インターネット版

児童文学資料研究
No.70


  発行日 1997年11月15日
  発行者 〒546 大阪市東住吉区東田辺3-13-3 大藤幹夫


目  次


戦中期の「ももたろう」絵本大藤幹夫
武田雪夫の個人雑誌「積木」藤本芳則
「わが雅号の由来」について上田信道

戦中期の「ももたろう」絵本

大藤幹夫

 ここに紹介しようとする戦中期の「ももたろう」絵本は、つぎの四冊である。

(1)「三ツノオハナシ」(絵画・吉沢廉三郎、オハナシ・西崎大三郎「キンダーブック」第十四輯第二編、フレーベル館、昭16・5・20)
(2)「桃太郎」(藤田健一・編、近藤健児・画、児訓社、昭17・2・5初版、昭17・10・30三版)
(3)「モモタラウ」(文・茶木 滋、画・琴塚英一、岡本ノート株式会社出版部、昭18・4・30)
(4)「ムカシバナシ モモタラウ」(文/千葉省三、画/斎藤五百枝、「コドモヱバナシ」新年号、大日本雄弁会講談社、昭19・1・1)
 戦中期の各年からの「ももたろう」絵本ということになる。
(1)は、表紙裏に倉橋惣三が「時局と子供」を書いている。
 「わたしが子どもの時、日独伊が、世界の枢軸として相結びついた」。この深い意味も大きい意味も、大きくなつて初めて分ることでせうが、その心持ちを何かで感じさせたいこと、その幼い日の感じを後にまで残したいこと、それは、誰でも思ふことではありますまいか。そのために、三つの国の国旗が一つに束ねて飾られたり、三つの国の国歌が声をともにして歌はれたり、皆、幼い子どもの心に何かを感じさせ、何かを残すことに相違ありません。―この絵本によつてもまた。
ということで、ここでの「三ツノオハナシ」は、「モモタラウ」(日本)と「ピノチオ」(イタリア)と「アカヅキンチヤン」(ドイツ)の三人が手をとりあう話である。
 モモタラウがピノチオと出会って「ボク ノ オニセイバツ ノ オハナシ ヲ シテアゲマセウヵ」というストーリーになっている。
オニドモ ハ ミンナ カウサン シテ/モウ ケッシテ ワルイコトハ イタシマセンカラ オユルシ クダサイ ト アヤマリマシタ ノデ ボク ハ オニ ヲ ユルシテ ヤリマシタ/ドウデス ピノチオサン イサマシイ オハナシ デセウ
と、「オニドモ」をこらしめた「イサマシイ オハナシ」になっている。
 モ「ボクタチ ハ イイ オトモダチ ニ ナレテ ウレシイネ ナカヨク シマセウネ」
 ピ「ウン ハナレナイデネ」
 ア「テ ヲ ツナイデョ サウシテ ウタ ヲ ウタヒ マセウ」
で、オハナシは終る。ウタも「オニ ヤ オホカミ タイヂタ アト ハ/キラキラ オヒサマ ヒガシ カラ」と、時局の日本のありようを語っている。
 裏表紙の裏に、キシベ ヱンチャウ(岸辺福雄)が、「モモ・ピノ・アカ・ハ タレ ノ コト」と「ニッポン ト ドイツ ト イタリヤ ノ ワタクシタチ モ ナカヨク イタシマセウネ」と呼びかけている。
 (2)の「桃太郎」は、奥付に「三版発行 四〇〇〇〇」とある。現今の絵本出版の状況と考え合わせると改めて「時局」を考えさせられる。
 表紙裏に編者が、五大昔噺のうちの「桃太郎」について、特に「桃太郎」は勇壮活溌な力強いお噺として深い親しみと、あこがれをもつて、昔から日本人に慕はれ、好かれてゐます。剛勇にして慈愛深く、智慧のある桃太郎は、日本人の気象を表現したお噺であるといへます。日本の子供はみんな桃太郎のやうな立派な気象の子供になることを希望いたします。
と、記している。
 オニに対して「桃太郎ハ オニノ タイシヤウ ヲ クミフセマシタ。」とあるだけで、論者のいう「剛勇」さが伝わってこない。
 「オニノ タイシヤウカラオミヤゲニ モラツタ タカラモノヲ クルマニ ツンデ ミンナ ウレシ ソウデス。」にいたっては、「慈悲深」さも「智慧」もうかがわれない。
 (3)は、初版の発行部数八〇、〇〇〇部とある。今では、どうだろう。
 裏表紙に「お母様方へ」の弁がある。時代色を鮮明にしている全文を紹介しよう。
 桃太郎は日本人が昔から最も親しんで来たお伽噺です。この絵本はその素朴な美しい伝統精神を失はぬやう、父母の愛情、動物に対する慈愛、戦ひ抜く力、勇ましさ、度量の広さなど日本人が持つ古来からの美しく逞しい精神を主調として、児童にわかり易く描いたものです。
 文中、偵察機、敵前上陸、突撃など近代戦闘用語を用ひましたが、これはお母様方が適宜やさしく説明して児童の完勝精神を発揚させていただければ幸いです。
 モモタラウは「ニッポンイチノ ゲンキナ コ」として誕生する。
 「オホキクナッタ モモタラウハ」「ワルイ オニドモヲ タイヂニ デカケマス」。
 先にいわれる「父母の愛情」は、モモタラウが「オヂイサンカラ ハタヲ オバアサンカラ ニッポンイチノ キビダンゴヲ モラッテ」にあらわれるだけである。「動物に対する慈愛」は、「ニッポンイチノ キビダンゴヲ/ケライニ ワケテ」に読みとるべきなのか。
 「キジハ トビタツ テイサツキ」「テキゼン ジャウリク セイコウダ」「チカラヲ アハセテ トツゲキダ」に「戦ひ抜く力、勇ましさ」があるのだろう。
 「サクラモ サイテ ニッポンバレ バンザイ バンザイ ガイセンダ カッタ カヘッタ モモタラウ」と「美しく逞しい精神」を主調とした「モモタラウ」は語り終えられる。
 この作者・茶木滋は、「めだかの学校」の作詞家である。『児童文学事典』(東京書籍、一九八八)の「茶木滋」の項には、「この作者のテーマは、この作品(註・「めだかの学校」)に代表されるように、シャープな観察眼と優しい心によって表現された生命の賛歌である。」と書かれてある。
 (4)は、昭和十二年に発行された、いわゆる〈講談社の絵本〉で知られる『桃太郎』と同じ画家になるもので雰囲気も似ている。
 「お母さまがたへ」には、「決戦下の新年に、お子さまがたへの贈物として「桃太郎」を特輯しました。」とある。
 「桃太郎さん」は、日本の子供の一人々々に、どんなにか根強く、日本人らしい性格や理想を培つてきたことでせう。さうして育つた日本人、気はやさしくて力持ちの兵隊さんたちは、今はるかな海を越えて、日本国民の大理想をさまたげる、米英の鬼共を討ち懲らしてゐるのであります。
 戦時色がきわだってきていることに注目したい。
 桃太郎は、「マルマルト フトッタ、ヲトコノコ」である。「オホキク ナッテ、ツヨイ カシコイ ニッポンダンジ」に成長する。
 「オワビノ シルシ」に差し出された「タカラモノ」を「ケライタチ」に運ばせて「イヘニ カヘリマシタ。」とあって、編輯局が力むほどには文章に戦時色はうかがえない。(これは、紹介した四冊の「ももたろう」絵本に共通していえることである。)千葉省三の押えた文体が印象的である。
 今、「桃太郎」絵本の典型を作った、とされる昭和十二年発行の〈子供が良くなる 講談社の絵本〉の一冊『桃太郎』と比較してみると、十二年版にあった出陣に際してと凱旋してからの「オミヤ」へのお参りの場面が紹介したいずれの絵本にも見られない。
 十二年版の「桃太郎」は、「オヂイチャン マッッテチャウダイ」との声とともに桃が割れて「マルマルト フトッタ カハイイ ヲトコ ノコ」が「テヲヒロゲナガラ トビダシマシタ。」とある。これは、明治二十七年刊行の巌谷小波『桃太郎』の『お爺さん暫らく待た!』と声を出して誕生する神格化された場面に通じる。(「フトッタ カハイイ ヲトコノコ」がただ「フトッタ、ヲトコノコ」に変わっているのもひとつの変化だろう。)
 十二年版の「桃太郎」が、産湯の「タラヒヲ ツカンデ グット サシアゲ」る力持ちであること、「タイヘンキガヤサシクテ」おじいさんやおばあさんを「イツモ シンセツニ カタヲ モンデ」あげる親孝行の場面は、十九年版にはなく「ツヨイ カシコイ ニッポンダンジ」に成長する。
 十二年の「桃太郎」が「オニセイバツ」に出かける理由として「ソノコロ オニドモガ ワルイコトバカリシテ 人人ヲ クルシメテヰタ」とあるのに、十九年版では、いきなり「ワタクシハ オニガシマヘ オニタイジニ マヰリマス。」と申し出ることになる。桃太郎にとって鬼退治は当然のこととしてある。
 結末も十九年版では、「ケライタチニ、ソノ タカラモノヲ ハコバセテ、イサマシク イヘニ カヘリマシタ。」になるが、十二年版では、「桃太郎ハ イヌト サルト キジニ「ヨクハタライテクレテ アリガタウ」トイッテ ゴホウビニ タカラモノヲ ワケテヤリマシタ。」と人間味のある姿勢がうかがえる。
 十二年版は、あくまで「日本国民の大理想をさまたげる、米英の鬼共を討ち懲」す「颯爽とした」桃太郎でなければならなかった。

武田雪夫の個人雑誌「積木」

藤本芳則

「積木」は、幼年童話作家として知られる武田雪夫の個人雑誌である。大阪国際児童文学館に何冊か所蔵されているほかには管見に入らない。
 誌名は、「幼い子供さんの心の中に、何ものかを積んであげたい。」(同誌昭11年1月)とするところに由来する。
 創刊号は昭和一〇年一一月一日、「積木の家」(武田自宅)発行、本文一二頁、四六判、月刊、送料共一〇銭。終刊不明。
「発刊のことば」をひく。

この小冊子は、私の仕事―幼児童話童謡の創作と、幼児に関する研究等を発表する個人の機関誌であります。

そのまゝ、何の工夫も加へずに、読んで聞かすのに適する幼児向の童話を、私は本誌になるべく多く発表します。保育に従事される方々、ならびに家庭の母親方によつて、少しでも幼児のために利用されるところがあれば私の目的は達せられたといふべきです。

 また私は、幼児の歌ふのに相応しい童謡を本誌に発表します。音楽家諸氏によつて活用されるものが、一つでもあれば、私の喜びはこの上もありません。
(以下略)
 実見できた号の目次を掲げる。[ ]内は引用者注。

創刊号(昭和10年11月1日)
表紙画・カット[武井武雄]
発刊のことば表紙裏
動物園の象さんのお話[童話]1〜5
童謡[「お紅茶の歌」・「半かけお月さん」]6〜7
「お母さん話」に就て[批評]8〜9
幼児向き絵本二種[紹介]10〜11
幼児用の童謡レコード[紹介]10〜12
武井武雄著『十二支絵本』に就て[紹介]12〜12
赤ペンのしづく[後記]13〜13

2号(昭和10年12月1日)
表紙画[福与英夫]/カット[武井武雄]
目次表紙裏
八百屋の小僧さんのお話[童話]1〜6
履物を揃へさすには?[教育談]7〜7
童謡[「子供の象さん」・「兵隊さんが来たの」]8〜9
幼年童話作家協会趣意書10〜11
吾々の仕事[槙本楠郎・武内俊子]10〜11
卓上燈[新刊紹介]12〜13
赤ペンのしづく[後記]13〜13

3号(昭和11年1月1日)
表紙画[木俣武]/カット[武井武雄]
目次表紙裏
鼠さんの縄とびのお話[童話]1〜4
幼年童話時代[エッセイ・奈街三郎]5〜5
メモ[エッセイ・与田凖一]6〜6
童話お猿さんの雪投げ[童話・西村正夫]7〜10
童謡[「牧場の小馬」「汽車が来るよ」]11〜12
赤ペンのしづく[後記]13〜13

4号(昭和10年4月1日)
表紙[武田雪夫撮影写真]/裏表紙画[武井武雄]
目次表紙裏
牛のリボンのお話[童話・武田雪夫]1〜3
幼児の躾方―二つの玉[エッセイ・武内俊子]4〜5
幼年童話の基本的問題[評論・槙本楠郎]6〜10
幼児の詩・語彙[資料]6〜11
寄贈雑誌12〜12
赤ペンのしづく[後記]13〜13

7号(昭和12年1月1日)
表紙画[『と家庭毎日のお話』写真]/裏表紙[武井武雄]
目次表紙裏
お豆腐屋さんと雀さんのお話[童話]3〜5
武井武雄君著「と家庭毎日のお話」[紹介・倉橋惣三]6〜7
幼稚園・託児所ご関係者と理解ある家庭の母親の方へ[宣伝文]8〜10
「と家庭毎日のお話」執筆者一覧8〜10
広告[『と家庭毎日のお話』]11〜11
童謡五篇[「キリンサン」「ロバサン」「ネズミノヲバサン」「汽車汽車乗ルヨ」「ニコニコ象サン」]12〜14
赤ペンのしづく[後記]15〜15

9号(昭和12年4月1日)
表紙画[佐藤今朝治]/裏表紙絵[熊谷元一]
広告[『子供の家』母の講座会員募集]表紙裏
目次3〜3
児童の宗教性[沖野岩三郎・評論]4〜7
鶏さんと英夫さんのお話[童話]7〜9
床屋さんごつこ[童話]9〜13
お猿さんと桃の実[童話・西脇正治]13〜16
卓上燈[寄贈書紹介]18〜18
赤ペンのしづく[後記]17〜18

 創刊号に掲載された「「お母さん話」に就て」は、武田雪夫の幼年童話観をよく示している。

(略)読む話と読んで聞かす話とには、自らなる別があることを知らなければなりません。そして、読んで聞かす為に特に作られた話「「そのまゝ別に工夫をこらすことなくたゞ静かに読んで聞かすことによつて、はじめてその価値を発揮する話があつてもよい筈いやあるべきであると私は主張したいのであります。今迄に全くないとは申しませんが、少なくとも判然と意識して書かれたものは少いと思ひます。けれど今後この種の話は、極めて盛んになると信じます。
 同じく創刊号の「動物園の象さんのお話」は、この主張に沿って書かれたものである。武田は、後に「読んで聞かす」作品を集めた童話集を三冊ほど刊行している。現在にも通じる問題意識に基づいたユニークな試みだったが、残念ながら「極めて盛んに」なることはなかった。
 二号の「幼年童話作家協会趣意書」は、与田凖一、武田雪夫、武内俊子、奈街三郎、槙本楠郎の五人によって結成された会の趣意書で、事務局が武田雪夫の自宅におかれた。ささやかであったにしろ、幼年童話作家達の組織という点では、重要な意味があったが、社会的反響はほとんどなかったようである。協会は長続きせず昭和一一年には解散。七号に、「この度幼年童話作家協会は会員の総意により解散致しましたが、この会の設立によって、童話界に於ける幼年童話に対する関心の特に一層深まったことは忘却出来ない事実でありました」(「赤ペンのしづく」)と報告されている。ちなみに、幼年童話作家の組織は、槙本と武田を除くメンバーと、巽聖歌と佐藤義美らで幼年文芸サークルが設立されて、引き継がれる形となった。
 三号の奈街三郎「幼年童話時代」は、ここ三、四年来「幼年童話時代」が現出しているが、玉石混淆の状態であるから、創作活動とともに批判活動もひろく展開したいという短いエッセイ。
 四号の槙本楠郎「幼年童話の基本的問題」は、「或る作品を読むことによつて惹き起される感情なり気分なりが、幼年児童の正しい集団的・自主的・創造的生活を扶けるものとなり、それをヨリ合理的な社会生活へと発展さす」ことが、「良き幼年童話」のもつ条件であると主張。「集団的・自主的・創造的生活」は、幼年童話に限らず児童文学全般に通じる槙本の主張であり、特に幼年童話に特有な具体的論点はみられない。
 七号は、『と家庭毎日のお話』をテーマに編集され、倉橋惣三の一文は、同書の推薦文。「子供の話は、仮名が多くて読み難いから、さういふお言葉をよく耳にしますので」「全く新聞雑誌を読まれると同様に、極めて楽々と子供さん方にお話を読んで差上げられるやうに編輯致してあります。」(「幼稚園・託児所ご関係者と理解ある家庭の母親の方へ」)と、編輯方針を述べている。同書に収録された作家の作品(例えば新美南吉など)の文体に言及する際に踏まえる必要のある発言である。この号から表紙に「母親のための雑誌」と記載される。
 九号は批評がなくなり読物中心へと変化。幼年童話作家協会の解消が内容の変化をもたらしたものか。の沖野岩三郎「児童の宗教性」は、JOAKより放送されたものの要旨。


「わが雅号の由来」について

上田信道

 本誌65〜66号で、博文館の「中学世界」に掲載された作家の雅号の由来記について紹介した。ここで取り上げる「わが雅号の由来」は、「日本少年」(第一〇巻第九号 一九一五年八月号)に掲載。実業之日本社の編集記者たちが、自らの雅号の由来について述べたものである。
 もっとも、瀧沢素水のように「この頃はトンと筆も採らず、素水先生などと書いたこともないので、他所の人に遭うたやうな気がする。ハテさて何うして素水などと号けたやら。名付親に聞いて見にやならぬ。そこらに名付親は居らぬか、やァい、名付親、やァい。」と、とぼけられてしまっては、何も出てこない。しかし、雅号というものは、それなりに思いを凝らして考案したものである。何らかの形でその由来を知ることができれば、各作家の文学に関わる姿勢を探ることになると思う。
 誰しも思うことだろうが、実業之日本社の編集記者の雅号には殆ど〈水〉の字が付いている。常識的に考えれば、とても偶然とは思えない。例えば、「日本少年」の新人記者を紹介する記事に、「松山君は号を思水と云ひ、原君は号を掬水といひます。また水かと諸君は云ふでせうけれど、これも何かの因縁でせう。」(第七巻第一三号 一九一二年一一月号)というものがあった。
 この《因縁》について、当の松山思水は「水のやうになりたいと思つて、思水とつけました。何のわだかまりもなく、執着もなく、而も山を周り岩を貫いて、遂には目差す大洋に入る水のやうに、倦まずたゆまず自分の道を履んで行きたいのです。又一つには人間に水が無くて叶はぬ様に、日本少年にとつて無くてならぬ記者の一人になりたいとの、こんな潜越な考へも交つてゐるのです。」と当たり障りのないことを述べている。
 しかし、もう一人の当事者である原掬水は「私が入社した時、峡水君は自分の好きな『水』をつけた雅号を幾つも拵へてくれました。その中で、『掬水』といふのが気に入つて用ゐることにしたのです。」と述べ、先輩記者の命名によるものだということを認めている。〈水〉の字こそないが、富岡皷川も〈水〉派の一人。その皷川も「入社した時水裏君がつけて呉れたのです。鼓のやうな音を立てて川が流れてゐるといふ大いに風雅な意味があるんですが…。」と、先輩記者の命名によるものと述べている。
 一方で、星野水裏は「中学にゐた時分の事なので、言へば生意気になるから言ひにくいが、何処かで、水裏天あり世界を蔵す、譚中形あり山河を映ず、といふ句のあるのを見付けて、世界を蔵すが気に入つて、これだこれだと定めてしまつたといふやうな訳、(中略)大きくなつてから、水裏は推理に通じて好い号だと賞められたものだが、今ぢや陶摸に通じて可笑しいと笑はれてる。」と、入社前からの雅号であることを明言する。有本芳水も同様に、「芳ばしい水といふだけで別に意味がない。つけてから今年で十四年になる。余りいい号でもないが、かへるのも面倒だからそのまま用ゐてゐる。」と述べる。芳水の入社は一九〇九年のことなので、入社前からの雅号ということになる。
 岩下小葉は、入社後、余りの〈水〉の多さに、わざと雅号を変えたという。「何をかくさう、僕ももとは人並に「水」といふ字を持つてゐた。しかし入社当時、余り水の字の多いのに驚いてハツパに早替りして了つた。(中略)ただもう何の意味もなしに小葉としてしまつた。強ひて由来を求むれば僕の入社当時はあだかも若葉の頃であつたから、そして僕はその若い小さい葉が、鮮やかに新緑を彩つてゐるのを大好きな故であらうと思ふ。」と記している。
 反対に、高信峡水は元からあった雅号の音だけを残して、〈水〉を採用。「美文断片といふやうな書物と首ツ引きで、頻に古人の名文の継ぎ合せや糊細工をやつてゐた十四五の頃、僕は潜龍といふ号をつけてゐました。潜龍何時までか池中のものならんやといふ抱負を見せた訳です。それが二年ばかり続いて、今度は狂酔野人といふ恐ろしい号に変へました。挙世悉く狂酔、われ一人覚めたりといふ当時流行のエラがついた反語のつもりでした。それが十八九になると、何だか馬鹿らしくなつて来ました。しかし全く捨てることも出来ないので、さてこそ狂酔の音だけをとつて、峡水。」という。
 また、小倉紅楓は、〈水〉のない理由を、次のように記している。(全文引用)

「みんな雅号に水を附けて居るが何か仔細があるのかしら」「別に仔細も無いのサ偶然水連が集つた訳サ」「そんなら子供の時から持合せの紅楓で間に合さう」「何か謂はれがあるのかネ」「別に謂はれもないが、子供の時に馬鹿に紅葉の文に惚れ込んだのと、百人一首の小倉山と紅葉とは離せない聯想があるのと、楓は芽ざしも良く、青葉も良く、散り際の紅葉が別けて良く、其有終の美にあやかりたい為めに附けた迄です」(以上入社当時素水と紅楓の問答)
 要するに、〈水〉は強制ではないけれど、以前からの雅号のない場合、特に先輩記者から雅号を付けて貰う場合は、どうしても〈水〉関係になるということだろう。あまりに常識的な結論である。が、これを《常識》として片づけず、考証しておくことも無駄ではあるまい。
 紙数が尽きたので、非〈水〉派の二人の雅号の由来を紹介するにとどめる。
 森川苳衣は「今は見る影もなく荒れ果てて居らうが、囘憶多き我が故郷の庭には数多の蕗が生えてゐた私は蕗が好き。食ふことも見ることも好きである。(中略)私は斯うして過した自分の幼年時代を永久に忘れられぬ。是れ我が雅号の依つて来る所、因に苳は蕗である。」と、実家に因んだ命名であると述べている。
 渋沢青花は入社後、しばしば雅号を変えた。「青花と号をかへたのはこの三月からで、その以前は素風と号してゐました。瀧沢素水と渋沢素風が余りよく似てゐて、屡屡人間違ひの喜劇を演ずるので、断然号を改めたのです。青花の号を選んだについては別段に由来もありません。音の調子が好いのと、青いといふ文字が赤紫なぞに較べて厭味の少ないのとで選んだまでです。青い花とは如何なる花かも考へては見ませんでした。」という。なお、入社直後は〈孤星〉と号していたことが、当時の「日本少年」の記事からわかる。