インターネット版

児童文学資料研究
No.75


  発行日 1999年2月15日
  発行者 〒546-0032 大阪市東住吉区東田辺3-13-3 大藤幹夫


目  次


映画化された千葉省三・作「虎ちゃんの日記」大藤幹夫
児童出版社による社会事業の起源―濃尾大地震の場合―上田信道
「童話精神」について(2)藤本芳則

映画化された千葉省三・作「虎ちゃんの日記」

  「映画教育」(大阪毎日新聞社発行)
  昭和13年8月〜14年10月

 1960年代に再評価された千葉省三は、1967(昭42)年に『千葉省三童話全集』(全6巻、岩崎書店)が刊行されるまでになった。
 再評価で注目されたのは、『子どもと文学』(中央公論社、1960)によるものであろう。そこに千葉省三論をまとめたのが鈴木晋一であった。
 日本の児童文学にはじめて生き生きした子どもを登場させた作家は、千葉省三だったろうと思います。
と示した。
 「生き生きした子どもを登場させた」という点で再評価の声は一致している。
 その千葉省三の代表作が「虎ちゃんの日記」(「童話」大14・9〜10)である。それが映画化されたことは、宮沢賢治の「風の又三郎」(島耕二監督、日活、昭15)ほどには知られていない。
 映画化された「虎ちゃんの日記」は、昭和13年11月に完成し、翌14年1月1日から5日まで東京の東日会館公演場で封切られた。「非常な好評を博した」とある。
 この映画は「東日・大毎学校巡回映画聯盟第十回作品」とあるように、各地の学校で巡回映画として鑑賞された。(トーキー4巻)として制作されたが、多くの学校は、「トーキーを写す機械がないため」に「説明の字幕が入つてゐて、先生が親切に説明したり、伴奏をつけたりして見せ」たらしい。
 監督にあたった高木俊朗によれば、(「虎ちゃんの雑記」・「映画教育」昭14・6)「トーキーとサイレントと、両方ゆけるように撮影」し、35ミリのサイレントを「更に、十六ミリに縮写して見ようといふのだ。これが、今日の日本の映画教育の現状」ということになる。まさに「今日の映画教育の悲劇」であった。
 当時、学校では「トーキー的演出」として、「トーキーの、どうやらは話のわかる映画をこしらへたのに、それをわざわざサイレントの十六ミリになほして、それに、マイクをつけて、子供の声をきかせ、レコードの伴奏までつけるのは、一たい何のためか?」という監督の嘆きが聞こえる鑑賞の仕方を見せた。原作の会話が「地方色豊かな方言を使用」しているのに、無声版では「トーキーを観ることの出来ないのを遺憾」とする声のある一方、「セリフあるために、却つて表現性がマイナスされる結果になつて来る」という意見(櫛部直人「『虎ちゃんの日記』を観て」・「映画教育」、昭14・2)もあった。これは、「全部アフレコ」で、「少年俳優諸君が、睡い目をこすりながら画面の自分の口に合せてセリフを喋つていつた」もので、監督によれば、「あの映画のセリフは、よくやり、又、よくできた拙さ」(傍点原文)である。
 出演した「少年俳優」は、劇団・東童所属の子どもであった。虎ちゃん役は、小泉忠。敬ちゃん役は、大泉晃。虎ちゃんのお父さん役は、西島悌四郎であった。
 映画は、先に紹介したように好評で、封切興行(発声版)を見た人たちの記録(「『虎ちゃんの日記』について」・「映画教育」昭14・2)がある。
 「映画の出来映えとしても、日本では画期的なもの」(伊藤貴麿)、「画面の美しさには大いに魅せられました。」(石山修平)、「流石に近来の名画として面白く拝見しました。」(葛原しげる)、「子供の生活がよく描写されて居り、子供の心理をよく掴んで居る。」(霜田静志)、「子供たちの問題が子供たちによつて解決されて行く有様を、しかも子供達の為に描くといふ意図が相当の程度に成功してゐる。」(乾孝)、「「風の中の子供」には充分に比敵する優れた映画であつた。」(滑川道夫)、「十分芸術的香気を持つ、子供にも歓迎されるにちがひない映画」(渋沢青花)といった感想が寄せられた。中には、「喜三ちゃん一味の生活は取り残されたまゝに放置されてゐる」、「カメラの美しさに比して録音の低劣さは一体どうしたのだらう。」(滑川道夫)とか、「虎ちやんと父親との一貫した心理描写がある可き筈ではあるまいか」(島崎清彦)といった原作にも触れる批判もあった。が、総じて好評であった、といえる。
 「映画教育」(昭13・8)には、古今書院発行の童話集『トテ馬車』から転載された「虎ちゃんの日記」が掲載されている。「「川上四郎の挿絵は「童話」から転載。
 また、同誌昭和13年9月号には「撮影台本」が掲載されている。
 原作と映画台本を比較すると、冒頭から先生が登場する点がまず違ってくる。先生は「危ない真似をしちや、いけないぞ、それから家の仕事を手伝ふんだぞ」といったりする。これはラストシーンでの先生の言葉と見合う。
 目につくのは、東京から来る敬ちゃんは、「いゝ着物を着た奥さま」や「洋服を着てひげを生やした偉さうな人(父親)」(傍点引用者)といっしょではなく「お姉さん」と来ることになっている。そのために敬ちゃん(の両親)への子どもらの見方「「自分たちとは違った世界に住む人との見方「「が消されてしまった。虎ちゃんに「あなた、よく遊びに来てくれた。毎日来てちやうだい」という奥さまのセリフも姉がひきとることになる。
 原作にはない下男が、「東京の坊ちやんと遊べ、な」と、虎ちゃんと喜三ちゃんに、敬ちゃんと遊ぶことを求めることになっている。
 「遊べ、な「「坊ちやん、この二人仲間にすますべ」という下男にすすめられて、敬ちやんが、「僕敬一つていふんだ。君なんていふの?」と自己紹介する。原作にある、出会いの場面のセリフのやりとりのおもしろさもなくなっている。
 下男が、「さ、なかよく遊べな」と、すすめるのに対して「やだーい、東京の子供、女みたいだからやだーい」と逃げる虎ちゃんになって、虎ちゃんの性格をゆがめることになっている。
 8月5日の虎ちゃんと敬ちゃんとの出会い。この場面は、ふたりの子どもの再会で、魅力的なところなのだが、映画台本では、垣根からのぞく虎ちゃんを敬ちゃんが「あゝ、君なの、お入りよ」と請じ入れることになっている。
 原作を書き抜くと、
 新屋敷の前へくると、昨日の女みていな子供のこと、思い出したんで、倉の横へ廻つてのぞいて見た。縁側で、昨日の子供が、ひとりぼつちで遊んでゐた。今日は、海軍服ぢやなくて、飛白の着物を着てゐた。俺を見ると、につこりして、手に持つてた赤い物をさし上げて見せた。俺は何だか嬉しくなつて、笑ひ笑ひそばへいつた。(傍点引用者)
とあって、子ども同志の近づき方のおもしろさが読者に伝わってくる。
 そこで「俺、虎ちやんち名だい」「さう。僕は敬一つて云ふの」という自己紹介に移ることになっていた。
 8月5日に虎ちゃんが敬ちゃんに見せてもらったのは「小ちゃな玩具の汽車」のはずが、台本では「玩具の立派なタンクや飛行機」に化けている。「「その飛行機に「海の荒鷲」と書かれていた、と映画を見た子どもが指摘している。
 原作の8月10日の日記に出てくる虎ちゃんの飼っている「真白で、鼻の尖だけ黒い、かはい」い犬っころの話題が、台本では8月5日の出来事になっている。
 原作の「水晶石に、白墨が六本あら。そん中に、赤いのが一本あら。こんなにながいんだよ。」という、子どもの価値観を示す場面も消えて、「水晶に白墨に時計の歯車があら」に書き変えられている。
 山葡萄を盗った源ちゃんに喜三ちゃんが、源ちゃんの頭に禿があるので、わざと「当てこすり」に「禿猿」と呼ぶのを「赤猿」にしたり、虎ちゃんが中島に家出するのを見ていて、後に虎ちゃんの父親にそれを教える「バカ亀」がカットされているのは、ひとつの配慮とよめる。
 しかし、「バカ亀」が消えたことで「父ちゃん」が家出した虎ちゃんを見つけるきっかけがあいまいになることと合せて、バカ亀が病気になって、それを見舞いに行った虎ちゃんと源ちゃんが、人の死について語るシーンもなくなることにもなる。虎ちゃんは、死について語り合うことから一段と成長する出来事になっていると指摘されている。それが消されたことは、考えさせられるところである。
 虎ちゃんの「父ちゃん」が、家出した虎ちゃんを見つけるのは、台本では唐突な感じがする。実は、「父ちゃん」は、「一晩中、お前のことめつけて歩いた」ことが、「母ちゃん」の口から語られる。無器用に、「大きな握り飯と、胡瓜のおこうこが一本はいつ」た風呂敷包みをさげて息子をさがしまわった父親、見つかった子どもを「首んとこ、痛いほどウンとつかまへた」母親、ここに親と子の、夫婦のありようを読みとる者にとっては惜しまれるカットでもある。
 東京へ帰る敬ちゃんを見送っての帰り道、虎ちゃんたちは斎藤先生に出会う。「「台本では「先生」。先生は「夏休みに、何して遊んだ。面白かつたか。さあ、いつしよに帰らう。」と呼びかける原作に対して、台本では「夏休に何して遊んだ、面白かつたか、うん? 学校が始つたら、またよくべんきょうするんだぞ」(傍点引用者)とあって、先生像を大きくゆがめてしまう。虎ちゃんたちは、「唱歌」を歌って家に帰るところも、「橘大隊長の歌」になって時代を反映している。そのために原作の時代設定がくずれてしまった。
[未完]

(大藤幹夫)



児童出版社による社会事業の起源
   ―濃尾大地震の場合―

上田信道

 児童むけ出版物を手がける出版社による社会事業の始まりは、いつ頃のことであろうか。
学齢館は雑誌「小国民」の発行元であり、明治期を代表する児童出版社の一つであった。ここに紹介する学齢館の取り組みは、最も初期の本格的な社会事業として記録されるべきだと考える。
1891(明24)年10月28日、岐阜県・愛知県一帯に大地震が発生。全壊焼失14万2000戸、死者7200人と伝えられている。世に言う濃尾大地震である。震災地へは、内外から義捐金が相次いで寄せられた。「各外国人にして、此回の罹災人民へ義捐せしもの、無慮一万五千余円に上り、平常、最も吝かなる称ある支那人すら、横浜と大坂川口居留者より一千八百余円を捐て、又、英国東洋艦隊リヤンダ号の士官水兵乗組員三百余名は、各、ふる服、外套、したぎ等をぬぎて之を義捐したりといふ。同胞の国民にして、彼の急を傍観するあらば、何を以て異邦人の厚意に謝せんや。諸君以て如何となす」(「小国民」同年11月18日)という報道もある。また、災害地向けの給恤品の無賃輸送が初めて実施されたという。民間による救援活動への公的支援としても、記念碑的な出来事であった。
こうした状況の中、学齢館では「小国民」誌上に「特別館告」(同年10月5日付)を繰り返して掲載し、読者からの義捐金を広く募っている。内容は次のとおりであった。

今や、岐阜愛知両県下の同胞は、非常なる震災にかゝり、目も当てられぬ悲境に陥りしは、読者諸君の既によく知らるゝ所なり。されば、国家教育の大本たる小学校の如きも、多くは破壊焼失に帰し、幸に震災を免れたる児童も、学に就く能はざるは、予輩の一日も傍観すべからざることと思ふなり。故に、伏して慈善心に富める江湖諸君に、半日の食を断ち、其価を以て、両県下の罹災小学校新築費用中に、義捐あらんことを希ふ。夫の、父母兄弟を失ひ、大は家屋財産より、小は毎日愛玩せる書籍筆墨机遊具まで一切を無くしたる人の惨状を思ふときは、諸君は、たとひ一飯の餓を忍ぶとも、尚居るに家あり寝るに褥あり、毫しも苦とする所なかるべく、且つは教育勅語の聖旨を奉体する微志をつくすに近かるべきを信じて止まざるなり。依て、其手続等を記すこと左の如し。
◎此義金は、岐阜愛知両県下の、罹災小学校新築費用として喜捨する事。
◎義金は、一ト口金五銭以上の事。(郵便切手にて代用するも苦しからざれども、止を得ざる土地の外は、郵便かはせ、又は五厘形切手を用ひられたし。)
◎本館へ直ちに送らるゝも、義金取次所、即ち小国民のうら表紙に掲げある、小国民大売捌所の中へ届けらるゝも、適宜なる事。
◎右募集期限は、来る明治二十五年一月十五日〆切となし、該金を両県知事に送りて其配賦を乞ひ、其受取証等の報告は、本誌小国民紙上に公告すべき事。
 1口5銭以上という少額の義捐金をいちいち記帳し管理する手数は、なかなか容易なことではあるまい。こうした手数にかかる費用は総て学齢館が負担。全く営利を離れた社会事業であった。学齢館に社会的な信用がついているからこそできる事業でもあった。
 義捐金の受付は2月28日まで延長され、総額で200円を集めた。「金額の多少を論ずるものにあらざれば、其分に応じたる喜捨あらんことを希ふ」(「小国民」同年12月3日)とは言うけれど、これは決して少ない額ではない。
 学齢館の取り組みは、成功裏に終わったと言ってよかろう。
 義捐金の分配については、「小国民」(1892年4月18日)誌上で、次のように報告された。
震災義捐金結局報告
一金弐百円也 義金集り総高 小国民第七号広告の通り
之を愛知岐阜両県下の損害高に案分して、本館は左の如く送附せり
一金七拾五円四十銭之   愛知県庁へ
一金百二十四円六十銭之  岐阜県庁へ
然るに、左の領収証等を受領せり
   (中略)
 嗚呼義捐諸氏は皆義に赴くに勇にして、奮然此美果を結ぶ、本館亦微力を尽さゞるに非ざれども、諸氏の慈愛心に富むに非ざれば、何んぞよく此に至らんや、諸氏安眠せよ、諸氏ハ善事を為せるなり諸氏の善行は皇天皇土の照覧するあり(後略)
 ここで注目すべきは、〈諸氏の善行は皇天皇土の照覧するあり〉という件である。先に「小国民」誌上では、「東園侍従の奏聞により、教育は一日も忽にすべからざればとて、天皇皇后両陛下より岐阜愛知罹災地各小学校へ、教育費補助として、二千五百円を下賜さる旨、去月十八日御沙汰ありたる由に承る」(1892年3月3日)との報道があった。「特別館告」にもあるとおり、義捐金の目的は小学校再建の費用を喜捨することを通じて〈教育勅語の聖旨を奉体する微志をつくす〉ことにあった。実践的な行動により子ども自身が教育勅語の精神を体験的に学ぶことが企図されたのである。ちなみに、教育勅語の発布は地震の前年、1890年のことであった。
ところで、木村小舟によれば、「学齢館の社主高橋省三は、岐阜県の人」(『少年文学史 明治篇 上巻』 1942年7月10日 童話春秋社)云々とあり、震災地は館主の故郷であった。高橋は震災直後に急ぎ帰郷し、惨状を目の当たりにしている。1891年11月18日の「小国民」に「去月廿八日、濃尾地方大地震につき、同日最終発の汽車にて、館主高橋省三現場へ赴き、本月六日帰京せるが、岐阜等の惨状は、『屍臭にて通行しがたしといふの外なしと」と、伝えられている。学齢館が際だって積極的な取り組みを行った背景には、こうした事情のあったことを指摘しておく。
なお、競争誌の「少年園」も、1891年11月3日号を皮切りに、地震関係の記事を掲載。同年12月18日号には、投稿作文の課題に「震災地の人に贈る文」を出すなど、震災を無視しているわけではない。しかし、義捐金の組織など、社会活動にまで踏み出すことはなかったのである。
【附記】本稿中の引用は、現在、不二出版から刊行中の復刻版「小国民」によった。

「童話精神」について(2)

藤本芳則

(承前)

第五冊(昭和16年4月30日発行)
スタイルに就て(無署名)1〜1
お店のうた[V鏡屋の店](詩)小林純一2〜3
芽(詩)茶木七郎4〜5
警備隊の子供(童話)宮原無花樹6〜19
にはとり(戯曲)戸塚博司20〜29
児童文学の精神(評論)古谷綱武30〜31
時評的雑文(時評)奈街三郎32〜33
「自己にかへれ」といふこと―創作童話時評―(批評)関 英雄33〜38
巽聖歌童謡集「春の神さま」(批評)小林純一39〜40
童話集「白い雀」読後(批評)関 英雄40〜41
編輯雑記宮原無花樹・関 英雄・小林純一42〜44

 「児童文学の精神」(古谷綱武)は、偉大な児童文学は偉大な教育者の役割を果すと書き始める。その理由は、教育的に書かれているからではなく、むしろ「さういふ意識がないことによつて、教育的な役割さへも果し得る」からである。つまりは、「子供にだけ面白くて、大人には感銘を与へることのできない児童文学などといふものはあり得ない。立派な児童文学といふものは、子供をも大人をも感動させうる完璧な芸術性をもつたものである」。しかし、「単純に教育的であらねばならぬといふことだけに気をとられてゐる世俗的な正義家がゐ」て、児童文学の研究雑誌に掲載されている評論も「全く教育家面の児童教育政策論ふうなものばかり」であると嘆き、最後に「ドリトル先生アフリカ行き」に収められたロフテイングの言葉を引用する。
 古谷の主張は、今では、ことさら強調しなければならないものではない。古谷の見方が絶対とはいえないにしろ、当時の状況がうかがえる。
 関英雄の時評「「自己にかへれ」といふこと」は、冒頭で児童文学の批評が確立されていないといわれる理由は、批評が取組むべき対象(児童文学)が貧困だからだと述べる。以後、収穫の少なさに言及していくので、いわばマクラになる部分だが、ここには批評家関英雄の、批評は作品に従属するという発想がうかがえる。新鮮な作品は極めて少ないとの評価の続く中、中野重治「お祖母さんの村」が好印象を残したと挙げられ、「童話作家の仕事が散文家の仕事であるよりも、詩人の仕事に近いといふことをあらためて感じさせられた」と結ぶ。新美南吉「川」が、未明や坪田譲治にならんで評価されるが、「取材が全然内面的な世界である上に、表現が小説調なので児童文学からハミ出し」ていると指摘し、「取材はこれでいゝとして表現を児童の立場からもう少し考へて貰いたひもの」と注文する。「表現」が具体的に何をいうのか不明だが、「詩人の仕事に近い」のが児童文学とすれば、あまりに散文的すぎるという把握なのだろうか。
 関は読んだ作品を傾向別に次の四種類に分類している。

(一)時局的或は時代的なモラルを追求してゐる作品
(二)一般的に倫理を問題にしてゐる作品
(三)身についた童心の世界を掘つてゐる作品
(四)心理主義的な作品
 (一)から(三)までは、それぞれ三〜四人の作家があげられているが(四)に該当するのは南吉一人。ここからも、「川」は、発表当時から注目された作品だったことがわかる。
 関は余白ができたとして末尾に「少年小説について」と見出しをつけてジャンルとしての童話と少年小説の違いに触れている。少年小説と童話との区別は、「ロマンチシズムとリアリズムといふ傾向の相違」であり、「海外はさて置き、わが邦ではとくに童話といふ名称は、初期のお伽話からいつのまにか少年小説的な作品も包括する、児童のための散文的物語の総称へ移行して来てゐる」という認識のもと、「私は童話を物語的児童文学の総括的呼称とすることを必ずしも「誤り」と思はない。」というのが要旨。

第六冊(昭和16年8月30日発行)
抜章【引用者注=「アンデルセン自伝」よりの引用】1〜1
肋木(詩)真田亀久代2〜3
街の体操(詩)茶木七郎4〜5
少年の眼にだけは(童話)小林純一6〜11
硝子の玉(童話)関 英雄11〜18
抜萃による覚書(評論)与田凖一19〜21
ザルテン作・菊池重三郎訳 バンビの歌(批評)与田凖一22〜23
土家由岐雄著 虹の出帆(批評)周郷 博24〜26
アンドレ・モロア著・楠山正雄訳 デブと針金(批評)新美南吉26〜28
菊岡久利著 野鴨は野鴨(批評)戸塚博司28〜30
「王の家」を読んで(批評)下畑 卓30〜31
村岡花子「青イクツ」評(批評)関 英雄31〜33
北川千代著「明るい空」(批評)小林純一33〜35
最終年刊雑評―(日本童話名作選)―(批評)奈街三郎35〜38
編輯雑記関 英雄・小林純一39〜40

 奈街三郎「最終年刊雑評」は、副題にもあるとおり「日本童話名作選」の評。童話作家協会の最後の年刊であるが、「協会十五年間の哀愁は、中味を読まなかつた時のはうが遥かに美しい」というのが、全体評で、「小川未明のみ遥かに他を引離してひとり聳え」ているとするのが、奈街の立場。