インターネット版

児童文学資料研究
No.67


  発行日 1997年2月15日
  発行者 〒546 大阪市東住吉区東田辺3-13-3 大藤幹夫


目  次


二つの古事記物語大藤幹夫編
複刻版はどこまで信用できるか?上田信道
児童雑誌「おとぎ 」藤本芳則

二つの古事記物語

大藤幹夫

 ここに紹介しようとする『古事記』は、戦中期に少国民対象に書かれたものである。

〈少国民版〉『古事記』(新屋敷幸繁・著、木俣武・画、開発社、昭17・9・18、3000部発行)
『少国民の古事記』(松村武雄・監修、佐藤武・著、文松堂書店、初版昭18・10・20、5000部発行、再版昭19・4・20、5000部発行)
 前書の「少国民版発刊の辞」によれば、「私達の歴史が大きな飛躍を始めた只今、大東亜の建設が日本民族全体の最も大きな課題として与へられてゐます。(略)編輯の根本方針としては、先づ健全雄渾な肇国の理念を礎石として、次に理念実現の手段としての科学への親しみと、指導民族としての高雅なる品性の陶冶を目指して、及ぶ限り努力したいと思ひます。」とある。
 後段の「科学への親しみ……」を目指す叢書の一に『古事記』を加えたのもおもしろい。
 後書には、叢書ではないのでこうした「発刊の辞」はない。
 それでは、『古事記』そのものへの思いはどうか。
 開発社版の「まへがき」によれば、「(本居宣長が)その中にふくまれてゐる日本精神をもくはしく解きあかして大きな功績を後の世に残しました。/そのあとをしたひながらこのたび、本居宣長の訓んだ「古訓古事記」をもとにして、古事記を口語読みにしてみたのです。原典の一言一句一文字でもおろそかにせず、また力の及ぶ限り古事記の姿と精神とを新しく描き出すことに努力しました。」と記されている。
 文松堂版の「序」は、監修者の松村武雄の筆になる。
そこには皇室・国家を中心として一切のものをこれに統合帰一させることに務める生活、皇室・国家に対する真摯熱烈な奉仕を以ておのれの生活の理念とする日本人の精神が、みなぎり迸つてゐる。そして、さうした生活や精神は、今の世にも生きつづけてゐる。遠い祖先の胸に燃えてゐたものが、今日のわれわれの血の中に脈々として活きて動いてゐる。
 ともに「日本精神」をそこに読みこもうとしている。
 松村の「序」の結びを引用しておく。
自分は、世の少国民たちが、この書を通して遠い祖先の生活や精神の逞しさ尊さを感得し、進んで自らが国家・皇室のために一身をささげ尽す熱意を燃やし立てることを切に期待するものである。
 「古事記」の精神として、無署名だが、おそらく著者によるものと思われる「古典について」が、文松堂版の巻末にある。
日本といふ国がらの世界にたぐひなく、けだかく、すぐれてゐる由来を御歴代の、天皇が高い御徳のすがたと、そして私共の祖先たちが、いつの世にも皇室を中心として、美しくも、かたく、むすばれてゐて、どこまでも「大君の辺にこそ死なめ」の心で生きてきたことを、書きのこして置きたいといふ、深い気持から、書かれてゐるといふことであります。
 子ども向けの『古事記』として知られるのは、鈴木三重吉の『古事記物語』であろう。
 大正八年七月から「歴史童話」として、翌年の九月号まで、十五回の連載であった。単行本として上下二巻を十一月に出版している。
 単行本にあたって「赤い玉」「蜻蛉のお謡」「牛飼馬飼」が付された。(雑誌連載中のタイトルも「赤い猪」→「八俣の大蛇」、「毒の大熊」→「八咫烏」、「神功皇后」→「朝鮮征伐」に変えられた。)
 単行本の「序」によると、「私はこの物語を、一種の芸術的作品として、少年少女諸君へと共に、私のすべての読者諸君に捧げる。」とある。
 「出来るだけ「古事記」の記述をそのまゝ追従することに努力した。」点では、開発社版と同様ということになる。
 三重吉によれば、「古事記」は、
われわれ日本人は、その国民的生活の最初の出立から、天皇と、天皇のお位と、すべての祖先とを、いかに絶対の神聖として貴んで来たか、及びそれと一しよに、すべての天皇が根本の御責任として、人民の進歩と幸福とに向つて、それぞれいかに大なる努力を払はれたかの事実である。
 戦中版と比較したとき、戦中版が「皇室・国家に対する真摯熱烈な奉仕」を読者側に求めたのに対して、三重吉は、「天皇が……人民の進歩と幸福に向つて」「大なる努力を払」った記録と読んでいるところに差異が見られる。
 伊邪那岐命と伊邪那美命の「神生み」で、伊邪那美命が火の神、火之迦具土神を生み大火傷をしたときのことを、文松堂版は、つぎのように書いている。
伊邪那美命は体に大火傷を遊ばされて、病の床に臥し給ひました。その時お嘔吐になられた物から、お生れになつた神様の御名は、金山毘古神と金山毘売神です。次に糞からお生れになつた神様の御名は、波迩夜須毘古神と波迩夜須毘売神です。次に尿からお生れになつた神様の御名は、彌都波能売神と和久産巣日神です。
 糞やら尿から生まれた神様の名を記しているのは驚かされた。
 開発社版も、
 火の神をお生みになつたため、伊弉冉尊は火傷をなされて、つひにおかくれになりました。その病床にあらせられるとき、はき出されたものからおうまれになつた、
 金山の神さま
 次にその糞からお生まれになつた、
土の神さま
 つぎに尿からお生まれになつた、
水の神さま
と記している。
 三重吉の『古事記物語』では、
伊弉冉神は、そのおしまひの火の神をお生みになるときに、お体にお火傷をなすつて、そのためにとうとうおかくれになりました。
と書くのみである。
 須佐之男命の乱行ぶりも目をひく。
天照大神の田の畔をこはしたり、溝を埋めたり、御飯を召し上る御殿に屎をまりちらしました。(開発社版)
天照大御神がお作りになつて居られる田の畔を取り壊したり、その溝を埋めたり、また大嘗を召し上る御殿の上に糞を放り散らしたりしました。(文松堂版)

女神がお作らせになつてゐる田の畔をこはしたり、溝を埋めたり、しまひには女神がお初穂を召し上る御殿へ、うんこをひりちらすといふやうな、ひどい乱暴をなさいました。(「赤い鳥」版)
 「赤い鳥」版と戦中版の記述の違いを見るのは、「天の岩戸開き」での天宇受売命が、岩戸の前で踊るシーンであろう。
天の香具山の日蔭の蔓を袴にかけ、正木の蔓を髪飾とし、天の香具山の小竹の葉を束ねて手に持ち、天の岩戸の前に桶をふせて、踏みとどろかして、歌へや舞へやの大さはぎ……(開発社版)

……天の岩屋戸の前に空槽を伏せてその上に乗つて踏み鳴らし、神懸りとなつて、面白可笑しく舞ひました……(文松堂版)

……その桶の上へ上つて踊を踊らせました。
 宇受女命は、お乳もお腹も股も全だしにして、足をとんとんふみならしながら、全で憑きものでもしたやうに、くるくるくるくると踊り狂ひました。(「赤い鳥」版)
 須佐之男命が、天降りをする折に食物を大宜都比売神に頼んだとき、
大宜都比売神は、鼻や口や尻から、いろいろの美味しい物を沢山取り出して、それで料理をこさへて差し上げました。(文松堂版)
 これを見た命が大宜都比売を斬り殺してしまう。殺された神様から
頭には蠶
二つの目には稲種
二つの耳には粟
鼻には小豆
腰には麦
尻には大豆       (開発社版)
が出てきた、という。
 百二十三歳の天皇はじめ百六十八歳の天皇も現代の時代から思えば「不思議」になる。
 「霊魂」についても、
それらのものゝすぐれた、力や美しさや不思議なはたらきなどを、うやまひ、ほめて居たのです。ですから、現代の科学的の頭で何でも理窟づめにして考へてばかり居ては、とんだ間違ひをすることになります。(文松堂版「古典について」)
こうした考えが、「日本精神」に結びつけられた不幸な時代が戦中期であった。


複刻版はどこまで信用できるか?

 ―原本と複刻版の相違について―

上田信道

 私が児童文学研究の世界に足を踏み入れた頃、児童文学雑誌の複刻版と言えば「赤い鳥」があるぐらいで、今日のように主要な雑誌が複刻されるという状況は思いもよらないことであった。その後、各種の複刻版が出回るようになり、少し大きな図書館に行けばほとんど備えられている。単行本についてもずいぶん多くのものが刊行されている。そのため、原資料に当たることが非常に容易になり、児童文学研究の水準は大きく向上したことは間違いない。
 ところが、複刻版は必ずしも原本と同じでない。児童文学研究者と言われる人が写真製版による複刻の内容に間違いはないと信じこんでいることに、時たま驚かされることがある。むろん、実際には写真製版だけで完全な複製を行うことは不可能であり、原本の欠損部分や不鮮明な部分を植字やその他の方法で修正する過程を経て出版が行われるのだ。そして、この過程で錯誤や意図的な改変が行われ得るのである。〈原本は複刻版と別のものだ〉ということ、考えてみればこれは当たり前のことなのだが、つい複刻版を見ただけで原資料を確認したような気になってしまう。そういうことの危うさをあらためて自戒したい。
 雑誌の複刻版に事例をとって、具体的にのべてみよう。
 コドモ社から原本が出ている「童話」には、発行日付に不統一がある。すなわち、第4巻第10号が1923年10月1日付と10月5日付、第5巻第2号が1924年2月1日付と2月5日付のように、それぞれ表紙に奥付と異なる内容の表示がなされている。岩崎書店から出ている複刻版ではこれらの記述の不統一を修正。総て1日付に直した上で印刷刊行している。たぶん、「童話」は毎月1日付の発行だという理由から、複刻の際に1日付に統一・修正したのだろう。が、2冊分に限って発行が5日付だったという可能性はないのだろうか。また、たとえ1日付が正しいとしても、原本の誤記は誤記として複刻すべきではないのだろうか。
 ほるぷ出版から複刻版の出ている「金の船」のうち、第3巻第3号の表紙は印刷納本日の1921年2月1日と発行日の同年3月1日を入れ違えて印刷してしまったようだ。キンノツノ社版の原本を見ると、発行日には紛れもなく1921年3月1日とあるので、明らかに複刻時のミスである。
 エムティ出版から複刻が出ている「少国民文化」の場合は、もう少し事態が複雑だ。
 まず、原本の裏表紙に記述されている巻号発行年月日などに関する表記がそっくり抜け落ちている。だから、原本の複数の号の裏表紙に巻号表記の誤りがなされているという事実は、複刻版からはわからない。誤りとは、第2巻第6号通巻13号に第2巻第5号、第2巻第9号通巻16号に通巻15号、第2巻第10号通巻17号に通巻16号、第2巻第11号通巻18号に通巻17号、第2巻第12号通巻19号に通巻18号という記述のあることである。複刻版は数号ずつを合本して刊行しているので、製本上の都合から表記の一部を省略したのだと思うが、やはり正確に複刻すべきだろう。
 次に、複刻版では第3巻第4号以降の全ての号の通巻号の表記(表紙や内表紙などに表記)がそっくり削除されている。実は、原本の第3巻第3号が通巻22号であるのに、第3巻第4号を通巻24号と誤記し、これ以後の全ての通巻号がそれぞれ実際の号数と1号宛ずれてしまっているのである。複刻時における通巻号表記の削除は、この誤記と実際のずれにつじつまをあわせようとしたものだろう。だから、こうした相違は、錯誤によるものではなく、意図的に原本に手を入れた結果生じたものであるが、原本に大書された通巻号の表示を削除することが、複刻の名のもとに許されて良いのだろうか。もし、内容を校訂するのなら、〈複刻〉を名乗るべきではなく、もっと明示的に行うべきであろう。
 なお、「少国民文化」は第4巻第1号(1945年2月1日)で終刊になっているが、複刻版には第3巻第11号までの分しか含まれておらず、これではまるで第3巻第11号で終刊したように錯覚しかねない。ご存じの方も多いと思うので、これは蛇足かもしれないが、この複刻版を利用する時には注意したい。
 原本と複刻の刊行をともにフレーベル館が手がけた「キンダーブック」の場合は、今回調べた中では、最悪のケースである。
 まず、第1輯については第1・2・8・9編の4冊が複刻されているが、奥付を含む4頁分(一部の号については未確認)が抜け落ちている。発行年月日に関する記述は欠落頁にのみあるので、複刻された号自体からはいつ発行されたかという基本的な情報がわからなくなってしまった。もっとも、複刻版に付録として付けられた「目録」と化粧函には発行の年と月が書かれているので、発行年月についてわかる。だが、日付まではわからないし、「目録」と化粧函に記載されたデータの根拠が不明なので、安心して複刻版を活用できない。ちなみに、私の調べた範囲では、第8編は1929年1月20日付の刊行、第9編は同年2月25日付の刊行である。第1編と第2編については調べがつかなかった。
 次に、第3輯第6編と第5輯第5編の場合はもっと問題が大きい。複刻された号には、第3輯第6編は1930年8月20日、第5輯第5編は1932年12月20日の発行と印刷されている。ところが、「目録」と化粧箱には第3輯第6編は1930年9月、第5輯第5編は1932年8月の発行とあり、これではどちらを信用して良いか分からない。こういう場合は、「目録」や化粧函の記述より複刻された号自体に印刷された発行年月日を信用することが普通だろう。が、実際に原本にあたってみると第3輯第6編は1930年9月20日付、第5輯第5編は1932年8月20日付になっている。さらに、第5輯第5編の複刻版には裏表紙に第3輯第9編とも記載があるが、これも複刻時の誤り。うっかり複刻された号に印刷された記述を信用すると、雑誌の発行月という基本的な情報を誤ることになるわけで、思わずぞっとする。
 以上は複刻された雑誌の発行年月日だけに絞った考察である。網羅的に総ての複刻版にあたったわけでもない。何よりも、この考察は記事の内容にまで踏み込んだものではなく、内容まで詳細に検討していくと、もっとコワイことがあるのではないかと思う。実は、最近、宮沢賢治の『注文の多い料理店』の複刻版を精読する必要があったが、ある文字の印刷が不鮮明で読みとることができない。〈1字分不明〉として処理しようとも考えたが、念のため原本にまでさかのぼって調べると、複刻版の印刷不良にすぎないことがわかった。こんな事例に突き当たると、複刻版という資料の信憑性にますます懐疑的にならざるをえない。


児童雑誌「おとぎ 」

藤本芳則

 明治期の児童雑誌には、国会図書館はじめ図書館や研究機関等の所蔵目録に見当たらず、事典類にも記載されないものが、珍しくない。こうした広く知られていないものは、たとえ一冊でもどこかに記録しておきたいと思う。研究には、対象とする時代の雰囲気とか、状況を踏まえることが、まず必要であるが、片々たる雑誌がその役を担うことが、少なくないからである。ただ、とるに足りないと思われる資料がしばしば貴重な証言や足場となるとしても、〈とるに足りない〉資料そのものが知られていなければ、如何ともしがたい。断片であっても、埋もれた資料を明るみに出す必要性を思う所以である。
 ここでとりあげようとするのは、「おとぎ」と題した児童雑誌の創刊号で、体裁は、縦14.7センチ、横22.0センチの横綴、本文32頁。明治36年11月3日発行、珍聞舘(東京市京橋区三十間堀三丁目十七番地)発行、定価四銭。編輯兼発行人は駒木培蔵。
 主な目次は、次の通り。

序文大江小波
島の王子うしほ
勇ましい少年兵士勇 坊
軍事探偵尾上新兵衛
お伽演劇と表紙画一記者
『君が代』とさゞれ石 木戸忠太郎
仏蘭西の竹馬まる公
少年の偉蹟みさを
猿のお噺かみす
この他、考物や記者だよりがある。
 発刊の主旨を示す一文は特になく、巖谷小波の次のような「序文」がある。
今日は十一月三日。先月の三日はお伽芝居の産声を聞き、今日の三日は、こゝにまたお伽の誕生を見る。而も今日は天長節、恐れ多くも
我 天皇陛下の御誕辰といふ。その難有い日に生れ合せたわがお伽の老先こそいかに、めで度く、いかに頼もしからうぞと、今からこれを楽しむ者は、
 お伽の当り年十一月三日
       お伽外史 大 江 小 波
 序文の内容日付から、本誌が、天長節を期して発行されたことがわかるものの、格別の主張はみられない。小波が序文を寄せることなったのは、おそらく久留島武彦との縁であろう。
 さて、その久留島であるが、「本社の尾上新兵衛」という記述が「記者だより」にみえる。ところが、本誌に掲載された中央新聞の広告には、尾上新兵衛が編集を担当して、「家庭」と題する十六頁の婦人及び児童向けの小冊子を発行するとある。珍聞舘と中央新聞は、密接な関係にあったらしい。久留島が、中央新聞に入社する経緯は、生田葵『お話の久留島先生』に述べられているが、児童文化事業に尽力するのを許されていたという。
 執筆者についていえば、木戸忠太郎は理学士で小波主催の木曜会のメンバー。姓が略されているうち、「うしほ」は、「石橋うしほ」という人物らしいが、それ以上は不明。「少年の偉蹟」と題してフランス人の軍人ベトランドの少年時代のエピソードを書いている「みさを」も不明だが、松美佐雄の可能性もある。周知のように、松美佐雄は江見水蔭の門下であり、小波は江見水蔭と親しい。また、独学でフランス語を学んでいるし、本人は筆名を、〈まつ・みさお(を)〉とするつもりだったという(『日本口演童話史』)。とはいえ、確証はなく、推測の域をでない。つまり、姓だけの人物は、いずれも不祥であるが、木戸の例から考えると、久留島ないし小波周辺の人物ではなかったかと想像される。
 表紙の構図は、芝居の幕があくところと、巖谷小波と川上貞奴、音次郎の三人を描いた絵はがきとを組合わせている。「去る十月三日四日の両日本郷座で演たのが、乃ち本号の表紙に、久保田米斎君の揮毫になツた、絵端書にある様に、『狐の裁判』と『浮かれ胡弓』になツたのです、」(「お伽演劇と表紙画」)とあって、誰の筆になるものかがわかる。この絵はがきは、米斎がその場で即座にかいて小波に送ったものという。話題になったお伽芝居をいちはやく表紙に採用するあたりは、世間の動きにとりわけ敏感であった版元ならではというべきか。
 内容は、おとぎばなし(西洋昔話)、理科読物、小説、地理読物、ポンチ、教訓噺、伝記、考物と、おおむね他の少年雑誌と大差ないが、投稿欄のないのが珍しい。ただし、広告に次回より作文を掲載すると応募広告があるから、二号以降は、投稿も掲載されたと思われる。ポンチ画は、結城素明、渡部審也が交互に筆をとると「記者だより」にのべている。
 書名の「おとぎ」は、「お伽噺、軍事談、地理歴史から伝記小説、何でもおとぎになるものは、号を追って載て行きます」(「記者だより」傍点引用者)という「おとぎ」の用法からきているのだろう。すなわち、「子どもの読物」という意味である。「おとぎ」にこのような意味があった例として書きとめておく。