インターネット版

児童文学資料研究
No.76


  発行日 1999年5月15日
  発行者 〒546-0032 大阪市東住吉区東田辺3-13-3 大藤幹夫


目  次


映画化された千葉省三・作「虎ちゃんの日記」(2)大藤幹夫
丸山林平「笑ひを含む児童文学」・久保田宵二「童謡問題数件」藤本芳則
巽聖歌の自筆童謡集「1928年版 水口」について上田信道

映画化された千葉省三・作「虎ちゃんの日記」(2)

  「映画教育」(大阪毎日新聞社発行)
  昭和13年8月〜14年10月

 (承前)
 映画化された「虎ちゃんの日記」についての「映画教育」掲載の資料は、つぎの通りである。

@学校巡回映画聯盟第十回作品原作「虎ちやんの日記」(千葉省三、絵・川上四郎)(昭13・8)
 ※本篇は古今書院発行の童話集「トテ馬車」から転載したもの。尚挿絵はかつてコドモ社で発行されてゐた雑誌「童話」から転載したものです。(巻末記)
A東日・大毎学校巡回映画聯盟第十回作品・児童映画「虎ちやんの日記」(トーキー、四巻) 撮影台本・高木俊朗(昭13・9)
B東日・大毎学校巡回映画聯盟第十回作品・児童映画「虎ちやんの日記」(三五ミリ・一六ミリ、発声・無声、四巻)(昭13・10)
C「「虎ちやんの日記」をまつ児童」(志水実次)(昭13・11)
D「「虎ちやんの日記」子供の座談会」司会・波多野完治/映画に出た子供(劇団・東童)/映画を観た子供(東京の小学生児童尋三〜六)/演出者・高木俊朗(昭13・12)
E・「「子供の座談会」を司会して」 波多野完治
 ・「『虎ちやんの日記』について」 伊藤貴麿ほか十三氏
 ・「『虎ちやんの日記』を観て」 櫛部直人(昭14・2)
F・「「虎ちやんの日記」を観て―原作と対照し乍ら―」 伊原 武
 ・「「虎ちやんの日記」について―」 前島卯市(昭14・3)
G「虎ちやんの雑記」 高木俊朗 (昭14・6)
H「「虎ちやんの雑記」を読みて」 中野宇源次(昭14・8)
I「六ケ月後に於ける「虎ちやんの日記」の印象」 鈴木喜代松 (昭14・10)
 一年以上にわたって十回、十四本の論稿(長短は別にして)を連載し続けた点にも注目したい。とりわけ「六ケ月後」の報告は興味深いものであった。
 紙数のこともあるので、今回は、資料の論稿の一つにもあるが、原作との比較を中心にまとめてみたい。
 原作と映画(台本)との違いを検討しようと、まず台本のA、Bを読みくらべてみる。不思議なことに、この映画台本と思われる二作に違いが見られる。
 Aは、演出に当った高木俊朗のもので、台本らしく場面割りもあって、「日記」を映画化したことがうかがわれる。Bは、あらすじ紹介といったスタイルである。Aは、(トーキー四巻)とあるから、トーキー用の台本であり、Bは、(三五ミリ・一六ミリ、発声・無声、四巻)とあるから無声映画の台本とも見られる。そのあたりを前号に紹介したように、高木は、「トーキーとサイレントと、両方ゆけるやうに撮影すること」「三十五ミリのサイレントで見られるのは、まだいいとして、それを、更に、十六ミリに縮写して見ようといふ」。「これが、今日の日本の映画教育の現状」と嘆いている。
 A、Bの違いを、たとえば、原作では、敬ちゃんのところへ「約束のころ(※小犬)をつれて、金石と、水晶石と、白墨」を持って遊びに行ったが、怪我させた源ちゃんのことを思い出して、「だん/\おもしろくなくなつて来た。敬ちやんに、赤い白墨を半分やつて「さいなら」をして帰つて来た」(強調箇所引用者、以下同じ)場面が、Aでは、遊びに来た虎ちゃんをみつけた敬ちゃんが、「お入りよ、ね」と呼びとめるのを「虎ちゃん手に持つてゐたスカンポを突き出して「食べてみな」といつて敬ちやんに渡して、だまつて行つて仕舞はうとする。」となる。Bでは「やはり後悔と不安で遊ぶ気が起らない。甲虫を渡すと、さつさと行つてしまつた虎ちやん」とある。
 虎ちゃんが家出をしたことを知った源ちゃんは、「妹のなほちやん」に手紙を託す。原作では、手紙を読んだ虎ちゃんは、「どうすべと考へたが、行かねぢやすまねやうな気がした。それで、たうもろこしを齧りながら源ちやんちの方へのろ/\歩いて行つた。」はずが、Aは、「お母ちやん、おら、源ちやんとこへ行つてくるぞう」/虎ちやん、そういつて走り出す。」とある。Bのこのところは、「源ちやんも姉を急使に立てて見舞によこした。」。(「姉」は「妹」の誤植ともいえるか。)Bの記述によれば、こうして「源ちやん虎ちやんと防共協定を結んだ」(強調箇所引用者)ことになる。
 これも、映画を見て原作との対比を原稿にしたはずの筆者(伊原)は、「八月十三日 虎ちやんが、ぶらさげたを「これ、やらう」と敬ちやんにやつたまま。呼び止めるのもきかずに、しよげて帰」(強調箇所引用者)った虎ちゃんを、「敬ちやんのセリフと対応してよく出てゐた。」とほめているのはどうしてだろう。原作の白墨が「スカンポ」「甲虫」「蟹」にそれぞれ変身しているのである。
 Fの原作との対比を試みた筆者によると、虎ちゃんが、源ちゃんに怪我させたことを父に叱られる場面で「ビン/\車をいぢつてゐる所も効果的である。」とあるところは、AにもBにも示されていない。
 作品冒頭のシーンは、原作と異なって映画台本は、先生が夏休みになるので村を離れるところである。Aは子どもと出会った先生は、歩きながら子どもと夏休みの過ごし方を話す。Bは、「学校の先生は大きな荷物をさげて村を出て行つた。」とあるだけで、子どもとの会話はない。
 Fの伊原は、無声版を観たらしく、前島はトーキー版を見たようである。前島は、Aの台本にある冒頭シーンで先生が、子どもに「お手伝ひするために夏休みがあるんだぞ」というセリフを、「先生が子供等にいひ残す言葉の中に学科の勉強のことなどに触れない処が気に入つた」としながら、ラストで先生が村に帰ってきて虎ちゃん、源ちゃんに会った時「夏休に何して遊んだ、面白かつたか、うん? 学校が始まつたら、またよく勉強すんだぞ」というセリフについては、「旅から帰つて来たとき「学校が始まつたら、またよく勉強するのだぞ」とはげます一言が気に入つた。」としている。この先生を「先生の性格は明朗で、快活で、子供の生活を[欠字]く理解してゐる真によい先生」と書いているが、わたしは、原作の「夏休に何して遊んだ、面白かつたか。さあ、いつしよに帰らう。」と勉強については一言も言わずに先に立って歩く先生が、この作品のテーマと考える「遊びを通して子どもは成長する」にふさわしいセリフと考えている。
 原作との比較を考えるとき、以上のような状況から、AとBを別にして考えてみたい。
 Aと原作を比較すると、会話は抽出されている限りの部分は、ほぼ原作に忠実だ、と読める。
 だが、日記の日付別の場面から見ると、原作の八月一日、四日、五日、十日、十二日、十三日、十四日、十六日、十七日、二十日、二十一日、二十五日と十二場面あるのに対して、Aでは、八月一日、三日、五日、十日、十一日、十五日、十九日、二十三日、二十九日と九場面に限られている。重なるのは、わずか三日分しかない。映画台本がなぜ日付を変えたのか不明。ただ、八月十五日については、「今日はおぼんで、一日楽しいことばかりだつた。」ということで、「キリコ燈篭、その他。うら盆の風物」という設定が書かれてある。「「「うら盆」がドラマに影響することはない。敬ちゃんが東京へ帰って行く日も原作の二十五日より二十九日の方が「もうすぐ学校が始まるかんな。」に照応している、と読める。(虎ちゃんの住む村と東京とでは、夏休み期間に違いがあるのかも知れない。)
 原作では子どもが八月一日にボンデン山に草刈りに行くところから始まるが、Aでは、夏休みになって先生が村から離れるところが八月一日になる。これも最後に先生が村(学校)に帰ってくる八月二十九日で日記がとじられるのと見合った構成になっている。このことは、原作と映画のねらいの違いを見せている構成である。
 また、原作では、虎ちゃんは「尋常六年生ぐらゐの、田舎の子供」という設定で、源ちゃんも同じく六年生ということになっているが、映画では、「源ちやんは五年生ぢや一番強いんだよ」と、虎ちゃんに言わせていて、印象がずれる。村の子どもが敬ちゃんに悪口を言う場面も、虎ちゃんひとりで追いちらすところも、映画では、「源ちゃんが応援」に駆けつけ、「虎ちやんは勇気百倍」になって、虎ちゃんと源ちゃんの結びつきを強調している。これも映画のねらいに沿った書きぶりである。
 原作では、敬ちゃんは、「父ちやんが迎へに来たんで、今朝早く、東京へ帰つて行くんだ。」と、唐突な別れになっている。(それだけに一層、敬ちゃんとの別れが印象深い場面になる。)映画では、虎ちゃんの父ちゃんに三人が中島に釣りに出かけた時に敬ちゃんが、「僕、ぢき帰つちやうんだ」と告げる。
 原作は、虎ちゃんと敬ちゃんの交流がテーマにからむが、映画では、虎ちゃんと敬ちゃんの結びつき(友情=防共協定)が強調される。
 Bは、あらすじ紹介で、書き手の思い入れが書きこまれる。たとえば、「「学校が始まつたら、またよく勉強するのだぞ」/先生は、やつぱりいい先生だ。」といった調子である。
 ここでは、原作と違った〈よみ〉が展開される。

(大藤幹夫)



丸山林平「笑ひを含む児童文学」・久保田宵二「童謡問題数件」

藤本芳則

丸山林平「笑ひを含む児童文学」

 「児童文学の研究」4巻5号(大14・5・1)掲載。「児童文学の研究」は、国語教育系の雑誌。丸山林平も国語教育者として知られる。誌名に「児童文学」の語が使用されているのは、当時「童話」は文芸的な読物に、「児童文学」は、教育的な読物に多く使用されていたことと関係すると考えられる。
 まず、笑いは、「心身の健康や明るさを増す作用」であるから、そこに価値があるとする。論の目的を「児童文学に含まゝ(ママ)笑ひを研究してみたい」(強調箇所引用者)とし、「童話に含まるゝ笑ひには如何なる種類」(強調箇所引用者)があるかと、10項目列挙する。ここで、「児童文学」と「童話」が同じ意味で使われていることに注意しておきたい。
 「童話」の語のすぐ後には、丸括弧にくくられて次のような注が付されている。
(わたくしのいふ童話とは神話・寓話・伝説・歴史譚・滑稽物語等と対立していふ童話の意味であつて、児童の物語全部を抱含する意味にいふ童話ではない。)
 注記が必要なのは、一般的には、「童話」が「児童の物語全部」を意味することが多かったからであろう。丸山は、「童話」をジャンルを示す語として使用しているが、「児童文学」の語にも同じ意味を持たせていたのかどうか。タイトルに「児童文学」の語を使用しているにもかかわらず、本文中に「児童文学」は、ほとんど使用されない。「児童文学」の語は、まだ不安定なようである。
 「笑ひ」を扱っているのに、「滑稽物語」を除く姿勢を見せているのは、今から見ると不思議である。「童話」として取り上げられた例をみると、ここで扱われる「童話」は、昔話、あるいは説話的な傾向の話を意味しているようである。
 さて、一〇項目は以下のようなものである。
(1)言葉に含まるる笑ひ。
(2)痛快に伴ふ笑ひ。
(3)強がり泥棒の失敗。
(4)繰り返しに伴ふ笑ひ。
(5)不具者に対する笑ひ。
(6)狐や狸の如き動物の所作に伴ふ笑ひ。
(7)鬼の所作に伴ふ笑ひ。
(8)虚偽の成功に対する笑ひ。
(9)無智に対する笑ひ。
(10)頓知・智機に関する笑ひ。
 各項目について簡単な説明がある。たとえば、(2)は、「復讐的痛快に伴つて、児童の心を愉快ならしめ、そこに笑ひが生ずる」、(4)は、「ある言葉や、ある簡単な事件の繰り返し的叙述が、児童の心に笑ひを生む」などである。こうしてみると、「笑ひ」は、滑稽にかぎらず、面白さや興味性も含んでいることがわかる。各項目のより詳しい説明は、次号以下に連載される。
 ここでは、とくに「(5)不具者に対する笑ひ」(「童話に含まるる笑ひ」前出4巻8号)を取り上げる。
 丸山は、「不具者を笑ふといふことは、道徳上から見て、決していゝことではなからう。(略)笑ふよりはむしろ同情の念を起こん(ママ)のが当然でもあらう、(ママ)し、さうした心持にまで導くのが教育者の人道的任務でもあらう。」といいながらも、「不具者にはとにかく笑ひの要素を多分に持つてゐるのも事実である。その笑ひの要素のあるものを、じつとこらへて笑はずに、唯同情するといふことも一つの偽りであり不自然なこと」と続け、「その非真実と不自然とを、童話の世界に於ては昇華作用として結晶せしめ、この世界では思ひさま笑はせておくのである。そこに、文学的陶冶の特質が存するのである。」と結論する。「昇華作用として結晶せしめ」という説明は要領を得ない。「不具者にはとにかく笑ひの要素を多分に持つてゐる」という前提をはじめ、今からみるときわめて問題の多い発言であるが、当時の「笑ひ」に対する見方のひとつとして示しておきたい。

久保田宵二「童謡問題数件」

 「児童文学の研究」4巻12号(大14・12・1)掲載。童謡の教育的価値について、童謡のやさしい表現形式が童謡を詩の二次的存在に位置付けるものではないこと、幼い者のための童謡が極めて少ないこと、ユーモアと滑稽の違いについて、などが述べられる。このなかから短文であるが、時代状況を反映している話題を二つ。
 ひとつは、幼い者のための童謡が極めて少ないことについて。誰もが童謡が子どものものであるというが、「その子供の年齢的意義と云ふことに就て考へてみると真に漠然として」いて、「之に関する所説は余り耳にしない」と不満を述べる。作品の現状は、尋常一、二学年にふさわしいものが非常に少なく、一雑誌、一童謡集を手にしたとして、作品の大部分は中学年、上学年のもので、低学年に与えるものは極めて少ないうえに愚劣なものが多い。童謡のいわば理論と実作が、「幼い者」を軽んじていると指摘しているのである。だが、近来「此方面の開拓に気づいて来て幼いものたちへの作品を見せ始め」ており、喜ばしいと結ぶ。
 二つ目は、ユーモアと滑稽の違いについて。ユーモアと滑稽を区別し、ユーモアは歓迎するが、「単なる滑稽に至つては全然排斥すべきである」と主張。一例として童謡ではないが、蜀山人の命名について詠んだ「高き名の響は四方に湧き出でゝ、赤ら赤らと子供までしる」を、「フゝンと笑つた以外に何物もない」といい、「ウチノ キンギヨハ/ヲカシイ キンギヨ/ミヅニ ヲボレテ/アプ アプ ト/ケレドモ スコシモ/シニハセヌ」を引用して、「滑稽は所謂駄洒落に近い。単なる笑ひに過ぎない。汚ないものもある。卑しいものもある。」と否定する。
 歓迎される「ユーモア」とはどのようなものか。滑稽や駄洒落ではないといいながらも、具体例が示されていないのでわかりにくにが、「もつと上品な、もつと芸術味のあるもつと胸にピンと応へる所の作品」をいうらしい。
 現代の谷川俊太郎や工藤直子らの言葉遊びの詩は、この分類でいえば否定された「滑稽」に属すかと思われる。戦前にすぐれたナンセンスや言葉遊びの詩が生れなかった理由を示す発言のひとつとして記しておきたい。

*** 前号の訂正 ***
前号の発行日「1998年11月15日」は、「1999年2月15日」の誤りでした。訂正いたします。


巽聖歌の自筆童謡集「1928年版 水口」について

上田信道

先ごろ、巽聖歌の旧蔵資料(自筆原稿・書簡・雑誌・書籍など)が大量に発見され、地元日野市の篤志家の手で整理が進められている。また、地元有志の手によって「たきび」の文学碑が建立され、去る4月24日に除幕式が行われた。これに先立つ1993年のこと、夫人の野村千春氏から巽の旧蔵資料が大阪国際児童文学館に寄贈されている。今後、巽聖歌にかんする研究のみならず、童謡・少年詩の研究が促進・活性化されていくことを望みたい。
さて、ここに紹介するのは、大阪国際児童文学館所蔵の資料中に含まれている自筆原稿である。
 巽の第一童謡集は『雪と驢馬』(1931年 アルス)であるが、その前に生前は未刊行のまま終わっているいくつかの自筆童謡集が編まれていた。巽の童謡・詩歌の遺業については、没後刊行の『巽聖歌作品集』上・下(1977年 其刊行委員会)に、戦中期のものを除く作品がまとめられ、一連の自筆童謡集も収載されている。
 だが、なぜか「1928年版 水口」と題された自筆童謡集だけが収載されなかったのである。この自筆童謡集は一連の自筆童謡集の最後を飾るもので、この時点における詩作の集大成として編まれたものであろう。一般には、存在すら知られていなかったものである。
 この自筆童謡集は、四〇〇字詰原稿用紙二つ折り、おもて・うら表紙をあわせ全一九枚を袋とじにしたもの。おもて表紙中央に「1928年版」「水口」のタイトルがあり、タイトル下に「巽聖歌」の署名。うら表紙は白紙のままである。おもて表紙には「1928・3・10」の日付のある詩「川窪」の原稿、うら表紙には「1928・3・29」の日付のある詩「街へ行く子」の原稿を、それぞれ裏返しにして転用。序文・目次のたぐいはない。
 「1928年版 水口」については、野村千春氏(著作権継承者)の承諾を得ているので、全文を翻刻して紹介することが可能である。しかし、本誌のような小冊子上に翻刻することは紙数からして不可能であり、また、適当でないと思うので、機会をあらためて紹介することになるであろう。ここでは概要を紹介するのみにとどめたい。
 次の表は、「1928年版 水口」への収録作品と他の童謡集への収録状況をまとめたものである。「水口」は『巽聖歌作品集』収載の1927年版、「野芹」以下も自筆童謡集を意味している。

 雪と驢馬 水口  野芹  茱萸  雲雀 
水口
  
家垣根路で
  
子きゞす
  
わなつくり
  
冬田
  
茱萸原
  
麦ふみ 
  
お月夜
  
■{木・(慮−思)<旦}子
 
 
第三皇子
  
  
 
   
からたち
  
辛夷
   
雪柳
  
 

 この表から明らかなように、新たに書き下ろした童謡は一編もない。すべて、これまでまとめた自筆童謡集から選んだ童謡によって編まれている。自分の業績をまとめて世に問いたいという意識のあらわれであろうか。そして、収録された童謡の内容は、それまでの自筆童謡集の形態とも、『雪と驢馬』以後の形態とも違うのである。この時点における改作の意志が明確に反映している。
 ここでは、「お月夜」についてのみ、校異の状況を紹介しておこう。
 「水口」(1927年版)では「咲く梨 お月夜/ほのぼの 寒いよ//お月夜 濡れてく/蝶々が ひとつよ//お乞食(コモ)だ 女だ/片頬(カタホ)が 光るよ//黒谷 和讃か/誦してく 声すよ」と、前半の叙情的な表現が一転して後半の生々しく即物的な表現との対照で仕上げられている。「1928年版 水口」では「咲く梨 お月夜/ほのぼの 寒いよ。//お月夜 濡れてく/蝶々が 一つよ。//お乞食だ 和讃を/片頬が 光るよ。//ほのぼの 咲く梨/飛行機 ひゞくよ。」と表現がやわらげられ、再び叙情的に締めくくられている。『雪と驢馬』では「咲く梨、/お月夜、/ほのぼの/寒いよ。//お月夜、/濡れてく/蝶々が/ひとつよ。//お乞食だ、/和讃を、/片頬が/光るよ。//ほのぼの/咲く梨、/お月夜/更けるよ。」となっている。
 ほかにも、「わなつくり」は「屋根の雪」と改題の上、『雪と驢馬』に収録。「からたち」も同様に「月夜」と改題の上収録された。いずれも、校異が著しい。「第三皇子」は「大正十五年十二月十九日/御父陛下の御病篤く、」云々で始まる前書きの内容が、三つの形態ごとに大幅に異なっている。「水口」(1927年版)収載の総ての童謡には句読点がまったくないのに対し、「1928年版 水口」と『雪と驢馬』にはつけられているなどの特徴がある。
 なお、童謡の配列についても注目したい。例えば、初期の代表作である「水口」が自筆童話集の冒頭に配されたのは、「1928年版 水口」が最初であった。『雪と驢馬』でも冒頭に配されている。
 以上のように、「1928年版 水口」は巽の詩業が『雪と驢馬』の刊行へと結実していく直前の形態をとどめたものとして、資料的な価値は大きい。巽聖歌の初期の業績を研究していく上で、欠くことのできない資料であると考えられる。

《注》
本文中のJISで定義されていない外字は、このホームページにおける規則にしたがって記述した。
すなわち、仮に"恙"が外字であったとすると、■{(美−大)/心}と表記。同じく、仮に"涌"が外字であったとすると、■{(汀−丁)・(踊−足)}、"闢"は■{門<(壁−土)}、"応"は■{(庁−丁)<心}と表記する。