児童文学資料研究 |
「風の中の子供」をめぐる座談会記事 | 大藤幹夫 |
「『難船崎の怪』に就いて」(滝沢素水)をよむ | 上田信道 |
「童話の社会」について(2) | 藤本芳則 |
「風の中の子供」をめぐる座談会記事 | 大藤幹夫 |
「『難船崎の怪』に就いて」(滝沢素水)をよむ | 上田信道 |
謂ゆる『少年もの』の読者を、幾つ位と見るのが本当でしようか。これが私が『日本少年』を主宰してをつた当時、最も悩んだ問題の一つであります。このように「日本少年」が対象としていた読者の年齢は「十二三から十四五」と、非常に限定したものであったことがわかる。素水は同誌が「少年世界」などライバル誌を押さえて成功した理由について、このように対象とする年代を絞り込んだことだと考えていたようだ。寄稿家にも、そうした年代への絞り込みを期待していたという。素水は続けて、次のように記している。
女の子は総じて、少いことを誇りとし、若い上に若からんことを努める傾向があります。少なくとも、若く見られるのを苦痛としないのが、その持つて生れた性分と見ても差支なく、女学校に入つてからでも、依然として少女雑誌を愛読し、間がよければ卒業するまで少女雑誌の愛読者で押し通します。従つてその年齢は、十二三から十七八歳と見て、大過はないでせう。
ところが男の子は、子供らしく見られるのが大嫌ひで、中学へでも入らうものなら、直ちに少年雑誌を棄てゝ、分りもしないのに、青年ものを読まうといふのが、一般の気風です。従つて少年雑誌の読者は、年齢が最も短かく、十二三から十四五と見なければなりますまい。
私はかういふ考から『日本少年』を編輯したのですが、多くの作者の中には、兎もすれば程度の高いものを書いてよこすのには閉口しました。殊に冒険小説になると、その傾きが一層甚しく、立派な青年ものになつてしまふのです。『難船崎の怪』は、その点に於て細心の注意を払つたもので、ややもすれば筋の運びの面白くなるといふ場合でも、それが為に大人の領分に入る時は、強ゐて引き戻して『十四五』に止めたのです。従来の「お伽噺」が対象としていたような読者年齢とも違う、「冒険世界」や「武侠世界」などといった雑誌が対象としていた読者年齢とも違う。そういう年代の読者に焦点を当てたところが、確かに成功の理由の一つであったのかもしれない。
青年ものは、高級の読者からは最大の讃辞を受けますし、また実際、讃辞を寄せる位の人は、高級の読者ですがそれは、少数であつて純な少年の立場に立つたものは、無言の歓迎を受けてそれに売行きの上に表れるのです。『日本少年』が、当時少年雑誌界に覇を唱へたのも、私の冒険小説が受けたのも、さうした意味に外ならないと思ひます。
明治十七年秋田市に生る。本名永二『日本児童文学大事典』を見ても、生誕の月日は不明、没年も不明になっている。実業之日本社を退社後の素水の経歴についても、同じ内容の記述になっているので、この記事あたりが根拠になっていると思われる。ただし、『大事典』には実業之日本社社長の増田義一と「同窓同郷」とある。しかし、増田は新潟県生まれ、明治二六年東京専門学校(のち早大)卒であり、素水と「同窓同郷」であるわけがない。同じ学校の卒業生だから「同窓」だと強いて言えなくもないが、やはり誤認であろう。
明治四十年、早稲田大学英文科を卒業し、直ちに実業之日本社に入り、婦人世界編輯長、日本少年主幹、実業講習録主任、出版部長等、同社の枢機に参す。
大正七年同社退社、実業界に入り最上採炭株式会社社長、中央機械製作所大正證券株式会社、大和自動車株式会社その他の取締役となる。
大正十一年雑誌『新女性』発行、大正十三年銀行通信社創立、目下女子講義録その他出版業に従事す、著書数種あり。
「童話の社会」について(2) | 藤本芳則 |
1巻5号(昭和5年7月25日) | 頁 | |
目次 | 表紙裏 | |
呼び声(童話) | 松倉良夫 | 1〜5 |
南京町のきりぎりす(童話) | 竹内てるよ | 5〜8 |
三郎と兄さん(童話) | 沼尾精二 | 8〜10 |
松倉良夫「橋」に就いて(批評) | 喜多村信一 | 11〜12 |
新興童話の意義(評論) | 松倉良夫 | 12〜13 |
自由欄(随筆) | 高瀬無絃・山中秀吉・成田美子・南條芦夫・伊藤登 | 11〜13 |
童話時評(時評) | 船木枳郎 | 14〜16 |
本号所載の童話に就て(随筆) | 編輯部 | 16 |
編輯後記 | 裏表紙裏 | |
奥付 | 裏表紙 | |
1巻6号(昭和5年8月25日) | ||
目次 | 表紙裏 | |
鐘(童話) | 小川未明 | 1〜4 |
消えた労働者(童話) | 高瀬無絃 | 4〜7 |
見世物になつた島(童話) | 松倉良夫 | 8〜12 |
忘れられた人々の中から(童話) | 平木凡太郎 | 13〜15 |
おれは育つた・夕焼雲・人買ひ(詩) | 松本貞太郎 | 16〜17 |
坂下の小僧・可哀相な馬とその馬方(詩) | 土屋由紀雄 | 17〜18 |
お弁当(詩) | 南條芦夫 | 18 |
力(詩) | 城山健 | 19 |
童話時評(時評) | 船木枳郎 | 20〜23 |
文化材としての文芸―新興童話に於ける思想の要請―(評論) | 喜多村信一 | 24〜26 |
編輯後記 | 裏表紙裏 | |
奥付 | 裏表紙 | |
1巻7号(昭和5年9月25日) | ||
朝(童話) | 城山健 | 1 |
童話時評(時評) | 松倉良夫 | 2〜5 |
小川未明論―未明童話集第四巻に拠る―(評論) | 船木枳郎 | 6〜9 |
習作四篇(詩) | 松本貞太郎 | 10〜11 |
ライン河畔(童話) | 渡井千年 | 12〜14 |
子供の眼(童話) | 山中秀吉 | 14〜15 |
希ひ(童話) | 平木凡太郎 | 15〜17 |
前号「童話」の印象―児童的なるものの一つに触れて―(批評) | 喜多村信一 | 18〜19 |
九月号の読後感(批評) | 千代田愛三 | 19〜20 |
プロ文学の共通性を踏むな!(批評) | 宮原無花樹 | 20 |
切捨批評(批評) | 無署名 | 20 |
編輯後記 | 裏表紙裏 | |
奥付 | 裏表紙 | |
1巻8号(昭和5年10月25日) | ||
既刊種類別【索引】 | 表紙裏 | |
新しき童話の時代へ(評論) | 船木枳郎 | 1 |
風だけが叫ぶ(童話) | 小川未明 | 2〜4 |
与吉は牧場に帰つた(童話) | 高砂あきら | 4〜6 |
太陽ともぐら(童話) | 白石潔 | 6〜9 |
都のお友だちへ(童話) | 戸塚比呂志 | 10〜17 |
大人の読む童話―序説的断片ノート(評論) | 中野晴介 | 18〜20 |
未明氏選評の応募作品に就て | 編輯部 | 18〜21 |
【無題】(投稿) | 田口一示 | 18〜18 |
正義感を基礎としての考察(評論) | 田口一示 | 20〜21 |
編輯後記 | 奥付裏表紙 | |
1巻9号(昭和5年12月25日) | ||
一九三〇年童話文芸批判(時評) | 船木枳郎 | 1〜12 |
天使がの人間になる(童話) | アルバート・ダウテイステル(倉田潮) | 13〜15 |
二つの燈台の話(童話) | 高瀬無絃 | 15〜18 |
解消を宣す | 19〜20 | |
『童話の社会』既刊目録 | 19〜20 | |
編輯後記 | 20 | |
奥付 | 裏表紙 | |
6号から「童話時評」(船木枳郎)と「文化材としての文芸」(喜多村信一)に触れておくと、両者とも、「マルキシズム文芸」を批判することで、自らの児童文学観の正当性を主張する点で共通する。「我々新興童話運動を評して、曩に起れるマルキスト等の童話運動と同一視する輩がゐる」(「童話時評」)こともあってのことだろう。「童話時評」の前半で、槙本楠郎の理論がとりあげられ、「(槙本理論は)新興童話理論のごとく童話界を闊歩せんとしていゐる。けれど、読者は、このウルトラ的童話理論に、渇を癒すことは出来ないだらう。それは、何故かといふに、この理論の存在こそ、まことに童話にとつての、新興童話理論ではなく、反つて、それは既成童話の支持論に一貫されてゐるからである。」と断じられる。後半の具体的な作家に触れたところでは、大木雄三、水谷まさる、渋沢青花、青木茂、北川千代、千葉省三らの名があげられ、批判される。
「文化材としての文芸」(喜多村)は、「新興文芸は、常に新興階級の手によつて樹立され、新興階級の保持する解放思想の上に展開せられてゆくべき」という主張。
7号の「童話時評」は松倉良夫が担当。前半で、「童話の社会」6号までを振り返っての感想を述べる。「各自がプロレタリアであり労働者であり、民衆の中の一員である我々が起したこの運動こそ、無産階級の要望によつて生れた大衆の運動である。故に我々の熱烈な感情から迸る叫びは、歌は、呼びかける言葉の一切は又、大衆のそれである。大衆の理想は我々の理想であり、大衆の赴く所は我々の志向である」と位置付ける。だが、続いて述べられる「我々の理想の、希望の、情熱の、力の正義の表出である新興童話をプロレタリア、ロマンチシズムの正しき潮流のもとに、全無産階級解放戦線の分野へ突進させるのだ。新興童話を形成する純一至高のこの要素を、我々は児童的なるものに認識した。」(傍点略)というような言葉は、「大衆」的とはいいがたい。それとも、評論の言葉は例外だったのか。大衆の立場にたつといいつつ、こうした言葉でしか語りえなかったところに「新興童話」運動の限界がみえる。
「童話時評」の後半は、「童話文学」9月号の批評。前号と同じく厳しい評言が連なる。渋沢青花は反動作家、「芸術への真摯な関心を忘れた」伊藤貴麿、童話を毒する害虫の最悪のものをかいた水谷まさる、千葉省三の「宿の子供」は、生気も熱情もなき内容を、整つた形式によつて辛うじて補足し得た自滅的作品の典型といった調子。
8号では、評論風のエッセイ「大人の読む童話」に「大人に読ますために書いたものをも童話文学」とする根拠が説かれている。「急速に文明の発達した所においては大人より子供の頭が進み、より以上に学力に於いても優れてゐる」から、「脳髄の貧弱な、思想的に単純な大人達は、子供に読むものに、子供と同様の興味を感じ、それに影響される。内面的には、大人も小児も同じものをもつてゐるのだから、思想的に単純な大人が読むための文学様式として童話文学が、かくして大人間にも存在理由をもつ」というもの。この問題を「プロレタリア文学の一分野の問題」として考えねばならないとするが、このような見方のあったことは、興味深い。
9号掲載「一九三〇年童話文芸批判」(船木枳郎)から雑誌寸評の一、二をひいておく。「童話新潮」は、「明確なる立場をもた」ず、「各作家の習作帖程度のもの」であると断じつつ、冬木一、吉岡伊三郎、河崎潔らの追憶号の発刊を評価する。いままでにも集中的に攻撃されてきた「童話文学」は、ここでも「超然と童心芸術至上主義に閉じ篭つてゐる」とされ、千葉省三は、「この作家独特の郷土的童話を提唱せんとしてゐることは認めていゝ」といいながら、村人、村童の個性は「何等の躍動も生命も持たない実に過去の遺物にすぎない」と評価されている。「童話の社会」は自画自賛。
◎前号「「童話の社会」について」訂正
前号目次のうち一巻四号の「自由欄其二 読後感(批評) 平木凡太郎」の掲載頁「16〜16」は「17〜17(裏表紙裏)」の誤り。