インターネット版

児童文学資料研究
No.66


  発行日 1996年11月15日
  発行者 〒546 大阪市東住吉区東田辺3-13-3 大藤幹夫


目  次


1995年紀要論文[補遺]大藤幹夫編
1996年上半期紀要論文[補遺]大藤幹夫編
「文壇諸名家雅号の由来」について(2)上田信道
明治期少年雑誌「少年之花」他三誌藤本芳則

1995年紀要論文[補遺]

大藤幹夫編

[日本児童文学]

  1. 「冒険は故郷の外で―斎藤惇夫《ガンバ三部作》―」 本多英明 「相模女子大学紀要」58A 1995.3.10
  2. 「『ごんぎつね』[新美南吉]研究―『つぐない』の考察を中心に―」 平田陽子 「岩大語文」(岩手大)第3号 1995.6.10
  3. 「「ごんぎつね」の視点と語り」 山本茂喜 「人文科教育研究」(筑波大)第22号  1995.8.3
  4. 「街道端の協奏曲―宮口しづえノートU―」 関村亮一 「中京短期大学論叢」第26巻第1号 1995.12.25

[宮沢賢治]
  1. 「宮沢賢治、その非暴力への道―『ポラーノの広場』をめぐり(上)―」 呉善華 「近代文学 注釈と批評」(東海大大学院)第2号 1995.5.30
  2. 「「水仙月の四日」の主題と主題関連発問」 横山明弘 「人文科教育研究」第22号 1995.8.3
  3. 「教材「やまなし」実践における学習課題の検討」 常木正則 「人文科教育研究」第22号 1995.8.3
  4. 「アニミズム化する自然―直哉、賢治、かの子における自然意識」 大久保喬樹 「東京女子大学日本文学」第84号 1995.9.30
  5. 「宮沢賢治のポイエティックス=オノマトペイアの場合=」 西川盛雄 「方位」(三章文庫)第18号 1995.10.1
  6. 「宮沢賢治「銀河鉄道の夜」諸本研究 一」 金戸清高 「方位」第18号 1995.10.1
  7. 「宮沢賢治のオノマトペの世界」 窪 温子 「研究紀要」(神戸海星女子学院大)No.34  1995.12.25
[世界児童文学]
  1. 「無垢のイメージ―Virginia Hamiltonの作品より―」 島 式子 「甲南女子大学研究紀要」創立三十周年記念 1995.3.10
  2. 「ルイス・キャロルの意味論(3)―1 『不思議の国のアリス』より」 宗宮喜代子 「東京外国語大学論集」第51号 1995.11.30
[詩歌・童謡]
  1. 「童謡・唱歌の聴取経験に関する研究―うたは歌い継がれるか―(5)」 嶋崎晶子/田中英夫 「立正大学短期大学部紀要」第35号 1995.6.30
[絵本・漫画]
  1. 「形違い絵本考 2(わが国の昔話絵本―その1―桃太郎)」 辰巳義幸 「大阪城南女子短期大学 研究紀要」第29巻  1995.2.24
[児童文化]
  1. 「『となりのトトロ』と子どものファンタジー」 田中信市 「東京国際大学論叢」(人間社会学部編)創刊号(通巻第52号) 1995.9.20
  2. 「児童文化財の研究(2)―アニメーション・ビデオの現状と傾向―」 斎木恭子 「鳥取女子短期大学研究紀要」第32号 1995.12.20

一九九六年上半期紀要論文[補遺]

大藤幹夫編

[一般]

  1. 「私説・北海道の児童文学史(一)」 大西久男 「北海道武蔵女子短期大学紀要」28  1996.3.31
[日本児童文学]
  1. 「日本におけるマーク・トウエイン―佐々木邦―」 那須頼雅 「Tabard」(神戸女子大)第11号 1996.2.29
  2. 「花岡大学作品研究―幼年文学と絵本―」 川北典子 「龍谷大学論集」No.448 1996.6.30
[宮沢賢治]
  • 「言語文化」(明治学院大学言語文化研究所)第13号 1996.3.31
    • 宮沢賢治―歴史と内在  西谷 修
    • 二人、あるいは喪の光景―宮沢賢治における倫理の問い 守中高明
    • 修羅論=堕落論 千葉一幹
    • 「青森挽歌」を読む、聴く 富山英俊
    • 「春と修羅 第二集」考―音楽用五線ノートをめぐって 杉浦 静
    • 歌・口語・文語―昭和三年の宮沢賢治 栗原 敦
    • 童話集『注文の多い料理店』発刊をめぐって―発行者・近森善一の談をもとに 鈴木健司
    • 「風野又三郎」 工藤 進
    • 移動する力について―「風の又三郎」を読む 吉田文憲
    • 「セロ弾きのゴーシュ」をめぐって 道又 爾
    • モナド《六》―宮沢賢治作品における〈六〉の意味について 石塚繁幸
    • 宮沢賢治の信仰についてのメモ―『摂折御文・僧俗御判』と、その時代 西 勝
    • 《宮沢賢治》の百年―発受信史の試み 天沢退二郎
  1. 「夜の谷間のもの思いは―《春と修羅 第二集》岩根橋紀行詩群考―」 木村東吉「島大国文」(島根大)第24号 1996.2.29
  2. 「『春と修羅 第三集』の文語化に関するノート」 島田隆輔 「島大国文」第24号 1996.2.29
  3. 「宮沢賢治論―宮沢賢治の宗教的宇宙について―」 岡屋昭雄 「教育学部論集」(仏教大)第7号 1996.3.11
  4. 「賢治童話の方法―模倣と転化―」 多田幸正 「湘北紀要」(湘北短大)第17号  1996.3.31
  5. 「宮沢賢治「どんぐりと山猫」私論―日常/非日常、差別/被差別の構造―」 永井 博 「紀要」(四日市大・短大)第29号 1996.3.×
[世界児童文学]
  1. 「"A Christmas Carol" by Charles Dickens 大人のおとぎ話としての側面から"」 坂本静 「東洋女子短期大学紀要」No.28 1996.3.15
  2. 「ルイス・キャロルの意味論(3)―2 『不思議の国のアリス』より」 宗宮喜代子 「東京外国語大学論集」第52号  1996.3.30
  3. 「『ナルニア国年代記』におけるミルトン的主題―『最後の戦い』を中心にして―」 野呂(金窪)有子 「紀要」(東京成徳短大)第29号 1996.3.31
  4. 「Tom Sawyer の英雄性の限界」 水野敦子 「山陽女子短期大学研究紀要」第22号 1996.3.31
  5. 「『ハックルベリー・フィン』におけるスネーク・シンボル(下)」 佐野守男 「富士論叢」(富士短大)第41巻第1号(通巻第69号) 1996.5.3
[民話・昔話]
  1. 「昔話のなかの笑話の位相」 武田 正 「山形女子短期大学紀要」第28集 1996.3.31
  2. 「「ハーメルンの笛吹き男」―その現実と虚構」 酒井明子 「横浜商大論集」第三十巻第一号 1996.5.18
[児童文化]
  1. 「児童文化論 序―その3―」 大井源一郎 「国学院短期大学紀要」第14巻  1996.3.23
  2. 「表情遊戯「桃太郎」の体操科への影響」 村山茂代 「紀要」(東京成徳短大)第29号 1996.3.31
  3. 「ディズニーアニメ『白雪姫』の〈創造性〉について」 斎木恭子 「鳥取女子短期大学研究紀要」第33号 1996.6.20

「文壇諸名家雅号の由来」について(2)

上田信道

 (承前)
 「文壇諸名家雅号の由来」欄が博文館の刊行する雑誌に掲載されただけに、この三名の回答はいずれも詳細・丁寧な内容になっている。なお、三名の号にはいずれも〈水〉の字が付いている。従前は何らかのいわれがあるのかと思っていたが、佳水の一文をみると、これは偶然であったようだ。
 次に、近代童話の書き手の号の由来である。

【秋田雨雀】
 小生は文士に雅号のある内は、日本の文壇もまだまだ駄目だと思ひます。雅号は遊戯です、道楽です。浪花節の親方が手拭をくばるのと同じだと思ひます。然しあるものは致方がないから、申上げます。
 雅号―雨雀。自分は雨がきらひだ。雀も雨をきらふやうだ。自分は身長僅かに四尺九寸九分。雀も亦小さい鳥だ。自分の世にあるのは、雀の雨に震へて居るのと等しいと、自分を卑下したつもり。然し、其れは昔で、私は鷲のやうに羽をのばしたいものだと思つて居る。

【小川未明】
 此の号は、坪内先生が附けて下されたのです。読方は、ミメイよりか、ビメイが本当なのです。この twilight と云ふ語はゲーテが Beauty は twilight にありといつた例もあり、沈鬱を悦び、朦朧を好む私には此の語がよからう。しかし、同じ twilight でも黄昏だとか、薄明だとかは、もはや沈まんとする日の光。之に反して、未明― Down は、是から夜が明け放れるといふ希望の満ちたうす明りだから、此の方が縁起がよからうといはれたので、未明と附けたのです。
 彼らが新しく《童話》というジャンルを確立するのは、これらを書いた時よりもう少し後のことになる。雨雀のように《文士に雅号のある内は、日本の文壇もまだまだ駄目だ》と言いながら自分は号を使っているのはいささか滑稽だ。が、いかにも新しい文学を切り開いていく作家らしい支離滅裂ぶりとも言える。なお、〈未明〉を本来〈びめい〉と読むことは良く知られている。〈小波〉を〈しょうは〉と読むことも先に掲げたとおり。それでは〈紅緑〉はどうか。
【佐藤紅緑】
 紅緑といふ号は、何の理由あるにあらず。これは故子規先生に就て、初めて俳句を学びし時、先生が僕の本名洽六と語呂同じければ、紅緑がよかるべしと、号を給はりしなり。花紅柳緑などゝ、決して浮いた考へには無之候。但し、先生はコウリヨクと言ひ居れり。僕も其のつもりなりしも、近頃はコウロクと呼ぶ人多し。不本意の事なり。
 本名から考えて〈紅緑〉を〈こうろく〉と読む人が多いのは当然だが、これを《不本意の事なり》と言いきるところは、いかにも硬骨漢の紅緑らしいと言える。紙数が尽きたので、以下は思いつくまま数名分を掲げることにしたい。
【児玉花外】
 野生、少年の時、先哲叢誌を読み、確か頼山陽の記事の中に、花外の文字あるに、不図心に感じたる侭、以て今日に及ぶ次第に御座候。

【柴田流星】
 私の本名『勇』は説文流に申すと、『甬』の字と『力』の字を合したものなのですが、ドウいふものか、これは片仮名の『マ』の字と『男』といふ字の合したもののやうに『マヲトコ』間男と仇名して、小学時代から友人間に揶揄はれたものです。夫れから、中学時代だつたと覚えて居ます。或時、私が脳を病んで、水で冷やす必要から、頭髪を剃つて、坊主頭にして居ますと、又た誰いふとなく、間男が夜這坊主になつたと揶揄ひ出しました。で、私はこれが嫌で嫌でなりませんでしたので、其頃謡曲の本を見ますと『弱法師といふのがありましたので、之れは『ヨロハフシ』とよむのですが、私丈は『ヨハイハフシ』とよむで、遂に号に用ひました。其後、私名類聚抄や合類節用などで、夜這星の所を引いて見ましたら、恰度適当な『流星』といふ訳字がありましたので、夫れ以来、雅号を流星に改め、軈ては天涯漂泊の身たるにも合しますので、今に恁く号して居りますのです。

【吉江孤雁】
小生の号は、今から十年も前、まだ松本中学に居た頃、中沢臨川君と最一人の友人とで、何とか号を定めやうぢやないかと云ふので、三人で三つ号を作つて、三人でくじ引きにしたので、孤雁と云ふのは其時私にあたつたのでした。中沢君は、其頃から今にかわらず、僕には文芸上、学問上、実行上、常に教導し警告し、保護して呉れる兄と思ひ、師と思つて使ふる人です。字としては、まづいかも知れないが、僕には、紀念多い号だから、由来のお話しするのです。負ふ所ばかり多くて、報いる所の小ないのは悲しいが、自分の名を見る度に、中沢君の恩を思ふのです。

【三津木春影】
 私の号は、格別意味がありません。どうせ符牒につけるんならば、坪内先生の御説ではないが、幾分でも苗字にふさはしい、字面も音もよかりさうなのを、と云ふので、つけたのです。もつとも、これは白楽天の詩集か何かに熟語になつて居たと思ひますが、今は忘れました。それから、曽て某君が使つたことがあると覚えて居ます。
 最後に一言つけ加えておくと、〈春影〉という号を《曽て某君が使つたことがある》という件には冷や汗が出る。春影=三津木春影と軽々しく決めつけることは避けねばなるまい。その他、大町桂月、海賀変哲、金子薫園、菊地幽芳、小山内薫、福田琴月、水野葉舟などが一文を寄せているが、これらは省略せざるを得ない。 (完)


明治期少年雑誌

「少年之花」他三誌

藤本芳則

 地方発行の少年雑誌は、散逸甚だしく全巻はもとより概略をうかがう程度にそろっているのも稀である。従って数冊あるいは時に一冊でもその存在を確認しておくことは、地方児童文化史、文学史に関心をもつ者には、意味があろう。今回も、主として、地方発行の少年雑誌をとりあげる。

「少年之花」
 「少年之花」は、熊本でも出されている(『明治新聞雑誌文庫目録』)が、ここに取上げるのは兵庫県で発行されたもの。創刊号は、明治二九年四月一〇日発行(所見は明治二九年四月日付なし/再版)、編輯兼発行者菅原雅輔、発行所育英社(兵庫県加古郡高砂町ノ内北本町二十五番地屋敷)、菊判、本文二四頁、三銭、月刊。
 発行者菅原は、巻末広告によると『小学の徳育』(五華堂)を著しており、教育関係者と判断される。「少年世界」のような商業誌が、出始めても、なお地方で教育関係者による雑誌が創刊されていたことがわかる。
 発刊の意図を、「発行の主旨を述べ先づ天下の小学教師に告ぐ」と「発行の主旨を述べ少年諸子に告ぐ」の二つに分けて述べる。教員向けに一文を用意したのは、教員を通じて購読者を拡大しようとする意図からか。新聞を含めた広告媒体が一般的にはまだまだ貧弱であったことを考えると、発行元が、雑誌を周知させるには大勢の子どもたちが集まる場所、つまり学校を媒体として考えたとしても不思議ではない。とすれば、そこから必然的に雑誌の性格も決定される。すなわち小説等の娯楽性のある読物を控え、勉学の補助となるような内容である。でなければ、教員(学校)を通じて読者を獲得とすることは難しい。もっとも、雑誌の性格から教員にも訴えることが必要と判断したのか、先に学校という媒体を考えて読者の修養を旨とした内容が決まっていったのかは、一概にいえない。ただ、商業誌としての側面を強くもった少年雑誌があったとすれば、学校を一種の広告媒体とみた可能性があるということである。
 「発行の主旨」は、

尋常小学校卒業以上ノ少年ヲ団結セシメ、受教育者タル品格ヲ鮮明ニシ、内以テ社会ノ風教ヲ保持シ、外以テ国光ヲ宣揚スルノ礎タルニアリ。乃チ先ツ拾万ノ購員ヲ誘掖スルヲ以テ第一期ノ事業トス。(「発行の主旨を述べ少年諸子に告ぐ」)
というもの。「少年ヲ団結セシメ」に関しては、別のところで、
育英社は恰も少年講の講元の如し。若しそれ吾人の希望を有体に告白せば、行々は堅固なる少年団体を組織するにあり、平たく云へば信切なる子供講を組むにあり。
とも述べており、会員組織のようなものを考えていたらしい。すでに紹介した雑誌の中に会員組織のものがあったように、当時の雑誌読者は、現在のような単なる読者ではなく、共通の目的意識で結ばれた組織の一員のための機関誌とでもいえるような発想で作られていたようである。
 誌面構成は、他雑誌と大差なく、「社説」「科学」「史譚」「雑録」「文苑」等の欄があり、一例をあげると、「菫と蒲公英」(「科学」)、「『子ルソン』将軍の少時」(「史譚」)、「簡易療法」「写真の話」(共に「雑録」、以上いずれも12号)といった記事が掲載された。ただ、他誌には見かけない教員むけと思われる「教育倶楽部」という欄が目をひく。
 投稿欄には、近畿ばかりではなく、関東からの投書もみかける。しかし、本文二四頁で三銭は、すでに発行されていた「少年世界」の本文一一九頁五銭(創刊号)などに比べるとかなり割高であり、どこまで広く読まれたかは疑問。「先ツ拾万ノ購員ヲ誘掖スル」と謳うのは、次に紹介する「羽陽之少年」の場合をみてもわかるように非現実的な数字だろう。ちなみに確認できたのは、第一三号(明30・7)までである。

「羽陽之少年」
「羽陽之少年」は、山形県で発刊された少年誌。所見は、四号一冊。以下に書誌的事項を記す。明治三五年一〇月二五日発行、月刊、発行所は、羽陽少年社(山形県山形市七日町一六九番地)、発行兼印刷人吉田佐膳、編輯人渡辺久八。本文三二頁、五銭。表紙に少年少女が描かれている。
 記事内容は、すでに述べてきた少年誌と大同小異でことに注目すべきものはない。ただ、広告に

本社発行の雑誌五十人以上購読者ある学校に対して相互の紀念物として物品又は書籍を贈呈す
と見えるのが、「少年之花」の場合と同じく、学校を販路のあしがかりにしている様子がうかがえて、興味深い。さらに、もうひとつ面白いのは、読者から同誌の購読者数の質問に答えている点である。それによると、男一四三五人、女八五三人、軍人三七八人、合計二六六六人と細かな数字まででている。ここから、判断すると、本誌は本屋の店頭で売られたというよりは、郵便による直接購読がほとんどだったらしい。投稿欄のうち、学校名等が記されているのは、概ね高等小学校生徒であり、それも県内に限定されているようである。軍人が四〇〇人近くいるのは、理由があると思われるが、今は指摘するにとどまる。
 「羽陽之少年」は、同時期の「少年世界」の半額であるが本文の頁数は約四分の一程度。「少年之花」と同じく、「少年世界」などに比べ割高感を否めない(「少年世界」の明三五年一〇月発行のものは、本文一三六頁一〇銭である)。少年読者とすれば、記事内容もさることながら、こうした形而下の要素も購読雑誌を選択するおおきな要因となったと思われる。

「少年之世界」
「少年之世界」は、有楽社(東京)から明治三九年五月一八日創刊。所見は一、三、四号。編輯者安孫子貞次郎。本文二四頁、一二銭。タブロイド判。表紙は多色刷。判型からは雑誌というより新聞といったほうが適切かもしれない。誌名の由来は、日露戦争後は世の中が「万事世界的」となってきたので、少年も世界の少年という位置付けが必要だからと述べる(「何が故に世界之少年と名づけしか」)。判型の大きさも〈世界〉を表現しているのかもしれない。ただ、この大きさでは、雑誌としての取扱に不便なのは明らかで、四号掲載の広告で、判型を半分にするとした。同時に「編輯一切の監督」を石井研堂に任せること、毎号菊半切二四頁の投書だけの別冊を作ることも述べられている。
 創刊号の目次をみると、「日本が世界へ乗出した次第」「ローマ字を使ふべき理と其書き方」「世界の最年少王」「世界の大像の丈競べ」等、裏表紙に「世界の小国民と国旗説明」など誌名にふさわしく〈世界〉を意識した誌面となっている。もうひとつの特徴は、挿絵(写真)の多いことで、全一頁大はもとより、見開き二頁をも挿絵に割いている。
 執筆者には、堀内新泉、小川琢治、北沢楽天、田丸卓郎等で、他号には、金子元臣、東基吉らの名が見える。堀内は、創刊号の三作品に名前があり、あるいは記者であった可能性もある。
 文芸読物は、ほとんどなく、かろうじて「正助老爺さん欲助老爺さん」(東基吉、「金の斧銀の斧」の再話)を見いだす程度。

「小文林」
「小文林」は、大阪で発行されていた少年誌。明治二五年一一月五日創刊(推定)。発行所文林会、発行兼編輯人中村丈太郎(大阪市東区備後町四丁目三十番屋敷)、本文五十頁、二銭、月二回刊。表紙に少年の絵を描く。投稿者は概ね近畿地方で占められている。発刊の主旨は、「一般幼年生徒をして、其学ぶ所の者、能く実地に活用せしめんことを図るなり」。「祝詞」(山田正賢)に「東まに有用にして浪花に無用なるにあらねと少年の智識を開発する雑誌は独り盛んに東まに行はれ浪花には是に類するものだも存せす」とあり、ここに本誌の意義があるといえよう。
 創刊号から欄名と、掲載の一部を記す。

「説林」=「事は勉強に成る」(天眼道人)/「学林」=「風の起因」「気候の一周期」/「談林」=「後醍醐天皇の御幼時」/「史林」=「享保年間の人員調」「大塩平八郎の逸事」/「貌林」=「小説垣漏月」(東天隠士)/「文林」(投稿欄)/「襍林」=「三介と太守」、その他他雑誌からの引用。
 二巻一一号のうち所見一七冊中に、特に特色ある内容はないが、宇田川文海が歴史読物(「駒のいさめ」)を寄稿し、久保田小塊が歌を載せていることを付言しておく。
 発行部数は、六号で四万五千の読者がいると述べているが、真偽のほどは確かではない。