話(?)を出現させ、集団的生活の強調は、公式的な子供童話(?)のエピゴーネンを続出させている。」との見方は、明らかに「生活童話」への転換を予言している。

久木水府楼「詩人野口雨情君の苦心」 

上田信道


 久木東海男(くきとみお)は別名を水府楼学人ともいう。水府楼の号(水府は水戸の異名)からわかるように、茨城県生まれのジャーナリストで、野口雨情との交友は少年時代にまで遡る。著書に、新聞関係者の伝記『無冠之帝王』(水府楼学人 1913 敬文館)や『新聞先覚評論』(久木東海男 1932 立命館出版部)がある。
 ここに紹介する「詩人野口雨情君の苦心」は、雑誌「現代」の1922(大11)年7月号に掲載された記事で、著者は久木水府楼の名義である。

 『現代』のために雨情君の詩人としての苦心を話すことを、我(ママ)輩は光栄とする。雨情君はずゐぶん交友のひろい方だが、雨情君の生立ち、郷里のこと、これまでの恋の話、その他すべての事を一切承知して居(を)るものは恐らく吾輩だと信ずる。君は吾輩にとつて兄事し来つた友人である。吾輩は、無遠慮に他人の批評を試むので、先輩友人などからかなりいやがれ(ママ)るが、雨情君のことだけはどうしても悪く云ふ気になれないからをかしい。

 雨情君は、今日では文壇の人である。吾輩は文壇以外に立つやくざものである。しかも君とは少年時代から交誼したので、詩人としての君の苦心をもかなり承知してゐるつもりで居る。
 このような書き出しで、自身と雨情の関わりについて述べたあと、雨情の文学上の業績について、次のように述べる。
 今でこそ民謡、童謡が、世人からすばらしい勢ひで歓迎される有様であるが、今から十数年前、人見東明、相馬御風、三木露風、加藤介春と野口雨情の五人が、『早稲田詩社』に拠つた頃は、民謡、童謡といふ言葉さへ、世人は知らなかつた位である。此の頃、早くも民謡、童謡を文芸としてとり取(い)れたものは、わが雨情君であつた。今日の民謡、童謡といふのは、実に雨情君によりてはじめて唱へられたものである。
 この頃の雨情は上京を果たし、「金の船」の編集に従事しながら民謡集・童謡集・評論集を刊行するなど、すでに中央文壇で名声を得ている。したがって、水府楼の評価は決して身びいきなものではない。ただし、「今日の民謡、童謡といふのは、実に雨情君によりてはじめて唱へられた」云々の件については、受け入れがたいところである。
 民謡は大人の感情に訴へ、童謡は、子供の感情に訴へるものである。感情に訴へられるために、理知判断に依らずして歓喜、悲哀をすぐ感じ、心の情味を培ふことができる。雨情君の主張する民謡童謡の目的はこゝにあるのである。

 それには直ちに胸にふれて、情懐を動かしてつくるものでなければならぬ。雨情が詩調の洗錬に非常の苦心をする所以である。
 このように雨情が民謡と童謡を創作する目的について自らの見解を記したあと、いよいよ話題を核心部分に向ける。
 彼は、道を歩くにも、電車の中でも、絶えず口の中で口誦してゐる。数十回数百遍、口中に推敲した後に於て、漸く一篇の詩が生れるのである。
 吾輩は、北原白秋君の作の外は、あまり知らないから明快には申されぬが、詩人で雨情ぐらゐ作詩に一種独特の苦心をするものがあるかどうか。

 先年君が上京して、吾輩の門をたゝかれた時に、『燕の母さん、しやれ母さん』といふ童謡を作るために、夜から朝にかけて、数百回も吟誦し、倦むところを知らぬありさまに、吾輩の家族は、一同驚いてしまつたことがある。『そんなに苦心しないでもよからう。』と聞いたら、君は即座に、『いや、芸術は決して急いではいけない。急いで作るものに、よき芸術の生れる筈がない。』と答へたので、吾輩もなるほどと感心した。
 雨情が独特の口調で、自らの童謡や民謡を吟誦しながら創作したことはよく知られている。童謡集『蛍の燈台』(1926 新潮社)の自序にも、雨情は「童謡は、童心から生れる言葉の音楽であります。童心から生れる言葉の音楽が、芸術的価値があつたならば、童謡と言ふことが出来ます」と記しているが、水府楼のこの一文はそうした雨情の創作方法を裏付ける証言である。
 「燕の母さん、しやれ母さん」云々の件は、童謡「燕」のことである。この童謡は童謡集『十五夜お月さん』に収録されているが、短い童謡なので、次に全文を引用紹介したい。
燕の母さん
洒落母さん
そろひの簪
買つてやろ
牛乳屋(ちちや)の表に遊んでた
母さん燕は洒落母さん
 このような短い童謡にさえ、雨情は数百回も吟誦しながら苦しみ抜いて童謡を創り、久木家の人たちを驚かせたという事実が具体的に記されている。
 次に明らかにされていることは、雨情童謡のもうひとつの特性である《土の匂い》についてである。
 民謡には、土の匂ひが豊かでなければだめだと雨情君は信ずる。だから、君は自ら耕畝の間に鋤鍬を取つて数年間を閲みした。彼の郷里の農村の人々はいつも彼の親しい友達であつた。
 童謡には、子供の生活がわからなくてはだめだと雨情君は考へる。だから君は少年時代の、漁村にして農村なりし故郷の往事を追想し、その頃の事柄なり、日常なりを頭の中に呼び起して味ふのである。君の童謡に、他のまねのできないのんびりした、恰も田舎の神楽囃子の笛太鼓の音を聞くやうなところのあるのは、即ちその少年時代の追想から来たものだ(ママ)
 こうした記述と評価は、雨情の童謡集『十五夜お月さん』(1921 尚文堂)に茨城地方の方言が取り入れられ、効果をあげていることに通じるだろう。雨情はこの童謡集の巻末自註に「郷土の人と土とに親みの多い二三の方言が、本書童謡中にとりいれてあります」云々と、方言と《人と土》の関係について述べている。また、これが都会風に洗練された「赤い鳥」童謡と、雨情の拠って立つ「金の船」童謡の違いを醸しだす理由でもある。
 最後に、雨情の人となりについてである。
 雨情君の風采を見よ。いつでもよごれた衣をまとひ、ぼろ袴をつけて、平然として控へてゐる。あのきたない服装(なり)で、どこへでも出かけるのである。昨年澄宮殿下に、その詩を献上して以来、野口雨情の名は、宮中にひろまつたが、同時にその風采の■{風/・易}がらず、服装のきたないのには大に驚かれてゐる。
 或る有名なる実業家に、雨情君を紹介したあとで、その実業家は、『あの人はよほど志の大きい人だ。』と感嘆してゐたが、雨情君を始めて見る人は、大抵此の様な感嘆の声を放つを例とする。
 「澄宮殿下」云々の件は、1921(大11)年10月に童謡「千代田のお城」を自書して澄宮(のち三笠宮)殿下に献上したことを指している。「千代田のお城」は「金の船」の同年12月号に掲載され、童謡集『青眼の人形』(1924 金の星社)に収録されている。
 なお、雨情は1926(大15)年に澄宮殿下の御前公演に召されている。このときは、さすがに友人たちが紋付羽織や袴などを用意してくれた。しかし、宮中から帰宅する途中で祝杯をあげ、下賜された金一封ばかりか借り物の着物までも酒代に化けてしまった、というエピソードが残っている。

(完)



児童雑誌「絵入雑誌軍事教育」について 

藤本芳則


 日清戦争以後、少年雑誌に軍事関連の記事が増加するなか、明治30年4月1日に、「軍事教育」を誌名に謳った雑誌が創刊された。日露戦争へと続く軍事・軍国思想を子どもたちに注入しようとしたものである。当代の子どもたちに軍事・軍国思想がどのように手渡されようとしたのかを創刊号からみておきたい。
 書誌的事項から,記すと、月刊、菊判、本文113頁、代価9銭。東京日本橋の軍事教育社発行、編輯兼発行者は、多摩郡桑田村の土方元吉。土方は、自由党員として民権運動で活躍していたとされる人物と同名であるが、同一人物かどうかは不明。本誌は、7号まで確認されている。
 表紙は図のとおりで、日の丸と日章旗の一部、地球をかたどった世界地図の日本に赤色を使用。左に桜、右に碇を描く。大和魂と軍事力で世界に向かって勇躍するというイメージを表現しようとしたものか。
 表紙の桜の幹には「陸海軍兵士各学校生徒は特別大減価」と記され、上方の桜の枝には「ふりかなつき」と書かれた短冊が結ばれている。
 創刊の辞にあたる「初見参に入るの辞」には、我国は、平和を維持するため清国と戦ったが、世界の情勢をみると今後も兵備の充実につとめて世界の治平を保たねばならない。このことをふまえ、軍事教育社の目的は、「ひとへに国民皆兵の主義に拠り」「護国の要道を説示し、全国民をして、ますます尚武の気風を養成し一旦事あるに臨み、相率ゐて能くその任務を尽くし奉公の大節を完うせしむるに在り」とする。この意図を諒解し、翼賛して欲しいと続き、「この目的を達し、希望を遂ぐるの機関としてこゝに我社は、絵入雑誌軍事教育を発行す。」と結ぶ。また、内容については、「なるだけ通俗の方法を取り、而も卑猥に流るゝを禁じ、つとめて多趣多益の事項を掲げ、人をして楽んでこの門に入り、おのづからこれが化育を受けしめんとするなり」と抱負を語る。
 内容をみてみよう。最初に折りこみの世界地図、続いて口絵に明治天皇、皇后の写真を掲げ、「皇室万歳」と題した一文を付す。さらに「帝国万歳」との題名のもと、軍艦(鎮遠)の写真と解説を掲載している。日清戦争で鹵獲した軍艦をもってくるあたりに、編集の意図が感じられる。
 本文は11の欄よりなる。「軍事教育」をどのような編集で実現しようとしたのか、目次(欄名)を列挙してみる。
社説・尚武亀鑑・名将列伝・世界戦史・兵家説林・軍人文庫・戦争小説・軍学余師・陸軍雑報・海軍雑報・海外兵事
 欄名だけでは、よくわからないので実際の内容を、欄ごとにごく簡単に記す。

「尚武亀鑑」

「会津白虎隊の十六勇士」(大塊)=読者を意識して少年を主人公とする読み物を最初に置いたものであろうか。連載。
「豪胆なる少女」(天鼓道人)=アメリカの小さな砦が舞台。英国の殖民と「亜米利加土人」との戦いのなか、一人の少女が身の危険をも顧みず軍の任務を志願する話。実話かどうかは不明。連載。
「名将列伝」
「越後上杉将軍伝」(平惇)・「英国ネルソン将軍伝」(越山平三郎)=いずれも伝記で文語文。「尚武亀鑑」欄の二作は言文一致体。
「世界戦史」
「通俗征清編 発端上」(城戸武夫)・「普仏戦争記」(玉坡隠士)=いずれも連載。文語体である。「尚武亀鑑」からここまでの欄の記事は、日本と外国の二つがペアとなっていて、日本と世界が強く意識されている。
「兵家説林」
「聯隊長ノ職務及動作」(普國歩兵第五十七聯隊長フォンフヰンク述、香朶楼主人訳)=聯隊長の職務をのべたもの。他が仮名にひらがなを使用しているのに対し、カタカナを使用。
「軍人文庫」
「おあん物語」、その他明治以前の人物を題材にした詩歌を掲載。
「戦争小説」
「大薮合戦」(漣山人)=「軍事教育の発刊を祝して賀辞の代わりにお伽噺一篇を寄す」と前書きがある。署名は「少年世界の 小波」。畑を荒らす猪に手を焼いた村人が、猪の住む竹薮を取り払おうと決める。それを聞いた竹薮に住む多勢の雀が、猪を退治して竹薮を守るというもの。小さな雀が大きな猪を退治るところに時代状況を反映させたとみるのは穿ちすぎか。
「軍人気質」(麗水生)=日清戦争で兄を失った少年を主人公にした連載小説。
「軍学余師」
「賎ケ岳の役戦畧評論」(丸山正彦)、「剣術叢話」(狂剣子粛洞)は、合戦や剣術の論評ないし解説で、「兵営案内」(鉄髪将軍述)は、徴兵などにより入営する者への手引き。
 以上のほか「陸軍雑報」「海軍雑報」は、幼年学校をめぐる情報やニュース、「海外兵事」は、国際紛争や外国の軍備状況など。
 伝記、ノンフィクション、軍事に関する知識や情報などのほか、文芸作品もあり、軍事というテーマのもとさまざまな記事を総合的に提供しようとしている。先にも触れたが、一つの欄で外国と日本を対にした編集方針がみられるように、世界の中の日本という視点がはっきり打ち出されている点が特徴的である。