インターネット版

児童文学資料研究
No.71


  発行日 1998年2月15日
  発行者 〒546-0032 大阪市東住吉区東田辺3-13-3 大藤幹夫


目  次


『明日の日本軍(児童劇)』大藤幹夫
「日本児童文庫内容見本」について上田信道
松美佐雄著『教室童話学』について藤本芳則

『明日の日本軍』(児童劇)

  昭和十三年七月七日 発行
  発行所 日曜学校聯盟本部
  発売所 興 教 書 院

 本書は、文庫型の判型、全頁は、110頁である。
 「序」(伊達 豊)によれば、

 昨夏勃発した支那事変以来、事変に取材した児童劇の脚本は夥しく現れた。しかし、それらの多くは何れも低調なものばかりで、所謂際物といふ感じの物が多くて、真に芸術的にも亦教育的にも傑れた作品といふものは極めて稀であった。
 そうした状況の中で、「もつと/\子供たちの心霊にのんびりとした、余裕のある内容を与へる作が現れてもいゝ」との期待に応える作品が本書収録の作品、ということになる。
 伊達によれば、
どれもこれもみんな立派な、余裕のある内容を持つた作ばかりなので真に敬服させられた。殊にわが意を得たと思ふことは、其内容、形式共に簡潔で、少しの無駄もなく、童心に触れて余すところがない。而かも誰にでも直ぐに、容易に、家庭や学校で演ずることが出来るといふことである。
 伊達が本書を推奨する理由は、
殊に此書は、わが勇士の英霊に捧げる言葉が添へてある。そこで、私も一さう敬虔の念を以て世の父兄方や教師方に、此書が一冊でも多く家庭や学校で読まれもし、又演ぜられもして、地下の英霊を慰めるよすがともなるやうお願ひする次第である。
にある。戦中期の読み物に求められる性格、条件を如実に示した一文となっている。
 目次を紹介したい。
上原弘毅作品
  上海第二戦線
  野戦病院附近
  慰問袋
  コノヱ、ドコノヱ
暉峻純親作品
  踊る兵隊さん
東 光敬作品
  千人針
  鳴  子
  激戦の跡
花岡大学作品
  土塀の号外
  山の入城式
 編集責任者に筒井葆鋭、荒井哲雄、長納圓信の名があり、上原弘毅も加わっている。
 作者は、「関西地方に於ける童話作家として、又、児童劇作家として重要な地位を占めてをられる人たち」(伊達)である。
 『日本児童文学大事典』(大阪国際児童文学館・編、大日本図書、1993)によれば、 上原弘毅は、歌人、児童文化運動家であり、紙芝居、人形劇など児童文化活動に従事した人である。著書に『幼年童話集 かにのはさみ』(百華園)、児童劇集『伸び行く少国民』がある。
 暉峻純親は、大事典に記載されていない。
 東光敬については、「童話の創作は大学在学中、日曜学校運動を通して上原弘毅に啓発されて始める。」とある。生前唯一の自選童話集『山ノヱハガキ』があり、没後『宮沢賢治の生涯と作品』が出版された。
 花岡大学は、作家、仏教文学者と紹介されている。上原弘毅らと童話作家聯盟を結成。個人誌「まゆーら」を創刊、一〇〇号まで続刊。小学館文学賞を受けた長編『ゆうやけ学校』のほか『花岡大学仏典童話全集』(全8巻)、『花岡大学童話全集』(全6巻)がある。
 作者たちは、(暉峻については不明であるが)龍谷大学に学んだ点と上原弘毅と接点を持っていたことがわかる。
 作品について、あらすじを紹介してみたい。
 「上海第二戦線」の舞台は、上海の「北部日本人小学校」。新聞記者が現地の探訪記事をまとめているところに空襲がある。敵の飛行機に対して少年たちが小銃を撃つ。(当時は、こうしたナンセンスともいえる事態があった。)そこに負傷したおばさんが来る。そして「看護婦風の先生」もやってくる。
少女一先生は、どうして内地に帰らなかつたのです。
少女二どうして看護婦さんになつたのです。
との問いかけに、
先生あなた方のお父さんたちが、義勇兵になつて日本人クラブで働いてゐるのに、どうして、じつとしてゐられませう。先生は、内地に引上げるのを思ひとまつて、傷ついた兵隊さんのお世話をしてゐます。
と答える。
 「日本の飛行機がみんなをしつかり守つてくれます。」との先生の言葉を受けて、一同が「万歳々々。」と叫ぶ中に幕とまる。
 「野戦病院附近」では、少年と傷兵の会話がある。傷兵の言葉を写してみる。
谷が「俺はもう駄目だ。が、君は早くよくなつて、俺の分も働いて、この仇をうつてくれ」といひながら、息をひきとつたことを思ふと、じつとしてをれないやうだ。よし、この仇はきつとうつてやるぞ。

え、内地に帰されるのですか。お願ひです。原隊にかへして下さい。も一度出征さして下さい。自分は、もう三度も原隊復帰を志願したのです。
 それに対して、看護兵が、
駄目だといふに、上官の命令だ。出征志願することはならぬ。君の身体は天皇陛下にさゝげた大切な身体だぞ。内地に帰つて充分養生し、元気になつた上で再び出征するのだ。
と答えている。
 出征志願よりも「君の身体は天皇陛下にさゝげた大切な身体」が重視されている。こうした論理が、この時期すでに正当化されていた事実を教えられる。
 「慰問袋」「コノヱ、ドコノヱ」は、生活童話風の生活スケッチである。
 「踊る兵隊さん」は、少年少女の「戦争ごっこ」のスケッチ。
 「千人針」は、戦地の兵隊さんに送るつもりの千人針を、仕事に追われて夫の元に送れない赤ちゃんを連れた母親に、少女たちが自分たちの千人針をゆずる話である。
 「鳴子」は、慰問の写生に、「今年は豊年です」と書き添えた子供を先生が褒める話。
 「激戦の跡」は、廃墟の忠霊塔の前で、兵隊が、小学生の手紙を読むところから幕があがる。
夕刊で○○激戦の記事をよんでお父さんもお母さんも兄さんも姉さんも泣きました。僕は日本男子だから泣いたりなんかしません。でも目から涙がでてしかたありませんでした。小数の部隊で敵の大軍の逆襲を、三日間も食べず眠らず最後の一兵まで守りつゞけて下さつたことをきいて、ぼくたちはもうこれから決してお腹がすいたとか眠いなど云はないと心にちかひました。兵隊さん、ありがたう。ぼく等も一しやうけんめい勉強して賢い強い日本国民になります。
 典型的な「少国民」スタイルがここに見られる。
 そこに花を持つた中国の少女が現われ、塔の前に花をそなえる。それは、「敵が退却した後、村に一人の子供が倒れてゐた」のを一兵隊が助けた。その兵が激戦で戦死したのを知った少女が花を手向けに来た、と知る、という話。
 離れて行く少女を見送りながら兵隊たちが、「心の花をさがして荒地の遠いはてまで歩いて行くのさ。」というセリフで幕が降りる。
 「ひとしきり風がきて少女がそなへていつた塔の花が風にゆれてゐる。」というト書が抒情的である。
 「土塀の号外」は、南京陥落の号外をめぐっての話。先生が最後に「きをつけ、戦争に行つてゐられる兵隊さん、有難う。」としめくくる。
 「山の入城式」も、子どもの「戦争ごっこ」。敵方にされて殺される役の女の子たちが文句を言っているところに郵便屋さんが、軍事郵便を運んでくる。安治の父からの手紙を郵便屋さんが読んでくれる。南京攻略のさまが書いてある。
お父さんも働いたぞ。安治、お父さんの刀はよく斬れたぞ、右に来る奴を右にはらひ、左にくる奴を左につき、無茶苦茶に働いた。そのうちに支那兵の奴は、町に火を放つて、どんどん逃げ出ます。なにくそ、逃がしてたまるものか、お父さんたちは、もえさかる火の中を、足のつゞくかぎり追ひまくる。面白いのなんのつて話にならない。
といった内容である。
 こうした作品を読むと、伊達のいう「余裕のある内容を持つた作」とか、「童心に触れて余すところがない」とはいえない。
 「跋」は、「この劇集は、わが忠勇なる兵士の英霊にさゝげる。」と書き出される。編輯者は「芸術的な高度の純粋さと教育的な良心をもつてゐる」作品、と自負している。「事変といふ非常時の緊張が全部を通じて脈搏つてゐるので、大きく一つの劇として見て頂いてもよい」と、作品集のねらいを記している。
諸君は、明日の日本をしよつて立つ人たちだ。明日の日本軍だ。わが勇士の英霊の前に誓つていたゞきたい。「私たちは立派な日本人になります、英霊よ静かに眠れ」と。
の結びに本書の意図が示されてある。

(大藤幹夫)



「日本児童文庫内容見本」について

上田信道

 「日本児童文庫」(アルス)と「小学生全集」(興文社)は、猛烈な宣伝・販売合戦を繰り広げたことで知られている。先に、私は〈「小学生全集内容見本」について〉というタイトルで、「小学生全集内容見本」について本誌上で紹介。このとき、本来なら、ライバルの「日本児童文庫内容見本」についても比較考察すべきであったが、肝心の資料が見あたらなかった。その後、資料探求に心がけていたところ、このほど、入手することができた。
 「日本児童文庫内容見本」は、菊判、表紙を含め24頁、アルス刊行の宣伝パンフレットである。刊行年月日の記載はないが、裏表紙に「締切六月三日限」とあることから、おそらくは1926年の後半から1927年の初めにかけての刊行であろう。
 「小学生全集内容見本」と、ほぼ同じ体裁である。ただ、「小学生全集内容見本」は、表紙の指定部分を切り抜けば一種の仕掛け本になったりして、人目を引く工夫が凝らされている。これに較べると、「日本児童文庫内容見本」の方は、仕掛けなど皆無。カラー印刷のページも表・裏表紙だけで、全体として地味な印象がする。
 頒布方法や支払い条件についても、「小学生全集」は、〈初級用〉〈上級用〉〈八十冊揃〉の別があり、それぞれに《毎月払》《一時払》の区別と特典があって、消費者の選択の幅が広い。これに対し、「日本児童文庫」は、単純である。〈頒布方法〉は「全七十巻。予約会員にのみ頒つもので、一冊売りは致しません。別巻『自習事典』は無代進呈」、〈申込〉は「御入会の際申込金として壱円御送り下さい。これは最後の月の会費にあてますから第一回分の会費は別に御払込下さい。申込金は中途解約の方へは返戻致しません。」、〈会費〉は「毎月払一ケ月会費壱円。一時払は参拾壱円に割引します(申込金は要しません)会費の外に送料として毎月十二銭宛申受けます。但市内六銭、海外は二十八銭宛御送り下さい。」、〈申込方法〉は「振替又は為替でその月の五日迄に着金するやうに御払込下さい。郵券代用は壱割増に願ひます。」となっている。
 また、「小学生全集」は、〈煙と消える敷島二個を小学生全集に〉〈半襟一本で興文社の小学生全集が幾冊〉というキャッチフレーズで、低価格を具体的に強調。「日本児童文庫」では、〈子供雑誌一冊の価で本文庫一冊が買へ、一日の煙草代の節約で子供の悦び〉を見ることができると、それほど具体的ではない。
 ほかに、「小学生全集」は〈菊池寛先生/芥川龍之介先生/責任編輯〉を大書して、有名作家の名前を全面に出す。「日本児童文庫」の場合、中心的な存在である北原白秋は、一編輯顧問の立場として取り扱われているにすぎない。
 このように比較してみると、「日本児童文庫」の宣伝は全体としてやや控えめであり、こと〈内容見本〉に関しては「小学生全集」に軍配が上がると言えよう。
 次に、対象に想定する読者の年齢について、両者にやや違いが見られる。
 「小学生全集」の場合は、各巻を《初級用》の30冊と《上級用》の50冊に分け、前者は〈(幼稚園より)尋常一二三学年程度。〉、後者は〈尋常四五六学年程度。(より中学校女学校の初学年程度)〉としている。( )内は営業上の判断から、本来のねらいよりやや拡大して宣伝したものと解釈でき、宣伝上手の「小学生全集」らしい。中心的な読者を尋常科の生徒。文字どおり《小学生》全般に想定していると考えられる。
 「日本児童文庫」の場合は、「本文庫の程度は尋常三四年から中学一二年にも適するやうに編纂致しました。而も幼稚園、尋常一二年生にも面白く父兄主婦にも常に新知識の泉となります。故に本文庫は児童文庫であると共に模範的家庭文庫であります。」と、読者の年齢をやや限定して記述。さらに、「本文庫は入学試験等をも重視して児童の実力が平生から得られるやうに努めました。国定教科書を基として予習復習に便し、加ふるに毎月会員に無代で進呈する『学習新聞』誌上に於ては特に受験準備の欄を設けました。」と、《入学試験》《受験準備》をアピールする。また、「日本児童文庫」の特徴の一つは、索引の巻にあって、内容見本でも、「本文庫は児童の自学自習に最も適当した模範的な児童図書館であります。各学校家庭に於て一揃づつ本文庫を備へれば、子供は必ず自発的に本文庫の索引を利用して独りでに下調べをなし自学自習することが出来ます。」と強調。別巻『自習事典』の附録と《自学自習》を強調する。
 つまり、中心的な読者を中等学校への受験を控えた尋常科高学年(少なくとも五年生以上)に想定しているように思われる。このように、「小学生全集」より、やや、高い年齢を対象に絞り込んで宣伝。経営判断としては、これも一つの見識というべきか。
 紙数が尽きたので、最後に、作家の推薦文のうち、北原白秋と小川未明のものを引用しておく。

鍵だ―日本の児童たちへ― 北原白秋
 鍵だ。日本の児童たち、ほら、鍵がこゝにある。さあ、開くのだ、この鍵で。日本児童文庫はいつでも自由に皆さん自身に開いていい。さうして世界の芸術と知識とを皆さん自身で自分のものとするのだ。づんづん生長するのだ。日本の児童である皆さんが、さうして世界の児童になるのだ。(中略)
 さうしてわたくしが何を皆さんにあげるか。皆さんはわかつてゐるね童謡だ。童謡だ。日本の昔からの童謡を今のわたくしたちの童謡を、さうして皆さんたち、日本の児童の詩を自由詩を世界に示してやるのだ。(以下略)

時宜を得たアルスの壮挙 小説家 小川未明
 誰しも子供を大切にしなければならぬといふことは知つてゐる。それは、自分達の力で完成することの出来なかつた社会を、より美しく、より正しく完成するものは、自分達の子供であるからである。この意味に於いて、次の時代は今その辺に遊んでゐる子供達である。だから、その子供達本位に、私達の総べての事業も、企劃も成されなければならぬ筈であるのに、大人自からの生活状態に左右されて、多くの人々がその子供達を顧みるの暇を有しない。(中略)都会に於ける勤労階級、無産階級の家庭にあり又農村家庭にありては、大人は仕事のために忙がしく、子供達の無二の娯楽となり、教化の資となるものはそれ等の読物でなければならぬ。(以下略)
 白秋は童謡と児童自由詩の成果を強調。未明は〈無産階級の家庭〉〈農村家庭〉への普及を強調する。もっとも、未明の場合、そうした貧しい各家庭が子どもの読書費用として毎月1円12銭を負担できるかという点に難がある。やや空想的だとの謗りは免れまい。それにつけても、それぞれ、自らの立場に引きつけて語っていて、興味深い。


松美佐雄著『教室童話学』について

藤本芳則

 昭和2年5月15日初版(昭和8年3月1日5版)、日本童話聯盟本部発行。発行所住所は、著者松美佐雄の住所と同じ。菊判、192頁、1円。
 冒頭におさめられた「増補版巻頭の序」は、「教室童話学は、改訂増補の本書に於いて、稍輪廓がはっきりされて来た。」と書き出され、昭和8年2月紀元節の日付がある。本書は、『教室童話学 初篇』(昭和2年5月)の増補改訂版。「本書に「お話は太陽である」を加へ、三四のお話を添えたることは、読後直に、他の童話集を求むることなく、自己の教室に於いて、安全に実演を試みることが出来得るためである。」とみえる。
 主な目次を次に示す。

   教室童話学序論
(1)気分と教材と教室
(2)教室の設備について
(3)教室での表現法
(4)態度の実際的分類法
(5)態度の分解的研究
(6)「モチノマト」の話方
(7)をぢさんのうち
(8)態度と聯想の関係
(9)擬声
(10)情緒の整理
 ◇ お話は太陽である
 ◇ 教室お話集
 序論を除くと、全体は(1)〜(10)までが「教室童話学(一)」、最後の二節(「お話は……」「教室……」)は「教室童話学(二)」と分けられている。
 「教室童話学序論」で、まず「教室童話学といふ言葉は、我が日本童話聯盟で初めて使つた言葉」であると断り、小学校教師が童話を取り扱っているにも拘らず話し方を無視しているとして、本書の意図を「児童の精神の糧であるべき童話を一條の茶談のごとく取扱ふため」と述べる。続いて近年童話が乱作されていると現状認識を示し、「童話の精選といふことが教室童話学の重大なる任務」と指摘する。というのも、「元来童話は児童の経験世界を基礎とする故に、如何なる登場人物を捕へ来つても彼等の智識範囲の活動を専らとすることによつて生きる」のだが、現状は「木に竹をついだ様な童話」を聞かせているからである。童話は、子どもの発達段階をふまえる必要のあることを確認する。
 では、「童話の精選」の基準とはなにか。「秩序性に富める童話を選んで、思考陶冶のために其特質を発揮させる」ためには、「教材童話の選択といふものは、廿世紀に於いては優生学の見地から立脚せねばなら」ず、「要するにこの童話は将来帝国を建設すべき基材の組成養分」であるとする。そして、「話の内容を包むところの心理的條件」として次の三点をあげる。
(一)完全なる秩序性を含有するもの
(二)最善最良の聯想を誘導するもの
(三)崇高豊富なる想像を惹起せしむるもの
 用語がわかりにくい。「秩序性」は後述するとして、「聯想」は、細部にわたる想像というぐらいの意味で使われている。たとえば、犬は、白い犬ととか、この位大きな犬ととかいうことで「聯想」させていくと説く。だから、ここにいう「最善最良の聯想」とは、もっとも具体的でリアルなイメージを形成すること、というくらいの意味になろう。
 「童話」という多義的な語が、どのように把握されているのかといえば、修身物語、昔話、逸話、怪談、滑稽談等を「児童的に取扱つたものを童話と解することが穏かと思ふ」といい、さらに当代の創作作品も、「童話といつてもお伽話といつても皆昔話で、又昔話でなくて現代の創作でも昔話とせねば児童の想像的鑑賞力を十分に発揮させることが出来ないであらう。」と述べる。「昔話とせねば」ならぬとは、後に述べるような昔話に顕著と思われる特徴を備えるということであろうかと思われる。
 「教室童話学(一)」では、話者の気分、服装、教室の様子、しぐさなど、いわば技術論が多く述べられているが、ここでは省略し、教科書に掲載された童話の分析をみておきたい。
 尋常一年生用国語読本の「猿蟹合戦」では、子蟹のところへ蜂、栗、臼の順でやってくるが、猿の家で隠れてから次に登場する順番が栗、蜂、臼となっている。幼童の記憶は機械的だから、この順番は不可である。記憶力の練習にならないし、思考陶冶の基礎を確実にできないと批判する。栗を最初にやってくるようにして、蜂を二番目にすると面白いしスムーズだという。もう一例「桃太郎」の例をあげると、犬、猿、雉の順で家来になるが、鬼ケ島に到着して活躍するのは、雉、猿、犬の順で、「幼童の尊い記憶観念は完全に破壊されて、自分の想像力を疑ふことになる」。
 是非はともかく、松美のいう「秩序性」とは何かをうかがうことは出来よう。
 童話を聞く側の興味についても述べている。興味を、「話の筋(間接的興味)」「話の態度(直接的興味)」と二分し、話者の態度が表情過多、態度過多であるときは、興味を越えて娯楽となるとし、教育家、宗教家の話が種々批難されるのは、この点を明確にしないからであると、戒める。「間接的興味」とは、「児童自身の努力を誘起して能動的に智識の発達を促さうとする」もので、国語読本にそのような教材は乏しいとして、「読本は全く徒らな活字本」と手厳しく批判。
 「教室童話学(二)」の「お話は太陽である」は、協力すること、助けあうこと、新入生の不安を取り除くこと、などを具体例をあげて説明。要するに〈話〉をいかに効率的に教育に利用できるかを述べる。「生々とした生活の出来るのは太陽の下である」という言葉から標題の意味は明らかだろう。最後に4篇の童話を収録。