児童文学資料研究 |
1995年紀要論文[補遺] | 大藤幹夫編 |
1996年上半期紀要論文[補遺] | 大藤幹夫編 |
「文壇諸名家雅号の由来」について(2) | 上田信道 |
明治期少年雑誌「少年之花」他三誌 | 藤本芳則 |
1995年紀要論文[補遺] | 大藤幹夫編 |
一九九六年上半期紀要論文[補遺] | 大藤幹夫編 |
「文壇諸名家雅号の由来」について(2) | 上田信道 |
【秋田雨雀】彼らが新しく《童話》というジャンルを確立するのは、これらを書いた時よりもう少し後のことになる。雨雀のように《文士に雅号のある内は、日本の文壇もまだまだ駄目だ》と言いながら自分は号を使っているのはいささか滑稽だ。が、いかにも新しい文学を切り開いていく作家らしい支離滅裂ぶりとも言える。なお、〈未明〉を本来〈びめい〉と読むことは良く知られている。〈小波〉を〈しょうは〉と読むことも先に掲げたとおり。それでは〈紅緑〉はどうか。
小生は文士に雅号のある内は、日本の文壇もまだまだ駄目だと思ひます。雅号は遊戯です、道楽です。浪花節の親方が手拭をくばるのと同じだと思ひます。然しあるものは致方がないから、申上げます。
雅号―雨雀。自分は雨がきらひだ。雀も雨をきらふやうだ。自分は身長僅かに四尺九寸九分。雀も亦小さい鳥だ。自分の世にあるのは、雀の雨に震へて居るのと等しいと、自分を卑下したつもり。然し、其れは昔で、私は鷲のやうに羽をのばしたいものだと思つて居る。
【小川未明】
此の号は、坪内先生が附けて下されたのです。読方は、ミメイよりか、ビメイが本当なのです。この twilight と云ふ語はゲーテが Beauty は twilight にありといつた例もあり、沈鬱を悦び、朦朧を好む私には此の語がよからう。しかし、同じ twilight でも黄昏だとか、薄明だとかは、もはや沈まんとする日の光。之に反して、未明― Down は、是から夜が明け放れるといふ希望の満ちたうす明りだから、此の方が縁起がよからうといはれたので、未明と附けたのです。
【佐藤紅緑】本名から考えて〈紅緑〉を〈こうろく〉と読む人が多いのは当然だが、これを《不本意の事なり》と言いきるところは、いかにも硬骨漢の紅緑らしいと言える。紙数が尽きたので、以下は思いつくまま数名分を掲げることにしたい。
紅緑といふ号は、何の理由あるにあらず。これは故子規先生に就て、初めて俳句を学びし時、先生が僕の本名洽六と語呂同じければ、紅緑がよかるべしと、号を給はりしなり。花紅柳緑などゝ、決して浮いた考へには無之候。但し、先生はコウリヨクと言ひ居れり。僕も其のつもりなりしも、近頃はコウロクと呼ぶ人多し。不本意の事なり。
【児玉花外】最後に一言つけ加えておくと、〈春影〉という号を《曽て某君が使つたことがある》という件には冷や汗が出る。春影=三津木春影と軽々しく決めつけることは避けねばなるまい。その他、大町桂月、海賀変哲、金子薫園、菊地幽芳、小山内薫、福田琴月、水野葉舟などが一文を寄せているが、これらは省略せざるを得ない。 (完)
野生、少年の時、先哲叢誌を読み、確か頼山陽の記事の中に、花外の文字あるに、不図心に感じたる侭、以て今日に及ぶ次第に御座候。
【柴田流星】
私の本名『勇』は説文流に申すと、『甬』の字と『力』の字を合したものなのですが、ドウいふものか、これは片仮名の『マ』の字と『男』といふ字の合したもののやうに『マヲトコ』間男と仇名して、小学時代から友人間に揶揄はれたものです。夫れから、中学時代だつたと覚えて居ます。或時、私が脳を病んで、水で冷やす必要から、頭髪を剃つて、坊主頭にして居ますと、又た誰いふとなく、間男が夜這坊主になつたと揶揄ひ出しました。で、私はこれが嫌で嫌でなりませんでしたので、其頃謡曲の本を見ますと『弱法師といふのがありましたので、之れは『ヨロハフシ』とよむのですが、私丈は『ヨハイハフシ』とよむで、遂に号に用ひました。其後、私名類聚抄や合類節用などで、夜這星の所を引いて見ましたら、恰度適当な『流星』といふ訳字がありましたので、夫れ以来、雅号を流星に改め、軈ては天涯漂泊の身たるにも合しますので、今に恁く号して居りますのです。
【吉江孤雁】
小生の号は、今から十年も前、まだ松本中学に居た頃、中沢臨川君と最一人の友人とで、何とか号を定めやうぢやないかと云ふので、三人で三つ号を作つて、三人でくじ引きにしたので、孤雁と云ふのは其時私にあたつたのでした。中沢君は、其頃から今にかわらず、僕には文芸上、学問上、実行上、常に教導し警告し、保護して呉れる兄と思ひ、師と思つて使ふる人です。字としては、まづいかも知れないが、僕には、紀念多い号だから、由来のお話しするのです。負ふ所ばかり多くて、報いる所の小ないのは悲しいが、自分の名を見る度に、中沢君の恩を思ふのです。
【三津木春影】
私の号は、格別意味がありません。どうせ符牒につけるんならば、坪内先生の御説ではないが、幾分でも苗字にふさはしい、字面も音もよかりさうなのを、と云ふので、つけたのです。もつとも、これは白楽天の詩集か何かに熟語になつて居たと思ひますが、今は忘れました。それから、曽て某君が使つたことがあると覚えて居ます。
明治期少年雑誌「少年之花」他三誌 | 藤本芳則 |
尋常小学校卒業以上ノ少年ヲ団結セシメ、受教育者タル品格ヲ鮮明ニシ、内以テ社会ノ風教ヲ保持シ、外以テ国光ヲ宣揚スルノ礎タルニアリ。乃チ先ツ拾万ノ購員ヲ誘掖スルヲ以テ第一期ノ事業トス。(「発行の主旨を述べ少年諸子に告ぐ」)というもの。「少年ヲ団結セシメ」に関しては、別のところで、
育英社は恰も少年講の講元の如し。若しそれ吾人の希望を有体に告白せば、行々は堅固なる少年団体を組織するにあり、平たく云へば信切なる子供講を組むにあり。とも述べており、会員組織のようなものを考えていたらしい。すでに紹介した雑誌の中に会員組織のものがあったように、当時の雑誌読者は、現在のような単なる読者ではなく、共通の目的意識で結ばれた組織の一員のための機関誌とでもいえるような発想で作られていたようである。
「羽陽之少年」
「羽陽之少年」は、山形県で発刊された少年誌。所見は、四号一冊。以下に書誌的事項を記す。明治三五年一〇月二五日発行、月刊、発行所は、羽陽少年社(山形県山形市七日町一六九番地)、発行兼印刷人吉田佐膳、編輯人渡辺久八。本文三二頁、五銭。表紙に少年少女が描かれている。
記事内容は、すでに述べてきた少年誌と大同小異でことに注目すべきものはない。ただ、広告に
本社発行の雑誌五十人以上購読者ある学校に対して相互の紀念物として物品又は書籍を贈呈すと見えるのが、「少年之花」の場合と同じく、学校を販路のあしがかりにしている様子がうかがえて、興味深い。さらに、もうひとつ面白いのは、読者から同誌の購読者数の質問に答えている点である。それによると、男一四三五人、女八五三人、軍人三七八人、合計二六六六人と細かな数字まででている。ここから、判断すると、本誌は本屋の店頭で売られたというよりは、郵便による直接購読がほとんどだったらしい。投稿欄のうち、学校名等が記されているのは、概ね高等小学校生徒であり、それも県内に限定されているようである。軍人が四〇〇人近くいるのは、理由があると思われるが、今は指摘するにとどまる。
「少年之世界」
「少年之世界」は、有楽社(東京)から明治三九年五月一八日創刊。所見は一、三、四号。編輯者安孫子貞次郎。本文二四頁、一二銭。タブロイド判。表紙は多色刷。判型からは雑誌というより新聞といったほうが適切かもしれない。誌名の由来は、日露戦争後は世の中が「万事世界的」となってきたので、少年も世界の少年という位置付けが必要だからと述べる(「何が故に世界之少年と名づけしか」)。判型の大きさも〈世界〉を表現しているのかもしれない。ただ、この大きさでは、雑誌としての取扱に不便なのは明らかで、四号掲載の広告で、判型を半分にするとした。同時に「編輯一切の監督」を石井研堂に任せること、毎号菊半切二四頁の投書だけの別冊を作ることも述べられている。
創刊号の目次をみると、「日本が世界へ乗出した次第」「ローマ字を使ふべき理と其書き方」「世界の最年少王」「世界の大像の丈競べ」等、裏表紙に「世界の小国民と国旗説明」など誌名にふさわしく〈世界〉を意識した誌面となっている。もうひとつの特徴は、挿絵(写真)の多いことで、全一頁大はもとより、見開き二頁をも挿絵に割いている。
執筆者には、堀内新泉、小川琢治、北沢楽天、田丸卓郎等で、他号には、金子元臣、東基吉らの名が見える。堀内は、創刊号の三作品に名前があり、あるいは記者であった可能性もある。
文芸読物は、ほとんどなく、かろうじて「正助老爺さん欲助老爺さん」(東基吉、「金の斧銀の斧」の再話)を見いだす程度。
「小文林」
「小文林」は、大阪で発行されていた少年誌。明治二五年一一月五日創刊(推定)。発行所文林会、発行兼編輯人中村丈太郎(大阪市東区備後町四丁目三十番屋敷)、本文五十頁、二銭、月二回刊。表紙に少年の絵を描く。投稿者は概ね近畿地方で占められている。発刊の主旨は、「一般幼年生徒をして、其学ぶ所の者、能く実地に活用せしめんことを図るなり」。「祝詞」(山田正賢)に「東まに有用にして浪花に無用なるにあらねと少年の智識を開発する雑誌は独り盛んに東まに行はれ浪花には是に類するものだも存せす」とあり、ここに本誌の意義があるといえよう。
創刊号から欄名と、掲載の一部を記す。
「説林」=「事は勉強に成る」(天眼道人)/「学林」=「風の起因」「気候の一周期」/「談林」=「後醍醐天皇の御幼時」/「史林」=「享保年間の人員調」「大塩平八郎の逸事」/「貌林」=「小説垣漏月」(東天隠士)/「文林」(投稿欄)/「襍林」=「三介と太守」、その他他雑誌からの引用。二巻一一号のうち所見一七冊中に、特に特色ある内容はないが、宇田川文海が歴史読物(「駒のいさめ」)を寄稿し、久保田小塊が歌を載せていることを付言しておく。