インターネット版

児童文学資料研究
No.80


  発行日 2000年5月15日
  発行者 〒546-0032 大阪市東住吉区東田辺3-13-3 大藤幹夫


目  次


「「日本児童文庫」の思ひ出」(中村正爾)ほか大藤幹夫
「日本少年」創刊三十年記念号上田信道
『お噺の研究―日曜学校叢書第壱編―』(2)藤本芳則
80号に思う同人一同

「「日本児童文庫」の思ひ出」(中村正爾)ほか

  「書窓」(第二巻・第四号)より
  昭和11年1月16日 発行

 「書窓」(第2巻・第4号)については、鳥越信編『日本児童文学史年表 2』(明治書院、昭52)にとりあげられている。昭和11年1月16日発行分として、つぎの論稿が紹介されている。「黎明期の少年文学」(小川未明)、「児童文庫と児童画本」(楠山正雄)、「出版童画の今昔」(武井武雄)、「幼年回想」(坪田譲治)、「少女文学について」(村岡花子)、「日本少国民文庫が生まれるまで」(吉田甲子太郎)、「童謡の本」(与田凖一)。
 手元の資料には、この他に、特輯の意図を示す「小供本と画帖」(無署名)、「子供絵本の印刷と製版」(森本武夫)、「線」(初山滋)、「子供読物を科学方面に」(照井猪一郎)、「「日本児童文庫」の思ひ出―編輯者の立場から」(中村正爾)、「日本に始めての児童百科大辞典に就て」(小原國芳)などの論稿が見られる。落穂拾いとして紹介しておきたい。
 特輯として「画とお話の本」「日本児童文庫」「児童百科大辞典」「日本少国民文庫」をとりあげた理由として、冨山房の大型童話本は、「新しき時代に向つての児童のためといつた配慮が感得される出版」であり、「画とお話の本」は、「その傾向を瞭然たしめる」ものである。「日本児童文庫」は、「児童尊重の観念が一般的なつた折の記念塔」で「所謂円本時代の大数刊行を児童本で実現した大集」と見られる。「児童百科大辞典」は、「時代の関心が他に移つた現在、誠に児童のために敢てされた児童生活向上のための憂志の結晶」であり、「日本少国民文庫」は、「時代の主潮に係らず、児童生活に輝くものを浸潤させるもの」であることから「右四大群を抜き掲げた所以」とされる。したがって、この四シリーズは時代を反映する出版として同時にとりあげられなければならない。
 画帖としては、「コドモノクニ」「コドモノ友」「ヱホン」がとりあげられている。
 「「コドモノクニ」が往年の生彩を失つた現在、今溌剌として登場したもの」として「ヱホン」があげられている。―『日本児童文学大事典』には採択されていない。
 「家庭幼稚園と銘した家庭教育研究所発行の十年夏創刊である。現在童画家の精鋭の執筆になり、各冊主題を掲げて輯されてある。丁度画本と画雑誌の中間をゆくもの」として、各主題も紹介され、「かうした中間的な画本の愛護から単行画本の発展が生れるであらうことが推察される。」とあり、記事の結びは、「今、日本に最も欠けてゐる画本のよき発達を待望すること甚だ久しく、甚だ切である。」になっている。
 鳥越年表にとりあげられていない資料を中心にしたいが、示された論稿の内容も一部紹介しておきたい。
 まず未明の論稿だが、少年文学の二つの方向について、「子供自らの立場から書くことは、畢竟するに、世の中の無理解に対する抗議ともなるであらうし、外から書くことは、所詮、子供を善い方へ導くためのものであり、他面に於ては、児童教育に関して、世人の注意を喚起するために、問題を提出する形ともなるのであります。」とし、世間の―少年文学の作者すら―少年文学への無理解を指摘し、童話文学は、「特異なる散文詩形として、また高度の感情を表現する芸術として看做されなければならぬもの」であり、少年文学は「子供の生活を中心にした文学」と規定している。未明の中では、童話文学と少年文学は、画然として分けられていたものを、応々にして混同して理解されてきたのではなかったか。
 現状について未明は、「多量生産的の商品化について如何ともすることが出来ず、また気概ある作家の輩出も見ず、自から、その成行に甘んずるかぎり、厳密の意味に於て、日本の児童文学は、まだ黎明期の裡もあるのではないかと思はれるのであります。」と書いている。
 村岡の所論も厳しい。
 外国にくらべて、わが国の「少女文学を見ますと、どうにもその貧困さがなさけなく思はれます。」として、横山美智子の「朝のよろこび」が、放送されたのを新聞の批評欄は「現在の少女小説の代表的作品」と紹介していたのをとりあげている。花岡に言わせると「極めて安価なセンチメンタリズムの一言で尽きる」。「結局、少女の感情といふものを、安価にみくびつてゐる」作品ということになる。
 村岡は、「いつそのこと、子供の世界の描写にでも筆を向けて見たら」、その上で、「大人の世界「「女親の気持「「を面白く叙述するといつたやうな試みをして見たら」と提言する。
 村岡の結語は、「「少女小説」といふ四文字を忘れた少女文学が生れなければ、いつまでも、少女小説は下らないものとして見下されてゐなければならないのでせう。」。今にも通じる村岡の苦言である。
 楠山によると、冨山房から「何かの形で新様式の児童本につくり上げること」を頼まれたのは、「大正も初年、欧州戦争がはじまつて間も無い時分」で、「与へられた参考書としてはたつた一冊、アンドルウ・ラング編のアラビアンナイトの原本があつただけ」だった、という。
 杉谷代水の考えでは、「この原本から文章と併せて画までもそつくりそのまゝ借りて本にする積り」だったらしいが、「それではあまり無造作すぎる」ので、「大体は原本から借用する」ことにして、口絵を小杉未醒、装幀を橋口五葉に依頼したらしい。しかし、「大人好みに出来てゐ」て「どうにも失敗といふほかになく」、友人の岡本帰一「「「子供ものなどには私と同様殆ど何の関心ももつてゐなかつた」「「に依頼して誕生したのが、模範家庭文庫の「最初二冊のアラビヤンナイト」であった、という。
 「画とお話の本」は、「実用主義的に平俗に、卑屈に流れやすい児童の気分を高揚させ、純粋なしかし平易な、児童用に和らげられた文学的読物によつて、児童の感情を洗練させたいとおもふだけで、目的はいはゆる童話教育でない、文学的精神の普及であつたのです。」
 吉田の「日本少国民文庫が生れるまで」で、山本有三が、この叢書を生み出すきっかけは、当時中学一年の「令息から「何かいゝ本を選んでくれ」といはれ」たことに始まったというエピソードをとりあげている。
 森本の「子供絵本の印刷と製版」は、印刷法など…特にオフセット印刷…についての技術論である。
 初山は、「私は自分の絵の中に、たのしくねつころがつて遊んでゐる」と書く。ビアズレエの影響とか模倣とか言われたが、「西洋に、そんな絵描きのゐることを知らなかつた。絵も見たことはなかつた。」と記している。
 照井の「子供読物を科学方面に」は、「子供の読物の濫読」の中で「科学に関する読物」が少ないことで、その注文を書いている。中に『ファーブルの昆虫記』を推奨している。
 「子供に読ましていゝほん…それは本当は子供でなければわからない 永遠の宿題であらう。」と結んでいる。
 「日本児童文庫」について中村正爾が書いている記事はおもしろい。
 土田杏村の立案になるこの文庫は、「当時のあらゆる俗悪なるジャーナリズム児童読物に挑戦して立つた」もので、「あくまでも純真なる童心に即した、明朗な良き児童文学を提供すること、自学自修の児童図書館を各家庭に学校に建設する」ねらいから刊行された、とのこと。
 「あまりに文芸的に流れず又あまりに教育的に陥らず、その中庸に於て児童の興味ある第二の教科書たらしめんと心がけた」とのある。
 刊行当時の「出版界未曾有の大宣伝戦」の中で、「此の大混戦も今にして思へば、まことに苦々しき記録には相異ないが、しかもこれまた勢の趨くところ止むを得ない」ことであった。そして「日本児童文庫」は、「此の悪戦苦闘に完全にうち克ち、何等の渋滞もなく、まつたく最初のプラン通り…予定の五年十一月に、輝やかしく完成を見た」、「かかる綜合的な、又整然たる児童読物の大列冊は、欧米の出版界に於てもいまだ類の無い」という勝利宣言であった。
 その苦心は、「毎月二冊配本」にあって、原稿の仕上がりのズレ、組合わせ、ボリュームなど「児童ものだけに並大抵なことでは無かつた」「殊に毎巻一葉の原色版をもつて、多彩な一般の児童雑誌を相手にして行かねばならなかつた立場」に頭を悩ました。
 「児童百科大辞典」について小原國芳は、「今まで児童百科辞典のなかつた国」で「最もすぐれた自学自習書であり参考書である」「世界一の児童百科辞典」をめざした。「予期以上の実にすばらしい自学書、否、参考書、否、大写真集成、否、大教材集録、いな、教育全書」になった、と自負している。
 小原によれば、「児童百科大辞典」は、「学問的正確と教育的関心の最上を傾注し、親切に面白く、平面に高尚に、深遠に豊富に、且つ組織的に、各巻毎に周到なる索引を附し、最新の知識を最上の方法で理解あらしめようと努力した四六倍版全30巻である。
 「執筆諸家片鱗」の中で未明は、「大正頃異色ある小説家として活躍されたが、自然主義思潮の現実主義化にあきたらず、近年は専ら童話に専念されそこに氏の浪漫主義が溌剌と語られてゐる」(傍点引用者)と紹介されている。未明のいわゆる「童話宣言」からすでに十年を越していた。

(大藤幹夫)



「日本少年」創刊三十年記念号

上田信道

 「日本少年」の創刊30年にあたり、実業之日本社では1935年9月号を記念号として特集記事を掲載した。かつて大正期の少年雑誌界を席巻した同誌も、この時期にはライバル誌の「少年倶楽部」に発行部数で遥かに及ばず、内容にもかつての勢いはない。特集の冒頭にも「日本の少年雑誌界で一番古い歴史を持つて輝いてゐます」と歴史の古さを強調するばかりで、当時の苦戦ぶりがしのばれる。しかし、この特集には創刊当時から全盛期に及ぶ頃の編集記者・関係者ほかが記事を寄せ、得がたい資料となっていることもまた事実である。
 まず、特集の巻頭を飾るのが内閣総理大臣・岡田啓介の「日本少年の覚悟」、続いて文部大臣・松田源治の「辛抱強き少年たれ」である。さしたる内容もない記事だが、総理大臣・文部大臣の寄稿という事実自体は、実業之日本社社長・増田義一の政治力のたまものであろう。
 これに続くのが、増田義一の「『日本少年』愛読者諸君!!」である。「古今の偉い人の伝記や話を読んでゐる間に、自然にその感化を受ける」「冒険小説を読んでゐると、自然に勇気が出で、胆力が養はれる」「探偵小説を読んでゐれば、考へが深くなつたり、能く気が附く基を作る」「科学の記事を読めば、万人必要な科学上の知識が得られる」「その他学校の教科書に足らない有益の記事が沢山掲載されて、学力の増進、知識の開発を大に助ける」というところに、出版社としての姿勢が窺える。「諸君が面白く読んでゐる内に、必ず為めになる」と、ライバル誌の「少年倶楽部」をはじめ、当時の少年雑誌一流のいささかこじつけめいた謳い文句とさしたる変わりはない。
 明石精一の「三十年の回顧」は「二代目の主筆月亭氏の頃から三十年も日本少年に厄介になり通しの者は、どうも僕だけらしいとわかつて、ウヘヘと尻餅をつきさうになつた」という書き出しで、編集記者との交友関係等を交えながら、自らの体験に即して「日本少年」の歩みを語っている。簡潔ながら、「日本少年小史」とも言うべき内容である。画家らしく「着色写真を石版に転写して表紙にしたり、木版と写真版ばかりだつた挿画に、凸版を加へた」云々というくだりも見える。
 続いて〈思ひ出を語る〉と題して、編集記者・関係者の寄稿が掲載されている。
 石塚月亭は「親しみ深かつた愛読者」と題し、「その頃は、誌上の活動ばかりでなく、愛読者大会はもとより、軍艦見学や、鎌倉や高尾山の遠足会などをやつて、誌外の修養と健康とを鼓吹してゐた」と愛読者との交友が緊密であったことを回想する。各種の行事などを通じて愛読者との交流を重視したことは、「日本少年」が部数を伸ばしていく理由のひとつである。この伝統は月亭の後をを引き継いだ編集記者たちによって重視され、各種の独創的な行事・読者サービスの工夫を重ねていくことになる。
 瀧沢素水の「躍進時代」では「何事にも変化を好み、新奇を追ひ、同じことを繰り返して行くことの嫌ひな私は、さうした雑誌の編輯には、寧ろ性格的に多大の興味を唆られ、毎月眼新らしいトピツクを捉へ、読者をアツと驚かして行くことに、私自身の止めどなき、奔放な、欲望を満足した」云々とある。素水が主筆を務めた時期こそ、「日本少年」がライバル誌の「少年世界」を遥かに引き離し、少年雑誌界を席巻していく時期にあたる。「全国小学校の児童成績品展覧会を催して、当時東宮に在はせる 大正天皇の行啓を仰いだ」「大隈伯を会長にいたゞき『日本少年誌友会』の細胞網を全国に張つた」「一流新聞の広告面に堂々名乗りを上ぐる」など、当時としては画期的な企画を次々に打ち出したことが回想される。
 少年詩の連載で名を馳せた有本芳水は、自らの詩については一言も触れず、「文壇に名を成した人たち」と題して投稿家たちについて述べている。自らも少年時代に各雑誌へ投稿した体験からであろうか。大分の後藤寿夫=林房雄、北海道の長谷川海太郎=牧逸馬(林不忘・谷譲二)、茨木中学の大宅荘一、小樽商業の小林多喜二、堀内敬三、結城哀草果、岡野直七郎、村山槐多、百田宗治、稲垣足穂、亀屋原徳の名を挙げている。
 渋沢青花は「当時の編輯方針と寄稿家」で「わたしの登山に夢中になつてゐた頃で、自然冒険記事が多く取扱はれた。それは冒険小説ではなくて、実話である」云々と書いている。
 松山思水の「思ひ出」では「らくで面白くつて、月給も中学の教員をしてゐる同窓生にくらべて遥かに多かつた」「一寸記事が当ると三版四版と印刷能力が不足を告げるくらゐ売れる」「芳水思水の盛名は大したもので、巌谷小波氏と肩をならべる大少年文学者だと世間の一部から誤解の光栄に浴した」云々と、黄金期の思い出が語られる。
 中島薄紅は「編輯前後九年間」で、関東大震災の直後、東郷平八郎元帥のもとを訪ねて記事を書いたことをきっかけに元帥が同誌に好意を寄せるようになったこと、「文藝春秋」に先がけて座談会の形式の記事を取り入れたことを書く。ほかに歴代の編集記者では池谷一路、野口青村、画家では林唯一が稿を寄せている。
 なお、興味深い記事に、書き方教授(習字教育)で著名な水戸部寅松の「『日本少年』の思ひ出」がある。星野水裏が「社長から何か一つ新らしい計画を立てゝ見よとの下知」を受けたので、水戸部に相談したところ、「学校の教育教授と相俟つ所以の佳い課外読物の必要を痛感してゐたので、何の躊躇もなく、少年読物それは学校教育と直接に聯絡を保つ少年雑誌を計画することの、極めて適切なるを告げた」という。水裏の実兄にあたる星野広が水戸部の友人であったことから、彼らは「辱知の間柄」であった。その後、新雑誌の発刊について再び相談を受けた際、水戸部は「その名については、私は少年の意気を鼓舞する底の力強いものをと考へて、「日本少年」といふのを提議した」という。また、「日本少年」創刊号については、「たしか初版三千を刷り、その半を見本として各方面へ寄贈した。(中略)文字通り註文殺到、残本を配つた外直ちに二千とかの増刷をしたといふことを、水裏君から聴いた」という。「日本少年」の創刊にまつわる秘話である。(完)


『お噺の研究―日曜学校叢書第壱編―』(2)

  大正11年7月10日発行
  日曜学校研究社 刊

 「お伽噺の性質及び話方」(巌谷小波) 小波には、『童話の聞かせ方』(昭8)と題した口演童話論がある。本書に収録された一文はそれに先行するもの。「お伽噺の性質」「お伽噺の取扱方」「お伽の価値について」と三つに大別して論じる。
「お伽噺の性質」の冒頭で、「元来お伽噺と云ふものは、別に教育者は童話又は児童文学と云つてゐる。」と、「童話」「児童文学」は教育者の用語という認識を示す。お伽噺は「文学の最も幼稚なもの」で、読者が幼稚だけでなく、「内容性質も亦幼稚である所の文学」であるから、神話伝説はもちろん古事記や聖書の類も「お伽宗」に入れたいと述べる。ここでの「お伽噺」は、読者対象ではなく、進化論的視点から把握されている点に注目したい。
 興味深いのは、冒頭の「お伽噺」と「童話」の区分である。「原始的文学が子供に適してゐる」ことが一般に認められるようになってきたが、さらに、「其子供の喜ぶ処に教訓的な説明や意味を付けて種々訓戒を与へやうとする、これが童話なるもの」と説明した上で、「然しそれは文学上からは只お伽噺の一部に過ぎないので、お伽噺なるものゝ大部分は、やはり興味に訴へるものを目的とするものである。」と述べ、「童話」は「お伽噺」の一部に過ぎないことを主張する。お伽噺は、教訓を目的としていないと非難する人がいるが、「もっと大きな広い意味に於て立派な教訓になる」と主張する。現代の言い回しなら「広い意味の教育性を含む」というところであろう。
 「お伽噺の変遷」と小項目をたて、教訓的ならざる「お伽噺」の例が示され、現代からみるとみると「危険な考を挑発」するような作品も、それが誕生した時代には適合していたと指摘する。その一例としてあげられた「舌切雀」は、「小成に安んじ分を守れと云ふことを子供に教へ込んだ」もので、「封建時代の処世法としては此方が安全であつたに相違あるまい」が、「そんな引込思案は今日以後の活社会にあつては到底益に立ない」と批判される。他にも、「かちかち山」が槍玉にあげられている。それに対し、理想的お伽噺としてあげられたのは、「桃太郎」で、いかに優れているかが語られるが、その内容は、すでに大正四年に上梓した『桃太郎主義の教育』に述べたところと大差ない。
 口演は文章よりも「直接的で直に人間の急所を衝くもの」だから、話す方が書く方よりも遥かに効果がある。そこで、「余は書く時には文学的にしてをるが、話す時には可成教訓になる様にしてをる」といい、小波の口演に臨む態度がうかがえる。
 「お伽噺の取扱方」では、「面白くて平易」であるために、文章表現、仮名遣い、話し方について具体的に指摘しながら述べる。話し方に関しては、「自分が話に興味をもつてやりさへすれば、子供も自然に其話の中に這入つてくるのだから、先づ以て自分が話中の者になると云ふことが話方の第一番の秘訣である」が結論。
 「お伽の価値について」は、フィクションの意義について論じる。お伽噺は嘘を教えるという非難にたいして、「嘘らしき嘘の中に、真を含ましたものがお伽噺」とする。大正になっても未だこのような弁明の必要があったことを知る。
 お伽噺には「必しも教訓と云ふものを含まずとも唯興味を与へさへすれば宜い」ので、それを教訓の方面に利用するのは大人の方便である。ただし、教訓に二通りあるとして、ひとつは、勧善懲悪、もうひとつは「文明人の欠くべからぎる趣味性」をお伽噺で養うことにより得られるもの。ここで「教訓」は「教養」とほぼ同義的に使われているようである。
「お話の理論及び実際」(天野雉彦)は、口演の技術面に力点をおいたもの。天野は、いわゆる口演童話の三羽烏の一人であるが、巌谷小波、岸辺福雄に比べると、その口演童話観をうかがえる文章は多くない。
 まず、「お伽噺の使命」を、大人も子どもも精神的余裕がない今日、物質よりも「文化的教養」「情育」が必要であり、「家庭から追はれ、学校からは継子扱にされてゐるお伽噺、而も彼等の情育の一手段としての最も重要なるお伽噺、学校の外に立ち或は内にあつて、此社会の欠陥を補ふところの働きをもつ尤も有力者である処のお伽噺」と位置付ける。
 以下技術論となり、口演の聴衆は五百人が限度と述べたあと、お伽噺もひとつの芸であり、「所詮話をするのは画家の絵をかくと、楽師の楽を奏すると、彫刻家の彫刻に対するのといさゝかも違ひはない」と、自負を述べる。
 ついで話の秘訣にうつり、聞き手、場所、場合に「同化」することが肝要だとする。聴衆に同化するとは、子どもになって遊ぶ気持ちになること。そのため、「子供の言葉」を使うこと。ただし、「お伽噺は単なるお話の目的の外に国語教授と云ふ重大な使命」があるので、「どうしてもお話は標準語もしくは標準語に近い言葉で談つてほしい」とする。「方言は避けなくてはならないと思ひます」と地方の言葉を軽視するのは、同時代の国語教育に沿ったもので、学校教育を補強する役割を担っていたことになる。
 「どんな話を喜ぶか」では、主人公が子どもであること、不思議、怪異、闘争などを好み人情話は好まない、と経験から得たところを語っている。さらに技法面でも、擬人法、誇張、反復、具体性が聴衆をひきつけることを述べる。
 大切なのは、話に同化することだと指摘する。「人はお伽噺が、どうせ子供だましだなどゝ考へてかゝるから、てんで失敗する」のであって、「全身全力をこめ、全生命をうち込み甲斐のある話を捕へて、一生の修業の中に完全な珠にすると云ふ意気込」でかからねばならないと主張。その他、会場、服装、態度、表情など細かな具体的な説明があり、最後に結びに触れて、教訓と教育の相違について言及する。話は「面白ければそれで目的は達してゐる」が、「お伽噺は教育的であると云ふ條件をはづれることは出来ません」という。
「史談の話方」(岩井栄之助)は、特に「史談」をお伽噺と区別してとりあげたもの。「史談とは歴史上の人物の行ひ、或は物語として云ひ遺された話を、即ち過去の事柄を現在の或物と結びつけ、相対照して子供に聞かせ、而して児童の趣味と教育的価値とを齎らすもの」とされる。現在の伝記も「教育的価値」という点では変わっていない。具体的には、「皇統の精華、親子の如き君臣の関係、父子家庭の関係等、我国我国民のみが有する誇りを自覚せしむ」こと。さらに「仏教日曜学校の特典」は、「我国民の精神を支配し、我が国民性を作つた仏教の徳沢を自覚せしむる」ことと述べる。ここでは、宗教教育と教育勅語がまったく矛盾なく同居している。
 史談の効果を四点列挙する。品位ある快楽を与える、趣味を喚起する、智育の養成、心身の発育を助ける、である。技術的な説明もあるが、他の論者と大きく変わるところはない。
 蛇足ながら、岸辺福雄は柳家小三を、天野雉彦は細谷風谷をそれぞれ手本にしているという記述がある。(了)

(藤本芳則)




80号に思う

同人一同

◎本号をもって、「児童文学資料研究」は、創刊(1980年8月15日)から80号を迎えます。歳月も20年を数えることになりました。
 昨年、認められて第23回日本児童文学学会特別賞をいただきました。同人の勉強のため、児童文学資料の落ち穂拾いでもと始めた小冊子が、こんなに長く続いたことに驚いています。その間にあって励まし支えてくださった多くの方々にお礼を申しあげます。
 弥吉菅一、滑川道夫、冨田博之、塚原亮一(順不同)の各先生のあたたかい励ましの言葉もわすれることができません。
 今後ともよろしくご支援のほどおねがいいたします。(大藤幹夫)

◎ちょうど5年前の60号に、わたしは「将来は電子版「資料研究」の発行ということも考えたい」と書いたが、「電子版」の発行など、当時はまだ夢の段階であった。しかし、やがて個人がインターネットに接続するのが当たり前になり、今ではインターネット版「資料研究」も65号から並行して発行するようになっている。発行媒体のみならず、取り上げる資料の発掘・再評価においても、常に新鮮な切り口を持ち続けるよう心がけたいものだ。(上田信道)

◎そよ風吹けばひらひらどこへともなく飛んでいってしまいそうな冊子ながら、年四回の発行だけは守り続けて気がつけば20年たちました。
 「神は細部に宿り給う」と喝破した賢人のことばも耳にしますが、未だ神様にお会いすることもなく、今日にいたっています。今後も諸事情の許すかぎり続けたいと思っていますので、よろしくお願いいたします。(藤本芳則)