インターネット版
児童文学資料研究
No.73
発行日 1998年5月15日
発行者 〒546-0032 大阪市東住吉区東田辺3-13-3 大藤幹夫
目 次
ここに紹介する座談会記事は、つぎの三稿である。
@ 「「児童文学」座談会―「風の中の子供」を中心として―」・「教育」昭12・4・1
A 「「風の中の子供」批判座談会」・「映画教育」昭13・1・1
B 同、昭13・2・1
三稿とも映画化された坪田譲治の「風の中の子供」を主題としているが、内容は@が表題に示されるように、あくまで「児童文学」を語るものであるのに対して、ABは、映画化された「風の中の子供」が論議の対象になっている。
@は、児童文学を中心に語られるものなので、出席者の児童文学観をうかがえるのが興味深い。後者ABは、タイトルに〈批判〉とあるのが目をひく。
どちらの座談会にも出席した坪田譲治自身、「風の中の子供」について、「全然大人の読みものといふ気持で書きました」@、「子供のために書いたといふより、大人のために書きました」B、としているのを「児童文学」として論議されている。(このあたり時代の児童文学観がうかがえる。)
@の「児童文学とは何か」の見出しのあるところで小川未明は、「児童文学は矢張り子供を対象とし、子供の小説と童話との二つがあると思ひます。童話は矢張り子供の生活から生れ、小説も矢張り子供の生活を中心にしたものでなければならんと思ひます。お伽噺が魅力を失つて来たのはそれが子供の生活から離れて来たからであつて、新しく童話文学が発展して来たのもその意味だと思ひます。」と、子供の〈生活〉を軸にした児童文学観を語っている。
小説は、「童話で飽き足らなくなつた年頃に、四、五年生あたりから段々と小説を読むやうにな」る、と、童話と小説を発達段階に即応したジャンルととらえている。それを「子供には矢張り童話の必要な時代、小説の必要な時代がある」と解釈している。
童話観として、「童話は人生を総括的に見て、自然から得た経験を純化するのですから、極めて短いままで一つの文学となると思ひます。」とジャンルとしての区別よりも作品の長・短によって区別することも示唆している。「児童生活の認識から始つて児童の代弁となり、児童の生活に訴へその中に美しいもの、高尚なもの、或ひは正義観等を入れ、芸術的に教化していく、そこに児童文学として童話の本領があり、また文学的存在の理由がある」と主張している。
同じく出席者のひとり、豊島与志雄は、「児童文学といふものは、所謂教訓的要素が這入つて来なければ来ないほど、芸術的価値は高くなつていきます。」「児童文学に必要なのは、明朗さと、生活力、それだけで沢山だと思ひます。」と〈明朗さ〉を主張しているあたり、彼の作品世界を想いおこさせる。
坪田譲治は、「私は子供が人生を客観的に見る点と、人生の意義を知るといふ、二つの点を考へてゐます。人生を客観的に見る点では子供に真実を与へなければならない。」また、児童文学の存在意義について、「幼年時代に人生の真の味ひを味つて人生に絶望しない、将来人生を信じて疑はないといふ点、(略)人生に失望しないといふやうなことのために必要なこと」としている。 坪田は、「風の中の子供」を引き合いに出しながら、「何時も私の興味を感じるのは、子供が現実を越えてゆく空想や、意欲ですが、矢張り空想だけにとどまつてゐます。」と、自己批判している。
「少国民文庫」に関わった吉野源三郎は、「児童文学といふのは児童を取扱つた文学ではなくて、児童に読ませる文学」という意味にとらえている。
松永健哉(小学校教員)の「子供の行動を変へ、子供の世界観を正しく育ててゆくやうな作品を希望してゐます。」との発言にからんで〈児童文学と教育的立場〉について語られる。
上泉秀信(都新聞文化部長)は、「坪田君の作品は教育的な意図の下に書かれてゐない」と、読んでいる。
小川未明は、教育的という問題に触れて、「(芸術とは)生活を引上げていくものだと思ひます。少くとも児童文学に於て私はさう思ひます。」といい、窪川稲子は、「子供自身の持つてゐる成長してゆく大きな力になる源泉みたいなものを何時も人間生活全体の善、美なものから広く与へたい」としている。
興味があったのは、豊島の発言であった。「宮沢賢治君の童話も子供は大喜びです。感覚の非常な新鮮さ、それを子供が直接に感じるんです。かうした新鮮な感覚の上に道徳的教訓が立ち得ると思ひます。」
坪田譲治は、「教育的であるとは理想性を持つてゐることだと考へます。」と言い切っている。
坪田作品について、出席者の言葉をとりあげたい。
小川未明は、「坪田君が作家として創造する子供は矢張り坪田君自身で、そこには坪田君の子供の時代の生活があると思ひます。しかし子供が持つ常識は時代とともに、変遷してゆくものであります。そこが坪田君の作品として、どうかと思ふ」とし、宮津博(劇団「東童」)は、(坪田さんの作品は)「空想から現実に返つて、また空想に返るとき、何時も同じような技巧で反復されていくのです。大人の現実と子供の現実との正面衝突から空想に転換する場合、一歩進んだ発展の仕方が欲しい」と、不満を表明している。奥田三郎(松沢病院医局)も、「坪田さんの作品は時々前と同じやうな遊びの型で終る」と発言している。
「風の中の子供」に触れた発言を紹介しておこう。
窪川稲子は、「三平に対話さして、直ぐその後で作者が、あの子供の心理を説明してをられますねえ。ああいふところは作者の説明がなくて、子供の遊んでゐる空気が望ましいやうな気が致したんで……」と、具体的に言及している。
留岡清男(編輯部)は、「社会的背景をも含めて、家庭的背景、特に母親と父親の描写を充分にしてほしかつたと思ひます。家庭と両親の生活のバックを大きくして、その中で、三平や善太が動いたなら、感銘の度はもつと幅が広くなつたらうと思ひます。」と、まさに「風の中」の「子供」について論じている。
松永健哉は、「従来の児童文学の持つてゐる甘つたるい傾向から脱出して、非常にリアルな表現になつて居ると思ひますが、欲を言へば子供を高いところに引張つてゆくといふ観点からは何か不足したものを感じます。」と、教育者的発言をくり返している。
「現実感の中にモラルといふものを持つてゐるといふ点で「風の中の子供」は立派な作品」と評価する小山東一(中外商業学芸課)の発言や、「お化けの世界」を「立派な児童文学」とする宮津博の発言も紹介しておこう。
つぎにABの紹介に移りたい。
この二稿は、先に記したように映画化された「風の中の子供」が論議の中心になっている。また、原作者の坪田譲治が遅れて出席したために発言が少なくなっている。
興味深いのは、この映画を見ていない浜田広介の坪田譲治〈批判〉である。
〈一般的感想〉としてあげられるのは、ほとんどの出席者が、映画について「泣けた」事実を述べている。「原作とはテーマがまるで違」う、「原作ぢや、作者の一種のユーモアー、それがうまく作品の中に入つてゐ」る、という発言(板垣直子)や、「あの原作は、あの映画には惜しい」(半田亮一、小学校教育)といった言葉から、映画は「興行映画としては大人に見せてお金を儲ければいゝ」(多胡隆、東放映画)といった発想もうかがえる。
板垣直子は、原作を新潮で読んだ時は、「非常におもしろいと思つた」が、「単行本になつてから読んだら、非常におもしろくないのです。非常に感覚が粗いんですね。子供の心理の描写が非常に荒くて、全体として荒つぽい作品」と評価し、波多野完治も同調して、「坪田さんのはすべて荒い」とも発言している。
浜田広介が、坪田が、「子供の動作によつて子供の心理を現はして来てゐる」ことを認めながら、「私なんか少年時代を回想してみても、何か感覚的に、大人になつても忘れることのできないものがある。さういつたやうな子供の心理の影といつたやうなものに、坪田さんのものは欠けてゐる」「形の上に現はれない心持の表現といふことに、もう少し作者の眼が注がれてもいゝのぢやないか」というあたり、ふたりの作家の作品世界の違いを思わせる。先の「泣けた」映画評についても、「涙を通俗的なものでなく、もつと人生的な、情緒的な、哲学的なものがあるために、誘はれてくる涙でなくてはならない」といった批評は、浜田自身の作品にも返されるだろう。
板垣の「坪田といふ人は、善太、三平ものだけがいゝんで、あゝいふほかの大人のことについては、特別に優秀な作家といふことはできない。」という批評はきびしい。浜田もまた、「坪田さんの作品は、やはり自然主義的な、消極的なものに止まつてゐる」と批判する。同時に「坪田さんの作品は、やはり児童文学の埒外にある」と位置づけている。
坪田自身は、映画について「原作についての欠点などが、非常にはつきりして来た感じ」と受けとめている。それを「作品の構成力がなかつた」ことにしている。
「『難船崎の怪』に就いて」(滝沢素水)をよむ | 上田信道 |
滝沢素水の「『難船崎の怪』に就いて」は、平凡社版「年冒険小説全集」の「月報」中の一文である。
同全集は全一五巻、一九二九年から翌年にかけて刊行された。それほどの稀覯本でもないが、「月報」を含めた全巻揃えは、これまで見たことがない。たまたま、私が所蔵する第一一巻『難船崎の怪外二篇』(第一〇回配本 一九三〇年四月一五日)には、「月報」第一〇号が付いている。今日でいうB5判相当の二つ折り、全4頁、縦3段組で、発行年月日は第一一巻と同じである。
さて、素水が「日本少年」の主筆(今日の編集長に相当)を務めた期間は、わずか三年足らず(一九一〇年三月号〜一九一二年一二月号)でしかない。その後、素水は「実業講習録」の主筆を経て実業之日本社を退き、児童文学の世界から離れて実業界へ転進していった。一方、有本芳水は素水のもとで編輯長(今日の編集次長に相当)を務め、後任の主筆に昇格。松山思水を編輯長に据え、同誌をして発行部数二〇万を号する児童雑誌業界の覇者に育てあげていった。このように同誌が発展していく基礎を築いたのは、ほかならぬ素水であった。
ここ数年、私は「日本少年」系の作家・編集者に関心をもって調べているが、「少年倶楽部」系の作家に比して参考となる資料が少ない。素水あたりになるとなおさらである。けれども、先に述べた理由から素水はどうしても欠かせない人物である。そうした中で、この「月報」は片々たる一文にすぎないが、素水に関する資料にとどまらず、当時の「日本少年」研究の資料として貴重だと思われる。
そこで、「月報」の記事の紹介に移る。
まず、「日本少年」の読者対象について、少年と少女の読書観の違いに触れながら、次のように記されている。
謂ゆる『少年もの』の読者を、幾つ位と見るのが本当でしようか。これが私が『日本少年』を主宰してをつた当時、最も悩んだ問題の一つであります。
女の子は総じて、少いことを誇りとし、若い上に若からんことを努める傾向があります。少なくとも、若く見られるのを苦痛としないのが、その持つて生れた性分と見ても差支なく、女学校に入つてからでも、依然として少女雑誌を愛読し、間がよければ卒業するまで少女雑誌の愛読者で押し通します。従つてその年齢は、十二三から十七八歳と見て、大過はないでせう。
ところが男の子は、子供らしく見られるのが大嫌ひで、中学へでも入らうものなら、直ちに少年雑誌を棄てゝ、分りもしないのに、青年ものを読まうといふのが、一般の気風です。従つて少年雑誌の読者は、年齢が最も短かく、十二三から十四五と見なければなりますまい。
このように「日本少年」が対象としていた読者の年齢は「十二三から十四五」と、非常に限定したものであったことがわかる。素水は同誌が「少年世界」などライバル誌を押さえて成功した理由について、このように対象とする年代を絞り込んだことだと考えていたようだ。寄稿家にも、そうした年代への絞り込みを期待していたという。素水は続けて、次のように記している。
私はかういふ考から『日本少年』を編輯したのですが、多くの作者の中には、兎もすれば程度の高いものを書いてよこすのには閉口しました。殊に冒険小説になると、その傾きが一層甚しく、立派な青年ものになつてしまふのです。『難船崎の怪』は、その点に於て細心の注意を払つたもので、ややもすれば筋の運びの面白くなるといふ場合でも、それが為に大人の領分に入る時は、強ゐて引き戻して『十四五』に止めたのです。
青年ものは、高級の読者からは最大の讃辞を受けますし、また実際、讃辞を寄せる位の人は、高級の読者ですがそれは、少数であつて純な少年の立場に立つたものは、無言の歓迎を受けてそれに売行きの上に表れるのです。『日本少年』が、当時少年雑誌界に覇を唱へたのも、私の冒険小説が受けたのも、さうした意味に外ならないと思ひます。
従来の「お伽噺」が対象としていたような読者年齢とも違う、「冒険世界」や「武侠世界」などといった雑誌が対象としていた読者年齢とも違う。そういう年代の読者に焦点を当てたところが、確かに成功の理由の一つであったのかもしれない。
ところで、「月報」中の記事からは、素水の経歴についても得るところが多い。「滝沢素水略歴」は素水の経歴を探ることのできる殆ど唯一の資料であるので、全文引用しておく。
明治十七年秋田市に生る。本名永二
明治四十年、早稲田大学英文科を卒業し、直ちに実業之日本社に入り、婦人世界編輯長、日本少年主幹、実業講習録主任、出版部長等、同社の枢機に参す。
大正七年同社退社、実業界に入り最上採炭株式会社社長、中央機械製作所大正證券株式会社、大和自動車株式会社その他の取締役となる。
大正十一年雑誌『新女性』発行、大正十三年銀行通信社創立、目下女子講義録その他出版業に従事す、著書数種あり。
『日本児童文学大事典』を見ても、生誕の月日は不明、没年も不明になっている。実業之日本社を退社後の素水の経歴についても、同じ内容の記述になっているので、この記事あたりが根拠になっていると思われる。ただし、『大事典』には実業之日本社社長の増田義一と「同窓同郷」とある。しかし、増田は新潟県生まれ、明治二六年東京専門学校(のち早大)卒であり、素水と「同窓同郷」であるわけがない。同じ学校の卒業生だから「同窓」だと強いて言えなくもないが、やはり誤認であろう。
なお、「日本少年」の編集責任者の肩書きは、実業之日本社の社史(『実業之日本社七十年史』一九六七年六月一〇日)や関係者の回想などによると、〈主筆〉とある。だが、「日本少年」中の記事やこの資料では〈主幹〉となっている。ちなみに、「実業講習録」の〈主任〉にはゆれがない。かねてより疑問に思っているこの事情について、ご存知の方があれば、ご教授をいただきたい。
1巻5号(昭和5年7月25日) | | 頁 |
目次 | | 表紙裏 |
呼び声(童話) | 松倉良夫 | 1〜5 |
南京町のきりぎりす(童話) | 竹内てるよ | 5〜8 |
三郎と兄さん(童話) | 沼尾精二 | 8〜10 |
松倉良夫「橋」に就いて(批評) | 喜多村信一 | 11〜12 |
新興童話の意義(評論) | 松倉良夫 | 12〜13 |
自由欄(随筆) | 高瀬無絃・山中秀吉・成田美子・南條芦夫・伊藤登 | 11〜13 |
童話時評(時評) | 船木枳郎 | 14〜16 |
本号所載の童話に就て(随筆) | 編輯部 | 16 |
編輯後記 | | 裏表紙裏
| 奥付 | | 裏表紙
| |
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1巻6号(昭和5年8月25日) |
目次 | | 表紙裏 |
鐘(童話) | 小川未明 | 1〜4 |
消えた労働者(童話) | 高瀬無絃 | 4〜7 |
見世物になつた島(童話) | 松倉良夫 | 8〜12 |
忘れられた人々の中から(童話) | 平木凡太郎 | 13〜15 |
おれは育つた・夕焼雲・人買ひ(詩) | 松本貞太郎 | 16〜17 |
坂下の小僧・可哀相な馬とその馬方(詩) | 土屋由紀雄 | 17〜18 |
お弁当(詩) | 南條芦夫 | 18 |
力(詩) | 城山健 | 19 |
童話時評(時評) | 船木枳郎 | 20〜23 |
文化材としての文芸―新興童話に於ける思想の要請―(評論) | 喜多村信一 | 24〜26 |
編輯後記 | | 裏表紙裏 |
奥付 | | 裏表紙 |
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1巻7号(昭和5年9月25日) |
朝(童話) | 城山健 | 1 |
童話時評(時評) | 松倉良夫 | 2〜5 |
小川未明論―未明童話集第四巻に拠る―(評論) | 船木枳郎 | 6〜9 |
習作四篇(詩) | 松本貞太郎 | 10〜11 |
ライン河畔(童話) | 渡井千年 | 12〜14 |
子供の眼(童話) | 山中秀吉 | 14〜15 |
| 希ひ(童話) | 平木凡太郎 | 15〜17 |
前号「童話」の印象―児童的なるものの一つに触れて―(批評) | 喜多村信一 | 18〜19 |
九月号の読後感(批評) | 千代田愛三 | 19〜20 |
プロ文学の共通性を踏むな!(批評) | 宮原無花樹 | 20 |
切捨批評(批評) | 無署名 | 20 |
編輯後記 | | 裏表紙裏 |
奥付 | | 裏表紙 |
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1巻8号(昭和5年10月25日) |
既刊種類別【索引】 | | 表紙裏 |
新しき童話の時代へ(評論) | 船木枳郎 | 1 |
風だけが叫ぶ(童話) | 小川未明 | 2〜4 |
与吉は牧場に帰つた(童話) | 高砂あきら | 4〜6 |
太陽ともぐら(童話) | 白石潔 | 6〜9 |
都のお友だちへ(童話) | 戸塚比呂志 | 10〜17 |
大人の読む童話―序説的断片ノート(評論) | 中野晴介 | 18〜20 |
未明氏選評の応募作品に就て | 編輯部 | 18〜21 |
【無題】(投稿) | 田口一示 | 18〜18 |
正義感を基礎としての考察(評論) | 田口一示 | 20〜21 |
編輯後記 | | 奥付裏表紙 |
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1巻9号(昭和5年12月25日) |
一九三〇年童話文芸批判(時評) | 船木枳郎 | 1〜12 |
天使がの人間になる(童話) | アルバート・ダウテイステル(倉田潮) | 13〜15 |
二つの燈台の話(童話) | 高瀬無絃 | 15〜18 |
解消を宣す | | 19〜20 |
『童話の社会』既刊目録 | | 19〜20 |
編輯後記 | | 20 |
奥付 | | 裏表紙 |
6号から「童話時評」(船木枳郎)と「文化材としての文芸」(喜多村信一)に触れておくと、両者とも、「マルキシズム文芸」を批判することで、自らの児童文学観の正当性を主張する点で共通する。「我々新興童話運動を評して、曩に起れるマルキスト等の童話運動と同一視する輩がゐる」(「童話時評」)こともあってのことだろう。「童話時評」の前半で、槙本楠郎の理論がとりあげられ、「(槙本理論は)新興童話理論のごとく童話界を闊歩せんとしていゐる。けれど、読者は、このウルトラ的童話理論に、渇を癒すことは出来ないだらう。それは、何故かといふに、この理論の存在こそ、まことに童話にとつての、新興童話理論ではなく、反つて、それは既成童話の支持論に一貫されてゐるからである。」と断じられる。後半の具体的な作家に触れたところでは、大木雄三、水谷まさる、渋沢青花、青木茂、北川千代、千葉省三らの名があげられ、批判される。
「文化材としての文芸」(喜多村)は、「新興文芸は、常に新興階級の手によつて樹立され、新興階級の保持する解放思想の上に展開せられてゆくべき」という主張。
7号の「童話時評」は松倉良夫が担当。前半で、「童話の社会」6号までを振り返っての感想を述べる。「各自がプロレタリアであり労働者であり、民衆の中の一員である我々が起したこの運動こそ、無産階級の要望によつて生れた大衆の運動である。故に我々の熱烈な感情から迸る叫びは、歌は、呼びかける言葉の一切は又、大衆のそれである。大衆の理想は我々の理想であり、大衆の赴く所は我々の志向である」と位置付ける。だが、続いて述べられる「我々の理想の、希望の、情熱の、力の正義の表出である新興童話をプロレタリア、ロマンチシズムの正しき潮流のもとに、全無産階級解放戦線の分野へ突進させるのだ。新興童話を形成する純一至高のこの要素を、我々は児童的なるものに認識した。」(傍点略)というような言葉は、「大衆」的とはいいがたい。それとも、評論の言葉は例外だったのか。大衆の立場にたつといいつつ、こうした言葉でしか語りえなかったところに「新興童話」運動の限界がみえる。
「童話時評」の後半は、「童話文学」9月号の批評。前号と同じく厳しい評言が連なる。渋沢青花は反動作家、「芸術への真摯な関心を忘れた」伊藤貴麿、童話を毒する害虫の最悪のものをかいた水谷まさる、千葉省三の「宿の子供」は、生気も熱情もなき内容を、整つた形式によつて辛うじて補足し得た自滅的作品の典型といった調子。
8号では、評論風のエッセイ「大人の読む童話」に「大人に読ますために書いたものをも童話文学」とする根拠が説かれている。「急速に文明の発達した所においては大人より子供の頭が進み、より以上に学力に於いても優れてゐる」から、「脳髄の貧弱な、思想的に単純な大人達は、子供に読むものに、子供と同様の興味を感じ、それに影響される。内面的には、大人も小児も同じものをもつてゐるのだから、思想的に単純な大人が読むための文学様式として童話文学が、かくして大人間にも存在理由をもつ」というもの。この問題を「プロレタリア文学の一分野の問題」として考えねばならないとするが、このような見方のあったことは、興味深い。
9号掲載「一九三〇年童話文芸批判」(船木枳郎)から雑誌寸評の一、二をひいておく。「童話新潮」は、「明確なる立場をもた」ず、「各作家の習作帖程度のもの」であると断じつつ、冬木一、吉岡伊三郎、河崎潔らの追憶号の発刊を評価する。いままでにも集中的に攻撃されてきた「童話文学」は、ここでも「超然と童心芸術至上主義に閉じ篭つてゐる」とされ、千葉省三は、「この作家独特の郷土的童話を提唱せんとしてゐることは認めていゝ」といいながら、村人、村童の個性は「何等の躍動も生命も持たない実に過去の遺物にすぎない」と評価されている。「童話の社会」は自画自賛。
◎前号「「童話の社会」について」訂正
前号目次のうち一巻四号の「自由欄其二 読後感(批評) 平木凡太郎」の掲載頁「16〜16」は「17〜17(裏表紙裏)」の誤り。
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