インターネット版

児童文学資料研究
No.79


  発行日 2000年2月15日
  発行者 〒546-0032 大阪市東住吉区東田辺3-13-3 大藤幹夫


目  次


「子供の読物をめぐつて」(百田宗治著『子供の世界』収録)大藤幹夫
『お噺の研究―日曜学校叢書第壱編―』(1)藤本芳則
「『雪と驢馬』によする」特集号―「チチノキ」VOL.5 NO.1―上田信道

「子供の読物をめぐつて」

  百田宗治著『子供の世界』収録
  昭和16年6月1日 発行
  有光社 刊

 百田宗治は、昭和13年10月26日、内務省警保局図書課から、いわゆる「児童読物改善ニ関スル指示要綱」―中心になった佐伯郁郎によれば「指導要綱」―が出されるにあたって佐伯から相談をもちかけられ山本有三、小川未明らの協力を得ることになったと、佐伯が記している(『少国民文化をめぐつて』日本出版会 昭18)人物である。
 その百田が「子供の読物をめぐつて」の冒頭の章に、この「指示要綱」にふれている。章題は「児童読物の浄化」である。

 この三月(昭和十三年)でしたか、内務省の図書課で子供の絵本・雑誌類の出版物に対して一つの浄化―統制といふ言葉は内務省の話にはなかつたやうです―をやりたいといふので、私がその相談に与りました。
とある。
 先の佐伯の言によれば、この「指示要綱」は、「児童読物に日本的な指導精神を持たしめ、そして、そのやうな児童読物の出ることを積極的に助成しようといふのが、今次の統制の根本目的である。」(傍点引用者)明らかに受けとめ方が違っている。百田のいう三月も、佐伯によれば「四月」になる。佐伯は「児童の読物調査は昭和十三年四月から始めた。」と記している。その調査は、「最初は主として赤本漫画類の検討」から始められたが、結果「改善を要するのは赤本漫画類に止まらないことがわか」って、「検討の範囲を漸次児童読物全般に及ぼして行つた」ことになっている。時日について百田の記憶違いであろうか。
 「下品な傾向や下品な趣味、用語の問題、記事の低調等」について「役所の方の話」を聴いて、「第一、教育関係だけでなくひろく児童文化に関心の深い人たちを招いて懇談協議会をひらくこと。第二、雑誌協会を動かすこと(略)この組織を利用して、目的の実現に協力させるといふ方策を述べた」という。
 百田が受けとめた「子供の絵本・雑誌類の出版物に対して一つの浄化」を試みる、という「目的」と、実際に佐伯が「指示要綱」に盛りこんだ内容、たとえば「敬神、忠孝、奉仕、正直、誠実、謙譲、勇気、愛情等ノ日本精神ノ確立ニ資スルモノタルコト」などとは、大きなへだたりが感じられる。
 百田は、「統制といふ言葉は内務省の話にはなかつた」と書くが、七月の懇談会以後「あらためて検閲の一般的な方針、編輯者や業者に対する基礎的な指導方向等」が必要になった、と記している。内務省からの「検閲」「基礎的な指導」が「統制」にあたらないのだろうか。
 佐伯が調査結果から得たものとしてあげている事項と百田の示したものを対照させてみよう。(括弧内が百田の言葉)
(一)子供の興味への追従主義(子供が喜びさへすればよいといふ追従主義)
(二)内容の講談趣味化(内容の講談雑誌化したもの)
(三)漫画の過多―題材の無選択、用語の卑俗・卑猥(低調卑猥の漫画)
(四)記事の低俗(記事の低調)
(五)都会の消費場面の偏重・生産場面の欠除(都会偏重で生産場面の取材の欠除)
 佐伯のあげる当時の児童読物の欠点と百田のそれには若干ニュアンスの違いが見られる。もっとも大きなものは、百田が六番目(佐伯はあげていない)にとりあげた「指導性の欠除したもの」である。百田は、以後くりかえしこの点を強調している。すなわち、当時の児童読物には「指導性」が欠除していた、と見るわけである。見方を変えれば、百田の方が「統制」に熱心だったようにも読めるのである。
 たとえば、第一項目の「追従主義」についても、百田は「これはつまり指導性がないといふことです。」と書いている。「指導性といふことを欠いてゐるから、子供自身の文化を高めることにも深めることにも働きは全然ないのです。」ということになる。「指導性の欠除」について「とにかくどんな意味に於てもさういふ性能を欠いてゐるといふ点では共通の欠陥が指摘されるのです。」と、児童読物全般の欠点と指摘している。
 具体的に「冒険怪奇的な物語」をあげて「空想とか冒険とかいふことの解釈があまりに非現実的であり、少くとも子供の現実の生活との繋りに於て考へられてゐない」と書く。この「子供の現実の生活との繋り」という言葉も、百田がくりかえす言葉である。百田にとって「指導性」というのは、いわゆる「生活指導」に結びつくのである。ここにも百田と佐伯のへだたりが見られる。百田は教育的、教師的発想なのである。
 結論として百田がまとめるのは、
子供自体の文化を促進し、それを高めるための子供自身の自発的活動といふか―とにかくさういふ目的のために大人と子供が協力する―さういふ面がさきに述べた指導性の問題などと関連して、もつと全般的に今日の少年雑誌の経営者や編輯者の間で問題とされて行かねばならぬのではないかと思ひます。
となる。
 ある意味で現代の現場教師の発想と文部省らの役所的発想のずれを垣間見る思いのする文章である。
 「子供の読物をめぐつて」には、以下「浄化後の子供雑誌」「推薦図書の詮衡」「その後の児童読物」「日本少国民文庫」「喜びの本」「何を、どう読ませるかの問題」「雑誌と本の選びかた」「農村児童の読書指導」「子供の読物について考へる」「時局と子供の読書指導」が含まれている。後半は主に「読書指導」の問題である。目につく論章だけを紹介しておく。
 「浄化後の子供雑誌」では、「全体の上から相当予期に近い成績を挙げてゐる」という報告から、予期以上の締めつけが出版界に及んだことがわかる。おもしろいのは、「指示要綱」の懸賞についての条項が「実質的内容ヲ有セズ、専ラ営業政策上ニ利用セルモノ」を排除するという条文を「本来不徹底であつて、この侭の條項では客引的懸賞を絶滅させることは或は不可能ではないか」と記していることである。
 「推薦図書の詮衡」では、文部省の「児童推薦図書」に低学年、幼児向きの図書が認められなかった点について「仮名遣があまりに国定読本の基準に反してゐたり、内容主題の取入れ方があまりに西洋崇拝的(模倣的)であつたり」した理由によるものと書いているのは、明らかに「推薦図書」の基準が「指示要綱」の指示を受けているかどうかにあることを示している。
 「その後の児童読物」では、「最近(昭和15年4月)児童関係の出版物の売行きが大変よい」のは、「一昨年あたりからの児童読物に対する内務省図書課や文部省社会教育局などの腰入れをも挙げることが出来る」としているのは、ひとつの「復興現象」といえるのかも知れない。
 「何を、読ませるかの問題」の中で、「子供にどういふものを読ませたらよいか。子供の読みものにはどういふものを選べばよいか」という「親ごころに一つの戒心をあたへ」るために「内務省の方で子供の絵本や読みものに大きい関心を持ち始めた」と書いているのは、ある意味では無邪気な発想であった。
 「一体今日の日本には子供の読みものが少し多ぎる」という。「あたら一冊の良い本を本当に読む機会を、さういふ雑駁不用意な読書欲の間に擦り減らしてしまふ」。だから「口でいふ代りにさういふものを読む機会をなくして行くといふこと、かういふ風に環境の整理で自然と子供自身の興味を是正して行く」のだ、という。
 「雑誌と本の選びかた」によると、「文部省の推薦書は、下は前にも述べた十銭五銭の絵本から、一二年生、三四年生、五六年以上といふ風に、夫々読ませる子供の知能の発達の程度に添はせ、国定読本との聯絡を計つてゐるから、安心して子供たちに与へ貰つていいと思ふ」ということになる。
 これは今にもある「○年生童話」の発想で、学年と読書力発達の成熟度を同一視する間違った考え方が示されている。
 「子供の読物について考える」の章で「色彩がわるくけばけばしいとか、絵が不正確で困るとか、印刷が粗末であるとか、一口にいへば、下品であるといふやうな理由だけでは、必ずしも一概に排斥は出来ない」「絵が下品で着色の毒々しいことが、反つてさういふ階級の大人や子供たちに親しみを感じさせてゐる」と共感を示しながら、さういう本を作る「商人の商売主義」が問題である、とする。
 「時局と子供の読書指導」で示されるのは、「子供読物の浄化とか向上とかいふことには、まづ最も子供に近い場所に居るもの、即ち一般の父親とか母親とか、兄とか姉とか、それから教師とかを先づ納得させうるやうな読物の出ることが必要」「さういふ糧を読物を通じて気永く子供たちに与へて行きたいと思ふ」と結ばれる。
 微温的で常識的な、マジメな教師的発想の文章であった。

(大藤幹夫)



『お噺の研究―日曜学校叢書第壱編―』(1)

  大正11年7月10日発行
  日曜学校研究社 刊

 四六判、序文3頁、本文392頁、奥付、箱入り、定価2円、発行元の所在は、「京都市下京区堀川通七条上ル本派本願寺内学務部」とある。真宗の日曜学校における口演童話の位置付けを試みた論文や口演童話そのものの特質を論じた稿を編集したもの。
 序文「日曜学校叢書の発刊に際して」に、「本叢書を発刊して各方面に亘つて健実なる宗教教育者の理論的根拠及び実際的方法に関する諸大家の指示を仰ぎ、拠つて以つて聖なる業への理想に近づきたい」とみえる。口演童話の普及には、学校と並んで宗教団体による日曜学校が大きな役割を担ったが、まだ本格的な調査研究はほとんどなされていず、見落せない資料であろう。
 目次は、次の通り。

童話の一般桜井鎔俊
童話の心理と其教育久保良英
日曜学校に採用すべきお伽噺の種類北畠貞顕
お噺の仕方久留島武彦
お伽噺の話方及び構成法岸辺福雄
お伽噺の性質及び話方巌谷小波
お噺の理論及び実際天野雉彦
史譚の話方岩井藍水
 「童話の一般」(桜井鎔俊)は、発達段階と読書傾向を述べたものだが、当時の心理学の知見を越えるものではない。むしろ宗教教育は宗派の教線拡張ではなく、「小供の胸底に秘められたる仏性の開発」が目的であり、その方法として、「芸術的方法によつて宗教的ムードを起し、子供達の霊をして其ムードの中に心ゆく迄浸らせる事」(傍点原文)を説き、「茲に於て私は童話に価値をもとめる」とする点に注目しておきたい。
「童話と宗教々育」という小項目では次のように述べる。原始民族の精神生活はほとんど宗教生活であるが、その宗教とは、自然崇拝、動物崇拝、精霊崇拝等の原始的な宗教である。ここから神話伝説が生れたので神秘的な要素が多い。子供の世界は詩的神秘的なので神話伝説に共鳴する。「だから仏教日曜学校では是非仏典に顕はれてゐる神話や教祖に関した伝説を大いにやつて欲しい」、子どもはそうした神話伝説の「神秘に触れて云ふ可からざる満足を感じ夢の如く現の如く此境に悠遊する」。

 「童話の心理と其教育」(久保良英)は、「子供の持つてゐる種々雑多の欲望を実現させんとして得られない時にその満足の一方法として現はれた来るものが、童話」だというのが論旨。その説明にいくつかの具体例をひいた後、童話を構成する条件を五つ挙げる。@「童話は時間空間の観念を超絶すること」A「子供らしいこと」B「科学的知識を超越していること」C「教訓を主なる目的としてゐないこと」D「芸術的作品なること」である。補足すると、@は、時空間が特定されないこと、Aは、子どもの経験思想に沿っていることである。このほか「童話の教育的価値」「童話撰択の標準」のほか、いかに話すか(取扱)などに言及するが、詳細は略す。

 「日曜学校に採用すべきお伽噺の種類」(北畠貞顕)は、「お伽噺は興味中心でなくてはならぬ」とするのが論の基本。ここから選択されるのは、「神仙談又は不思議談」と「滑稽談」。前者はフェアリー・テールであり、魔力を使う話であり、後者は、ノンセンステールも含まれる。「お伽噺は子供に愉快慰安を与へるのが第一の着眼点であるから無意義談はフエイヤリーテールと共にお伽噺の最も大切な地位を占めるものであると思ふ」というような見方は、文芸としての童話に関わる人々にはほとんどみられず、口演に関わる立場からの発言ならではであろう。ただし、日曜学校では、「宗教家と云ふ人格を通じて話されるのであるから興味中心でやられても諸子の道徳的理想が自然の間に子供にうつり道徳と興味とが一緒になつて子供に大なる感化を与へるものである」と、「感化」を導いて来ざるを得ないところに限界がある。
 以上のほかに望ましい話として、「自然物愛護の話」「理科的お伽噺」があげられている。自然愛護は、当時問題になった動物愛護を一歩進めて広く自然物を愛護する精神を涵養する必要から取り上げられ、理科的お伽噺も、理科教育の必要性から言及されている。「天然物や動植物を題材に取つて話す場合も無論お伽噺の主眼たる聞く者に興味を与へると云ふことは片時も忘れてはならぬ」(傍点引用者)と主張するものの、狭義の教育的内容は肯定される。
 最後に不適当な話として三つあげる。「迷信を助長せしむる話」、「一部の神仙談」(「不思議な力が悪事の助けをする」ような話)、「冒険談」。「冒険談」が不可とされるのは、主人公が「種々な不正手段を以て他人を篭絡し或は間髪を容れざる間に巧みに危険を冒して法網をくゞり大成功を収めると云ふ様な話は子供の所謂模倣心を挑発するから」だとされる。子どもは冒険談の主人公を真似ることがあるので不適切というのは、現在の、テレビのヒーローを真似るから云々という論理と重なる。

 「お噺の仕方」(久留島武彦)は、口演の態度、技術について述べたもの。「社会救済に何処を根本として着手すべきか、何から先づ手を着けてかゝらなければならぬかと云ふに、その根本が乃ち子供であります」と述べ、「本派の事業は流石にと思た」と日曜学校での口演の位置付けをはかっている。
 実演者としての体験から、言葉、仕草、演じ方から会場設定等にまで言及するが、実演者の発言として拾うべきは、「子供の様に直覚的なものには自分が動かずして子供を動かす筈はない」「心のそうた全人格を以つて投出した話でないと、子供は捉へられぬ」というあたりであろうか。
 読者(聴衆)にとっての「お噺」の意義等についても言及しているが、結論部分は、「学校の諸科目の中からは、克己、忍耐の諸徳目は学べないが、所謂お伽によりて多くのかゝることを取入れることが多いと云ふことである」。ここから日曜学校での法話や訓話は十分から十五分にすぎないのは物足りなく、宗教教育というには貧弱だから、「日曜学校と云ふものを、も少し徹底さしていただきたい」と希望を述べる。

 「お伽噺の話方及び構成法」(岸辺福雄)は、最初に、「喜びとは有り難い心持になつた時起るものであつて、此が有つたなら決して悪い事は出来ない筈である。だから喜びを与へるお伽噺は道徳上教育上最も有効なものである」と「お伽噺」の教育的意義を述べる。しかし、「喜び」と「悪い事は出来ない筈」が結びつく論理は理解しがたい。続いて日曜学校の意義に及び、子どもは学校で六日間を過ごし疲れているので、日曜日にそれを癒さねばならず、そこに日曜学校の必要性があるとする。だが、具体的に広い寺を歩くこと、有り難い仏様に額ずくこと、歌を歌い、面白い話を聴くこと等が述べられるだけでそれ以上の説明はない。
 お伽噺は、「興味中心と教訓中心とを一所にした様な話でなければならん」と考え、「面白くて為になる話をする様にして居る」と、まず「お伽噺」に対する考えを述べ、ついで話方の技術について語っているが略す。最後に「お伽噺の要素」として、必ず含まれる必要のある条目をあげる。まず、「主人公が活動性を持つて居る」「感情を刺戟する事」「空想的の事柄を含ませる事」の三項目を指摘し、「桃太郎」はこれらすべてを含んでいるという。「感情を刺戟する事」とは、具体的に「はつと思はせる所。ホロリとさせる」ところのあることをいう。この条件に合わないものは、寓話であり「活動性無く感情も刺戟しない」という。つまり、物語としての面白さが不可欠だということであろう。
 以上の三項目に加えて、「変化の有る事」(変化で刺戟しつつ話を進める)、「反覆した所の有る事」(繰り返し)「統一の有る事」(「統一が無く、くどくなつたり結論が出て来なんだりすると興味も無くなつてしまう」)をあげる。これらも結局物語性や興味性をもたらす要素である。(未完)

(藤本芳則)




「『雪と驢馬』によする」特集号―「チチノキ」VOL.5 NO.1―

上田信道

 同人誌「チチノキ」は1930年3月の創刊で、1935年5月まで全19冊を刊行した。同人は多胡羊歯、巽聖歌、与田凖一ほか北原白秋門下の童謡詩人たちである。
 『日本児童文学大事典』によると、「当時盛んになっていたジャーナリズム童謡や、明治唱歌の焼き直しともいうべき教育童謡との対決の中から芸術性の高い童謡を志向した」こと、「北原白秋の唱えた「叡智」を指標としつつ、当時の詩壇に台頭していたモダニズムに同調しようとした」ことに特徴があるとされる。全体として「歌謡性よりも文学性を強く志向したために子どもから遊離した作品が多くなったことは否めないが、文学的に結晶度の高い童謡が数多く生みだされた」と評価されている。
 ここに紹介する「『雪と驢馬』によする」特集号は、1932年2月29日付の発行、発行者は与田凖一、総55頁の構成、定価は40銭(社友50銭)である。与田の署名のある「編輯メモ」に「本号は『雪と驢馬』と、巽聖歌についての感想批評の文章を特輯とした。可成り、単なる人情主義のおめでたぶりを避けたいとつとめた」とある。『雪と驢馬』は巽の第一童謡集で、1931年12月18日付の刊行、発行所はアルスである。同社は巽の勤務先でもあり白秋の弟の北原鉄雄が社長を務めている。冒頭に師の北原白秋の「序」を掲げ、満を持しての上梓であった。「後記」に巽は「作品総数約八百篇、その中から本集には僅かに五十八篇だけを採録した。(中略)斯うしてみると私の歩いて来た道もほの明るんで来る」と記している。文字どおり初期の作品の集大成であり、巽の詩業に区切りをつける記念碑的な出版であった。
 「チチノキ」の本特集に取り上げられている記事を次に列挙する。
 記事は無題で近藤東、「『雪と驢馬』に就いて」都築益世、「開曙の微風」岡田泰三、「『雪と驢馬』を読む」玉置光三、「『雪と驢馬』の作者に」多胡羊歯、「巽聖歌よ雪と驢馬よ」吉川行雄、「巽の横顔」平野直、「雪・驢馬・巽」柳 曠、「螢と郷愁」藤井樹郎、無題で与田凖一、「ほろんの国」栗木幸次郎、無題で薮田義雄、「『雪と驢馬』讃」島田忠夫、「ノオト」木俣修である。これに加え、書評の転載として「中外商業新報」(1月20日付)の水谷まさる、「岩手日報」(1月25日付)の高橋与惣吉の署名記事があり、ほかに「雪と驢馬出版記念会の記」と題してY・J(与田凖一)の署名のある記事が掲載されている。
 以下、主要な記事についてのみ内容を紹介する。
 まず、都築益世は「僕にとつて興味ある問題は、『水口』期と『水口』以後との作風の転向、殊に形式の変化である」「水口は何れも四四四調で採材が田舎である。野芹は三三三、四四四調で終聯は破調になつてゐるが採材は同様田舎のものである」と初期の童謡の特徴を記し、その後の作風の変化については「採材も以前に比して著しく変化が多く、広範囲で、近代的乃至都会的である様に思はれる」と指摘する。さらに「別に後半の諸作には、動物童謡集として興味ある諸作が多いが、その他のものも著しく近代色が濃く、従つてどちらかと言ふと都会的(精神文化的に)である」「技巧の冴、ウヰットの豊富さを見せられた。この傾向をよいとするか、悪いとするかに論者は二つに分れるだらう」と評価する。
 岡田泰三は巽の技巧に触れて「いづれも快い音楽的階調と香気に充ち満ちてゐる。その多角的な技法と、純粋透映なる思慕との焦点がぴたりとあつてゐるために、一様に快く響くであらうか」と述べる。
 この時点で巽ともっとも交友期間の長い平野直は、1927年版『童謡集 水口』(平野に贈られた手書き童謡集)について触れる。「巽はその頃、苦悩のどんぞこだつた。泣きながら童謡を作つてゐた。作れないと云つては泣き、作れたと云つては泣いた。巽はあの当時のことを考へて、あの時代に対して『雪と驢馬』を捧ぐべきであらう」と記している。なお、手書き童謡集については、まもなく刊行される「国際児童文学館紀要」第15号に詳しく書いたので、そちらをご覧いただきたい。
 与田凖一は巽が九州在住であった頃のことに触れている。巽は1927年から翌年にかけて久留米の日本キリスト教教会で米人牧師の助手兼日本語教師をしていた。「九州では君に異状な生活の挫折があつた。精神の飢餓があつた。君は教会の屋根裏に巣をつくり、神の子となつて、そして、牧師の、ヒステリーの細君に三銭の沢庵を買ひにやらされた。わづかに日曜学校と、外人の日本語教師としての報酬が、ガスと、鍋と、きゆすの把手を動かしたのだ」「ピウリタン、くるめ時代は君の人生上の生活的基礎づけとしてのみの価値しか持たない」「君のこの時代は全く劔―折れ、弾丸つきてゐたのだ」とこの頃の巽の苦難と精神的挫折について書いている。そして、上京後の作風の変化について「叡智は、近代性と児童の生活、童心についての再吟味、主張をととのはせ、制作にうらづけをした。努力時代、遂に君は自負を得た」と高い評価を与えている。久留米時代は巽と与田が最初に直接の交友を始めた時期であり、巽のサイドから書いたものとしては「若き日の詩人の肖像」(『与田凖一全集』第2巻別冊 1967年2月10日 ポプラ社)に詳しいが、もはや紹介する紙数がない。
 ところで、童謡集中の動物童謡については評価が分かれている。
 藤井樹郎は「フアブルの昆虫記を私に読ましたのは巽であつた。而して今にして思ふ巽が何故に私に読ましたかを」「フアブルは昆虫の生活を詩に近い散文で書いてゐる如何に彼等が詩に近い生活を生活としてゐるかを。而して巽も亦動物の生活を童謡の上に如実に写してゐる表現してゐる」と肯定的である。また、栗木幸次郎も「この華集の中には動物をあつかつた作品が相当あるがすべてすぐれてゐる。巻頭のほのかなる灰調に比してグンと明るいものばかりである」と好意的に評価する。
 一方、玉置光三は批判的な評価を行っている。「これらの唄の多くが単なる才気をもつて作られたものが多くて、作者の本当の詩的雰囲気から生れたものが少いためではあるまいか」とする。また、薮田義雄は「動物童謡に就いて、つくづく僕は考へるのであるが君の本質とするところは、決してかうしたハイカラな(いい意味にも、悪い意味にも)ゼスチユアの内にありはしないと思ふ。あるすばらしい飛躍への道程として、かうした新らしい視野の展開ももとより結構であるが、これをそのままに押してゆくことは、結局、君自身がスプラツシするだけのことではないだらうか」と手厳しい。与田も動物童謡には「なんと、体臭のない不活溌な動物が飼はれてゐることか」「なんとまづいテクニックか」と批判的で、「辛夷の花と鳩、日傘、風見煙突、カラクン鳥、ハンカチーフとお茶、これらの繊細なサンチメンタルに、明快な、近代色のアイロンをかければいゝのだ」と巽の童謡の進むべき道について忠告している。
 菅忠道は「チチノキ」同人たちの運動を「日本の近代児童文学運動史上、児童文学の芸術性をもっとも純粋に追求した運動」であり、「当時のモダニズムの文学思潮が、この童謡運動の基調にあった」「新しい感覚は、表現の形式においてだけでなく、題材の近代性とも結びついていた」(『日本の児童文学』1966年5月14日増補改訂版 大月書店)と評価する。動物童話をめぐる賛否両論は、同人たちの新しい童謡への真剣な取り組みのありようと志向するところを窺わせるものとなっている。(完)