インターネット版

児童文学資料研究
No.85


  発行日 2001年8月15日
  発行者 〒546-0032 大阪市東住吉区東田辺3-13-3 大藤幹夫
 


目  次


紀要論文紹介大藤幹夫
  ・1999年補遺
  ・2001年上半期補遺
  ・2001年下半期
村上寛『新しいお話の仕方と其実例』藤本芳則
西条八十「かなりや」伝説への疑問上田信道


 
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1999年紀要論文紹介[補遺]

大藤幹夫


  1. 「結末の意味―『フランダースの犬』の再話にみる―」 佐藤宗子 「千葉大学教育学部研究紀要(人文・社会科学編)」第47巻2 131-140頁 2.28
  2. 「宮沢賢治の文語詩「「〔霜枯れのトマトの気根〕」をめぐって」 吉田文憲 「文芸論叢」(文教大女子短大)第35号 26-28頁 3.15
  3. 「神話と児童文学―スサノヲのヤマタノヲロチ退治神話について―」 原田留美 「精華女子短大紀要」25号 87-102頁 3.31
  4. 「昔話の変容と定着」 武田正 「山形女子短期大学紀要」第31集 25-44頁 3.31
  5. 「蜘蛛の糸の震え」 和田茂俊 「文芸研究」(東北大)第148集 54-63頁 9.30
  6. 「[資料]新美南吉「ごん狐」の本文について」 羽野浩二 「別府大学国語国文学」第41号 38-80頁 12.30

 
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2000年上半期紀要論文[補遺]

大藤幹夫


  1. 「子どもが言語主体となる授業をめざして―「宮沢賢治の世界を探ろう」を通して―」 斎藤正信 「国語国文 研究と教育」(熊本大)第38号 91-99頁 2.20
  2. 「グリム童話絵本の考察(2)―カトリーン・ブラントの『こびととくつや』」 藤本朝巳 「フェリス女学院大学 文学部英文学会会誌」 第33号 1-23頁 3.15
  3. 「「白いぼうし」読解の軌跡―「出来事」から新しい読みの地平へ―」 三好修一郎 「国語国文学」(福井大) 第39号
     61-77頁 3.20
  4. 「オスカー・ワイルドの短編への考究―『幸福の王子』と他二編を中心に―」 高橋富男 「明星英米文学」(明星大) 第15号
     51-70頁 3.20
  5. 「宮沢賢治―読者主体と政治について」 中村修嗣「近畿大学日本語・日本文学」 第2号 77-89頁 3.31
  6. 「あまんきみこ『名前を見てちょうだい』における歴史的現在法―教材研究の一視点―」 小倉智史 「解釈」 第46巻 8-11頁 6.1
  7. 「文学作品を読む一つの試み―民話『あとかくしの雪』―」 押上武文 「学苑」(昭和女子大) 721号 1-13頁 6.1
  8. 「宮沢賢治「銀河鉄道の夜」における異界への移行について」 木本雅康 「論叢」(長崎外国語短大)第55号 29-37頁 6.30

※82号[児童文学一般]の項 3 の「『少女世界』にみる明治中期の「お伽噺」は、「少年世界」に訂正。

 
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2000年下半期紀要論文紹介

大藤幹夫


※「『生誕』細目並びに解題」(童謡雑誌細目・解題叢書3) 全72頁 畑中圭一 9.1

「ヘカッチ」(北海道子どもの文化研究同人誌) 5 10.1
  • 「百田宗治と旭川・安足間の人々」 佐藤将寛
  • 「石森延男論(四)―「太郎」をめぐる二、三の考察―」 笠原 肇
  • 「土産物になった幻の絵本―更科源蔵絵本『アイヌの伝説』」 柴村紀代
  • 「子どもにクラシックを 苫小牧ジュニアオーケストラ―富岡萬の挑戦―」 横田由紀子
  • 「戦後北海道の児童文化に携わった人々・2―小山内龍の大野村」 谷暎子
  • 「少し長い近況報告」 鈴木喜三夫
「梅花女子大学 文学部紀要(児童文学編17)」 34 12.25
  • 「日本児童文学前史の諸問題―江戸時代中期から明治初期にかけて」 加藤康子
  • 「阪田寛夫が描く〈子ども〉」 谷 悦子
  • 「流転する子守唄―歴史の記憶装置として―」 鵜野祐介
  • 「長谷川弘文社の「ちりめん本」出版目録」 石澤小枝子
「注文の多い土佐料理店」(高知大学宮沢賢治研究会) 第3号 一二・二七
  • 「銀河鉄道の沿線に暮らす人々―ダンテ『神曲』「煉獄変」を中心に―」 矢野弥生
  • 「虔十をめぐる雑感」 武藤整司
     (エッセイ、研究活動報告などあり)
[日本児童文学]
  1. 「台湾における『宿題ひきうけ株式会社』(古田足日作)の受容―作品の翻訳・紹介を中心に―」 張桂娥「学芸国語教育研究」(東京学芸大)第18号 75-97頁一一・一
  2. 「幼年童話の冒頭―書き出しの一文における計量文体論的考察の試み―」 藤本芳則「幼児教育科研究紀要」(大谷大学短大部)第2号 42-53頁一二・二〇
[宮沢賢治]
  1. 「反転する昔話―賢治童話の異世界―」 井上寿彦 「名古屋大学国語国文学」86 17-30頁 7.10
  2. 「デクノボーの詩学」 千葉一幹「比較文学研究」(東大) 第七十六号 66-77頁 8/10
  3. 「ナモサダルマプフンダリカサスートラ―賢治注解―」 工藤哲夫 「女子大国文」(京都女子大) 第128号 64-85頁 12.20
  4. 「賢治初期作品に於ける自然観の一斑について」 岡谷昭雄 「文学と教育」(文学と教育の会) 第40集 36-43頁 12.25
  5. 「『春と修羅』の一人称研究(2)―〈無声慟哭〉詩編群以後を軸として―」 宮沢健太郎 「白百合女子大学研究紀要」 第36号 139-155頁12.×
[世界児童文学]
  1. 「夢を紡いで―A・アトリーの創作世界の源流を追って―」 中野節子 「Otsuma Review」(大妻女子大) 第33号 37-47頁 7.1
  2. 「『不思議の国のアリス』―挿絵の中の少女たち―」 花沢 藍 「Otsuma Review」(大妻女子大) 第33号 281-288頁 7.1
  3. 「『トム・ソーヤの冒険』―成長(冒険)する子どもたち―」 山口さくら 「Otsuma Review」(大妻女子大) 第33号 295-301頁 7.1
  4. 「ル・グィンのJane On Her Ownを読んで」 荒木雅子 「Otsuma Review」(大妻女子大) 第33号 317-321頁 7.1
  5. 「サン=テグジュペリの『星の王子さま』―社会と大人へのメッセージ」 鈴木 葵 「Otsuma Review」(大妻女子大) 第33号 323-326頁 7.1
  6. 「『黄金川の王様』と創作昔話」 谷本誠剛 「関東学院大学文学部 紀要」第89号 1-22頁 7.25
  7. 「童話にみるワイルドの芸術的意図」 小室尚子 「大みか英語英文学研究」(茨城キリスト教大院)第4号 19-35頁 10.30
  8. 「『ピノッキオの冒険』における人間論―いのちの誕生をめぐって―」 前之園幸一郎 「青山学院女子短期大学紀要」 第54輯 61-93頁 12.10
  9. 「『クリスマス・キャロル』―風刺的お伽話―」 南 鉄男 「奥羽大学文学部紀要」 第12号 18-31頁 12.25
  10. 「二人のトム」 水野敦子 「山陽女子短期大学研究紀要」 第26号 31-42頁 12.25
  11. 「「幸福な王子」試論」 加畑達夫 「山形県立米沢女子短期大学紀要」 第35号 1-9頁 12.28
[唱歌・童謡]
  1. 「吉田定一詩集『朝菜夕菜』少年詩への「問い」と「答え」」 本間千裕「学芸国語教育研究」(東京学芸大) 第18号 98-105頁 11.1
  2. 「わらべうたの考察―音階・旋法とリズムの分析を中心に―」 大畑耕一「藤女子大学紀要」 第38号第2部 49-60頁 12.25
[民話・昔話]
  1. 「死神のメルヘン―グリム童話と日本の落語―」 北村正裕 「駿河台学園 駿台フォーラム」 第18号 53-70頁 8.×
  2. 「浦島太郎の時間感覚」 近藤良樹 「広島大学文学部紀要」 第60巻 75-92頁  12.27
[絵本・漫画]
  1. 「ちびくろサンボよ すこやかによみがえれ」 灘本昌久「くらしと教育をつなぐWe」86号(We夏期フォーラム分科会記録) 2-15頁 10.1
  2. 「漫画にみる学校図書館と学校図書館職員のイメージ」 山口真也「沖縄国際大学日本語日本文学研究」5巻1号(通巻7号) 1-33頁 10.16
  3. 「子ども文化としての絵本読書―児童のおすすめリストから始まる広がり―」 米谷茂則「学芸国語教育研究」(東京学芸大)第18号 36-46頁 11.1
  4. 「武井武雄のお洒落な動物たち(一)」 鈴木すゞ江 「青山学院女子短期大学紀要」第54輯 73-91頁 12.10
  5. 「絵本の「読み方」(「絵本学」入門)―Titchの場合―」 谷本誠剛 「関東学院大学文学部 紀要」 第90号 1-34頁 12.25
  6. 「絵本読書論―絵を読み、楽しむための絵本読書の実践―」 米谷茂則 「文学と教育」(文学と教育の会) 第40集 62-69頁 12.25
[児童文化]
  1. 「昭和二十年代の娯楽としての子ども文化―宝文館ラジオ少年少女名作選のこと―」 根本正義「文学と教育」(文学と教育の会) 第40集 78-92頁 12.25

 
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『新しいお話の仕方と其実例』

  村上寛著
  昭和2年5月30日発行
  平凡社刊

 四六判558頁、2円50銭。うち250頁ほどを附録とし、実演例を収める。大人、子どもへの実践の中から生れた「お話」の理論と方法について述べたもの。著者は教員を経て大阪朝日新聞の記者となり、大人には、社会教育、家庭教育などの「通俗講演」家として、子どもには、口演童話家として活躍した人物。教科書教材「一太郎やあい」のモデルをめぐる事実関係が明らかになったのは、高松市の婦人会での講演が契機だったと自ら述べている。新聞社の文化活動で西日本各地に巡講したほか「コドモアサヒ」に関係した。
 目次を記す。

第一章 社会教育と通俗講演
第二章 家庭教育と童話
第三章 学校教育と童話
第四章 説話者の資格
第五章 童話の種類
第六章 童話と年齢
第七章 話の組立 上
第八章 話の組立 下
第九章 群衆と其心理
第十章 興味論
第十一章 暗示
第十二章 形式に関する考察
第十三章 司会者
附録 金太郎/せむしの子馬/指環の行く方/母親の力/お母様の為に(童話範例)
 以下主として口演童話関係にする章の要点をメモしておこう。
 第二章では、子どもたちに歓喜と愉悦と満足を与え、情操を豊かにするために、家庭に童話教育が必要と説く。そのためには母親の役割が大きく、上手下手を問わず、話そうとする姿勢がなにより重要。附録の「お母様の為に」に補足がある。昭和初期という時代だからか、父親への言及はない。
 第三章では、童話の思想は、「童話の裏面に存在し、その形式、気分、空想、情緒を通じて児童の心に入るべきもの」で、「露骨な思想の表現は童話の本質を害ふもの」であり、教育者の作る童話などはこの弊害に陥りやすいと警告する。当時多く見られた教訓臭のある童話への批判である。さらに、「児童の課外読本の閲読を禁じ、童劇をさしとめ、童謡を禁止するなど」という「当局の狭量は正に時代錯誤にあらずして何であらうか」と当局への批判に及ぶ。
 修身科や国語科で扱われる話についても不満を述べ、童話を活用することを主張する。修身科でいえば、木口小平のエピソードをとりあげ、こんな例話で忠勇報国の念を養うのは「滑稽味を帯びてゐる」のであって、「児童の生活にふれた童話によつて情操を陶冶し、批判力を培ひ、行為の基礎」をつくることが必要と主張。権力側への批判が随所にみられるのは、新聞記者という立場が影響しているのであろうか。
 第四章では、専門的な通俗講演説話者の必要性を説く。説話者となるために必要な項目として、「人格」「信仰」「愛」「熱誠」「話術」と列記され、それぞれに解説を加え、口演童話も成人向きの講演も基本的には変わることがないという。
 第五章は、童話の種類と意義について述べる。まず童話の種類を、「滑稽譚」「お伽噺」「寓話」「史的物語」「自然界の物語」「実話」の六種類に分ける。ここにいう「童話」は、「児童に愉悦と興味とを与へる「お話」を総称する」ので、「実話」も含まれている。現在だとノンフィクションにあたる。このうち「お伽噺」は、「古来伝はる物語」と「芸術的物語」に細分される。また、童話は「少年文学」とも称すと述べていて、「少年文学」の語義の変遷という意味から注意をひく。
 童話の意義は、「空想は児童の生命」であり、童話はそれを実現するものである。だから、「之を醇化し美化し、その美的鑑賞力を養ひ、人間想像力の解放とに努力するが教育者の任務」と説く。そのなかで空想的物語は虚偽を教えるものという意見の誤りを指摘している。
 第六章は、発達段階に応じた童話とはどのようなものかを、外国の文献に拠りつつ述べたもの。
 第七章、八章は、優秀な童話とは何か、それを選択する標準は何かを論述する。まず、「優秀な童話の内容上の基礎的条件」について、蘆谷重常・エレン、カイ女史・高木敏雄・水田光子・秋田雨雀・奥野庄太郎らの説を紹介するだけで、特に著者独自の見解は示されない。
 次に、童話創作法に、古来伝えられた童話の改作と新作の二つをあげそれぞれについて記述。
 新作の場合、児童の発達段階を考慮し、教育や教訓に拘泥せず、科学にかかわり過ぎて物語の興味を削がぬことなどがいわれる。逆にいえば、現実には、これらに反する童話がまま見られることを意味しよう。
 改作の場合は、内容上の改作と形式上の改作と二種類をあげ、前者はさらに「環境上」「道徳上」に二分する。「環境上」の改作は、ある作品を紹介するさい、受容する文化状況に合わせて適宜改めることである。「道徳上」のそれは、残酷な場面や反道徳的行為の部分が問題であり、「雪白姫」(「白雪姫」)の妃の最後などが例にあがっている。かなり最近まで白雪姫の再話が、最後の部分を省略してきたのは、この時期のこうした見方がずっと支配的であったからだろう。形式上の改作とは、長編を短く、短編を長くするということ。その他、お話は暗記するのではなく体得することや、枕やエピソードの使用について言及する。
 九章は、個々の聴衆の「性質とはちがつた新しく創造せられた集合的心意」である群集心理を操作するための具体的方法が述べられるが、その内容は略す。ただ聴衆の反応に対応できないものとして、「ラデイオ童話」が批判されている。当時流行しつつあったラジオ童話を歓迎する声に対立するものとして記しておく。
 十章では、どのような話が興味をもたれるかを述べ、十二章では、演者の発声、態度などの「形式」について、十三章は、会場設定の方法、講師の紹介などについての実際について述べる。
 体験をもとに述べられた部分は、それなりに説得力のある記述となっている。

(藤本芳則)



 
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西条八十「かなりや」伝説への疑問

上田信道


 西条八十の童謡「かなりや」は、一九一八年一一月号の「赤い鳥」に掲載された。九月号掲載の「忘れた薔薇」に次ぐ、第二作めの童謡である。読むためだけの童謡でなく、曲をつけて歌われるようにもなった最初の童謡だといわれ、八十の代表作のひとつに数えられている。
 なお、初出のタイトルは「かなりあ」だったが、のちに「かなりや」に変えられた。変更は最初の童謡集『鸚鵡と時計』(一九二一 赤い鳥社)に収載されたときのことだったが、本稿では混乱を避けるため、すべて「かなりや」に統一して表記する。
 さて、唄を忘れたカナリヤが、文学に志をいだきながら日々の生活に追われている自分自身のことだったというエピソードは、あまりにも有名だ。
 八十の父・西条重兵衛は、石けんの製造・輸入販売を手がけて、莫大な財産をつくったものの、長男の英治は、まるで絵にかいたような放蕩息子であった。重兵衛は英治を廃嫡したあと一九〇六年に亡くなったが、このとき後継ぎの八十はまだ一四歳の少年だった。そこに目をつけた英治は、法律に暗い母をだまして財産を横取りし、さらに放蕩を重ねたので西条家は没落の一途をたどった。
 八十の夢は好きな文学の道にすすむことだった。しかし、八十はほとんどすべての財産を失う一方、一家の生活をひとりで背負わなければならなくなった。このとき、まだ八十は早稲田の文科に通う学生だった。株の取り引きを覚えて、やっと早稲田を卒業することができたものの、苦難の日々は続く。
 一九一七年からは、神田神保町の建文館という出版社の二階に住むようになった。株で儲けた資金を以前から親しくしていた建文館に出資していたことから、月に二五円の手当てをもらい、家賃はタダという条件で、重役になったのだ。仕事は「英語の日本」という雑誌を編集することが中心だった。
 一九一八年五月からは、上野不忍池の側にあったアパート上野倶楽部の四階を仕事場にして、家族と離れて生活するようになった。たまたま翻訳の仕事が入ったからだ。そして、「かなりや」はこのアパートで執筆されたことになっている。
 「かなりや」が八十の少年時代の体験を反映したものであったことは、八十が『現代童謡講話』(一九二四 新潮社)ほかに、繰り返して書いていることである。
 八十が一二〜三歳のころ、クリスマスに東京の九段にあった番町教会へ連れて行ってもらった。教会内にはクリスマスツリーが飾られ、堂内の電燈が残らず華やかにともされている。ところが、天井のいちばんてっぺんのくぼみにあった電燈が、どういうわけかひとつだけ消えていた。翌年のクリスマスにきたときも、同じ電燈がひとつだけ消えていた。八十は、すべてが華やかで明るい中で、この電燈だけがひとりだけポツンと仲間はずれになっているように思った。みんながにぎやかに歌い交わしているなかで、ポツンと歌うことを忘れた小鳥を見るような淋しい気持ちがした。ふと「唄を忘れた金絲雀」という感じが、鳥好きであった少年時代の自分の胸に浮かんできた、という思い出だった。
 ある日の午後、仕事場にしているアパートを妻が整理している間、八十は「当時生れてまだ五ケ月ほどであつた」長女の嫩子を抱いて上野の山へ散歩にでかけた。そして、「かなりもう黄葉朽葉の散つてゐる東照宮の境内を徘徊」しているとき、この少年の日のことを思い出した。そこから「かなりや」の着想を得たのだという。
 その縁で、いま、不忍池のほとり、弁天堂のすぐそばに「かなりや」の詩碑が建っている。八十の希望によって、碑文は童謡の出だしの部分ではなく、結末の「唄を忘れた金絲雀は、/象牙の船に、銀の櫂、…」が刻まれている。唄を忘れた自分自身の思い出を記念に残しておきたいという八十の気持ちが込められているという。
 しかし、「かなりや」の着想を得たとき、八十の長女が「生れてまだ五ケ月ほど」だったというのでは、理屈にあわない。長女・嫩子は一九一八年五月三日の生まれだから、生れて五ケ月後は同年一〇月上旬のことになる。だが、このころには「赤い鳥」の一一月号はすでに発行されてしまっている。今と同じで、当時の月刊雑誌は一ケ月早く発売される習慣があったからだ。
 そこで、「五ケ月ほど」が記憶違いか「数え年」式の計算であって、九月頃に着想を得たと仮定しよう。しかし、それでは「かなりもう黄葉朽葉の散つてゐる東照宮の境内」云々という記述との整合性がなくなってしまう。
 なお、八十としては第一作めの童謡にあたる「忘れた薔薇」の掲載号が実際に出たのは八月である。だから、そのときより前に「かなりや」の着想を得た可能性は排除してよいだろう。
 また、そもそも消えた電球を見て、なぜ「唄を忘れた金絲雀」という感じが思い浮かんできたのか? そこのところに合理的な説明がなく、論理の飛躍がある。どうしても、不自然なものを感じてしまうのだ。
 ところで、「かなりや」には同じモチーフの「たそがれ」という童謡が存在する。「唄を忘れた/金絲雀は、…」で始まる冒頭も同じで、「赤い鳥」の一九一九年九月号に載ったものだ。この号の「通信」欄には、次の記事が載っている。
 本誌に掲載した西条八十先生の童謡「たそがれ」は、先生が昨年、房州海岸に御滞在中の作で、嘗ての「かなりや」と同時に御寄稿下すつたものです。このことを念のために記して置きます。(記者)
 藤田圭雄『日本童謡史』(一九八四 あかね書房)には、西条八十の手紙などが紹介されていて、この記事中の「房州海岸」が千葉県保田であることがわかる。八十は学生時代から夏になるときまって保田へ避暑に行っていたという。
 ここで注目したいのは「嘗ての「かなりや」と同時に御寄稿下すつたものです」という記述である。先述したように「かなりや」の着想を得たのが九月だったとすると、保田へ避暑に出かけたのはそれ以降ということになる。普通に考えて、それから避暑に出かけるのでは、少し遅すぎないだろうか。
 さらに遡って八月頃(「忘れた薔薇」の掲載号が実際に世に出た頃)に、「かなりや」の着想を得たと仮定しよう。まず保田で「たそがれ」が誕生し、次に帰京してから「かなりや」が誕生したと考えてみる。しかし、それでは「唄を忘れた/金絲雀は、…」のフレーズの童謡が「かなりや」に先行して成立していたことになる。もしそうなら、上野の山の散歩に行ったときに少年の日の番町教会の出来事(「唄を忘れた金絲雀」という感じが浮かんできたこと)を思い出したエピソード自体が、初めから成立しなくなってしまうではないか。
 名作童謡が誕生したときのエピソードには、人を感動させるものが多い。ゆかりの地に歌碑や記念館ができたりして、すでに伝説化しているものもある。「かなりや」誕生をめぐる伝説もそのうちのひとつで、ひじょうによくできた伝説だと思う。だが、作者の書き残したものに少し疑問をもって、周辺の事実や資料を調べてみる。すると、さまざまな疑問が生じてきて信憑性を疑わざるをえないのだ。
 童謡の誕生をめぐる伝説には、よくよく心して資料批判をしなければならないと思う。


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